目覚めよ!

文明批判と心の探求と

部分と全体

 
 
さて近代科学の成立は確かに近代以降の人類の可能性を拡げ我々庶民に夢を与え続けて呉れました。
と書けばまるで科学はすべて良いもののようですが実は自然科学とは怖いもので外界ー自然界ーを破壊する作用を必然的に持って居るものなので結果的に至極危ないものです。
其の危ないものの力に頼って我々は明日を夢見て居りますが現実には夢どころかむしろ危うい明日の様ばかりを予知させられるものとなって来て仕舞って居ます。

自然科学が何故怖いものなのだろうと私は以前に良く考えたものでしたが、要するに其処では全体性ー全体のバランスをも含めた全体としての法則性ーを考えず部分的に分析し其処で得られた法則性を全体の方へ適用して仕舞うという還元主義なるものの存在が一番怖いものなのではないかと思われます。
だからポストモダンーもはや之も古い思想なのかもしれませんが私はこれしか知りませんのでしょうがないのです。ーの思想の立場からはかって此の要素還元主義が屡批判されて居たものでした。

 

上記によると矢張りというべきか、此の要素還元主義は現在激しい批判に晒されて居りつまるところは昔よりももっと旗色が悪くなって居るもののようだ。
私などはもう八十年代位の頃から還元主義は良くないから止めた方が良いのじゃありませんか?と述べ続けて参りました。
もっとも私は学者でもなく研究者でもなく只の一サラリーマンで、其れで職場での世間話の折などに其の事をちょろっと述べる位のことで全然まともな批判などではありませんでしたが。

そんな私は九十年代に入ると全体論者というものになりました。
其れは還元主義とは対置される考え方としての全体論を思考の中心に据えて何でも其れでもって考えていくこととしてみた。

ところが当時は其の全体論という言葉すら実は知りませんでした。
でも何も分かって居ないのに何故か分かって仕舞うという直観能力のようなものが私には備わって居り、其のビビビと来た方向性へ進んでみたら結果的に其処には全体論という考え方があったという訳なのです。

尚、全体論というのは一言で言えば全体は部分の総和ではなく其処には其の総和以上の何らかの新たな法則性ないしは価値が付与されるという考え方のことです。
 
従って其れは部分論に終始するであろう還元主義とは対置された立場となります。
自然科学に於ける通常の手法、即ち分析して法則性を導き出し其の法則性を全体にも適用し普遍化して考えるという立場とは丁度正反対のプロセスのように私には感じられます。


 

 此処からしても全体は部分の集積とは異なり、全体には全体性という新たな性質が付与されるのです。
そして此の考え方こそが古い科学の問題点を克服するために、まさに今後の科学に求められている論点でもあるとされて居る。

 
さて近代科学には還元主義をとることからの部分論に終始するという癖のようなものがあります。
だからこそかっての自然科学の視野はむしろ狭いものであるに過ぎなかった。
つまり自然科学には心の面に欠けるという人文、社会科学系の立場から考えられるところからの欠点以外にも視野が狭いというもうひとつの思想の上での構造的な欠点があった。
ー自然科学は原子やら宇宙やら、それこそ極小の世界から極大の世界まで網羅して居る視野が広い世界のようで居て実は非常に狭い視野の持ち主だったのだー
 

其の視野を広げようという試みがまさに今新しい自然科学としての現場で行われて来て居るのです。
ゆえに私はこれらの試みに大きな期待を持って居ます。まさか夢までは持てませんが其処で大いに自然科学が変わって呉れたらという希望のようなものは常に持ち続けて居ます。
それでも楽観視して居ることなどは無論のこと出来ないのです。
科学技術によって齎される現実の上での諸々の弊害、破壊とそのことによる不安は常に大きなものがあります。

今後自然科学のあり方が大きく変わっていくのだとしたら環境に大きな負荷をかけ続けていくこれまでのような科学技術のあり方も改められていくのかもしれません。
然しもし其の事を成し遂げたのだとしても、近代三百年の営みが齎したところでの負の遺産は厳として存在して居るのです。
即ち其れこそが今まさに此の地球を温暖化させて居ることだろう、人類の活動による悪しきものの蓄積と排出の方での問題です。

 
ちなみに私は幼い頃から全体論者であったような気が強くして居ます。
元々私は直観派なので突然にパッと何かの全体像を掴んでしまうことが多く其れを掴んで仕舞えば後は部分のことなど幾らでも分かって来るものです。ー要するにヒラメキ派の方なのですー

然し最初から部分に拘って仕舞って居ると全体像を掴むことすら出来ずしかもあの木を見て森を見ずの喩え通りに木の集積である森は決して単に木の集積であるばかりではないことに気付けない筈です。
何故なら森には生態系というものがあり其れが様々に機能することで全体のバランスが保たれて居るのですね。

其の生態系はむしろ森にとっての本質的な仕組みであり法則である筈ですが、もし部分論としての還元主義の立場で森を語るのだとすれば、木という部分の存在の分析に終始することとなりかつ森は其の詳細に調べ上げた木の集積に過ぎないということにもなり其処には生態系という全体的に付与されて居る筈の本質的性質が見えて来ないということになります。

物事の本質的性質をどう認識するかということはまさに哲学上の認識論の問題でもあるのですが、これまでの自然科学が骨子として居た還元主義による分析手法では其の事の本質を捉えるという点に於いては甚だ不備であったと考えざるを得ないのです。

たとえば今まさに文明は近い将来に於ける滅亡の危機をはらみつつ歩んで来て居るのですが、私に言わせれば其れは全体を考えなかったことの代償として齎されて居ることなのです。
全体をパッと掴んで居ないので部分的にも色んな要素の関係性が分かって来て居ないのでしょう。

かって大乗仏教の仏教哲学の方に大は小に連なり小は大に連なるという壮大な思想がありましたがそういうのはたとえ理論化出来なくともパッと掴めて仕舞うものなのです。場合によっては其れが可能であるということなのです。

古の哲人や宗教家はおそらくは皆其の直観力の持ち主であった筈です。
で、直観というのは例外なく全体論に重なるものです。全体論こそが直観で、直観こそが全体論です。

もっとも直観は藝術の方の専売特許でもある訳ですが、むしろそうした分類、垣根を越えていくところにこそ何か本物の認識の芽生えのようなものが生じるようにも思われます。
またこのことは屡云われて居るような学問領域の上でのリンクということにも繋がるのだと思われます。

最終的には人文科学と自然科学の統合のようなことがもし可能であるならもう少し地球や人間にとってやさしい文明社会を築いていけるのかもしれません。
いや、より良い社会を築くのなら社会科学の方も是非統合して置いて頂きたいものです。社会を立て直すには当然のことながら社会科の方も是非要るということでしょう。

いずれにせよ、21世紀型の自然科学、また其の新しい自然科学からフィードバックされて来ることだろう科学技術の行方を規定し今後の自然科学に於ける理論的骨子となるであろう考え方とは全体論であることがより望ましい訳です。

然しそんなことは普通直観主義者なら元々皆分かって居る筈なのですが。
それこそパッと全部を掴んで仕舞って居るからこそ分かって仕舞うんだな、これが。