目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

さうして忙しくあるのが🌸でもしも其れが無くなったら人間は終わりであるーそんな夏休みの遊びの数数に就いてー

さうして忙しくあるのが🌸でもしも其れが無くなったら人間は終わりであるーそんな夏休みの遊びの数数に就いてー

 

 

 

 

愛知:高校野球県大会 東邦―愛工大名電 きょう決勝:地域ニュース : 読売新聞オンライン (yomiuri.co.jp)

愛工大名電、甲子園へ 2大会連続14回目 全国高校野球愛知決勝 | 毎日新聞 (mainichi.jp)

 

尚本日TVにて視聴したが此れは大変面白い決勝戦だった。

 

兎に角面白かったので後はもはや甲子園の試合などは視ずとも良い。

兎に角やることだらけなのでそんな壱種の抽象的な価値になんぞ付き合って居るヒマなどは無い。

 

尤も運動もまた壱つの才能なので甲子園に出るやうな野球部の人人はまさに有名大学へ頭の良さから入るやうなもので運動神経の方が特別製なのである。

愛工大名電高校とは勿論アノイチローの母校である。

 

幼い頃より大中日ドラゴンズファンであったイチローは兎に角中日ドラゴンズへ入りたかったのだが中日ドラゴンズは彼を指名せずよっていまだイチローは其のことを多分怨んでおるのだ。

よってイチローは地元にはもはや帰って来ない。

 

 

またイチローチチローと喧嘩して居るので余計に地元には戻って来ない。

 

稲葉篤紀 - Wikipedia工藤公康 - Wikipedia槙原寛己 - Wikipedia、其れに金田正一 - Wikipediaなどは皆愛知県人である。

 

此処愛知県は昔から野球が盛んな処なのでかうして超有名な野球選手が多く輩出して居る。

 

ちなみにカルトな話をすれば稲葉は少年の頃イチローが通ったバッティングセンターへ良く通って居たさうである。

また工藤は我より四歳下だが矢張り少年の頃は名古屋市内のバッティングセンターへ良く通って居たさうで、と云うことは昔わたくしの趣味が其のバッティングセンターへ通いホームランの看板に当てることだったのでおそらく何処かで鉢合わせをして居た可能性が高くある。

 

尚我は昔そんな強打者だったのであるがかうして何せ組織が嫌いなので野球を組織的にやったことは無い。

また剛速球も投げて居たが何かの折にスピードガンで測ると120キロ行くか行かぬかのものでまるで大したことはなかった。

 

要するに我は野球センスなどまるで持ち合わせては居ない。

 

但し廿代中頃に剛速球の打てる東山テニス倶楽部の横のバッティングセンターへ屡通い其の折に150キロの速球をほとんどホームラン性の当たりでもって打ち返したことが生涯に壱度だけあった。

ー其のバッティングセンターは其の後直に無くなったー

 

 

特別展「宝石 地球がうみだすキセキ」 (hoseki-ten.jp)

 

さてこちらの方は九月に入り行った方がガキ共が少なく落ち着いて観られさうだ。

ガキ共は大抵は御勉強の邪魔となり即ち思考に取りまた別ものとしての何かとなるものなのだ。

 

また宮崎 美子以下の知力の👩共の価値認識もまさに其の思考の邪魔をすることが實は多い。

が酒や會社組織や何やかやでもって認識が濁った👨共もまた思考の邪魔をすることが往往にしてあるものだ。

 

要するに眞の意味で理性的に生きて居る人など世間にはほとんど居ないものと相場は決まって居らう。

 

 

輝け!第一回 徳林寺 盆踊り大会 (ktbt2022.com)

 

おお何と!!

何と其の相生山徳林寺での第壱回盆踊り大會が本年度より行われることがかうして分かった。

 

勿論其れを是非観に行かねばなるまい。【東海】名古屋市緑区・相生山徳林寺へ | ayano hamada (hamada-ayano.com)

で、此処の読者のアナタ方には何故我が其れを観に行かねばならぬのかと云う其の理由がお分かりとなる筈である。

 

即ち哲學的にはまさに其の我と徳林寺の間に横たわる實存的価値こそが重要なのだ。

また例えばまだウクライナでは戦闘が継続されて居るが其の戦闘を幾ら心配したにせよ其れは何ともならぬものなのである。

 

つまりは其の観念として捉えられる認識上の抽象度への距離を短くする、即ち限定することで今自己に取り何が大事な価値であるかと云うことがまさに具象的に了解されやう。

従って、あくまで今の我に取り、

 

世界平和<徳林寺での第壱回盆踊り大會

なのである。

 

 

何が違うの?3つの禅宗の違いとそれぞれの教え【曹洞宗・臨済宗・黄檗宗】 - YouTube

 

尚、所謂「眞理」を指向して居られる方方は上の部分を是非御盆の前迄に學んで置いた方が良いことだらう。

 

ちなみに徳林寺はとりあえず曹洞宗の寺ですが或は御住職の方針でもあるのか宗教や宗派の違いなどには拘らずにどちらかと言えば弱い者、疎外されし人人を助ける寺のやうですのでまた其処も余り関係無いと言えば関係無いのだがあくまで御勉強は御勉強である。

其の御勉強はまさにやれる時に徹底的にやらねばならぬものだ。

 

どだい御勉強は生きて居るうちにしか出来ぬものだ。

つまりは御坊様方と対等に法論を交わすことが出来る程に御勉強を是非して置くべきだ。

 

其の御勉強の時間は最低日に拾時間程が必要だ。

でも其れでは日常が成り立ちませんが…。

 

馬鹿者!!!

そんな日常など放り出して修行に専念せずしてどうする?

 

 

おわあっ、何故か今花火の音がして居る。

では早速寶蔵寺ー西八幡社ーにて見学に行って来ます。

 

寶蔵寺ー西八幡社ー及び天白川の土手まで行って観てみたがどうも遠いやうでまるで観えなんだ。

 

其の花火が観たい、どうも観たい。

さうしてわたくしは🎆フェチなのでもまたありかって地元で凄い🎆體験をしたことがある。

 

其れも岩崎の山の上から🎆を観て何せ山なので目の前にて🎆が炸裂するのである。

其れを確か弐度程は観て居る。

 

 

🎆も有名な🎆大會程凄いものだが我が目指して居たのは其の🎆其れ自體の凄さなのでは無くそんな観方の凄さの方なのであった。

 

其れといまひとつも矢張り日進町の🎆大會で其れを何と田んぼの眞ん中より独りで観るのである。ー田んぼにはちらほらとは見物人も来ているが間隔が大きく有り其れが誰だかまるで分からないー

左様に🎆其れ自體の優劣では無く🎆の観方の方こそがより大事である。

 

兎に角其の夏の行事等で此の八月は我に取り大変忙しくなる。

だからもう全部が夏休みだよ。

 

 

さても徳林寺では盆踊りに参加する御積もりなので?

 

まーさか。

只遠巻きに眺め観察するだけのことよ。

 

まずは其れこそが文人としての責務である。

左様に文人とは何より其の生の観察者のことなのだ。

 

おお其れから石展もまた開催されるのである。名古屋ミネラルショー | 【公式】名古屋市観光情報「名古屋コンシェルジュ」 (nagoya-info.jp)

 

もしや其れもまた行く御積もりで?

はい、多分行くことでせう。

 

 

しっかしアンタ壱體何をやってるのだ?

いやかうして只ひたすらに遊んで居ます。

 

うーん、確かに悪い遊びは壱つも無いのだが何だか知らぬが遊び過ぎでせう。

いや御勉強の方が過ぎると結局は頭にも良くは無いのでかうして努めて遊ぶことにして居る。

 

要するに遊びから人生を回して行くと云う其の価値をこそ是非哲學的に追求して行きたい。

 

さうですか、どうも御目出度い人だ。

左様に何と言われましてもまるで我は動じず。

 

さうあくまでわたくしは其の現存在としての「有限的喜劇」を演ずる役者の壱人なのだから。

 

 

ー 同じ鉱物・ルースのコレクターとはいっても、コレクションの仕方は十人十色である。だからこそ長く収集を続けるならば、原石かルースかにかかわらず、一般的な価値判断の基準を学び、それに対して自分なりの購入基準や収集方針を確立する必要がでてくる。本書は読者にとって、単なるノウハウ本でなく、コレクションにおける一般と個人の価値観について考える契機にもなるだろう。

 『ルースコレクターズ・マニュアル』著者のなかがわ氏は、本書の“裏”参考書として、ニーチェの『道徳の系譜』やプルデューの『ディスタンクシオン』を挙げている。自身のルースに対する考えをまとめるうえで参考になったという。非常に実用的なノウハウを集めた入門書ではあるが、おのれの「価値観」が問われる世界だからこそ、それについて本質的に語ろうとすると、根底に哲学や美学、歴史学、人類学などの人文科学的素養が求められるのだろう。ー

美しい石の収集をめぐって――『鉱物語り』『鉱物コレクターズ・マニュアル』『ルースコレクターズ・マニュアル』|じんぶん堂 (asahi.com)より

 

 

こちらはあくまで書評ながらまさに此処まで踏み込んで述べて居られる。

所謂「夢生」し「夢死」すると云う壱つの美學は物とだけの関わりでは無く其の人文學との共同作業である。

 

要するに其れは詩的な生き方なのである。

其の詩は腐り易い生ものを扱うと同時に腐らぬ非生命の世界をある意味では持ち上げる。

 

だがそんな生ものは対岸の火事である位に離れて観て置き非生命の世界をむしろ生き生きとした世界として捉えるのだ。

さてわたくしは非生命には壱つの究極的な正の倒錯があるやうにどうしても感じて仕舞う。

 

正の倒錯とは犯罪でもまた謗法でも無い罪無き倒錯度のことだ。

対して政治上のまた人道上の倒錯は其の負債としての生の罪深さを必ずや齎すことだらう。

 

何故なら其れが實存に取っての生ものであるが故に。

さうして非生命の齎す美の世界に対し近頃以前にも増して興味が出て来た。

 

生ものは基本的に至極哀しいものながら其れ等有限物の齎す美の世界にはそんな変な哀しみが無い。

 

貴方はさうしてモノを好意的に捉え己が孤独を只正当化したいのだらう。

まあさうも言える。

 

 

だが其れは只美しいのである。

 

美しいものは物では無く人の心である。

とかってかのオスカー・ワイルドがさう述べて居る。

 

またかの宮澤 賢治なども確か其れに近いことを書いて居た筈だ。

 

ところが其の人の心こそが当てには出来ぬものなのだ。

よって感情になど振り回されぬ物の美の方がより誠實なのだ。

 

 

もしや貴方は唯物論者で?

いえ、全然。

 

何せ我の場合は物事の両方をやりたい方なので、

 

唯心論⇔唯物論

なのであり、

 

其れもまた同時にやり切りたいとさう願って居ます。

ふーん、貴方の其の論理は實際何処にでも使えるものなのですね。

 

はい、わたくしが四拾年に亘り考えて来たこととは其の弐元論の超克のことばかりでした。

 

はあ、すると其の対立関係に於ける優劣などはそも設定出来ぬと云うさうしたことなのですか?

優劣即ち価値ヒエラルキーなどは現在に於いて何処にも無い。

 

 

だが何故か其れを設定したがるのが現存在の認識上の癖だと云うことだ。

すると其の現存在の認識上の癖を滅した上で汝は石やまた🎆や寺と戯れるのであるか?

 

いや滅するのでは無く其の癖もまた癖では無いものも矢張り同時にやり切るのであります。

もう兎に角全てを同時にやり即ち其処にて夢生し夢死するのだからして…。

 

何か仰って居ることが普通の人とは違いますね。

そりゃさうでせう、だからかうして僕は文人ですよとさう何度も申して来た筈です。

 

 

ところで詩人、お前コロナの方は果たして大丈夫なのか?

さあてどうでせう?

 

まあ然し多分大丈夫だらう。

何せかうしてコロナのこと以上にやることが壱杯ですのでイチイチ其れを考えて居てはまるで事が進みません。

 

むしろ其の忙しさが無くなると危ないのではなからうか。

つまりは忙しくあるのが🌸でもしも其れが無くなったら現存在もまた終わりである。

 

其れでは、また。