目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

共感覚とは?


過去にとある掲示板で二、三回、共感覚のことを取り上げたことがあった。
 
何故取り上げたのかというと、私自身が其の共感覚者だからなのである。

私には文字または数字に色が見える。
より正確には色が無意識的に想起されて来る。

其の色は常に決まって居て、間違ったり入れ替わったりすることは無い。
ただし私の場合はいつも其のように色んな色で文字や数字が見えて居るということではなく、それぞれの文字や数字を見つめて居ると頭の中でイメージとしてそれぞれの色合いがはっきりと見えて来るのである。

共感覚者は自閉症-アスペルガー症候群-か天才のどちらかだと聞いたことがあり、それじゃやっぱり私の場合は自閉症なんだろうなとそのように思った覚えがある。
そういう人々は数少ないが確かに居て、私は其の端くれに連なる者であったというそういう話なのである。
聖心女子大の高橋教授によれば共感覚者の割合は全人口の4%であるというー

けれど私の共感覚は弱いもので所謂天才達のように強力に其の能力が発揮されて居るというものではない。
それでも多分そちら側には近い方の人間である。だからそちら側の事情というものも直感的になんとなく分かる。
私の共感覚WIKIの方にもあるように文字に色が見える共感覚(かな・アルファベット・数字など)でどうもこれはありふれた共感覚の例であるようだ。
私の場合は特に数字にはっきりと色が見える。
さらにアルファベットや仮名にも精神を集中すれば個々に色が見えて来る。
もっとも漢字には何故か色が見えてこない。或は画数が多いのでややこしくて見えてこないのだろうか。

尚ネット上では1→白 2→黄色 3→オレンジ 4→赤 5→青 A→赤 B→青 C→黄色というように見えると述べておられる人が居たが私の場合は2→赤 3→黄色 4→黒となるが他はすべて同じである。
だから共感覚にはある程度共通した見え方に関する法則性のようなものがあるのかもしれない。

 
 
共感覚者は昔から居たものと思われますが、其の事を人に言ったりすると変人と思われ仲間はずれにされたりするので周りには言わない人が多かったらしい。

ー実際、ありとあらゆるイメージがどんどん入り込んでくることになるので、共感覚を強く持つ人は非常にナイーブで、自閉症的な症状もあって最初から意思疎通も難しい人たちである。
サヴァン症候群の人たちも共感覚を持っていると書いたが、まさに意思疎通が非常に困難な「天才たち」なのである。ー上記より引用ー

ともありますが、この部分の表現は少なからず当たって居るだろうと思う。
共感覚者は元々繊細な感覚の持ち主なのだろう。
サヴァン症候群というのは、屡マスメディアの方でも取り上げられたりして居るようですが、こればかりはとても自分の同類だとは思えず要するにこちらの方こそが真の意味での天才なのであろう。

ただ、共感覚者には似た者同士であるというような心理的な傾向があろうかと思う。
一種病気にも近いような感覚の鋭さや内向性というものが或は其の共通項であるのかもしれない。
 
 

尚詩人には共感覚者が特に多いようで、象徴派の詩人ランボーボードレール、そしてあの宮澤 賢治などがまさにそうした部類の感覚の所持者だった。


ライアル・ワトソンは、共感覚は、突然の異常ではなく、かつて言葉を使うようになる以前に
は、人間が、大なり小なり、共通の感覚として持っていたのではないか、と考えているように見
える。
 そう考えれば、自閉症の独特な感覚世界や振る舞いは、大なり小なり、言葉を使うようになる
以前の、人間が共通の感覚として普通に持っていた時期があり、その名残なのではないか、と考
えられそうに思える。
 ちなみに、リチャード・E・シトーウィックは、『共感覚者の驚くべき日常』の中で、共感覚
の起源について、次のように結論づけている。
 したがって、「なぜ一部の人だけが共感覚を体験するのか?」と問うことは、「
 なぜ一部の人だけが片頭痛を体験するのか?」と問う、あるいは他の状態につい
 てそう問うようなものだ。適切な問いは「なぜ一部の人は共感覚が意識にのぼる
 のか?」であると、私は提言する。それは、この驚嘆すべき現象を一○年以上研
 究したのち、共感覚はきわめて基本的な哺乳類の属性であるという意見に到達し
 たからだ。共感覚は私たちがだれでももっている正常な脳機能なのだが、その働
 きが意識にのぼる人が一握りしかいないのだ、と私は考えている。これは一部の
 人の共感覚が強いとか、程度が大きいとかいうこととは関係がない。そうではな
 く、脳のプロセスの大部分が意識よりも下のレベルで働いていることに関係する。
 共感覚者は共感覚のとき、通常は意識にのぼらないプロセスが意識に対してむき
 だしになるので、自分に共感覚があることを知るのだが、ほかの私たちはそれを
 知らないのだ。
  共感覚は、いつでもだれにでも起こっている神経プロセスを意識がちらりとの
 ぞき見ている状態だ。辺縁系に集まるのは、とりわけ海馬に集まるのは、感覚受
 容体から入ってくる高度に処理された情報、すなわち世界についての多感覚の評
 価である。
  (『共感覚者の驚くべき日常』 リチャード・E・シトーウィック)
 こう考えれば、共感覚は、「異常感覚」ではない、という考え方でいいように思える。はるか
な太古には、かつては、みんなが、普通に、「共感覚を通して」感じていた段階があった、とい
う考え方とは、無矛盾であると考える。
 ライアル・ワトソンは、別の本で次のように言う。
  ある生理学者は、感覚の混同が起こる人のことを「知覚に関する生ける化石」で
 あるとまで言っている。つまり、われわれの祖先である初期の脊椎動物がかつてど
 のように見、聞き、触り、味わい、匂いを嗅いでいたのかという記憶をその人たち
 は見せてくれるというのだ。(『匂いの記憶』 ライアル・ワトソン
 それでは、共感覚者や自閉症者の存在は、昔の人間の名残(「生きる化石)ということになる
だけなのか。
 そうとばかりは言えない面があると、僕は思う。
 行き詰った人類の文化や文明を進めたり、固定的な考えを打ち破る人たちの天才的な発想やひ
らめきの根源は、この時期の感覚にあるのではないか。「視覚で考えていた」段階の考え
方。思いがけない発想などの、想像力の源は、ここにあるのではないだろうか。
 宮沢賢治の言葉に、僕たちが魅了されるのも、そういうことがあるからではないのか。「視覚
で考える」段階の頃に、感じていた世界の感じ方や、初源の言葉の感覚が、宮沢賢治の言葉の中
には内包されていて、僕たちの心がそれに共鳴するのではないか。」以上より抜粋して引用


上記の引用の部分での共感覚に対する解釈は当たって居るのではないかと思う。
自分で自分を分析してみるに、どうも私は部分的に先祖返りして居る人間ではなかろうかと思われるフシがあるのだ。

共感覚の上でもそうなのだけれど、動植物に対する感覚の鋭敏さや予感の強さ、それから実は肉体的にも特徴があって生まれつき足の裏が広範囲に角質化して居り裸足で山道などを歩くことが出来る。

共感覚は特殊な能力としてあるのではおそらく無く、感覚が未分化の人、或はより原始的な人、つまりはより赤ちゃんの方に近い人、大人になっても子供の頃の純粋性を失って居ない人、などに発現して居る能力なのではないだろうか。
或は脳に柔軟性が甚だしくある人などに。

「視覚で考える」段階の頃に、感じていた世界の感じ方や、初源の言葉の感覚が、宮沢賢治の言葉の中には内包されていて、僕たちの心がそれに共鳴するのではないか。」と上記の引用の部分にある通り、共感覚がかつて言葉を使うようになる以前に人間が共通の感覚として持っていた感覚ではなかったかと述べられて居る部分については非常に興味深かった。
所謂超能力だとか第六感などということが屡世間で語られて居たりもする訳ですが、共感覚は言ってみればまさに其れにも近い能力として位置づけられるものでもある。

特に現代人は文明に於ける自己家畜化の過程に置いて甚だしくこうした能力の減退を余儀なくされて来て居るだろうことは想像に難くない。
そのうちにこうした原始的な能力の去勢を現代社会は望み我々は其の傾向に抗うことなど出来なくなることだろう。

そうしていつのまにか現代には現代人としてだけふさわしいような、まるで家畜のような人間ばかりが増えて行く。
共感覚者の存在は其の傾向に対して大きな疑問符を投げかけて居る様に思われてならない。