目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

此の際「資本バカ」共を糾弾すー+竹下 景子さんと『若い太陽の塔』の御話ー

此の際「資本バカ」共を糾弾すー+竹下 景子さんと『若い太陽の塔』の御話ー

 

 

 

「新しい戦前」ネットをざわつかせたタモリの言葉 年末放送「徹子の部屋」 不穏な空気漂う今を見事に切り取った造語、さまざまな思惑が交錯 (msn.com)

 

問題は其の「戦前」がそも何でまた繰り返されるのかと云うことだ。

其れは「人類の社會=文明社會」が「理性的にはまるで進歩などして居ない」事實をこそ指し示す言葉である。

 

では壱體何が理性的に進歩して居ないのか?

其れは實利主義ー利己的な利益追求に走る功利主義ーと人文主義ー哲學的、また宗教的且つ藝術的によーく考えた上で全体論的な判断を下す理性の領域ーとの相剋し且つ相即せんが為のバランスこそが崩れて居るのである。

 

数的還元主義ー合理主義的価値観ー⇔實存的全体論主義ー非合理的価値観ー

此の合理領域と非合理領域は無論のこと弐元分離されて居り相互に他を全否定することは出来ない。

 

故に其の弐元分離をバランス化させることこそが理性に於ける究極の目的となる。

なので企業又は國家が儲け主義に走ったりまた兎に角デカくならうとすることは須らく眞の意味での理性的段階からすれば✖の行いとならざるを得ぬ。

 

また其のことは例えば宗教的な意味でも成立し得る原理となる。

即ち宗教的な勢力の不必要な勢力拡大や信仰の強制また親が勝手に子を新興宗教団體へ入れることなどは皆✖の行いとなる。

 

 

よって理性は最終的に其の合理と非合理領域のバランス化を図るつまりは其の對立に於いて程良くブレンドされて行かねばならない。

であるのだけれど左様に程良くブレンドせんが為に逆にまずは其の理性の性質の両極を見極めて行く必要が生ずる。

 

要するに其の両極をこそ同時に見極めて行く必要のことだ。

両極を見極めんが為には幅広くしかも詳細に世の事象を分別した上で其処に自らの理性的選択を可能とするやうな強固な理性的能力が必然として其処に要求されて来る。

 

だからまず其れは凡人には出来ない、嗚呼まさに無理なことなのだ。

だが両面ー理性と本能ーを行き來出来るやうな天才的資質の持ち主であれば或は其れが可能となる可能性などもまた出て来る。

 

なので此の世ー現代社會ーに於けるほぼ全てに亘る事柄がまさに其の「矛盾」としての産物なのだ。

其の「矛盾」なる様をあえて宗教的に表現すれば、おおまさに其れぞ「罪」であり「煩悩」である。

 

 

だからそも理性が「進歩」し切れて居ないので「戦前」に戻るのもまた当たり前の話なのだ。

此の世はそんなバカ社會に過ぎぬと云うことをまずわたくしは皆様に御伝えして置きたい。

 

だから其のバカを馬鹿、阿呆となじるのは当たり前の話なのでありむしろ其れをやらない奴の方が頭がオカシイんだ。

嗚呼まさにさう云うのを「洗脳」と云うのだらうな。

 

 

尤も現存在の組織の中でさうして「洗脳、洗脳」と言い喜んで居るとすぐに袋叩きにされ挙句には村八分となり最終的には山にでも追い詰められ餓死するより他は無い。

だから僕はまだ壱言もそんなことは言ってません。

 

なのであくまで僕が言って居るのは「文學上の物語」としての御話でありつまりは「ポエム」のことなのですよ。

つまりはそんな架空の世界でもって人類と云う御莫迦達が繰り広げる御伽噺の世界をゲージツ家としてのボクが此処にて独り言として語って居るだけのことなのだから。

 

さて其の「理性としてのバランス化」はしかしながら問題が大き過ぎすでに個としては太刀打ちすることが出来ません。

むしろインテリ層ですら其れはもはや出来ないのですから其れを問題として捉えること自體を放棄して行くべきだとわたくしは述べて居ります。

 

尤も其の放棄とは諦めることでは無くむしろ「自己本位」に生きることでの第壱歩となることだ。

但しあくまで其れは「インテリ層」に於ける理性的選択となるのであらう。

 

其れに對し所謂「大衆層」の方方は其処でそも何も考えては居ない。

要するに「食い気」と「色気」と「快適な住環境にて暮らすこと」ダケなのだ。

 

其れでもって兎に角👩に飛び付きたい。

 

そんなものには飛び付くなとかうして何度も宗教詩人が諭したにせよ其処は嗚呼「馬の耳に念佛」であり兎に角其れにだけ飛び付きたい。

いやあー、其れでは如何にも単純な人生だねえ。

 

ワシの人生なんぞはこんな屈折ダラケだったのでさう云うのが實は壱度してみたかったのだ。

いやだが高級な👩に飛び付いてみたいと云う思いがまた無いでは無い。

 

例えば古稀となりしかの「竹下 景子」のやうな利口な👩が兎に角好みなのだ。ーやかの宮崎 美子などが好みであるがー

でもって経験からすでに分かって居るが偏差値が高くある奴が女嫌いになるとは限らない。

 

偏差値の高くある奴がむしろ👩にだらしない場合はむしろ多くあるものだ。

尚僕の偏差値は多分五拾位であらうが感度及び思考力の点ではむしろ並外れて優れて居るので総合点の方が80点位になって仕舞う。

 

でもってそんな僕は👩には狂わず最終的には至極潔癖である。

 

 

月刊ホンマもん裏トーク (38news.jp)

 

此処は今無料公開されて居るので視られるのではないかと思われる。

其の京大の藤井先生が仰って居るのは日本の経済體制が如何に財界やまた財務省主導で行われて來て居るかと云う其のカラクリの部分の概説である。

 

尚わたくし自身はかうして體制史だの哲學だの藝術だの宗教の分野に對し強い人間であり経済の面には疎いと云う弱点があった。

されど現状としての日本社會の凋落の主因とはまさに其の経済的な問題なのだ。

 

故に昨年辺りから其の経済の仕組みのことを御勉強したりもまたするやうになった。

其の御勉強から導き出されて来たところでの日本社會に於ける経済構造の問題点とは、

 

1.「資本の論理」による日本の経済體制の破壊であり

2.「資本の論理」による利己的な功利主義=合理的利己主義の蔓延であり

3.デカい組織ー國、省庁、大企業ーがホクホクとなりちっこい組織ー壱般家庭、過疎の地域、中小企業ーがボロボロとなる

 

其の根本での日本経済の上でのカラクリである。

 

 

また實は其ればかりか其の

 

4.「資本の論理」による資本主義其れ自體の破壊

 

などもまた世界的に進みつつあるのだ。

要するに我我日本人の多くが今向き合って居る経済上での不遇とはまさに其の

 

小<大

との不平等な関係性にこそ生じて居ることだった。

 

でもって最近わたくしは其の経済上での不遇を解決しない限り此の國に未來はないとさう思うやうになった。

あーやっぱり日教組だとか其の辺りでの学校の先生達の考え方は正しかったのではなからうか。

 

何故なら此の侭日本のみんなへの搾取がより酷くなり続けると次第に少しずつ我我の生活其れ自體の質が落ちて行く。

やがて2050年辺りから地球温暖化の影響にて農産物の収量は確實に減るだらうからイザさうなれば此処日本でも餓死者などがおそらく出て来ることだらう。

ー農産物をそれこそ人工的に創り出す手はあるにせよ其れには結局膨大な電力が必要とならうー

 

小<大

其の組織上の大小の関係即ちヒエラルキーにより「偉い人」と「偉くない人」とが分別せられて居るのである。

でもって「偉い人」はより儲けることが出来るが「偉くない人」はより貧乏の淵へと追い込まれて行くのだ。

 

さてすでに四拾年程前のことながら、母方の祖父ー社會主義者であり在野の佛教研究者であった祖父ーがわたくしに對しいみじくも語った言葉があった。

其れは、

「此の世では金持ちはより金持ちとなり貧乏人はより貧乏人となるやうに社會が出来て居る」

との言葉であった。ー其の数年後に祖父は亡くなったー

 

藤井先生が仰って居ることもまさに其の通りでのことである。

問題は特にコロナ禍以降はむしろ其の流れが加速され行われて来て居ることにこそある。

 

 

逆に、

 

小=大

 

とかうなるのが其れこそ共産主義的な平等社會なのであり其の逆に保守派の側は価値秩序を重視する訳だ。

さて其の保守派の側の考え方にもまた良いところはある。

 

良いと申すか社會を安定的に維持する仕組みがむしろ整って居たりもまたする訳だ。

ところが其の保守派思考の壱番悪いところが「搾取が酷くなる」点にこそあるのだと思う。

 

要するに惡代官だの惡しき殿様などを蔓延らせ良民をさうしていたぶるものだから社會其れ自體がやがては壊れて行く。

其れがまさにかのピケティ氏が述べられて居た「資本崩壊」の原理がたった今現實の日本経済の姿と化して仕舞って居る。

 

5.日本が売られている

 

またかの堤 未果氏により米國資本が日本の経済を思う侭に操り其の通りに「日本は売られて行く」状況を其の著作にて描き出されても居る。

つまり我が國の経済状況に於いては「内外の敵」が實は居たのである。

 

また其のいずれの敵もまさしく「利己的な儲け主義者」であり要するに血も涙も無い「守銭奴」であるに過ぎぬ訳だ。

また要するに名声や富に恵まれ過ぎると人間は壱番大事な「人間としての心」をそも失い易くなるのである。

 

であるからこそ文明社會には「宗教としての信仰の場」が必ずや設けられて居る。

 

 

其れでも猶アナタ方はこんな腐り切った社會を信じるのか?

もう僕なんぞはこんな社會は捨て去って居るので気樂で気樂で…。

 

総括すれば要するに「利己心の塊と化した資本の論理」が我我個としての「生存権」をも脅かす段階へと至って行く訳だ。

また其れが「資本主義社會」としての必然的展開であると云うことなのだ。

 

ならば「革命」する方が良いので?

理想論的にはあくまでさうだが今の露西亜などを見て居ると其れもどうかなあと云う考えとならざるを得ない。

 

だが其の「資本の論理」の暴走こそが環境破壊を生み出し地球温暖化を引き起こして居ることもまた確かなことだらう。

故に其の「共産主義勢力」が仕出かして居ることでの「罪深さ」と「資本主義自由主義陣営」がやらかして来た「罪深さ」の部分を天秤にかけると實は後者の方がより罪深くもあるのだ。

 

 

では最後にちょっとだけ竹下景子 - Wikipediaさんのことを述べます。

結局其の竹下 景子さんは所謂至極頭の良い名古屋人です。

 

猶自分は其の頭の良い👩には頗る弱い。

頭の悪い👩は屡足蹴にしたりもまたするのだが頭の良い👩の方には逆に是非足蹴にして頂きたい位である。

 

本日彼女が『徹子の部屋』に出て居られて居りたまたま其れを視たが其の番組の内容が大層面白かった。

 

其れでもって彼女は「足腰」を鍛えるトレーニングを欠かさないのだと云う。

「足腰」が衰えると最終的には食欲もまた無くなりつまりは人間がダメになる。

 

流石に其処が良く分かっていらっしゃる。

 

日本モンキーパーク - Wikipedia

日本モンキーセンター - Wikipedia

 

彼女はまた🐒が好きなのださうだ。

 

日本モンキーセンター 親善大使室 (j-monkey.jp)

 

かうして此処の親善大使ともなって居るものらしい。

猶此処は愛知県人の多くが子供の頃に訪れる場となって居り勿論我なども何度も訪れたことがある。

 

但し此のやうな「動物園」的な場其れ自體に對し今個人的には懐疑的となって居る。

 

動物<人間

 

其れ即ち其のヒエラルキーの設定其れ自體に對し大きく疑問を抱く訳だ。

なんで御前等人間がそもそんなに偉いつまりは威張ってるのだ?

 

結局地球温暖化を引き起こし人類が自滅するのは其の「威張る」心性こそが其れを齎すのである。

なので逆に、

 

動物=人間

とさう考えれば其の「動物園」なる発想もまた出ては來なくならう。

 

 

いやでも人間は動物と壱諸ではイカンのでせう?

イカンのであえて「動物園」なるものも不要だと云うさう云うことですね。

 

さても其の「威張る」ことを止めるだけの理性の力を導き出すのが現存在に於ける理性的な目標なのだらう。

逆に申せば「威張る」ことが好きな奴程實はバカなのだ。

 

故に御釈迦さまやキリスト様は誰がどう見ても偉い方方なのにまるで威張られはせぬ。

また「資本家」だの「財界」だの「財務省」だの「日銀」だの「大企業」等は皆揃って威張りたがるから要するに「資本バカ」なのだ。

 

其の「資本バカ」の力により今日本の経済は腐り切って來て居るのである。

ならば矢張り「革命」ですか?

 

いや其の前に日本の経済體制其のものを無視し例えば今行ってる會社なども即刻辞めるべきだらう。

要するに此の日本の社會に對し反旗を翻すのですね?

 

まあ「矛盾」に満ち所謂「不潔」なものにはなるべく接しないことこそが大事だらう。

また現存在は「威張らず」に死ねれば「威張って」死ぬことなどよりもずっと偉い人生其のものだらう。

 

要するに其の「価値ヒエラルキー」には決して屈してはならないのだ。

 

 

若い太陽の塔(wikimedia.org)

 

 

  • 若い太陽の塔 - 岡本太郎による彫刻作品[6][7]1969年に完成し、翌年の日本万国博覧会に設置された太陽の塔のプロトモデルとされる[6]。地上7メートルのところに展望台があり、2003年まで一般公開されていたが老朽化により閉鎖[6][7]2010年に限定公開された際に好評を博したため、岡本太郎生誕100周年記念に合わせて施設の改修工事終了後の2011年10月より再び一般公開された[6][7]。高さ26メートルで、直径4メートルの顔と11本の炎で燃え立つ太陽を表している[7]。修復にかかった費用は、道の整備を含めて総額約3000万円で、その内約400万円は各地から寄せられた約320人の寄付で賄われたという[6]。同園のシンボルタワーで岡本太郎の作品の中で三番目に大きい。

日本モンキーパーク - Wikipediaより

 

其のやうなものがあらうとはついぞ知らなんだ。

何故だか知らないがかうして事象に於ける細かな部分での関連性が次次と見い出されて來ることにこそ現存在が今をまさに生きることの確たる証拠がある。

『TAROMAN』からイキナリ勃発した藝術家岡本 太郎氏との壱世壱代の闘争ー+神社巡りの続きと名古屋の御雑煮の御話ー

『TAROMAN』からイキナリ勃発した藝術家岡本 太郎氏との壱世壱代の闘争ー+神社巡りの続きと名古屋の御雑煮の御話ー

 

 

 

 

昨日述べました其の彼田原 総一朗氏の認識上の問題とはズバリ「固定観念」にこそある。

即ち「日本はかくあるべき」との固定観念が強過ぎると新たな価値若しくは異なる価値を同時理解することが出来なくなる。

 

ですが何度も申し上げて居るやうにあえて其れを「同時理解」することがまさに御勉強を成し終えた知性の到達点でありまた同時に眞の意味での藝術的認識のことである。

藝術とは其のやうに「美」と云う価値を固定化して捉えない何かである。

 

また實は動物的な意味での感度の世界ー感性の世界ーに於いても其の固定化した概念認識をしては居ないのです。

其の固定観念に捉われて居る限りは僕に言わせれば「眞の意味でのインテリジェンス」の持ち主なのでは無い。

 

さうして「眞の意味でのインテリジェンス」の持ち主はむしろ普通からすれば変な認識をして居ること=理解不能な認識其のものの持ち主なのだから。

 

さてもおそらく皆様には僕の認識がまともには見えては居ないことでせう。

でも其れは当たり前のことなのですよ、何せ僕は詩人と云う文人でありタダの壱般人では無いのだから。

 

まあ但し「自称の文人」であるところにはあくまで大きく問題が含まれて居さうなのですが。

 

 

さて本日は午前中に、

 

TAROMAN - NHK

 

を視て居りました。

ところがTVのある台所はストーヴが無く至極寒いので居間へ行くと何と母も其れを視て居たので半時間余りは共に其れを視た。

 

ですが此の番組は明らかに「カルト」番組です。

でもってまた何でこんな番組を母が視て居たかと言えば要するに我に影響され「教育TV」のファンと昨年の後半辺りよりなったが為にです。

 

また高校講座の日本史や世界史なども母は視るやうになりました。

要するに民放のおバカ番組よりもむしろ其れ等が良い訳で其れと我が家は藝術には強い家系ですのでまた母も藝術家のことなどは良く知って居りますのです。

 

其れでもって其の岡本太郎 - Wikipedia氏は藝術家として壱級の人で兎に角凄い人だがむしろ其の凄い認識を築き上げたことは母である「岡本かの子 - Wikipedia」氏の影響が最も大きかったことだらうと云う話となって行った。

 

昔の藝術家は皆さうだったが彼女の生き様もまた壱種壮絶なものでした。

但し自分に限り其の作品をまるで読んでは居ない。

 

 

ですがかって女学校壱の文學少女であった母はおそらくあれこれと読んでも居たことでせう。

さうです、我もまた其の母の血を受け継ぐ「自称の文人」なのだった。

 

ですので母のことなどは全否定出来ないが自分から見て「主婦」としてはまるでダメなのが正直家の母ちゃんなのだ。

なんだけれども其の母から産み落とされかうしてわたくしは今自称の文人をして居る訳です。

 

 

さて其の『TAROMAN』其れ自體は「ウルトラマン」仕立ての岡本 太郎的活劇との設定で如何にも不眞面目なのですが實は眞面目な部分もまたあり要するに「非眞面目」な番組です。

 

其れも例えば、

 

[TAROMAN] 岡本太郎式特撮活劇「でたらめをやってごらん」前編 | feat.森の掟 | NHK - YouTube

[TAROMAN] 岡本太郎式特撮活劇「一度死んだ人間になれ」前編 | feat.未来を見た | NHK - YouTube

[TAROMAN] 岡本太郎式特撮活劇「芸術は爆発だ」後編 | feat.太陽の塔 | NHK - YouTube

 

のやうなもので「パロディ」的な要素がまた其処に強く入るので或いはバカバカしいとさう思われる方が多いことかと思われる。

ですが其処には岡本 太郎氏の言葉がふんだんに盛り込まれ其れこそ「何だ、此れは?」とさう凡人は思わされることでせう。

 

尚自分の場合にはあくまで岡本 太郎氏に限らず文學や繪画其れに音樂などに長く接するうちにまた様様な人文學的な努力を重ねるうちに所謂「太郎さん」的なことが言えるやうに何時の間にかなりましたのです。

 

従って岡本 太郎氏の発言内容はほぼ實感的に分かります。

其れは自分が偉大な藝術家だなどと威張って居るのでは無くあくまでプチ藝術家として我もまた「成って」居りますが故に其の自己の認識と相似形としての彼の藝術的発言の内容が悉く理解されるのです。ー要するにさうして認識其れ自體が「重なり合う」のですー

 

さて其の『TAROMAN』を本日は長くやって居り其れも新春特番のやうな形にて壱時間近くやって居たが番組中に愛知県美術館での「岡本 太郎展」の情報が出て来るのでもしやと思い後で調べてみると其れは本当のことでした。

 

展覧会 岡本太郎 | 展覧会 | 愛知県美術館 (pref.aichi.jp)

 

かうして何と岡本 太郎氏の作品を直に観られることとなった。

まさに壱世壱代の大勝負の時が巡って参った。

 

岡本 太郎氏の作品を直に観て果たして我は其処に何を感じ何を想うのか?

其のことは今自分自身にもまるで分からぬことだ。

 

無論のこと壱藝術家として我は其の其の闘争の舞台に立つ積もりである。

でもって其処からどんな太郎評であり岡本 太郎論が紡ぎ出されて来るのかと云うことである。

 

嗚呼、今日『TAROMAN』を視て置いてほんたうに良かった。

かうして早速本日より戦闘態勢に入りつつもまたある。

 

 

名古屋神社ガイド 山神社(下山町)

 

本日午後からはこちらを訪れた。

此処からは分からぬが此の神社は高台の高級住宅街にありまた鬱蒼たる杜に囲まれた素晴らしい場所にある。

 

此の神社はかって勤めていた🏥の近くにあり当時は其の杜を訪れ屡散策などして居たりもまたしたものだった。

 

其の杜には所謂筆柿のやうな小さな柿の實が多く生り其れが結構落ちて居るので其れを拾い食ったことなどもあったものだった。

懐かしいのでつい🏥の横の公園や外周路の方へも寄ったが其処ではかうして景観は変わらずとも年月は流れたと云う思いが何故か強くしたものだった。

 

其れはほぼ近所の👪連れや御年寄りしか來ない神社なので其れこそ熱田神宮伊勢神宮のやうにワンサカ人が居て鬱陶しいと云うことなどは無い。

故にほぼ我に取り理想的な神社である。

 

尚其の神社に「人を精神的に救済する」ことなどを求めてはならない。

其の自然崇拝と其処から派生したところでの自然の神格化とを推し進める神の領域は本來人間とはまた別の原理にて育まれることだらう聖なる領域である。

 

だけれども我我はさうして決まって氏神に出向き「無病息災」や「家内安全」などを祈り願うものと相場は決まって居る。

なので其の氏神への祈りと救済宗教への帰依、信心とはまた別の話として認識して置くべきものである。

 

 

故に其れを否定してかかる宗教なりイデオロギーなりはむしろ危険なものであるのだとも言えやう。

特に自分の場合はかうして兎に角自然が好きなので其の自然と戯れることを目的に神社を訪れることなどもまた多い。

 

さて帰りに東八幡社の前を通り家へ帰ったが其の掲示板の方に「九日に予定されたどんど焼き」のことがあった。

其の「どんど焼き」を此れ迄に観た覚えが無いので九日には是非訪れてみたい。

 

かうして生きて居ると様様な予定が自然と入るやうになって居る。

また其のことは藝術家であれ凡俗の民であれまるで同じことなのである。

 

また自分は其れ等を掛持ちつつやる人間なのでまた余計に忙しいものと來てる。

だからまた暫くの間御休みをしたい。

 

其の間にとりあえずは掃除機を買って来てまた掃除がしたい。

さらに「萬年筆の取引の上でのトラブル」に就き考えてみたい。

 

ちなみに今夜は所謂「御雑煮」を作り食した。

 

 

名古屋めしレシピ|正月といえばコレ!驚きのシンプルさ「名古屋の雑煮」 (nagoya-meshi.com)

全国のお雑煮・名古屋編 | お雑煮研究所(お雑煮やさん) (zouni.jp)

 

さて左様に此処名古屋での所謂御雑煮は實は究極的に「シンプル」なものなのだ。

無論のこと家の雑煮もまたシンプルであり其れもハッキリ申せば上での例よりもよりシンプルなのだ。

 

1.角餅ー焼かずでのー

2.餅菜

3.創味のつゆ

 

要するに此れダケで煮る。

 

其れも家の場合には「鰹節」だの「蒲鉾」だのややこしいものは壱切使わない。

要するに此の時期はすでに「おせち料理」にて腹が満腹だ。

 

また「おせち料理」に限らず何故か年末年始は何処からか食い物が届きまさに食うもんダラケである。

そんな時によりにより何でそんなゴタゴタと煮た雑煮を他県のみんなは食うのだ?

 

よって逆に無茶苦茶に「シンプル」な雑煮の方がむしろ美味いのである。

 

だから其の名古屋人の弐面性の部分、即ち其の究極としての合理主義と逆に味噌煮込み的なゴタゴタの様が他県の人にはまるで理解されない。

だが其の弐面性こそがかの信長公の性格としての基調を成す部分であらう。

 

なのでよそ者共にはそも其れが分からんだけの話よ。

またつまりはさうして「名古屋人的な感性」は常に理解がしにくく多分日本壱気難しいことだらう。

 

要するにかの岡本 太郎氏並みに気難しいのである。

でもって其の複雑なる心性がそも分からんからさうして「名古屋飛ばし」ばかりをされる。

 

なんですが實は精神的には可成に高度な部分を持ち合わせておる。

 

また三河はまた少し違い静岡ー駿河ーの方により近いのではないかと思う。

要するにさうして弐面性があり壱種「気難しい」=藝術家肌なのが尾張藩の否名古屋人としての特徴なのだ。

 

でもってシンプルな其の雑煮を我は結構たらふく食う。

例えば本日食ったのは餅が七つだった。

 

其れに無論のこと静岡産の「正月菜」を澤山入れて煮込んである。

また其の餅と菜だけの雑煮こそがむしろほんたうに美味いのだ。ー鰹節などは入れてみてもまた良いのかもしれんがー

 

 

兎に角そんな訳で新年早早藝術上の大課題に直面することとなりもうこんなトコには來ていられなくなった。

でも無論のこと捨ててなどは居ません。

 

何せ此処は僕の魂が宿る場なのですから。

其れではまた。

ー但しまた近くJINHAOのスーパー万年筆のことに就き書く予定で居りますー

絶望した上でこそさうして自ら學びを進めて行けば良いー絶望した上で尚保ち抜くべき日本の文化的伝統ー

絶望した上でこそさうして自ら學びを進めて行けば良いー絶望した上で尚保ち抜くべき日本の文化的伝統ー

 

 

 

田原総一朗氏「だったらこの国から出て行け!」 朝生で出演者に激高→放送後に釈明して和解 (msn.com)

 

まずは此処で問題があるのはむしろ其の田原氏による「出て行け!」発言其のものです。

其の「出て行け!」発言には思想の上での「全體主義」の匂いが色濃く感ぜられる。

 

其れと「出て行け!」では問題は解決されぬばかりか第壱此の國はアンタの國ではそもありません。

かやうに年を取ったインテリ層は考え違いをしないやうに是非致しませう。

 

齢を重ねるとそも頭の中が硬直化しがちであり尤も僕なんぞはむしろ高校生、中学生の頃に戻りつつある。

最終的にはまた小学生をやりたい、いや幼稚園児の頃に是非戻りたい。

 

だから知性は最終的にまた赤ん坊に戻らねばならぬのだ。

赤ん坊の如くに純粋無垢なおおまるで動物の如き「弱き存在」とならねばならぬ。

 

 

田原、お前はしかしながら威張ってる。

だから此の際壱言だけ言って置く。

 

年寄りの癖に威張るんじゃねえ!!!

 

年寄りはな、もう體がガタガタで性欲の方も同時にガタガタだ。

そんな者はもう直に御迎えが來やう。

 

だから自分から山へ入り其処にて餓死すべきだ!!

 

いや違った。

もう大人しくストーヴやコタツの火に当たり其処にてションベンでも漏らして居れ!

 

まあ御正月早早下品な表現で!

 

馬鹿野郎!!

下品もクソもあるか!

 

だが問題は矢張りと云うべきか此の日本社會の閉塞感にこそある。

昨日其の閉塞感は「日本社會」のー歴史的構造的ーな問題でありまず解決不能であることを自分は述べた。

 

 

ーもっと若い人に発言させるべきとする指摘が上がったところで、たかまつさんは「発言させてください」と手を挙げ、「私は(『日本は立て直せる?』とする質問に対し)×にしたんですけども、理由としては日本社会でもう諦めがはびこってると思うんですね」と切り出した。

たかまつさんは「実際に日本は『社会は変えられる』と思う若者が2割くらいで、これは先進国の中でもものすごく低い数字なんですね。企業や政治を見ても、年功序列で変な慣習とかが残ってたりとか、非効率だと感じているのに惰性で続いていることが多いと思うので、私は若者に権限を委譲したりとか、若者がどんどん社会を変えていくことが必要だと思って。そのために私は、やっぱり教育が必要だと思うんですね」と説明し、ヨーロッパの主権者教育に倣うなど、日本の教育の仕組みを変えることが必要ではないかとした。

「私は主権者教育とか、子供にお金をかけるっていうことをやらない限り、これは『×』のままだと思います」と主張したたかまつさんに、田原氏は「あなたは、本心(から)×なの? 本当は日本は良くなると思ってるの、思ってないの?」と問いかけた。

たかまつさんが「思ってないです。だって」として説明を続けようとすると、田原氏は「だったらこの国から出て行け!」と激怒。困惑するたかまつさんに、田原氏は「この国に絶望的だったら、出ていきゃいい」とした。

たかまつさんは激昂する田原氏に怯むことなく「違いますよ」「(人々は)日本の教育にどのくらい本気でいるのか」として、教育の重要性を主張した。ー

 

田原総一朗氏「だったらこの国から出て行け!」 朝生で出演者に激高→放送後に釈明して和解 (msn.com)より

 

だが此処でのたかまつ氏の発言内容は至極ごもっともでありほぼ完全に正しい。

では何故田原氏は此の発言内容に對し激高したのか?

 

其れは「諦めてはイケない」との考えが彼田原総一朗 - Wikipedia氏の頭の中にはあるからなのだらう。

彼は御年88の半分死人でありまさに家の母と同年代の人なのだ。

 

かっては左翼だったが転向し今はむしろ軍國主義などに對しても理解を示して居るものらしい。

我もまた「軍國主義」を全否定するものでは無いのだが但しあくまで理想論的にはナショナリズムは要らん論理である。

 

ナショナリズムどころか共産主義もまた要らぬのである。

要するに統治の単位其れ自體を縮小化しつまりは全世界を幕藩體制とすれば人類がより長続きすることだけはまず間違い無い。

 

だから其の統治の単位のスケールのことこそが大事なのであり主義主張即ちイデオロギーなどはむしろ何でも良いのである。

であるから共産主義體制としてのちっこい北朝鮮や中國や露西亜、また自由主義體制としてのちっこい米英や欧羅巴の國國、さらにちっこい日本や韓國などが共存していけば良いだけの話なのだ。

 

さても皆様お分かりだらうか?

まずは問題は其の「國がデカくなる」ことにこそある。

 

 

其のことは社會科の御勉強を重ねると必ずや見えて來る。

要するにデカいから価値観の上での對立がヤバくなるのである。

逆にちっこいとまた同時に對立もちっこくならざるを得ぬ。

 

だから「ちっこいことが良いこと」なのだ。地方分権 - Wikipedia

 

まさに其の地方分権で良いのだけれど封建制→近代的中央集権國家となるにつれ國其れ自體の力(威張りの力)がより増し其れでもって文明は弐度の世界大戦を経験しなければならなくなった。

 

まずは此の点から鑑みてもむしろ「第参次世界大戦」は起きるとさう考えて置く方が良いのやもしれぬ。

では何でそんなことになるのかと言えば此の地球上での體制がそも理想的な考えでのものにはならぬからなのだ。

 

要するに何処の國であれ皆「より儲け」て「より威張りたい」だけなのであるから。

だがそんなもんはほぼ動物界での社會闘争に等しい。

 

要するに🐒山のボス🐵とまるで同じである。

此のサル、🐵野郎!

 

ウッキッキー。

…全く困った奴等だ。

 

 

さてもお前等は人間として恥ずかしいとは思わんのか?

其の「ウッキッキー」の🐒共が「第参次世界大戦」をやり始める可能性が今60パーセント程にもなって来ておる。

 

だからそんな状況ではもはや「絶望して置く」他は無い。

なので其のたかまつさんの絶望のあり方はあくまで正しい。

 

逆に申すと軍國主義世代の80代の方方はむしろまるで目が覚めては居ない。

故にか「日本は何時迄経っても変わらない」のでさうしてまずは「絶望して置く」他は無い。

 

問題は其処からどう「個としての認識の舵を切る」かである。

たかまつさんは其れを「教育」の問題だとさう認識された訳でまさに其のことはほぼ完全に正しい。

 

但し「教育」には弐種があり其れは「人から學ぶ教育」と「自分から學ぶ教育」の違いのことである。

尤も今日本の教育には問題があり其れは「人から學ぶ教育」の形式化及び硬直化の部分である。

 

故に「人から學ぶ教育」→「自分から學ぶ教育」へとスムーズに移行することがむしろ出来ない。

要するに其の組織的に行われる公教育の部分にヘタリが生じて居りまた宗教的な部分だの哲學的な部分だのさうしたややこしい領域のことが公教育からすっ飛ばされて来たから学生共はゲームだのSNSだのアホ臭いものへと決まって走り今や其の頭の中身は🐵の子並みである。

 

 

だが何時迄もそんな🐒の子でおって良い訳がねえ。

 

🐒→人

人間とは少なくともそんな🐵なのでは無い。

 

そも人間とは何だ?

人間とは動物以外の頭を持った人人のことだらう。

 

だったらやったれ!

何を?

 

嗚呼まさに其の「自分から學ぶ教育」へと突き進まずしてどうする?

サア、今日から哲學書を連続で拾冊は読破して行かねばならん。

 

そんなことやったら恋愛もまたゲームをする時間も何処にもありません!!

 

馬鹿者!!!

哲學と宗教こそが此の生に於ける理解の基本ぞ!!

もうスパルタ式にて詰め込んでやるわ、どうだ、参ったか!

 

其のやうな努力なくして人間は人間に決してなれはしません。

人間とは「考える葦」であり其処を考えずに學ぶことなど元來出来ないのです。

 

 

尚そも若者には社會は変えられない。

其れは戦前に於いてもまた戦後に於いてもまた封建時代に於いてもむしろずっとさうでした。

 

但し志即ち気概のやうなものだけを彼等は持つことが出来た。

其れ即ちまさに其れが「社會に對する馬鹿野郎!」との思いのことだ。

 

其れもそんなクソみたいな社會がかうしてクソまみれになりつつ平気で動いて行くのです。

だから其れに對し「怒り」の思いをブチまけるのはむしろ当たり前のことだ。

 

ですが其の「怒り」さえもが此の社會の齎す「全體主義」により圧殺されるに及んだ。

故にもはや「怒る」=社會を罵倒する力に欠けて居ると云うのが正直なところです。

 

 

だが其の「絶望の淵」に立たされた今よりまさに立ち上がる他は無い。

逆に申せば此の「絶望の淵」からこそ日本人は立ち上がるより他は無い。

 

尚其の「絶望の淵」は何も今に始まったことでは無く戦前もまた戦後もさらに封建時代でも其の全てがむしろ「絶望の淵」のさ中にあったのだと言える。

若干違うのは現在「文明の滅亡」の段階が其の社會的な問題に對し重層的に重なり合って来て居る部分でせう。

 

そんな訳ですでに「個としての理性の範囲」を超える迄に社會的な問題がデカくなって仕舞って居る。

故にわたくしは其のデカくなり制御不能となった問題にはあえて個として見切りをつけ可能である範囲で自分のやりたいことをやれば良いとさう申して居る訳です。

 

其の観点からもたかまつ氏の発言内容は至極ごもっともでありほぼ完全に正しい。

また其れに付け加えて言えば「公教育による知識の上での選択力の涵養」の部分と「自ら御勉強することによる思考力からの選択力の涵養」の部分をむしろ両方やって行かねばならぬと云うことでせう。

 

従って女體及びゲームには壱切触れずに日日拾時間程は自ら御勉強して行かねばならない。

さうするともう便所へ行く時間もまた飯を食う時間も無い位だ。

 

アンタ其れスパルタ塾のやり方なのではないか?

さうですよ、まさに此処が其のスパルタ式の學習塾なのだ。

 

先生!

分かった、やっと分かったぞ。

 

選挙で自民党に投票してはならない訳が今かうしてやっと分かりました!!

 

 

偉い、偉いぞ!!!

君はなんて偉い人間なのだ。

 

もう君を🐒扱いしたりは決して出来ない。

逆に僕に教えて下さい、其の「自民党に投票してはならない訳」を。

 

さうか、では教えてあげやう。

何故なら其れが「全體主義投票」であり「全體主義選挙」だからなのだ。

 

うわあー、アタマが良いな君は!其れも僕なんぞよりもずっと頭が良い。

もう君の場合は「末は博士か大臣か」であることがほぼ確實だぞ。

 

其のたかまつ氏がいみじくも指摘した「教育」の部分が担う今後の日本社會への役割は極めて大きいと言わざるを得ない。

またもしも僕がまた小中学生に對し何かを伝える立場になるのだとすれば以下の如くに其れを述べて置きたい。

 

「絶望はしないよりもした方がずっと正直だ。だが絶望して数ある滝から飛び降りる位なら自分のやりたいことだけをまずは見つけてみるべきだ。其の文明社會が引き起こす問題は大きくなり過ぎすでにどんな人間にせよ制御不能である。其れこそ其の部分は神佛以外には対処することが出来ない。だから人間は威張れずまた人間の優劣も付けられない。其のことを常に思い描きつつ自らが決めた道を信じて歩みなさい。其の道とは社會が与える道では無く自らが切り開く道のことです。」

 

此処日本は完璧な國でも無くもはや壱等國なのでも無い。

だが其のこと自體に優劣が生じて居る訳では無い。

 

眞に情けないのは日本人が日本社會に洗脳され切って仕舞うことなのではないか。

 

其の洗脳の例

自民党なら大丈夫=洗脳

國會議員は全て偉い=洗脳

天皇及び皇室は神である=洗脳

👪は大事だ=洗脳

 

 

尚所謂「共同體主義者」である我の場合には地域や地元と云う共同體としての単位を重視するが其の狭い範囲の中では往往にして👪主義が持て囃されて居たりもまたする訳で其処に思想的な矛盾の如きものを屡感じて居たりもまたする。

 

尤も「共同體主義」とはむしろ左翼的なアナキズムと関連するもので要するに日本的な共同體原理のやうなものとは本質的に異なるものなのだ。

其れでも氏神様へ初詣に行けば其処にはそれなりの良さがある。

 

本日其処ー西八幡社ーへ出向くと何時もは閉ざされている社の扉が開かれ社の中で拝礼することが可能となって居た。

さらに拝殿の横に「中根銅鐸」のレプリカーかって此処より発掘された銅鐸のレプリカーが飾ってあった。

 

また町内會の人等が「ふるまい酒」を配っても居た。

其の壱つを貰いほんの少しだけ飲み後は母に渡した。

 

家へ帰ってからついでに東八幡社の方も見たくなり自転車に乗り出向くとこちらの方が立派な神社である。

拝殿の際には「どんど」が焚かれおまけに社務所にておみくじを神主さんらしき方が販売されて居た。

 

其の「日本的なもの」の良さは確かにある。

要は今後日本が文明國としては没落するにせよ其れ等の文化的伝統を守り抜く気概だけは忘れずに居て欲しいと云うことだけなのだ。

年頭の感ー日本の未來と味噌煮込みとしての「限定」とー

年頭の感ー日本の未來と味噌煮込みとしての「限定」とー

 

 

 

井上指揮N響『第九』を聴く - HUKKATS hyoro Roc

 

昨夜は結局其の井上 道義氏の指揮による『第九』をTVにて視ましたが個人的な感想としてはむしろとても良かったです。

何が良いのかと言えば「むしろ厳しくは無い(日本的な)『第九』」である部分が個性的かとさう思いました。ー井上氏のジェスチャーでのパフォーマンスの部分などもまた存分に樂しめましたー

 

さうして何か「美しい旋律としての流れ」のやうなものを其処に感じ但しおそらく其れは「欧羅巴に於ける歴史上の流れ」とは別物でのまさに日本人としての藝術表現でこそあったことでせう。

其の「日本的なる感性の流れ」はおそらく今でもかの國の精神の底流であり続けて来て居るものです。

 

但し其の「日本的なる感性の流れ」と對になる形での「日本的なる社會制度としての流れ」には今明らかに綻びが生じて来て居ます。

 

眞説 日本近代精神史

 

其の点に就きわたくしが考えて来て居ますことは此の種でのー概括的な意味でのー日本の近代精神としての没落化であり虚構化のことです。

要するに其のやうに作家的な見方でありまた哲學的な見方として其れを捉えて居り其れを「日本的なる社會制度としての流れ」に於ける大矛盾として捉えて居ざるを得ません。

 

ところが此処日本では相変わらず「日常を日常として」優先的に生きる暮らしが繰り広げられつつもまたある。

だから元日から相変わらずTV番組では「何も起きては居ない」かのやうに正月番組やらまた相変わらず鬱陶しいCMなどが繰り返し流されて居る。

 

其れもまあ中には良い番組もありますので其れを全否定することなどは勿論出来ない。

ですが逆に其れ等に浸り切って仕舞えば其れはほぼ「洗脳」されるとのことでせう。

 

 

尤も其の日本社會が抱き抱える「虚化、虚構化」の流れはおそらくは止むことが無い。

またつまりは其の零落であり没落の流れと何処までも付き合って行く他は無いことだらう。

 

従って其れは部分的な社會制度への批判、また個人に對する批判によりどうかうなると云うものでもまた無い。

つまりは其れが所謂全體主義的な流れとしてのものなのです。

 

其処でもって全體主義とは何かと言えばまあ其れも其れを簡単に言えば「軍國主義」や「ナチス體制」なのだとさう思えば良いことだらう。

でも其れは「やってはイカン」価値としてすでに我我現代人は認識して居る筈です。

 

だったら何でまだみんなは自民党に票を入れて居るのですか?

其れ即ち自民党其れ自體が惡なのでは無くそんな自民党を政権与党として選んで居る日本の民主制其れ自體が「全體主義」に陥って居り惡なのだ。

 

つまりはそんなポピュリズムが用意せし罠の部分がまさしく「悪循環」を生じせしめて居るのです。

其のポピュリズムとは「其の場としての空気につい乗せられ流されて仕舞う」との大衆的な資質が生じせしめるところでの政治的堕落を指す現象のことです。

 

だからまずは、

 

1.みんながやってることが正しいとは必ずしも限らぬこと、むしろ其れは「正しくは無い」可能性の方が高くあること

2.幸か不幸か「カルト趣味」のある所謂マニアックな方は其の「全體主義」による社會的な「洗脳」を解く可能性を逆に高く「持って居る」こと

 

の部分にこそ是非気付いて下さい。

 

其の全體主義がむしろ其の侭に進んで行けば、

 

3.先進國としての日本の非自立化

4.日本人の精神のあり方に於ける虚構化

 

の様は逆にドンドン進んでも行くことでせう。

 

 

故に其処でもって考えられる日本人ー日本人としてのインテリ層ーとしての正常な立場とは、

 

5.先進國としての日本の非自立性其れ自體を無視すること

6.悲惨なる其の日本の未來には背を向けてむしろ過去の価値に埋没すること

 

などの選択でしかあり得なくもならう。

 

前者は現行の日本社會の価値其のものを否定的に見詰めることであり、

後者はむしろ歴史と云う過去から學ぶことで所謂「理想論」にしがみつくと云うことです。

 

いずれにせよイザ「日本社會を直さう」としても所詮其れは無理な話ですのでむしろ自分の方での社會への向き方を変えて己としての精神の自立性、精神的な意味での自律の部分を回復して行くことにこそ理性的なエネルギーを注いで行くとのことです。

 

其れこそ今日本人の精神の基底部にはまさにかってでのやうに、

 

「日本のみんなでもって発展しより良くならう」とする思いが強く宿って居ることでせう。

ですが「日本の社會としての特殊性」=「全體主義」に自ら進んで陥っていく國民性こそが逆に其のポピュリズムの度を強くしまたつまりは其れが諸の社會的な意味での破壊を生じせしめる悪循環を生んで行くのです。

 

 

また、

 

プーチン氏は皆さんを滅ぼしている……ゼレンスキー氏がロシア国民に (msn.com)

 

こちらでの問題も所詮は「全體主義」に還元し得る価値上のポピュリズムとしての現象です。

其のゼレンスキー政権による価値及びプーチン政権による価値は無論のことながらどちらも其の「全體主義」の履行者としてのものです。

 

またミサイルを兎に角撃ちたい北朝鮮の独裁體制やさらに儲け主義に毒された米國流の金融資本主義の側なども結局は其の「全體主義」の履行者のことです。

では其処にてどうすれば良いのか?

 

まるでどうにもなりません、かうして我我は個としての日日を積み重ね生きること以外に道など無い。

但し其処にて「考え方」だけは変えることが出来るのです。

 

其の「考え方」が変わればまた日本社會に對する批判力も同時に備わります。

例えば世の中には此の日本社會を普通にでは無くまさにボロクソに批判する人などもまた居られまさにさう云うところの読者に我はなって居ます。

 

故に其の批判は常に大事ですが自分に限りもっと建設的なことを述べたく要するに其れは御料理だの万年筆だの石だのまた藝術家の作品に就いてなどのことです。

つまりは僕に取って日本の社會的崩落のことはむしろ必然としての歴史的事實なのであり須らく其れを受け容れた上でやれる範囲にて人生の可能性を切り開く方向性のことこそが大事なのです。

 

またさうした精神の方向性こそがまさに「藝術的」であり「宗教的」な我が生き方其のもののことだ。

ですがどうも皆様が期待されて居るのは「批判」の方なんじゃないかともまた個人的には思わぬことも無い。

 

即ち藝術家に取ってのやりたいことが「どーでも良い」やうなことで逆に僕に取っての壱大事こそが「どーでも良い」ことなのだらう。

 

そんな訳で要するに限られた人生の時間の中で「何をして行くか」と云う問題へと何時の間にか論点が集約されて参ります。

つまりはそんな個に取っての精神のあり方の課題へと全ての問題が移り変わって行く訳だ。

 

 

其処に於いてようやく其の社會の抱える課題即ち外側の課題が内面化され認識されて來る。

イザさう認識されれば其れに就き批判を加え己が「理想」を語ることなども常に可能となる。

 

なのだけれどもまた何時迄経っても社會のあり方が変わることなどは無い。

要するに其の社會は図体がデカく変わりにくくしかも常に「威張って居る」のですから。

 

其の「威張って居る」ので社會は常に「全體主義」を我我個に對し強いて來るのである。

 

左様な訳で我が批判とはポピュリズムに對するものでもまた特定の國家に對するものでもさらに日本社會の「事勿れ主義」に對するものでも無くズバリ其れは「社會」其のものであり「文明」其のものに對する懐疑であり反駁である訳だ。

 

其の「威張って居る」デカい社會が如何に下らぬ価値観の持ち主であるかと云うことをこそかうして新年早早また飽かずに述べ立てて居りますのです。

 

 

社會⇔個

 

まさにそんな本質的に規定されし對立関係のことに就き本日は述べて居ります。

故に最終的には其の「相剋しかつ相即する」関係性をどう個として乗り越えて行くかと云う御話とならざるを得ない。

 

でもって結局は其のどちらをも見渡して所謂臨機応変、融通無碍にどちらをも保存する他は無いことだらう。

だが社會のあり方がむしろ悪くなりつつある此処日本では其の社會的崩落に對しより強固なる自我でもってして其のバランスを回復するより他は無い。

 

まさに其れが「有」の現實としての必然的展開となる。

逆に「無」の流れー正法としての佛法の流れーからは其のどちらをも消し去って行く他は無い。

 

人生に於ける選択とはまさにさうしたことであり果たして「個としての自己の居場所」を何処に築き得るのか、と云うことに換言されやう。

「個としての自己の居場所」を此の今の日本社會に築き過ぎればむしろ自分を失う=全體主義の餌食とならざるを得ない。

 

さうかと言って俺は海外の方が好きだなどと言って海外にでも居を定めればまたどんな羽目に陥るか知れたことでは無い。

第壱俺は翡翠が好きだからミャンマーへ行くぞとミャンマーへ移住したら軍事政権が出来翡翠を集める自由すらもが奪い去られた。

 

俺はもう米國で壱旗上げるぞと米國へ移住したらもう金が無いと医者にすらかかれぬ有様だった。

俺はもう欧羅巴でもって古城巡りをするのだと欧羅巴へ移住したらもう金は無いわ寒いわ其れも外人ばかりだわで古城巡りどころがズタボロにされ木賃宿にて暮らし挙句にコロナ死をする羽目となった。

 

俺はもう日本人だから日本が大好きだ!とさう宣言し其れも正月は朝から酒飲んで「日本の芸能」とかを視て居るが何だか知らないが毎年同じやうなTV番組ばかりで何だか飽きちゃったしまた其れ以前に日本の社會に「苦悩」があるやうにはついぞ見受けられぬ。

 

 

辻井伸行 ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 作品58 ショパン作曲 - YouTube

 

ちなみに昨夜は『第九』をTVで視てからユーチューブの方で其の辻井氏の演奏によるショパンなどを聴き込んで居た。ピアノソナタ第3番 (ショパン) - Wikipedia

此の曲は結局ショパンが精神的に苦しい時期に作曲したものださうですが何故かさう云うのに限り曲の出来が良い。

 

要するに其処からしても藝術家はむしろ常に「苦しんでナンボ」でのものである。

 

サファイア:Sapphire - 猫車通信 (nekoguruma.site)

 

さて其の後此の「🐈車」の方を読んで居た。

また此処に書かれた名古屋評は的確だとさう思う。

 

されど名古屋の「限定」主義はむしろ信長公的なものでは無くあくまで「家康公」的なものなのではないか

所詮ナゴヤ人はさうして「井の中の蛙」ではあれ結局「大海」もまた「空の靑さ」をも知るのである。

 

事實わたくし自身がさうしてココに居ながらかうして何でも知って居るやうな人間なのだから…。

其の「限定」主義は其れ即ち「理性的限定」のことなのだ。

 

何でも求めれば求める程に即ち欲すれば欲する程に世界は拡がるが其れにつれてリスクが増大する。

現代文明其れ自體がむしろそんな意味でのリスクの塊である。

 

だがナゴヤ人はそも利口だからそんなもんには決して首を突っ込まぬ。

従って其処にて「唯我独尊」での価値を築きまた高層ビルの類なども東京や大阪などよりずっと少ない。

 

つまりは慎重でありまるで徳川家みたいな性格をして御座る。

東京は徳川による統治が無くなったと同時にむしろ悪くなったのだらう。

 

さても其のナゴヤ人はもうおせちを食いましたか?

本日つい先ほど食いました。

 

ですが何故かイマイチであり来年は京都のおせちはもう要らんぞなどとさう母と相談して居たところなのです。

 

むしろ其れよりも今朝作りました「赤味噌ごった煮」の方が美味かった。

しかも其の赤味噌はインスタントでしたが非常に美味くなった。

 

 

其の具材は、

 

7.大きい方の従妹ー高山出身ーが煮て来た芋煮ーごった煮ー

8.宅配🍱の中のもやしやら人参やら豌豆やら

 

を全て混ぜ込み其れを永谷園生みそタイプみそ汁 ひるげ|商品情報|味ひとすじ 永谷園 (nagatanien.co.jp)にて煮込んだものである。

兎に角さうしたものを其の味噌汁にて煮込む。

 

すると此の冬場での最高の飯となるのである。

さて明日はとりあえず神社詣でなどをしてみたい。

 

尚昨日コノミヤの帰りに東八幡社の横を通ると何故か「蛍の光」の曲が流れて居り非常に郷愁をそそられたものだった。

現存在の生活とは所詮はそんなもので良く要するに其の場限り、其の時時での瞬時の積み重なりで良い。

 

別に永遠でなど無くとも良い。

そんな永遠は神の國以外には何処にも無く所詮此の世の全てがかうして「限定」の産物だ。

 

また東八幡社の本殿前に飾られた門松が兎に角滅茶苦茶に綺麗であった。

かうした部分がいまだ残って居るのはまさに此処名古屋が「限定」的な都市だったからなのだ。

ほぼ奇跡的に本日視られたベートーヴェンに関するNHKの番組ー玉木宏 音楽サスペンス紀行「引き裂かれたベートーヴェン その真実」を視ての其の感想ー

ほぼ奇跡的に本日視られたベートーヴェンに関するNHKの番組ー玉木宏 音楽サスペンス紀行「引き裂かれたベートーヴェン その真実」を視ての其の感想ー

 

 

 

 

かうして年の暮れだとて相変わらず怒濤の如くに押し寄せる現實の日日と格闘する他は無い我我現存在である。

詩人としての我もまた凡人としての我も須らくして其の押し寄せる波に翻弄されまた且つ其れに抗いつつこんな我としての迷いの境涯のさ中にこそ焚べ入れられて行くのだ。

 

さてさうした生きて居ればまさに色んなことがあり其れはほぼ本質的には「苦」其のものである。

だけれども「苦」があればまた「樂」もある。

 

言わば「死」があるから「生」があり「生死」が無ければ何も無い。

よって現存在の生の過程とは同時に死の過程でありまた同時に「無」では無く「有」の過程である。

 

其れも其の「有」の過程として顛倒認識をして居ると云う意味に於いての。

 

 

さて昨夜はまた午前弐時前に突然目が覚め暫くネットの方をして居た。

其のやうな折には重要な何かを発見する可能性が高くある。

 

【生誕250年】玉木 宏と、ベートーヴェンの音楽史の謎に迫る! 玉木宏 音楽サスペンス紀行「引き裂かれたベートーヴェン その真実」 |NHK_PR|NHKオンライン

 

すると此の番組のことが突然出て来た。

こちらは「BSプレミアム」にてかって放送されたところでの名古屋市出身の俳優玉木 宏が進行役を務める所謂「高尚な」音樂番組である。

 

此の種の番組も幾つかの番組がNHKオンデマンドの方に入っては来るが此れに限ってはまるで入っては居ない。

 

其れでもって本日8時20分から総合TVにて此の番組の再放送が行われた。

今枕元の目覚まし時計が壊れ5時50分と壱日中なって居るが其れでも何故か8時15分にキッチリ目覚めクソ寒い台所にて其の番組に釘付けとなり視聴をした。

 

ー自分はかうした藝術上のまた自然環境上の重要な事項に就きまず間違うことが無い。逆に人間界ではまさに理解不能な人間関係上でのトラブルを引き起こすことなどが度度ある。ー

 

其れでは早速以下に其の番組の感想を述べさせて頂く。

 

 

1.まずは番組の評価として流石と云うべきかA´となる

2.此の番組により彼ベートーヴェンがどんな人として生きたのかが良く分かる

3.自分がつい先日此処にて書いたベートーヴェン論にも被る内容のことが出て来て居たー其れも所謂「シンクロニシティ」のやうなもののことかー

 

2.と3.に就いて

 

ベートーヴェンは所謂「孤高」の存在としての気難しい藝術家としての代表格ながら他面では意外にも強い「人間味」の持ち主だった。

結局其れは其のやうに「引き裂かれて」居たことであらうことは想像に難く無い。

 

4.ベートーヴェンはなかなかの酒飲みで所謂「飲んで騒ぐ」のが結構好きだったらしい

5.しかもベートーヴェンはなかなかの👩好きで兎に角女にはむしろすぐに惹かれて仕舞う男性だった

6.ベートーヴェンにはユーモアのセンスがあり要するにギャグなどが好きだった

 

其の4.5.6.の部分は例えば音樂の先生方には???と思える部分なのやもしれぬがでも個人的にはまさに良く分かる。

尤も自分はベートーヴェン程偉大な藝術家では元より無いのですがだが自分の中にも藝術的なセンスが宿るので其れと突き合わせてみるとまさに「なる程ね」とさうならざるを得ない。

 

 

でもって究極的な御話が、

 

かの「第九」は所謂「人類愛」を謳い上げるところでのつまりは高度な精神的な要素に就き表現された藝術であるばかりなのでは無い。

要するに其れは「大酒を飲んでみんなでもって樂しく騒ぐ」が為の交響曲であった。ー第九の譜面には「酒の神」に捧ぐとベートーヴェンの自筆にてさう書いてあったさうだー

 

????

ほれ、また音樂の教師共が騒ぎ始めたぞ。

 

だが其れがむしろ眞實だったのだ。

要するに此の曲は「酒の神」に捧げられし「酩酊」での至樂の様をむしろ其の侭に謳い上げたものだったのだ!!!!

 

 

但しベートーヴェンは政治思想的には所謂リベラル左派であり勿論かの仏蘭西革命などには大きく影響されまた其の革命を支持して居たものと考えられる。

要するに仏蘭西革命⇒後のマルクス主義の成立の方の側の思想の保持者であり要するに貴族や王族の為の音樂=宮廷音樂の類から音樂を藝術として分離させると云う大仕事を成したことこそが彼の偉業であった。

 

従って彼ベートーヴェンの藝術により音樂は國王や貴族の権威、権力に組みひしがれ得ぬ壱つの力を持ち得るやうになったのである。

またつまりは其のことこそが彼ベートーヴェンが行いし藝術上の革命であった。

 

だから彼ベートーヴェンはそんな藝術の上での革命家其のものだったのだ。

 

ところがそんな革命家とて酒を飲みたくもなればまた👩にも触りたくなるものだ。

藝術とは所詮表現の上での力の強さのことなので其の表現の上での力の強さと食欲やら性欲やらが分離されて居る訳でもまた無い訳だ。

 

だから其れをイカンと言って酒色を断つのはズバリ宗教家の方の側です。

逆に藝術家は物凄くエッチでしかも物凄く食い意地が張ってなど居るものだ。

 

 

また、其の6.のギャグのことですが、例えば此処の読者の方方には僕が其のギャグのセンスを持ち合わせて居ることがお分かりにならう筈です。

 

高尚⇔下劣

超眞面目⇔不眞面目

潔癖⇔ダラダラ

 

との其の両極端の部分を持ち合わせ常に其処を交互に行き來出來る概念的な柔軟性こそが「天才的」な理性の持ち主であり知性の持ち主のことだ。

つまるところ天才的な能力とは其の幅がより広く設定されしかも深度があると云うことです。

 

逆に申せば凡人の場合は其の幅が狭くしかも表面的な活動でしか無い訳だ。

尚往往にして天才は人がつまらないと思うものをむしろ面白く思い逆に人が崇めたがるものを貶して居たりもまたするものです。

 

まあ正直なところ僕自身にもまたそんな傾向が御座ります。

御座りますが、自分は眞の意味での天才型の人間では無く要するに凡人タイプの部分も半分はあるのだと個人的には思う。

 

 

7.ベートーヴェンの神格化

 

さて、問題は其のベートーヴェンの「神格化」の問題です。

ですが戦前の日本ー明治、大正、昭和期の日本ーにも「天皇を神格化」すると云う大問題がかって生じて居ました。

 

其の人間の神格化は主に宗教的な見地より是非否定されるべき社會的な側面のことです。

左様に人間の神格化は現存在の社會がむしろ壱番しでかし易い概念的な誤りのことです。

 

其れも此のやうにむしろ利口な國としての独逸や日本にてかえって其のやうなことが引き起こされる。ーナチス・ドイツもまた其の流れとしての全體主義の履行のことでしたー

其れも番組中にて描かれたやうに、「独逸東西陣営の對立」や秘書としてのシンドラーの暴走などが其のベートーヴェンの「神格化」に拍車をかけて居たのだった。

 

また指揮者としての巨匠カラヤンによるベートーヴェンの「神格化」の流れもまたあったとのことで正直此れには驚かされた。

 

だけれどもあえて今わたくしは以下の如くに考える。

ベートーヴェンは「神格化」されてしかるべき藝術家なのでもまたあった筈だ。

 

つまるところ例えかのバッハであるにせよ「神格化」することなどはとても出来ないがベートーヴェンの場合は半分位「神格化」されたにせよおかしくも何とも無いと個人的にはさう思える。

 

但し宗教とは異なり藝術の分野は常に「生臭い」ものだ。

要するに愛欲だの酒だの煙草だのに常にまみれて御座る。

 

其の煩悩が酷い侭にむしろ神佛の領域へと近づいて行くのが藝術としての其の目的である。ー即ち「煩悩即菩提」なのか?ー

 

つまりはさうして弐元分離の様が兎に角酷くある。

其れが酷いのでもはや紙壱重なのであらう。

 

 

尚、先日触れました「交響曲第七番第弐樂章」のことに就き至極印象深いことがまた番組中にて語られて居た。

此の部分をベートーヴェン自身はアレグロ=早めにー100ーとして表現するやうに譜面に書き入れたが秘書のシンドラーはより遅くー80ーとして演奏するやうに自己解釈したのださうです。

 

確かに此の部分は其の曲のテンポにより可成に異なる印象のものとなる。

結論としてはどちらも悪くは無いが遅くなると権威志向がより増して行く感じが何処かにする。

 

ではあるがベートーヴェン自身はあくまで其れが早めに演奏されることを望んで居たのである。

其処からも即ちベートーヴェン自身はむしろ反権威であり反権力としての価値観を報じて居たことかと思われる。

 

 

さてベートーヴェン自身は子孫を持たなかったが甥のカールに對し壱種歪んだ愛情を持ち彼を息子にし音樂家としての自分の志を継がせやうとして居たことともされて居る。

カール・ヴァン・ベートーヴェン - Wikipedia

 

尤も其れは世俗の上での血の継続と云うことでは無くあくまで藝術表現の上での引継ぎを其処に成さうとしたことかとも思われるのだが傍目からすると其れもまた壱種身勝手な藝術家の論理に支えられたものである。

 

何故なら其れは彼が自分の甥だと云うだけの話で其の彼が音樂に向いて居るかどうかと云うことなどはまるで分からないことであったのだから。

事實彼カールは其の後伯父の意に反して軍人となる。

 

よって其処にてベートーヴェンは人間関係の上で壱つの禍根を残すこととなったのだった。

 

不滅の恋人 - Wikipedia

 

またかうして其の所謂「不滅の恋人」説には多くの女性の名があがっても居て番組中では不滅の恋人 = #アントニー・ブレンターノ- Wikipedia説が有力説として紹介されても居る。

 

 

ー心理学者の河合隼雄は、素人の無責任さの勝手な空想と断ったうえで、ハイリゲンシュタットの遺書の一節にある「自分は危うく自ら命を絶とうとしたことすらある。ただ――彼女だけが自分を引き止めてくれた」(近衛秀麿ベートーヴェンの人間像』(音楽の友社)の訳による)の「――」にある「わが高貴な『芸術』」=「彼女」こそが「不滅の恋人」ではないかと書いている。ベートーヴェンはおそらく生まれた時からこの世で最も嫉妬深い女性、芸術の女神と同棲していた。彼女はベートーヴェンと他の女性との恋が成就することをあらゆる手段を用いて妨害し、ついには彼女の囁き以外のものをベートーヴェンが聴くことができないようにさえしてしまった。ベートーヴェンを自殺の淵から救ったのも、その淵に追い込んだのもともに彼女のしたことだった、との推論を述べている[57]。ー不滅の恋人 - Wikipediaより

 

されど我は以上の説こそがむしろ眞相なのではないかとさう考える。

そんな俗調に縁の無かった訳ではなかった彼ベートーヴェンではあれ最終的には彼は「藝術の女神」其のものと交わりさうして彼女に對し殉死したのではなかったか。

 

嗚呼、其の藝術の女神、おおまさに彼女の存在こそが此の時の流れを止め且つ此の猥雑なる空間の作用ー現象としての猥雑で且つ無慈悲な矛盾としての作用ーを瞬時に凍結し其の永遠なる場を藝術家に与える安らぎとしての存在で無くて何であらう?

 

つまるところ眞の意味で藝術家の無聊を慰めるのは只壱つ藝術の世界のみなのだ。

だが果たしてどんな👩が其れに取って代わって呉れやうか?

 

さうして血も涙も汚れやがては死に至るであらう肉體の持ち主達が其の気紛れでもって移り気な👩共による思考其のものが。

其のやうなものでは無く、もっともっと純粋なものを!!

 

其れももっともっと不変なるものを!永遠なる安らぎに包まれしものを!!

アンタもしやソコへ行きたいのかい?

 

はい、わたくしはどうしてもソコへ行きたう御座ります。

ならおみゃーさんはまーアカン、すでに頭の中身がゲージツにやられてる。

 

やられたーーーー!、でも何時やられたのかな?

いや多分其の本ばかりを読んでた廿代の頃だらう。

 

 

そんな訳で其のゲージツに頭がやられた我とベートーヴェンは明日第九の演奏會ーTVのーに於いて完全に合體し共に其の其れ其れの藝術をば完遂させるのです。

つまりは「藝術の女神」彼女の子となり且つ夫となり藝術の世界をもう何処までも泳いで行くのです。

 

對して生身の👩に振られたかのショパンの晩年は悲惨なものとなり申した。

だからダメですよー、そんな女體になど手を出しては決してなりませぬ。

 

なる程、前回君が述べて居た「冬休み中の不純異性交遊の禁止」とはそんなまさに深ーい意味に培われしことだったのか。

いや分かって頂けてとても嬉しいです。

 

左様に藝術家の内面は至極複雑ですので其処は常に相当に書き込んで説明しませんとまさに何を言ってるのだかまるで分からんと云うオチとなるのが関の山です。

でもイチイチ面倒臭い奴だなあ。

 

ちっとも面倒臭くなど無いわ。

即ち此れが普通だ、普通…。

 

普通…なのかなあ?

おおおおおーすでに我が頭の中では「第九の調べ」が其れも何度も何度も繰り返しつつ鳴って居るぞ!!

 

さうか、では明日は愈愈TVにて「第九」の視聴をするのだね?

尤も其の前に多分ショパンを聴くのだと思いますが。ー本年最後のまさに洒落にならん話のオチでしたとさー

かうして『ブラック・ジャック』に嵌まりし年末の我ー手塚 治虫氏の作品に於ける理性のあり方としてのバランスの良さー

かうして『ブラック・ジャック』に嵌まりし年末の我ー手塚 治虫氏の作品に於ける理性のあり方としてのバランスの良さー

 

 

 

 

公明代表「誠に遺憾」 (msn.com)

 

宗教政党が政権を担う場合の方が政治倫理的には良くなる可能性などもまたある。

要は政権与党に於いて倫理観が麻痺して居ては決してならない。

 

其処で此の際自民党員を全員公明党の方へでも鞍替えさせたらどうか?

また其処でもって佛法などを學びちゃんとした心の整えをしてから是非政治参加すべきなのではなからうか。

 

但し公明党の方にもまた問題が無い訳では無い。

何故なら自民党壱党支配體制を継続させて來し責任は公明党が大きく受け持っても居やう。

 

今後公明党はむしろ宗教政党としての心の潔癖さを第壱義的に國會の場にて訴えて行くべきだ。

即ち政治の世界より惡を根絶せしめおおまさに聖なる大白蓮華の🌸をば政治の世界に是非咲かせるべきである。

 

 

佐藤浩市が急激老化?「髪は真っ白、頬も体もやせこけて」撮影現場の見物客が騒然 (msn.com)

 

まさに此処からも年取ってから痩せることは太ること以上にリスクが高くある。

 

逆に若い時に太るのは良く無い。

我は40歳位まで腹は出て居なかったので其れが普通である。

 

尚見た目が若く見える奴は實際に長生きのタイプなのださうだ。

だが自分の場合には何せ頭脳を酷使して来て居るので其処はどうなるものやら分からん。

 

但し頭は使えば使う程良くなる。

體は使い過ぎるとむしろ老化が早くなるが頭の方はある意味非限定的な概念過程ですのでもう何処までも頭が良くなって行くものだ。

 

嗚呼、それにしても困ったなあ。

其れも何時の間にかこんなに御利口さんになっちまって。

 

 

「寒すぎる」と客や従業員が悲鳴 スギ薬局が店舗に“暖房禁止令”を出していた (msn.com)

 

此のスギ薬局の意思決定にはそも問題がありよって我はかって五年程其のスギ薬局の意思決定に對し異議を申し立てて来たつまりは個人的にココと喧嘩をして来て居た。

ー但し我は拾年以上に亘りスギ薬局の優待ユーザーだった。だがであるからこそ間違いの考えを正さうとし色色と意見を述べたのである。ー

 

さて以下に重要な意思決定上の御話をしてみたい。

 

 

お金持ちだけが知っている、人生に必要な「6つの豊かさ」 (msn.com)

 

6つの豊かさ

・お金の豊かさ(マネー・リッチ)……経済的な豊かさや物質的な豊かさ・家・車などの所有物。

・仕事の豊かさ(ワーク・リッチ)……仕事で得られる豊かさ・充実度・キャリア・貢献・自己成長など。

・健康の豊かさ(ヘルス・リッチ)……健康・美容・アンチエイジングなど。外見にも反映される。

・心の豊かさ(マインド・リッチ)……心や魂の豊かさ、自己成長など。マネー・リッチを実現するための土台。

・人間関係の豊かさ(フレンド・リッチ)……人間関係・家族関係・パートナーシップ・所属するコミュニティでの交流や貢献。ワーク・リッチを実現するための土台。

・時間の豊かさ(タイム・リッチ)……時間的ゆとり・やりたいことをやる時間・趣味などに有効に使える時間。ヘルス・リッチを実現するための土台。

 

ちなみに、「お金」「仕事」「健康」は自分からも人からも目に見える(見えやすい)領域ですね。「お金の豊かさ(マネー・リッチ)」が大きく影響を与える「マネー・リッチ・ゾーン」と呼んでいます。

そして「心」「人間関係」「時間」という他人からは一見、目に見えない(見えにくい)領域。「心の豊かさ(マインド・リッチ)」が大きく影響を与える「マインド・リッチ・ゾーン」と呼んでいます。

「お金の豊かさ(マネー・リッチ)」は「心の豊かさ(マインド・リッチ)」によって支えられています。ー以上より

 

 

さてこちらは素晴らしい記事です。

まさに勉強させて頂きました。

 

要は「心の豊かさ」の方がむしろ大事だと云う視点のことです。

其れも物事を此れだけスッキリと整理し伝えて頂けると心底より其れが分かって来ます。

 

要するに「心の豊かさ」=實存的な豊かさにより「お金の豊かさ」=社會的な意味での豊かさがしかと支えられて居ると云う事です。

つまりはさうして他人からは見えない部分での豊かさこそが他から見た場合に「幸せ」だとされる豊かさの前提条件となって居ると云う御話です。

 

但し、

 

「お金」「仕事」「人間関係」=社會的な価値

「健康」「心」「時間」=實存的な価値

 

と組み替えても良いやうに個人的には思う。

 

何故なら元元「人間関係」が煩わしい人などもまた居るのですから。

でも「健康」が煩わしいと思う人は居ないことだらう。

 

 

社會的な価値⇔實存的な価値

 

其のやうに現存在の寄って立つ価値とはとおそらくはさう「分離」されて居ることでせう。

だけれども其のやうな呼応関係、即ち所謂縁起的な相互関係がソコに有ること自體が至って複雑な話です。

 

ですがどうも動物にせよ植物にせよ其の社會と申すか環境とは切っても切れぬ縁の中に初めから放り込まれて居るのだから何やら生命とは因果なものです。

然し例えば石の場合にも環境とは切っても切れぬ縁の中に初めから放り込まれて居るのだった。

 

すると「現象する」と云うこと其れ自體に其の関係性が元來仕込まれて居るのやもしれません。

 

要するに「現象する」こと其れ自體が壱種の「分離」なのだとさうも考えられやう。

逆に「悟る」こととは「現象しない」ことですので「分離」じゃあ無い。

 

 

まあ其の哲學的談義は壱旦脇に置くとして、

 

社會的な価値⇔實存的な価値

 

今壱度此の関係性のことをしかと考えてみまするに、

つまりは其れが「相剋」し且つ「相即」する関係性を持つが為に、

 

實は相互に「全否定」出来ぬ要素と化して居る訳だ。

なのでほんたうのほんたうは、實は其の全部を「認め」ないとイケません。

 

何故なら、

 

「お金」「仕事」「人間関係」がゼロで「健康」「心」「時間」がタップリですと此れはもう如何にもヤバいですよ。

逆に「お金」「仕事」「人間関係」がタップリで「健康」「心」「時間」がゼロですと此れももう相当にヤバいです。

 

でもどちらかと言えば藝術系の人は、「健康」「心」「時間」の方がタップリなのかもしれません。

何故なら彼等はさうして「唯我独尊」での境地をこそ生きるからなのだ。

 

逆に自民党の方方やまた官僚の方方などは、「お金」「仕事」「人間関係」の方がタップリですが「健康」「心」「時間」の方がほとんど無いのやもしれません。

 

また其れは、

 

他から見える豊かさ⇔心の豊かさ

 

とさう言い換えても良いことだらう。

でもって此れもまた實は相互関係があるので、つまりは壱方は他方を全否定することが出来ない。

 

そりゃさうでせう。

幾ら心が豊かでも金が無いとまた人間関係が無いと生きては行けない。

 

 

ですが、上のリンクの記事で著者の方が仰るのは、あくまで「心の豊かさ」の方が前提となり「他から見える豊かさ」の方が其れに支えられて居るとさう仰る訳だ。

すると「他から見える豊かさ」を成就することでむしろ「心の豊かさ」の方を見失い易いとさう言い得るのやもしれません。

ー但し此の記事の望月氏は金持ちには其れが分かって居るとさう仰られて居るが事實上は多くの場合むしろ其れが分かって居ないことの方が多い。即ち金銭的に恵まれると貧乏人の苦しみには共感出来なくなりがちなのだ。ー

 

また其の「他から見える豊かさ」には無論のこと物質的な豊かさのことが含まれて居ります。

物質的な豊かさを追い求める余りに「心の豊かさ」の方を見失い易いとさう言い得るのやもしれません。

 

逆に社會的な価値が乏しくとも内面的に充實した価値を生きることは可能である。

即ち夭逝した藝術家の生に価値が無かったとはまさか言えぬ訳だ。

 

また内面的に充實した価値を生きることと社會的に充實した価値を生きることとはそもまるで別物である。

問題は其の内面的に充實した価値の方こそが見えにくく社會的に充實した価値の方ばかりが目に付き易いと云うことである。

 

 

其れは何故か?

何故なら社會の方が個よりも常に大きいからなのだ。

 

其処を逆転させ見せて居るのが其れこそ「藝術」や「宗教」の分野のことではないか。

 

即ちゴッホピカソの藝術は逆に社會よりも常に価値がデカい。

即ち釈迦やキリストの教えは逆に社會よりも常に価値がデカい。

 

であるからこそ藝術もまた宗教もとても大切な内面的領域なのだ。

だからどうも此の記事の筆者の方は此の辺りのことをこそ述べて居られるのではないか。

 

つまりは其れが「社會的な価値」に對し全的に依存することの危険性をこそかの筆者の方は述べられて居るのである。

其のやうにむしろ「デカいものが齎す価値」に関しては基本的に懐疑的である方が其の「デカさ」に素直に従うだけの心のあり方よりもより望ましいのだと言える。

 

さて本日わたくしはとても重要な価値認識の上での御話を致しました。

「社會的な価値」に對し全幅の信頼を寄せるのは其れはズバリ言って「洗脳」です。

 

其の「洗脳」を自ら解き己が理性を発現させんが為にこそ其の「内面世界」が拡がって居る。

だが其の「内面世界」は「表現」されぬ限り周りに見えるものとはならぬ訳だ。

 

さうして藝術家や宗教家の方方は良いが我我凡人はむしろ非常に「洗脳」され易い人間達なのだと言えることだらう。

故に其の社會の価値観に對し疑問の意を示すことは決して悪いことでは無い。

 

 

まず此のやうなことを申せば多くの方方が其処に疑問の思いを抱かれることだらう。

ではあるがあくまで其れが人文學的に半世紀余りを格闘して来たわたくしとしての素の結論なのだ。

 

さて本年もまた色色とあり全くゴチャゴチャの壱年であったが何とかかうして無事に終わりさうである。

だが先日のミネラルフェアにて五萬円の翡翠の原石を買わなかったことは失敗だった。

 

代わりに萬年筆を落札したが其れも六~七割方は失敗だった。

結局またやらかしちまった。

 

だが世間と違うのは我は👩に嵌まったりはしないと云うことであらう。

👩に嵌まりそんな隠し子の居るアナタ、アナタは僕ちゃんなどよりずっと今後が大変ですよ。

 

尚さうして實は萬年筆仙人ですら過ちをやらかして仕舞う可能性が常にある。

 

兎に角👩にだけは嵌まらぬやうに。

其れも冬休みに不純なる異性交遊などを決してせず常に聖書か又は御経の内容だけを學んで居るやうに。

 

もしや「廃墟」などに嵌まっても宜しいのでせうか?

どうぞ、どうぞ、是非「廃墟」を訪れ其の趣に浸り切って來て下され。

 

むしろ其のカルトなる趣味を最高度に突き詰めやってみて下され。

其れも女體趣味以外ならば何でも良いです。

 

まあ大酒飲んで死ぬなら其れもまた壱興か。

 

 

さてわたくしは今さうかう後悔などをしつつプライム・ヴィデオにて『ブラック・ジャック』に嵌まって居ます。

 

Amazon.co.jp : ブラックジャック

 

こちらはプライム会員ですと無料にて視られるものが多い。

 

其の内容ですがどれも「素晴らしい」と云う他は無い。

今世の中には様様な漫画やアニメの類が溢れて居ることでせうが矢張りと云うべきかかの手塚治虫 - Wikipedia氏ー手塚プロダクションーの作品は別格です。

 

尚我我還暦世代はまさに其の手塚作品に大きく影響を受けて来た世代となる。

個人的に好きだったのは手塚作品に於ける生の価値其のものに對する向き合い方の眞面目さの部分です。

 

尤も今の漫画家の作品が不眞面目な訳では無くむしろ部分的にはより表現として掘り下げたテーマの追及が為されて居ることかとも思うのだが兎に角其の生の価値に對する生眞面目さと云うものがかの昭和の時代に共通する共通認識であった気がどうしても今はして居る。

 

だから今其れ等を読み返してみると「懐かしい」だけでは無く心理描写としての「深い」何かを其処に常に感じさせられる。

要するにまさに其れが「人文學」的な意味での内容の深さなのではなからうか。

 

尚自分がアニメなどに嵌まったのは「ガンダム」や「北斗の拳」迄でしたが其れ以前に嵌まって居たのが勿論此の手塚作品の数数でした。

尤も自分は両面的人間ですので實は眞面目系の漫画やアニメだけでは無く「カルト物」とされる作品などにもずっと縁して来て居りました。

 

 

其の例

白土 三平

ますむら ひろし

高橋 葉介

吾妻 ひでお

等等

 

また特に好きだと云う程では無いがアノ永井 豪なども凄い漫画家なのだと思う。

ちなみにますむら ひろしと吾妻 ひでおの作品は70年代当時は可成にカルトチックなものであった。

 

また白土 三平の作品は漫画では無く劇画で要するに時代劇の形にて社會問題を其のテーマとして追及したものでせう。

 

其れ等と比し手塚作品はまず健全ですが實は健全なばかりなのでもありません。ー壱番不健全なのはズバリ永井 豪の作品だがー

即ち「健全」と云うことは其処に「疑問」を含まないことです。

 

ですが眞の意味での「健全」さとはむしろ「疑問」ダラケになることなのです。

よって其の眞の意味での「健全」さの部分をこそ藝術や宗教の分野が担って居たりもまたする訳だ。

 

要するに其の社會的価値に對し疑問を抱き異議を差し挟まぬ優等生では眞の意味での「健全」さに至ることが出来ぬのです。

尚自分の場合は学生時代に其の優等生と劣等生を繰り返し何度もして來て居ります。

 

だから傍目から見るとドッチなのだかまるで訳が分からんことでせう。

また自分でも其の両面を持って居るとさう思えるのです。

 

だから馬鹿ー知的な意味での暗愚さーとしての苦しみも分かるのだしインテリの方方の精神的苦痛ー知的であるが故の苦しみーの方も同時に了解される。

 

 

そんな手塚作品の中で70年代当時に熱中して読んだのが「火の鳥」や「ブッダ」でした。

尚「鉄腕アトム」はアニメの方は小さい頃にTVにて視たが興味はありませんでした。

 

還暦世代の理系の學者などは其の「鉄腕アトム」から大きく影響を受けたなどと屡語りますがあくまで自分に取り其れは単なるSFとしてのドタバタ劇でした。

当時よりわたくしは文明の未來に對し懐疑的でありよって生命其のものの意義を追及するかのやうなつまりは人文學的な問いの要素を多分に持つ其れ等の手塚作品に強く惹かれたのだった。

 

ちなみにわたくしは70~80年代当時SF小説マニアでもまたあり特にスタニスラフ・レムの作品を好んだが他のものの内容はすでにほぼ忘れて仕舞いました。

まさに其の70~80年代当時は他に純文學だの詩の方だのも多くを読み込んで居たのですから今からすれば信じられぬ程の読書量でした。

 

火の鳥」や「ブッダ」は如何にも学校の先生が冬休みの課題図書ー課題としての漫画ーとして御勧めしたくなる作品であり其処はわたくしの場合もまさに其れに同意させて頂きます。

要するに自分の子には絶對に読んで欲しい漫画作品なのです。

 

ですが子が何処にも居ないので其れを読む目もまた何処にもありませんのです。

 

 

Amazon.co.jp: ブラック・ジャック <Flashアニメ>を観る | Prime Vi

 

さて其のブラック・ジャック作品の中では低評価なのがこちらですが其の全部を視てみたところむしろ素晴らしい作品でした。

要するに「昭和の価値観」が入り過ぎて居て今の若い人等には其れが伝わらないのではなからうか。

 

特に驚いたのが、

「医師は壱體何の為に人の命を助けるのか?」とのまさに根本の部分での問題提起が其処に為されて居たことです。

 

要するに其れは、

「人間の寿命が延び人口が増え其の結果自然を破壊するに及ぶのだとして其れでは壱體何の為に医者は居るのか?」と云う要するに哲學的な問いが為されて居ると云うことです。

逆に言えば「寿命はむしろほどほどで良く人口もまたほどほどで良く」もしもさうなのであれば「自然が破壊される」こともまた無いからつまりは医術をも含める科学的な人為的方法論=進歩主義に對する強烈なアンチテーゼとなって居るだらう究極的な「問い」のことです。

 

ちなみに其の部分に就き個人的には以下のやうに考える。

人類ー文明ーが眞の意味で理性的なものともしもなり得るのであればのべつまくなしに正の価値のみを追求することはしない筈です。

 

逆に申せば正の価値のみを追求することは眞の意味で理性的な態度ではあり得ない。

其の理性に對する根本での文明による価値の構築の仕方其れ自體に誤りが生じて居る。

 

故に個として、此の實存としての壱つの理性として、其の文明による価値構築の様になど惑わされて居てはならない。

まさに其のことこそが我が結論でありつまるところ其れは「個としての認識のあり方」にこそ帰結する問題なのだ。

 

 

ではむしろ社會に對しさうして疑問ダラケで「反対!」ばかりをして居れば良いの?

まあ其れを信ずるよりはむしろ信じて居ない方がよりベターであらう。

 

なので其の「信ずるもの」=「信心の対象」其のものがそも間違って居る。

 

其の究極としての人類=文明が抱える命題を解決する糸口は外部への批判の部分には無くむしろ己の心のあり方を変える=認識を正す部分にこそ存して居る。

じゃあアンタみたくカルト人間化すれば良いのか?

 

確かに其のカルト趣味もおそらくは大事なことだらう。

但し社會がカルト化すればする程に人類=文明はむしろヤバくもならう。

 

其れとブラック・ジャックと云う無免許医のある意味ライヴァルとしてDr.キリコなる殺人医師がまた登場する訳だ。

其のDr.キリコの論理とは「此の苦に満ちた世界から契約者を安樂に去らせる」ことにこそある。

 

其の論理は壱見異常なやうに見えて實は正しいことなのでもまたある。

 

例えば戦場にて酷い傷を負った兵士を安樂死させることなどは間違いでも何でも無い筈である。

其のやうに手塚作品には生の正と負の側面に於ける對立関係が必ず描写されて居る。

 

わたくしはまずは其の点が優れて居るのではないかとさう思う。

漫画やアニメに限らず文學でもまた宗教でもさらに繪画や音樂にせよ其の弐面が描かれるものこそが作品表現として本物なのではないか。

 

 

實際に生きると云うことはそんな情けない迄に矛盾に直に晒されることである。

むしろ生其れ自體がそんな矛盾としての塊なのだ。

 

其の矛盾をどう解消するかと云うことこそが哲學と宗教に於ける課題なのであらう。

さうして哲學の場合は其れを観念的に克服しやうとし宗教の場合には其れを心のあり方として乗り越えて行かうとする。

 

個人的にはまた其れも両面が必要なのだとさう思う。

兎に角価値分別の全てに亘り両面の価値を同時に理解する観念的なまた心理的な態度を是非涵養して置かねばなるまい。

 

 

以上の観点より上記の作品に對する個人的な評価は☆☆☆☆☆である。

左様に人間の評価と云うもの其れ自體が何をどう見て居るかと云うことで大きく異なって来る。

 

価値観と云うものはまさに其のやうなもので實存の個性によりまるで異なるものである。

 

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對して比較的高評価なのがこちらだが此れは単なるSF映画に近い設定であり先に述べた如き哲學的な問題提起の部分が少し弱いので個人的な評価は☆☆☆止まりである。

 

所謂言語また言語に寄らぬ「表現」には是非其の生に於ける弐項対立が生じせしめるところでの「何ともならん矛盾」を描き出す部分が欲しい。

だが現實には此の文明と云う社會のあり方が描き出すものとは技術的乃至は制度的な矛盾の様であり逆に其の種の根本としての生に對する問い、現存在其のものに對する問いを発するやうなものなのでは無い。

 

従ってむしろ「根本でのところでの矛盾」をこそ問うて行かねばならぬのだ。

現代文明の奉ずる価値観はむしろ其の逆方向へと舵を切り歩みつつあるのだと言える。

 

 

Amazon.co.jp: 火の鳥を観る | Prime Video

 

うわお、こちらも是非視たい。

何て懐かしいのだ、いや懐かしいだけでは無くまた此れを視て是非文明の意義に就き考えてみたい。

 

とのことで本年の冬休みの課題は手塚 治虫氏の作品其のものとなり申した。

其れもあくまで自分に取っての課題ですが手塚 治虫作品に對し興味のある方は是非御勉強して置かれると宜しいことかと思う。

 

兎に角個人的に昭和時代の漫画やアニメなどはとても「バランス」良く纏められて居るものと思う。

其の「バランス」とは畢竟理性としてのバランスの良さのことである。

 

即ち其れ等は現代的な解釈の如くに合理化壱本槍なのではよもや無いのである。

第6回ミネラルフェスタinナゴヤ奮闘記

第6回ミネラルフェスタinナゴヤ奮闘記

 

 

 

幸いなことに本日12月25日は朝より晴れ間が広がり🚲にて移動するのが苦になる程の寒さでもなかった。

でもって14時頃には現地第6回ミネラルフェスタ in 名古屋 | 名古屋国際会議場 (nagoya-congress-center.jp)へ到着した。

 

ちなみに其のミネラルフェスタの方では余り石を買って居ない。

 

1.高額な標本が多いこと

2.ルース(磨いた石)が多いこと

3.石の蒐集家による出品が少ないこと

 

以上の理由から個人的にはどちらかと言えば高額な鉱物標本の観賞の方を主な目的として此処を訪れて居る。

 

4.250萬円のオパールの原石標本ー但し磨いてあるー

5.100萬円のロードクロサイトの単結晶標本

6.他5~10萬円程もするトルマリン原石のかけら等

 

などを主に観賞して来た。

特にオパールは弐店専門店が出て居り其処にてなかなか良いものが見られた。

 

また千円の屑オパールエチオピアオパールーなども売られて居たがヤフオクにて弐千円迄で入手出来る原石の方が少し質が良い為其れは購入せず。

また他の店でルース(磨いた石)としてのオパールが壱つ弐千五百円にて多数出て居たが此の辺りは模造品である可能性もまたあり危ういのでまた手は出さず。

 

 

石は左様に難しい部分もまたあるのだ。

万年筆に模造品などはほぼ無いのだが石は兎に角骨董品などと同じで其の眞贋を見極めるのが難しい。

 

が、石には元元個性があり言わばオンリーワンでの価値を有するのでそんな屑石であれ価値が無いと云うことには決してならない。

だが其のオンリーワンでの価値以上に大抵の場合「グレード」の差にて其の価値は決まって仕舞う。

 

故に250萬円だの100萬円だのの石は其処にあるだけでもうどう見ても壱級品である。

であるから其れはさうして眺めて樂しむ為の石なのである。

 

無論のこと金持ちならば其れ等を悉く蒐集して行くと云う手などもまたあらう。

だけれども我が石趣味はまたさう云うのとも違い只単にいつも手元に石を置いて置きたいのである。

 

石の蒐集はさうして「金をかけずとも出来る趣味」である。

極論を言えば其の種の鉱物フェアの石は只見て来るだけにして置き其の代わりに自分で拾った石を後生大事にして居たりすることなどもまた可能である。

 

 

どだい此処日本列島は各地に色んな石が出るので其れを拾って来たりすることは基本的に可能である。

だが其の採集も結構面倒臭いので最終的には現金での採集の方に流れて仕舞う場合が實は多い。ーまた多くの鉱物産地が採集禁止ともなりつつあるー

 

ちなみに自分の場合は其の自己採集と現金採集が半半だったがすでに🚙を手放して仕舞ったこともあり近くの山での石英の採集以外はやれなくなって仕舞った。

尚中には道端の石を拾い其れを寶物と見做して居るスゴイ愛好家の方なども居られるさうだ。

 

そんな腐ったやうなつまりは不細工な石を御寶のやうに思える其の心こそがほとんど宗教的な次元での感性であらう。

つまりは非常に石趣味の度が深いと言い得るのではなからうか。

 

だが普通は誰しも値段の高い石の方を御寶だとさう思う筈だ。

我は意外と其の石に於ける価値ヒエラルキーには弱く要するに値段の高い石にはコロリと惹き付けられて仕舞うのであるが、されどあくまで精神的には屈折して居るつまりは単純では無いのでそんな値段の高い石ばかりを崇めて居るのでは無く「自己本位」としての石の価値をむしろ築き上げやうとさう日頃から画策しておる。

 

要するに反骨精神のやうなものがあるのでそんな価値ヒエラルキーばかりには騙されないぞとさう石の世界に於いてもまた闘って居るのである。

結局のところ其れはそんな価値ヒエラルキーに負けさうな己が心と闘って居るのだと言っても良い。

 

 

7.外國人が売って居た五百円のペリドット橄欖石

 

をつい買おうかと思ったのだがもう少し立派なのがヤフオクにも出て居そうだったので結局買わず。

さうかうするうちにまた翡翠のブースへと惹き付けられて行く。

 

其処で、

 

8.五萬円の糸魚川翡翠原石

 

が目に留まった。

 

其れも今や高くは無い石である。

石が大きく、形が兎に角整い美しい。ー200グラム位はありさうだー

 

翡翠原石はさうして多面體をして居て要するに平面がくっきりと重なり合う石こそが理想なのだがまさにそんな石である。

だけれども今五萬はとても出せない。

 

何故ならPCをローンにて買っちゃったので。

 

尤も其の石はおそらく透明度の方は大したことはなからう。

透明度の方は今年の夏に吹上の鉱物ショーにて京都のおっさんー工芸家の先生ーから買った金山谷産の石の方がずっと上であらう。

 

だけれども其の翡翠原石は全體的に緑色で要するに色合いの方が良かったのである。

其の全體的に緑色でもおそらくは透明度の方に欠けるので五萬円止まりなのであらう。

 

全體的に緑色でしかも透明度の方もあれば五拾萬円であり百萬円もする御品となる。

なんだけれども色の綺麗な翡翠の方が個人的には好きだな。

 

其れももしや交渉すれば四萬まで値が下がったのかもしれないな。

まあこんな金食い虫のPCだけが悪い訳で他には誰も悪い人は居ませんのです。

 

 

さて其の魅力的な翡翠原石を出されて居たのが地元名古屋の翡翠愛好家の方である。

まさに其れがこちらで「春翠」さんである。名古屋ミネラルフェアでの春翠のブース

 

以前からこちらをたまに覗くことなどもまたあったが名古屋の方だとは此れ迄まるで知らなかった。

此の方は然し翡翠に對する根性が並みの方では無いやうだ。ようこそ春翠のホームページへ | 春翠 (shunsui-hisui.com)

 

尚わたくしもまた翡翠への偏執度が並みでは無いと思われるのだがまあかうして實は大したことは無い。

要するに別に翡翠が無いと死んじゃうと云う程でも無い。

 

でも翡翠が無いと狂っちゃう可能性だけはある。

嗚呼、翡翠、其の多面體でもって緑色の糸魚川翡翠…。

 

其れと此の方はあくまで「翡翠の加工」が趣味だとさう書かれて居り事實「春翠」さんのブースには澤山の翡翠の勾玉が置かれて居たのであった。

勾玉もまた嫌いでは無いのだがあくまで「加工品」となるのであくまで我の場合には「原石」への固執度の方がより高くあるのである。

 

其れに勾玉は何やら胎児の初期段階のやうに見える。

自分は所謂人間嫌いなので「原石其のもの」への拘りの方が兎に角強くある。

 

其の勾玉も少し眺めて居たが結構高く少し良いと思うと5~6萬円程もして居たやうに思う。

尚今回は「エメラルド」の良い標本などは何処にも見当たらなかった。

 

 

さて我が目の前には夏に吹上の鉱物ショーにて購入したブラジル産のエメラルドのデカい標本がしかと置いてある。

また其れの結晶部にライトを当てると頗る綺麗である。

 

石は其のやうに何故か綺麗な物である。

其れもこんな寒い夜にストーヴにて暖まりつつエメラルドの結晶に光を当てつつ愉しんで居ること自體が奇跡的に幸福なことなのではないか。

 

まあ石はまた左様に幾らでも何処からか出て来る。

だから石を買わないこともまた壱つの理性的限定なのだ。

 

逆に言えば持ってる石を忘れて仕舞ったりもまたするものなのだ。

また持ってる萬年筆をつい忘れて仕舞って居てつい先日とんでも無い御品が出て来たばかりなのだ。

 

まあだが其の多面體のくっきりと出た美しい翡翠原石には實際参ったな。

其れも閉店まで粘って参萬でどうですかと是非さう言わねばならなかった。

 

ところでクリスマスはどうなったのですか?

其の苦悩のクリスマスどころの話か!

 

其れに食い物なんぞはお茶漬けで良くもう石だ、石。

石はかうして常に物欲に負けた人人の眞の味方なのです。