無声慟哭
こんなにみんなにみまもられながら
おまへはまだここでくるしまなければならないか
ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ
また純粋やちひさな徳性のかずをうしなひ
わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
おまへはじぶんにさだめられたみちを
ひとりさびしく往かうとするか
信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが
あかるくつめたい
毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
おまへはひとりどこへ行かうとするのだ
(*おら おかないふうしてらべ)
何といふあきらめたやうな悲痛なわらひやうをしながら
またわたくしのどんなちひさな表情も
けつして見遁さないやうにしながら
おまへはけなげに母に
(うんにや ずゐぶん立派だぢやい
けふはほんとに立派だぢやい)
ほんたうにさうだ
髪だつていつそうくろいし
まるでこどもの苹果の頬だ
どうかきれいな頬をして
あたらしく天にうまれてくれ
*それでもからだくさえがべ?
うんにや いつかう
ほんたうにそんなことはない
かへつてここはなつののはらの
ちひさな白い花の匂でいつぱいだから
ただわたくしはそれをいま言へないのだ
(わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)
わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは
わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ
ああそんなに
かなしく眼をそらしてはいけない
一九二二、一一、二七
「六道のひとつ。妄執によって苦しむ争いの世界。果報が優れていながら悪業も負うものが死後に阿修羅に生る。」阿修羅道(修羅道)より
其の修羅と云ふものは人間では無ひ訳です。人間ならば人並みの欲望を持つものでありませうがさうしたものに基づき生きるものでは無ひ。
重要なことは果報が優れて居るのに人間以下となって仕舞って居ることだらう。
ですが、あへて其処で正義としての闘ひを受け持ち損をして居る者=世の矛盾に挑み自身は報われず死にゆくもの、としても捉へられやう。
其の争ひにも二種があり、ひとつは単なる闘争本能でありもうひとつは義憤から発するところでの社会的闘争です。
ところが、仏法は争ひー批判をも含めたーを元々放棄して居ります。
なんですが、正論からの社会攻撃は實は必須の領域です。
其れがありませんと社会または人間は容易に腐って仕舞ふからです。
ですので、其れは役割のことであり、逆に言へば菩薩には其れが出来なひからこそ阿修羅が其れをあへて引き受けて居る訳だ。
事実古代インドでは生命生気の善神であり最高神的な位置付けであった訳で其れを仏教が取り込んでからは悪の神様になって仕舞ふ訳です。
かうした逆転現象は現世に於ひて屡見られるものです。
かっては穢れたものとして認識され権利関係に於ひて限定されて居た女性が西欧近代化された途端にレデーファーストとなって仕舞ふやうに。
また個としての権利関係が著しく限定されて居た戦前での我が国が戦後民主主義の世となるにつれ其れが大幅に認められるやうになったこと。
社会は屡此の種の価値観の転換を我々に強ひて来る筈です。
賢治の場合は義憤から発するところでの社会的闘争をあへて引き受けることを意識した時点で自らを修羅の一人と意識したことだったでせう。
だから其の時すでに人並みの幸福を求めやうとする気持ちは無くなって居た訳だ。
だからもう其処では人間では無ひ道を歩むのだと賢治は心に決めて居た訳だ。
修羅は元々心理的には優れて居るので欲望が質的に浄化されて居りませう。
賢治の場合も元々生臭ひ欲ー権威権勢欲、性欲、自己保存欲ーには縁が無くむしろあったのは表現欲や藝術ー美ーに対する欲と其れから僅かな物欲ばかりです。
ところが最愛の妹をかうして失わざるを得なくなる。
早死にする人程良ひ人だとわたくしは思ひますがー逆に長生きする人ほど悪人だー、其の善と云ふか聖の部分を持ったままで賢治は修羅の道を歩まざるを得なくなる。
其の根底には怒りがありました。
ですが、賢治はむしろ穏やかな人だった筈です。
さうして真面目な善人に限り怒りを持たざるを得ず正論をもってして社会に立ち向かっていく他は無ひ。
対して悪人は本質的問題には関わりませんので適当に誤魔化し悪事を働きつつむしろ長生きしていくものなのです。
生死はかように至極不平等なものですが其処も良く考へてみればむしろ此の世に迷ひ出て居なひことの方が仏法上は良ひことなのです。
近代的価値観に毒されて現代人は何か勘違ひして居ることかと思われますが、生死に惑わされるやうな認識形式に浸り込んで居ること自体がズバリ悪ひことなのです。
ですのでさうした価値観に立てば其のものズバリ生とは迷ひであり病気であり悪の過程です。
但し其れが近代的と云ふか西欧的価値観により逆転されて仕舞って居るのが現代人の感覚と言ふこととならう。
ちなみにキリスト教に於ひても純粋には此の世は悪魔に支配されし悪の過程ですので其れも一度は滅ぼされる必要がどうしても御座ります。
さて善人賢治はさうして悪役をあへて引き受け仏法の為に己の全てを捧げた人でもありました。
善人トシ子もまた善人であるが故に25歳で死ぬる他なかったのだ。
此の愛する者の喪失は修羅としての険しき道をあへて引き受けし賢治にとり何よりも苦痛であったことでせう。
何故よりによって我が妹が?
修羅を歩む其の心の支へとなる筈の最愛の妹が。
さうした理不尽と云ふこともまた此の世の典型的な特徴で実際には理不尽の中にひとかけらだけ真心やら良心やらが混ざって居ると云ふのがむしろ此の世での実相だ。
此の世が理不尽なものであるからこそ佛やキリストがむしろ必要となる訳であり、さうでなければ宗教など元々必要無ひに決まって居る。
其の理不尽さはおそらく時を経るに従ひ益々酷くなって来ることでせう。
さてでは賢治は此の詩で何を我々に伝へて居るのでせう。
わたくしは其れが優しさだと思ひます。
修羅の歩みをあへて引き受ける程に優しひ兄のストレートな妹への気持ちが其処に示されて居るばかり。
仏法上の死の解釈だとか妹の成仏だとかそんな抽象的なことを謳ひ込んで居るのではなくタダタダほんたうに悲しいことだからそのままに哀しく理不尽な様をぶつけただけ。
第一ほんたうに悲しひ出来事を詩なんぞにして仕舞ふことが出来ませうか。
詩とはコトバにてウソこくことですのでわたくしなんぞはほんたうに悲しければ詩なんぞまるで書けはしなひ。
但し賢治の場合には法華経文學の完成と云ふ目標が確かにありました。
詩人として世に立とうとかさういふことではなしに文學の形で仏法を世に示したひとさう願ってのことでした。
尚ほんたうに悲しひ死は、愛する人の死である他は無ひ。
じぶんの死や第三者の死は其れはまるでどうでも良ひことです。
さうでなければ人間は生きてはいけず本質的にはあくまでさうだと云ふことです。
其のやうに利己的に防御して居ざるを得ぬのが人間と云ふ不完全な存在です。
ですが、結果的に賢治は詩を通してほんたうの悲しみを普遍化して居ます。
なので善人トシ子の死は我我にとっての愛する人の死に見事に重なります。
なのですが、其れは其処を狙ってさうした訳では無く只々無声にて慟哭する他無ひまでに辛くさうして絶対的な喪失感であった故に其れを書く他は無かった。
賢治はさうしたストレートな人でもまたあったらう筈。
どうしやうもなひ悲しみ、どうしやうもなひ理不尽、どうしやうもなひ矛盾、に事実此の世は満たされております。
ですが其の悲しみなり理不尽なり矛盾なりに向き合ふ人間の心のあり方は千差万別です。
其のバラバラなのを一つに纏め上げる力が言葉の力でもまたある。
かうして普遍化されし最愛の者への悲しみこそが何よりの死者への手向けとなることでせう。
「わたくしのふたつのこころをみつめてゐる」
此の二つの心とはまた意味深な内容です。
此れは表現者として人間としての心の二面を見詰めて居ると云ふことなのでせう。
人間の心には誰しも元々二面性があります。
人間とはさういふものだと云ふことです。
人間の心には元々善もあれば悪もあります。
其の複合体であるものこそが人間の心なのです。
大抵は誰しもがじぶんは善人であるとさう信じ込んで居ます。
ですがわたくしはむしろじぶんが悪人に見へて仕方がなひ。
かうして反省力のある人の方がほんたうは善人なのですぞ。
でもわたくしはじぶんの其の善人面がとてもイヤなのです。
むしろ酒色に溺れたりギャンブルに走るやうな悪ひ奴になれなひことこそがとても情けなひ訳だ。
顔などもあくまで善人面ですので皆様にナメられ安心され人に怖がって貰へなひと云ふ部分にて随分損をして来ても居る。
おそらくは宮澤 賢治などもさうだったのやもしれぬ。
「わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは」
残った写真での賢治の眼は確かに何処か悲し気です。
まるではしゃいで居なひので相当に理性的かつ反省力の強ひ人だったのだらうと思ふ。
また其れが修羅としての眼差しでもある訳だろうが。
修羅とは義憤の部分を一身に引き受けたまるで菩薩道の実践のやうなものでさへもある。
菩薩が手を染めぬことだらう損な役回りを其処にあへて引き受けて居るのだ。
神の反対には悪魔が居て善の反対には悪がありませう。
人間は其の両面の複合体であり、意識して其のバランスを自ら設定せぬ限りどちらかと云うと悪に傾き易ひものです。
特に社会的に是とされる悪には従ひ易く全部が間違ってるぞ、そんなものは。
などと言へる人はほんの一握りの人でしかあり得ません。
其の人間の心の両面をあへて普遍化しつつ見詰めていったのが賢治のなした重要な仕事だったのかもしれなひ。
但し其の心の両極としてのバランスはあくまで賢治と云ふ実存の特殊性を見詰めることからなされたものだったのです。
死は特に愛する人の死は観念的に捉へられるものなどではなひ。
むしろ其れは情動の方でしか捉へることの出来ぬ死です。
其れは社会的な死でも無く個別の死でも無ひ。
謂わばひとつきりの価値の喪失でありまさに自分にとっての死其のものなのだ。
ところがじぶんの死は自分にとっての死なのではなく自分を愛して呉れた人にとっての死なのです。
其のやうな悲しみのさ中でもって詩を書く勇気などわたくしにはとても湧きません。