ところで其の実体とは何でしょうか。
もしもこの世のすべてが自立性の無い非実体であり非実在であるならば、まさに此の世ではない実体であり実在であるところの世界へ行った方が良いような気も致しますがそこのところはどうなんでしょうか。
まあ其れもひとつの手ではある訳ですが仏法の上ではあくまでこの現象界に於いて修行して心を変えていかない限りどう死のうがまた此の世へ戻って来て仕舞うということになります。
また地球へ戻るのか、其れともコリン星かそれともM78星雲の中の恒星系のひとつの惑星に生を受けるのかそんなことはわしゃ知らんが兎に角また同じように餓鬼道、畜生道を繰り返すばかりの存在なので御座います。
ということはたとえコリン星人となったにせよ、またM78星雲人となるにせよ絶対にこの無明の世界からは逃れられないのだ。
其ればかりか幽霊になったとしても、また妖怪変化の類になったのだとしてもこのまさに自己矛盾的な無明の世界からは逃げられないのである。
また其ればかりか、たとえ神や神仙になったとしても実は其処から逃れられないのである。
つまるところは仏がすべて。
仏であることがすべてで、其れこそが実体。
と云う風に一応は仏法上そう捉えられて居る。
然しながら仏法には無分別智と してのややこしい部分がありそういうのは一筋縄ではいかない。
だから仏になる為に修行をして置いて、それなのに仏を捨てよ、仏になろうとすることなんて全て忘れよ、などといったまさに禅問答のような表現が屡出て来たりもする。
要するに一旦言葉による束縛を受けたもの、乃至はすでに概念として成立して居る絶対的なものへ対する執着のあるうちはまだ悟れないということなのだろう。
尚この部分、詩の世界にも実は通用する部分なのだ。
言葉というものは概念上の制約であり何より表現の上での制約でもまたあり得るのである。
たとえばこの海がまるで貴女のように優しくてキレイだ、とか、あの山がまるで貴方様のように逞しくてキレイなのだわ、などと言うことは出来ても、元よりそんな陳腐化した美辞麗句の羅列は言葉以前にある海や山の美しさには全然かなわない筈である。
だからして詩乃至は言葉というのは本来美辞麗句以外のなにものでもなく本質的には其処に大きく嘘ー美化、誇張化、戯画化ーを含むものということになる。
嗚呼、そう云えば二か月位前にお昼のNHKの番組にあの谷川 俊太郎氏が出演されて居て、其処で視聴者からの質問に答えてはっきりと詩とは嘘です、と言われて居たものだ。
無論のこと嘘には嘘なりの真実なり真相なりがこもっていよう筈なのだが、其の様に本質論、本体論にまで遡るとどうしても噴出する矛盾のようなものが実は何にでもある。
だから此の世で起こることはすべからく其の自己矛盾性の内側で成り立って居ることなのだ。
さて仏教というものはあくまでそう した捉え方でこの生というものを捉えて来て居る。
謂わば嘘の無い境地としての人間が到達し得る最終にして最高の境地が仏ということなのであり、これはもう並の修行ではまず成らない心の段階のことなのである。
でも普通日本で考えられている仏というのは死んだ人のことや或は偉いお坊さんのことを其れに近いものとして考えて来て居るのかも しれないのだけれど勿論そんなのは全部誤りである。
人間は死んでも仏にはなれない。死んだだけでは当然ながら何ともならん。
そりゃ浄土宗や浄土真宗などではそういう云い方がされたりもして来て居りますが其れはそういう仏教にあえてして来て仕舞ったからなんです。
其れと本当に偉いお坊さんというのは、むしろ権威、権力、地位などとは無関係の乞食僧、放浪僧 のような昔の人にそうした人が見受けられるようだ。
たとえばあの良寛さんみたいなタイプのお坊さんがまさにそうしたタイプなのだろう。
だから日本の仏教は釈迦が説いた仏教とは別物なんです。
ただし別物でも人間にとって良いとされているものは確かに良い。
其れはまさに分別智の方でもって大いに役に立って来て居ることだろう。
ゆえにあくまで仏法の上での実体とはズバリ其の仏のことである。
翻ってキリスト教やイスラム教 のような一神教では神こそが其の実体ということになろう。
では我々人間は何かということになりましょうが、人間とはあくまで仏でもなく神でもないまさに泡沫の如きもの、まさに夢うつつの世界の住人であり、従って其処には実体なく、本質の訴求力に欠け、ましてや実在でもない、仮の仮、仮ばかりでの存在のこと。
ゆえに其処に如何なる権利もな く、如何なる自由もなく、また如何なる理性もない、まさに其の辺の鳥獣、虫けらの類と同じくして無明のうちを漂うただの罪人のようなもの。
だから其れが仏となる修行を積んだり神と繋がったりしてやっとこさ其処で少なくとも平等にはなれるということだ。
そして其れが仏の前に、そして神の前に平等ということ。
だからして近代が人間に付与して来ただろう勝手での人権、勝手での自由、勝手での平等ということはまさに身勝手での思想の帰結であると考えておかざるを得ない。
其の精神無き近代が勝手に大宇宙の理法を捻じ曲げて人間に与えし嘘コキの上での諸権利だ。
其の様な精神の地平に生きて居ると、この現代文明が自らしたい放題にやって来て居るだろう悪事の正体がもうハッキリと見えて来る。
明らかにそして詳らかに其れが見え、かつ其の行いが如何に愚かしいことであるかということがもう本当に良く分かって来る。
さて、実体とは仏または神のことであると述べました。
すると、この科学技術や資本主義乃至は共産主義、または諸の主義主張とは実は実体ではない。
おそらく其れは実態であるに過ぎないんだろう。
だからこそ現代文明とは真理から離れたところでもってして実態としての狂騒を繰り広げて居るだけの世界のことなのだろう。
ただしここに至ってもまだ仏または神などは非実体でこの実際に目に見えて居る科学技術や資本主義乃至は共産主義、または諸の主義主張の方こそが実体だと考えられて居る方も居られることでしょう。
神や仏などはあくまで慣習であり習俗みたいなもので現実に生 きて行くのに大事なこととはたとえばまず病気にならないことであり、そして何より経済的な潤いであり、また家族であり親類縁者であり友達である、とまさにそうお考えにもなられるのでしょうが、実は其れこそが器の小さい考えでありエゴの範疇を抜けきれないという自己矛盾性そのもののことであるにほかならない。
ちなみに大小で云えば、考えつまり観念というものは往往にして大の方が良いのである。
対して観念以外での現実、現象に限ればむしろ小の方が良い。
ところが現代文明の奉じる思想は其の逆の方をこそやって来て仕舞って居る。
謂わば小さくー分析的にー考えて、より大きく豊かな生活を目指そうとして来て居る。
だからそりゃ逆ですよ、逆。
真理領域からすれば仏教だってキリスト教だってあのイスラム教だってまた他の新興宗教にしたって皆目一杯に大きく考えて来て居るのですよ。
其の代わりにエゴを抑えて質素に生活しようとか、たとへば財産があるのなら全部お布施の方に回しなさいとかーそうだとすればかなり問題だがー、或は教団の為に滅私奉公して悪い考えを起こさないようにしなさいだとか