目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

さうして忙しくあるのが🌸でもしも其れが無くなったら人間は終わりであるーそんな夏休みの遊びの数数に就いてー

さうして忙しくあるのが🌸でもしも其れが無くなったら人間は終わりであるーそんな夏休みの遊びの数数に就いてー

 

 

 

 

愛知:高校野球県大会 東邦―愛工大名電 きょう決勝:地域ニュース : 読売新聞オンライン (yomiuri.co.jp)

愛工大名電、甲子園へ 2大会連続14回目 全国高校野球愛知決勝 | 毎日新聞 (mainichi.jp)

 

尚本日TVにて視聴したが此れは大変面白い決勝戦だった。

 

兎に角面白かったので後はもはや甲子園の試合などは視ずとも良い。

兎に角やることだらけなのでそんな壱種の抽象的な価値になんぞ付き合って居るヒマなどは無い。

 

尤も運動もまた壱つの才能なので甲子園に出るやうな野球部の人人はまさに有名大学へ頭の良さから入るやうなもので運動神経の方が特別製なのである。

愛工大名電高校とは勿論アノイチローの母校である。

 

幼い頃より大中日ドラゴンズファンであったイチローは兎に角中日ドラゴンズへ入りたかったのだが中日ドラゴンズは彼を指名せずよっていまだイチローは其のことを多分怨んでおるのだ。

よってイチローは地元にはもはや帰って来ない。

 

 

またイチローチチローと喧嘩して居るので余計に地元には戻って来ない。

 

稲葉篤紀 - Wikipedia工藤公康 - Wikipedia槙原寛己 - Wikipedia、其れに金田正一 - Wikipediaなどは皆愛知県人である。

 

此処愛知県は昔から野球が盛んな処なのでかうして超有名な野球選手が多く輩出して居る。

 

ちなみにカルトな話をすれば稲葉は少年の頃イチローが通ったバッティングセンターへ良く通って居たさうである。

また工藤は我より四歳下だが矢張り少年の頃は名古屋市内のバッティングセンターへ良く通って居たさうで、と云うことは昔わたくしの趣味が其のバッティングセンターへ通いホームランの看板に当てることだったのでおそらく何処かで鉢合わせをして居た可能性が高くある。

 

尚我は昔そんな強打者だったのであるがかうして何せ組織が嫌いなので野球を組織的にやったことは無い。

また剛速球も投げて居たが何かの折にスピードガンで測ると120キロ行くか行かぬかのものでまるで大したことはなかった。

 

要するに我は野球センスなどまるで持ち合わせては居ない。

 

但し廿代中頃に剛速球の打てる東山テニス倶楽部の横のバッティングセンターへ屡通い其の折に150キロの速球をほとんどホームラン性の当たりでもって打ち返したことが生涯に壱度だけあった。

ー其のバッティングセンターは其の後直に無くなったー

 

 

特別展「宝石 地球がうみだすキセキ」 (hoseki-ten.jp)

 

さてこちらの方は九月に入り行った方がガキ共が少なく落ち着いて観られさうだ。

ガキ共は大抵は御勉強の邪魔となり即ち思考に取りまた別ものとしての何かとなるものなのだ。

 

また宮崎 美子以下の知力の👩共の価値認識もまさに其の思考の邪魔をすることが實は多い。

が酒や會社組織や何やかやでもって認識が濁った👨共もまた思考の邪魔をすることが往往にしてあるものだ。

 

要するに眞の意味で理性的に生きて居る人など世間にはほとんど居ないものと相場は決まって居らう。

 

 

輝け!第一回 徳林寺 盆踊り大会 (ktbt2022.com)

 

おお何と!!

何と其の相生山徳林寺での第壱回盆踊り大會が本年度より行われることがかうして分かった。

 

勿論其れを是非観に行かねばなるまい。【東海】名古屋市緑区・相生山徳林寺へ | ayano hamada (hamada-ayano.com)

で、此処の読者のアナタ方には何故我が其れを観に行かねばならぬのかと云う其の理由がお分かりとなる筈である。

 

即ち哲學的にはまさに其の我と徳林寺の間に横たわる實存的価値こそが重要なのだ。

また例えばまだウクライナでは戦闘が継続されて居るが其の戦闘を幾ら心配したにせよ其れは何ともならぬものなのである。

 

つまりは其の観念として捉えられる認識上の抽象度への距離を短くする、即ち限定することで今自己に取り何が大事な価値であるかと云うことがまさに具象的に了解されやう。

従って、あくまで今の我に取り、

 

世界平和<徳林寺での第壱回盆踊り大會

なのである。

 

 

何が違うの?3つの禅宗の違いとそれぞれの教え【曹洞宗・臨済宗・黄檗宗】 - YouTube

 

尚、所謂「眞理」を指向して居られる方方は上の部分を是非御盆の前迄に學んで置いた方が良いことだらう。

 

ちなみに徳林寺はとりあえず曹洞宗の寺ですが或は御住職の方針でもあるのか宗教や宗派の違いなどには拘らずにどちらかと言えば弱い者、疎外されし人人を助ける寺のやうですのでまた其処も余り関係無いと言えば関係無いのだがあくまで御勉強は御勉強である。

其の御勉強はまさにやれる時に徹底的にやらねばならぬものだ。

 

どだい御勉強は生きて居るうちにしか出来ぬものだ。

つまりは御坊様方と対等に法論を交わすことが出来る程に御勉強を是非して置くべきだ。

 

其の御勉強の時間は最低日に拾時間程が必要だ。

でも其れでは日常が成り立ちませんが…。

 

馬鹿者!!!

そんな日常など放り出して修行に専念せずしてどうする?

 

 

おわあっ、何故か今花火の音がして居る。

では早速寶蔵寺ー西八幡社ーにて見学に行って来ます。

 

寶蔵寺ー西八幡社ー及び天白川の土手まで行って観てみたがどうも遠いやうでまるで観えなんだ。

 

其の花火が観たい、どうも観たい。

さうしてわたくしは🎆フェチなのでもまたありかって地元で凄い🎆體験をしたことがある。

 

其れも岩崎の山の上から🎆を観て何せ山なので目の前にて🎆が炸裂するのである。

其れを確か弐度程は観て居る。

 

 

🎆も有名な🎆大會程凄いものだが我が目指して居たのは其の🎆其れ自體の凄さなのでは無くそんな観方の凄さの方なのであった。

 

其れといまひとつも矢張り日進町の🎆大會で其れを何と田んぼの眞ん中より独りで観るのである。ー田んぼにはちらほらとは見物人も来ているが間隔が大きく有り其れが誰だかまるで分からないー

左様に🎆其れ自體の優劣では無く🎆の観方の方こそがより大事である。

 

兎に角其の夏の行事等で此の八月は我に取り大変忙しくなる。

だからもう全部が夏休みだよ。

 

 

さても徳林寺では盆踊りに参加する御積もりなので?

 

まーさか。

只遠巻きに眺め観察するだけのことよ。

 

まずは其れこそが文人としての責務である。

左様に文人とは何より其の生の観察者のことなのだ。

 

おお其れから石展もまた開催されるのである。名古屋ミネラルショー | 【公式】名古屋市観光情報「名古屋コンシェルジュ」 (nagoya-info.jp)

 

もしや其れもまた行く御積もりで?

はい、多分行くことでせう。

 

 

しっかしアンタ壱體何をやってるのだ?

いやかうして只ひたすらに遊んで居ます。

 

うーん、確かに悪い遊びは壱つも無いのだが何だか知らぬが遊び過ぎでせう。

いや御勉強の方が過ぎると結局は頭にも良くは無いのでかうして努めて遊ぶことにして居る。

 

要するに遊びから人生を回して行くと云う其の価値をこそ是非哲學的に追求して行きたい。

 

さうですか、どうも御目出度い人だ。

左様に何と言われましてもまるで我は動じず。

 

さうあくまでわたくしは其の現存在としての「有限的喜劇」を演ずる役者の壱人なのだから。

 

 

ー 同じ鉱物・ルースのコレクターとはいっても、コレクションの仕方は十人十色である。だからこそ長く収集を続けるならば、原石かルースかにかかわらず、一般的な価値判断の基準を学び、それに対して自分なりの購入基準や収集方針を確立する必要がでてくる。本書は読者にとって、単なるノウハウ本でなく、コレクションにおける一般と個人の価値観について考える契機にもなるだろう。

 『ルースコレクターズ・マニュアル』著者のなかがわ氏は、本書の“裏”参考書として、ニーチェの『道徳の系譜』やプルデューの『ディスタンクシオン』を挙げている。自身のルースに対する考えをまとめるうえで参考になったという。非常に実用的なノウハウを集めた入門書ではあるが、おのれの「価値観」が問われる世界だからこそ、それについて本質的に語ろうとすると、根底に哲学や美学、歴史学、人類学などの人文科学的素養が求められるのだろう。ー

美しい石の収集をめぐって――『鉱物語り』『鉱物コレクターズ・マニュアル』『ルースコレクターズ・マニュアル』|じんぶん堂 (asahi.com)より

 

 

こちらはあくまで書評ながらまさに此処まで踏み込んで述べて居られる。

所謂「夢生」し「夢死」すると云う壱つの美學は物とだけの関わりでは無く其の人文學との共同作業である。

 

要するに其れは詩的な生き方なのである。

其の詩は腐り易い生ものを扱うと同時に腐らぬ非生命の世界をある意味では持ち上げる。

 

だがそんな生ものは対岸の火事である位に離れて観て置き非生命の世界をむしろ生き生きとした世界として捉えるのだ。

さてわたくしは非生命には壱つの究極的な正の倒錯があるやうにどうしても感じて仕舞う。

 

正の倒錯とは犯罪でもまた謗法でも無い罪無き倒錯度のことだ。

対して政治上のまた人道上の倒錯は其の負債としての生の罪深さを必ずや齎すことだらう。

 

何故なら其れが實存に取っての生ものであるが故に。

さうして非生命の齎す美の世界に対し近頃以前にも増して興味が出て来た。

 

生ものは基本的に至極哀しいものながら其れ等有限物の齎す美の世界にはそんな変な哀しみが無い。

 

貴方はさうしてモノを好意的に捉え己が孤独を只正当化したいのだらう。

まあさうも言える。

 

 

だが其れは只美しいのである。

 

美しいものは物では無く人の心である。

とかってかのオスカー・ワイルドがさう述べて居る。

 

またかの宮澤 賢治なども確か其れに近いことを書いて居た筈だ。

 

ところが其の人の心こそが当てには出来ぬものなのだ。

よって感情になど振り回されぬ物の美の方がより誠實なのだ。

 

 

もしや貴方は唯物論者で?

いえ、全然。

 

何せ我の場合は物事の両方をやりたい方なので、

 

唯心論⇔唯物論

なのであり、

 

其れもまた同時にやり切りたいとさう願って居ます。

ふーん、貴方の其の論理は實際何処にでも使えるものなのですね。

 

はい、わたくしが四拾年に亘り考えて来たこととは其の弐元論の超克のことばかりでした。

 

はあ、すると其の対立関係に於ける優劣などはそも設定出来ぬと云うさうしたことなのですか?

優劣即ち価値ヒエラルキーなどは現在に於いて何処にも無い。

 

 

だが何故か其れを設定したがるのが現存在の認識上の癖だと云うことだ。

すると其の現存在の認識上の癖を滅した上で汝は石やまた🎆や寺と戯れるのであるか?

 

いや滅するのでは無く其の癖もまた癖では無いものも矢張り同時にやり切るのであります。

もう兎に角全てを同時にやり即ち其処にて夢生し夢死するのだからして…。

 

何か仰って居ることが普通の人とは違いますね。

そりゃさうでせう、だからかうして僕は文人ですよとさう何度も申して来た筈です。

 

 

ところで詩人、お前コロナの方は果たして大丈夫なのか?

さあてどうでせう?

 

まあ然し多分大丈夫だらう。

何せかうしてコロナのこと以上にやることが壱杯ですのでイチイチ其れを考えて居てはまるで事が進みません。

 

むしろ其の忙しさが無くなると危ないのではなからうか。

つまりは忙しくあるのが🌸でもしも其れが無くなったら現存在もまた終わりである。

 

其れでは、また。

かうしてローカルに齎されるほんたうの幸せの話ー+如何にも夏休みらしい野球の話ー

かうしてローカルに齎されるほんたうの幸せの話ー+如何にも夏休みらしい野球の話ー

 

 

 

 

岸信夫氏、稲田朋美氏ら 統一教会との関係を堂々認める自民議員が続出…“開き直り”と疑問噴出 (msn.com)

 

ー一貫した行動基準持たない、あるいは基準貫こうとする意志薄弱であるさま、貞実でないさま、などを意味する表現。「無節操」ともいう。

節操」は「信念を守ること」「節義堅持すること」といった意味の語であり、「節操がない」という表現はこうした信念節義に対する意識低さ評した言い回しといえる。ー節操がないの意味や定義 わかりやすく解説 Weblio辞書より

 

日本の體制が危ないのはまさに其の価値観が壱種無節操でありヒエラルキー信仰ばかりが堅固な為に必然としてさうなって居ることだ。

即ち其処にて體制を守らうとすればする程に馬鹿共が偉くなりのさばる訳だ。

 

ひろゆき氏 岸防衛相と旧統一教会のつながりを批判「共産党のほうがまとも」 (msn.com)

 

ひろゆきさん、全く仰る通りです。

日本共産党は別にカルト洗脳體制を目指すのでは無くしかと護憲し天皇制さえ守るとさう言って居る。

 

但し將來的には其れは分かりません。

でも世界革命でもされぬ限りは日本共産党はちゃんと日本國憲法を護ることだらう。

 

嗚呼でもまさに其のみんなの信じ切って居る自由民主党の考えこそが其のカルト洗脳體制だったのですね。

 

 

まさにこんな節操の無い与党ー保守ー政治ではまともに其れと向き合うだけ頭がオカシクもなりませう。

だから社會科の教師は其れも倫理・社會の先生方はまさに今大変です。

 

だって気が狂いさうになるのはそも心のあり方が悪いそんな自由民主党の議員では無く社會科の教師の方ですよ。

 

ですのでひろゆきさん、是非其の社會科の教師の悩みの部分を代弁してやって下さい。

我はアナタに其の元社会會科教師としての深い悩みの全てを託します。

 

では社會科の教師以外の國民は何故気が狂ったりはせぬのですか?

だって価値ヒエラルキーにスッカリ洗脳されて居るのですもの。

 

 

ところでもしも連立政権として日本共産党が野党連合に名を連ねても革命は無いのだと?

だってそも革命など出来ませんもの。

 

さうして日本は反革命國でありつまりは壱封建國家であり其の近代國家と云うのはそも眞っ赤なウソです。

 

で、アナタ個人は日本は革命された方が良いとさうお思いなのですか?

まあさう思わぬこともまた無いです。

 

なんですが、ほんたうはそんなイデオロギーのことなどよりも食べるものだとか美しいものだとか自然だとかそんなものの方がより大事に思う。

 

日本が革命された方が其れ等の要件がより確たるものとなるのであればアナタは革命戦士として闘うのですね?

いえもう六拾参の爺ですので股関節は痛いわ所謂パワーが無くなるわでもはや其れどころではありません。

 

 

ではアナタは壱體何を御望みなのだ?

…穏やかな毎日を。

 

穏やかな毎日を頼むのはまさに自民党でせう?

いやダメですね、其れは。

 

其の自民党よりはたとえば公明党が左派と組んで貰い政権を担う方がナンボかマシでせう。

 

だから公明党こそがそも間違って居ます。

公明党が全野党と組めば自民党を潰すことも可能だ。

 

アナタは兎に角自民党をさうして潰したいの?

はい、何故かアンチ自民党なのだ。

 

 

ではもしやアンチ巨人なのですか?

はい、其のアンチ巨人で従ってドラゴンズとかタイガースを基本的には応援致しますが意外とタイガースもまた其の応援のクドさなどをしつこく攻撃致します。

 

其れとアンチ巨人でも天才打者としての高橋 由伸選手のファンだったのですがー美男でもって爽やかな印象が兎に角好きだったー、かうして今調べてみるとまさにとんでも無い奴でした。

 

高橋由伸の借金地獄! ~巨人入りと現役引退の理由…借金60億円 | カードローン総合案内 (cardloan-best10.com)

高橋由伸の父親借金!会社名や監督辞任理由は60億とスキャンダル? | ririニュース (riri-news.site)

 

矢張りたとえブ男でも眞面目で何も持って無い人が壱番良いやうだ。

 

中日ドラゴンズには何故か美男は居ません。

其れと阪神タイガースにも何故か居ないやうだ。

 

 

ところで原 辰徳監督ー壱歳上ーがコロナ感染をしたさうですがもしや死んで居ませんか?

 

巨人 原監督もコロナ感染、計73人陽性…ファン「こんな状態でも試合しないのおかしいと言う人いるの?」(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース

 

コレは然し巨人軍の滅亡を意味するのでは?

 

其の巨人軍は滅亡して欲しいのですか?

いやさうでは無くドラゴンズとタイガースの選手も皆コロナ感染をして此の際もうプロ野球など止めた方が良いですよ。

 

何と!

其れも親の代から野球ファンのアナタが壱體何を仰るのだ?ー父は南山高校の控えのピッチャーだったー

 

 

どだいプロ野球選手の高額な年棒はアレは如何にもオカシイです。

ですが今日TVで視て居た高校野球の弐試合は共にとても面白かった。

 

【高校野球】愛工大名電が2年連続14度目の選手権出場に王手!元中日・岩瀬の長男も2番手も好投― スポニチ Sponichi Annex 野球

【高校野球愛知大会】東邦、コールドで享栄撃破! エース三浦が投打で躍動、6年ぶり夏へあと1勝 (msn.com)

 

かうして夏は矢張り野球ですねえ。

我はサッカーには全く興味が無く名古屋グランパスの本拠地だったパロマ瑞穂スタジアムへは其れこそ自転車でもって拾分で行けるのですが試合を観たことが無い。

J1名古屋グランパス2021年シーズンからパロマでホーム試合開催できず 老朽化建て替え工事:中日スポーツ・東京中日スポーツ (chunichi.co.jp)

 

さう言えば確かに今此処は工事中です。

 

其のパロマ瑞穂スタジアムの横にパロマ瑞穂スポーツパーク | 野球場 (nespa.or.jp)と云うものがあり此処でも屡高校野球の愛知大会の試合が行われ弐、参拾年前は良く試合を観に行ったものだった。

尚昔はタダの瑞穂陸上競技場であり瑞穂球場と言われて居たがさうして名称がややこしく変わった訳だ。

 

いずれにせよ此の辺りは此処名古屋市瑞穂区でも飛び切りに環境の良いところで山崎川と云う桜の名所がすぐ際にあるのです。

ちなみに瑞穂区は名古屋人に取り憧れの地なのですよ。

 

多分人気No.1かと思われます。

 

【2022年最新】名古屋市の住みたい街・駅ランキングを大発表! - 中山不動産株式会社MAGAZINE (nakayamafudousan.co.jp)

 

ゲェッ、何故か拾位にまで下がって仕舞って居た。

かっては常に上位だったのですが…。

 

 

其の瑞穂区は住環境の方は良いのですが大型店舗が少なくまた少し交通が不便です。

と言っても郊外では無くあくまで街中なのですが住宅地ー文教地区ーですので其の住まい以外には何も無い訳だ。

 

尚塾の数などは兎に角多いです。

つまりは塾だらけである。

 

其の壱位の千種区は環境も良く且つ交通の便が良い。

ですが瑞穂区もまたブランド区であることに変わりはありません。

 

瑞穂区東部や昭和区東部、其れに千種区などは要するに名古屋の山の手の地域である。

山の手の地域には坂が多くあり要するに中級以上での住宅街となるのです。

 

 

そんな訳で何故かローカルな話となって仕舞いましたが今後文明はかうしてある意味で「限定」されて行くことだらうから地元の価値に目を向けて置く方がグローバルな何かを見詰めることなどよりも次第により大事な価値となって行くことだらう。

尚我は其の山崎川沿いのサイクリングコースを中國の安物自転車でもって屡サイクリングして居ります。

 

サイクリングは特にグローバルな展開なのでも何でも無くローカルな話だが基本的に具象的であり且つ愉しいことです。

實存としては抽象的な利益などよりもむしろそちらの方こそがより大きく自己が開かれる価値である。

 

さう其処にこそ価値を知る認識が開かれるのだ。

逆に現代文明が目指す価値の方に洗脳されて居ますと其の価値にはよもや気付けなくなる。

 

現存在は其の大と小の認識の違えの部分をまずは治すべきだ。

嗚呼、さうしてむしろ地味な価値の方にこそ幸せへの糸口がしかと見えて居る。

 

其の幸福はウソの幸せなどでは無くむしろほんたうの幸せのことだ。

其れは我我の身の周りに常にかうしてある、只其れが我我に取り見えぬだけなのだ。

「有限的喜劇」と云う壱つの幸福の場である価値観の成就のこと

「有限的喜劇」と云う壱つの幸福の場である価値観の成就のこと

 

 

 

 

さて其の認識と云うことに関して慎重と申すか壱種懐疑的なのが理性の特徴なのだと思われる。

では理性とは信じないことでありまさに感情論を否定するに至る冷たいものであり良く無いと壱般にはさう感ぜられるのやもしれぬのだが其れはまさに感情論なのである。

 

其の感情論は例えば封建制の社會位までは大事な要件であったが、こと近代以降の社會システムに於いてはむしろ其れに寄り掛かれば寄り掛かる程に自己矛盾するのだとさう見て置く方が良いことだらう。

其の熱い冷たいで言えば釈迦の説法にせよまたキリストの教えにせよむしろ非人間的な内容を含むもので可成に冷たいものである。

 

ところが日本社會に限りいまだに其の感情論の部分にて體制ー正の価値ヒエラルキーを組み立てて御座るのでまさに封建的秩序を超えるやうな諸の近代的破壊の要素に対し常に壱種脆弱な部分を持ち合わせて居る。

また「守らんが為」の諸要素が例えば宗教であれ政治であれ教育であれ何であれむしろ根こそぎ壊れて行かうとして居るのは其れは果たして何故か?

 

其れはあくまでわたくしの論理に照らし合わせてみれば、「逆方向を向けぬ堅固な生の価値観」が自己矛盾して居るのである。

また其のことは屡現代的な多様性に対する其れこそ頑固な抵抗の部分なのだと言えなくもないことだ。

 

 

では何故現代的な価値が多様であるかと云うにまさに其れが前回述べた如くに現代思想の流れが其のやうになって居るからなのだ。

まずは實存主義の流れから個に於ける自律的価値が叫ばれ、さらに構造主義に於ける文化相対主義による相対的な価値観の成立や其の後の脱構築主義での価値観の形成が其のやうな現代に於ける知的な流れをまさに形作って来たのである。

 

ところがこと日本の國としての価値観の流れはどうかと問えば、其れはいまだ封建制の枠を出るものでは無くよって宗教であれ政治であれ教育であれ何であれむしろ根こそぎ思い切りに江戸時代的なのである。

故に日本人は屡思想と宗教に弱いと世界から指摘されたりもまたして来て居る。

 

要するに其の即物的でもって非精神的な流れとしての感情論より全ての価値を組み立て且つ理解して居るのである。

だがおそらくかっての日本は決してさうでは無かったことであらう。

 

かっての日本人はむしろ精神的に生きる民族であった。

 

 

但しわたくしは其の精神論の復活を乞い願う者なのでは無く少なくとも自律的な思考を取り戻さぬ限りは此の日本の國としての凋落に歯止めがかかることは無いとさう述べて居るのである。

要するに其の國家の力とは経済力でもまた軍事力でも無く自律的な思考が出来得るか否かなのだ。

 

勿論學者の方方を始め世の中には頭の良い方方が結構居られるものだ。

だけれども其の封建的な感情論國家でもって精神としての體制を築いて行く限りはむしろ圧倒的多数の國民はまさに其れに洗脳されおバカ化するのである。

 

其れでもってイザおバカ化すると危機管理や危機対応にも弱くなりがちだ。

 

 

国家公安委員長が統一教会関連団体との関係認め有田芳生氏「大問題」宮根誠司も「あ然」 (msn.com)

岸防衛大臣が旧統一教会との関係認める、日本のネット民批判 - 記事詳細|Infoseekニュース

 

其の正義の警察権力としてのトップや國防の要としての防衛相がまさにかうしたことでは皆様驚かれることかと思うが個人的には全く驚いてなどは居ない。

其れは結局我が組織の価値序列を批判的、否定的に見詰めて居るからなのだ。

 

要するに我には組織力に擦り寄りたいと云う部分がほぼ無いので其のヒエラルキー社會に対し洗脳されて居ない訳だ。

またつまりはわたくしが述べて居ることとは其の精神の自律性のことである。

 

其の精神の自律性乃至は自立性があれば価値を自ら吟味し選び取ることが出来るやうになる。

むしろ其の力に日本の社會が欠けて居るから権力の暴走や権力者の威張りーと開き直りーの部分を放置して仕舞うこととなる。

 

おまけにまた其の価値倒錯としての精神の體制を「守らう」ともするのだからまさに茶番劇だ。

 

尚先回わたくしが述べたところでの「有限的喜劇」とは其の茶番劇とはまるで違うものである。

逆に其の精神の自律性乃至は自立性の無い日本の精神的體制其のものが「無限的悲劇」其のものなのだ。

 

 

 

 ーこれはアメリカに限ったことではない。世界各国で起きている。日本の状況については、最近のニュースをご覧いただければわかるだろう。見えないところで世界は変化しており、気がついた時には全く違う光景が広がっていることになりかねない。いや、すでになっていると言った方がいいかもしれない。ー日本だけじゃない「政党カルト汚染」。その背景にあるもの (msn.com)より

 

かうして作家が世の中のことを調べ其れに就いて様様なことを述べるのは彼等が理性に基づき世の中を見て居るからなのである。

まさに其れが感情論からでは無い世界に対する警鐘であり社會のあり方に対する提言である訳だ。

 

だが其の作家の世に対する文句にイチイチ付き合うべきでは無いと云う事實もまたある。

また其のことはイザ精神の自律性乃至は自立性を獲得するとたちどころに分かることである。

 

精神の自律性乃至は自立性を獲得すると云うことは価値を自律的乃至は自立的に判断すると云うことである。

 

其れに対し精神の自律性乃至は自立性が無い場合には其れこそ政治権力だの社會的風潮だのに乗っかり緒価値を判断して行くこととなる。

多くは其処で感情論的に其れこそ流され其の正の序列的価値が己が頭の中に刷り込まれ其れを基に其れを偉いと見且つ其れを守るのである。

 

尚我の場合には其の作家や學者の意見はあくまで参考程度のものでむしろ其れにべったりと寄り掛かることなどは無いのである。

また社會のことは社會のことでそも其れはロクでも無いものなのでほとんど期待などはして居ないと云うのが正直なところである。

 

要するに我が頭の中には其の守らんが為の正の価値序列が無いが故にさうして壱種冷笑しつつ其の世の様を眺めて居ると云うことである。

 

 

さて其の「有限的喜劇」とは本質的な意味での精神の幸福をむしろ約束するものであらう。

其の悲劇的な∞なる価値の追い求めに対するまさに其れが明らかなアンチテーゼとなるものだ。

 

我我現存在はさうしてむしろ価値を刷り込まれることでこそ今を生きて居る。

即ち現存在とは其の洗脳にこそ相応しい精神的営為なのだ。

 

近現代に於いてはまさに其の悲劇的な∞なる価値の追い求めこそが近代的な社會的緒価値なのだ。

ところがいまだに精神的な意味での封建體制を布く我が國の精神事情からは其の事實がまるで見えては来ない。

 

即ち我我日本人が崇拝して居るのは其の封建體制に於ける価値的序列のみである。

 

 

なので正義の警察権力としてのトップや國防の要としての防衛相はたとえ悪人ー悪代官ーでも偉い訳だ。

嗚呼まさに其のやうに守らんが為の秩序こそが矛盾化し日本人はまんまと其の轍に乗せられ偉いとさう思う其の大悪人共を敬い且つひれ伏すのだった。

 

だから保守派なら愛國者だと云う論理などはむしろ何処にも無い。

政治上の保守派が守るのはあくまで見かけの上での其の政権与党としての體裁であり實は國でもまた郷土でもましてや我等の👪でも會社でも命でも無い。

 

其のカラクリに気付かんが為にまさに御勉強をするのだ、勉強しやう、勉強しやう、嗚呼何処までをも勉強しやう。

 

近現代の諸価値とはむしろ其のやうに哲學的に規定されるものなのだ。

即ち實存主義もさらに構造主義もまたポスト構造主義も全ては近現代と云う時代其のものを規定すべく考え抜かれた思想の断片であり其れの集積なのだ。

 

だが我我日本人が其の種の論議に至ることなどはまず無い。

何故なら彼等は自分の頭でもってそも考えたりはせぬ人間なのだから。

 

もはや彼等の頭の中には「現世利益」なる損得勘定があるばかりだ。

おおまさに其れが戦後の高度経済成長のツケなのだ。

 

 

恐るべき其の精神のあり方とは早う縁を切り是非己が価値観を生きるべきだ。

でないと我我の精神はまさに地に落ちる、いやそればかりか地獄にさえ堕ちる。

 

其れをこそ阻止せんが為に其の価値ヒエラルキ―をこそ疑え。

其の価値観の相対化こそが我我に取っての「有限的喜劇」を、其の實存としての生の歓びを回復せんが為の唯壱の方策だ。

 

どだい考えてもみ給え。

實存は社會に規定され得る価値のみを生きて居るのでは無くまずは其の實存をこそ生きるのである。

 

社會は今後様様な意味にて制約を受けて行かざるを得ない。

まさに其れこそが社會の担う罪の贖いであり近現代参百年に亘る放埓の時の報いなのだ。

 

 

現代の日本はディストピア?ニッポンは思考停止社会。|NEXT HUMAN LIFE|note

 

此の國の宿痾のやうなものがまさに其の精神の自律性乃至は自立性が無いことでせう。

其れは壱言で言えば反骨心に欠け批判的に現在を成り立たせることが出来ぬ訳だ。

 

ところが近現代社會を貫く基礎的な社會の原理とは其れこそ市民革命 - Wikipediaを起こし封建的抑圧から解放されることを目指すことやまたマルクス主義でのやうに階級闘争 - Wikipediaとしての社會主義革命を起こすことだ。

要するにさうした内発的な社會的要求から近現代社會は本質的に築かれて来て居る。

 

ところが日本と云う國は確かに幕藩體制はああして崩れ去ったが其の種の革命とはまるで縁が無かった。

 

ーマルクス主義では、抑圧されている労働者階級などが団結して階級闘争を行い、資本家階級に代わって権力を握り、階級そのものを廃止することを目指す。これに対して、階級協調のドクトリンでは、国家や社会秩序の保持の一部として不平等の受容が促進される。従ってマルクス主義者は通常、労働者階級に階級闘争を追求させないようにするものとして、階級協調の考えに反対する。ー階級協調 - Wikipediaより

 

左様に日本はむしろ本質的には階級協調 - Wikipedia社會であり要するに反共社會であり反革命社會なのだ。

従ってどうのかうのでは無く其の階級による秩序こそが大事なのであり其れは共産主義思想とは眞逆での體制のあり方である。

 

 

尚屡日本は和の社會だと言われるのだが其の和とは平等な関係にて築かれるものでは無く其れはむしろ完全なる縦の序列での身分制社會=ほぼ封建體制其のものとしての社會の「和」なのだ。

まずは其のやうな封建社會では「思考」はむしろ邪魔者となる。

其れこそ勝手に「思考」され社會の価値観を転覆でもされたら身分のある人人が困るから其処にて適当にエサをバラ撒き「思考」されぬやうにするのである。

 

なので日本人はさうして自ら思考停止して居るのであり其れは日本人の頭が悪いからではよもや無い。

なのだけれども其処にドップリと浸かり切って来たこともまた確かなことであり故に自ら考えよ、自立的に思考し近現代としての荒波を乗り切れとさうイキナリ言われたにせよ其れは出来る筈の無いことなのだ。

 

 

ー日本では少し状況が異なると思います。日本でも社会が階級化していることについて論じられていることも知っています。しかしながら、文化的側面から言えばフランスと日本は背景が異なります。日本についてはそこまで詳しくないことを事前にお断りしておきますが、まず、日本は文化的にヒエラルキー、序列を尊重する傾向にあります。以前、文献を読んで気づいた興味深いことがあります。それは戦国時代の日本の農民たちの直訴についてです。農民たちは将軍などに直接訴状を渡す、つまり直訴する人物を選び、その選ばれた人物は死罪のリスクを背負ってまで共同体のために行動したと言います。今の現代社会が全く同じというわけではありませんが、日本というコンセプトが全体をひとまとめにする力を持っているのです。そしてそれは義務や責任感というものを基盤としています。もちろん、日本にも搾取の構造はありますし、名もなき階層に属する人々もいます。しかし、階級間がそのヒエラルキーに基づく関係性を尊重する点も無視できないのです。

 これはフランスでは見られない点です。例えば日本では東大卒のホワイトカラーと、農家や漁師たちが罵り合いながら対立するというようなことは考えにくいでしょうが、フランスではそれがありうるのです。各社会にはそれぞれ、その社会における階級同士が対立する時の型があります。それによって階級の対立も異なったものになるのです。ー「日本では階級闘争が起こりにくい」とフランス人歴史学者が考える理由 | News&Analysis | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)より

 

 

即ち日本こそが其のヒエラルキー社會なのだ。

ヒエラルキーこそが最も重要で、其れが悪であらうが何であらうが日本の郷土も國土も全ては其のヒエラルキーにこそ築かれるのであり故に其のヒエラルキー其のものをブチ壊す共産主義だのまたアナキズムだのそんなテロリストみたいな奴等の言うなりになる位なら日本人はもう死んだ方がマシなのだ。

 

故に本質的に日本人には左右のイデオロギーと云うものがそも存在して居ないのである。

と共に宗教の方もまた創唱宗教と自然崇拝のゴッタ煮にて主張すべき教義の方には疎いので結局無宗教化して仕舞うこととなる。

 

しかしながら其のイデオロギーが無くまた宗教も無いと云った状態は幸せと云うよりは矢張り情けなく其れも只安全、安心な國で愉しいかと言えば何やら洗脳チックなそんな可哀想な人達の群れではないかとわたくしなどは思うのであるがどうであらうか?

 

 

現代社会の共通点は、単純に不平等が顕著になってきているというだけではありません。ただの経済の機能不全でもありません。共通しているのは、支配階級が目的を失っているという点です。

 以前、私がフランスの哲学者マルセル・ゴーシェと行なった対談の最後に、ある男性が質問をしました。彼は「支配階級の人々はただただお金を稼ぎたいのだろう」と言ったのですが、私はそうではないと答えました。ごくありふれた庶民たちは、月末に勘定をトントンにして、税金を納めて子供を育て上げる必要があります。そのために働き、生き延びるという、ある意味シンプルな幸福がそこにはあります。私は人間とは生きるようにできているのではなく、生き延びるようにできているのだと思っています。つまり、精神的な問題は、お金がありすぎてその使い道に困っているような人々に表れるのです。だからこそ、20世紀の重要な理想や思想の全てが崩壊した現代社会というのは、非常に気がかりな状態にあるのです。ー「日本では階級闘争が起こりにくい」とフランス人歴史学者が考える理由 | News&Analysis | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)より

 

 

其れは壱つには其の支配層側が其れこそ「無限的悲劇」と云う現代病に罹って居るからなのではなからうか。

金だの宇宙浪漫だのそんなものはまさに∞の享楽を其処に追い求める果て無き欲望への旅路のことであるに過ぎない。

 

金や名誉や名声に恵まれた人はさうしてともすれば人間が限定の存在であることを忘れがちである。

其れは其の抽象的価値がさう勘違いをさせることである。

 

よって支配層は悪にもまた染まり易く幸福にもなりにくいものなのです。

まさにトッド氏ー高名な歴史學者ーエマニュエル・トッド - Wikipediaの仰るやうに金が有り過ぎてもまた精神的には不幸になり易いものだ。

 

 

どだい自民党の政治家が如何に胡散臭い者であるかと云うことが安倍の暗殺以降はかうして世間に曝け出されつつもある。

 

では限定されれば其れで良いかと言えば無論のこと限定され過ぎれば所詮人間は飢え死にをします。

であるからして其の「有限的喜劇」と云う壱つの幸福の場、其の価値観の成就をまさに個としての行き届いたバランス感覚にて成し遂げて行かねば現存在は決して幸福にはなれない。

 

さて其の廿世紀の理想や思想の全てが無意味であったとは個人的には感じて居らず其れこそマルクス主義アナキズムにも資本主義崩壊後の役目がまだしも残って居る可能性すらもがまたあるのだらう。

ではあるのですがこと此処日本に限ればさうした思想や宗教の選び方以前の問題としてまずは其のヒエラルキー信仰への洗脳を解くと云うことこそがまさに喫緊の課題なのではないだらうか。

 

 

ヒエラルキー信仰とはまさに日本其のものとしての封建體制です。

其の精神的な意味での封建體制に支えられ日本はかうして続いて来て居ます。

 

ですが其の日本人が偉いと信じ疑わぬ國の支配者層があらうことか邪教と繋がって居りました。

壱説に統壱教會は完全に日本を利用して居るつまりはあくまで金蔓として日本を捉えて来たのださうな。

 

ですが、其のヒエラルキー信仰がある限り安倍や岸や麻生や🐵や🐶は皆偉いのですから何をやっても構わない訳だ。

個人的にはあくまで其れはイカンのだと思うのだが日本人にはそも精神の自立性が無いのでさうしてケジメの付かぬまさに節操の無い精神の世界へと落ちぶれて行く訳です。

 

以上でもって日本の意思決定が何故近代化されぬのかと云う部分に就き少しく考えてみた。

まさに其れがヒエラルキーによる洗脳社會であったと云う壱種怖い話であった。

 

 

尚日本の社會のあり方への批判と云う意味に置いては前回の宗教版と今回の體制版のもので可成にやり切れたとさう判断して居ります。

現代文明批判に関しましてもすでに様様な角度より其れが行えたものとさう感じても居ります。

 

よって此の辺りで此処自體をリニューアルし九月頃よりまた文明のあり方への理想論と藝術の分野と宗教の話さらに趣味ー石、ペン、🌸、🐈ーなどのことを週似回位の頻度にてまた書いて行けたらとさう思います。

 

 

名古屋市科学館 | 科学館を利用する | 催し物案内 | 特別展・企画展| 特別展「宝石 地球がうみだすキセキ」 (city.nagoya.jp)

 

尚今年はまた兎に角忙しくこちらにも是非行かねばなりません。

昨年は名古屋大学の博物館にて小規模ながら「結晶展」を観てまいりましたが其処にあった結晶鉱物がかうしていまだに目に焼き付いても居る。

 

其のやうに實存的価値は社會のあり方のみによるものでは元よりありません。

但し社會的な影響は常に個に取り大きく作用するものだ。

 

であるからこそ其れを出来得る範囲にて個的な實存の価値へとシフトして行く訳だ。

イザ其れが出来ればもはや社會の動向には振り回されにくくなる。

 

まさに其れこそが「有限的喜劇」と云う壱つの幸福の場である価値観の成就のことである。

其の「有限的喜劇」こそが無目的且つ無意味な生の場に初めて彩を与えるであらう壱つの精神的な価値の場のことだ。

『現代思想入門』より抽出する個に取っての幸福論ードゥルーズ+ガタリの「有限的喜劇」論に就いてー

現代思想入門』より抽出する個に取っての幸福論ードゥルーズガタリの「有限的喜劇」論に就いてー

 

 

 

 

さて現存在はかうして間違い無く今を生きて居る訳ですが其の今を其れこそ潔癖に見詰めてみる限りに於いて其れが可成に胡散臭いものであることが次第にお分かりになられたことかと存じます。

尤も其れはあくまで人文理性的に此の世を見詰めた場合にはさうだと云うことだ。

 

或は其れこそ宗教的、又は藝術的に此の世の価値観をむしろ逆方向から見詰めてみるとさうなると云うことであるに過ぎない。

尤も現代は自然科学の方の度が進みつつあり其の先端部に於いてもまた訳の分からぬ即ち胡散臭い何かが次第に姿を現して来て居ると云うことなのだらう。

 

尚其処に於いて壱つ我が疑問に思うのが、むしろ世の大多数の人人は現代の文明の此の今のあり方こそが正しいとさう思い込まされて居るのではなからうかと云うことだ。

ですが其れが正しいかどうかと云う事は其れこそ現象世界が歴史として決めることなのであり其れは知識人の頭の中で又は大衆の頭の中で今さう判断されるべきものでは無い訳だ。

 

 

即ち五拾年後、百年後には其の現象世界の成否が決まって来るやうな気が致します。

たったの五拾年後、百年後なのですがもう其の頃には我は此の世には居ませんので其れもまるで永遠の彼方での御話のやうなものです。

 

さて其の現象世界とはあくまで現存在に取っての現實のことで其れは世の眞實とか實相とか言われる所謂「物自體」ではなく謂わば表象として現存在に捉えられて居る世界のことです。

人間の認識には癖があり謂わば其の癖のある認識をとりあえずは正の秩序ー進歩としての秩序ー化することで正当化し謂わば「第弐の自然」を生きて居るのが現存在としてのほんたうの姿なのだらう。

 

但し其の「第弐の自然」=自然と対置されるのであらう人間にとっての自然、は謂わばウソの自然ですので其のウソ臭いのが限界まで積み重なることで自然其のものと分断を生じまた其れの破壊者となって行かざるを得ません。

まずは其の部分での意識が大多数の人間には欠けて居ります。

 

が、我はたまたま其の種の嗅覚と申しますか気付きの力を持って居たので其のことをむしろ可成に以前より危惧して来て居ました。

 

 

よってまずは其の所謂「人間中心主義」や「文明至上主義」に対する盲信の類を是非捨ててみて下され。

まずは其処より認識して行きませんと其れこそ宗教や藝術や人文學を理解せんが為のマイナス領域への近接が不可能となります。

 

つまりは逆方向をあえて向いてみませう。

 

自然科学原理主義人文主義

文明至上主義→自然派

宗教的権威主義→宗教的脱権威主義

価値ヒエラルキーへの信心→脱価値ヒエラルキー

 

其のやうに何でも反対方向を向くと其処にこそ實は重要な価値が拡がって居ます。

 

で、其の左側の価値観に洗脳されて居る人が現存在としての大多数です。

其れでも我は右側の価値観を持って居る訳ですが實は努めて左側の価値を向かうとは努力して来て居るつもりです。

 

尚御釈迦様は其れこそ対機説法と云って例えば諸行非常であり諸法非我であり且つ涅槃寂静であるとさう信じ込んで居るインテリ層に対し此の世は常であり有我であり煩悩にまみれた救われぬところです、との如き価値観を説かれたのださうです。

要するに其れが固定化されし価値ヒエラルキーからの脱構築なのであり其のやうな逆方向からの価値観こそが認識を正す上での鍵となることだからなのだ。

 

 

要するに壱つの価値に全的に認識を預けることは其れはほぼ洗脳に等しいこととなるのです。

故にあえて逆方向を常に向いて居て然るべきです。

 

其れは自分の信仰とは違う他者の価値観からあえて學ぶと云う態度のことだらう。

 

またさう云うのは宗教者に限らず例えば近現代思想を研究する学者さん方でも常にされて居ることです。

但し日頃から勉強する癖が付いて居ない大衆レヴェルではまさに其処こそが難しい課題となるのです。

 

其の勉強とは結局精神の鍛えなので文學書を読み解くにせよまた哲學を學ぶにせよ日頃から其れに接して居ない限りイキナリ難しい概念をひけらかされても理解不能なこととまたなるものです。

但し書物以外からの所謂耳学問のやうなものもまた勉強の壱つです。

 

個人的には勉強することで考え方の幅は確實に拡がるやうに思う。

但し其の考え方其のものは勉強することで与えられるものでは無くあくまで自らでもって築き上げるものです。

 

 

さて例えば文明其れ自體からは離れられぬにせよ誰しも逆方向を向く位のことは出来ます。

 

例えばPCなどを余りやらない六拾代の知り合いも中には居ますし七拾代ですと全くネット世界には縁して居ない人まで居られます。

さらに🐕や🐈などを飼い其の世話に没入することなどもまたある意味では大袈裟に言えば反文明的な試みでせう。

 

彼等は結局のところ人間では無いので人間の論理が通用しないことが多い。

其れを無理矢理に人間の論理に適合化させ特に都會ではマンションの壱室などで其れを飼ったりもまたする訳だがまさに其れは可哀想である。

 

家の場合は半野生化させ其れを飼うので仔猫が大きくなった今はすでに家の中には居ません。

ほぼ庭だの他の家の庭だのまた人間の知り得ぬ処であるだのまあ其処でもって人様に迷惑をかける場合などもまたあるのやもしれぬが其れは彼等が人間ではそも無いのだから仕方の無いことでせう。

 

逆に現存在は今大自然に取り大迷惑いや其ればかりか自然を壊し切るか否かと云うレヴェルでの御話ですのでそもそんなことに拘ってなど居る場合ではありません。

まずは文明の方こそが去勢手術でもされなくてはならぬ状況でせう。

 

 

左様に僕は常に文明の側を攻撃致しますが何故なら文明其れ自體が余りにも罪深いものだからなのだ。

 

そんな具合に文明の齎す価値上の形式性のやうなものには常に警戒感を抱いて居なければならない。

ですが詩人は根っからそんな人間ですので逆に文明の良さのやうなものもイヤイヤではありますが認めやうとしては来て居ります。

 

例えば1984年製のナショナルの電子レンジにてカレー饂飩を毎日作り食しますがまさに其のことに感動しつつ其れを食って居る。

尚カレー饂飩の場合は🍛よりもカレーが少量で済むつまりは饂飩が弐玉でもイケると云う恐るべき法則が實は其処に御座ります。

 

其の弐玉カレー饂飩は可成に胃に取りズッシリと来つまりは腹持ちが良くなる訳だ。

また我はPC生活其れ自體を否定する訳では無くむしろかうして完全なるPC人間です。

 

だけれども他方には其れに対する疑いの眼もまた常に持ち合わせて居ります。

左様に両義的に認識世界を成立させることこそが我が認識論上の苦闘の果てに見出した認識上の眞理であり哲學上の帰結なのでもまたある。

 

其の両義的に認識世界を成立させることで樂になることがまずはある。

其れは認識上の形式性に煩わされること無くある意味で自己本位に認識を成立させることが出来ると云うことだ。

 

 

まさにそんな認識に対する応援のやうな形で千葉雅也 - Wikipedia氏が『現代思想入門』の中で語られて居る部分がまた印象的です。千葉雅也『現代思想入門』発売(@masayachiba)さん / Twitter

現代思想入門』は非常に優れた哲學、思想の解説書であり日頃から其の分野に接して居る人に取ってはまさに素晴らしい壱冊となることだらう。

 

其処では例えばドゥルーズガタリドゥルーズ/ガタリ - Wikipediaの説く「有限的喜劇」論に就き述べられて居る。ー『現代思想入門』P.172よりー

 

「現代文明は謂わば無限のXに向かい組み上げられるー欲求不満の活動としてのー抽象的価値の集積である。

ところが無限のXに向かい組み上げられる正の価値ヒエラルキーなので其の無限の負債を背負い返し切れぬ其の負債の為に悲劇的な生を其処に送らざるを得ない。ー現存在としての生の悲劇化ー

 

だがいざ其れを有限的に即ち多様な価値の完結として捉える場合には其れは個個として完結し満足の行く謂わば「有限的喜劇」と化す。」ー『現代思想入門』P.172よりの我が纏めー

ドゥルーズガタリの思想はまさに其のことを伝えんとして居るのだと千葉氏は仰る。

 

さて其の有限化とは果たして何のことでせうか?

勿論我が日頃から述べて来て居る限定論のことです。

 

 

さらに千葉氏は述べられます。

 

「無限のXに向かい組み上げられる単数的な悲劇」では無いものをドゥルーズガタリの思想は目指したのだと。

ー単数的な悲劇=現代文明に於ける悲劇=壱方向性での悲劇=自然と対立する悲劇ー

 

逆に生の上での目指すべき価値を複数化すれば其の限定的な意味での個個の場に「自律的」な喜びが生ずる。

ー複数性即ちわたくしの論理で言えば逆方向性を取り入れることだー

 

∞の謎に挑む⇔有限な行為を完結させる」ー『現代思想入門』P.172よりの我が纏めー

 

∞の謎に挑む⇔有限な行為を完結させる

 

とりあえずは其れが弐項対立して居りませう。

さて我の場合はどちらを選んで居ますか?

 

尚此処を良く読んで居られる方には我が右側を選んで居ることが良くお分かりの筈です。

ところが現代文明を貫く基本概念、つまりは其の進歩思想としてはあくまで左側を優位に捉えて居る訳だ。

 

 

ですから有限な行為を完結させることよりも其れこそカミオカンデなどの研究成果がより大事であったりまた宇宙のあり方が大統壱理論にて解明されたりまた火星への移住計画を進めたりすることの方が常に偉い訳です。

ですが我が認識は其れとはまるで違うのです。

 

詩人の認識はさうして🐈をあえて放し飼いしたりまたレトロ電化製品にて弐玉饂飩を使ったカレー饂飩を作り其れを食うことこそがほぼ完璧な迄の實存的な喜び其のものなのだ。

ですから其の価値観は確かに傍目には不可解なものと映ることだらうが其れはあくまで自分の中では大統壱理論が完成することなどよりも余程に大事な価値其のものなのだ。

 

 

まずはソコが多くの人には理解し難いことではないかと思われます。

ですが其れは現代人の多くが大と小の其の価値ヒエラルキーの扱い方を違えて来て居る訳だ。

 

また其のことこそがある意味で近代以前に新たな価値を与えることだと千葉先生は述べられて居る。

さらにミシェル・フーコー - Wikipediaが其の晩年にそんな古代に対する自己との関わり方を発見したなどともまた述べられて居る。ー『現代思想入門』P.172よりの我が纏めー

 

見せかけである進歩としての対象を求めて∞の挑戦乃至は幻滅としての悲劇ー現在としての悲劇ーを成立させざるを得ない文明の営為に対しまさに其れは示唆的な内容の話である。

其処で同時にわたくしがかって養老 孟司先生の思想を論じた折に抽象的な価値は至極危ないと申して居たことを是非思い出して頂きたい。

 

抽象的な価値が何故危ないかと言えば其の抽象的な価値即ち通貨などは経済的変動に巻き込まれれば紙切れ同然の価値となることからもすぐに分かることだ。

要するに近代的な価値は多かれ少なかれそんな危うさを抱えて居るものと見て置くべきものだらう。

 

其れでもって例えば此の処ずっと金の価格が上がり続けて居ますが金は具象物なのでとりあえずは其の価値の変動がさうして抑えられる訳だ。

ちなみに個人的には宇宙開発やまたネット空間と云うものは其の通貨並の不安定な価値しか持ち得ぬものだとさう感じても居ります。

 

 

されど、

∞の謎に挑む⇔有限な行為を完結させる

近代的価値観⇔前近代的価値観

 

とのことですので實質上は他の極を全否定することはほぼ不可能となる。

 

理性⇔本能

の弐項対立などもまた實質上は他を全否定することはほぼ不可能となる。

 

 

要するに其の弐項対立上で認識としてどちらを基軸となすかつまりはメインの認識として其れを据えるかと云う御話です。

其処で普通は所謂科学的な見方こそが理性的解釈だなどとも壱般的には見られて居りますが其れは必ずしもさうではありません。

 

個人的な見解ではあくまで科学的理性は自己矛盾し易くしかも狂信に陥り易い領域なのだと見て居る。

其のやうに壱つ間違うとまさに邪教の如くに胡散臭いものなのでもまたある。

 

では理性としては何を信じて居れば良いかと云う御話ですが、あくまで我の場合には人文的にマイナスの領域をも見詰め、すると其れが自然と限定されると云う御話です。

要するに∞の謎を追い続ける現存在とはむしろ今の満足や幸福を犠牲にしつつ只前を向き頑張って居るだけの存在であるに過ぎない。

 

ところが自然界ではそんなややこしい抽象的な価値の追求はせずとも、其れこそ野原へ行けば蝶蝶は樂しさうに羽搏いて居るのであるし地面では🐜達がセッセとエサを運んで居ます。

ですので其の価値が其の抽象的な価値よりも低く劣って居る価値だとはよもや言えぬ筈です。

 

実際にさうして現代思想を彩った高名な哲學者の連中も最終的には「有限な行為を完結させる」方での価値を基軸と為し論理を構築して行ったのです。

ジャック・ラカン - Wikipediaと云う高名な精神分析家などもまた其の後期にはドゥルーズガタリ的な「有限的喜劇」論的な精神分析となって行ったとも千葉先生は仰る。

 

 

無限的悲劇ー夢幻的悲劇ー⇔有限的喜劇ー實質的喜劇ー

其れのどちらが良いかと云う問題です。

 

尚自然界の営為には其の左側がそも欠け落ちて居ます。

と申しますか現存在の認識のやうに第弐の自然を生きるのでは無く元元自然は壱つきりでありしかも其れでもって完結して居ります。

 

つまるところはそんなややこしい抽象度の高い価値観としての生をわざわざ生きて御座るのが人間なのだ。

 

ジル・ドゥルーズ - Wikipediaの思想の内容は個人的に何故か相性が良いのですが實は此れ迄に本格的に學んでみたことが無い。

彼は70歳の時に肺病であることを悲観し投身自決したやうですがまさに興味深い現代思想家の壱人です。

 

 

いずれにせよ此れ迄にわたくしがあれこれと思案した挙句に導き出した思想的な帰結が現代思想の偉人達の考えと結果的に似て居たと云う御話をさせて頂きました。

其のことを至極簡単に纏めますとまさに以下のやうなこととなる。

 

1.現代社會が奉ずる抽象的価値からは努めて距離を取る

2.具象的に与えられる現前ー眼前ーの価値を大事にする

3.さうすることで今此処に生きることの幸せに気付く

4.同時に他己ー其れに気付かぬ人ーへの慈悲心が芽生えまたあらゆるものへの感謝の気持ちが生ずる

 

尚以上での精神の過程はむしろ個による哲學的な思索からのことです。

其のやうに其れは宗教などではまるで無い思考としての帰結なのですが何故か宗教的な意味での小悟にも似たものとなる。

 

5.他人の評価に煩わされること無く出来るだけ愉しく生きる。

 

 

現代社會は基本的に抑圧構造を取るものですのであくまで個人的には自己を守らんが為に精神的に対抗して置かねばなりません。

其れはわたくしのやうに理論化出来るのであればまたさうしても良いのであるし其れが不得意であるならば例えば動物を大事に育ててみたりまた樹木を育てたりすることなどでも良いのでせう。

 

いずれにせよ其の抑圧構造からの距離を取れる何か樂しいことを是非持ち合わせて置くべきだ。

また其のことが組織的な宗教活動などよりもむしろより本質的な意味で個が幸せになる為の要件なのだ。

 

いえ組織的な宗教活動をして心底幸せなのであればまた其れでも良いことなのですが…。

 

 

さて其の「有限的喜劇」はあくまで「無限的悲劇」にはなり得ません。

従って現代社會がどう其の「無限的悲劇」を突き進もうが個に於ける「有限的喜劇」を生きて居る限り希望は持ち続けて居られる。

 

価値は其のやうに外部から押し付けられるものでは無く自ら生み出すものであり且つ信仰するものです。

例えば教義などにせよ自ら生み出す力のある人であれば其れに従う方がより望ましい訳だ。

 

但し邪教としての教義以外の部分でこそ。

また左様に「有限的喜劇」を生きることは現代思想にも支えられし壱つの哲學的帰結です。

 

つまりは根拠のある哲學的帰結なのであり個に於ける妄想の類などでは決してありません。

政治権力を大批判すーあらゆる権力を否定的に見詰めてみるー

政治権力を大批判すーあらゆる権力を否定的に見詰めてみるー

 

 

 

 

愛知県知事「極めて不愉快、極めて遺憾」…旧統一教会の集会に送った祝電「韓総裁の賛美」に教団側が改ざん (msn.com)

 

でも其処でもって何をやったの、大村さん?

 

立憲民主党“統一教会”被害対策本部の初会合 | Watch (msn.com)

“統一教会”系の会合に自民党重鎮の姿…政界との関係どこまで? 苦しみ続ける元信者「地獄への恐怖」今でも… | Watch (msn.com)

「教団票の割り振りあった」旧統一教会めぐり自民議員が証言 票の差配に“派閥の長”が関わっていた (msn.com)

 

邪教の見分け方で一番分かり易いのが教祖乃至は其の👪がまるで神の如くに崇拝されると云うものだ。

 

されど眞の宗教者は其れとはまるで逆で威張らない=頭が低いものなのです。ー其の例=格下の空海に教えを乞うた最澄

また👪主義でも無い。-かって親鸞聖人は息子の善鸞 - Wikipediaが威張ったが為に義絶して居ります。-

 

尚人間でもって威張る奴は所詮馬鹿だと云うことです。

何故なら煩悩まみれにてしかも罪深い現存在に威張る資格などは何処にも無いのでありますから。

 

だから安倍や麻生もまた其の馬鹿です。

即ち威張る奴は例外無く馬鹿でありよってわたくしは威張るので其の馬鹿の壱人です。

 

但し常にマイナスの威張り方でもって威張って居ります。

つまりは本気では決して威張ったりなどはして居りません。

 

 

尚前回は我が國の宗教のあり方の胡散臭さに就き述べましたのですがかうして實は政治の方でも頗る胡散臭い訳だ。

壱つには権力と云うもの其のものが強く正しいものであるとの日本の封建體制を守らんが為の原理こそが自己矛盾して居るからです。

 

ですが所謂文化人とされる人人は其れとは眞逆に反権力志向、反権威指向が強くあるものです。

故に常に戦争に反対であり國家権力の暴走に対しても常に警戒感を抱いて居る。

 

また其れは所謂體制の上での右、左には関係無くさうなのです。

だからかの露西亜でもかってわたくしが傾倒して居たアレクサンドル・ソルジェニーツィン - Wikipediaなどは思い切りに反體制者でした。

 

なのですがソルジェニーツィンはむしろ愛國者だったのです。

スターリニズムを批判したが故に思想犯とされ投獄された訳でした。

 

さて高校生の頃に『イワン・デニーソヴィチの一日を読んだ時の衝撃が今でも忘れられない。A・ソルジェニーツィン、木村浩/訳 『イワン・デニーソヴィチの一日』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)

 

 

さて右、左には関係無くさうして権力は腐敗致します。

其れを見詰めるものがインテリジェンスなのであり文化の力なのだ。

 

文化の基軸とはさうして常に強いものに対する監視の眼差しのことである。

何故なら強いものこそが暴走するともはや歯止めが効かなくなる。

 

対して弱いものが暴走したにせよ社會が壊れると云うことはまず無い。

國家規模、乃至は文明規模で暴走することが危険な訳で尤も其れに対し大衆が加担して居たとなると大衆もまた文化の敵となります。

 

文化とは其の種の壱種潔癖な眼差しである。

まさに其の眼差しにてデカいものを見張り続ける訳だ。

 

ところで其の邪教統壱教會が蔓延るのだとして、果たして何故公安警察は動かぬのでせうか?

素朴な疑問としてまずは公安警察が其れを取り締まらねば誰も其れを取り締まる人など出ては来ないことだらう。

 

 

公安警察 - Wikipedia

警察と公安の違いとは?公安警察になる方法はある? (police-ch.jp)

 

其のエリート警察集団である公安警察は如何にも優秀な組織のやうに思うのですがそも何故邪教である統壱教會を監視しまた場合により排斥しないのでせうか?

 

旧統一教会の公安の監視対象から外されたのはなぜですか? - Yahoo!知恵袋

 

ですから、まずはさうした個人的な理由即ち👪主義だの近所付き合いだのからつまりはさうした感情面から警察権力が行使されたりされなかったりすること自體が極めて面妖な話です。

其れではまるで其れこそ封建時代に悪代官が沢山居たのと同じやうな御話で全く近代的なつまりは合理的な意思決定によるものではそもありません。

 

公安の監視対象には創価学会も入っていますか? - 公安といえば... - Yahoo!知恵袋

 

また創価学會が何で与党の壱員となって居るのかと云うことも良く考えてみますればまるで納得出来ぬことです。

尚自分は創価学會とは関係がありますが、ハッキリ申して日蓮正宗から破門された時点でアウトだとさう感じても居ります。

 

 

で、根本の問題はあくまで其の権力者のやること為すことは全部が正しく弱い立場の人間には価値が無いと見る其の見方其のものが邪教であると云うことだ。

其のやうな邪教に洗脳されて居るからこそ日本がかうしてダメになって行くのではないか。

 

さうでは無く實存の価値とは左様に汚れた力の論理とはまるで関係の無いものである。

どんなにみすぼらしく見える生命であれ其れは神の意の反映でありまた佛を内在するかけがえ無き命の輝きである。

 

まずは其れを見抜けぬ社會の組織上の認識に於ける駄目さ加減即ちおバカさ、ボンクラさ加減に嫌気がさしかうして文人は独り隠遁生活を決め込むのである。

 

全くのところバカバカしい限りでの御話です。

そも其の組織とは壱體何の為にありや?

 

 

組織がそんなえこ贔屓ばかりをして其れも悪代官にばかり擦り寄りおおイヤだ、さうしてカネと力と威張りにばかり擦り寄り嗚呼まさに人の見て居ないところでやりたい放題に酒池肉林を繰り広げて御座るからこそ今日本ではコロナが大爆発して國が壊れるか否かの瀬戸際だぞよ!

 

だからそも何の為の公安警察ぞ?

そも何の為の自民党ぞ?

 

ひょっとしてお前等やりたい放題をやりたいだけのことの為にさうして今を生きて御座るのではないか?

 

要するに我が考えでは日本を壊すのはグローバルな競争社會に乗り遅れたからなのでは無く何時まで経っても封建制をやってる其の時代錯誤其のものとしての組織のあり方こそがおおまさにかうして國を壊しつつあるのだ。

つまりは其の縦系列での権威権力至上主義での體制こそが正常な近代的合理性を其処に蝕みかうして日増しにボロボロに壊れて行くのです。

 

権力さえ握って居ればたとえ邪教でも〇だ=✖

権力さえ握って居れば其れが神であり佛だ=✖

公安警察の対象者が悪で公安警察の非対象者は善だ=✖

 

安倍は死んでもまだ偉い=✖

麻生はまだ死んで居ないが兎に角偉い=✖

自民党こそが國権の最高機関である=✖

 

ところで岸田は今何処へ行った?

何やら姿が見えぬが大丈夫なのかい?

 

 

日本國は兎に角伝統のある偉い國だ=✖

日本國はもうサイコーの國だ=✖

日本國はもうサイテーの國だ=〇

 

日本の警察力はサイコーだ=✖

日本の自衛力はサイコーだ=✖

 

但し、ああして安倍を射抜いた元自衛官としての彼の武器に関する能力だけは認めても良い。

 

愛國とは、其の愛國とは自民党邪教のくっつきを認めることだ=✖

愛國とは中國をやっつけ此の侭米國の🐶であり続けることだ=✖

愛國とは三島 由紀夫先生を崇拝し再度自衛隊へと突っ込むことだ=✖

 

即ち愛國とはケジメを付けることだ。

ケジメとは躾のことである。

 

躾とは武士道以前での初等教育のことである。

 

嗚呼ケジメの無いかの國日本。

 

威張る者が偉い=✖

威張る者は悪代官だ=〇

いまだに威張る安倍の國葬を是非取り止めよ=〇

 

 

要するに其のケジメの無さが今世紀に入りむしろ我が國では際立って来て居る。

まさに節操無く強い者か又は強い力にこそ群がり其れを価値として體制を組み立てて行くから其れこそ封建制國家である。

 

だが其の権力に擦り寄る姿勢からは少なくともまともな國家としての體裁を整えることなどは出来ない。

其のやうな認識では再びかの國は全体主義を生み出し挙句に権力の暴走を招き自滅に至ることだらう。

 

威張る⇔威張らぬ

 

理性に欠ける感情はさうして威張るものに傅き易いものだ。

だが眞の理性は常に威張らぬ方をこそ選択する。

 

 

旧統一教会系への献金実態を直撃! 石破氏「政治資金規正法に従い適正に処理」 鳩山氏「無思慮にかかわったことを大変反省」 細野氏、玉木氏らにも (msn.com)

 

政治権力は宗教的権威と同じくして腐敗し易い。

力は大きくなればなる程に理性による抑制力を失って行く。

其のことは政治にせよ宗教にせよまたどんな組織にしろ同様である。

 

またつまりは其処には「威張る」力が働くのである。

そんな「威張る」力はまた何処にでも働くものだ。

 

また其の「威張る」組織の上での力こそが御立派な制度なり組織なりを無力化するのである。

さう云うのを無言の圧力による権力の圧殺と云うのである。

 

まさに封建國家としての日本國はたった今其の権力による圧殺の部分を多く抱え込んでは居ないか?

今かの國がまさに夢も希望も無き國家となり果てて居るのは或はそんな「威張る」力の出しゃばりと其れに対する隷属がさうしからしめるところでのものではないか。

 

 

「威張るな!」

とさう壱言だけ日本の組織に対し申し上げたいところである。

 

現存在は皆馬鹿であり其の事を知る者はもはや自分を威張れなくなる。

威張る奴等が居れば居る程にかの國の精神はさうして乱れに乱れて行くのである。

浄土教に対する我が眼差しの大きな変化ー御盆の前にあえて佛教を深く考えてみるー

浄土教に対する我が眼差しの大きな変化ー御盆の前にあえて佛教を深く考えてみるー

 

 

 

 

ひろゆき氏、旧統一教会の問題巡り下村元文科相ら3議員を斬る - ライブドアニュース (livedoor.com)

ひろゆき 旧統一教会の献金問題、カルト宗教を猛批判!忖度なしの徹底追及に評価一転も(女性自身) - Yahoo!ニュース

ひろゆきの“統一教会”批判に称賛の声!「ぐうの音も出ない正論」「とても痛快」 - まいじつ (myjitsu.jp)

 

以前にも述べましたのですが、其のカルト宗教のタチが悪いことはまさに其の通りなのだが、此の問題の本質の部分とはむしろ日本の保守政治がかうして見境も無く反共且つ集票壱本槍でやって来て居た部分にこそあり其れ即ちもはや保守體制が劣化するに至って居ると云う部分にこそある訳だ。

日本の保守政治がまともであるならば少なくとも此処まで保守層が悩むことなどは無い筈だ。

 

つまりは日本の保守政党に於ける意思決定其のものがほぼおバカ化して来て仕舞って居る。

 

 

ー日本での布教にあたり、朴正熙への接近の際にも利用された反共理念が再利用されます。旧統一教会は1958年から日本で布教をはじめ、反共親米を掲げていた岸信介政権に接近しました。多くの在日韓国人もこうした動きに呼応していきます。

意外に思われるかもしれませんが、今日でも在日韓国人は反共保守で、自民党支持者が多いのです。彼らは日韓関係を重視することを前提に、自由主義陣営の盟主としてのアメリカを強く支持し、共産主義を敵対視するという思想構図が自ずと形成されており、旧統一教会が掲げる反共姿勢に共鳴したのです。

統一教会の反共理念は日本人保守層にも浸透していきます。当時の日本人で「勝ち組」とされていた勢力は、いわゆる敗戦利得者たちでした。彼らは戦前からアメリカに近く、アメリカにより政財界で枢要な地位に就けられていました。彼らが共産主義と戦う保守主義者として大きな力を持っていました。こうして反共親米路線を明確に掲げた旧統一教会は、日本人保守層(特に学生たち)を一気に取り込むことに成功します。

自由主義共産主義イデオロギー対立が社会変動の主要軸になっていたこの時代、旧統一教会は宗教的な布教だけでは自らの勢力拡大に限界があることを悟り、「政治的な布教」ともいうべき、新しい時代に即した布教方法を用い、日本でもその基盤を固めていったのです。日本の政権与党は、彼らの「政治的な布教」を歓迎しました。

統一教会に取り込まれているのは政治家だけではありません。多くの日本の保守を名乗る言論人が勝共連合の機関紙である新聞や月刊誌に寄稿したり、講演会に登壇したりするなど、少なからず教団との関係を持っています。日本でもアメリカでも、旧統一教会は反共というスローガンを自らの勢力拡大のために最大限利用してきたと言っても過言ではありません。旧統一教会は日本の保守主義のあり方を映す存在です。ー旧統一教会はなぜ日本に進出し、世界でも稀な規模に勢力拡大できたのか 『民族と文明で読み解く大アジア史』増補編5 (msn.com)より

 

かうして日本は守らんが為の封建制國家ですのでつまりは邪教だらうが何だらうが反共親米であるならばむしろ其れで良い訳です。

ところが米國はむしろ革新國家ですので其の後を追い続けて行けば其の封建制はもはや維持出来なくなる。

ですので其の封建制が壊れて行くのにまさに其れを守らんが為に反共イデオロギー固執政教分離の原則も何のその、兎に角革命だけは阻止せんとしてやって来た其の報いこそが今の保守政治の混迷振りー頽落振りーを招く。

 

つまりは保守の馬鹿なるものがかの國を支配しつつあり、でもってして所詮は馬鹿だから金融緩和を止められぬわ、また邪教と手を繋ぐわ、さらに食料自給率を上げられぬわで要するに國民を安心させるどころか逆に現在と将來が不安でたまらぬやうな國政しか築けぬ訳だ。

また自民党公明党とくっつくのも結局は集票力と云う現世利益的な数の論理でのことだ。

 

だが其れでは要するに保守政党としての節度に大きく欠けて居りませう。

ですのであくまで悪いのは其の邪教の邪な政治戦略にあるのでは無くまんまと其れに乗っかる日本の保守の側の頭の悪さにこそ有るのです。

 

 

氷川きよし「どうして差別するんですか?」、番組スタッフに逆質問「音楽はみんな一緒」 (msn.com)

 

以前に『趣味の園芸』と云う番組でもって屡氷川きよし氏は拝見させて頂いて居ましたが此の方は非常に優しい方です。

つまりは三度笠での股旅物の歌を歌うやうな人では無く御家に御花を飾り人生を愉しむのが生まれ付きに好きな方のやうだ。

 

尚我も半分位はそんな優しく女性的な人間ですので彼の気持ちが良く理解されます。

ですがまた半分位は戦前の親爺並の頑固な価値観の持ち主ですのでまさに其処からすれば自分の軟弱さがたまに酷くイヤになります。

 

 

 

一般的に死を恐れるのは、死によって自己という存在が消滅するという単に形而上的な問題を恐れているのであって、人間の実体が肉体ではなく霊魂であるという認識があれば、死ぬこと自体はどうってことないように思えた。僕が苦しかったのは死の恐怖というより、肉体の受ける苦痛からくるダメージの方だった。面白いと思ったのはパニックの中で人間って、結構、冷静にものを考えるもんだなあ、とわれながら感心したことだった。

 漠然と死を恐れる多くの人間は、物質としての肉体の消滅で、これは唯物主義的な発想からの恐れに過ぎないのではと思った。そういう人は死は虚無だという哲学を恐れているのであると僕は思いながら、肉体がいまいましく感じるのだった。僕はそんな虚無的なインテリの死の哲学など持ち合わせておらず、人間は死んだら、そのまま肉体を脱ぎ捨てて霊的存在となって、別の次元にいくと思っているので、死の恐怖はなかった。肉体の苦痛とは別に僕の想念は意外と冷静でこんなことを考えていることに、われながらちょっと驚きもした。苦痛を味わうのはまだ生の範疇(はんちゅう)で、死んではいない状態である。だからここで死が怖いというのはおかしいと思った。横尾忠則が心筋梗塞で救急搬送 死の入り口を垣間見て「次の領域が楽しみに」 (msn.com)より

 

死其れ自體は實存には捉えられません。

だから其れが怖いのです。

 

其れと人間には實體は無く要するに其れは認識上での仮象と云うことでせう。

其の認識上の仮象をこそ佛法では煩悩と呼びキリスト教では罪と呼び表す。

 

また動物は死など恐れては居ない。

何故なら死其れ自體を概念として認識出来ぬのだから。

 

 

尚現存在が死を恐れるのは逆に生に執着ー未練ーがあるからのことでせう。

だから生に対し執着が無くなる程に生に対し悩むー忌避するーとまさに死は解放ですから少なくとも其処に怖れは無くなることでせう。

 

重要なのは實存が生死としての形式を取ることであり要するに其の両義性からは決して逃れられぬことだ。

ところが其れは認識なのでさう認識されて居る迄のことで従って「生」其れ自體をまた「死」其れ自體を認識することは實存に取ってはあくまで出来ない。

 

死んだら終わりと云うのがむしろ禅宗や原始佛法の考え方で魂が残り其れが救済されると云うのがキリスト教浄土教での考え方なのだらう。

問題は實存に取り死其れ自體は認識され得ないが「死んでも良い」か其れとも「死にたくは無い」かと思う事で変な言い方ですが死としての着地点のやうなものが異なる気もまた致します。

 

横尾氏は其れこそお若いことからブッ飛んだ藝術家の方なので或は「死んでも良い」位にさう思われて居るのやもしれぬ。

尚我の場合は昔からむしろ何時「死んでも良い」位にさう思いつつ生きて来て居ます。

 

つまりは半分位は常に観念的に死につつ生きて来たので其れこそ半分位は「死は實存の解放」である位にも思って居る。

但し残りの半分は其れが常に不可視でありつまりは不可知且つ不気味な領域のものなのでもまたある。

 

 

 

尚御盆のことを先取りし今佛法のことに就き書いて置きます。

 

NHKオンデマンド | こころの時代~宗教・人生~ シリーズ 歎異抄にであう 無宗教からの扉 (4)「他力をえらぶ」 (nhk-ondemand.jp)

 

 

こちらのシリーズを今年になりずっと視て居りましたが最初からずっと素晴らしい内容の番組だった。

特に此の第四回は日本人の宗教観にも迫る内容深いものであった。

 

阿満利麿 - Wikipedia

 

此のやうに京大出身の先生による講義形式での番組です。

 

最も感銘を受けたのは所謂「彌陀の本願」なるものは善行の履行によるものでは無いとの浄土教に於ける善悪規定のあり方の部分でした。ー唯円による『歎異抄』での規定ー

 

 

其の善悪規定はそも相対的規定ですので善其のものや悪其のものを現象世界ー相対分別世界ーにて規定するか乃至は抽出し其れに拘ることによりむしろ誤謬が生ずる訳だ。

具体的に申せば今ゼレンスキー政権をのみ善と捉えまた露西亜の全てを悪と見做し其れを否定すれば認識上の誤謬に陥る訳だ。

 

また宗教のみが正しく政治の世界は汚れて居て悪だとさう決め付けることなどもまた認識上の誤謬に陥る訳だ。

但し其の現象界を離れ死後の世界に絶対的な善悪規定を持ち込むことは可能でまさに其れがキリスト教を始めとする壱神教的な認識の過程でせう。

 

尚わたくしは浄土眞宗をかねてより否定的に見詰めて居りまさにキリスト教の壱派である位に思って居りましたがどうも其の種の浅薄な理解では眞の意味での浄土思想の理解とはほど遠いやうだ。

さらに言えば本願念佛とは念佛の手段化のことでは無いのださうだ。

 

 

本願念佛⇔念佛の手段化

無私の祈り⇔現世利益の求め

 

即ち本質的には其の「無私の祈り」こそがまさに本願念佛なのだ。

 

「無私の祈り」とは此の苦樂がゴタ混ぜでの現象世界に生きて居ざるを得ぬ衆生への慈悲の祈りのことだらう。

其の「無私の祈り」とは己が幸福のみを追い求めることでは無く此の世の不幸=惨状を受け容れ其れに心を痛めむしろ其処から発する祈りのことではないだらうか。

 

まさに其の祈りこそが宗教の基底に横たわる慈悲としてのまた赦しとしての価値観であらう。

 

対して禅宗もまた原始佛教も其の「無私」をこそ目指す。

但し浄土信仰の「無私」の目指し方と其れとは違う。

 

されど「無私」を目指す其のことに違いがある訳では無い。

 

 

さらに阿満先生は番組中で自然宗教自然崇拝 - Wikipedia創唱宗教 - Wikipediaの違いのことに就き分かり易く述べられて居る。

 

自然宗教創唱宗教

 

自然宗教とは習俗であり慣習である宗教的な儀礼的行為のことだが創唱宗教とはまさに現存在の心を対象と為し其処より諸の苦悩を取り除かんとする精神的な教えのこととなる。

 

佛教及びキリスト教は其の創唱宗教である。

だが神道自然宗教としての性格が強くある。

 

創唱宗教では「救い」こそが重要なこととなるが自然宗教に於いては其の「救い」は目的とはならない。

 

 

尚此処日本では其の創唱宗教である佛法と自然宗教である神道がまるで別物であるにも関わらずほぼ同壱の信仰心にて扱われて来て居る。

其れが所謂神佛混淆神仏習合 - Wikipediaである。

 

其の神佛混淆は宗教に対し寛容であり良い面を生むと同時に其れを不純化して行く作用もまた持って居る。

 

法要(ほうよう)は、

  1. 本来の意味は、仏教において釈迦の教え(仏法)を知るということ。つまり仏法の要点・肝要を知ること。
  2. その後、上記の用語が転用され、法事・仏事・法会などの儀式祭礼などの仏教行事一般のことをいうようになった。

日本では、しだいに供養(追善供養)のことを指すようになり、その後一般的に死者を弔う儀式をさすようになった。法事(ほうじ)、仏事ともいう。

また死者を弔う儀式以外に、寺の創立記念や落慶(新しい堂宇の完成記念)や仏像開眼などの慶事も含む。

追善法要

追善(ついぜん)法要は、亡くなった者に対し、その者の冥福を祈って行われる法要または読経のことをいい、追福・追薦ともいう。特に亡くなった者の命日に法事を営んで供養することを追善供養と称される。ー法要 - Wikipediaより

 

つまりは法要とは当初全く違う意味でのもので其れはむしろ釈迦の教えに対する御勉強のやうなものであった訳だ。

ところが其れが何時の間にか所謂先祖供養の為の行事にすり替わって行ったのである。

 

 

尚、時折我は年老いた母に対し、佛前に🌸や食べ物等を供えるのは本来の佛教のあり方では無いので余り其れに対し懸命にならずとも良いなどと述べむしろ其れを大事に捉えて居る母の顰蹙を買って居たものだった。

要するに本来の佛法のあり方とは先祖供養の為のものでは無いのである。

 

まさに其の先祖供養とは自然宗教としての儀礼的要素が色濃くあるものなのだ。

 

ところが、である。

ところがお釈迦様御自身は先祖供養などはむしろ否定的に見詰められて居たのである。

其ればかりか御自身の遺骨などには決して拘ってはならないとさう遺言されて居た程であった。

 

要するに釈迦の佛法ではむしろ生きて居るうちが全てであり其の間に如何に個として認識を変えて行くかと云うことだけが佛法の内容なのであった。

尚今の我には其の仰る部分での意味が良く分かる。

 

現存在の心はさうして欲望まみれであるので其れをシフトして行かぬ限りは其れこそ幾ら先祖供養をやっていたって何の意味も無い。

だが現實としての日本の佛教のあり方はさうしてほぼ儀礼化し且つ自然宗教化して来て居る訳だ。

 

 

其の様やまさにお釈迦様の側から見ればほぼ謗法の域であらう。

 

其の先祖供養とは祖霊信仰から齎されるところでのむしろ現存在の感情面から発する行いである。

但し其の部分には現存在を本質的に救う力などは元より無い。

 

何故なら人間の心を救わんが為の宗教と宗教的な儀式、儀礼の類とはまるで別者だからなのだ。

阿満先生は其の部分を番組中で力説されて居りまさに其れが「常識の危うさ」を示すことでもあるとさう述べて居られた。

 

即ち本質的にはあくまで法要は現存在に取り無意味なことである。

だが浄土信仰は其れを無意味だとは受け取って居ない筈だとさうわたくしは誤解して居たのである。

 

左様に浄土信仰は意外と潔癖である。

まさに其のことが分かっただけでも此の番組より學んだ点は大きかった。

 

 

さて此の世界はさうして常に矛盾的に推進される何かである。

其の理はほぼ永久的に現象に付き纏うものだ。

 

であるからこそ其れを苦と捉える佛法は其処から本質的に去る方法を考え、またキリスト教は現存在の価値観を須らく神の次元へと持ち上げやうとする訳だ。

 

上記でのことより浄土信仰の場合も現存在の認識を根本より変えやうとして居ることがしかと分かる。

其れが佛の方なのかまた或は神の方なのかまだ自分の中では釈然としないのだがとりあえずは浄土信仰が祖霊崇拝や現世利益成就の為の教えではそも無いことが其処に判然とした。

 

まさに其のことこそが佛法解釈に於ける個人的な歓び其のものなのだ。

 

嗚呼まさに其れは御盆にて墓の世話をし僧侶の読経に付き合わねばならぬなどと云う現實的且つ物理的な側面よりも余程に我が心を揺さぶる出来事だったこともまた確かなことである。

つまるところかうして今年の場合は其の重要な佛法に関する気付きの面がよりにより御盆の前に我に訪れたのだった。

 

 

尚其の八月は其の盆の僧侶との対応や墓での準備などもあり忙しいが故に此処も八月前半を休むこととした。

尚我は其の御盆でも何でもお構いなしに佛法上の難しい議論を僧侶に対しふっかけるからまさに厄介な奴である。

 

けれども拾年位前に浄土眞宗の御住職に対しまさに其れをしてみたところとりあえずは其れに対しきちんと答えて下さったのである。

其の御住職はすでに亡くなられ代は若住職の方となって居るが實は其の若住職にも参年程前だったか、佛法の上での悩みは常に尽きません、とか何とか偉さうなことをまた述べて居るのである。

 

左様に我は僧侶に対しても常にストレートにブチ当たる方なのでまさに今年は何が起こるものかとさうも思うのだがとりあえずはそんな経緯にて浄土眞宗に対する我が印象が頗る良くなったことに就き今回述べさせて頂いた積もりである。

 

 

佛法を學ぶ上では左様に観念的な整理や納得する部分こそが大事である。

むしろそちらの方が其の儀礼、儀式としての供養の成否などよりもずっと大事である。

 

佛法は元元極めて理性的な方だった釈尊により創出された救済宗教としての壱つのあり方だ。

其れでもって其の御釈迦様御本人が供養や墓が大事だなどとはまるで述べられては居ないのである。

 

故にむしろ供養や墓に拘ることをまずは観念的に滅し去ることこそがより望ましい在家の佛道修行者としての認識なのである。

ではあるが我が國の佛教のあり方がさうして自然宗教としての要素を受け容れたものでもある限り其れを全否定はせず其れにもまた付き合ってみる位の心持ちにてあえて其れをやって置くべきなのであらう。

 

 

しかしながら親鸞聖人其の人が、「父母の供養をせんが為に念佛を唱えしことは壱度も無い。」とさう仰せられた其のことの意義は兎に角大きい。

よって御盆なるものはまさに習俗であり儀礼であり儀式であるに過ぎぬものだ。

 

なのだけれども其れもまた眞の意味での佛法と出遭わんが為の架け橋の壱つなのでもまたあらう。

つまりはまさに其れが佛法に対する入口であり御縁其のものなのである。

 

其の機縁を大事なものとして捉え御盆其れ自體を見下すことなくまさに其れを受け容れて行くことこそが我に取っての壱つの修行なのではないだらうか。

 

 

さてまさに人は死んだら其れで終わりだが個人的にはどうも其れだけでは済まぬやうな気がして居る。

其処にて相対分別が終わりを遂げ認識がより高次化されて行くー解放されるーのかと言えばどうもさう上手いことは行かぬやうで死後の生、又は魂の継続のやうなものが現存在の認識の愚かさに応じて成り立って行くやうにも思われる。

 

さうした捉え方は常見の方であり、其の逆の捉え方が「死んだら全部が終わり」と云う断見である。

御釈迦様の考え方は其の弐項対立に於ける対立要素の弐重否定で、要するに現存在は常見としての死では無く且つ断見としての死では無い死を死ぬると云うことになるのではないか。

 

但しあくまで佛としての死の場合には。

 

 

では凡夫の場合は其れがどうなるかと考えるとたとえ死んでも結局は其の煩悩の業火の力が強いので又現象世界へと舞い戻って来る可能性が高く感ぜられる。

但し其処での凡夫の認識の場合は「あれ、嬉しいな。」であり聖人に近い認識の場合には「ありゃ、困ったな。」となる。

 

其の認識の方向性がそも逆方向なのだ。

 

だから其の先祖供養の場合も其れこそ聖なる佛教徒の方方は其れを良いことだと思いさうされて居るのでは無いのである。

つまりは其処に矛盾を感じつつもさうせざるを得ぬことだらう。

 

 

ちなみに佛法を學ぶ時に最も役に立つのは其の認識上の方向性の違いを知って置くことだらう。

故に👪や家が恙なく存続することやまた國や組織が存続して行くことやまた長生きをしたりすることなどが佛法上大事なことなのかと其処に問えば其れは大事でも何でも無いことなのである。

 

だからと言ってまるでオウム教の如くに👪も國も亦オウムに敵対する者も全部殲滅するぞ!などと云うのは其れは完全なる邪見と云うものだ。

ではどう認識するかと云うに、

 

常見⇔断見

正見⇔邪見

 

との両義性を見据えた上でまさに半分ずつ其れを見詰めるのである。

其れでもってどちらかに傾きさうになったらあえて逆方向を強めに見詰めてみるべきだ。

 

わたくしの宗教論は左様に弐元的対立をむしろ其の侭に残す=有として残す考え方なのだ。

残すのであるから佛法的には異端ながら壱方キリスト教などからは理解され易くなるのではないかしら。

 

 

いずれにせよ善悪対立を壱神教のやうには築くことの無い浄土教としての眞理のあり方には今回可成に驚ろかされた。

まさに壱発ビンタでも喰らったかの如き感じである。

 

またまさに此の時点で浄土教に対する我が眼差しにも大きく変化が訪れたのだとも言えやう。

今あえて見据えてみたい「スロー建築」としての高い価値の實現ー建築家 伊東 豊雄氏のスローな思想に學ぶー

今あえて見据えてみたい「スロー建築」としての高い価値の實現ー建築家 伊東 豊雄氏のスローな思想に學ぶー

 

 

ー 日本では、宗教法人は「収益事業」以外は非課税です。

 まともなお寺や神社は日本の文化を支えています。でも、神社仏閣の修繕費すら出せない状況です。一方で、カルト宗教までも非課税なのはおかしい。まともな宗教とカルト宗教で扱いを変えるべきだと思います。

 

 現状の社会は、お金を稼ぐスキルのない人は、社会に参加することが難しい状況になっています。社会としてできることがあるとしたら、地域の清掃や整備、部活動の手伝いや勉強の補助などを広く住民から募集して多少の手当を支払うなど、お金を稼ぐほどのスキルがなくても社会に貢献して人間関係が作れるような仕組みを作っていくことが大事な気がしています。


 でも、金融緩和による円安は一部の輸出産業にメリットがあるだけで、日本全体としてイノベーションが起きる環境にはなりませんでした。それは未来を考えて新しいことを推進していくよりも今が良ければいいという、安倍政権以前からの動きでもあるとは思います。消費税を上げたのも失敗だったと思いますし、アベノミクスが間違いだったというのが認められない状況を作り続けているのはよくないと思います。ひろゆきが直言「安倍氏の死を嘆くのに、カルトを規制しない自民党に怒らない人はアホ」 (msn.com)より

 

本質的には日本社會は「守る」社會であり其れはつまり👪や企業や郷土、其れに天皇制を守らんが為の社會なので其の守らんが為の価値観が近代的合理性とはそぐわずつまりは矛盾化して居ります。

でもって其の自民党壱党支配の政治によりむしろ緒矛盾は加速し行われて来無論のこと其のアベノミクスは世紀の愚策でしたが日本國民の頭の中身其のものが安倍=善の統治者とさう洗脳され切って居るが故にもはや其の政策の是非すらもが分からなくなって居るのです。

 

其れも見識が高くある其れこそひろゆき氏や我やまた此処の読者の方方以外は。

また日銀の黑田などもまた其の安倍のバカ壱派です。

だからほぼキチガイの如くに其の金融緩和に固執しおおまさに今日本の中間層以下の暮らしを破壊しやうとさえして居ます。

 

だが其の守らんが為の封建社會にはそも限界がある。

其れも近代に於いて封建體制が矛盾すると云う至上の命題である。

 

逆に鎖國し自給自足にてまた徳川が幕藩體制を布くやうでしたら日本は助かる可能性も御座ります。

つまりは新たな幕府を開かねばなりません。

勿論其の場合には近代的先進國家であることを自ら放棄しまた江戸時代へと戻るのです。

 

またまさに其の「今」を守るのが封建國家のやり方です。

ところが「今」を守るのは近代國家では通用しません。

仰るやうに技術革新を目指し未来を担って行くのが近現代社會としての基本テーゼです。

 

ですので此の侭ですと其れこそほんたうに日本は沈没して行く虞がある。

よっていっそのこと脱近代化し先進國であることをもはや止める手などがあるのやもしれぬ。

 

其の選択での壱つに江戸時代へと戻り鎖國化する手がある訳だ。

また今壱つには独逸と伊太利亜との同盟関係を新日独伊参國同盟として復活せしめあくまで體制的には戦前へと戻すと云う手がまたあらう。

但し其処にて軍國主義をまたやる訳では無く其れこそ独逸の如くに理性的で且つ環境や社會的救済重視の政策を取り入れまた伊太利亜からは藝術的に生きることの素晴らしさをしかと學ぶことが可能である。

 

尚此の場合には近代的先進國としてのパートナーを変えると云う御話だけですのでより現實的な選択ともなりませう。

 

よって其の場合には勿論日米安全保障の関係を破棄する必要が御座ります。

要するに全ては日本と云う國が實はとんでも無い矛盾の國であったと云う其れこそ日本の近代化の頃より引き摺られて来て居たデカい問題点があったが為に其れがたった今顕在化したことであるに過ぎません。

 

また壱つには其れこそ中國の属國となる御話ですが此れには拒否感を感ずる人がまた多いやうなので世界が革命されぬ限りはさうはならぬことなのやもしれません。

まあ要するに自民党による壱党支配體制によりほぼ日本國はダメ化されて来ても居ります。

 

其の宗教と政治の癒着の問題にせよ其れは自民党による意思決定がそも反共壱本でありまさに其れがイヤだから邪教ともくっついちゃったと云うことですので其れは左翼の問題なのでは無くまさに體制の側での大問題=守る側の大矛盾です。

さらに言えば安倍はそんな國規模でのおかしなことに巻き込まれ死んだのだとも言えるがでも其れは結局自業自得でのことだったのです。

但し思えば安倍もあれほど頑張ったにも関わらず最期は暗殺ですから確かに其れは酷い話でありまさに其れは現實の恐ろしさを如實に示す話だらう。

 

まあ左様に日本の政治家は今皆可哀想です。

また日銀の黑田にせよ「してはならぬことをせねばならぬ」と云う自己矛盾の世界へと完全に陥って仕舞って居ます。

 

日銀の黑田もまたおそらくは金持ちなのだらうが我我貧乏人の方がそんな精神の地獄を生きずに済む分だけまだしも幸せと云うものだらう。

尚前前から申して居りますのですが所謂現存在に取っての「幸福」とは、

 

1.精神的な意味での幸福

2.物理的な意味での幸福

とがあり、まずは1.の方が問題ですので其の1.の無い2.の充足者はむしろ不幸へと陥るのです。

 

逆に2.を限定した場合には1.が得られ易くなります。

とりあえずは暮らしを何とか回して行ける限りに於いては其れこそ安倍や黑田などよりも貧乏人の我我の方がむしろ幸福感は得られ易くもなる。

 

つまりは地位や名声に恵まれさらに金持ちの連中は幸せにはむしろなりにくいのだ。

何故ならデカい矛盾がおおまさに彼等には容赦なく降りかかって来るからだ。

 

尚其の安倍の全てが馬鹿だったと見抜いて居る人は知識層でもまた少数派なのだと思われます。

其のことをかうしてハッキリ仰ったひろゆき氏の勇気には是非拍手を送らせて頂きたい気分です。

 

其のやうに此の國ー日本國ーの意思決定は基本的に合理性の部分にあるのでは無く須らくがむしろ前近代的に構築されて居ると見て置いても良いことだらう。

其れと宗教其れも邪教が蔓延ることに関してはまた非常に難しい問題であり課題です。

 

またよりにより其の極めて難しい問題を孕む政治と宗教が癒着して居るのでさらにややこしい話となり変な言い方ですが此のわたくしにもどーしたら良いかがまるで分からぬ程である。

 

 

 

 

さて本日は午前中にEテレにて高校講座「美術」を視て居たところ其処でまた新たな學びがありました。

 

【住まいの未来】土に近づき風が抜ける、 自然と人に触れる暮らしを|朝日新聞デジタル (asahi.com)

 

其の伊東 豊雄と云う高名な建築家の作品にいたく感銘を受けました。

此処での「被災地が教えてくれた、ともにあることの大切さ」と云う文章の中に其の感銘に於ける全ての内容が込められて居ます。

 

自然から乖離した都市型の建築→地域と共に歩むみんなの為の家

東日本大震災を経験した伊東氏は都市型の見せんが為の建築が此処日本に限り實質的な価値を生み出すものでは無いことに気付かれたのだと思う。

 

 

どだい日本の家屋と云うものは例えば家の母屋ー昭和初期の家ーの方がまさにさうなのだが、壱言で評して「自然と同居」する家のことです。

故に大きく縁側が取られて居て其処にはガラス戸乃至は網戸が設えられて居るので庭の様が全部見える訳だ。

 

家の其の縁側ももはや古くなりあちこちが痛み陥没と申すか歩くと僅かに下に下がることさえもがあるのですが其れでも其の縁側に佇むだけで何処か心が休まります。

丁度壱箇月程前に其の少し危ない縁側に靑畳を四畳分程縦に入れたので其処に寝転がるとまさに良き塩梅にて庭を眺めつつ本などを読むことが出来る。

 

また家の庭には常に庭師を入れては居らずよって様々な雑草や蔓植物だのが繁茂し其れが網戸を伝い美しい弧の模様を描いて居たりもまたする。

ー要するにまさに其れはアール・ヌーヴォーの曲線美の世界でありしかも自然が織り成す本物としての美の世界でのものだー

 

其のやうな美をかっての日本人はむしろ普段から愛でつつ暮らして居たことでせう。

我はかうした壱種気難しい人間なので人生と申しますか社會に対しては常に文句タラタラなのですが、唯壱心底より感謝して居るのはまさに此の家でもって生の大半の時間を過ごせたことだった。

 

 

震災の復興計画の中で伊東先生が造られた家は大都會での先生の作品などとはまるで違う「みんなのー為のー家」だった。

其れは基本的に木造の壱見何と云うことも無いやうな家です。

 

ですが此の木造の家にこそ日本の自然環境に向けられた明確なコンセプトが込められて居る。

まさに其れが「自然と共に生きる」家であることだ。

 

逆に申せば此の日本の自然環境の中で幾ら都市型の近代的住居を造ったにせよ其れは壱時的な価値にしかなり得ません。

其処ではデザインのみが遊離し藝術作品と化して仕舞うのみで人間の生活自體がむしろ見えなくなって仕舞う。

 

 

建築家伊東豊雄の建築作品10選ー代表作から初期の作品までご紹介 | 建築LIFE (takearch1894.com)

 

かっての伊東先生の作品にもかうしてまさにそんな部分が如実に表れて居たやうだ。

ですが震災以降は作品を創る際の考え方が大きく変わったとさう番組中で述べられて居た。

 

要するに藝術作品として評価される部分が大事なのでは無く人間の生活に即した住宅であり壱つ壱つの住宅の要素であることが最も重要です。

つまりは所謂「用の美」が備わりしかも其処に自然の光と風を感じ取れるやうな家こそが眞に人間に取り求められて居る建築なのだ。

 

伊東先生が仰るやうに「自然に近く」、また「開かれた」家こそが所謂古民家としての日本の住宅のあり方でした。

其れこそ昭和初期に造られた我が家の母屋はまさにそんな家です。

 

ところがもはや古い家ですので其れこそ網戸は傾いで締まりは悪く其の少し開いた部分から藪蚊が幾らでも侵入して来る訳だ。

故に常にキンチョウの蚊取り線香を焚いて置かねばならぬ。

 

ですが此のところは雨降りの日が続き涼しかったこともあり其の靑畳の布かれた縁側に寝そべり蚊取り線香を焚きつつ難解な本を読んで居たり致しますともはや其れは壱つの隠遁の世界其のものと化す風情であり、しかも其処にスナック菓子と氷飲料などを持ち込みますればもはや其れは極楽の世界と化しおそらくはどんな高級別荘地にも劣らぬ精神的価値さえもが其処に現成されて居ることだらう。

 

 

嗚呼、藪蚊よ、まさに良い夏の壱日だねえ。

お前等を退治しやうとして庭の石臼の中に洗濯の洗剤を撒いたことをどうかどうか許してお呉れ。

 

ですが其の数日後に今度は蚤が大発生し故に其れを根本的に退治してからまた其の風流をやって行くこととなります。

 

また「豊かさとは何か?」と云うことに就き根本的な発想の転換が必要だと伊東先生は仰る。

實は豊かさとは其の縁側での寝そべりでありまた網戸の向こうの庭から吹き込む風を直に感じ取ることでありまた藪蚊にもあえてさうして刺されることなのだ。

 

其れとは眞逆の発想なのが主に大都會に展開される大きな建築物群が表すであらう緒価値です。ー高層ビルだの高層タワー群ー

即ち都會での価値は外界ー自然ーと人間の居住空間を遮断しまさに合理化された住環境に徹しやうとする。

 

ところが其ればかりをやって居ると逆に何が大事な価値であるのかと云うことさえもが分からなくなるのだった。

即ち其の種の人工環境、人為的な住環境の中には何かかう本質的な価値上の誤謬さえもが潜んで居る。

 

 

尚わたくしがそんな人工環境、人為的な住環境から離れいま少し静かなところで自らの思考や感度をより研ぎ澄ませて行きたいとさう常に願って居るのは畢竟其れも我が文人気質であり所謂普通の方方よりは生に対する見識がより高くあるが故でのことでせう。

 

幸か不幸かそんな心の性質を生まれ持った我はまさに其のことをこそ此の世で追い求めつつ生きて行かざるを得ない。

其れでもとりあえずはかうして自己に取り出来得る範囲でのことでやって来ては居る訳だ。

 

さうしてむしろ其のことに至って満足して居るのだとも言える。

さうしてイザ価値を限定すれば今でもって充分に幸せである。

 

 

また仰るやうに窓や網戸、またベランダやテラスなどこそが住環境としての自然環境との接点です。

ですのでわたくしはかうして窓だの網戸だのに常に拘りまたバルコニーでの日光浴にこそ生きる喜びを感じて来ても居る。

 

ところが最近家の近所の家が新築となると何故か皆窓が極端に小さく如何にも風通しが悪さうな家ばかりとなるのです。

まずは其の住環境としての思想のあり方其のものが違うのではなからうか。

 

尚窓が小さいと冷暖房のみに頼る室内環境となることだらうが例えばわたくしの部屋の南側面は参分の壱程が大きなガラス戸となって居り故に昼間など電灯は要りません。

また其の大きなガラス戸を開ければバルコニーにもなって居る訳だ。

 

故に其れを締め切るのでは無く夏でも冬でもまたエアコンをかけては居てもガラス戸を開け庭から吹き込む風を感じたりもまたして居ります。

此のやうにどうも日本の住居其れ自體もむしろ昔の物の方が良かったと云う感じがしてなりません。

 

 

ー伊東氏はこれを、台中国家歌劇院の場合と同様、10 年にわたるプロセスだと考えている。「スローフード」ならぬ「スロー建築」であり、現地調達の材料や素材を使用し、地元にある手段を用いて何かを作り出すのだ。ー伊東豊雄氏の次なる建築人生: 大三島の活性化 (autodesk.co.jp)より

 

其の「スロー建築」は「スローフード」や「スローライフ」と同じくして何か特別なことをするのでは無く只価値認識を進歩壱遍倒にはせず過去の良さをも見詰めた上で行う言わば限定的なものなのだと思われる。

よってむしろ近代的な意味での進歩主義=合理化の部分から必要無き合理化の部分を削ぎ落として行くことでもまたある。ー壱種の逆合理化ー

 

謂わば近代化が齎す要らぬ進歩的価値の部分を慎重に取り去り其処にあえてシンプルで且つベーシックな価値を組み込むと云う作業のことなのだらう。

元來其れは難しいことでは無かった筈なのだが近代化と云う進歩主義があえて其れを現在には復刻が難しいものとして規定して行った訳だ。-さうして過去の価値として切り捨てて来た-

 

さうして近代化は常に何か新たなものを欲して止まぬ訳だが其の新しいものの集積の果てに人間としての眞の意味での幸福が宿って居るかと云えば其れはさうでは無いやうに思えて来てならない。

個人的にはあくまでさうして「限定」されることでこそ眞の意味での人間に取っての幸福の形が見えて来ることと思う。

 

人間に取っての幸福のあり方とはかうして基本的にシンプルで且スローに設定されるべきものであるやうに思う。

即ち「求め過ぎない」価値こそが持続可能性のあるしかも快適な価値である筈なのだ。

 

其の逆に常に「求め過ぎる」現代文明は其の持続可能性どころか何時の間にか自然の破壊者となりて地球の未来をも蹂躙しつつある。

よって地球の未来や文明の未来を見据える「求め過ぎぬ」価値の醸成こそが文明のさうして現存在に取っての長持ちの秘訣なのである。

ー「求め過ぎぬ」価値=あえて立ち止まり過去を振り向くことであり或は地域や人間の特殊性の部分に価値観をあえて限定することー

 

 

尚本日は夕方庭に出ると蠟梅の枝からつる植物が垂れ下がって居り、其れが地面にまで達して居ました。

丁度其処へアゲハ蝶の番が樂しさうに舞い降り其れの眞ん中辺りで抱き合わせて止まりまるでアゲハのモニュメントのやうな様を形作って居た。

 

かように自然があれば其処に必ずや美は生じ、また何処からともなく生命が来たりて其処に生の歓びを語るのです。

其のことが分からぬ現代人はしかしながら不幸である。

 

故に現代人が欲すべきものは社會ー文明ーでは無く美ー自然ーです。

また其のことも分からぬ現代人はしかしながら不幸である。

 

 

尚詩人は最近書き疲れて居ますので壱週間程夏休みを取りますが木曜日にはまた出て参ります。

何故か木曜日の夜にのみ此処は物凄く人気があるので無論のこと其れは読者へのサーヴィスの積もりです。