目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

本年度の総括と来年度の展望

 

刺し身、カニ…正月向け魚介類が高騰、2倍で取引も 来年にも影響か (msn.com)

だから金持ちから重税を毟り取れといつも我はさう述べて居るではないか!

其のうちに庶民はカップ麺とたこやきやみたらし団子位しか食えなくなるぞよ。

 

其れにつけても今後の高級品はもしや刺し身か。

いや寿司だな。

さう言えば寿司をもう半年程食して居らぬ。

 

其れは果たして何故だらう?

正月は是非寿司を食いたいものだが今家は何故か食い物だらけなので其れは難しいかもしれない。

 

 

さて其の宗教ー其れも主に新興宗教ーをやってる人人のやうに「朗らか」に前向きに生きることは常に大事で、かの悲観主義の大御所ショーペンハウアーなどは朗らかさこそが宝であるなどとも實は述べて居たりも致します。

前向きー本能的、楽天主義的ー⇔後ろ向きー(人文)理性的、悲観主義的ー

 

實は此の双方が大事であり、どちらかに偏ると必ずや酷い結末を迎えて仕舞いませう。

 

學者や藝術家や宗教者はある意味前向きなんですが壱面では眞理方面を常に見詰めても居るが故に双方の立場を行ったり来たり出来る訳です。

故に我自身もまたそちらのタイプの人間であることはまず間違い無いことでせう。

 

ショーペンハウアーだのコへレトだのハイヤームなどと云った悲観主義者は基本的に「全てが空しい」生には期待などして居りませんのですが結構其処に快樂を否定せずでつまりは空しい侭に欲張って生きよとさう言って居るかのやうです。

其れ等の言葉が何か非常に奥深いもの、まさに含蓄に富むもののやうに思えるのは彼等が生の両面を見極めて生きたからなのだらう。

 

 

対して學者や藝術家や宗教者では無い庶民は概ね「文明の今」を信じて生きることとなりませう。

尤も其れが間違って居る可能性も常に御座りますが所詮庶民はさうして「生活」に縛り付けられても居ります。

 

其の「生活」至上主義をかって芥川 龍之介はこっぴどく批判して居り其の作品こそが例の『河童』です。

無論のこと其の芥川はまさに天才級の知性の持ち主ですのでそんな生活教が可成に煙たい訳だ。

 

尤ももっと現實的には家族や親戚の扶養の義務だの自ら仕出かしたところでの女性関係の清算の失敗などから彼は至極現實的に追い込まれて行った訳だ。

 

でも天才級の知性は結局現實上の生活力には欠けるものなのです。

天才級の知性=理性の権化⇔食って寝てウンコ垂れる庶民=本能の権化

 

とのことですのでまさにみんなー芥川の作品や此処の読者を除くーはおバカだけれどもさうして何故か元気なのですね。

で、其の庶民の糞力こそがインテリ文學者やインテリ科学者、またインテリ左翼の方方が求めてもどうしても得られぬ打たれ強さ其のものなのだ。

 

 

…また庶民をバカにし始めたな?

ちゃいます、今僕は其の本能の力のことを考えて居るばかりでのことだ。

 

其の本能の力とはもしや芥川が嫌った生活力のことなのですか?

まさにさうでせう。

ですが意外と彼芥川は性欲の方が強かったやうだ。

 

うーん、昔の文學者はさうして皆欲望が獣並だったのですかね?

まあ太宰などもさうですが彼等は明らかに性欲の方こそが並大抵では御座りません。

 

対して尾張の詩人さんはもはや性欲が無いの?

まあほぼ絶産したと言っても良いのではなからうか。

 

逆にかうして物欲が強くある訳だ…。

まあ昔から其れはさうなのですがね。

 

 

其れはさうとさても此の現代文明は今後何処へ行くのでせう?

明らかなのが此れから文明は年越しへと向かい正月三が日を迎えることとなりませう。

 

しかも来年もまた獣の生活力にて乗り切って行くことだらう。

うわあー、獣臭い。

まるで👿共のウンコのやうなものなのですね。

 

さうです、まさに其れこそが「庶民のクソ力」でもあることでせう。

別の表現で申せば本能の爆発力、即ち丸出しモロ出しでの生きる力の発露でもまたあることだらう。

 

たとえオレラは殺されても死なん。

芥川や三島や川端のやうに生きるに絶望し自決などするのは真っ平御免だ。

 

馬鹿はな、さうして只生きるのだ。

ああまさに「生きとるだけでモウケモン」なのだ。

 

 

偉い!

其れもなんて徹底された本能力なんだ。

 

でもお前達は何の為に、壱體何の為にソコまで開き直りさうして生きて行かれるのだ?

其れはな、僕等が所詮生活教の信者だからなのさ。

即ち現世利益教の信者なのさ。

 

ぎゃおー、うおー、ぐわおー。

どっこい生きてる我等が勝ちー価値ーなのだと。

 

 

ところでお前自身も其の生活教の信者なのだな?

…まさに半分はさうだ。

 

だが他の半分は決してさうでは無い。

彼の半分は決してさうでは無い。

なので彼の半分は常に藝術や宗教や哲學と壱體である。

 

 

彼の心のお花畑には常に其のやうな理性の御花の数数が咲き乱れておる。

だが肉體の方には食欲と物欲とがしかと居座っておる。

 

するとお前は食い倒れしかも物に耽溺しつつ此の年末年始を過ごそうとさう考えて居るのだな?

其れもEテレばかりを視つつ其れを成就したいとさう思って居るのだな?

 

良くぞ我が本心を見抜いたな。

人間とは所詮は其の獣以外の何者でも無い。

 

だが同じ獣であるのならば抽象的な欲の達成を目指すよりは具象的にさうして飲み食いし且つEテレばかりを視て居た方がより平和である。

もしや其れが例のアタラクシアのことなのか?

 

 

いやアタラクシアとは最終的に「求めぬ」境地のことであり具象的に「求める」今の我のあり方とは違うものだ。

なので同じ求めるのであれば其の範囲をなるべく切り詰め小さくすることだ。

なるべく安上がりに求め大きくは決して求めぬことだ。

 

まさに其のことこそが我が導き出した生き方の極意なのだ。

 

さうして時間はカイロスー与えられし時ーの方をも同時に向き直ること。

そんな今だけの今に拘泥せず神佛に与えられし永遠の今をも常に見詰め続けることだ。

 

 

さて今日は灯油の巡回販売が年内の最終日であり其れでポリタンク4つ分を買ったのでしたが其れを持って来たのが京都人の蟹屋でした。

其の人が京都人であることを本日初めて知った。

 

丁度先週半分泣きながら其のオジサンに自分は足が悪くなり重い灯油タンクをもう運べやしない。

だからどうか玄関の前まで持って来て欲しい。

 

などと弱者を装いおまけに會社にまで電話をかけわざわざ家へ持って来させたところだった。-實は家の前の道が巡回ルートには入って居ない-

すると灯油のオジサンはそんな我の儚げな頼りなさに同情さえして下さりさうして灯油タンクを弐つ玄関先まで持って来て呉れた。

 

其の時すでに此の人が関西人であることに気付いた。

関西人の言葉は尾張人のものとは違う故に其れはすぐに分かる。

 

 

ところが今日はちっとも来ないのでまた會社へ電話をし確認するとどうも最終日なので遅くなって居るらしい。

 

其の後壱時間程してから其のジジイがやって来て「金が歩道に落ちて居た」とさう言うのであるが其れはアンタがポリタンクを上げた時に金入りの銀行の袋が其れにくっつき上がり歩道に落ちたのである。

ちなみに家の辺りはドロボウもまた入るのではあるが何故か灯油タンクの下に置いた金を盗んで行く奴は居ないのである。

 

もしやオジサンは関西の人ですね?

京都ですよ。

 

何でそんな京都人がワザワザ此処名古屋くんだりまで出没して居るかと云うと其の灯油の巡回販売の會社が元々大阪の會社で繁忙期には関西から応援を頼んで居ると云う理由があった訳だ。

 

其れにつけても京都はモノの値段が高い。

はあ、壱見さんはお断りと云うことがありましてな、其れが絡んでるのやもしれませんな。

 

其れに京都は左翼が多い。

まあ右翼もまたようけ居りますがね。

 

 

まあ名古屋も左翼が多く僕は昔は塾の教師だったので其の左の方へと今走って居ます。

ああ、先生さんでしたか、それはそれはどうも。

 

實は京都の東山の料亭の監修したおせちが明日家へ届きます。

また其処からは蟹ーズワイガニーも買いましたが解凍中に全て猫に半分づつ食い散らかされた。

 

其れも何故か全部は食わないんです。

 

其の根性の悪い🐈共は今五匹居ます。

でも自然とは實に儚いものです。

 

拾月には壱番立派な♂のトラ猫が野良の黑猫のボス🐈に追われもう戻らなくなった。

また此の年末には壱番綺麗な♀猫のシロが突然エサを食いに来なくなった。

 

其の弐匹はおそらくはすでに死んでおることだらう。

 

🐈は増えますからねえ。

ところでウチもおせちは作って居るがもう売り切れた。

 

はあ?オタクは壱體何屋さんなのですか?

 

蟹屋です。

尤も會社は大阪にあるが。

 

ちょっとパンフレットを持って来て下さい。

 

うーむ、其のおせちが壱万円でたったの限定参拾個だけですでに売り切れか。

他には蟹とフグか。

 

いやー、関西人は此のフグを良く食うんですね。

まあ兎に角来年もまた宜しく灯油を運んで来て置いて下さい。

 

今回はサーヴィスで少しづつ大目に灯油を入れて置きました。

年末は京都に戻るのでまた来年ね。

 

 

其の関西人のサーヴィス精神と云うことはほんたうにあることです。

其れを母にも伝えましたところ関西人は嫌らしいところがあるが人思いでもあるとさう言って居た。

 

若い頃より母は京都の大徳寺を屡茶會などで訪れて居た。

東京はおそらくもっと合理的且つ冷たくもあるのかもしれない。

 

但しわたくしの説では其れは愛知県から流れて行ったところでの弐系統なのだ。

つまり愛知には両方があります、またわたくしなどにも両方がありわたくしはとても心があたたかく同時に冷たい人間です。

 

 

さらに其の後おせちの配送に就いての個別対応を佐川急便の配送センターへこと細かくお願いをし再配達とならぬやうにしかと手配をして置いた。

何せおせちは参つも来るのである。

 

其れも参段重のおせちが参つも来るのである。

 

とのことで、来年また其の京都の蟹屋のジジイが灯油巡回販売で家へ来たら京都のことを色々と聞き出してやらうかとさう思って居るところだ。

其れにつけても大阪だの京都だのはさうしていつも食う事ばかりを考えて居るのだらうな。

 

其れも美味いものを食うことばかりを…。

 

だが其れにも壱理あると最近の我はさう思うのだ。

問題は未来には其の食う事さえもがおそらくは先細りとなって行くことであらうことだ。

 

 

だが我が生きてるうちはかうしてまだおせちを食う事さえもが可能なのだ。

だったら今食ったれ。

まさに食うのは今でせう?

 

お前は今明日其のおせちを食う事ばかりを考えておるな?

良くぞ我が本心を見抜いたな!

 

 

1.西田哲學との格闘ー佐伯啓思 『西田幾多郎―無私の思想と日本人―』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)との格闘を含むー

2.『佐々木閑、宮崎哲弥 『ごまかさない仏教―仏・法・僧から問い直す―』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)』との格闘

3.『NHK出版新書 656 宗教の本性 誰が「私」を救うのか | NHK出版 (nhk-book.co.jp)』との格闘

4.『NHK出版新書 662 日本人にとってキリスト教とは何か 遠藤周作『深い河』から考える | NHK出版 (nhk-book.co.jp)』との格闘

 

さて我は此の師走の壱ヵ月でもって壱年分位の御勉強をすでに済ませて仕舞った。

 

だから後はEテレを視つつ年越しをし来年になってもすぐには御勉強はしないのである。

わたくしはかうして昔から纏めて御勉強する方なのでやると決めたら拾時間程ぶっ続けに御勉強し他のことはほとんどしないのである。

 

左様に常日頃よりわたくしが格闘するものとはまさに「精神」であり人間の「生活」でもまた文明の「未来」でも無い。

まさにたった今其の「精神」を指向することでこそわたくしと云う實存が其処に完遂されるのである。

 

故にわたくしには例えば拾年後の我のことがまるでもって想像出来ない。

そんな意味で我はまさしく今を生きて居り其れ以外の何ものでも無いのだ。

 

尚以上に挙げた四冊の著作は其のいずれもがまさに壱級の本である。

故に来年度は是等の本をテキストとなしつつ是非自説を展開して行きたい。

 

 

元より認識上の誤謬は自力にて直すことが困難だ。

故に知的能力を駆使しつつ良書や良き番組に縁をしつつ謂わば他力にて救って頂くより他は無い。

 

だが其処で自分の頭でもまた考えて置かねばならぬ。

 

何せ、

他力救済⇔自力救済

なのであるからして。

 

 

でもって冬休みは確りと遊びなされ。

但しゲームやギャンブル、またピンサロなどへは決して近寄らぬやうに。

 

しかしながら君等にとっての冬休みの遊びとはむしろ課題図書を具に読むことだらう。

課題図書とは以上の四冊である。

 

でもって我だけがこれから遊ぶのである。

さあて何で遊ぼうかな?

 

 

仕舞った!

さう言えばアノ佐伯先生のユーチューブを視るのをスッカリ忘れておった。

 

是非其れを視ずばなるまい。

また他の本も読まねばなるまい。

 

と云うことは結局は年末年始もまた御勉強浸けの毎日だ。

 

其の遊べないこと=眞理のみに生きること、こそがおそらくは我が病気なのだらう。

我ながら實に困った奴だぞ。

 

結局全てがさうして御勉強へと収斂して行く訳だ。

 

 

さうだ、是非御勉強しつつ万年筆でもって遊ぼう。

御勉強しつつ石でもって遊ぼう。

 

…普通の人間はさう云うものではまるで遊べないものなのですが…。

さうですかねえ、僕にとってはまさに其れがパラダイスなのですがねえ。

 

 

さて世は相変らずグタグタのドロドロである。

酔っぱらいは道路に寝て居て車に轢かれるわ、クスリはやるわ金を盗むわ。

 

何処にでも火を点けるわ、👩に手を出すわ。

喧嘩はするわ、殺し合うわ。

 

でも宗教者は其処から目を背けては決してならない。

 

かの現實をしかと見よ、おおまさに其が此の世の實相ぞ。

うわあー、もう何だか気が狂いさうになる。

 

 

さうか、其れは偉い!

偉いぞ君は、君程真摯に世の眞實と向き合う者は他には居ない。

 

煩悩即菩提、罪即贖罪。

哀しみはかうして世に満ち溢れておる。

 

こんな哀しみこそが人生なのか。

さうだそんな哀しみだけがまさに人生なのだ。

 

 

其の哀しみに寄り沿え、常に其れと共に歩むのだ。

…イヤです。

 

其れも金輪際イヤだな。

うーむ、だから君はさうして御勉強にばかりに拘り其処へと逃げて行くのか。

 

普通はソコへは逃げ込まぬ筈なのだがヤッパリアンタは変わって居ますね。

まあ正直変わっては居ます。

 

 

さあてプライム・ヴィデオの方でおそらくは色々と視たいものが溜まって居ることだらう。

其れにアノ見逃し番組、例のブラタモリ糸魚川篇のものが。

 

其れをどうしても視ずばなるまい。

 

ところで酒はしこたま買い込んだのか?

酒などは要りません。

ですが何処かで梅酒か養命酒でも探して来やうかとさう考えて居るところです。

 

梅酒か養命酒の杯を傾けつつおせちを食う。

コレに勝る快樂は實際御座りませぬが故に。

 

 

さても此の年末年始には神社佛閣へと出向くのか?

勿論です。

 

其れもまあ近場が中心となりませうが。

さて僕は此れから冬休みに入ります。

 

何、早く我に逢いたい?

僕はそんな単純な人間では無い。

常に我は高尚且つ複雑な人間なのだ。

 

壱月の終わりまで出て来ませんでしたらもはや死んだものとどうか諦めて下され。

それでは皆様ごきげんやう、どうか良い御年をお迎え下さりませ。

「コヘレトの言葉」に於ける時の概念

信仰4

 

 

 

 

中国の「クリスマス禁止令」ネット上で物議 「当局の許可必要?」 (msn.com)

確かに中國には中國としての所謂黄河文明五千年の歴史が御座りますのでクリスマスなんぞをやって居らずとも良いと云う論理も分からぬ訳ではありません。

 

本来ならば我我日本人もまた同じでお釈迦様のお誕生日を祝わずしてキリスト様の御生誕日を祝うと云うのは本来筋違いでせう。

例えばお釈迦様のお誕生日としての四月八日には精進料理を各家庭で作り祝うと云うのはどうでせう?

 

其の日には女共は命を懸けて其の精進料理を作らねばならない。

また子等は学校を休みまさに其れを手伝う。

でもってお父さんだけが其れを食っても良いのです。

 

お釈迦様の誕生日|4月8日の花祭り・甘茶の由来や仏陀誕生の伝説を解説 | 神仏.ネット (shinto-bukkyo.net)

ですので、其の四月八日は佛教徒としての祝日だと考えて頂いた方が宜しい。

 

其の日にはまずお父さんが読経をせねばなりません。

其の読経は般若心経を是非御勧め致します。

 

また👩子供に対し其の般若心経の解説もせねばならない。

よってイヤでもお父さんは其処で佛法を學ばねばなりません。

 

 

でもアンタ今日はクリスマスの日だらう?

うーん、クリスマスと云うよりもまさにコへレトの日ですね、少なくとも僕にとっては。

 

…また旧約聖書での老子の世界に浸って居るのですか?

うーん、老子と云うよりはまさにルバイヤートの世界のやうなものです。

 

ルバイヤートの其の快樂主義、逃避主義はかって太宰 治にとってのお気に入りの世界観其のものでした。

ですがコへレトの言葉の場合はかの芥川 龍之介に影響を与えて居たやうです。

 

 

   星

 太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない。
 天文学者の説によれば、ヘラクレス星群を発した光は我我の地球へ達するのに三万六千年を要するそうである。が、ヘラクレス星群といえども、永久に輝いていることは出来ない。何時か一度は冷灰のように、美しい光を失ってしまう。のみならず死は何処へ行っても常に生をはらんでいる。光を失ったヘラクレス星群も無辺の天をさまよう内に、都合の好い機会を得さえすれば、一団の星雲と変化するであろう。そうすれば又新しい星は続々と其処に生まれるのである。
 宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火りんかに過ぎない。いわんや我我の地球をやである。しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起っていることも、実はこの泥団の上に起っていることと変りはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環しているのである。そう云うことを考えると、天上に散在する無数の星にも多少の同情を禁じ得ない。いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表わしているようにも思われるのである。この点でも詩人は何ものよりも先に高々と真理をうたい上げた。

真砂まさごなす数なき星のその中にわれに向ひて光る星あり

 しかし星も我我のように流転をけみすると云うことは――かく退屈でないことはあるまい。

 

芥川龍之介 侏儒の言葉 (aozora.gr.jp)より

 

 

01:09かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。

01:16わたしは心にこう言ってみた。「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」と。わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、
01:17熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。
01:18知恵が深まれば悩みも深まり
知識が増せば痛みも増す。
02:01わたしはこうつぶやいた。「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」見よ、それすらも空しかった。

 

02:11しかし、わたしは顧みた
この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく
風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。

 

02:13わたしの見たところでは
光が闇にまさるように、知恵は愚かさにまさる。
02:14賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。しかしわたしは知っている
両者に同じことが起こるのだということを。
02:15わたしはこうつぶやいた。「愚者に起こることは、わたしにも起こる。より賢くなろうとするのは無駄だ。」これまた空しい、とわたしは思った。

 

02:19その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい。
02:20太陽の下、労苦してきたことのすべてに、わたしの心は絶望していった。
02:21知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。
02:22まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。
02:23一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。
02:24人間にとって最も良いのは、飲み食いし
自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは
神の手からいただくもの。
02:25自分で食べて、自分で味わえ。
02:26神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる。だが悪人には、ひたすら集め積むことを彼の務めとし、それを善人と認めた人に与えられる。これまた空しく、風を追うようなことだ。

「聖書 新共同訳」   コヘレトの言葉    Copyright: 日本聖書協会 (jpn.org)より

 

左様に此の太陽の下に新しいことなど何壱つ無いのである。

殊に自然は特にさうである。

 

自然は何度もさうして繰り返されて居る可能性が高い。

故に世界はひとつでは無くおそらくは無数にあらう。

 

コへレトは古の知識人として世界とまた神と格闘し是等の言葉を残した。

 

ーそれに対して、『コヘレトの言葉』では決定論に基づいた世界観が述べられている。義人も罪人も等しく死ぬことなど、この世のすべては定めがあり、その定めは決して変えることはできないと論ずる。もし、すべてが予定されているのならば、自由意志なるものは虚しい。すべてが予定されている世界では、普遍的な正義を行うことに、積極的な価値を見出すことができないのではないか、と論ずる。

『コヘレトの言葉』には厭世主義に基づいた思想が多分に含まれており、それだけでも十分、同書を異文化の世界観を持つ書物と見ることもできよう。その反面、人知の及ばない事柄は人間からは何もできないのであり、コヘレトはその人間をありのままの姿で肯定もするといった視点もある。この点はむしろ楽天的と評することも可能である。ーコヘレトの言葉 - Wikipediaより

 

ー伝統的な解釈に従えば、賢者と讃えられたソロモンは、人生の意義と全生涯にわたって幸福を得るために必要な行いについて、論理的かつ哲学的な探求を実践していたとされている。その結果、一般的に幸福をもたらすとされる知恵、正義、女性、家族、財産、信仰といったものはむしろ相応しくなく、これらのものは絶対的な満足感をもたらすどころか、逆に欲望を増長させるに過ぎないと結論する。

ソロモンは人生の意義に有益な格言を見つけてはそれを自賛していたのだが、いつも次の瞬間には不満になり、なぜそれが格言として不適格なのかを解き明かす。いわく、格言とは人間に、痛み、苦しみ、虚しさをも覚えさせるというのであった。人生のあらゆる出来事を心に刻み込んだ晩年のこと、ソロモンは人生に秘められた真の意義と人間を幸福に導く生き方について熟考しているとき、ついに極意を得るに至る。それを言葉にしたのが、すでに引用した12章13節の一文である。ーコヘレトの言葉 - Wikipediaより

 

尚コロナ苦と云うことは、コロナ自體が本質的な苦を齎すものなのでは無い。

むしろ生の不完全性ー理性に対するーこそが苦其のものなのだ。

 

洋の東西を問わず多くの先哲が其の不完全性が齎す無力感に就き語りかけて来た。

其れこそ中華文明では老子荘子が、さうしてイスラーム世界ではかのハイヤームが其れに就き述べて来て居る。

 

 

知恵の力が増すと壱般に所謂厭世的な世界観に捉えられ易い。

つまりは其のやうに世界が虚無的にしか見えなくなって来るのである。

 

但し其れもまた其れ相応の勉強量をこなした者に限られる。

自分はトコトン受験勉強をしたとかトコトン本を読んだとかソコまで自分で言い切れる位で無いと其の厭世観を持つことすら容易では無い。

 

つまりは普通の人人は普通の範囲でしか其れをして居ないのであり其の位のことで自分はコへレト並だなどと思って貰っては困る。

 

で、其の絶望にせよ自分は👩にフラれて絶望して居ます、だとか志望校に合格出来ず絶望しました、と云った現世利益に見放された上での絶望は眞の意味での知的絶望では無いのである。

眞の意味での知的絶望とは例えば芥川氏のやうに「只ぼんやりとした不安感であり虚無感」なのでありそんな高等な悩みは庶民にはまず無理なのだから別にさう心配などせずとも良いことだらう。

 

ほんたうに癖の悪い虚無感、絶望感とはそんなレヴェルのものには非ず。

だからニーチェだとか芥川だとか其の位の知力がそも無いとアンタらのウソ臭い絶望とはまるで質が違って居る訳だ。

 

ああ、僕?

僕はね、ヤッパリ可成に行ってることでせう。

 

だから其れがイヤだと何度も何度もさう述べても参りました。

 

 

で、コへレトも其れがイヤなので飲み食いせよとさう述べて居る。

尤も飲み食いしてもまたすぐに腹が減るのだし喉が渇く。

 

まさに其の部分こそが永遠の虚無の循環であらう。

 

知恵ー利口ー⇔無知ー馬鹿ー

栄華⇔滅亡

永遠⇔時間

壱流高、壱流會社⇔参流高、参流會社

金持ち⇔貧乏

満腹⇔空腹

 

とのやうに弐元対立がそも限定性を示して居り其処から逃れられぬが故に知識人ー知恵者ーは其処で精神的に悶え苦しむ訳だ。

 

但し其のレヴェルまで御勉強が進むと所謂世間的な価値観には心が反応しなくなって来る。

 

曰く進歩及び経済成長をやること、何でも壱番でもって壱等國を目指すこと、上玉の👩を嫁となし頭の良い子を世に生み出すこと。

ですからまさに其れが空しいことだとコへレトは述べて居るのである。

 


 

それでも生きる〜旧約聖書・コヘレトの言葉〜 (3)「すべての出来事に時がある」 - こころの時代〜宗教・人生〜 - N

さて本日此の番組の再放送を視たのだったが、其処で大きく示唆を受けたのがまさに「時」に就いての概念である。

 

西洋的な理解での時にはクロノスとカイロスがあるのだとされ、クロノスとは所謂時間ー過去、現在、未来としての流れる時間ーのことでありカイロスとは刻ー時節、時期ーだと云うのである。

すると矢張り其れは弐元論と云うこととなる。

 

クロノスが人間理性により相対分別された抽象的時間ー流れる時間ーであることに対しカイロスの方は謂わば神より授かりし永遠をも含む瞬時の流れぬ時間である。

其の神より授かりし時間には永遠と瞬間が同時にセットされて居る可能性が高い。

永遠⇔瞬間

 

我我人間の認識ではクロノスの方が理解し易いー其れもさうした認識上の形式を取るが故にー訳だが自然にある時とは其の刻刻としての瞬間ー今ーの集積だけなのやもしれぬ。

 

尚永遠とはオーラームとされ元来「隠される」と云う意なのださうだ。

永遠とは左様にどうも時では無い。

 

私は時間とはー永遠のー分離であるとさう述べて居りであるからそも永遠の時間と云うものは考えられぬ訳だ。

逆に時間とは常に「限定」である。

但し其れは所謂クロノスのことである。

 

 


03:01何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

03:02生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時

03:03殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時

03:04泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時

03:05石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時

03:06求める時、失う時
保つ時、放つ時

03:07裂く時、縫う時
黙する時、語る時

03:08愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時。

 

「聖書 新共同訳」   コヘレトの言葉    Copyright: 日本聖書協会 (jpn.org)より

 

此処で述べられて居る時とはまさに其のカイロスのことなのだらう。

實は私自身が五拾歳を過ぎた辺りから此の「其の時」のことを頻繁に感ずるやうになった。

 

尤も其れは若い頃には壱度も感じられなんだことである。

おそらくはかうして何にでも時が来たるのであらう。

 

其れは老いも若いもむしろ関係無く人間に対しまた生物に対し訪れることであらう其の唯壱の時のことなのだ。

であれば矢張りコへレトの言葉は所謂決定論的な世界観を示して居ると考えられる。

 

ちなみに私自身もまさに其の決定論者なのである。

我は所謂「自由意志」なるものは虚妄の認識により生ずる錯覚に過ぎないとさう捉えて居り従って「自由意志」を認めて行く思想とは基本的に相性が悪いのだが近代其れ自體がむしろ其の「自由意志」遂行の為の展開なのであらう。

 

分離=分節し区別すること=限定=現象ー苦ー⇔永遠=分れたり区別されぬこと=非限定=無辺際=神と佛ー樂ー

 

との世界への理解が個人的には進んで居り従って僕の苦しみはみんなの苦しさとは違って居て「分かって居ない」ことでは無く「分かり過ぎる」ことなのである。

まあエエわな、そんな奴が愛知県人に壱人位は居てもエエことだらう。

 

 

實際にどんなことにもまさに時がある。

愛する時、拒まれる時、夢見る時、目覚める時。

 

何?

石を放つ時、石を集める時?

 

いや別に石は投げませんが確かに石を集めて来て居ります。

 

其れにつけても何故「飲み食いしてもまたすぐに腹が減るのだし喉が渇く」のであらうか。

さうして飲み食いせずとも良い世界こそが壱番良い世界なのではありませんでせうか。

 


03:11神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。

03:12わたしは知った
人間にとって最も幸福なのは
喜び楽しんで一生を送ることだ、と

03:13人だれもが飲み食いし
その労苦によって満足するのは
神の賜物だ、と。

03:14わたしは知った
すべて神の業は永遠に不変であり
付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。
03:15今あることは既にあったこと
これからあることも既にあったこと。追いやられたものを、神は尋ね求められる。

「聖書 新共同訳」   コヘレトの言葉    Copyright: 日本聖書協会 (jpn.org)より

 

所詮人間は限定者でありたとえ知恵を磨いたにせよ悟れぬ者なのでまさに飲み食いしてつまりは「食い倒れ」したらうぜ。

つまりは其の飲み食いこそが神の賜物なのだ。

 

しかもわたくしは知った!

言わば神の御業は永遠に不變だ。

 

其の神にせよまた佛にせよ眞に畏れ多いものである。

現代人の壱番頭がオカシイところはさうして神佛を畏れ敬わぬところにこそあらう。

 

しかも其のことがまるで自分では分かって居ない。

嗚呼、もしや神とは其の神とは閻魔大王様のやうなもののことなのであらうか?

 

其の閻魔大王様のことですが、其れはもしや神の化身なのではなからうか?

其れも全知全能の神の。

 

ーヤマは人間で最初の死者となり、死者が進む道を見いだした[12]。そして死者の国の王となった[1]。虚空のはるか奥に住むという。インドでは、古くは生前によい行いをした人は天界にあるヤマの国に行くとされた[1]。そこは死者の楽園であり、長寿を全うした後にヤマのいる天界で祖先の霊と一体化することは、理想的な人生だと考えられていた[13]

しかし後代には、赤い衣を着て頭に冠を被り、手に捕縄を持ち、それによって死者の霊魂を縛り、自らの住処・国に連行されると考えられた[3]。ヤマの世界は地下だとされ、死者を裁き、生前に悪行をなした者を罰する恐るべき神と考えられるようになった[14]。ー

閻魔 - Wikipediaより

 

しっかしどう考えても裁く神とは壱神教の神であるべきなのではないだらうか。

壱體何故多神教の神が人間を裁くことがかうして可能なのだらうか?

 

 

   好悪


 わたしは古い酒を愛するように、古い快楽説を愛するものである。我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。ただ我我の好悪である。或は我我の快不快である。そうとしかわたしには考えられない。
 ではなぜ我我は極寒の天にも、まさおぼれんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか? 救うことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救う快を取るのは何の尺度にったのであろう? より大きい快を選んだのである。しかし肉体的快不快と精神的快不快とは同一の尺度に依らぬはずである。いや、この二つの快不快は全然相容あいいれぬものではない。むし鹹水かんすいと淡水とのように、一つにっているものである。現に精神的教養を受けない京阪辺の紳士諸君はすっぽんの汁をすすった後、鰻を菜に飯を食うさえ、無上の快に数えているではないか? かつ又水や寒気などにも肉体的享楽の存することは寒中水泳の示すところである。なおこの間の消息を疑うものはマソヒズムの場合を考えるが好い。あののろうべきマソヒズムはこう云う肉体的快不快の外見上の倒錯に常習的傾向の加わったものである。わたしの信ずるところによれば、或は柱頭の苦行を喜び、或は火裏の殉教を愛した基督教キリストきょうの聖人たちは大抵マソヒズムにかかっていたらしい。
 我我の行為を決するものは昔の希臘人ギリシアじんの云った通り、好悪の外にないのである。我我は人生の泉から、最大の味をらねばならぬ。『パリサイの徒の如く、悲しき面もちをなすことなかれ。』耶蘇やそさえ既にそう云ったではないか。賢人とは畢竟ひっきょう荊蕀けいきょくみちにも、薔薇ばらの花を咲かせるもののことである。芥川龍之介 侏儒の言葉 (aozora.gr.jp)より

 

芥川は此処で弐元論に就き論じて居ります。

 

苦⇔樂

好き⇔嫌い

善⇔悪

 

賢人とは畢竟荊の道に薔薇の花を咲かせる者のことであると。

尤も宗教の人人の所謂朗らか体質、前向き体質に対し嫌気がさすことがわたくしには御座ります。

 

芥川や太宰はまさにさうした意味で知の方面に振れた文士なのであり宗教者では無かったのです。

そんなわたくしでもコへレトの言葉はまるで心に食い入るが如くに理解することが出来る。

 

其れはコへレトの言葉が知の上部構造としての生の虚無性、空しさの辺りから述べられた言葉であるからなのだらう。

其れがまた同時に絶望の淵より紡ぎ出される神に対する懺悔録のやうなものでもまたあることでせう。

聖夜にあえて行う資本主義批判

社會批判23

 

 

 

 

本日は久々に日本共産党の方が赤旗日曜版の代金の徴収に来られたので其れを支払ったところです。

さらに赤旗日曜版は非常に面白いと云うことを伝えさせて頂いた。

 

さて赤旗日曜版12月19日号にかの靑木  理氏が色々と述べて居られ其の御意見には大いに賛同出来る部分があったので其の旨に就き述べてみたいと思う。

 

まず、靑木氏の主張は以下のものである。

「野党には批判力こそが必要だ」

 

だが其れは實は当たり前のことなのだ。

ですが日本國に限り其処では民主制が行われて居らず其の代わりに何がやられて居るかと申すに其れは「自称保守政党による全体主義政権」の擁立である。

 

ですので靑木氏は確かに正論を述べるだけの頭の良さを持って居られやうが其れも實は至極当たり前のことを述べられて居るだけのことなのであり特に左翼理論を其処にて披露されて居る訳では決して無いのだ。

 

 

左翼共、お前等は皆変わってるな、其れも常に批判ばかりでちっとも現實的では無い。

まあさうだらうが其れも實は当たり前のことではないか。

 

何故なら共産主義は人類社會に遺された最後のフロンティアでありつまりは理想社會である訳なのだ。

で、左翼が理想論ばかりをさうして滔々と述べ矛盾に対して逐壱批判を加えるものだから逆に馬鹿なんじゃないかと保守の側はさう思い込み易い。

 

しかしながら、其処でもってひとつよーく考えてみやう。

いや確かに保守の側には考える力が余り無い。

保守の半分はおそらく馬鹿であらう。

 

エッ、そんなこと言って良いの?

第壱お前自身も保守的な人間だとさう述べて居たではないか。

 

うーむ、確かに僕はかって其の左翼をこそ批判して居たのだった。

其処で壱番気に入らなかったのが抽象的に齎される進歩概念ー唯物論としての進歩主義ーに対する疑念であった。

 

 

ところが、自民党が何とセッセと日本の破壊に勤しんで居る事を其れこそ適菜氏や堤氏の著作から學んだのであった。

うわあー、こりゃあイカン。

 

つまりは日本の民主制は今極端に矛盾化して居り其の破壊を好んでする政党への支持ばかりがむしろ高まって行く訳だ。

 

岸田氏は其の中ではまだしもまともな方で何故なら安倍を否定したらうとさえ思って居る訳でだったら早う新自由主義を止めて左翼分配政策へと舵を切るべきだ。

なのですがあくまで自民党の中での総理ですので其れをやらうとすると安倍壱派の抵抗のみならず麻生の支持層の金持ち連中がソッポを向いて仕舞う訳なのでなかなか思い切ったことが出来ぬ訳だ。

 

だったら其の金持ちの爺が早う死ねば良いのですね?

まあさう云うことだらうな。

 

 

ところで今回の子供への拾萬の給付はどうなのでせう?

其れは子供が参人居ると参拾萬も振り込まれるのだ。

また五人ならば五拾萬もだぞ。

 

でも壱人も居なければ結局零円である。

其れ即ち其れは不平等政策である。

 

何度も申して居りますが公明党自民党とくっついて居る限り宗教政党としての心根を清く保つことさえもが難しくなることだらう。

但し貧乏人に金をバラ撒くこと自體は決して悪いことでは無くむしろ良いことである。

 

 

さて、靑木氏は其の赤旗日曜版にて徹底的に「批判してこその野党」である旨を力説して居られる。

さうして其の批判力の親玉こそがむしろ日本共産党であるのやもしれぬ。

 

以前にも述べた通り此処日本國では民主主義がそも成立して居ない。

其処でようやく民主主義が機能し社會主義政党が政権を担うと現實的にはなかなか上手く世が回らず其れでもってすぐにまた自民党の力が復活して仕舞う訳だ。

 

わたくしは其の社會的構造を自分なりに分析してもみたのだが其の全体主義への親和性の裏には日本社會の現世利益性への信仰と云う大前提が存することにはたと気付いた。

 

 

さうか、日本と云う國は其の現世利益性にて動く國だったのだ。

其の現世利益性こそが實は最も手強い敵である。

 

日本人の精神に於ける理想や潔癖さに対する最も手強い敵である。

 

ところが、また同時に日本社會を回して居るのがまさに其の現世利益性への信仰其のものなのだ。

 

よって神道や大乗各派もまた其の現世利益性への信仰により支えられても居やう。

で、神道や大乗各派は無論のこと保守派なのでまさか革命などは望んで居らぬ訳だ。

 

 

だが其処でもってよーく考えてみやう。

かうして自民党が日本を革新國家米國並に合理化して行く。

 

すると雇用が壊れ商店街が壊れ給料は減りおまけに自民党の👿化がかうして進んで仕舞った。

うわあー、其処でもってもしや👿が政治に入り込んだのですか?

 

さうだ、其の👿こそが今國を動かして居るのだ。

でも岸田総理が其処を何とかして呉れませう?

 

此の際手っ取り早いのは矢張りと言うべきか野党共闘の方へと政権が移行することであったが其れももはや望み薄だ。

だってキシダが…。

 

🐶のキシダに資本主義の破壊ー金持ちへの優遇政策の是正ーなどが出来る訳が無いだらう?

もし其の再配分とやらが出来たら折角早稲田も出て居るキシダを犬から人間へと格上げしてあげても良い。

 

 

でも共産主義自衛隊を潰すのではないですか?

だから日本共産党は中國の共産党やソヴィエト型の共産党とはまた別物なのだ。

 

つまりは日本共産党は基本的に護憲の立場であり従ってすぐに戦力を放棄する訳では無い。

また信教の自由や言論の自由なども無論のこと認めて居る。

 

日本共産党にも確かに矛盾的な部分があるがひとつだけ潔癖なのは資本主義が最終的には地球環境を破壊し尽くすとさう考えて居る部分なのだらう。

また其のことはおそらくは眞實であらう。

 

 

其の資本主義はすでに末期状態にあるが其れでも其れにより人間社會を回さずには居られぬのが謂わば文明の宿命なのだ。

 

左翼の靑木氏も述べて居られるのだが民主政治が正常に機能すると云うことは行政権力や与党に対する批判無くしてなし得ることでは無い。

権力の歪みや暴走を防ぐ為には其の批判勢力よりの「糺す力、正す力」こそが是非必要である。

 

ところが其の「批判」其のものは常に苦しくまさに荊の道を歩んで行くかのやうなものだ。

あえて其の苦を引き受け批判をなすことにはまさに信仰にも似た強い政治的信念と反骨心が当然ながら要求されても来る。

 

 

此れ迄にも何度か述べさせて頂いたのだが権力には常に責任ー義務ーが伴うのである。

其の権力が大きくなればなる程に其処に大きな責任と義務が伴うのだ。

 

ところが特に小泉政権以降は権力のみ行使し自らが仕出かした過ちへの責任を取らぬ輩が総理大臣までをも務めるやうになった。

 

ところが大衆の意識はすでに盲目化即ち洗脳されて来て居りさうした頭の中へは今更何を述べてももはや通じぬ訳だ。

であるが故に此の國の行政はより悪くなって行かざるを得ない。

 

 

さうして選挙となればまた皆が挙って自民党へと投票するのだ。

 

またメディアによる権力や与党への監視も充分に機能して居ないと靑木氏は仰る。

ところがかっては其れが機能して居たのだとも仰る。

 

ひとつにはメディア其れ自體がすでに現世利益的価値に擦り寄って行って居るのではなからうか。

其の種の功利性、所謂損得勘定こそが大事で事の眞相を追及したり権力の行う悪事を糾弾したりすると云った眞理方面での潔癖さがもはや何処にも見られない状況へと陥りつつある。

 

まさに其れ等の方向性が複合し現在のやうなまさにケジメの付かぬ、まさに自らの非を認めぬ組織体質を組み上げて仕舞った訳だ。

また政権批判をすれば何かとやりにくくなることもまた組織としての常なのだらう。

 

我などはまだかうして壱社会科詩人として政権批判を繰り返して来ただけだったのだが組織は概ね組織其れ自身を批判することが出来ずまた其れが全体主義構造にまで及ぶとなるともはや誰も其れには逆らえなくもならう。

 

其の現世利益性はもはや歯止めが効かぬ程に世界中を席巻するに至って居るのやもしれぬ。

事實上もはやあらゆることが其の今だけの利益性に基づき構築されるやうになったのだと言えやう。

 

 

ではキリスト教其れもカトリシズムや原始佛教は其れとは別に清貧の道を甘んじて歩むのですね?

まあさうだらう。

よって彼等はクリスマスに鳥の丸焼きを食ったりは決してせぬ筈だ。

 

もしやお前は其の鳥の丸焼きをすでに食って居るな?

はい食いました、其れもついさっきのことでしたが。

 

お前は其の鳥の丸焼きをすでに食って居るにも関わらずカトリシズムだの原始佛教だのそんな清廉潔白なことを論じて居られる御身分なのか?

まさかさうではありませんでせう。

 

なのでわたくしは今日宗教のことなど壱言も述べては居ない。

其れにお前は本日教會を回るのでは無かったのか?

 

いえ其れが昨日の採集と剪定とで可成に疲れまして…。

 

お前はまだ何かを今夜食う積もりだらう?

まあ後はクリスマスケーキを食ってからプライム・ヴィデオで映画でも視て🐈と壱緒に寝るだけのことです。

 

 

いやあ、如何にも平和なクリスマスだなあ。

いま少し其処に苦悩が必要なのではないか?

 

いやヤマト運輸と戦闘状態ですので其れは苦悩と言えば苦悩でせう。

 

さてもお前は壱體何匹の🐈と共に寝て居るのだ?

たったの四匹です。

 

 

さて其の日本社會の共産主義に対する拒否感は壱體何処から醸成されしものなのであらう?

 

こと資本による環境破壊と云うことを鑑みる限りは資本主義的な欲望の無限の拡張は是非抑える必要がありよって其れは計画経済を採る社會主義、共産主義社會の方が明らかに向いて居る訳だ。

然し日本人の多くはおそらくは其の辺りまで考えては居ないのであらう。

 

どうも其処が勉強不足であるやうな気がしてならない。

其れも根本的な部分での無知であり無思考なのではないだらうか。

 

ちなみに今Eテレの方で斎藤 幸平先生による「資本論」の講座ー100分de名著ーが再放送されて居る。

其れも反響が大きくあり再放送が決まったのだと言う。

 

 

資本論」に就いては私も今年の夏に講義し其れでもって可成に疲れたのであるがまさに其れこそが大事なことである。

何故なら結局個を規定するものは其の社會的規範であり制度=イデオロギーである部分が大きい訳だ。

 

さうしてデカい社會の制度が個を規定して仕舞う部分には誰も抗えぬものだ。

であるが故に只社會に対して従うのでは無く其れを自らの理性と照らし合わせ常に考えて行かねばなるまい。

 

 

少なくとも我にとり其のマルクスの晩年の思考ー所謂エコロジーと関連した部分でのー程魅力的なものは無い。

わたくしが左翼思想を再評価するやうになったのもまた其のマルクスの深い思慮の部分が見えて来たからなのである。

 

ーかくして、今日の環境危機の根源が資本主義そのものにあることを『資本論』は理解させてくれます。そしてまた、資本主義社会そのものを問い直さない「対策」は、すべて小手先にすぎないと断言すべきことも理解されます。増殖するためには際限なく自然と人間から収奪するという資本のロジックによって社会が構成されているという状況を乗り越えない限り、危機を克服することはできないわけです。ー『資本論』は環境問題も見越していた マルクスが指摘した問題の本質を見なければSDGsは達成できない - wezzy|ウェジー (wezz-y.com)より

 

今人類がつまりは文明が向き合わねばならぬこととはより儲けたり進歩することでは無く自然界の摂理をしかと學ぶことであらう。

 

 

マルクスが、資本主義経済体制の無秩序性に対して何らかの統制が必要だと考えていたことは確かですが、その具体的手段を国家の巨大官庁による経済秩序の完全な計画化に見定めていたわけではありません。ー“資本主義”を考え直さなければ、社会にまん延する“生きづらさ”はなくならない…いま改めてマルクスを学ぶ意義 - wezzy|ウェジー (wezz-y.com)より

 

御勉強を進めて行きますとかうしたことさえもが分かって参ります。

 

いや、なにしろ無意識的ですから、それはもっと漠然としたもの、つまり「資本主義が唯一可能な社会の在り方だというのは常識だから、常識ハズレな奴だと思われるのはカッコ悪い」といったような感覚ではないでしょうか。そうだとすれば、こうした姿勢こそ、まさに「カッコ悪い」ものだと言えます。世間の常識の当否を自分の頭で吟味することなしに、他人の目ばかりを気にして、自分は常識人だと周囲から思われたいと願う。主体性というものがなくグニャグニャで、そのために実は不安でたまらない精神状態であるからです。“資本主義”を考え直さなければ、社会にまん延する“生きづらさ”はなくならない…いま改めてマルクスを学ぶ意義 - wezzy|ウェジー (wezz-y.com)より

 

かうして資本主義の信奉者はおそらく批判精神を眞の意味では持たぬ人人なのでせう。

要するに彼等は精神的にグニャグニャの輩なのだらう。

 

 

ーこうして社会全体の生産力は上昇し続け、一面では私たちは豊かになります。しかしその「達成」は、「労働者の犠牲」「個別労働者の不具化」という代償と引き換えに得られるものだ、とマルクスは指摘したのです。

 主要な労働の在り方がマルクスの時代から移り変わって、肉体労働からサービス労働へと変化しても、根本の問題は変わりません。私たちは、巨大な経済機構のごく一部に一片の歯車として参与するのみで、何かをやり遂げたという満足感を得ることができず、同時に、その巨大機構に生活の糧を依存することを強いられて、自立性を失うばかりです。ー『資本論』も大谷翔平は「すごい」と言っている - wezzy|ウェジー (wezz-y.com)より

 

其の自立性、まさに其れが思考の分野にまで及んで居るのだと我は考えます。

まさに商品化された思考や労働が眞の意味での個の自立性を限りなく妨げて行く訳だ。

 

尚此の社會の体制上の問題は宗教とはまた別箇の大問題です。

資本主義は自然破壊ばかりか個の破壊、思考の破壊ー洗脳としての破壊ーをも押し進めて来て居る可能性がまた大である。

 

そんな訳で盆であらうがかうして年末であらうが資本主義が抱える根本命題の部分は何処へも逃げてはいけない訳だ。

尤も其れは所詮個にて解決出来る問題ではありませんので個としてはあくまで御勉強をしつつ考え何かを食って居るより他には為すことは無い。

 

おや、ようやく従妹が来てクリスマスケーキが届いたやうだ。

其れではまさに其れを食う為に資本主義批判を壱時休止致します。

 

「得ることこそが得られぬこと」

インテリ左翼風にあえて申せばまさに此の豊かさこそが得られぬこと其のものなのやもしれません。

今や「安くて良い」物を探し出すことこそが我に取り最も大事なことだ

趣味の追求19

 

 

 

 

久しぶりの薬研山 05 サファイアが出た! | Kの鉱物採集記録+α (ameblo.jp)

かうして薬研山の辺りでは最近でもかうしてサファイアが出るやうです。

其れでもってパン二ングにて其れを採集することも可能なやうだ。

 

なんようのフォトギャラリー「岐阜県中津川市のサファイア」 | スバル WRX S4 - みんカラ (carview.co.jp)

サファイアはかうして六角柱状の結晶で出るものが壱番価値がある。

 

ですが明確な結晶形を示さずとも大きい物や色合いの綺麗な石は其れなりに価値があるものと思われる。

私が今回得た薬研山のサファイア標本はまさに其の種の明確な結晶形を示さずとも色合いの至極綺麗な💎質の石でした。

 

其れを日に翳せばまさに靑く光輝きます。

のみならず其の靑の世界の中に輝きが出て居ります。

 

其の輝きは赤いパイロクスマンガン石の良品などにも屡見られる。

おそらくは質の良い石のみに与えられる不可思議な現象なのだらう。

 

 

2004年8月号【サファイア】 (saijuhouseki.com)

かやうにコランダムは硬度の高い石で宝石の中でも特に価値のあるものです。

 

コランダムの赤い物がルビーと呼ばれ靑い物がサファイアと呼ばれる。

とは言えルビーやサファイアの原石の蒐集は可成に難しいものです。

 

何故なら良い石を得ることが壱般に難しいからです。

尤も其れも当然でありそんな良い原石は磨かれて💎として売られて仕舞うことだらう。

 

そんなルビーやサファイアには数拾萬、数百萬の値段が付くことでせう。

だがそんなものはまさに成金の人人が購う物のことで庶民の手の届かぬ世界にある物のことだらう。

 

 

とは言え、おそらくは世界中を掘り返せばおそらくは其の種の石が可成の量採れるものなのだらう。

ですが其れには巨額の費用がかかる為事實上無理である。

 

さて此の僅か壱センチの薬研山のサファイア標本ですが今回私が得た物は所謂板状結晶となったもので30年前に砂防堰堤の工事の際に出たコランダムだとのことです。

また現在も採集が出来ぬ訳では無いやうですがたとえダムまで行ったとしても採集は困難でありもはや欠片さえ得られないとのことでした。

 

つまりはすでに絶産して居ると考えても良いのださうです。

 

 

中津川や恵那の方はかっては大規模な採掘などが行われて居てさうして山を掘れば石が出其の中に鉱物結晶としてのトパーズの良品などが出た訳です。

さうした標本が今でも鉱物博物館/中津川市ストーンミュージアム博石館に展示などされて居る訳です。

 

思えば参、四拾代の頃には私も兎に角良く中津川や恵那を訪れて居たものでした。

 

参拾代の頃…主に付知峡にて屡渓流の遡行や巨木の探索などをして居た。雪の降り積もる元日に訪れ其の雪の積もる山道を延々と歩いて居た記憶すらもがある。また加子母村の滝にて滝行をしたことさえもがあった。

四拾代の頃…水晶ーちんの峠ーやトパーズー関戸川ーの採集に屡出向いた。

 

まあ今思えばかうした経験こそが最も重要な経験だったのだと思う。

四拾代の頃はしかしながら其れだけでは無く行きつけの百貨店ー丸榮百貨店ーでもってー自分の限定万年筆のコレクションの展示さえをもしていたのである。

 

 

つまり我の万年筆趣味は其の辺の人人とは違いセミ・プロ級だったのだった。

其の万年筆趣味は中学生の頃からの趣味であり石の趣味はあくまで四拾代から始めたものである。

またゴルフの方も廿代からやって居たのでわたくしの人生とはまさに趣味浸けの道樂人生なのでもあった。

 

ところが其れだけでは済まない。

かうして宗教や藝術其れに読書即ち御勉強の方もやるのだからもう何をやって居るのだか分からぬ位に忙しい。

 

また当然のことながら当時は金も稼いで居たので會社へも行かねばならぬ。

そんな訳で酒色に溺れたりギャンブル依存になったりする暇などはわたくしには無かったのだ。

 

 

つまりはさうして御勉強と遊びと會社でもって常に忙しくまさに悪い遊びどころでは無かったのだな。

いや四拾までは付き合って居た👩もまたさう言えば居たな。

 

だからわたくしの人生は所謂閉じ籠りでは無く逆にとても忙しかったのだった。

 

嗚呼さうだ、四拾代、五拾代の頃は掲示板の主筆もつとめて居たのだしな。

其れ等の経験を全てひっくるめて今思うにもはや得難いものこそが其の石の採集の思い出である。

 

 

と云うことは自然とは矢張り極限定的なものだと言えるのではないか。

特に石の採集はまた動植物の採取は今後やりたくても出来ない言わば幻の行為と化して行くことだらう。

 

人間界の趣味は主に人間関係にて形成される部分が大きい訳だがー御勉強即ち學問も結局は其の人間関係より齎される部分が大きくあるー、自然に於ける趣味にはむしろ物理的な資源量のことが其処に大きく比重を占める訳だ。

要するに人間関係は自然破壊が進んでも其の侭に構築されて行くものだが自然はイザ自然破壊が進めば其れでもって尽きて仕舞う。

 

六拾代となった今我に興味があるのはズバリ其の人間関係や社會的関係では無く其の自然の物理的埋蔵量に関してである。

 

 

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うわあー、こんなにデカくて綺麗な海外産のサファイアの原石がこんな値段で売られて居て良いのでせうか?

もしや贋物なのですかねえ?

こんなのがもしも本物であるなら是非欲しいところです。

 

石もまた物質的愉樂を充たす為にあり其れもまた∞の欲の連鎖を生み出しませうが情けないことに資源量が絶対的に不足して居るが故にすぐに絶産したりするものです。

他方で人間ー文明ーによる進歩欲の方は歯止めが与えられぬが故に肥大化して行く壱方です。

 

其れは進歩欲があくまで抽象的な欲であり石や万年筆などの物質的耽溺とはまた別次元のところにあるであらうからだ。

尤も筆記具の方に限れば其れもまた進歩致しますので其処に進歩欲が無いとは言い切れません。

 

 

ですが石や其れこそ浜辺の貝殻などの蒐集のやうに対象が自然物の場合は基本的に儚い趣味の世界のものだと最近はさう思うやうになりました。

また其の儚い趣味の世界のものこそがより上質な何かを形作るであらう価値です。

 

故にか我は鉱物標本を今とても大事なものとして取り扱って居る。

其れこそ少年時代には紫水晶の標本を部屋の隅などに転がらせて居たものでしたがさうした感覚はもはや無い。

 

其の自然物が「幾らでもあるもの」と云う感覚では無くなったからだ。

筆記具の場合でも戦前の萬年筆などに限れば其れもすでに絶産して居ますので同じやうにより大切に思えて来る訳だ。

 

 

さうして自然とはとても「儚い」ものである。

 

参、四拾代の頃にかうして何故か自然との交流が深くあったわたくしにはまさに其のことが實感として感ぜられる訳だ。

其の「儚い」自然はけだし文明の営為、また文明側の搾取に対して「儚い」のです。

 

自然其のものが儚いのでは無く、人為的な加工に対する抵抗力のやうなものこそが壱種儚くも脆く弱い訳だ。

 

文明のあり方はまさに其の意味で自然の命運を握って居ります。

ですが其のことは人に言ってももはや伝わらぬことです。

 

 

何故なら文明人は皆人間関係の中にのみ生きて居るからです。

ですが其の人間の中にも自然方面への道が塞がれては居ない人人もまた居られる訳だ。

 

さうした感度の持ち主にこそ我は其の自然の大切さを語りかけて行きたい。

💎の稀少性や其れが放つ七色の輝きは元より人為的なものを離れたものでありまさに其れこそが自然界が生んだ奇跡です。

 

其の価値は最終的に金銭的価値には還元し得ぬものだ。

つまりは其れは金銭的価値以前に我我人間に対し何かを訴えかけて居る価値である。

 

また其れがまさに現象の「儚さ」であり「限定」性のことである。

さうして儚くも限定されたもの程美しい訳です。

 

其の限度こそが美を生むのだと申せませう。

対して文明は限度を認めたがらず進歩ばかりを無限に追い求めて居ますがどう考えても其れは馬鹿のやることでせう。

 

 

でもそんな綺麗なサファイアの原石だのそんなものに心を捉えられるよりはみんなの為に生きた方がずっと良いのだと思う。

君はもしや宮澤 賢治の生まれ変わりなのかい?

 

だから君の其の社會通念上の善の価値観、そも其れが解脱への妨げとなって仕舞うのだ。

でも何処かの馬鹿詩人のやうに社會生活を小バカにしながら見て居ると結局悪いことばかりが起きてもうお前には先が無いぞ、先が。

 

そんな悪いことばっかでは無いわ。

むしろ良いことばかりだぞよ。

第壱かうして薬研山の壱級標本が手に入っただらう。

 

其れに今日もまた相生山へ採集に行って来たのだし…。

おい、お前、股関節が悪いと云うのに良く山へ行くものだな。

 

まあ少しは動きませんと逆に體がなまって仕舞います。

其れに本日は庭の剪定も致しましたのです。

 

ソロバンの先生から昨夜剪定バサミを借り受けかうして今日は御天気も良く暖かかったものですから其れをやりました。

 

ところが其処へソロバンの生徒が壱人教場へと何故か戻って来たのです。

彼曰く、

ーソロバンのー勉強の仕方が足らんと親に怒られたのでまた勉強しに来ました。

 

 

なんじゃあそりゃー。

 

だったら成果が出ないと何遍でも先生は教えねばならぬか?

でもってわたくしも塾を開こうかとさう思って居たところなのですがさうしたバカ親ばかりですと先生の方に物凄く負担がかかりさうなのでヤッパリ止めて置かうとさう思いましたのです。

 

ですがそんなことばかりでは無く基本的に🚺にはとても優しいわたくしは家に掃除に来て呉れる人人に対し酒入りのチョコレートをあげたところ皆とても喜んでも呉れたのでした。

うーむ、何だか前よりも人間関係が濃くなって居ませんか?

 

まあさうなっては居ますが基本的には樂しいことばかりをやって居る訳だ。

 

 

大人の洋酒チョコレート

 

チョコレート|商品ラインナップ|名糖産業株式会社 (meito-sangyo.co.jp)より

 

實は今コレに嵌って居ります。

歯や歯茎がもはやボロボロですが美味いものは美味い訳です。

 

洋酒入りチョコレートの人気おすすめランキング15選【市販のアルコール入りチョコも】|セレクト - gooランキング

で、何で此の洋酒チョコの特集記事のところでワザワザ名糖のこの「大人の洋酒チョコ」がイキナリ出て来て居るのかと云うことこそがまずは大問題です。

 

つまりは其れは、

1.値段が安い

2.其の割に美味い

3.チョコがブラック系にて所謂「大人」の味わいがする

 

と云うことから選ばれたのだらう。

要するにコスト・パフォーマンスに優れる素晴らしい商品なのです。

 

もうひとつ、「Rummy」などもたまに買うのですが、かうした東京のメーカー物や神戸、横浜ブランド物のチョコ系の菓子は兎に角値段が高めです。

なのですが名糖の此の「大人の洋酒チョコ」はさして値段が高くはありません。

 

我の場合は可成のチョコレートファンですので日頃から無理無く食せる「安くて美味い」商品だけをかうして兎に角いつも探して居るのです。

 

また御立派な創作ショコラなども全然要りません。

そんな壱個で何百円もするやうなモノはまさか要らないのだ。

 

 

アーモンドチョコレートカカオ73

 

チョコレート|商品ラインナップ|名糖産業株式会社 (meito-sangyo.co.jp)

こ、コレは!

 

其のカカオ70%以上のアーモンド・チョコレートも實は探して居りまして實は此れ迄はイオン・ブランドのものを喜んで食って居たが果たしてコレなどは何処に売って居るのだらうか?

 

要するに「安くて美味い」であるだとか「安くて出来が良い」と云う御品にばかり今わたくしは惹き付けられて居りますのです。

さうして其の種の物が今探せば必ず何処かに出て参ります。

 

 

先入観に捉われ探さぬのであればかうしたものはなかなか手に入るものでは無い。

また石やペンの蒐集などもまさにさうしたことなのです。

 

経済のグローバル化により何処かに必ずや「安くて良い」品が出て来るものです。

其れも百円ショップレヴェルを遥かに超える千円、弐千円の品が世界の何処かに必ずやあるものです。

 

かうして私の物に対する趣味はもはや数をまた高価な良い物を集めるのでは無く、所謂「安くて良い」物を探し出すことにこそかうして尽きせぬ喜びを見出して居る訳だ。

世の理不尽からの癒しとしての靑ー靑い軸のJinhao100と薬研山の靑きサファイアの標本とー

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薬研山の靑きサファイア



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靑いJinhao100

 

趣味の追求18

 

 

 

 

 

つい先程机上の硝子製インク壺ー六角の瓶ーに光のイルミネーションが点って居りました。


其れはまるでオパールの輝きの如くに七色の光の粒となり暫く点って居た。

インク壺の裏面がカットグラスとなって居る為其の影響から其のやうにイルミネーションが生ずる訳だ。


より陽が傾き光が射さなくなれば即其の七色の光の乱舞も消え失せる。

しかしながら問題は其のことを我が今日初めて知ったと云うことです。

 

もう拾五年程も机上に其れを置きつつ何故其れに気付けなかったのか?


實存の問題とは實は其のやうな意味でのことなのやもしれない。

美はまた眞實は常に此の世に其のやうに存して居るが我我が只其れに気付けぬだけなのだ。

 


おそらくは様々に張り巡らせられたバイアスが其れを見えなくして居ることだらう。


つい先程見た其の七色の光の乱舞はまさに壱級品のものでした。

まるで壱級の宝石の如くに其れは光輝いて居た。


正直わたくしは此れ迄に様々な美しいものを見て来ましたが其の中でも五指に入るやうなものでした。

しかも決して高価なものでは無く所詮はタダの机上の自然現象だったのだが…。

 

我我人間はさうして先入観に捉われる余りに此の世での美を見逃して居ます。

さうして美は何処にでも潜み必ずしも其れは高価なものなのでは無い。


人間を見詰め続け其の本質としての欲深さに思い悩みつまりは其れとの齟齬を感じ続けて来た私の眼差しにたった今其れは映えて見える。

其の苦悩の代償におそらくはそんな眼差しを与えられて居ることであらう。

 

 

嗚呼、美しい。

實際何て全てが美しいのだ。


全てが美しい?

お前はアホか?

逆に全てがどす黑く穢れて居るではないか!


其れに死ぬ奴ばかりではないか。

悲惨もエエトコで其の様やまるで地獄だぞよ。

 

おお、確かに地獄だ。

まるで地獄變だ。

宗教さえもが何やら地獄なのだし、政治などはもっともっと地獄だ。


此れはもう地獄のオンパレードでもってつまりは最悪の世相である。


いやでも其の最悪の中に光り輝くものがしかとあらう。

だから其れが其の幻としての七色の光の乱舞だ。

 

 

文人浪漫もソコまで行くとむしろ醜いな。

お前の頭のネジの外れ方はもはやゴッホやゴーガン並だぞ!


いや其れでもいいんだ。

さうしてカウンセリングのクリニックでもってガソリン撒いて火を付けたり高層ビルから飛び降りるよりは余程に平和だ。


其れも何と美しいクリスマス・イルミネーションであったことよ。

まあ確かにガラス瓶に生じた七色の光の乱舞に感動して居る常識人などはまず居ない。

 

其処は確かに目出度い。

其の美への目出度さこそがまさに詩人級だ。


だが美以外への目出たさもまさに詩人級だ。


ま、どっちかでせう、其れは。

だから僕は人生の最後に藝術家をやるのだ!


僕は其の七色の光の乱舞とこそ心中するのだ!

得ても得られぬ其の美の世界へと飛び込むのだ!


其の話は脇に置くとして早う美しい物の話を始めよ。

 

 


はい、分かりました。

其れでは美しい靑い物に就き今回は語らせて頂く。


さて色でもって目立つのがまずは其の靑と赤である。


靑⇔赤

其れは共に根源的な何かを蔵して居る色なのだ。


今年の前半は其の赤との縁が深かった。

例えば棚山へオパールの採集に行くと赤のコモン・オパールが採れたものだった。


また3、4、5月の相生山、東山の石英採集にて最後に採れたのは赤い大きな石英の塊だった。

 

 

だが今年の後半は何故か其の靑との縁が深かった。

さて拾月に私は中國から求めた靑い軸のJinhao100を使い始めた。


其のJinhao100は最初から美しい靑の軸であった。

さうしてアクリル系の素材は或いは靑の色が鮮やかに出易いのやもしれぬ。


Jinhao100は此れで四本目だが壱番美しいのが此の靑の軸である。

しかしながらJinhao100は皆同じペン先なので結局は書き味の方が皆同じとなる。

 

 

其処でもって書き味の方を差別化せんが為に全てペン先を金ペン化することとしてみた。

金魚軸…ヴィスコンティー伊ーの14Kペン先

桜軸…デルター伊ーの18Kペン先

靑軸…モンテグラッパー伊ーの18Kペン先


ペン先を金ペン化することはペン芯とペン先の形状との適合性の問題などもあり至って難しい。

其れも厳密な意味に於いては難しい訳だ。


然し余り難しいことを言わぬ限りは逆に至極簡単な話となる。

尚Jinhao100のスチールペン先は容易に引き抜き易い。

 

 

万年筆はかやうに金ペン化するだけで別物となすことが出来る。


ペン芯とペン先の形状との不適合の直し方

1.ペン芯を曲げることでフィットさせるー多くはペン芯を反り返らせるー

2.ペン芯其れ自体を替える

3.ペン先其れ自體を加工成形する

4.多少の隙間などは我慢しつつ使う


万年筆趣味を長く続けて居るとペン芯のストックが何故か増えペン芯を替えられるやうになる。

替えるペン芯さえみつからぬ場合には私の場合、3.も行う。


金ペン先の場合金具ーヤットコやペンチ、ドライバーなどーにより形状を変化させることが出来る。

但し其れを行うと金ペン先のオリジナリティーは失われ個性的な金ペン先へと化して仕舞うこととなる。


特に器用でも無くまた観念人間で基本的に手は動かぬ我は3.は得意な訳では無いのだが創造性だの其れこそオリジナリティーには富んで居るので往々にして其れをして仕舞う。

また4.の場合が何故か生ずるものなのだが普通壱番ガマンがならぬのはまさに其の4.である。

 

 

ペン先を金ペン化することはプロやセミ・プロの人に頼まぬ限りどうしても適当にならざるを得ぬ訳だが其の利点としてはタダで済み且つ自分の思ったペン先に付け替えられる点である。

で、此の靑の軸のJinhao100に対し私は3.の方法を用い金ペン化して行った訳だ。


然し其の金ペン先の成形には弐箇月も要して仕舞った。

結果として今私の手元には金ペン先化され生まれ変わったJinhao100の靑軸がある。

 

よってモンテグラッパー伊ーの18Kペン先は可成に其の形状を変えられて居る訳だ。

壱言で言えば其れはオリジナルの時より大きく見えるやうになった。


其の成形も途中で挫折しかけたのだったがかうして使えるやうになれば其れでもって御の字である。


他方で金ペン先の形状の変更は大きくリスクを伴なうものだ。

我もまた此れ迄に五つ程は大事な金ペン先を台無しにして来て居る。

 

 

金ペン先は言うまでも無く高価である。

つまりは壱本弐千円以下のJinhao100よりもずっと高いモノなのだ。


其れでもトライすることによりやがてはかうした改造も施せるやうになる。


但し我などは逆にむしろ改造否定論者だったのだ。

其れは私の思想が基本的に保守的で非加工論者だからなのだ。


第壱私は文明による自然の加工其のものを嫌うまるで獣のやうな輩なのだ。

なので何かを弄ることが基本的にイヤであり獣は獣らしく大人しく自然に従うべきだとさう考えてもおる。

 

ですがよーく考えてみますれば其れは人間以外の者の考え方なのだ。


だったら逆に人間としての加工の極をやったれ!

とのことでついに私は3.までをもやる人間となってしまうた。

 


其の靑の軸のJinhao100は今我に取り大事な万年筆となりつつある。

Jinhao100が良いのはかうして所謂コスト・パフォーマンスに優れることである。


つまるところコレを金ペン化しさらに個性化すれば明らかに其れは弐萬、参萬の価値を持つ品へと化けるのだ。

だが國産の万年筆では弐千円以下の品で此の価値とはまさか成らぬ訳だ。

 

 

かの丸善の万年筆博などの葉書を見ても國産、舶来物を問わず現行の万年筆は高額化して居り要するに其れは金持ちの為の商品と化しつつある。

だが金持ちの方がより理性的であり難しい本を読み万年筆だのを好んで使うかと申せば案外さうでも無いのであらう。


むしろ貧乏人の方にこそ難しい本を読み万年筆だのを好んで使う輩が居るものであり金持ちは概ね金だけを好んで蓄積して居るものなのである。

要するにそんなおバカな金持ち連中に万年筆などと云う理性的に高度な道具が使いこなせる筈が無いではないか。


で、僕が言いたいのは中華万年筆は其の共産主義平等思想をやる為に出来た品なのでありコレでもって御勉強すればもう全部を世界革命出来ると云うことだ。

いやさうではなかった。


さうでは無く、其の貧乏万年筆が實は貧乏万年筆では無く逆に得も言われぬ程に美しい「靑い山脈」だったと云う話である。

靑い山脈?


違った。

其れはまさに「靑い珊瑚礁」であった。

 

 


次に述べるのはアノ幻の國産鉱物である薬研山のサファイアの標本を今回何故か入手出来たことである。

ですが其れを未だ見られては居ない。ーまだ手元に無いー


ちなみに此れは壱センチメートル程の石の小片であるに過ぎない。

であるに過ぎないのだが、我に取っては實は其れが今年最大の御褒美なのだ。


物マニアはかうして其の分野に嵌り込めば参り込む程に所謂カルトな内容へと入り込んで行き壱般人との価値分別との乖離が甚だしくなるものと相場が決まって居る。

 

 

だがどうだ、其れは實に美しい靑の小石であらう。

まあ美しいには美しいですが其れが何故そんなに価値のある物なのですか?


まあわたくしもソコは余り詳しくはありませんのです。

ですが、弐拾年も前にわたくしは其の薬研山を目指し探索に入ったことが御座りました。


しかしながら、其の薬研山其れ自體を発見することが出来なんだのです。

ですので、其れはあくまでわたくしに取り幻の石なのです。


おまけに其れがヤフオクにでも出ればすぐに五万以上の値が付くまさに高値ー高嶺ーの花だったのです。

ですが今回は其れが壱万以下で入手出来た。

 

 

なのですが此処からが實は恐ろしい話なのです。

其れはどう云うことかと申しますと其のヤフネコパックだか何だか知りませんのですが其れには實は恐ろしい秘密が御座りますのです。


壱言で申しますれば不着や未着が発生する虞がまた御座ります。


わたくしなんぞは昨年末に酷い目に遭い、結局やっとの思いで落札出来た其の棚山ノーブルオパールの標本入りのヤフネコが不着となりましたのです。

其の後私はあらゆる手を尽くしましたが結局は泣き寝入りとなりましたのです。

 


結局のところは其れが拾萬、弐拾萬のお品であれば弁護士に頼む手などもまた御座りませうが五、六千円のもので其れをやってもほとんど意味が無い訳だ。

しかも消費者相談などと云うものも實はまるでアテにはならずまるで他人事のやうにあしらわれて居ります。


わたくしはさうした意味では何せ潔癖ですので事の眞相への捜査は厳密に行います。

 

1.わたくしは善人ですので其の善意に対する悪を決して見過ごすことは無い。

2.ですがヤマト運輸の配達員Tの暴言を傷害事案として警察に届けなかったのはこんなわたくしにも慈悲の心があるからだ。

3.問題は其のTが商品を自己隠匿して居る可能性すら捨て切れぬことです。


さて、其の配達伝票は壱年間保管されて居るとのことですのでまだ其れが証拠として生きて居ります。

故にわたくしは来週最後の抗議をお客様相談の方へするつもりです。


…如何にもしつこい。

 

 

いやさうでは無い。

即ち悪は悪である。

今の世の中は其の悪と善の区別が其のケジメが付いて居らぬ。


そんなことでは駄目だ。

法に背くであらう駄目なものはダメだ。ー警察ではないのですがー


でも靑い万年筆と靑い小石は頗る綺麗だ。

其れはちゃんと届きますか?

 


必ずや届く。


おい、ヤマト運輸、お前のところの配達はまるで信用がならない。

対するアマゾンさんを見よ。


かうしてちゃーんと配達結果が逐次表示されておる。

またイーベイでもって世界中から万年筆が届いたものだったが壱度も荷を失くされたことなど無かった。


だから、おい、ヤマト運輸、お前のところの配達員はまるで信用がならない。

 

いずれにせよ、此の件にて私が學んだことはまさにどうしやうも無いことが此の世にはあると云うことでした。

勿論もっと運が悪ければ交通事故にて死んだりまた復職しやうと必死なのに頭のオカシイ六拾壱の👨に放火されさうして皆焼け死ぬのです。

 


六拾代の奴等はタチが悪いねえ、まあお前などもさうだが…。ー八拾九の母の言葉ー


まあさうだなあ。七拾代の全共闘世代はまだ闘うものがあったが僕等は甘やかされて育ち可成に頭も狂ってます。ですが、我我以降が狂ったと云う話で従って五拾代、四拾代、其れに参拾代の頭が狂って居ないとはとても言えませんねえ。


悪事を働くのは全部が六拾代だ。アノ地下鉄を燃やしたのも六拾代だらう?ー八拾九の母の言葉ー

まるでさうでは無かったやうな気がするが…。

 

兎に角人間と云うものは其の不完全な社會関係の中で生きて居る分どんな被害を被るものかまるで知れたものではありません。

問題は我我が如何に善人であれさうして悪の力に引き込まれて仕舞う場合がどうしてもあると云うことなのです。


ですので無事是安泰であり無事是感謝なのです。

かうして我は悪を赦せぬタチですが悪を許さざるを得ぬ部分もまた其の社會関係の中より生じて参りませう。


またさうした理不尽に齎される災難、被害を忘れる為にもかうして美しいものに心奪われる時間を持つことこそが限りなく有意義なことかと存じます。

瞋りと感謝を捧げたい永遠の今

信仰3

 

 

 

社會がそもバカだと思う其の強い世間に対する怒り、所謂義憤の様は所謂瞋恚です。

 

其の瞋恚を佛法は普通嫌う。瞋恚の意味とは|仏教の教えをわかりやすく。"瞋恚の炎"等の意味も解説 | 神仏.ネット (shinto-bukkyo.net)

果たして其れは何故でせうか?

 

佛法は基本的に心を永遠のアタラクシアー又はアパテイアーへと至らしめる心の制御法のことです。

なので、激しい心の動き其れ自體が佛法上は✖なのです。

 

ですので、ほんたうは恋愛や合格や昇進でまさに天にも昇るやうな気持ちになることさえもが禁物です。-其れも僧侶レヴェルでは-

ですが、其れはかのお釈迦様にして初めて可能となることなのであり我我凡夫ーわたくしは所謂独覚の傾向が強くある者ですが其の力も不徹底ですので同じ凡夫ですーはむしろ激しく上下左右また前後に心がぶれるのです。

 

 

特にわたくしは「いつも怒って居る」などと母からは屡言われて居ます。

其処ででは「怒る」ことはほんたうに悪いことなのかどうかと云うことに就き検証してみたいと思います。

 

と言いますか哲學的に考えてみませう。

 

まず其の瞋りには批判が含まれて居ます。

ですが俗的な意味では批判はむしろ大事なのです。

 

何故なら批判無くば其処に安住しやうとするのが世の常です。

また其のことは組織にせよ個にせよ変わらぬことだ。

 

 

ところが此の世界は諸行非常の世の中です。

即ち眞理は其の安住することなどを認めては呉れません。

 

だから常に移り変わって行かねばなりません。

さうして自然などは進化することでまさにさうして居ます。

対して人間は文明をやり続けることで進歩をしまさにさうして居ます。

 

 

では人間ー文明ーは正しい?

いやまるで正しくは無い。

 

何故なら其の進歩が間違って居るからだな。

ですが兎に角さうして皆移り変わって行くことだけは確かです。

 

其の時に人間界は概念的進歩をする訳ですので其れは自然的進化に比べ常に其処に間違いが含まれて居る可能性が高い訳だ。

だから其の間違いは是非指摘する即ち其れを批判しませんと誰にも分かりません。

 

ですから適菜氏などの骨のある作家さんの場合其の早稲田精神でもってアベだのアソーだのコイケだのと云う動物や妖怪共を退治する為に馬鹿呼ばわりするのです。

なる程、すると批判は必ずしも要らぬ訳では無いのだと?

 

いやむしろ世俗に於いては必須の民主主義の原理です。

むしろ其れこそが弐大政党制を存立させ得るものです。

 

 

成る程、すると自民党壱党支配の我が國は民主國家では無いのですね?

良くぞ其処まで気付きましたね。

 

ほんたうの意味での社會科の御勉強とはさうした世のカラクリを見抜くことの為のことでなくてはならない。

だから君の其の眼力こそが合格だ!

 

ありがたう御座ります、すると社會科の期末試験は百点ですか?

どうもお目出度う御座ります、ズバリ其の百点だ!

 

 

つまり世俗界では批判精神はむしろ必要なことです。

特に學問の分野や藝術の分野ではむしろ其れこそが優れた個性を生む源泉となります。

 

対して佛界ではあくまで永遠のアタラクシアを得ることを目的とする手前余分な心の動きをむしろカットして行かねばならない。

でも其れでは情動を否定することとなり人間的なものとはなり得ませんね?

 

まさに其の通りで、佛とはつまりは人間では無くなることなんです。

神でも無いのですが同時に人間でも無いのですよ。

 

 

そもそんな変な思想を何故人間界に持ち込まねばならぬのでせうか?

だってキリスト教なんてもっと変ですよ。

 

第壱神の國とは壱體何処のことですか?

神など何処にも居ないじゃないか。

 

またかのマザーテレサも「神を信じられません」とさう告悔して居たとされて居るではないか。

 

 

いやだから其れは、神も佛もまた同じことであり實は何処にも居られません。

エエッ?そんなこと言って良いのか、そんなウソ丸出しのことを。

 

いや神も佛も所詮は人間の心が生むもので其の心の作用のことだ。

ですが貴方方は自治體や國や文明を信じて生きて居ますね。

 

尤も其れは本質的には無いものです。

あくまで其れ等は抽象的概念ですのでね。

 

でも其れを信じて居るから有る訳です。

其れと同じ理屈で抽象的な大概念である神佛はしかと在る訳だ。

 

 

其の抽象的な大概念である神佛に対し怒るのは割が合わぬと云うことですか?

いやソコにもまた怒る者が居ます。

 

例えば👿がさうです。

また不動明王や阿修羅がさうです。

 

ですがヒンズー教の影響からの其の不動明王や阿修羅は佛教に取り込まれてやがて佛法の守護神へと性格を変えて行く訳だ。

其れに👿もまた元は堕天使です。

 

其のやうに善と悪が、また構築者と破壊者が対になり相剋し且つ相即するのが所謂他力救済での世界観を形作る。

 

善⇔悪

聖⇔俗

感謝⇔瞋り

 

 

さうか、瞋りの反対とは感謝なんだ。

 

かやうに救済宗教に於いては其の弐元対立をむしろエネルギーに変えて歩むやうなところがまたある。

逆に言えば救済宗教に於いては弐元対立こそが逆に必須なのです。

 

なのではあれ、キリスト教にせよまた大乗各派にせよ最終的には善へのまた聖への壱元化を図る訳だ。

しかしながら其れは現世では叶わぬこととなる為あえてあの世でもってさうして行くより他は無い訳だ。

 

 

ではお釈迦様は壱體何処へ行かれたので?

壱體全体今何処におわすのですか?

 

いやですから其れは相対分別を超越され謂わば絶対の佛となられて居る訳です。

絶対の佛?

もしや其れは全能の神の如きものなのですか?

 

いやむしろ佛とは非佛です。

また神では無い佛です。

 

仰って居ることの意味が良く分かりません。

…分からない方が多分より幸せです。

 

 

でもって結局瞋恚を避けるつまりは怒りを全て押し殺しまるで馬鹿みたいに「アア有難や、有難や」とヘラヘラと笑いつつ生きて居れば良いのですか?

いや其の馬鹿こそは罪ですよ。

其れも近代的世界にとっての罪です。

 

じゃあ壱體どうすれば良いのですか?

 

 

感謝⇔瞋り

ですから感謝しつつ瞋れば良いのだと個人的には思います。

 

左様に同時に両方をやれば良いのだと思う。

 

でも其れでは矛盾に引き裂かれて仕舞うではないですか!

だから最初から我我は引き裂かれて居るでせう。

 

だからやれることをやれば其れで良いのだ。

其れはたとえ世の中が間違って居ても唯々諾々として其れに従うと云うことなのですか?

 

 

いやさうじゃ無い。

其れに対しては此の馬鹿野郎!とプリプリ怒って居れば良いのです。

 

ですが感謝すべきところは感謝し其れも慈悲の心でもって其の馬鹿野郎!とは反対の気持ちをあらゆるところで示すのです。

では「馬鹿野郎!」と「慈悲の気持ち」を同時に示してもまた良いのですね?

 

 

…良いのです。

逆に申せば「馬鹿野郎!」と「慈悲の気持ち」のどちらかに心を固定化するとなれば逆に謗法となる虞が御座ります。

またより正確には善にもまた悪にも与しないやうでなければなりません。

 

世間の価値観を捨て解脱を本気で目指す場合に限りさうなります。

ですが我我は最初から解脱出来ない只の迷いの現象です。

 

なのでむしろ同時に両方をやることを是非考えて行くべきでせう。

 

 

佛⇔不動明王や阿修羅

神⇔👿

と云うやうに他力救済概念に於いては其の神佛さえもがまた矛盾して居ります。

 

ですのでそも其処で潔癖に「かうでなきゃダメ」だとか「~教(~宗)だけが眞理」だとかさう思うところでの頭の中身自體に問題があります。

なので他力救済概念はそも矛盾的概念でありしかしながら其れだからこそ壱種感情の方ー情動の方ーにも訴える力がある宗教だと見て置くべきなのだらう。

 

すると逆に捉えると自力救済としての釈迦による解脱法とはもしや人非人的なものなのですか?

お釈迦様は最終的には人間を卒業なされて仕舞いました。

 

 

ですが人間でもって人間を卒業出来たのは其の印度のお釈迦様と救世主である中東のイエス様だけです。

ですので、其の人間を卒業した場合には後はもう神となるか其れとも佛となるかと云う弐種の選択肢しか残されて居りません。

 

しかも其れは神と佛のどちらがより偉いかと云う問題なのでは決して無くどちらがより庶民にとり優しくして頂けるかと云う問題です。

其処でズバリ申せば救済宗教の方が我我にとってはより分かり易くつまりは優しくも感じられます。

 

ですが其処であえて「優しさなんて愛じゃない」とかの谷川 俊太郎先生の如くに感じてより厳しく自分をイジメてやらうと思う人に限りズバリ禅か又は原始佛教を是非御勧め致します。

さうしたマゾ体質が無く何かと弱めな方は浄土教キリスト教、さらに邪教では無い新興宗教などを是非御勧め致しませう。

 

 

また其ればかりかヒンズー教ジャイナ教、さらにマニ教ゾロアスター教と事實上様々に選択肢はありさらに哲學に於いてもまさに様々な選択肢が其処には御座る。

 

我はたまたま大學ですと京大と早稲田大學、さらに宗教ですと原始佛法と初期キリスト教、また哲學に於いてはショーペンハウアーやカントと相性が良かっただけのことなのでして要するに其れが個としての我が理性的選択だった訳です。

では最後に「今」に就いての解釈をひとつ述べさせて頂きたい。

 

 

「今だけ金だけ自分だけ」

此れはかの女傑のジャーナリストである堤 美果氏の米國流の金融資本主義に対する批判の言葉ですがまさに言い得て妙であると思わざるを得ません。

 

ですので其の「今だけ」と云う概念に就き気になるので其処に就き書きます。

ところで西田 幾多郎は「永遠の今」を語って居るのだと佐伯先生は其の著書の中で述べられて居る。

 

其の「永遠の今」の意味は分かりました。

さうして過去と未来を引き込んだー引き連れたー今が時間の限りに続いて行くと云うことです。

 

其の面では明らかに人間にとっては「今」しか無い訳です。

ですが其処で、「今だけ」=「刹那の今」と其の「永遠の今」とは異なります。

 

 

つまるところ矢張りと言うべきか「今」には弐種があります。

わたくしは其の「刹那の今」を追い求めてはならないとさう感じて居ます。

 

どちらかと申しますと運動馬鹿系のつまりはプロスポーツの世界などは「刹那の今」を追い求めて居るのではないかと思う。

最近のわたくしはかうして運動による成果に対して次第に懐疑的となりつつある。

 

ですが、其の西田 幾多郎の言う「永遠の今」は過去をもまた未来をも内包する意識の働きとしての今のことでせう。

今=過去⇔未来

今の連続=過去⇔未来の連続

 

とのことですので、其処には「今だけ」はむしろ無いのです。

 

よってつまりはあえて其の無い「今」に拘泥し過去をもまた未来をも見詰めない金融資本主義に於ける倒錯度こそが其の「今だけ」を成立させて居たのです。

従って逆に「今だけ」を欲しては金輪際ならない。

 

 

「今しか無い」=さうして常に焦り、あくせくと刹那の今のみに拘ること

いつでも「今」=さうしていつでも今なのだからさうさう焦らず泰然として構えて居れば其れで宜しい

 

とのまるで老子荘子の如きやる気の無い結論に至りましたのですがまさに其れが正解でせう?

 

「やるっきゃない、今でせう?」

 

と云う其のキャッチフレーズに洗脳などされては金輪際イケません。

さう言えばかって大日本帝國の軍部もまた其れを信奉し絶望的な戦争へと走ったものでしたが其のお蔭で我我日本人は大きく被害を被りましたものです。

またたった今でさえ其の被害を被って居るのです。

 

 

故に其の「今だけ」=「刹那の今」こそが最大の毒です。

此の現代文明はあえて其の毒の領域を歩む馬鹿文明です。

 

と大批判で締めましたのは無論のこと佛では無く阿修羅ちゃんとしての我でした。

 

「やるっきゃない、今でせう?」

 

其れは温暖化対策のスローガンにでも是非使って下され。

御勉強は特に「今」はやらない方が良いです。

 

と申しますのも御勉強は必ずやる時が来るものなのです。

で、やる時に死ぬ気でやれば必ずや其れは身につくものとなりませう。

 

 

第壱今僕はまさに死ぬ気でもって西田哲學を學んで居りますのです。

しかもこんな爺になってから其れをして居りますのです。

 

はあー、何やらとても疲れたな。

ですが昔よりも頭が良くなって居る分理解が早いと申しますか何やら全てがよーく分かるのです。

 

ちなみに御勉強の友としてチョコレートを是非食って下さい。

コレは非常に頭の回転には効きます。

 

かの漱石や芥川が甘党だったのはまさにそんな理由によるものです。

『西田 幾多郎 無私の思想と日本人』を読んでー壱 我が學問の師としての佐伯 啓思先生のことー

哲學16

 

 

 

三浦知良54歳の現役続行に「みっともない」批判も、“二世”に教えるプロの生き様 (msn.com)

引退出来ないと云うことは其れ即ち精神の病気です。

つまりは精神が働いて居ないからいつまでもやれるいつまでも居座る積もりである訳で其れは典型的な馬鹿の體質ですね。

 

かうして運動ー肉體ー馬鹿は昔から結構多いものですが中には逆に観念馬鹿も居りわたくしは其の種の人間ではないかと時折思うのです。

ですが其の反省力が働く分単なる本能馬鹿とはあくまで違うと云うことだ。

 

国賊論 | 収, 適菜 |本 | 通販 | Amazon

平成を愚民の時代にした30人のバカ | 適菜 収 |本 | 通販 | Amazon

 

其の適菜氏ー早大卒ーの著作は相変らず政治家をバカ呼ばわりでのオンパレードにて壱種痛快です。

適菜氏は例えば石原 慎太郎氏などもバカにして居るやうですがわたくしは其の限りでは無くむしろ慎太郎氏は馬鹿では無いとさう判断して居ります。

 

ですが石原家のやうなクドイ👪関係は鬱陶しいと申しますかズバリ嫌いです。

尤もアベは自分もバカだとさう思って居ますので其の点では全く苦にはなりません。

 

さて此の師走にわたくしは壱冊の本と格闘して居りました。

西田幾多郎 無私の思想と日本人 (新潮新書) | 佐伯啓思 |本 | 通販 | Amazon

 

其れ即ち前々から是非読みたかった佐伯 啓思先生の西田 幾多郎論と格闘して居りました。

其の佐伯  啓思 - Wikipedia先生ですが謂わばわたくしの精神の師です。

 

私の恩師ーすでに故人ーは中学参年生の時に担任だった社会科のI先生で京大を出られた先生でした。

I先生からは少し良い扱いを受けて居たわたくしは其処で同時に色んなことを学ばせて頂きました。

 

特に記憶に残るのが所謂ローマクラブが提示する文明の限界点のことを教えられたことです。

当時わたくしは人口問題と食糧問題に対しすでに危惧を抱いて居り其れをレポートとして纏めてみたところI先生から大きく評価された訳です。

 

とは言えわたくしの関心は其の種の社會問題には無く太宰であるとかまた中也であるとか要するに文學の方にしか興味は無かったのです。

然し人類規模での問題が其の現代社會のあり方にこそ存して居る部分、人類の将来を本質的に規定して居るのは文明のあり方にこそある部分をまさに其の時に教えて頂いたのだと思われます。

 

佐伯先生は東大を出られ京大の名誉教授となられた方です。

元々は経済學者でしたが経済學のあり方に嫌気がさし文明學、文明論へと転向されて行った方です。

 

個人的には其の言説は常に的確でおそらくは可成に知的レヴェルの高い方なのだと思われる。

著書なども多くありますがどれもがレヴェルが高いー完成度が高いー著作なので其処から多くを學ばせて頂くことが常に可能です。

 

さうして私の場合は何故か京大の方に縁があった訳です。

ですが私自身は憧れの早稲田大へも行けなかった人間なのですけれども。

 

 

佐伯先生は此の著作で意外とざっくばらんにお話をされて居り其処で東大と京大は全く違う學府であるとさう述べられて居る。

其れは確かにさうでせう。

東大と云うのはまさに優秀な科学者や政治家、官僚などを生み出す場なのですから近現代の文明日本を背負う側です。

 

ですので基本的に文明批判などをして居てはまるで埒が明かぬ訳です。

要するに頭の良い其の部分を常に文明を構築する側に振り向けて行かねばなりません。

 

ですが京大は其れとはまるで違う訳です。

第壱京都其れ自體が東京に都の座を奪われたと云う壱種屈折した文化都市です。

 

京大は左翼が多いと云うか兎に角批判精神の塊のやうなもので兎に角其の頭の良い其の部分を文明を批判することにこそ振り向けて居る訳だ。

でもってわたくしはこんな名古屋人ですがそんな経緯から何故か京大贔屓な訳です。

 

 

ですので、基本的に東大生は時の流れと共に其の批判精神を失って行かざるを得ぬのではなからうか。

だからむしろ早稲田大學の方が批判精神が旺盛なのではないでせうか。

 

わたくしは其の精神に骨のある學生が好きなのでして幾ら頭の出来が良くてもフニャフニャしてるやうな輩は大嫌いです。

わたくしは其の運動馬鹿共のやうに筋力、腕力の有る無しよりも其の批判精神のある方方には兎に角黙って何処までも付いて行きます。

 

 

壱説には京大出は所謂變人が多いのだそうででも私の見るところでは其れは「眞理に対して生壱本」だからこそさうなるのではないだらうか。

ちなみに社会科のI先生もまた少し變わった先生でした。

 

確か酒ばかりを飲んで居たと云う噂もあったのでしたがさう言えば朝から酔っ払いつつ授業をされて居たやうなことがあったかもしれません。

 

 

其の佐伯 啓思先生の西田 幾多郎論は壱種壮絶な著作です。

此処までやるかと言わんばかりに西田 幾多郎の人となりまた其の思想に就き徹底的に踏み込み論じられて居る。

 

其ればかりか後半部では現代日本に対する批判などもまた僅かですが織り込まれて居ます。

佐伯 啓思先生は此の本を2014年に出されて居り其の頃すでに六拾代半ばになられて居た筈ですが凄くパワフルな内容ー文明に対する批判が込められた内容ーの書だなと読み終えてからさう思わされました。

 

論壇チャンネル「ことのは」 (kotonoha-rondan.com)

尚こちらは今回初めて知りました。

 

アメリカ批判

自由主義民主主義を国家の理念に据えるアメリカこそが、思想史的に革新進歩主義であり、冷戦終結した今、最も左翼的で進歩的な国家はアメリカであるとして、アメリカおよび自民党保守右翼反米および反自民党を革新左翼とみなすという誤謬に陥っている戦後の日本社会を批判している[8]。ー佐伯  啓思 - Wikipediaより

 

まさに私は此の部分にこそ大きく影響を受けて来て居る。

つまりは其の米國の國是こそがほぼ極左であると云うことです。

 

ですが分類上米國が左翼だと言う人などまず居ません。

ですが明らかに米國こそが左翼國家です。

 

では中國やかってのソヴィエト連邦などはどうなるのですか?

其れも勿論左翼革命政権です。

 

であれば、廿世紀とは米ソと云う革新國家同士の争いを長々とやって居たこととなる。

我が國の自民党が馬鹿なのは其の眞實を見通すだけの理性力が其処に無いからだ。

 

でもって、自民党は自ら🐕となり米國に対し尻尾を振り続けて来た。

其の可愛い🐶。

 

おお、可愛いな、さうか、ヨシヨシ、ではマクドナルド・ハンバーガーもケンタッキー・フライド・チキンも全部お前のところへと輸出してやらう。

 

うわあー、そんなこんなで1970年代に初めて其のマクドナルド・ハンバーガーやケンタッキー・フライド・チキンを食ってみましたが嗚呼其れ等は涙が出る程に美味かった!

其れも何せ油分が多くてすぐに腹が膨れるのです。

 

当時日本の飯は味噌汁やら漬物やら煮物やらそんなものばかりで其れを食ってもなかなかパワーが出なかったのだった。

 

日本人はさうして米國のものは上等だとさう信じ込まされて居たのです。

 

まあ今でもマクドナルド・ハンバーガーやケンタッキー・フライド・チキンが悪い訳ではありません。

マクドナルド・ハンバーガーやケンタッキー・フライド・チキンが悪い訳では無いが其れ等を多く食えば食う程多分體には良く無いことでせう。

 

個人的にケンタッキー・フライド・チキンは独特に美味いので食いたいのですが結局は唐揚げの方が安く済むんですね。

でもって其の頃は日本のプロ野球選手なども大リーグではとても通用せぬ弐流、参流の人材だとさう思われて居たものでしたが今や日本の日本のプロ野球選手こそが世界の壱流品です。

 

また日本🚙なども米國🚙より良いものであることが80年代に証明されました。

さらに寿司、此ればかりを食い続けて居るだけでおそらくは至極健康に長生きが出来る筈です。

 

 

自民党がさうして尻尾を振り続けて来たのは世界壱革新的な左翼國家に対してのことであったと云うまさにとんでも無いオチを佐伯先生が暴かれて来た訳です。

で、本来ならばむしろ自民党こそが其の左翼的で進歩主義米國から距離を置き其れを批判的に捉えて居る必要が是非御座りました。

 

其れと逆のことをやっちまいましたので日本の労働環境は合理化により派遣化され数々の規制緩和にて商店街は壊滅するわ、またデカいスーパーばかりが進出ししかも皆同じやうなものしか売らないわと云うこととなり申した。

挙句に郵政民営化やら何やらと兎に角全てを競争の渦の中に巻き込み其れでもって郵便局のサーヴィスや思想が良くなったかと言いますとほとんど変わって居らずおまけにいまだに年賀状を百枚買って下さい、です。

 

全く馬鹿じゃないんでせうか。

郵政民営化する位なら此の際年賀状を先に廃止したらどうですか。

 

デカいスーパーばかりと言って其れは米國流のやり方でわたくしのやうに自転車による買い物者などは公設市場位のところの方が買い易いのだ。

戦後の日本社會は概ね矛盾にまみれて居り正直なところこんな侭で子孫を残したりすることはまるで出来ません。

 

 

ニーチェの思想に基づき、近代の価値観である基本的人権自由主義民主主義は必然的にニヒリズムに陥るとしている。先述のアメリカ批判もこの延長上にあり、日本がアメリカ化し、ニヒリズムに陥っていることを問題視している。かつてはニヒリズムに対抗する術として、師の西部邁同様、保守主義を標榜していた。しかし、近年では、冷戦体制崩壊後の社会構造の変化によって、「保守と革新」、「右翼と左翼」という対立軸が不明瞭になったこともあり、これらの対立軸が既に時代遅れになった感があるとして、保守や革新に安易に拘泥することにも懐疑的な姿勢を向けている[10]

現在では、社会思想史や経済思想および時事問題から日本思想史・日本哲学に軸足を移している。東洋や日本の「無」の思想の意義を探り、小林秀雄保田與重郎の思想、西田幾多郎の哲学、西谷啓治らによる「近代の超克」を手がかりにニヒリズムの克服を目指している[11]。ー佐伯  啓思 - Wikipediaより

 

其のニーチェの近代批判は的を射た部分もまたある訳です。

其のニヒリズムはまさに近現代國家が陥るであらう避けられない価値喪失としての大問題です。

 

壱番問題なのは、佐伯先生が西田幾多郎 無私の思想と日本人 (新潮新書)の中でも指摘されて居りますが、もはや世の中は総じて「進歩しないとイケナイ」世の中となって仕舞って居ることです。

ですが、かうして大問題にぐるりを囲まれた侭で壱體全体何の為に進歩を続けねばならぬのでせうか?

 

むしろ今ほんたうに必要なのは退化でせう。

むしろ進歩を今すぐに止め🐒へと戻るべきではないですか。

 

僕は私は所詮はそんなお🐵さん並の者ですのでもはや多くを望まずもう引退します。

と何故さう言えないのだ、かの三浦 知良は?

 

其れは奴等には理性が備わって居ないからなのではないでせうか。

 

また其の「保守」と「革新」と云うイデオロギー種別其のものが時代遅れのものとなって仕舞って居る。

で、佐伯先生やまた適菜氏などの解釈などを読ませて頂きますと「眞の意味での保守と云う者は革新性其れ自体に反対する者である」と云う定義がまた出て参ります。

 

でもってわたくしなども其の意味では明らかに保守派でありなんとなれば此れ以上の進歩は基本的に文明に取って必要が無いとさう考えて来て居るからです。

ですが、其の部分もまた微妙な問題を孕んで居り何故なら気候変動をはじめとする地球温暖化問題に対処することが可能なのはさらに進んだ科学技術以外には無いであらう部分なのだ。

 

其の意味ではより「平等」を重視する日本共産党の考え方は地球の保全、日本の保全と云う意味では可成に保守的です。

ですので保守主義者である適菜氏が日本共産党へ投票することとおそらくは同じ理由にてわたくしもまた日本共産党を支持する訳だ。

 

尚、上に佐伯先生が近年日本の思想史、哲學史に軸足を移されて居る旨が書かれて居ますが西田幾多郎 無私の思想と日本人 (新潮新書)にせよ實は哲學的にも読める著作でした。

さて其の「近代の超克」に就き以前わたくしは細かく論じたことがあり、其れを大雑把に言えば日本と云う國は近代を超克するばかりか其の近代其れ自體さえやれて居なかったとさう結論したことがあった筈です。

 

 

其の「近代の超克」こそはむしろ日本の文學者に対し突き付けられて居た大命題でした。

かって島崎 藤村がさらに夏目 漱石があれ程に悩み苦しみ抜いた其の近代との格闘が結局は消化不良の形にて後世に先送りされ實は何処にも解決策が見出せぬ侭に我が國は其の近代化に突き進んで来たと云う壱種悲劇的な結論をです。

 

尚私は最近「現世利益」から捉える日本社會と云うことを頻りに考えるやうになりました。

何故かくも日本人、ひいては日本社會の価値観が「現世利益」的、つまりは即物的、刹那的なものと化して仕舞って居るのか?

 

其処からひとつ論を炙り出さねばならないと今思って居るところです。

或は其れは逆に日本、ひいては日本人の価値観が近代を理解し得ぬ侭に近代を突き進んで来たことに対する副作用のやうなものなのではないか。

 

 

学問に関して

本来「公共的な意志」で評価されるべき学問の場に、過度の成果主義能力主義、市場競争が持ち込まれ、「何の社会的な役割も果たさないように見える、しかし長い目でみれば重要な意味をもつ研究」が切り捨てられることを懸念している。特に文系の学問には市場を基準とした評価はそぐわないと主張している[12]

現代に生きる人間は情報の洪水の中にいて大量の知識や情報があるがゆえに、それらを相互に関連付けたり解釈することができなくなっているのではないかと危惧している。そのため、現在の社会科学には学者自身の視座がなく、全体的な展望が失われてしまったと指摘している。なお、佐伯自身は文献をくまなく渉猟するよりも、古典を通して「現代」の本質を理解することの方が重要だとしている[13]。ー佐伯  啓思 - Wikipediaより

 

其の學問の場が次第に合理化されて行くことへの懸念を佐伯先生は西田幾多郎 無私の思想と日本人 (新潮新書)の中でも述べて居られます。

また其の合理化と云うことはむしろ「現世利益」化すると云うことなのではなからうか。

 

ですが學問は基本的に「現世利益」化してはならないものなのではないか。

學問もまた文學をはじめとする藝術の分野もまさにさうなのですが其れは元来實利性とは無関係なものです。

學問もまた文學も「ー直接にはー役に立たないもの」だからこそ成り立つもののやうな気さえする。

 

また宗教などはまた其れの最たるものでせう。

ですが宗教はむしろ病気や死、愛するものの喪失と云った人生の極限状態に於いてこそむしろ我我に対し強く語りかけて来るものだ。

 

大事なさうした価値を合理化しては決してならないのではないか。

其れと佐伯先生は「古典」を通して現代の本質を掴めとさう仰られて居たのですね。

 

まあ其処なども全くわたくしのスタンスと同じです。

私は今現代文明が仕出かして居る事の誤りは「古典」により明らかになるものとして見て来て居ます。

 

此の世にはすでに此れ迄に何でもあった。

まだ何も無いのは未来ばかりである。

 

 

情報社會では情報の選択により大きく結果に差が生じて来たりもする。

と云うことはまさに情報の洪水から正解を導き出すことなどは至難の技だ。

 

其の点古典はひとつひとつ完結した情報ですので學び易くしかも何が間違って居るのかと云う事を指し示して呉れ易い。

さて西田 幾多郎の哲學其れ自體が其の古典としての哲學ですが現代に取り其れが古臭くは無くむしろ現代が陥った袋小路の部分に就き明確な解を与えて呉れさうな気さえもが致します。

 

 

かうして西田哲學三昧での師走を過ごして居りますと其処では案外幸せなものが感ぜられる。

そんな難解な本と格闘して壱體何処が幸せなのだ?

 

ですから君の幸せと僕の幸せとはまた違うのだよ。

誰にでもさうして幸せな瞬間と云うものがある。

 

だが僕の幸せに限り何やら難解なのだ。

さうだ、佐伯先生の講義の方を是非視たい。

 

 

佐伯啓思 - YouTube

うわおー、また壱杯出て来た。

では年末までに全部視やう。

 

すると年末もまた年始も御勉強の御予定ですか?

まあ概ねさうですがほんたうは足が悪いので医者へ行かねばならぬのやもしれません。

 

足が痛いのは酒飲むと良いかもしれないので弱い酒ーワインや日本酒ーを飲みつつ年末にはベートーヴェンなど聞きつつすでにおせちを食いクリスマスの時には鳥の丸焼きにかぶり付きつつ聖歌を聴くのです。

 

すると愈愈酒の解禁ですね?

まあ三が日まではね。

 

 

此のパソコンを打っ居る部屋ー自分の部屋ーは暖房が無いので兎に角クソ寒い。

其れでも酒を飲めば少しはあったかくもなりませう。

其れでは皆様、良い年末を。

 

もう出て来ないつもりなのか。

いやまだまだ出て参りますが多分年末に近づくにつれ酔っぱらいつつ書くかと思うので逆に見ものですよ。

そこではいったいなにをいいだすものやらわかりませんのですよお。

 

すでに酔っぱらってるな。

いえ、今はクスリー催眠剤ーの方で少し。

 

さて、また次回は真摯に西田哲學を學ぶ場を御用意致します。

皆様どうかどうかご期待下さい。