第一最近何故か歩きにくくて困る。
たとへば本日買い物のついでに我はダイソーの百円ショップに寄りしが、其の折にオバサンが連れと話し込んで居て通路を通ることが出来ない。
そんな折に我はきつく注意することが多いゆえ、或は其のうちに逆切れされてナイフで刺されることなどがあるのやもしれぬ。
どだいわたくしは今此処を作家が通るぞ、すぐさま道をあけよ、などといふ実に不遜かつ厚顔な態度でもってしていつも街中を歩いて居るので、其処で元々結構色々とある方なのでもある。
然し幾ら自称の作家でも真面目に世の中の動きを観察して居ることに変わりはない。
其れから歩道や駅の構内などを歩いて居る人が皆スマフォを持ち其れに目を投じながら歩き続けて居る人が多い。
しかしながら、君等は一体全体どうして仕舞ったというのであろう。
人間が歩く時にはちゃんと前を見て歩く、人の往来だの歩道の具合だのに気を払いつつまた吐かれたガムや犬の糞などを踏まないやうにしかと前を見据え一心不乱に道を歩むべきであろう。
また車または自転車を運転しながらケータイで楽しく話し込んで居る人なども居る。
このやうに人が人として生きる上での道義心の部分が根こそぎ壊れかかって居るのが現代社会の一側面なのだと言えよう。
其の様な現代人の至らぬ様にいちいち関わっていたらこちらの方にも其の馬鹿が移りそうなので最近は無視して居ることも実は多い。
ちなみにわたくしはコンビニなどでもつい意見を垂れて来ることなどが多い。
本日も少し注意させて頂きしが、いずれにせよ白痴的人間がこれだけ増えて来ると人類の総白痴化などというわたくしの推測も次第に現実味を増して来るのではある。
本当は怖い科学の本 文庫
http://www.amazon.co.jp/dp/4801300324/ref=pe_492632_159100282_TE_item
尚本日はNHK出版が出して居る真面目な宗教に関する本を二冊購いしが、上記の本は探しても無かったので先ほどアマゾンの方で注文して置いたところである。
ちなみに是はコンビニに置いてあるような本なので或はバカバカしい本かとも思うが、わたくしに限れば此の種の本でもキライではない故実際買えて良かったなあというところである。ー残念ながらアマゾンは頗る便利である。-
無論のこと其処で「本当は怖い科学」という本の題にこそ非常に惹かれる訳である。
科学というものはおそらくは本当に本当に怖いものそのものなのやもしれぬ。
尚、本日も矢張り自転車に跨りつついつものやうに哲学をして居たのでありしが、我の場合はあくまで色んな物にぶつからぬ様細心の注意を払いつつそのやうにして居るのであるから実は其れを誰も非難することが出来ない。
其処で考えたのが、現代の破壊とは小さい面と大きい面のどちらにもすでに表れて来て居るが小さい面での破壊よりも大きい面での破壊の方がより深刻な問題を生み出しつつあるということであった。
もっとも其れは当たり前と云えば当たり前の話なのではあるが。
たとえば大衆レヴェルでの人間の白痴化による危険度は其処に作家という抑止者さえ居ればまだ何とかなるが、例の合理主義の暴走、また合理主義の原始的退行による本能の暴走、其れも国家レヴェルでのまたグローバルな展開に於ける暴走ともなれば、これはもう人間の理性ー智慧を含んだ理性のことーではとても抑えの効かぬことだろう究極の自己矛盾過程となるだろうことは想像に難くない。
其れで近代に於ける価値観、近代主義に於ける目的のようなものを再確認しかつ其れを否定しておく必要がどうしても生じよう。
たとへば「より速く,より高く,より強く」が近代オリンピックの標語だとされて居るものである。
つまりより速く,より高く,より強くある人間が一等の人間であり、だからこそ人間はこの目的に沿って努力していく義務が近代に於いて生じるのである。
でも実は人間ばかりではなく国家の単位でも此の考え方が適用されて来て居るのである。
即ちより速く,より高く,より強くある国家が一等の国家である。
無論のこと其れでかって日本は近代化を急いで為し遂げた訳である。
其の結果より強く、より豊かになっていったのである。
其れは確かに事実のこととして成り立つ。
より強く。
より豊かに。
此処で強いということは、より現実的にパワーに優れ敵や周囲を威圧し屈服させる能力があるということだ。
豊かだということは、より現実的に物に恵まれより強力なパワーを成立させることの出来る余力があるということでもある。
だから究極的には近代とは此の強者への指向及び意志を顕わにしたところでの何ものかである。
何故強者になりたいのかと言うに、強者こそは神の如くに全き理性を備えしものなのだからしてあくまで其れを目指すということらしい。
然し自らが強者になることで、必然的に其処には戦いー競争ーが生じる。
「より速く,より高く,より強く」という考えは、或はより強く、より豊かにという考えは、必然として世界をして戦の坩堝の中へと招き入れて仕舞う。
従って近代に於ける資本主義経済、或は共産主義体制、民主化といった制度には皆其のパワーバランスによる考え方が実は含まれてもいよう。
そうあの共産主義にしてからもが、所詮は唯物主義であり其の好戦的な本質を宿して居るのである。
尚わたくしは真の意味での平和主義者なので反唯物主義者なのである。
だからいつも語って居るが如くに精神論者なのである。
ただしある種の合理的精神論者でもある。
人間には合理的ー全き理性としてのーな意味での精神論が是非必要なのであろうから。
わたくしは其の力への指向、ということこそが近代の思想の抱える最大の自己矛盾領域だろうと考える。
力への指向、即ち偉そうにしてやがること、金や権威、権力や武力でもってして神の領域に挑まんとすること。
其の尊大さと抑制が効かぬ様。
全くもう、例のトランプ氏のことかよ。
そして実に好戦的である。
しかもSEXが好きである。
色を好む、女という女が兎に角大好きな近代。
逆にパワーの無い奴ーそんなものはバカにして見向きもしない詩人をも含めーは女にはモテないんだ。
つまるところ理性ではない。
近代を突き動かすものとは全然理性などではない。
其れはタダの下卑た欲望のことだ。
其処で神の如くにより高くなる、より豊かになる、だって?
だが其れは如何にも人間らしくより低くなる、より貧しくなる、の言い間違えなのでは?
何より其の様に精神の方で地に落ちるといふことである。
あのクラウンに乗って、グローバルに活躍するカッコイイ男になる。
でもあの強欲企業TOYOTAが造りしクラウンに乗って、グローバルに活躍するカッコイイ男なんて絶対にこの世には居ません。
本当にカッコイイ男とは、一切の力を志向しない、あの老耼のやうな人物のことを云う。
近代的な合理主義とは、自己の確立つまり主体化を前提としながらも自己及び周囲の世界を鏡の反射像として眺めざるを得ない状況を現出させる。
だからわたくしが少し前に直観した世界を象徴する鏡とはこの自己矛盾過程を意味するものであった訳だ。
即ち其処で虚の自己及び虚の世界とだけ向き合わざるを得なくなる。
鏡の中の住人即ち全い自己、全き理性と繋がることが出来ないのである。
よって近代の推奨する力への意志も主体つまりは近代的自我も共に其の虚の塊のものであるに過ぎぬのだ。
我々は其の鏡にうつる虚の自分と虚の現在と未来を絶対視させられて居るだけなのだ。
其の鏡にうつる虚の世界を絶対視させられて居るだけなのだ。
そうして虚の価値観としての「より速く,より高く,より強く」、そしてより豊かに、という虚の呪文に踊らされて居るばかりなのだ。
まさにこうして近代合理主義は自己矛盾化していく。
科学的理性こそは何より其の自己矛盾過程である。
此の様に科学は、そして近代主義は、哲学的に喝破することが可能だ。
或は文學上の経験論からの、或は藝術の方からの直観的批判を為すことが可能なのである。
だから人文科学は今こそ立ち上がらねばならない。
今立たないで、或は声を上げないで何とするのだ。
今こそ自然科学の、そして近代の合理主義の用意した恐ろしい自己矛盾性と刺し違えねばならぬ。
だから何で其れが出来ないのだ。
多くの人文系の大学の先生方、或は私以外の詩人の方々、作家の方々よ。
あ、わたくしも結局出来ては居ないのかなあ。
でもまあじきに「本当は怖い科学の本」なども読めるのですからまだしも幸せな方で、しかも何だか其れが物凄く楽しみでもある。
自然科学をいたぶること即ちトコトンイジメること、其のやうに自然科学をどこまでも執拗に追い回すこと、やがては其れを追い詰めいつか引導を渡してやる。
あくまで精神的な意味で。
でも本当の本当は、少しは自然科学の方にも感謝して居ります。
なんとなればわたくしは体が強くないーどうも免疫力が強くなさそうーので毎日色んな薬の御厄介になって居たりも致します。
どうかわたくしをして長生きさせて下さいませ。
さすれば科学を神と認めてもよろしゅう御座います。
否、其れだけは出来ませぬが、科学をレデーとして優しく扱う位のことは何とか可能でしょう。
其の為にもコンビニなどのお外ではもう少し大人しくして此処でだけ暴言を重ねるように致していく所存です。
必ずや必ずやそう致しますのでどうか宜しく御願い申し上げます。