目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

さう忙殺されし儀式、儀礼としての盆と其れを照らし出す壱つの夜景とー徳林寺の盆踊り大會と寶蔵寺を訪れてー

さう忙殺されし儀式、儀礼としての盆と其れを照らし出す壱つの夜景とー徳林寺の盆踊り大會と寶蔵寺を訪れてー

 

 

 

 

朝日川柳の選者西木空人の本名【画像】【経歴】過去にも下品と炎上 | tomo文章道場 (tomo3koko.com)

 

上辺だけの民主主義であることを隠れ蓑にして壱部の権力者がやりたい放題の政治をやれば國もまた國民の頭の中も同時に滅びへと至らざるを得ない。

よって今保守派を標榜する人人はまさに其の亡國への途のカラクリにこそ気付いて行かねばならぬ。

 

だが保守の馬鹿に強固に嵌り込んだ人人はかうして相も変わらず朝日新聞が悪いだのまた左翼が兎に角悪いだのとさう違う政治思想の人人を攻撃するばかりだ。

つまりは其のことをこそ右翼馬鹿と云うのである。

 

其の右翼馬鹿がかって日本國を滅亡の淵へと追い込んだことがあった。

其れ即ち右翼馬鹿では日本國を本質的に守ることなどは出来ぬ。

 

 

対して左翼もまた頗る莫迦なのだが奴等は少しは理性がある即ち盲信し易いタイプの右翼馬鹿などとは違う。

さうしてまあ僕からすれば結局両方共同時に馬鹿なのだが結局利口と云うのは其の両義的な政治的立場を同時に見詰め其処から最適解を導き出す知性としてのあり方のことなのだとさう感ぜられる。

 

尚此処に載せられて居る川柳はほぼ皆素晴らしい作品である、と正直さう思われる。

 

結局右翼馬鹿の精神の流れには知らぬ間に日本の社會をダメ化して行く癖の如きものがある。

よって正しくは弐階氏や石破氏の如き左派をも見据えた上での政治判断が是非必要なのであり逆にアベやアソーの如き頭の悪い保守派をのさばらせて居てはかの國の未來は閉ざされて仕舞う。

 

其処は少しは理性派のキシダがやれるかどうかはまるで分からぬところだがとりあえずはキシダがやるしかないのでありだからキシダはそんなキャンキャン鳴くのでは無くワーンワンと吠えてもみたれ!

ワーンワンと🐊に対し吠え同時に世界に対しさうして日本國民に対してもワーンワンだ。

 

 

ワアオーン~~~。

うわあー、まるで🐺の遠吠えのやうだな。

 

おお怖っ。

 

ワアオーン~~~~~~。

 

何時まで吠えとるのだ、此の馬鹿!

 

 

にゃおー。

ヘッ?

にゃおーん。

 

うーむ、どうも家中がネコのウンコ臭いと思ったら矢張り家の野良猫共の不始末だったのか。

 

 

さて昨夜は徳林寺の盆踊り大會を観に行って来た。

昼に家の墓の掃除及び🌸を供え其の🌸は無論のことわざわざコノミヤまで買いに行かねばならぬ。

 

おまけに仏壇用の🌸と墓用の🌸はまた異なるのである。

しかも其の🌸がまたクソ高いと来てる。

 

其の🌸束が壱番高い🍱などよりもむしろ値段が高い。

まずは其の生花を佛壇に若しくは墓に供える風習は止めた方が良い。

 

何故なら🌸もまた植物型生命である。

其の植物型生命の命を佛壇や墓に供える為に奪うと云う行為其れ自體がまさに倒錯としての価値観である。

 

 

ところが我が家の墓へ行くと造花が飾ってあった。ー従妹など若い者(四拾代)がさうして居たものだらうー

我は其れでも良いとさう思うのだが其れでも周りを見るとそんな造花などは無いのである。

 

結局さうして世間體を気にすることで悪い風習が続いて行くのである。

さて其処にてまずは他にして置くことがある。

 

其れは家の墓の西側にある大石さんのトコの墓の観察である。

其の墓が實はアメジスト墓なのだ。

 

Amethyst アメジスト | デザイン墓石カタログ|デザイン墓石.com (design-boseki.com)

 

其れもこんなものではまるで無く丁度こんなものが墓の上部のガラスケースの中に鎮座ましまして居る墓のことである。40.7Kg ブラジル産 アメジストドーム カルサイト共生 台座付き同梱不可[T611-8835] (crystal-seian.co.jp)

 

勿論セキュリティ付きの墓となって居る。

其れに暫し見惚れ後はサッサと家に帰る。

 

 

夕方まで石の整理を行い愈愈徳林寺の盆踊り大會へと出向く。

昨日もまた暑い日だったが夕刻より強い風が吹き其の分助かる。

 

其れと徳林寺は山の中の寺ー高台の寺ーなので住宅街よりは幾分か涼しくもある。

相生山へ入るとすでに弐キロ先の徳林寺からの太鼓の音がドンドンと響いて来て居る。

 

うーむ、何やら期待感の持てる音だな。

 

 

其の徳林寺には空き地ー原っぱーを利用した大駐車場があるが其処がすでに可成に埋まって居る。

自転車を其処に駐め本堂の方へと其の太鼓の音がする方へと引き寄せられて行く。

 

すれ違う人人はほぼ👪連ればかりである。

爺さんや婆さんなどはほぼ来ては居ない。

 

其れが皆浴衣などを着込み何やら樂しさうな風情である。

 

境内には露店が幾つも出て居てまたお化けの如き大きな💀が出て其れが寺の真ん中辺りで踊って居る。-其れも五米程もの身長の-

其れ等の全てがまるで夜店のやうなライトに照らし出されて居て幼い頃に経験したやうなワクワク感を醸し出して居た。

 

 

其の全貌を是非眺望したくなり鐘楼へと登る。

さすれば境内の全てを見下ろすことが出来るのだ。

 

そんな祭りの全てを見下ろすと其れが貴重な催しであることが實感された。

つまりは其の雰囲気が他ではなかなか出ないのである。

 

盆踊り大會は他にも色色とあるが其の静けさに囲まれた山の中でさうして壱種独特のスタイルにて行われるカルト性こそが他では決して得られぬ部分なのだ。

またカルト性ばかりでは無く懐かしさなどもまた感じた。

 

露店には子供向けのものばかりでは無く左翼系即ち意識が高い系の人人の為の自然素材の服の店だとかまたアクセサリーの店などがあったが最近はネットでしか物は買わぬので其れは見るだけでパスする。

鐘楼からは其の祭りとは関係無く緑区や天白区方面の夜景が見え、と云うことは夜此処に来れば常に其の夜景を樂しむことが出来る訳だ。

 

そんな訳で昼に訪れても大変面白い徳林寺であるがかうして夜に訪れても全く退屈しない恐るべき寺が其の徳林寺なのだった。

 

でもってまだ廿時程だったがサッサと家に帰る。

丁度満月が見えて居てまさに夢の如き夏の夜の様である。

 

 

天白川へ至ると川原で高校生か大學生が皆で花火をやって居る。

其れを観察して居るだけでも如何にも其処に夏を感ずることが出来る。

 

さて久し振りに夜サイクリングをしたが矢張り夜の世界は其の灯こそがまさに美しい。

 

昔研究所に勤めて居た頃に夜になると大きな球體をしたライトが構内に沢山灯ったものだったことを思い出す。

其のライトにはしかも色合いの違いがあり靑っぽいものがあればオレンジ色のものまでまたあるのだった。

 

其の花火もまた夜にやってこそ美しいものである。

さうして夜又は闇は昼又は光の世界とは異なる美しさを宿すものだ。

 

まさに其れは質的に違うものなのだが結果的には其れもまた美を演出し続けるマイナスの要素としての世界のことである。

 

 

ー多文化の色合いが強い徳林寺だが、その素地は先代の頃からあった。

「先代はクリスチャンでも墓に入れるようにしたんです。社会の平和のためにも、宗教で差別してはならないという考えだったんでしょうね」

しかし、当時25歳だった高岡さんは、社会への不安や疑問を感じ「寺は継がない」と言ってネパールへ。ところが、ネパールで仏教の先生について学んだり、本を読んだりしていくうちに仏教への理解が深まっていく。結局、ネパールで仏教文化保全活動などを行い、気づけば10年が経っていた。

「仏教とは、布教のために時代や人に合わせて柔軟に変わっていくものなんです。仏教の心を伝える方法は一つではなく、寺や住職の個性によって変わっていいもの。だから、日本では仏教と神道は相互に影響を与えながら進化してきましたよね。私はネパールと縁があったので、私なりの方法でやっているだけなんです」

帰国後、徳林寺を継いだ高岡さんは、自身のやり方で寺の運営を行い、タルチョを飾ったり、様々なイベントを行ったりしている。ーコロナ禍で帰国できないベトナム人180人を受け入れ 愛知の寺が動いたワケ | ほ・とせなNEWS (hotosena.com)より

 

 

個人的には余り杓子定規に宗教を捉えたりせずとも良いと考えて居り、なんとなれば現存在はかうして宗教以前の段階ですでに普遍的に追い詰められて来て居るからなのである。

要するに悩むところが違うと云った御話なのだ。

 

悩むところとは宗教の別だの世間體だのそんなことでは無しにもっと大きく捉えて現存在としての欲望がデカ過ぎることでありつまりは現存在自體が如何にも罪深過ぎることであらう。

 

 

ーそんな徳林寺の存在は次第に知られるようになり、2008年頃、クリスチャンの神父から「これからは難民を収容する施設が必要になるでしょう」という話があり、宿坊を作る計画が立ち上がった。そして約2年かけて宿坊が完成。ここに海外から来た難民や生活に困った人が暮らし、共同生活を営むようになった。コロナ禍で帰国できないベトナム人180人を受け入れ 愛知の寺が動いたワケ | ほ・とせなNEWS (hotosena.com)より

 

ほれ見よ、佛教だらうがキリスト教だらうが其の悩むところは正教ならば同じである。

但し邪教の場合は「教祖の威張り」がまずは最大限に重視されやう。

 

まただからこそ其れは邪教なのだ。

 

 

ー「菜食、禁酒、賭博の禁止です。多くの人が一緒に暮らすので、いろいろな問題もありました。しかし、このルールがあることで『ここで悪いことはできない』という一種の緊張感が生まれたのでしょう。ーコロナ禍で帰国できないベトナム人180人を受け入れ 愛知の寺が動いたワケ | ほ・とせなNEWS (hotosena.com)より

 

ほれ見よ、金にあかせての美食だの酒飲むことだの👩に手を出すだのまた博打をするだのまずは其れを禁じてこその正しき人の道ぞ。

即ち其のまさに酒池肉林こそが現存在に取っての御法度なのである。

 

 

ー「日本の仏教は葬式や法要をやっているだけでは、苦しくなるでしょう。多文化や平和、貧困などはみんなが抱えている問題。そういう社会にあるテーマに対して、お寺としてできることをやる。仏教の教え『仏法僧』の『僧』はお坊さんのことではなく、集団やコミュニティのこと。人間はコミュニティのなかで生きているから、みんなで一緒に助け合っていくことが大切です」ーコロナ禍で帰国できないベトナム人180人を受け入れ 愛知の寺が動いたワケ | ほ・とせなNEWS (hotosena.com)より

 

ほれ見よ、まさに其の「社會との対峙」こそが正教としての佛教のさうしてキリスト教としての役割なのじゃ。

さうして寺はまずは社會と対決せよ!

 

いや弱い立場の者を救え!!

壱番良いのはアベやアソーのやうな罰当たりめから金と権力とを毟り取り其れを弱い立場の人人にバラ撒くことだ。

 

また我にも其れを少しばかりちょーだい。

 

尚徳林寺の墓は宗旨を問わぬとのことで其処は随分気持ちの良い墓である。

なので最近徳林寺に我が墓をつくらうかとさうも思うのである。

 

永代供養・納骨 – 相生山徳林寺 (tokurinji.org)

 

だがより純粋には墓は要らぬので納骨及び永代供養のみで充分だ。

何せ我は此れだけの宗教詩人なので慣習、習俗としての墓になんぞはまさか入りたくは無く其処をこそまさに自分で決めて置かうとさう強く思うのである。

 

 

が、かうして俗物では無い我は本来的にはあくまで其の納骨云云に拘る訳では無いのである。

其れはあくまで體裁上、世間體の上でのことなのであり第壱まだ死ぬ積もりなどはまるで無いのである。

 

 

さて本日は我が家から百五拾米東の曹洞宗寶蔵寺へと出向き盆の供養料ー御布施ーを先代の御住職の御内儀に渡して来た。

其処でまた色色と世間話をしついでに徳林寺の盆踊り大會に出向いたことなども伝えて来た。

 

同じ曹洞宗でも矢張り其れ程密接な関係は無いやうだが同じ禅宗としての組織には属して居るとの御話だった。

 

其処にて秋になったらまた母と共に寺を訪れる約束をして来た。

とは言えまともには歩けぬ母故車椅子を押して出向かねばならぬ。

 

何故なら寺の庭を綺麗にされたとのことで、其の庭を観に行けば御茶などもまた出るさうである。

さて寶蔵寺へ出向くといつも思うのだが兎に角寺の内外が完璧に綺麗である。

 

まさにネコのウンコだらけ、雑草が生え放題の我が家の庭や汚い家の中とはまるで違い最高に綺麗である。

丁度寺の玄関には大輪の白い百合の🌸が参輪活けられて居た。

 

うーむ、完璧に綺麗な家の中ですね。

まあ私も🌸が好きですので御宅のやうに🌸の専門家では無いのですが。

 

いえ最近家の場合は雑草の🌸こそが専門です。

無論のこと🌸にも命があるので雑草とて全部を切る訳には行かず、でも其れを致しますとまたすぐに其れが道へと張り出し町内会に怒られるのですぐに刈り取らねばなりません。

 

 

いずれにせよ此の壱年余りの間に足の痛いのや歯の悪いのが何とか治まったのでまた是非本でも読みに来ます。

 

尚檀家となって居る浄土眞宗の西福寺の方にも盆の供養料ー御布施ーに手紙を添えて出して置いた。

 

そんな訳で其の盆の儀式、儀礼の部分に振り回された感のする此のところの我である。

されど何だかんだで意外と樂しく其れをこなしつつある我なのでもまたある。

 

 

ー人人が身を寄せる宿坊ーコロナ禍で帰国できないベトナム人180人を受け入れ 愛知の寺が動いたワケ | ほ・とせなNEWS (hotosena.com)より

と書かれた宿坊の画像がこちらには載って居り丁度昨夜我が自転車を駐めたのが其の宿坊の前の空き地である。

 

其の部屋には煌煌と明かりが灯り其のヴェトナム人なのか何なのかまるで知らぬ人ながらかうして現存在は何処に居ても生き抜いて行くより他は無い。

逆に申すと其の明かりこそが生の灯であり生きると云うことは其の命としての灯其のものなのだ。

 

だけれどもよもや其れは現存在にとってだけの灯なのでは無いのである。

よって現存在にとってだけの灯なのでは無い灯となるやうに文明の形を変えて行かねばならぬことは言うまでも無いことなのである。