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文明批判と心の探求と

古代浪漫の世界ー今あえて古生物學の世界に遊ぶ 壱 生物學者グールドとドーキンスの論争に寄せてー

古代浪漫の世界ー今あえて古生物學の世界に遊ぶ 壱 生物學者グールドとドーキンスの論争に寄せてー

 

 

 

 

芥川賞作家の平野啓一郎氏 西村新環境大臣を「アウト」「大臣の仕事は務まらない」と酷評! (msn.com)

 

全く仰る通りです。ー平野氏は尊敬する地元の芥川賞作家の壱人だー

ですが西村氏は壱応早稲田大學を出て居ますので何らかの形で理性が出て〇になる可能性が無いでは無い。

 

個人的には兎に角早稲田の理性パワーに賭けてみたい気分で居ります。

 

 

さてかって我は古生物学 - Wikipediaが好きで其の種の本を読み漁ったりして居たものだった。

つまるところ我は両刀でもって行く方なのでかうして人文主義で行くのみならず自然科学でも地質学 - Wikipedia生物学 - Wikipediaなどの所謂ややこしい数式がほぼ出て来ずつまりは抽象度が低く歴史的實証的な分野が好きな訳である。

 

要するに其の物としての地球や地球上の生命のことに興味があるのであった。

 

其れでも今の地球上の生命體の方には實は大きく興味は無くむしろ過去の生命體ー生命體としての歴史其のものーの方にいたく興味があるのである。

過去の生命體とはつまりは我我現存在に取っての謂わば御先祖様のことである。

 

但し其の先祖供養をしたい訳なのでは無く兎に角只単に現代文明の価値観から壱旦離れ何か違うものを見詰める目的から我はさうして過去の生命體のことを調べて居たのである。

其れが大體参拾代半ばの頃であった。

 

其のことは逃げと言えば逃げながら最終的に其れは文明の上での価値観を公正に見詰めんが為の必要条件となる。

即ち現代文明が一つの観念的方向性を向き歩むこと=抽象的価値を只ひたすらに追い求める様に対し何か其れとは異なるベクトルを見出せるとすればもはや其れは過去としての歴史的埋蔵物の中でしか無い筈だ。

 

 

丁度其の頃ジュラシック・パーク - Wikipediaなる映画が出来兎に角人気があり我も其れに飛び付き何度も観て居たものだった。

 

但し映画と云うものはあくまで大衆向けの娯樂作品でもまたあり少なくとも学問的なものではあり得ぬ訳だ。

なので我はもう少し古生物の世界を詳しく知りたいと思い丸善古書店などから其の種の本を探し出しては其れを購い屡其れを読んで居たものだった。

 

其の懐古趣味のやうなものが實際にどんな世界にもまたあるもので其れこそ家電や鉄道其れに万年筆などと云う人間の加工物にも其れが拡がる訳だがまた其れが生命と云う壱種神聖な領域にもしかとあったと言うことである。

 

古生物の世界はそんな壱つの懐古浪漫に貫かれたものであるがさうさう壱般的な興味の対象となるものでは無い。

されど壱般人にせよ其れこそ高校時代には地球の歴史年代のこと地球史年表 - Wikipediaを習うのであるしまた其れこそ小学生位の頃に水晶や化石の採集に出かけたことなどがある筈だ。

 

ところがさう云う世界は参拾位になると遥か彼方の思い出の中のことと普通はなるのである。

何故なら現代文明に取り必要なのは其の古代浪漫に耽溺するやうなパーソナリティでは無くむしろ文明に対し滅私奉公すること所謂自分の頭では「考えぬ」人人なのであらうから。

 

だから其の文明に対し滅私奉公する=従順である、との社會的洗脳體制が結局我に取り最大の苦痛なのだ。

なので僕はあえて其れとは逆方向を向きソコにこそ住まうのである。

 

 

さうかと言って理系はまるで出来ないので古生物學者になれる訳でも無く只只パッと見て樂しい古生物の世界をこそ旅して居たのだと言えやう。

まさに其処は我が石の趣味とまるで同じことで要するに通俗趣味の域を一歩も抜け出ては居らぬ。

 

なんですが普通人は古生物學が趣味ですとはなかなか言わぬ訳であり其処は流石に如何にも詩人らしく興味其れ自體が著しく偏向して居るのである。

 

 

スティーヴン・ジェイ・グールド ♯業績 - Wikipedia

 

古生物學者として大きく影響を受けたのは『ワンダフル・ライフ - バージェス頁岩と生物進化の物語』(早川書房の著者であるS.J.グールドである。

 

かってはグールドの學説の方にも影響を受けたが其れよりも何よりもパッと見て古生物の形が兎に角面白いのが当時壱般にも広く読まれたワンダフルライフ (書籍) - Wikipediaと云う書籍だった。

我は何度も此の本を読み返し地球上の生命體が太古の昔に全てを試した上でまさに其の生命としての歴史の上で結果的に選択され我我脊椎動物が繁栄したことを知り愕然としたものだった。

 

要するに生命の形態として全てはやり尽くされて居り其の結果として選択された生命のあり方がまさに今を築いて居るのである。

 

 

ワンダフル・ライフ──バージェス頁岩と生物進化の物語 | 種類,ハヤカワ文庫NF | ハヤカワ・オンライン (hayakawa-online.co.jp)

『ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語』|感想・レビュー - 読書メーター (bookmeter.com)

 

生物學や地質學はむしろ其のやうに地球の歴史の発掘作業であり其れは壱面で人文科学的な側面をも持ち合わせて居る。

要するに数学や物理学のやうな抽象度の高い世界では無く要するに具象的な歴史としての物の世界をむしろ過去に対し探究して行く場なのでもまたある。

 

即ち岩石や化石は単なる物質だが其れはかっては生き物でもまたあり今尚地球上に具象化され残されて居るものである。

でもってS.J.グールドは当時の生物學會を掻き回す程に色色と意見を述べた人であった。

 

スティーヴン・ジェイ・グールド  #論争- Wikipedia

 

かうしてどちらかと言えば大人しい人では無くむしろ自分の考えに対し壱直線の人で論敵もまた多かったのだらう。

 

リチャード・ドーキンス  #無神論と合理主義- Wikipedia

 

例えば此の無神論者でもって宗教否定者ーほぼ完全なる合理主義者ーである高名な英國の進化生物學者であるドーキンスがグールドの論敵であった。

ちなみに個人的にドーキンスは最も嫌いな自然科学者の壱人である。

 

 

利他的行動は、他者を助けるために自分の適応度を低下させるという行動がどのようにして進化するのかという点で、当初は進化上のパラドックスであった。以前は多くの生物学者群選択的な視点、つまり「個体は自分自身の利益にならなくても群れや種のためによいから利他行動を取るのだ」と解釈していた。イギリスの進化生物学者W.D.ハミルトンは包括適応度と血縁選択という概念(個体の利他的な行為は遺伝子を高い確率で共有している近親者に向けられている)を提唱し、遺伝子中心の視点から利他行動を理解する道をひらいた[24][a]。 同様に、ロバート・トリヴァーズは遺伝子中心のモデルを発展させ、「個体が将来の返報を期待して他個体へ利益を与える」とする互恵的利他主義を提唱した[25]ドーキンスはこれらのアイディアを『利己的な遺伝子』で発展させた[26]

リチャード・ドーキンス  #進化生物学 - Wikipediaより

 

自然界での営為は確かに弱肉強食でありある意味では利己的に欲望が成就される世界である。

されど事實上其処に利他的行動が屡見受けられるものである。

 

どだいとある個體が食われ他の個體の生命を維持すると云う其の関係性自體が利他的行動である。

まあ誰しも其処ではイヤイヤ食われる訳ながらイヤだらうが何だらうがさうして食われるのだから仕方がなからう。

 

また其れは利益云云では無く元元さう云うものなのではなからうか。

其の現世利益に拘ること其れ自體が合理主義である。

 

つまりは其の食う、食われるとのある種不合理なシステム其れ自體が自然科学へと還元出来ぬ価値となるのである。

故に自然界は還元主義では捉え切れず、また生命の利他行動も還元主義では理解し得ない。

 

 

進化の解釈とメカニズムに対する一連の論争(「ダーウィン・ウォーズ」と呼ばれることもある[31])は社会生物学論争の一端として、ドーキンスと彼のライバルであるアメリカの生物学者スティーヴン・ジェイ・グールドの間で行われた。二人は特に社会生物学進化心理学の論争において、ほとんどの場合ドーキンスは擁護者として、グールドは批判者として論陣を張った[32]ドーキンスの典型的な立場はスティーブン・ローズ、レオン・カミン、レウォンティンの『遺伝子の中にはない』に対する酷評によくあらわされている。ローズらやグールドの主な批判は「社会生物学者は遺伝子決定論者で還元主義者である」「現在の社会的不公平は遺伝子の不可避的な現れであると正当化している」であった。ーリチャード・ドーキンス  #進化生物学 - Wikipediaより

 

尚我は此の種の生物學に於ける論争などとはまるで別に壱文人としての自然を見詰める眼差しを有して居る。

其れに寄ると自然界の生命のあり方は利己主義であると同時にたまに利他主義でありまた我我現存在の眼差しー認識ーとはそぐわぬ不可思議なものを内包して居るのだと思う。

 

逆に申せば我我現存在の認識は特に近代以降は可成に抽象化され偏ったものとなって居る可能性が高く有り故に其の合理性以前での無分別的な認識をすでに理解し得ないのではなからうか。

他方でケモノの認識は所詮大抵は獣並みのものだ。

 

だから其れは文化的なものでは無くましてや継続的なものなのでもまた無い。

しかしながら其れが結果的に継続的なものとまたなり得るのはむしろ彼等が其の継続性其のものに妙に拘ったりはして居ないからなのではないか。

 

 

逆に現存在の場合は其の価値の永続性に対し観念的にむしろ何処までも拘り続けて来た訳だ。

また其れを壱言で評せば幸福の實現をあくまで「観念的に」成さうとして来たのである。

 

ところが彼等獣を観て居てまず思う事は彼等は左様な観念性にはほぼ拘って居ないと云う事實である。

 

であるからこそ彼等獣やまた昆虫などは無思慮に子を増やしまた食ったり食われたりもまたするのであるが其れはあくまで彼等の認識の上ではほぼ当たり前のことなのである。

さう云う認識即ち本能に基づく生とでも言うのかそんなものが時に眩しく且つ不可思議なものに感ぜられてならない。

 

其れはこんな自然派の我でもさうなのだからいま少し文明の洗脳の度が酷い人には其のことがまた余計に理解不能なこととして目に映ずる筈なのだ。

 

 

然し我は其の理解不可能な何かをむしろ重視して行くべきだとさう考えつつある。

 

不可解なこと⇔自明のこと

とのことで、今現存在に取り都市文明もまた科学技術が生み出す産物もさらに文明による進歩の内容も須らくが我我に取り自明の価値となって居る。

 

だがおそらく其れは其の不可解なことを内包する認識に取って逆に不可解なこととしか見えぬ筈なのだ。

まあ其れもさうで、🐈にも🐕にも、また🐻にも🐗にも此の文明界はまるで不可解なものにしか見えぬ筈なのだ。

 

其の認識に於ける両義性の部分、認識に於ける対立概念と云うことに就き最近は考え込むことが屡である。

其れも結局は、

 

相対認識ー分別知ー⇔絶対的相対認識ー無分別智ー

としての概念上の対立問題に集約されて来るのやもしれぬ。

 

 

尚現存在は現文明を相対認識のみで成り立たせて来て居る可能性が高くある。

よって右側の方をあえて指向することで全体論的に認識の世界を理解出来ないものかとさう考えて居る。

 

要するに、

 

大脳新皮質⇔大脳旧皮質

との対立構造は其其に其れを感じてみなければならずよって🐈や🐕やまた🐻や🐗の認識だと云う理由だけで其れを蔑んで居る理由などは全く無いが故にだ。