目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

かうして相変わらず色色と忙しくクルシマないクリスマスの前日

かうして相変わらず色色と忙しくクルシマないクリスマスの前日

 

 

 

高見知佳さん急死 来春市議選出馬意欲も1~2か月前に子宮がん診断さらに転移「あっという間」(スポーツ報知) - Yahoo!ニュース

安全地帯ドラム・田中裕二さん死去 65歳 (msn.com)

 

結局かうして60代がバタバタと倒れ始めましたので其のうちに日本人の平均寿命は65歳位まで下がります。

故に今40歳になられた方の余命は凡そ四半世紀ダケです。

 

残念ながらかうして今後はドンドン平均寿命が短くなる。

だからもうやれる時に革命でも何でもして置く方が宜しいのです。

 

また何でも食うことこそがより大事である。

此の際食うことに命を懸けてみるべきでせう。

 

何?

そんな贅沢をする金銭的余裕が無い?

 

じゃあ金貸しから金を借りてでもビフテキでも食ったれや。

 

 

そんな訳で今日明日は本來ならば「聖書」を學ぶ日ながらなかなか其の「聖書」の方は開けず其れも相変わらず「食い気」壱筋にてとりあえずはクリスマス・ディナーの調達の為にイオン新瑞橋店へと出向いた。

 

其の目的は、

1.「シュトーレン」の調達

2.豪華な「江戸前寿司」の調達

にこそあった。

 

だが其のイオン新瑞橋店がまさに大衆により満杯であった。

詩人はさうした俗調なる部分を兎に角嫌うが故にレジに並ぶ人の数が拾人以上であることを確認した上で速やかに其のイオンを去った。

 

其処から約弐キロの道のりをサイクリングし白砂のコノミヤへ。

其のコノミヤは意外に空いておった。

 

だがコノミヤとは言えクリスマス・モードとなって居る。

よって鶏のもも焼きのセットと助六寿司を買う。

 

鶏のもも焼きはリボンなども付けられ完全にクリスマス・モードでの御品だ。

 

さてどーでも良いことだがつい先ほどより🎇が打ち上がって居る。

だが「聖書を學ばんが為の日」に🎇を打ち上げるのは下品だからもう是非とも止めて欲しい。

 

どだい日本人には「クリスマス」の意味がまるで分かって居ない。

クリスマスとは元來イエス様が歩まれた贖罪への御苦しみを思い共に「苦しみます」の日であらう。

 

つまりはクリスマスなのでクルシミマス、なのだ。

 

 

だがかく言うアナタは何故教會へ出向いては居ないのか?

だってこんな佛教徒ですもの。

 

いや佛教徒とて南山教會へ出向き現存在の贖罪に就き祈りを捧げることなどは決して悪いことでは無い。

むしろこれからの世の中は宗教や宗派の別に拘らず其の人類の原罪の罪深さに就き祈りを捧げて行かねばならぬことだらう。

 

でもってもう食ったんだろ?

エッ、壱體何のことを仰って居るのですか?

 

だから其の鶏のもも焼きを食ったんだろ?

何故其のことが分かりましたか?

 

いや何となく此の場の雰囲気で分かる。

お前の腹の中身がすでに壱杯なのがかうしてすぐに分かる。

 

ええ、さうなんです。

でもアノイチゴのケーキをセヴン・イレヴンで買いかけたが高いので止めて結局コノミヤにておもてなしチョコパイパーティーパック<あまおう苺>|ビスケット|お口の恋人 ロッテ (lotte.co.jp)を買いましたのです。

 

其れもつい先程弐個連続で食い正直腹壱杯である。

 

お前はまだ今夜他にも何かを食おうとして居るな!

いいえもう年寄りでもってかうして半分死んでも居りますので後はもう助六寿司位のもので決して豪華な夕食などでは御座りません。

 

 

さうか、でもお前は今夜他にも何かを企んで居るな!

何でそんなことまで分かりましたか?

 

其れもお前はまた今夜「御勉強に走る」予定だらう!!

どだいインテリの奴等はバカ騒ぎには興味が無く人文學だの自然科学方面での御勉強つまりは観念的な意味での研究のことだけで頭が壱杯なのだ。

 

だからクリスマス・パーテーなどにも興味が無い筈なのだ。

其れと女にも興味が無い筈だな。

 

はい、まるで興味など御座りません。

であるから今日また此処に出て来て居るのだ。

 

…しっかしうるせえ🎇だなあ。

何処で打ち上げて居るのだ?

こんな聖なる日によりによりウルサイわい。

 

實際に此処参日ばかりは掃除どころか矢張りと云うべきか御勉強の方に走って居りました。

 

 

「月刊三橋」会員サイト (keieikagakupub.com)

本日12月24日迄此処の会員ですので元を取ろうと思い彼三橋 貴明氏の配信動画とメルマガに於ける彼の思想の流れを掴むことをずっとしておった。

 

でもって其の三橋氏の壱派が本日シンポジウムをやったやうです。三橋シンポジウムを開催決定 (38news.jp)

 

こんな風に思想家や學者の面面はクリスマスでも思想的にクルシミマス。

要するに遊びじゃねえんです。

またイエス様のことなのでも無い。

 

要するに政治や行政が悪いんです。

さうして政治家や官僚の連中がバカですので日本が沈没して行くんです。

 

三橋氏や藤井先生、また堤 未果氏などは皆其の保守の側からの「日本沈没」への懸念を世に對し訴えかけられて居るのである。

 

さて三橋氏は経済の専門家ですので其の経済的な側面に関し此の度多くを學ばせて頂きました。

要するに彼は財務官僚を徹底的に叩いて居られる。三橋TV - YouTube

 

また意外なことに日銀が悪いのでは無く他の何やらが悪いとさう申されて居るが其の部分はメモに書いてあるが門外漢の我にはチンプンカンプンです。

 

さて三橋氏は大學時代に山岳部に居てキャンプが好きだなども言われて居る。

 

さうか、暗い奴同士で何だか気が合うなあ。

冗談抜きに三橋氏は兎に角可成に頭の良い方です。

 

 

堤 未果氏はまた物凄いスーパーウーマンでもってしてとんでもない論客の方ですので社會科学に関心を持たれる方ならば其の著作を読んで置く位のことは是非して置くべきでせう。

 

堤未果 / 月刊アンダーワールド / 公式チャンネル - YouTube

 

『表現者クライテリオン』公式チャンネル - YouTube

 

藤井聡 - Wikipedia先生ー例の藤井聡太 - Wikipediaとは別人ーの場合はまだ其の思想に於ける御勉強の方が個人的に進んで居ない。

思想の御勉強は所謂「保守系の思想」壱つを取ってもまさに大變です。

 

「思想」は結局所謂「起きて食って寝る」生活とは別のこととなる。

なのだが實は其の「生活」を根本的に規定するものが「思想」である。

 

丁度露西亜ウクライナ進攻と同じことで其の戦争がイザ始まれば其処に深く現實が拘束される部分が生ずるのがまさに其の「生活」の部分である。

よって「思想」は常に大事ですが無論のこと「生活」もまた大事でありさらに「宗教」や「藝術」の部分も大事なのです。

 

要するに「全部」が大事なのです。

ですので現存在はまさに何でも出来る天才型の人間でないと何にでも対処出来ず其の場合には無論のこと凡人の壱人として適当に會社人間として生きるか、其れとも👪主義へと走るか位のこととなり易い。

 

 

ですが何でも出来る天才型の人間となれたにせよ精神的な苦痛が減る訳では無くむしろ増しても行く訳だ。

但し其処により明晰な知性を獲得して居るので「モヤモヤ」のやうなものだけは其処に駆逐することが出来る。

 

そんな意味からも「思想」だけには走らぬ方がむしろ良い。

但し「生活」だけを生きると此の世の中の實相のやうなものからはむしろ遠ざかることとならざるを得ない。

 

「宗教」や「藝術」もまた其の此の世の中の實相のやうなものへと近接せんが為の知的な営為のことなのです。

ですが其れ等の全部がイヤでしたら其の知的な営為を全て放棄し🐕や🐈のやうに「食って繁殖し運が良ければ拾年生き運が悪ければ弐、参年で死ぬ」ことを選択出来ぬ訳でもありません。

 

 

さて明日はイエス様の生誕祭の日ですので以下に久米 小百合さんー久保田 早紀さんーによる聖歌の数数を貼り付けて置きます。

わたくしは日頃より此の久米 小百合さんの曲を聴いて居ることが多い。

 

其の「聖なるもの」への近接とはそも理性が其れを欲することである。

「聖なるもの」への希求とは現存在の罪深さに對する自戒の念から必然として紡ぎ出されるものである。

 

其のやうに人が眞の意味で理性的となることこそが人間として宗教的に成熟されると云うことなのだ。

逆に申せば🐕や🐈に其の種の理性的領域は不要です。

 

 

ぐおうー。

うわあー、鶏のもも肉をまたタマが齧ったー。ータマはシロの子で昨年5月に4匹生まれたうち壱匹だけ残った母ちゃん🐈だー

 

即ち着替えで壱分だけ目を離した隙に今年5匹の子猫の親となった其のタマにやられたのである。

だが其の鶏のもも肉が巨大なものであり齧られた部位が僅かであった。

 

さうか、コレなら大丈夫だ。

其の部位を少しだけ取り去り猫共に与える。

 

もう猫共がうじゃうじゃと集まり早う鶏を呉れとウルサイのなんの。

そんな訳で所詮🐕や🐈は獣でありイエス様や御釈迦様には本質的に縁が無いものと來てる。

 

うわあー、今度はまた其の暴走族のウルサイこと。

きっと鯛取通とかを暴走して居るのだらう。

 

しっかしこんなクリスマス・イヴに暴走とはまた非常に悲しい出来事です。

だけれどもこんなクリスマス・イヴにこんな「思想」と「宗教」のことしか書けぬ自称作家よりは其の孤独度はまだマシと云うべきなのか。

 

 

久米小百合 - Wikipedia

 

久米小百合 チャペル コンサート (Audio only) - YouTube

きよしこの夜 ~讃美歌109番~/久米小百合(久保田早紀) - YouTube

聖歌【アカペラ】とおきくにや - 久米小百合 - YouTube

Angel's Song - 久米小百合 - YouTube

 

但馬みくに教会 牧師 吉田実による「久米小百合さんとの対談:神へのラブソング」 聖書は詩編 (christ-hour.com)

 

一足早いクリスマス 久米小百合さん、NCM2 CHOIRらがコラボコンサート : 文化 : クリスチャントゥデイ (christiantoday.co.jp)

 

いよいよ今週土曜日! サンディエゴで「久米小百合・チャペルコンサート」 – NCM2 CHOIR

 

 

さて其のシュトーレンですが所謂日本風の「🍰」よりもよりシックな感じでもってクリスマス気分が味わえるものです。

要するに白い粉砂糖のかかった独逸風のフルーツケーキのことだ。クリスマス菓子「シュトーレン」とは?おすすめ品や日持ち、保存方法まで! | くらひろ (tepco.co.jp)

 

其の「フルーツケーキ」には目が無い我は常日頃よりヤマザキの「フルーツケーキ」を食って居りますが壱週間程前にイオンにて其れを発見し即食ってみたところ感動的な御味がして居た。

 

が、其れも實はタマに齧られた。

 

其の折にはほんたうに悲惨な気分であったが其れも運良く其の参分の弐程は生き残って居たのである。

なので明日また是非イオンへ行きたいところながら實は明日ミネラルフェスタ in 名古屋 (mineralfesta.info)の方へと出向く予定である。

 

そんな訳で「思想」と「食い気」と「石趣味」とでほぼ満杯の我が偽らざる今の姿である。

が、其ればかりでは無く「万年筆」の方でも實はあれこれとやって居る最中なのである。

食べることこそが元気の源ーお持ち帰りの🍱の話等ー

食べることこそが元気の源ーお持ち帰りの🍱の話等ー

 

 

 

久鐵 新瑞店 テイクアウトメニュー

 

兎に角こんな寒い毎日なのでエネルギーの補給こそが大事である。

「年末の大整理及び買い出し」に入る前に肉でも食い是非元気をつけて置きたい。

 

其処で母と相談の結果久鐵のカルビ弁当を食おうと云うことになり本日岡信へ行ったついでにすぐ近くの久鐵へ出向くと駐車場だったところに「お持ち帰り」の店舗が何時の間にか出来て居り其処にてカルビ🍱✖2を買った。

 

此のカルビ🍱は此れ迄にも何度か食して居るが今回のものは何故か非常に美味かった。

カルビ🍱は然し値段が高いと言えば高く家に取っては常に食べては居られないものである。

 

されど其の位に限定されて居ることの方が或は健康には逆に良いのかもしれない。

此れを毎日食って居るとおそらくはまた物凄く腹が出る羽目となりさうだから。

 

 

さて其の食うことはまさに哲學することと同様に現存在に於いて大事なことだ。

わたくしは常に其のやうに両面を行く人間なので食い物に関しては結構うるさい。

 

うるさいのではありますが、所謂食通の方方のやうに「~の食材だけを用い且つ其れを料理し食ってます」とかさう云う気難しさとはまた違うのである。

また有機野菜や自然酵母のパンだの其処迄意識の高い選択をして居る訳では無く結構適当である。

 

また器なんぞも其れこそ「用の美」を備えたところでの作家物の器を使う訳でも無く至極適当である。

逆に紙ナプキン数枚の上にてサンドウィッチを作り其れを食い後はゴミとして其の紙ナプキンを捨てたりなども良くして居る。

 

要するになるべく簡単な食事が好きであり何故なら食事に時間をかけると本を読んだりネットにて検索する時間が其れに取られて仕舞うからなのだ。

そんな我に取り「お持ち帰り🍱」の方が全盛期となった今はまさにパラダイスの如きものなのだ。

 

 

あさくま お弁当メニュー_直営店 (asakuma.co.jp)

 

尚肉系の弁当はスーパーなどで良くカツ丼系の物を買って来るが其れも壱ヵ月振り位に食うとまさに感動的に美味かったりもまたするものだ。

だが概してスーパーの🍱はたとえ有名店が監修したりして居るものでも結局は本格性に欠けるものなのでハンバーグ🍱やステーキ🍱の場合は其の「あさくま」の物を利用するが實は其れも半年に壱度位でのものとなる。

 

が、「あさくまハンバーグステーキ🍱」は安くてー950円ー美味いので是非お勧め出来る。

尚「あさくま」は関西方面へはほぼ進出して居ないが関東の方方は或いは御存じの方が居られるものかと思う。

 

あさくま - Wikipedia

 

其の「あさくま」はかって日進町に本店があり当時小中学生だった我我ーわたくしと弟ーは屡其処へ通って居たものだった。

と言うよりも要するに壱家総出でもって此処へ出向き其れも高級なサーロインステーキを食して来るのが我が家の樂しみであった。

 

尚其の高級なサーロインステーキだけは当時まだ生きて御座った父方の祖父や祖母もまた食うのであるが普段彼等はほとんど肉食をしなかったやうにも覚えて居る。

そんな訳で今思えばまさにさう云うことこそが👪の幸せと云うことなのだらう。

 

でもって其の高級なサーロインステーキの後に小さな「薄荷キャンディ」が貰えまた其れが妙に美味くてつまりは樂しみなのだった。

当時はほぼ半世紀前なので今のやうに食い物屋が溢れて居る時代では無くまた其の日進町自體が今より田舎だったのでつまりはそんなところにこんな洋食店があると大層御洒落なものに感ぜられたりもまたしたものだった。

 

 

其の「あさくま」を当時から牛耳って居たのが創業者の近藤 誠司氏であり此の方は體が大きくまさに豪傑肌の人で屡CMなどにも出演される如何にもパワフルな方であった。

近藤誠司 (こんどうせいじ)| 経営セミナー・本・講演音声・動画ダウンロード【日本経営合理化協会】 (jmca.jp)

まさに其の話が1970年前後のことである。

 

当時此の「あさくま」のステーキ・ディナーを何よりの樂しみとして居た名古屋人はおそらく少なくなかったことかと思われる。

 

「あさくま」の店舗は其の後八事の雲雀ケ丘ー瑞穂区の高級住宅街ーの壱角にも出来た。

また我は其処を良く利用して居たものだった。

 

特に其の付き合って居た女性と都合五度程は其処を訪れたのではなかったか。

 

其処は店舗が地下にあり他のあさくまの店舗とは異なり高級志向の店で店の入り口にはいつも御花などが飾られて居た。

結局其の店が壱番の御気に入りであったが90年代に突如閉店して仕舞う。

 

左様に此の世での全ての事象は移り変わって行く。

あらゆる価値は其のやうに不変では無い。

 

其の後「スカイラーク→ガスト」だのブロンコビリーだの兎に角其の種の「肉が食える」外食店が増えたが家の場合は矢張りと言うべきか「あさくま」が良い。

其れも南区の瑞穂区寄りに「あさくま」の店舗が30年程前に出来實は其処は自転車にて拾分で行ける処だ。

 

其の割りに其処にて「あさくまハンバーグステーキ🍱」のお持ち帰りをするのは半年に壱度位である。

其れも結局はコノミヤの方でより安いハンバーグ🍱を買って来て仕舞うのであらう。

 

 

さて先日石川橋のUFJ銀行へ寄ったついでに高級スーパーのサポーレ|スーパーマーケット|名古屋市 (sapore-nagoya.com)へ寄り少しだけ食い物を買い込んで来た。

 

【名古屋No.1高級スーパー!?】サポーレ瑞穂店の魅力とは | ナゴナビ (nagonavi.com)

 

其の名古屋人の憧れの的のサポーレですが此処はクソ高いものが多いので自分はほとんど行きません。ー家からは🚲でもって廿分で行けるのではあれー

其れと以前此処でウナギ丼を買ったら我が喉を通らず結局野良猫に全部やりましたので其の商品の全部が良いものだとは思って居ない。

 

なのですが此処に限れば矢張りチーズやパン類、さらにワインなどは確かに強いところです。

また江戸前の寿司なども種類が多くありまた数の方も多い。

 

ですが寿司は回転寿司店で握って貰い其れをお持ち帰りする方が幾分か美味いものです。

ですので我がサポーレへ行く目的とはズバリチーズとパンだけなのだ。

 

 

其のチーズが好きですが所謂妙に臭いチーズはダメで専ら英國産のチェダーチーズのファンです。

 

チェダーチーズの特徴とは?美味しい食べ方/おすすめアレンジレシピを紹介 | セレクト (smartlog.jp)

チェダー | チーズの名称 | チーズ辞典 | チーズクラブ | 雪印メグミルク株式会社 (meg-snow.com)

 

其のチェダーチーズですが先日買って來たものは大変美味しゅう御座りました。

なんとなればチェダーチーズはボロボロと崩れるところが特徴なのだが其の御品は結構クリーミイで崩れの方も少ない。

 

ですのでほとんど理想的な英國産チェダーチーズですが實は値段が弐千円弱もして居りました。

ですが巨大なチーズのブロックですのですでに可成の分を家の🐈共に食われたとは言えまだ半分は残って居ます。

 

ところがチーズは仏蘭西パンー🥖ーが無くなると白米とはなかなか合わせられぬ。

其のバゲットー🥖ーももうとっくに食っちまったのでなかなか合わせられぬ。

 

 

ですが、其の英國産チェダーチーズを電子レンジにて加熱すると何と完璧に溶けるのです。

しかも其の溶けた状態のチェダーチーズを放置すると弐、参分で固まり始め其処の半分固まった部位がまた物凄く美味くもなるのです。

 

また電子レンジにて長時間加熱すると周りの方がカリカリとなり要するにチーズ煎餅の如きものが出来る。

では其の部分を食べてみませう。

 

バリバリッ。

おお何て美味いのだ!!

 

其のやうに所謂「家庭科」の方は大変面白い。

またつまるところわたくしは其の「家事」の方が決して嫌いでは無い。

 

 

チーズを日本の食卓へ(昭和編) | チーズクラブ | 雪印メグミルク株式会社 (meg-snow.com)

プロセスチーズ - チーズの種類 | チーズ辞典 | チーズクラブ | 雪印メグミルク株式会社 (meg-snow.com)

世界のチーズの歴史 | チーズを知る・辞典 | チーズクラブ | 雪印メグミルク株式会社 (meg-snow.com)

 

「6Pチーズ」【調査ファイル 】| チーズ探偵団 | チーズクラブ | 雪印メグミルク株式会社 (meg-snow.com)

「雪印北海道100 カマンベールチーズ」【調査ファイル 】 | チーズ探偵団 | チーズクラブ | 雪印メグミルク株式会社 (meg-snow.com)

スパイス × チーズ | チーズを楽しむ・食べる | チーズクラブ | 雪印メグミルク株式会社 (meg-snow.com)

 

こんな風にチーズ壱つにせよ所謂歴史と世界的な拡がりがあり研究してみる価値があるものです。

但し國が「平和」である限りは。

 

まあ日本國の場合も學問的に深読みすればする程にむしろヤバい國であることが壱目瞭然ながら「やれるうちにやりたいことをやって置くべき」との考えを個人的に持ちますので何でもかうして調べ上げた上で「面白いなあ」とさう思って居れば良いのです。

 

バゲットの方もまたピンキリですが其れが必ずしも高級なパンである必要は無くむしろ山崎パンなどのバゲットでも今は充分に美味しくなりましたものです。

其れも僕等が子供の頃には駄菓子屋にて屡ガチガチに干からびたやうな菓子パンなどが売られて居たが今のパン類は総じて美味しくなりました。

 

 

其れでは早速サポーレにて買った石窯焼き?の高級🥖に分厚くカットされし英國産のチェダーチーズを挿み食ってみやう。

 

ぎゃああーー美味ーい なんじゃーこりゃあー!!!

 

そんな訳でかうして幾らエンゲル係数の方が上がらうとも庶民の喜びは明らかに「食う」ことにこそあるのです。

 

ちなみに自分の場合は何せかうして感度の方が鋭いので美味い物、また力を得ることの出来るやうな食い物にはもう即體が反応致します。

従って本日は其の「久鐵のカルビ🍱」を昼に食いましたが故に以降は體がホクホクして居り寒さをほぼ感じては居りません。

 

其のやうに至って現金な體にて要するに其れは此の「高尚且つ高等」な頭の中身とはまるで違いほぼ動物的なものです。

つまりは其の辺の🐕や🐈とまるで同じなのだらう。

 

 

 

今年の「第九」は合唱なし? 「歓喜の歌」に出されたイエローカード:朝日新聞デジタル (asahi.com)

 

さて其の「歓喜の歌」ーシラー作の詩ーを以前わたくしはあえて批判したことがあった。

確かに其れは「人類愛」であり「文明の勝利」を謳い上げるかのやうなものだが「人間中心主義」に傾き過ぎて居る。

 

つまりはまさにそんなことを其処にて申しました。

要するに社會の壱部が壊れて來ればもはや其処では「歓喜」もクソも無いのです。

 

故に「歓喜」では無く「美味い!」とのことだけでも現存在は充分に満足して置く必要がある。

逆に文明の営為は「歓喜」どころか「地獄の苦しみ」へと或は向かっていやあしないのか?

 

 

ですがベートーヴェンのことは別に批判しては居りません。

ベートーヴェンはあくまでベートーヴェンであり偉大な作曲家でせう。

 

だからシラーの方が「抜けてる」と確かさう申した筈です。

 

そんな訳で實は本日もまたスギ薬局にて食い物を買い込んで来たが見通しが甘く放って置いたレジ袋の中の山崎パンのフルーツケーキを参個も猫に齧られましたのです。

でもまさか其れはもう食えないでせう。

 

いやあえて食うことなどもありますが何せ汚い台所の床に落ち🐈の毛やらゴミやらが付いた其れを食う勇気のある人が果たして居られませうや?

 

そんな訳でとても充實した食の日日を此の師走に於いても我はかうして独走して居ります。

其れでは壱週間後にまたお會い致しませう。

 

 

An die Freude

O Freunde, nicht diese Töne!
Sondern laßt uns angenehmere
anstimmen und freudenvollere.
(以上3行はベートーヴェン作詞)

Freude, schöner Götterfunken,
Tochter aus Elysium
Wir betreten feuertrunken.
Himmlische, dein Heiligtum!

Deine Zauber binden wieder,
(以下2行は1803年改稿)
Was die Mode streng geteilt;
Alle Menschen werden Brüder,
(1785年初稿:
Was der Mode Schwert geteilt;
Bettler werden Fürstenbrüder,)
Wo dein sanfter Flügel weilt.

Wem der große Wurf gelungen,
Eines Freundes Freund zu sein,
Wer ein holdes Weib errungen,
Mische seinen Jubel ein!

Ja, wer auch nur eine Seele
Sein nennt auf dem Erdenrund!
Und wer's nie gekonnt, der stehle
Weinend sich aus diesem Bund!

Freude trinken alle Wesen
An den Brüsten der Natur;
Alle Guten, alle Bösen
Folgen ihrer Rosenspur.

Küsse gab sie uns und Reben,
Einen Freund, geprüft im Tod;
Wollust ward dem Wurm gegeben,
und der Cherub steht vor Gott.

Froh, wie seine Sonnen fliegen
Durch des Himmels prächt'gen Plan,
Laufet, Brüder, eure Bahn,
Freudig, wie ein Held zum Siegen.

Seid umschlungen, Millionen!
Diesen Kuß der ganzen Welt!
Brüder, über'm Sternenzelt
Muß ein lieber Vater wohnen.

Ihr stürzt nieder, Millionen?
Ahnest du den Schöpfer, Welt?
Such' ihn über'm Sternenzelt!
Über Sternen muß er wohnen.

 

 

歓喜に寄せて」

おお友よ、このような旋律ではない!
もっと心地よいものを歌おうではないか
もっと喜びに満ち溢れるものを
(以上3行はベートーヴェン作詞)

歓喜よ、神々の麗しき霊感よ
天上楽園の乙女よ
我々は火のように酔いしれて
崇高なる者(歓喜)よ、汝の聖所に入る

汝が魔力は再び結び合わせる
(以下2行は1803年改稿)
時流が強く切り離したものを
すべての人々は兄弟となる
(1785年初稿:
時流の刀が切り離したものを
物乞いらは君主らの兄弟となる)
汝の柔らかな翼が留まる所で

ひとりの友の友となるという
大きな成功を勝ち取った者
心優しき妻を得た者は
自身の歓喜の声を合わせよ

そうだ、地球上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい

すべての存在は
自然の乳房から歓喜を飲み
すべての善人もすべての悪人も
自然がつけた薔薇の路をたどる

自然は口づけと葡萄の木と
死の試練を受けた友を与えてくれた
快楽は虫けらのような者にも与えられ
智天使ケルビムは神の前に立つ

天の壮麗な配置の中を
星々が駆け巡るように楽しげに
兄弟よ、自らの道を進め
英雄が勝利を目指すように喜ばしく

抱き合おう、諸人(もろびと)よ!
この口づけを全世界に!
兄弟よ、この星空の上に
聖なる父が住みたもうはず

ひざまずくか、諸人よ?
創造主を感じるか、世界中の者どもよ
星空の上に神を求めよ
星の彼方に必ず神は住みたもう

 

歓喜の歌 - Wikipediaより

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「眞の意味での知的エリート」とは?ーオルテガの思想より考える眞の意味での知識人としてのあり方ー

「眞の意味での知的エリート」とは?ーオルテガの思想より考える眞の意味での知識人としてのあり方ー

 

 

 

《訃報》C-C-B笠浩二さんが逝去『Romanticが止まらない』で一世を風靡、近年「移動は車椅子だった」 (msn.com)

 

かうして還暦でもって死んだにせよ其れはおかしなことでも何でも無い。

むしろ人間は80迄生きるものとしてさう決め付ける先進國の常識の方こそが如何にも不自然なのだ。

 

月刊・死ぬまでに読みたい世界の名著 (38news.jp)ー「大衆の反逆」を藤井先生が解説ー

 

さて自分に取りかって社會科学の分野の空恐ろしさを伝えて呉れたのがまさに其の『大衆の反逆 - Wikipedia』と云う著作に於ける哲學的概念だった。

 

オルテガは大衆とそれを構成する大衆人の両方に対して本書を通してきわめて批判的で、「高貴な生と下等な生」を対比し、彼が大衆人の中に見出した野蛮性と原始性を非難している。

また、近代化に伴い新たにエリート層として台頭し始めた専門家層、とくに「科学者」に対しても「近代の原始人、近代の野蛮人」と激しい批判を加えている。

これは、彼がエリートと非エリートの区別を、その社会関係ではなく内面的、精神的な態度に求めていたことに関係がある。ー大衆の反逆 - Wikipediaより

 

尚其の「高貴な生と下等な生」との対比の部分はまさに今時流行らぬ考えかと思われますが、其れは確かに壱面では世の様の實相を語って居るのだと思う。

また正直申して自分は世間つまりは周囲の価値観に對し幻滅と言うか絶望と言うかそんなものをむしろ若い頃より抱き続けて来て居り要するに「何でこんなに世の中はバカなのか?」

 

とさうずっと思い続けて來ても居ました。

 

即ち我が國の文學者には限らずたとえ自殺したり気が狂ったにしたにせよ文學者の意思決定にはまず同調出来るが其の大衆の意思決定に對し元元自分は大きく違和感を感じて居たものだった。

 

まさに其のことが「みんなでもって御遊戯が出来るか否か?」と云う問題なのでもまたあった。

 

でもって結局自分には其れが出来ませんのです。

出来ませんが逆に「独りでの遊び」の方がむしろ大得意ですので特に女と別れた40歳以降はソチラの方の力ばかりをかうして磨いて参りました。

 

ですのでそも基本的にわたくしは其の「大衆社會としての民主主義體制」に對し懐疑的なのです。

では壱體どーすれば良いのかと言えば民主性も何も其れ以前に統治組織を小さくし大昔の原始共産制社會のやうなものをあえて創れば近代社會の齎す諸矛盾其れも特大としての矛盾の数数よりスッカリ解放される筈です。

 

 

またさう云うのが社會體制としての抜本的改革ー抜本的変化ーでありほぼ唯壱としての人類に取っての社會存続への鍵であるとさう考えて来ても居た。

 

要するに現代社會はむしろ其の種の大きな社會的変革の波を起こさないともはや根本的には直りゃあせぬ。

まさに其の「民主制の持続」こそが逆に社會のあり方を窮地に陥れて行って居る可能性が高くある。

 

いや民主制であれ専制政治であれ何でも良いのですが、まさに其のことを國単位での価値観がぶつかり合う場つまりはごくデカい場にて行って仕舞うこと自體が其の社會単位での矛盾の拡大へと即繋がって行く。

まずは壱つにはさうした意味での國家體制の上での不備乃至は誤りがあり其れは即近現代による「人間及び社會の拡張主義」と呼応するものでせう。

 

なので其れこそ本質的にはもはや何をやったにせよ小手先の改革では諸矛盾としての大問題は解決不能とならざるを得ぬ。

 

ですからまずは其処まで社會科の上での御勉強の方を進めた上で其処にてようやく宗教だの藝術だのと云う他の文化領域の大事さが見えて参ります。

なのですがまさに其れも御勉強を進めてこそ初めてさう認識されて來ることなのです。

 

 

でも残念ながら大衆の方方でもって其処迄御勉強される方などはまずいらっしゃらない。

要するにそんなものが好きなアホはまずどっこにもおりゃあせんがやと云うことだ。

 

だから結局僕は其のアホである可能性が高く御座りますのです。

 

なんだけれども、其のオルテガの哲學を自ら學ぶ位に徹底的にむしろ御勉強しませんと要するに其れは御勉強したことにはまさかならんのです。

なのでそも御勉強の方向性がズバリ大衆の方方の場合にはズレて居りますのです。

 

要するに實利的なものよりも此の種の哲學的な考えの方に交わりませんと現代社會の抱える矛盾の正體を見極めることにはまさか繋がらない。

よってあくまで自分の場合には細かな政策上の誤りを指摘することよりも要するに政治哲學的にまた人類史の方をも踏まえた上で社會科と云うものをそも考えて来て居ります。

 

また其れこそ其処には宗教だの藝術だのと云う心的領域としての考えなども是非盛り込んで置くべきなのだらう。

要するに理数系の学問分野が所謂数式だの化学式だので繋がって居るやうに人文學や社會科学はまさに「文系」と云う括りにて皆繋がって居りませう。

 

 

またオルテガの考えでは其の知的な意味でのエリートと非エリートの区別もまた壱般的な分け方からは離れて居ます。

つまりは其れが「社会関係ではなく内面的、精神的な態度に求め」られるものですので例えば學者であればまた宗教家であればさらに藝術家であればエリートだと言えるのかと言えば其れはさうでは無い。

 

要するに學者バカ、宗教バカ、さらに藝術バカは最終的には其の大衆其のものとならざるを得ない。

まあ其の京大の藤井先生も例えば中野先生などから猛烈に批判されて居る訳ですがでも個人的には彼は単なる學者バカなのでは無いのだと思う。

 

ズバリ申せば眞の意味での知的なエリートとは「自立的で且つ自律的な思考」を常に志しさらに融通無碍に「他分野」をも見通すことの出来る観念的な能力の持ち主のことをこそ言う。

逆に幾ら頭が良くとも所謂御用學者の類ではまさに此の現代社會が提示するところでの大矛盾であり大問題であるところでの社會的課題に對し有効な批判力を持ち得ません。

 

其の知的エリート即ち「精神の貴族」のタイプの方方はおそらくごく少ないことだらうが此の世に居られるのだと思う。

自分で自分もまた其の中の壱人かとさう思うが其れも本質的には決して其のことを威張っては居らずむしろ「イヤだなあ」とさう思うことさえもが度度ありましたものです。

 

尚「もしや自分は頭が良いのかな?」とさう思い始めたのがわたくしの場合は實は50歳位からでした。

ですが其の「頭の良い分」どうも責任を持たねばならぬやうになって居り其れでもって人生其れ自體が「御勉強の塊」化するので確かに其れがイヤにもなり易い訳です。

 

なんですがそも「世俗の欲する低俗な遊び」にはほぼ興味が無い迄にかうして知的に洗練されて来ても居ります。

イザさうなればもはや還るところは御勉強の中より他には御座りませんのです。

 

 

まあ其れもまた因果なもので其のやうなものがまさに「観念地獄」みたいなものですがでも其れがイヤばかりなのでは無くむしろ七、八割方は面白くさえ感ぜられるものだ。

 

最終的には其の大衆的な意思決定による政治の流れからまさに「寡頭制 - Wikipedia」中でも「寡頭共和制」への移行と云うことが壱つの體制上のより望ましい流れとして考えられるのやもしれません。

 

また其の「寡頭共和制」にて意思決定をリードするエリートは「眞の意味でのエリート」でなくてはならず所謂「嘘コキエリート」の類であってはなりません。

尤も其の「眞の意味でのエリート」はおそらく悲観的な考えの持ち主となることでせう。

 

其れはまさに釈迦やキリスト並みに悲観主義だと云うことです。

其の正教としての佛やまた救世主は邪教の教祖の如くに「此の世にて壱旗あげやう」などとはまさか考えてなど居られない。

 

では無くてむしろ純粋無垢に「人類を救う」ことだけを考えて居られる。

ですが邪教の教祖は其の救う範囲がまた物凄く狭くもなる。

 

要するに自分の範囲の者だけに良い思いをさせ且つ其れだけを救おうとして御座る。

だからそんなもんは所詮邪教であらう。

 

 

御釈迦様もまたイエス様ももう御自分の👨‍👧‍👧のことなんぞはまるで考えては居られなんだ。

なのに自分の範囲だけが救われると其の邪教の教祖は其ればかりを願って御座る。

 

たった今邪教の教祖共は地獄へと堕ちよ!!!!!!!!

 

ああーそんな嘘コキ宗教はイヤだ…。

 

其の邪教の教祖をたった今全否定し御勉強の日日へと戻るのだ!

 

ああああああ、此処は何処だ、わたくしは壱體誰だ?

ついに目覚めたか。

 

良かったなあ、そんな邪教から無事に抜け出せて。

いいえまさか無事ではありません。

 

かうして心に深手を負いしかも心の地獄を彷徨って居ます。

さうか、其れは如何にも可哀さうだ。

 

では汝は今後其処にて何を望むのか?

はい、わたくしめはもはや何も望んでは居ない。

 

望むものは只壱つでまさに其れが此の地球の再生です。

さうか、其れは偉い!!兎に角偉いぞ!!!

 

 

ならば是非君には「眞のエリート」としての称号を授けやう。

其れは「自称詩人」と云う肩書のことでしかも原稿料の方がゼロ円なのだ。

 

あれ、たった今居眠りから目覚めたがヤッパリさうだったのだな。

ヤッパリ僕はかうして世界に選ばれて居て神とさうして佛の言葉をこそ皆に伝えねばならなんだのだ。

 

さても自称の詩人さん、御體の調子の方は如何で?

まあ危機は脱したことでせう。

 

でも壱つ問題がありまさに其れが此の寒さです。

ひょっとするとまた灯油代をケチりストーヴを点けて居ませんね?

 

また良くぞ其れが分かりましたね。

いや此の寒さと精神上の苦悩はしかしながら良く似て居ます。

 

共にかう何と申すか明らかにキツイです。

でも其れも自分でもってさう選択しやってることでせう。

 

其の通りです。

其れもかう何か苦行のやうなことがしたくなりおそらくは年末まで此れを続ける積もりです。

 

アンタでも體を壊すよ。

いいえさうではありません。

 

其れにイエス様が味あわれた刑の執行による肉體の苦痛、また御釈迦様が體験された断食での苦しみなどと比ぶればこんなもんはまさに屁でも無い!

さうか、さうして全人類の為に自称の詩人様はたった今苦行に入られたのか。

 

いえ來週からは是非ストーヴに火を点けんとおそらくはまた體を壊しませう。

 

 

其の大衆社會に對する壱つの否定的な見方は特に今後の現代社會に取り大事な視点となることかと思われる。

なのではあれ其のことはあくまで社會が方向性として選択すべきことなのではある。

 

だけれども我我個に對しては常に壱つの課題が突き付けられて居るとも考えられやう。

其の課題とは何でも良いから「御勉強」する時間をなるべく増やして行くことである。

 

其の御勉強は「読書」することには限らずネットや對人関係などからもして行くことが可能である。

また例えば動植物から學ぶことさえもが可能である。

 

其のやうに現存在と云う實存に取り常に可能なのは其の「學ぶこと」だけだ。

また其の「學ぶ」と云う姿勢の中にこそ「眞の意味での知的エリート」としての資質がしかと認められやう筈である。

ベートーヴェンの「後期ソナタ」と寒い師走に鳥が喜んで食う🍊に就いて

ベートーヴェンの「後期ソナタ」と寒い師走に鳥が喜んで食う🍊に就いて

 

 

 

 

兎に角其の感覚と論理の統合の世界を生きるのが現存在に取りより望ましい生き方でせう。

 

だけれどもそんな両面を何でもイクわたくしにせよ其の頭の出来が良い分ハッキリ申して苦しみの方もまた大きかったのだと思う。

だから其のインテリ特有の心の苦しさと云うことは良く分かりますのです。

 

でもってどちらかと申せばまさに此処での内容も其のインテリの方方向けに整えて来て居る筈でした。

だけれども次第に其の思考の場に💩さんやら肥溜めさんやらがしかも頻繁に登場するやうになり或いは不快な思いを皆様に抱かせたことかと思われますが其れもまたかのモーツァルトなどは貴婦人の方方に對し「ウンコ、ウンコ」などと良く言って喜んで居たさうですのでまあ其れと似たり寄ったりでのことなのだらう。

 

またかのジャン・ジャック・ルソーなどは所謂露出趣味のある変態だったさうですからまあ天才的な人間と云うものはさうしてほぼ何かが壊れても居るものなのでせう。

 

さて其の藝術家の話で思い出しましたが弐週間程前に新しいPCの設置の為に部屋を掃除して居たところ幻のDVDが出て来て大層喜びました。

 

Amazon | 不滅の恋/ベートーヴェン [DVD] | 映画

 

何故ならまた是非此の映画が視たいと半年位前からさう思って居たがとりあえずは自分が其のDVDを持って居たことをすでに失念して居りました。

でもって其れは所謂モウロクしたのでは無く還暦過ぎてもかうして哲學ばかりですので常に其れに頭が掛かり切りとなり後のことはもう何も覚えて居ないだけのことなのです。

 

要するに30代、40代の方方以上に激しく頭脳をフル回転させて居ることの方が多い。

其のやうにむしろ50過ぎ辺りから所謂ものが分かって来即ち統合知の世界が開眼し若い頃とはまさに比べ物にならぬ位の哲學的な意味での思考の円熟期を迎えて参りましたのです。

 

 

ま、其のことは良しとして、問題は其の樂聖ベートーヴェンの恋愛のことでせう。

なのですが、今わたくしが思うのは彼ベートーヴェンとしての實存を其の世俗的な意味での恋愛観と云う観点から括るのはむしろ良く無いとさう考えて居ります。

 

何故ならベートーヴェンの最大の恋愛相手はむしろクラシック音樂其のものでせう。

左様に彼ベートーヴェンは偏にクラシック音樂に身を捧げ其処に殉じたのです。

 

かく言うわたくしはベートーヴェンのピアノ・ソナタの壱ファンです。

かってー廿代後半から参拾代前半にかけー所謂生其れ自體に煩悶して居たわたくしを救って呉れたのがまさに其の樂聖の音樂でした。

 

わたくしは其の頃今よりもずっとおかしく即ち苦悩が大きくありむしろほんたうに気が狂いさうでしたが其処を何とかギリギリで救って呉れたのが其のピアノ・ソナタの数数であったのだと思う。

ちなみに高校時代の親友の壱人であるSは後にほぼ気が狂い🏥へと通って居たが其の後音信不通となり今では彼の自宅もアパートに変わって仕舞いました。

 

高校生の頃は彼の家で良く山崎ハコのレコードを聴かされまた大学生の頃は麻雀を良くやって居たものでしたが彼は高校を中退したので結局大学へは行かなかった。

でも彼は理数系の出来るとても頭の良い人でした。

 

 

かように大学へは行かずとも頭の良い方は此の世に結構居られます。

でも大学へ行けば其れなりに勉強が出来其れは高校までの御勉強とはまた質が違うものです。

 

だから彼は理数系の大学へ是非行くべき人間なのでした。

でもさうして彼には其れが出来なかった。

 

また大学へ入っても中退者が結構居る訳です。

故にどんな大学であれ優等の成績で卒業出来れば其れでもって御の字でせう。ー自分はさうして優等の成績でもって大學を卒業出来た人間の中の壱人ですー

 

 

不滅の恋/ベートーヴェン - Wikipedia

 

まさに此の映画を1996年の初めの頃に映画館にて観たものと思われる。

其れも結婚する積もりだった女性と共に観ました。

 

ベートーヴェン役のゲーリー・オールドマンは元々ピアノを趣味としており、劇中でも殆ど吹替えなしで演奏したとも言われている。ー不滅の恋/ベートーヴェン - Wikipediaより

まさに其れは凄いことだ。

 

さて其のDVDは可成前に求め無論のこと視て居りますがすでに其の内容もうろ覚えですので12月中には是非視聴したいところです。

かやうに何故か此の師走になるとベートーヴェンの存在が突如大きくなり我が精神の前に立ちはだかって來る。

 

無論のこと其れは例の「第九」のこともあるのですが以前に調べましたところ別に海外では「第九」と年末とは関係が無いやうです。

但し祝い事と云うか何らかの祭典と「第九」は相性が良いと申すか大いに関係があるもののやうです。

 

 

尚昔と違い此処五年ばかりは余りベートーヴェンを聴いて居らず代わりにショパンピアノ・ソナタを屡聴き込みますのです、でも其処はどうも御免なさい。

ベートーヴェンピアノ・ソナタにも所謂「デリカシー」の部分はあるがショパンピアノ・ソナタにはより其れが感ぜられるのでさうして何だか好みのものとなって仕舞ったのだった。

 

そんなハゲでもって腹の出た63の爺こそがそんな「デリカシー」壱杯での日本人です。

尚其の我が持ってる「デリカシー」は多分女共には決して負けませんのです。

 

Amazon | 楽聖ショパン [DVD] | 映画

 

さてもこんなのもあったの?

 

Amazon | 敬愛なるベートーベン [DVD] | 映画

 

こちらも是非視たいがさう云うのに限り値段が高い。

 

Amazon | ベートーヴェンの生涯 [DVD] | 映画

 

此れが壱番良さそうだが値段は矢張り高い。

 

ちなみに周りでもってつまりは知人や親類でもって「ベートーヴェンショパンのピアノ・ソナタの鑑賞こそが趣味だ」などと言ってる気障な野郎は誰壱人居らずつまりは僕壱人だけなのだ。

 

 

要するに自分の場合は其の趣味が全部「高尚系」なんです。

もう高過ぎて高過ぎて誰も追随出来ぬ位に所謂「お高くとまった」趣味の持ち主なのだな。

 

かと言ってウンコ、ウンコとも確かに言っては居りますのですが。

また今も裏の家のきちがい老人ー多分八拾代のーがまた演歌なのか何なのかそんな下賤な歌をそれも大きな声にて歌い此の静けさに満ちた僕の心を乱して居りますやうにつまりは世間とはそんなものであり要するに其のレヴェルは常に低いと見て置くより他は無い。

 

でもってたった今「うるせえっ!!!」と怒鳴ってやったところ暫くは静かにして居るやうです。

嗚呼、さうだ、ではまたベートーヴェンでも聴かうかな。

 

ちなみにアマゾンでもベートーヴェンが聴けることを半年位前に初めて知りました。

 

Beethoven: 7. Sinfonie ∙ hr-Sinfonieorchester ∙ Andrés Orozco-Estrada - YouTube

 

其の交響曲7番の2. Allegrettoだけを屡聴き比べたりもして居る。

即ち樂団や指揮者が変われば曲もまた別物ともなる訳です。

 

【ベト7!】 ベートーヴェン 交響曲第7番・第二楽章 ヘルベルト・フォン・カラヤン ベルリン・フィル Beethoven - YouTube

 

こちらでの感じが流石はカラヤンとでも言うべきか悪くは無い。

 

 

尚藝術とはとどのつまりは其の「感じ」こそがほぼ全てです。

でも其の「感じ」からこそ藝術の眞贋を見抜くことさえもが可能なのだ。

 

まさに其れが「感じ」は正直だと言うことだ。

「感じ」即ち「感性」の部分は主に論理以外での眞實の部分を表す。

 

また其の「感性」の部分を動物達も持って居ます。

わたくしには其のことが何より分かる。

 

故にか動物達に對しては常に優しく實は彼等からは慕われ易いと來てる。

ですが逆に人間共には容赦がありませんのでつまりは「分かりにくい人」とならざるを得ぬ。

 

尚母の知り合いの華道の幹部の方が箱入りの「蜜柑=🍊」をも先日持って来て下さった。

其れでもってわたくしが果たして何をやるのか?

 

おそらく其のことを言い当てる人はなかなか居ないことだらう。

 

 

要するに其れは家の庭に來る小鳥達のエサとなります。

其のやうにわたくしは冬場にエサが乏しくなると庭の木木に果物を挿し其処へ集う鳥達と間接的な會話をすることとして來て居る。

 

だが其のある種の御節介にてわたくしの周りの動物共は決まって贅沢に慣れて仕舞いつまりは其れが逆効果となる場合が往往にしてある。

其れでも尚其のことが止められぬ我である。

 

眞の意味での心の豊かさとはさうして自然界の苦をも感じ取る能力のことなのではないか。

さう心の豊かさとは爺であるとか腹が出て居るとか足が臭いだとかさうしたマイナスの要素からはかられることでは無く他を慮る能力の有無からさう規定されることであらう。

 

師走は左様に我に取りクラシック音樂としての月其のものです。

 

 

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 第28番 イ長調 作品101 ホロヴィッツ Beethoven Piano sonata No.28 A major Op.101 - YouTube

 

其のベートーヴェンのピアノ・ソナタは此の第28番辺りからが素晴らしいものとなる。

其れが所謂「後期ソナタ」とされるものであり音樂藝術としての最高峰としての評価が与えられて居るものとなる。

 

ベートーヴェン後期3大ピアノソナタ【天才が残した孤高の音楽】 | otomami

 

勿論其の第30番、第31番、第32番がまさしく「苦悩を突き抜けて天上界へと至る=まるで悟ったかのやうな孤高のソナタ」なのだが我の場合はいつも第28番からかって聴いて居たので第28、29、30、31、32番までが其のインテリとしての精神的な苦悩をスッカリ消し去るところでのピアノ・ソナタであるものとさう考える。

 

でもって其ればかりを毎日何時間も聴き込んで居たのが20代の終わり頃から30代の初めの頃でした。

其れから廿年程が経った五拾歳位の頃に東京芸大の伊藤 わか奈さんによる地元御披露目での大演奏會が催され其処にて何とベートーヴェンのピアノ・ソナタの全曲演奏が行われたのでありました。

 

また其れは各区での文化會館ー文化小劇場ーにて行われー但しスタインウェイのピアノがある文化會館ー其のほとんどに我は出向きました。ー確か壱公演だけは飛ばして居るがー

其の様はまさに忘れられぬ素晴らしい思い出と化して居ります。

 

しかも壱公演が何と千円です。

まあわたくしにはまさにピッタリのクラシック公演であった訳でして兎に角もうわたくしは意気込んで文化會館へと出向き其の演奏を堪能して参った。

 

DISCOGRAPHY | ピアニスト伊藤わか奈 Wakana ITO オフィシャルウェブサイト

 

さてこちらに其のベートーヴェンのピアノ・ソナタの全曲演奏の折の音源から作られたCDの情報が載って居ます。

勿論其れは是非欲しい!

 

 

伊藤わか奈 ピアノリサイタル - YouTube

伊藤わか奈 ピアノリサイタル|オケ専♪ (snacle.jp)

HOME | ピアニスト伊藤わか奈 Wakana ITO オフィシャルウェブサイト

 

其の後伊藤 わか奈さんは御病気になられたと聞いたがどうやらかうして演奏活動に復帰されて居るやうだ。

尚其の全曲演奏會では無論のこと「後期ソナタ」に對し最も深く惹き付けられたものだった。

 

またつまりは其れが初めて生演奏で聴いたところでのベートーヴェンの「後期ソナタ」であった。

 

Amazon  ベートーヴェン:後期ピアノ・ソナタ集 | ポリーニ(マウリツィオ), ベートーヴェン, ポリーニ(マウリツィオ) | 室内楽・器楽曲 | ミュージック

 

あれ、こんなん出ましたがまたどうしても此れが欲しくなります。

今持って居るのは其の参拾年も前のアシュケナージによる後期ソナタ全集ですので他のものもまた是非聴いてみたい。

 

 

そんな訳で本日は「孤高としての藝術」と自然界とがモロにさうして交わるわたくしの内面世界が良くお分かり頂けたことだらうか?

要するにそんな藝術としての感度の「高尚」さばかりでは無く💩を其の侭に垂れる「動物」=自然界とも極めて近い間柄にあるのがまさに今のわたくしの偽らざる姿なのだ。

 

さて今週は結局また作文して仕舞いましたのでもう來週はどうしてもお休みにさせて頂きたい。

また色んなところへ出向き物資を揃え大掃除の続きなどもやらねばならず正直申してベートーヴェンの「後期ソナタ」どころでは御座りませんので。

本年度の哲學的概括ー概念的統括ー+日銀総裁 黑田 東彦批判

本年度の哲學的概括ー概念的統括ー+日銀総裁 黑田 東彦批判

 

 

 

 

さて其れでは「本年度の哲學的概括ー概念的統括ー」とのことで以下に其の内容を述べさせて頂くこととしてみたい。

 

 

「弐項對立の超克に就いて」ー現存在を規定する相對認識からの脱却に就いてー

 

まずは大前提として現存在と云う現象に於ける矛盾律に就き考えて置かねばなるまい。

 

1.歴史上幾多の哲學者が此の問題に就き思考を進めて来て居るがいまだ解決されては居ない命題である

2.現存在の築く文明に於ける矛盾はむしろ日増しに顕在化するに至って来て居る

3.其の社會的な課題は宗教など心の領域を扱う部分と結果的にリンクするものとなること

 

1.に就いて

かのヘーゲル弁証法から唯物史観への哲學上の流れは宗教に代わり「合理的」に現存在若しくは文明社會に兆す矛盾を如何に解決すべきかと云う挑戦であり其の答えである。

だが現存在の認識の根底には「相対概念分離」と云う弐項對立がそも居座って居る。

 

其の部分をあえて3.の観点より分かりやすく述べれば、

 

「原罪を背負う現存在=人類」

 

でありまた、

 

「煩悩を背負う現存在=人類」」

 

と云うこととなる。

 

では何故現存在=人類は左様に負債を背負う形で常に此の世に現象して居ざるを得ないのか?

何故なら其処には、

 

大脳新皮質⇔大脳旧皮質

との関係性が常に現存在=人類の認識には大きく関与して居るからだ。

 

 

さて其の大脳新皮質にて現存在=人類が手にした能力とは相対的認識能力ー相対的分別概念の獲得ーのことである。

だが所詮其の動物のNEW TYPEとしての人類が獲得するのは所謂「絶對智」=「全能智」では無い。

 

何故なら現象としての現存在は精神的ー心理的ーに常に「負債」を抱えるが故に「絶對智」=「全能智」へはまさか辿り着けない。

故に彼等に出来ることには常に「限界」が付きまとい其れが完全なる営為とはならないのである。

 

其の現存在が謂わば生まれ持った「限度」に對し「解除」を行おうとしたのが先に述べたヘーゲル弁証法から唯物史観への哲學上の流れであった。

また其の「解除」は近代と云う時代としての必然でありまた其れは兎に角良いも悪いもまた善も惡も無くむしろ是非やらねばならなかった時代としての流れでもあった。

 

まさに其の「近代システム」の構築が無ければ現存在はまさか80億もの人口世界人口 - Wikipediaを維持出来るやうにはなり得なかった。

ーすでに80億人もの人間が居るのださうだが明らかにほぼ破滅的な数字であらう。我が小学6年生の頃は37億人しか居なかったのに。ー

即ち「近代的価値」は現存在自身に取りごく自然な流れだった。

 

だが現存在の外部に拡がる「自然」に取り其の「近代的価値」は破壊者の考え其のものであり且つまさに独善的な営為である。

要は其の對立の部分こそが「近代システム」の履行を鈍らせ且つ阻止し逆に文明に對し襲い掛かって來さえもする訳だ。

 

ところが其のことは「自然」が積極的に変容し文明に對し牙を向く形なのでは無くあくまで「文明其れ自體のバランスの崩れによる過剰な欲望の履行」から其れが引き起こされて居るに過ぎぬ訳だ。

 

 

でもって先に「原罪」と「煩悩」と云うまさに宗教的な価値の捉え方其れもマイナスの観点からの価値の捉え方のことを述べた。

だが近代と云う時代はむしろ其の「原罪」と「煩悩」と云う生まれついての現存在の負債をむしろ帳消しにする方向性にて進んで來た。

 

其の結果キリスト教や佛教などの「現世利益」を求めないタイプでの宗教が伸び悩んで居るか若しくは衰退しつつもある。ー特にカトリックや初期佛教系の佛教がー

キリスト教プロテスタントや佛教でも禅宗を除く大乗各宗派は「現世利益」型の宗教へとシフトして居るものと考えられるー

 

だが我が考える正教とはまさに其の「原罪」と「煩悩」と云う生まれついての現存在の負債を認める宗教であり宗派である。

また新興の教祖を崇拝する宗教はほぼ其のほとんどが邪教であらう。

 

但し個人的に其の宗教への信仰を否定するものではない。

 

まさしく其の「原罪」と「煩悩」との概念こそが現存在の生まれついての負債の部分を表現する言葉なのだと言える。

だが現代では教師すらもがまた「原罪」も「煩悩」も何も無いのである。

 

つまりは特に我が國の学校では戦後「宗教教育」が否定されて來た経緯がありよって宗教に興味を持ち自ら學ぶか又は大學にて其れを學ぶかしなければそも其の宗教への知識其れ自體が成立する機會を失って来て居る訳だ。

 

其の「原罪」と「煩悩」との概念はそも其処に現存在に對する「限度」を必然として課す。

ところが近代と云う時代が目指したこととはむしろ其の「限度」の縮小であり撤廃である。

 

 

だが相対的認識能力ー相対的分別概念ーにはそも絶對性が付与されては居らず要するに其れは認識が不完全であると云うこととならざるを得ぬ。

すると其の不完全なる認識にいざ「限度の撤廃」=「全能性、全知としての力」を与えて仕舞うとしたら果たしてどうなるのか?

 

其れは誰が見ても分かることながらまさに其処に「暴走」を引き起こす訳だ。

つまりは其れが「文明の暴走」のことである。

 

大脳新皮質⇔大脳旧皮質

其の新皮質の発達とは抽象的思考力を持ち得る生命の段階のことである。

 

對して旧皮質の方では本能的で具象的な感覚の力に頼り主に活動が営まれれて行く。

即ち、

 

抽象的思考力⇔具象的感覚力

となる。

 

まさに其の抽象的思考力が特にーそれも圧倒的にー優れて居るのが現存在としての生まれついての資質である。

だけれども、あくまで其の抽象的思考力が全能的なものと化す訳ではない。

 

何故なら現存在はむしろ容易に🐅や🐊に食われる。

其のやうにイザ「自然」の土俵に立てば考える暇などは無く即食われる。

 

要するに其の場に暇などは無い。

其の「暇」が出来たのは多分🐵位からだらう。

 

其の🐒の野郎もまた現存在の前段階での可成に厄介な奴等で動物としてはなまじ頭が良いものだから兎に角ずる賢い。

 

此処からも、

抽象的思考力⇔具象的感覚力

 

の優劣は其の発現の「場」に於いて相対的に規定されたものであることが良く分かる。

ならば「近代」と云う価値ですらもが所詮は「場」に於いて相対的に規定されたものであることが了解されやう。

 

 

要するに以上で壱體何を述べて居たのかと言えば「現存在の認識の形式にはそも限界があり」其れは猛獣にすら勝てないやうなもので極めて不完全なものとならざるを得ずにも関わらずまた何で近代的価値は其れを「限定解除」=解放?したのかと云うそもそもでの疑問の部分である。

 

だが幾らさうして疑問に見えやうと其れ無くば確かに現行の人類の大繁栄などは無かった。

 

さて其の、

抽象的思考力⇔具象的感覚力

ー理性VS本能ー

 

との對決乃至は其の對決より生ずる矛盾に對し効力を有するのが所謂「直観的認識力」=「般若智」のことである。

個人的に「般若智」とは上記の弐項對立を「全體論」として見詰めたものなのではないかとさう考える。

 

ちなみに我は其の「般若智」的な直観力が強く働く人間である。

現に本日書いて居ることの内容は、

 

2022年の12月16日即ち本日の午前六時頃に突如目が覚め、其処で直観の部分が働いたので其れを便箋四枚に万年筆にてびっしりと書き留めたメモを元にしつつかうして書いて居るのである。

でもってさう云うのが何故か大得意なのでまさか普通だとは言えないのだが其れもあくまで気が狂ったりして居る訳では無いのである。

 

其の「直観」とはむしろ主観的な意味での所謂「デタッチメント」なのでもまたあり得やう。

即ち所謂「脱構築」的な意味でのマイナス領域への価値への近接をも含む概念的な価値ヒエラルキー消去としての作用のことである。

 

よってむしろ感覚的には「脱論理」の部分をも其れは包括する。

 

 

抽象的思考力⇔具象的感覚力

ー理性VS本能ー

 

其処では要するに其の弐項對立の極の双方を同時に見詰める感じである。

なので其処にはもはや抽象的思考力により「構築」された価値及び価値ヒエラルキーへの洗脳作用すらもが消え去って居る。

 

逆に具象的感覚力が抽象的思考力を抑え優勢になることすらある訳で要するに両者間の優劣がすでに定まらず其れこそ融通無碍にどちらをも行ったり來たり出来る訳だ。

だが「直観」其れ自體に認識の「全能性」が付与されることは無いとわたくしは考えて来て居る。

 

「直観」とはあくまで現象に於ける認識上の統括であり其れが即神乃至は佛の認識と等しくなるものでは無いが但し其れは神乃至は佛の認識と連なるものであることはほぼ間違い無いことである。

 

其の「脱構築」的な意味でのマイナス領域への価値への近接はかねてより古いタイプでの亜細亜の思想に見出されて來しものだ。

所謂「ZEN」にせよ「老荘思想」にせよまた「古代印度の解脱思想」にせよまさに其の「デタッチメント」での思想のあり方だったのだと言える。

 

また西洋哲學に於いても20世紀の後半よりポスト・モダンやポスト・モダン以降の思想的な流れとしての其の「デタッチメント」での思想のあり方が模索されて來たのだと言って良いことだらう。

従って近代哲學はむしろ弐千年程も遅れて次第に東洋思想的な流れを身に纏いつつもある訳だ。

 

我が哲學上の師ー哲學の上での心の師ーである「梅原 猛」先生などは屡其の近代哲學批判を展開されて居たものだった。

また我は先生の講演會へも弐度程参加させて頂いて居る。

 

但し「梅原 猛」先生の批判はあくまで哲學者としての西欧近代に對する批判であり所謂馬鹿右翼がニッポン、ニッポンと日本ばかりを持ち上げ叫んで居る様とはまた大いに違う。

 

 

西欧近代型の発展⇔東洋ー亜細亜ー的発展

 

其の両者はそも違う性質での文明のあり方である。

其の違いの最も分かり易い部分とは、

 

非限定的発展⇔限定的発展

 

とのことであらう。

 

さうしてとどのつまりは「限定的発展」にて近代を成立させられたかと云う問いへと其れが集約されて来る。

無論のこと其れではおそらく近代を成立させられはせなんだことであらう。

 

だけれども「江戸時代」位のことであればむしろ無事に続いて居たことかと思われる。

ならば世界中がむしろ「江戸時代」を是非やるべきだったのか?

 

まあ其の江戸ではああして花見も出来たし寿司も食えさらに芝居の見物なども出来たのでむしろ今より良くはないか?

第壱江戸前の握り寿司なんぞ今や高級品でありなかなか食えないぞ。

 

たまに寿司を食ってもいなり寿司ばかりで何だか知らんが何処か貧乏臭いのだ。

其れに寿司は30年後には食えるかどうかもはや分からんぞ。

 

 

だから今のうちにイチローへでも出向きしこたま寿司を食っておくべきだ。

ところでイチロー本人はイチローへ行き寿司を食ったことがあるのでせうか?

 

うーん、其れはまた大問題だな。

まさに其れは幾ら考えても分からず本人さんしか知らないことだ。

 

 

さうしてようやく西洋の哲學で「デタッチメント」が語られ始めたところへ「リーマンショック」だの「911テロ」だの「コロナ禍」だの「露西亜ウクライナ進攻」などが勃発したのだった。

 

ではどうすりゃ良いの?

まずは日銀の意思決定を正さんと日本の貿易収支の方も破壊されて仕舞うのではないか。

 

貿易収支(日本)の推移とグラフ(輸出額・輸入額のチャート) (stock-marketdata.com)

2年ぶり貿易赤字が意味するもの...円安加速→収支悪化→さらに円下落の「悪循環」、貿易赤字拡大は避けられないのか?: J-CAST 会社ウォッチ【全文表示】

 

コラム:「成熟した債権国」としてのマクロ政策はどうあるべきか=唐鎌大輔氏 | Reuters

■富裕層である

■買い物をほとんどしない

■庶民の気持ちを知らない

日銀総裁・黒田東彦の経歴は?家系や年収がすごいのに無能と言われる3つの理由!|ひまわりさんさんブログ (himawari-nagano.jp)より

 

黑田もう早う終わって呉れ、頼む!!日銀黒田「この円安は悪い円安」 うるせえお前のせいだろ死ね [879622555] (5ch.net)

 

死に体「黒田日銀」に襲い掛かる〝日本売り〟の大波 | ZAITEN(ザイテン)過激にして愛嬌ありの経済情報サイト‐財界展望新社

日銀「黒田敗戦」で財務省管理の目論見 | ZAITEN(ザイテン)過激にして愛嬌ありの経済情報サイト‐財界展望新社

 

またeBayでももう高い物が買えんので送料込み千円の中華万年筆だけを壱週間程前に即決して置いたところだ。ー安い物だけはこんな円安でもまるでへいちゃらだー

兎に角午前中にNHKの「世界のトップニュース」を視て居ると世界中がすでに経済的にボロボロのやうだ。

 

であるからこそ逆にこんな「世界の動向」や日銀の黑田=👿などには振り回されたりせず自己の認識の範囲をこそ是非正して置くべきだらう。

 

 

個⇔社會

 

さて其処にはそも「相剋」し且つ「相即」する関係性が認められる。

我が論理では「相剋」し且つ「相即」する関係性を保つやうにすることこそが「理性」としてのバランスを保つと云うことである。

 

尚所謂「感覚」はむしろ「構築」をせずー其の場にて終わるー、逆に「概念」は普通「構築」を伴う。

即ち概念的規定は「価値ヒエラルキー」を築き易い。

 

また「個」を例えば感覚主導のものとすると逆に「社會」は概念的規定ー概念的秩序ーに凝り固まり易い。

だからと言って感覚の方が概念よりも上だとさう申すのでは無くより罪が少なく煩悩が少ないのが「感覚」の方だと云う話であるに過ぎない。

 

 

また自然界の生物ー動植物ーには基本的に「罪」だの「煩悩」だのが生じて居ない。

其れは要するに天然での神や佛の方により近い現象なのだ。

 

かってわたくしはまさに其の理を山の中でのトレッキング中に直観し愕然としたものだった。

自然はさうして直感力の賜物ながら謂わば其れが自然の内なる欲望だけなので要するに「罪」だの「煩悩」だのの比率が極小さい。

 

對して現存在の其れも組織のいや文明の持つ「罪」だの「煩悩」だのは其れこそ幾何級数的に其の罪がデカくなるものと相場は決まって居るものだ。

 

尚自分はいつもの「限定論」と共に「分離論」なるものを屡直観などしたりもまたして居る。

即ち現存在の實存とは「弐重分離」での産物である。

 

即ちまずは、

 

自然其れ自體が「分離」であり、

 

其れに加え「自然」がさらに「分離」したのが現存在ー文明社會ー其のものなのである。

よって自然は神や佛其のものには決して重ならない。

 

要するに自然自體がすでに「失樂」して居り故にどうあがいても「樂園」其のものとは重ならない。

だがまずは同様に現存在ー文明社會ーもまた失樂して居る。

 

 

おまけに其の後脳が過剰に発達したことで「相対認識力」をも獲得した。

でも其のことは逆に申せば弐重に分離されて仕舞って居るのだとさう言えないこともまた無い。

 

なので無論のこと生きる上での能力は其れこそ恐るべき力を文明は持つのである。

なので🚗や🚢や✈も造れば🚀さえ持って居て其れにて宇宙迄へも行って仕舞う。

 

なのだがどうも現存在其れもホモ・サピエンスの認識が社會的に過ぎる要するに皆が御仲間であり藝術家ー其れもアノTAROさんーのやうな激しい文明への批判力を持ち合わせては居ない。

 

さうして現存在は多くを「持って居る」のに結果として何も「持って無い」。

確かに其の「相対認識」の度だけは凄いが其れが齎すところでの価値ヒエラルキーに深く毒されむしろソコにこそ嵌まり込んでかうして身動きが取れぬ訳ではないか。

 

なのでもうそんなもんは宇宙の「肥溜め」にでも落ちた状態其のものだらう。

だから壱刻も早うソコから這い上がりちゃんとシャワーを浴びた上で白装束にでも身を包み寺か教會へと是非出向くべきであらう。

 

 

兎に角其の認識上のバランス化こそが急務である。

其の認識其のものをバランス化するには所謂「脱構築」型での価値認識をあえてして行かねばならぬことだらう。

 

要するに其れは虚偽の価値構築としての相対認識から眞理認識としての絶對的価値観への近接と云うことをまずは大本での哲學として図らねば現存在の認識に於ける未來への途は悉く閉ざされやう。

 

尚壱神教に於ける神の認識は絶對ながら佛教に於ける佛のあり方は其れが絶對のものだとは實は言い切れない。

何故なら佛教に於ける佛のあり方は其れが絶對のものとはなり得無いからだ。

 

其れをもしも絶對化した途端にむしろ謗法化して仕舞うのであるから。

故にだからまさに浄土教のやうなキリスト教的な救済宗教や日蓮宗の如き末法の御本佛を宗祖に据える不可思議な佛法が罷り通るやうなこととなった訳でありまた其のことは時代の必然だとしか考えられない訳だ。

 

兎に角其のやうにまずは明晰なる知恵の力でもって世の中の全てのことを見据えた上で現存在であることを自省してみる必要がある。

まさにさう云うのこそが自立的な判断であり自律的な思考だとさう言い得るのではなからうか。

生きることの生臭さからは是非離れて居たいだけでの師走の壱日

生きることの生臭さからは是非離れて居たいだけでの師走の壱日

 

 

 

さて本日は医者とスーパーへの買い物へ行き午前中忙しかったので午後よりGABANのシナモンスティックを引っ張り出しティータイムを愉しむこととしてみた。GABAN®の想い | 株式会社ギャバン

 

ちなみに自分は所謂「ニッキ物」が好きである。

ニッキアメ | 春日井製菓 (kasugai.co.jp)

 

 

シナモンスティックは弐年程前のものだが別に腐ってなどは居ない。

其れをまずは珈琲に入れてみた。

 

するとまさに別物に変わったのである。

 

次に烏龍茶に入れてみたところこちらもまた香り高くなり至極良いではないか。

また無論のこと紅茶などにも合うことだらう。

『シナモンスティック』ってどう使えばいいの?押さえておきたい注意点も!(オリーブオイルをひとまわしニュース) (line.me)

 

また自分は其のシナモンスティックを食うこともまたあるので大丈夫かと思い以下にて調べてみた。

 

ニッキ飴の中毒性は?副作用、効能、1日何個まで食べていいのか徹底解説 (teraschool.jp)

 

どうも其れは余りやらない方が良いやうである。

兎に角そんなスパイス系のものが好きである。

 

またハーブ系の植物が公園や家の周りなどに置いてあるとどうしても其の葉を揉みしだき香りを嗅いで仕舞う癖がある。

ハーブ系の植物に限らず道端にて🌸の香りを嗅いだりもまた良くして居る。

 

おそらくはさう云うところこそが所謂普通の男性とは違うところなのではないか。

要するにそんな部分に限り感度が良くまた其のことを壱言で言えば何処かしら感覚的な軟派なのだ。

 

要するに感度即ち受け取り方が妙に細かいつまりはデリカシーの部分が強くあるのであらう。

であるから所謂「ガーデニング」などにも強く興味があるが家の場合は日本風の庭なので其処で愛でる樹木などはまた洋物とは違って来る。

 

たとえば今南天の赤い實が庭の所処で色鮮やかに生って居る。

 

 

南天(ナンテン)の花言葉|種類や実の特徴は?縁起の良い意味がある?|🍀GreenSnap(グリーンスナップ)

南天(ナンテン)の花言葉|実がなる季節や種類は?葉には注意!? - HORTI 〜ホルティ〜 by GreenSnap

 

其の南天の赤が兎に角毎年此の時期になると美しい。

と云うよりも其の赤い色を樂しんで居られるだけの心の余裕を持つことが素晴らしい。

 

たった今さうして自然の様は世界中でもってむしろ素晴らしい。

其のことと鮮やかな対比を成して今わたくしにドス黑く感ぜられるのが現存在の認識に於ける壱種の低級さであり自然に對する傲慢さである。

 

即ち其の認識がそもデリカシーを欠くやうなものにわたくしには思えてならない。

かうして認識が常に両義的な我は其処でもって言わば両面を見ている訳である。

 

即ち論理と感度の双方を同時に生きて居るのである。

だから論理の面からもまた感度の面からもかうして外部を批判することは容易い。

 

 

だが外部を批判することで疲れて居るよりは美しい物と戯れ限られた時間を有意義に過ごすことの方が人間に取ってはより望ましいことなのではないか。

 

従って今のわたくしに取り社會のあり方などはむしろどうでも良いことなのだ。

社會が歩む其の方向性が悪ければむしろ必ずや其の過ちへの報いが何時か下ることだらう。

 

 

さて現存在に取りある種大切なのが美しい物と戯れることの出来る時間である。

また其の時間は意外となかなか得られるものでは無い。

 

特に「大志」を抱いたりして居ると其の「大志」の為に其れを使い切って仕舞う。

故に「大志」などはもはや何処にも要らぬ。

 

むしろ要るのは「小志」だけだ。

其れも余りにも小さい現實の様なので誰もが其のことを気に留めずいや其れ以前に其れに気付きすらしない。

 

だが我が實存に取り其の「小志」だけが何処までも大事である。

即ち午後にシナモンティーやシナモン珈琲を飲み赤い南天の實の色に酔う心の余裕こそが最も大事なものだ。

 

其の大事さは「人類の宇宙進出」や「核融合エネルギーの恒常的利用」や「AI開発」などよりも壱段階上でのものである。

何故なら我は決して其れ等のことを望んで居るのではないのだから。

 

また「意識が高い系」の方方が田舎へ移住し古民家に住み有機野菜を食し質素な暮らしをすることなどともまた少し違う。

まあ正直其れがやりたいがやりたくてもやれない。

 

要するに其のシナモンティーやシナモン珈琲を飲み赤い南天の實の色に酔って居るだけでむしろ良い。

そんな訳でどうも自分は明らかにヘタレ気味なのだが其のヘタレの具合がまた多義的でもあると来てる。

 

其の「小志」の部分が積み重なると實は宇宙まで行って仕舞う。

即ち宇宙へ行くのは御免こうむりたいのだけど宇宙を見るのはむしろ大好きなのだ。

 

 

創造の柱ー1

創造の柱ー2

創造の柱ー3

創造の柱ー4

創造の柱ー5



こんな宇宙の様を見て居たら何やら其れが石のやうにもまた見えて来た。

 

さう宇宙とは畢竟光が織り成す「現象」のことで石はまた特に💎は光が織り成す同じ「現象」なのである。

 

 

 

そんな訳で「生きることの騒々しさ」から独り隔たり美に感じ居ること程我に對し幸福を齎して呉れる時間もまた無い。

 

「ギャアーーーグオオーーー」

うるさいわ!もう静かにおし!!

 

そんな生きることの生臭さからは是非離れて居たいだけでの師走の壱日だった。

自然とは何か?ー人文の徒としてのAIとの對決 壱ー

年末臨時特集 人文の徒としてのAIとの對決

 

 

 

 

水木一郎さん、亡くなる3日前配信「マジンガーZ50周年特番」事前収録で「ゼーット」 (msn.com)

【訃報】俳優・佐藤蛾次郎さん死去・78歳 自宅の風呂の中で見つかる 「男はつらいよ」出演 (msn.com)

 

まあ70代でも皆かうして死んじゃいます。

人間の寿命が延びてると云うのは単なる幻想ですので皆様是非考え直して置くべきでせう。

 

ヘンリー王子夫妻が「宣戦布告」=ネトフリ番組で王室批判―英 (msn.com)

 

此の問題などもまた面白さうだが壱つには立憲君主制がおそらく限界を迎えつつある可能性がソコには高くあらう。

其れも立憲君主制其れ自體が悪いと云うのでは無くおそらく現代と云う時代に其れがそぐわないのだらう。

 

 

「人類滅ぼす」発言のAIロボット、今度は「○○が欲しい」と発言し物議に | おにぎりまとめ (eternalcollegest.com)

AI人類殲滅のシナリオを世界の権威に聞いたら想像以上に怖かった | ギズモード・ジャパン (gizmodo.jp)

 

さて本日は其のAIの問題を人文詩人がどう解釈するかと云うことに就き解説させて頂く。

でもってしてまず其のAIの問題は基本的に不要不急の問題であると自分は捉えて来て居るのだ。

 

其の理由

1.AIは電源からコンセントを引っこ抜けば動かない=ほぼ死んだも同じ

2.AIは合理領域に特化した単なる物

 

1.に就いて

 

事實上現代文明が電気を使わなくなることは考えられない訳ながら今後の展開其れも自然現象からの限定に對し文明の諸機能は次第に不完全となって行かざるを得ずよって文明の諸価値の大幅な制約を余儀なくされて行くことだらう。

まさに其のやうに次第次第に其の文明による拡張主義に對する歯止めが其れも自然界より齎されると云うことだ。

 

其のやうな状態で人類はまだAIなどの人工物に頼るのだらうか?

従ってAIを使えない状態へと今後半世紀のうちに戻るとまず我は考える。

 

特に2050年辺りからは世界人口の増加と生態系の破壊による「飢餓」の問題こそが深刻化して来る。

いざさうなれば其処ではすでにAIもクソも無い訳だ。

 

よって人類が抱える問題の本質とは其のAIの問題ー科学技術の野放図な進歩ーなのでは無くむしろ物理的な地球の破壊であり且つ其のことによる文明の限定の問題である。

其れはむしろ自然VS文明ー人類ーの問題でありまた其れを集約すれば現存在が何故地球を破壊するに及ぶのかと云った哲學上での問題となる。

 

即ち科学的論議の多くがまさに其の人間存在としての「限定」性に就き正しく向きあって居らずむしろ其の「限定」性を外した上でつまりは現行の文明の営為が続くと仮定した上での論議となって居るがまずは其の認識こそが甘いと言うものだらう。

要するに現存在なんぞはまさしく吹けば飛ぶやうなもので「自然」に睨まれれば即終わりであるとの認識こそがそも其処には欠けて居るのだ。

 

まずは其の点がまさしく「文明ー人間共ーの思い上がり」の部分なのである。

 

 

2.に就いて

 

其のAIはそも生きては居ない。

生きては居ないものは単なる物である。

 

また石などもそも生きては居ないので単なる物である。

なんだけれども其れは自然物なのでAIなどとはそも違う。

 

其のAIに電気を流すと確かに将來は「超知性」となり神的な能力を獲得して行く可能性は高くある。

だが先にも述べたが将來科学者さえもが飢えるやうな状況で果たして誰が其の「超知性」に電気を流すのか。

 

要するに現在AIに於いて論議されて居ることの根拠となって居ることだらう「文明に對する全幅の信頼」其のものに我の場合は大きく疑問を持つ訳だ。

詩人が今所謂「直観」することで感ぜられて居る地球の危機とは「文明による自身の破壊」其のものでありむしろ其れは『自滅』と云うことなのだからして。

 

さて其の「超知性」化したAIは所詮嘘の神である。

なんとなれば其れは電源からコンセントを引っこ抜くと物化するまるで石みたいな奴だからなのだ。

 

 

AIは敵か(上)石黒浩教授の確信「やがて宇宙戦争が始まる」:日経ビジネス電子版 (nikkei.com)

 

さて其の大阪大學の石黑はキチガ〇なんじゃないかと我は以前何度か此処でも取り上げて居た筈だ。

但し此処でスイッチを切ればAIは終わりだとさう述べて居る部分はあくまで正しい。

 

ー石黒氏:より強い者を残すためには、生存競争が必要だと思います。その大規模なものが戦争だと思います。昔は隣の村と戦っていたのが、隣の藩との戦いとなり、そして国家単位の戦争となりました。そして将来、地球上で奪い合う資源がなくなれば、宇宙に進出するはずです。ーAIは敵か(上)石黒浩教授の確信「やがて宇宙戦争が始まる」:日経ビジネス電子版 (nikkei.com)

 

だがさう云う思想は屡右翼馬鹿が述べたりするまるで「幼稚」な思想であるに過ぎない。

どだい其の「より強い者を残す」考えに今凝り固まって居るのはまさしくアンタの頭の中身であらう。

 

まるで同じやうなことを近現代の進歩主義がさう言う。

「より速く より高く より便利に」だとか何とか。

 

だがさう云うのはあくまで詩人に取り「幼稚園児」位の理性レヴェルでのものでしか無い。

 

じゃあさう豪語するアンタは果たして何を人類の社會が目指すべき価値の理想だと捉えるのか?

其れ即ち自らの知恵にて「限定」し神か又は佛の御導きに従いつつ自然と共に生きることこそが人類の社會の理想としての価値観である。

 

また自然科学者は屡「文明の宇宙への進出」に就き述べまた其れはかのホーキング博士なども其れに就き語った案件だがしかしながら其れは如何にも「合理主義に頭を毒された」可能性が高い考えなのだと個人的にはさう考えざるを得ない。

 

對する根っからの文系人間は考えの方其れ自體が合理領域に特化して居らず要するにあくまで地球上での現實を見詰める力にはむしろ長けて居る。

よって宇宙もクソも無く要するにさうしてのべつまくなしに「増える現存在」であり同様にのべつまくなしに「自然を破壊」するに至る現存在であることこそがむしろ壱番の問題なのであり其れは合理領域以前での心のあり方の問題であるつまりは倫理観や道徳観念の欠如の方での問題だらう。

 

 

科学者が懸念「人類滅亡を招きかねない」2つの事 | 先端科学・研究開発 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)

 

即ち理系での頭の使い方と文系での頭の使い方がそも違うと云うことをこそ我は今此処にて是非述べて置きたい。

尚自分は意外と持ってる偏差値の方が高くは無いのですがとりあえずは高校の文系弐クラスでもって現代國語の成績は常にトップでしたので単なる馬鹿では無いのです。

 

また哲學的な考え方に對してはおそらく瑞穂区壱に強いことだらう。

其れもまあ日本壱だとはまさか申して居りませんのですが…。

 

AIは敵か(下)「人類は滅びる」英オックスフォード大哲学者の憂鬱:日経ビジネス電子版 (nikkei.com)

 

面白いのが其の哲學者であるニック・ボストロム教授が「超知性」は極端化するとさう此処にて断言されて居ることでせう。

 

其れ即ち、

超知性=合理領域の極大化⇔超おバカ=非合理領域の極大化

のことである。

 

つまり其の「合理領域の極大化」=超利口な部分には「非合理領域の極大化」=超おバカな部分がかうしてちゃんとセットになり仕込まれて居ざるを得ない。

なのでつまりは其の「クリップ」の無限の生産のやうな御話ともならざるを得ない。

 

つまりはまさに幼稚園児でもやらないやうなことを其の理性的なバランスを欠くAIが何故かやっちゃう訳だ。

だからAIなんぞは幼稚園児以下だと我は以前よりさう述べて来て居るのだ。

 

要するに其の「理性としてのバランス」を崩し合理方面へと異常に進化させたものこそが其のAIとしての本質であり正體です。

尚其の理性としてのバランスとは、

 

合理的理性⇔非合理的理性

ー分析的理性⇔非分析的理性ー

のことである。

 

人文學は主に右側を対象として論理の考究に至るものである。

よって特に文學の分野に於いては、

 

おおまさに「大宰のやうなドロドロの心中」又は「安吾漱石のやうな半分発狂」また「三島の右翼自決」の如き滅茶苦茶が入りませうが其れはあくまで人間味の壱つなのですから。

 

エエッ?

あんな文豪共のハチャメチャ振りが所謂「人間味」なので?

 

だってかうしてみんな「人間なの」ですもの。

 

 

まあ然し文學の酷さの方もまた困ったもんです。

ですが實は其れ以上に「困ったちゃん」なのが實は合理領域に特化した技術開発の領域だらう。

 

であるからこそ技術開発の領域を「限定」し要するに其れを「自然破壊への対抗策」としてのみ使うことこそが特に今後はより望ましく思われる。

ちなみに我は其の「技術開発本部」なる処に13年間勤めて居た経験を持つ。

 

其れも其の研究開発とはまるで違う単なる下っ端での仕事ではあったが兎に角長きに亘り其の様を見聞きして来ても居る。

其処では其れこそ「燃料電池 - Wikipedia」だの「生物工学 - Wikipedia」の分野での研究開発が無論のこと行われて居たのだった。

 

 

さて以上により我は壱つの提言をさせて頂いた積もりです。

 

まさに其れは、

「AIにより人類が滅ぼされる前に人類が自然により滅ぼされる」可能性の方がむしろずっと高くあると云った部分です。

 

即ち本來自然は人類に取り「愛」其のものであるべきものだ。

しかしながら其の「合理領域に特化」した思考が其の「愛」を脇へと押しやり其の代わりに「合理的な特化物」を其処に無理やり嵌め込んだ。

 

するとどうなりますか?

 

「合理的な特化物」即ち加工物の群れと化した文明はむしろ悉くに自然との離反であり背反の過程を生じて行かざるを得ない。

現在現代文明が抱える問題の本質部とはまさに其のことにこそ尽きて居る訳だ。

 

また其のことを根本の部分で即ち抜本的に変えやうとするのであれば「合理領域への特化」を抑える=「限定」することでしかもはやあり得無くなる。

 

 

合理的理性⇔非合理的理性

ー分析的理性⇔非分析的理性ー

 

其の合理的理性領域では元元其の考えが壱義的に過ぎる。

逆に非合理的理性領域では元元其の考えが多義的に過ぎる。

 

其のバランスを取ることこそが人知に於ける眞の意味での理性の働きである。

また其れ即ち其れがやれて居ないので誰が何を言っても幼稚園児並みでの結論しか導き出せませんのです。

 

じゃあ人文詩人さんの言うことだけが正しくて文明はほぼ全部がバカなのか?

でもさう云う論理は屡精神科で入院する人達が良く言って居たりする論理ではないか。

 

あー、また自称詩人をさうしてバカにしたあ。

こんなにけなげで可愛い詩人さんをさうしてコケにしたあ。

 

でも自称の詩人はね、かの加島 祥造先生や養老 孟司先生の御弟子さんなのだ。

ほーれまた嘘をコイた。

 

そんな嘘コイてどうも御免なさい。

何せ御墨付きの部分が何処にもありませんものでつい…。

 

 

であるからして結局は「自然」VS「文明」のことがむしろ現存在即ち人類に取っての喫緊の課題であらう。

 

さて最近わたくしが良く思うのは本來「自然」は恵みを齎す神だと言うことである。

されど其の神をまさに暴虐なる破壊神に変えて仕舞うのもまた人間の営為=文明の営為によるものなのだ。

 

さうして其の変化とは畢竟人間の認識=文明の認識がさう変えて行って仕舞うものなのだ。

其れもより正確に述べればまさに其の認識としての方向性の誤りから文明其のものを自然に對する破壊者へと変えて仕舞うとのものだ。

 

故に自然に對する破壊を即刻止める為には文明の目指すところでの価値観を180度シフトして行く必要が是非ある。

其れ即ち「人間ー文明ーの為に自然を改変する」思考ー思想ーから「自然の為に人間ー文明ーを改変する」思考ー思想ーへとシフトして行かねば文明の未來はやがて途絶えやう。

 

 

「わたしたちーがーのーぞーむものーはー社會のためのーしぜんではなくー

わたしたちーがーのーぞーむものーはしぜんのためのー社會なーのだあーーーー!!」

 

※作詞者ー自称詩人

 

まあこんな年末までバカ文明と付き合ってるとまた可成に疲れます。

なのでまた自宅の捨て石の鉱山より石を掘り出し其れを今洗って居たりもする。

 

と申しましても其れは石では無くガラス片なのだが見やうによっては石のやうにも見える其の表面がすりガラス状になった5センチ程の物である。

其れもまた相生山にて壱年程前に拾った物であり人工物と気付いてからはずっと庭に捨ててあった物なのだ。

 

されど奈良時代とかそんな頃には其のガラスこそが高級品であり要するに御宝だった訳なのでひょっとすれば此れもまた御宝のやうなものなのやもしれぬ。

そんな訳で其れは今手元で鈍い光を放って居る。

 

 

だけれども其のAIにはそんな實存としての壱つの物語が感知出来ぬ訳なのであくまで其れは単なるゴミのやうなものとしか認識することが出来ぬことだろう。

所謂合理化の無味乾燥な部分とはまさにさうしたことなのである。

 

其の合理化を何処までをも推し進め挙句に宇宙領域まで拡張することの愚を此の際詩人はしかと此処に述べて置きたい。

現代文明に必要なこととは其の合理化領域の拡張のことでは無く逆に其れへのCUT OFF=「限定」である。

 

まさに其れが其のゴミを御宝として見られる迄に豊かな人文的感性を育むと言うことなのだ。

其の人文的な感性ー又は宗教的な感性ーはさうして地獄を天國へと変える働きさえをも持つ。

 

ならば何で文豪がああして皆死んでるのか?

だから文豪はきっと皆甘かったんだ。

 

要するに原稿料が如何にも高過ぎたんだ。

だから原稿料の相場でもって理想的なのはむしろゼロ円だらう。

 

…君がさうだよね、確か。

はい、残念ながらわたくしの原稿料はたった今ゼロ円です。

 

 

でもさうして原稿料にも拘らずまたゴミをも御宝の壱つと思う其の心こそが非合理主義者としての価値観であり認識なのだからして。

…そんなゴミと壱緒に毎日寝てろ、バカ詩人!

 

おや酷いことを仰いますが其れではアナタは其の宇宙への移住浪漫とやらと心中でもなさる御積りですか?

そんな空気も無く重力も変な他の惑星へ行き👽としてやって行く御積りですかアナタは?

 

でもわたくしの場合は地球が滅びるのと運命を共にする積もりで御座ります。

 

地球が壊れたーーーーーー!!!

と同時に、

わたくしも壊れたーーーーーー!!!

 

あくまでそんな運命共同體ですので宇宙なんぞには壱歩も出ません。

自分はあくまでかうして地球上で是非石を撫でつつ此の生涯を終えたい。

 

 

其のAI開発は合理化としての極のものだらうがかっての文豪達の自死などは非合理化の極での現象だったと考えられるのやもしれぬ。

要するに極へと偏り過ぎるとまともな認識とはなりません。

 

或いは其のことにより「愛」を失うのやもしれません、其の自然より我我現存在に對し差し伸べられた愛のうてな其のものを。

 

「自然」VS「文明」の問題は言うまでも無く人類に取りあくまで究極の問題です。

其処には常に根本のところで価値の對立、価値の齟齬が生じて仕舞って居る。

 

わたくしが言いたいこととは其の本質部を抜きにしてAIの問題を語ることなどは出来ないと言うことです。

でもって最も重要なことが「果たしてAIなんぞ要るのか?」と云った部分でせう。

 

勿論わたくしの論理で言えば其れは要らず逆に相生山で拾ったガラス片の方がどうしても實存に取り要る物なのだ。

其の要らない物には電気を通さない方が良いと云うことなどもまた言える。

 

つまるところAIは抽象的な思考の果てでの産物です。

其のAIにはそも生命體としての實感が欠けて居る。

そんなものを社會に入れて行けばまさに便利さと共にリスクが幾何級数的に増大しやう。

 

ですからこんなに豊かな心を持つ詩人が心底より分からないのは何故皆ー學者をも含めーは文明の価値を其れも盲目的に信ずるのかと云う部分です。

わたくしの場合は端から其れを疑ってかかって居ますのでほとんど何をも信用などしては居りません。

 

であるからこそ逆に神や佛や自然其のものを信用出来る訳なのです。

要するに其の心のあり方の違い、価値観としての立ち位置の違いこそがこんな破壊者としての文明を存立させることの基盤となって居るものでせう。