目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「倫風」誌のこと

 
 
現在宗教関係の機関紙で私が良いと思って愛読して居るのは「倫風」誌であり、それからたまにポストの中へ投函されて居る諸のものをたまに読んだりしては居るのですが其れ等は本当に良いと思って読んで居るのではない。

「倫風」誌は二年程前にたまたま一冊がポストの中に投函されて居り、しかも其れをたまたま私が読んでみたところ素晴らしい内容の本だったので自分から発行元の方へ連絡して毎月号を取り寄せて居るものである。

此の本を出して居るのは実践倫理宏正会という団体で彼等自身は宗教団体では無いと言って居るのですが実質的には宗教団体的な活動をして居ない訳ではなくさりとて他の仏教系新興宗教団体のようにしつこく勢力拡大を目論んで居る訳ではないようである。

と言うのも私はあくまで此の団体については詳しく知らないからそう推測して居るだけのことなのである。

実は二年前まで此の団体の存在を知らなかったのである。


それで調べてみるとネット上では此の団体が色々と批判されて居る部分もあった。

ただしネット上では他の新興宗教系の団体はほとんど槍玉に挙げられて居ることからしても、其の事により此の団体がダメなものだと決め付けることは出来ない。

それに私自身の考えでは、宗教団体の正邪云々という判断以前の問題の方がより深刻で簡単には治せない現代の病の部分なのである。

即ち近代病で現代人は謂わば精神離れ、観念離れをし、また道徳知らずで倫理感無しの状態に陥って居るから其れは最も危うい精神の上での危機を囲って居るということである。


私は其の節操のない現代人の心のあり方、腐り方の様ー正確には其のような心のあり方に人間の心を貶めて居る現代という時代の思想に対する疑義を呈し同時に其れを批判し続けて居るのである。

でも庶民を批判して居る訳では元よりない。

何故なら私自身が其の庶民なのだから。


だから私自身の心もすでに大きく腐って来て居る。

ただそういうのを私は自分で認めて仕舞うんだな。

普通はそういうのはなかなか認められないことかとは思いますがそうしないと其の反省の部分から始められないのですから。


其の腐った部分を何とか修復したいと長年思って居たところ、たまたま良い機関紙に巡りあったのでずっと其れを読んで居るのである。

ただし、宗教なんて団体に入って組織的にやるものじゃない。


二十年前私は其れをして居たのだったが、結局今はそうした活動からは遠ざかって居る。

今は宗教というものを以前よりもずっと大きく捉えて来て居て、其れは宗教団体レヴェルのものではなくまた宗派レヴェルでのものでもなくたとえば一神教多神教、またメジャーな宗教とマイナーな宗教、或は現行の宗教と過去に成立して居た宗教というように組織的、距離的、時間的により大きなスケールで其れ等を置いてみて来て居るのである。

或は人類の存亡を賭けた闘いは最終的には国家間の戦争や民族的な対立によるものではなく宗教レヴェルでの戦い、それぞれの宗教の教義の上での心理的な面が大きくクローズアップされた形でのものとなるような気さえして居る。

それで、其の時には無論のこと良い心を持った宗教の方が悪しき心を持った宗教の方に負けるのである。

つまり、此の世界では結局悪の方が生き延びる訳。


なぜかってそんな事は誰でも少しだけ考えてみれば即座に分かる。

昔から善人は早く死に、対して悪人は後後まで栄えることと相場が決まって居る。

其れに神に愛される者は早逝する、という言葉すらある。


つまり此の世を長生き出来る奴にはロクな奴が居ない。

神に愛される善人、天才の類はまず早々に天へ召されることと相場が決まって居る。


だから此の世というものは近代教の説くが如くに人間にとって楽しいところでも無いのだし愛すべきところでも無いのだしましてや喜んでー自ら進んでーまた生まれて来るようなところなのでもない。

正しくは此の世にはもう二度と生まれて来たくはない、でも何故か此処に生まれて来て仕舞った、嗚呼、一体どうしたら良いんだ?嗚呼、本当に嫌だけれどどうしようもない、だから何とか死んで仕舞うまでは我慢しよう。此の忌むべき場所に居るのはもう本当に疲れるが、其れも我が心の拙さ、低級さ、腐り方により与えられし場であろうことなので自身にはどうしようもなかったことである。だから修行しよう。何でも良いから此処に居る間に修行しておこう。世間のことばかりに合わせて居る必要なんて無いので、そんな風に心の面では是非修行させて頂きたい。

無論のことその方が良い。其れが本当の佛の教えである。

佛は子孫繁栄とか商売繁盛とかそんなことを沙門に対して許して居た訳ではないのだ。ーもっとも在家信者の繁殖や在家信者の商売を禁じて居た訳ではないがー

佛が真理として此の世に指し示したのはまず脱俗であり次に法の実践による解脱への道程のみである。


つまるところ、近代の価値観と仏法の指し示す価値観とはほとんど正反対のものなのである。

ただし其れも釈迦の説いた法に限ればの話である。

現代の日本の仏教宗派は中国経由で我が国に齎されたものなので純粋な意味での仏教とは異なる大乗の教えであるに過ぎない。

さて、話が仏教の方に振れて仕舞ったので戻します。
 
 
実践倫理宏正会というのは察するにどうも右系の団体であるようです。

しかも宗教的な活動を教義に基づいて行うというよりは倫理道徳的な実践活動を通じてより正しい人間形成を行うという団体であるらしい。

其のらしいというのは、確かに私は此処の会員さんから機関紙を買って居るが彼等の活動とはノータッチで其れを買って居り入会などは全くして居ないのであります。


ネット上で屡宗教のことを取り上げて書く事が多いので参考にさせて欲しいという私の希望が通ったのでそうして居るまでのことです。

宗教的な組織、団体へ入ることは無論のこと個々人の自由なのでしょうが、私の場合はより大きく宗教というものを取り上げておきたいので現在はあえて特定の宗教団体とは関わりを持たないのです。


私がなぜここまで宗教のことに深入りするか、または宗教の意義に大きなものを感じて居るかというと、其れを一言で言えば近代科学への心性的な面に於ける失望と不信の念を抱かざるを得ないようなことが余りにも此の世界には多過ぎるからです。

一説には科学は世界絶滅の為に進んでいく、世界を絶滅させるのが科学の役割である、というような過激な科学への評価さえあるのです。ーこれは哲学者ニーチェの言葉ですがー

其の強力な現代の推進力である科学技術に歯止めなどもはや誰もかけられないのです。

其れで良かれと思われ行なって仕舞う科学技術の上での成果が恐ろしい自然破壊や生物種の絶滅を加速させて居たりもします。

其の力にはもはや誰も抵抗できない。

何故なら国家自身が其の科学技術でもってしこたま儲けて経済の方を回していたりもする訳だ。

要するに、其れでもって食って居る、其れで金を儲けて国民を潤して居るのだとすればそんなものは逆に一番大事なものでむしろ一番大事にしていくべきものだ。

だからそもそうした構造なんで、科学技術を表立って批判できるのは宗教団体くらいしか無いということになって仕舞うのです。


それで、宗教団体はまず心の方から正論を吐くことが多いので金よりは環境保全、科学技術による欲望の解放よりはむしろ戒律を課して克己を促すなどというように色々と現代の進むべき方向とは逆のことを述べブレーキをかけられるのが宗教の役割なのです。


そうした訳で私は宗教団体、ないしは実践的な道徳団体、倫理的な規範を有する団体などに対して理想論的なある種の期待を持って居るのです。

即ち地球上の生命の破滅を齎し其の存続、持続性に限りなく負荷をかけ続けていくことだろう近現代の進歩概念と、そして科学技術による地球の破壊と生命の抹殺を決して赦さず其れを厳しく諌めていくことであろう力を其処に期待して止まないのであります。