目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

聖夜にあえて行う資本主義批判

社會批判23

 

 

 

 

本日は久々に日本共産党の方が赤旗日曜版の代金の徴収に来られたので其れを支払ったところです。

さらに赤旗日曜版は非常に面白いと云うことを伝えさせて頂いた。

 

さて赤旗日曜版12月19日号にかの靑木  理氏が色々と述べて居られ其の御意見には大いに賛同出来る部分があったので其の旨に就き述べてみたいと思う。

 

まず、靑木氏の主張は以下のものである。

「野党には批判力こそが必要だ」

 

だが其れは實は当たり前のことなのだ。

ですが日本國に限り其処では民主制が行われて居らず其の代わりに何がやられて居るかと申すに其れは「自称保守政党による全体主義政権」の擁立である。

 

ですので靑木氏は確かに正論を述べるだけの頭の良さを持って居られやうが其れも實は至極当たり前のことを述べられて居るだけのことなのであり特に左翼理論を其処にて披露されて居る訳では決して無いのだ。

 

 

左翼共、お前等は皆変わってるな、其れも常に批判ばかりでちっとも現實的では無い。

まあさうだらうが其れも實は当たり前のことではないか。

 

何故なら共産主義は人類社會に遺された最後のフロンティアでありつまりは理想社會である訳なのだ。

で、左翼が理想論ばかりをさうして滔々と述べ矛盾に対して逐壱批判を加えるものだから逆に馬鹿なんじゃないかと保守の側はさう思い込み易い。

 

しかしながら、其処でもってひとつよーく考えてみやう。

いや確かに保守の側には考える力が余り無い。

保守の半分はおそらく馬鹿であらう。

 

エッ、そんなこと言って良いの?

第壱お前自身も保守的な人間だとさう述べて居たではないか。

 

うーむ、確かに僕はかって其の左翼をこそ批判して居たのだった。

其処で壱番気に入らなかったのが抽象的に齎される進歩概念ー唯物論としての進歩主義ーに対する疑念であった。

 

 

ところが、自民党が何とセッセと日本の破壊に勤しんで居る事を其れこそ適菜氏や堤氏の著作から學んだのであった。

うわあー、こりゃあイカン。

 

つまりは日本の民主制は今極端に矛盾化して居り其の破壊を好んでする政党への支持ばかりがむしろ高まって行く訳だ。

 

岸田氏は其の中ではまだしもまともな方で何故なら安倍を否定したらうとさえ思って居る訳でだったら早う新自由主義を止めて左翼分配政策へと舵を切るべきだ。

なのですがあくまで自民党の中での総理ですので其れをやらうとすると安倍壱派の抵抗のみならず麻生の支持層の金持ち連中がソッポを向いて仕舞う訳なのでなかなか思い切ったことが出来ぬ訳だ。

 

だったら其の金持ちの爺が早う死ねば良いのですね?

まあさう云うことだらうな。

 

 

ところで今回の子供への拾萬の給付はどうなのでせう?

其れは子供が参人居ると参拾萬も振り込まれるのだ。

また五人ならば五拾萬もだぞ。

 

でも壱人も居なければ結局零円である。

其れ即ち其れは不平等政策である。

 

何度も申して居りますが公明党自民党とくっついて居る限り宗教政党としての心根を清く保つことさえもが難しくなることだらう。

但し貧乏人に金をバラ撒くこと自體は決して悪いことでは無くむしろ良いことである。

 

 

さて、靑木氏は其の赤旗日曜版にて徹底的に「批判してこその野党」である旨を力説して居られる。

さうして其の批判力の親玉こそがむしろ日本共産党であるのやもしれぬ。

 

以前にも述べた通り此処日本國では民主主義がそも成立して居ない。

其処でようやく民主主義が機能し社會主義政党が政権を担うと現實的にはなかなか上手く世が回らず其れでもってすぐにまた自民党の力が復活して仕舞う訳だ。

 

わたくしは其の社會的構造を自分なりに分析してもみたのだが其の全体主義への親和性の裏には日本社會の現世利益性への信仰と云う大前提が存することにはたと気付いた。

 

 

さうか、日本と云う國は其の現世利益性にて動く國だったのだ。

其の現世利益性こそが實は最も手強い敵である。

 

日本人の精神に於ける理想や潔癖さに対する最も手強い敵である。

 

ところが、また同時に日本社會を回して居るのがまさに其の現世利益性への信仰其のものなのだ。

 

よって神道や大乗各派もまた其の現世利益性への信仰により支えられても居やう。

で、神道や大乗各派は無論のこと保守派なのでまさか革命などは望んで居らぬ訳だ。

 

 

だが其処でもってよーく考えてみやう。

かうして自民党が日本を革新國家米國並に合理化して行く。

 

すると雇用が壊れ商店街が壊れ給料は減りおまけに自民党の👿化がかうして進んで仕舞った。

うわあー、其処でもってもしや👿が政治に入り込んだのですか?

 

さうだ、其の👿こそが今國を動かして居るのだ。

でも岸田総理が其処を何とかして呉れませう?

 

此の際手っ取り早いのは矢張りと言うべきか野党共闘の方へと政権が移行することであったが其れももはや望み薄だ。

だってキシダが…。

 

🐶のキシダに資本主義の破壊ー金持ちへの優遇政策の是正ーなどが出来る訳が無いだらう?

もし其の再配分とやらが出来たら折角早稲田も出て居るキシダを犬から人間へと格上げしてあげても良い。

 

 

でも共産主義自衛隊を潰すのではないですか?

だから日本共産党は中國の共産党やソヴィエト型の共産党とはまた別物なのだ。

 

つまりは日本共産党は基本的に護憲の立場であり従ってすぐに戦力を放棄する訳では無い。

また信教の自由や言論の自由なども無論のこと認めて居る。

 

日本共産党にも確かに矛盾的な部分があるがひとつだけ潔癖なのは資本主義が最終的には地球環境を破壊し尽くすとさう考えて居る部分なのだらう。

また其のことはおそらくは眞實であらう。

 

 

其の資本主義はすでに末期状態にあるが其れでも其れにより人間社會を回さずには居られぬのが謂わば文明の宿命なのだ。

 

左翼の靑木氏も述べて居られるのだが民主政治が正常に機能すると云うことは行政権力や与党に対する批判無くしてなし得ることでは無い。

権力の歪みや暴走を防ぐ為には其の批判勢力よりの「糺す力、正す力」こそが是非必要である。

 

ところが其の「批判」其のものは常に苦しくまさに荊の道を歩んで行くかのやうなものだ。

あえて其の苦を引き受け批判をなすことにはまさに信仰にも似た強い政治的信念と反骨心が当然ながら要求されても来る。

 

 

此れ迄にも何度か述べさせて頂いたのだが権力には常に責任ー義務ーが伴うのである。

其の権力が大きくなればなる程に其処に大きな責任と義務が伴うのだ。

 

ところが特に小泉政権以降は権力のみ行使し自らが仕出かした過ちへの責任を取らぬ輩が総理大臣までをも務めるやうになった。

 

ところが大衆の意識はすでに盲目化即ち洗脳されて来て居りさうした頭の中へは今更何を述べてももはや通じぬ訳だ。

であるが故に此の國の行政はより悪くなって行かざるを得ない。

 

 

さうして選挙となればまた皆が挙って自民党へと投票するのだ。

 

またメディアによる権力や与党への監視も充分に機能して居ないと靑木氏は仰る。

ところがかっては其れが機能して居たのだとも仰る。

 

ひとつにはメディア其れ自體がすでに現世利益的価値に擦り寄って行って居るのではなからうか。

其の種の功利性、所謂損得勘定こそが大事で事の眞相を追及したり権力の行う悪事を糾弾したりすると云った眞理方面での潔癖さがもはや何処にも見られない状況へと陥りつつある。

 

まさに其れ等の方向性が複合し現在のやうなまさにケジメの付かぬ、まさに自らの非を認めぬ組織体質を組み上げて仕舞った訳だ。

また政権批判をすれば何かとやりにくくなることもまた組織としての常なのだらう。

 

我などはまだかうして壱社会科詩人として政権批判を繰り返して来ただけだったのだが組織は概ね組織其れ自身を批判することが出来ずまた其れが全体主義構造にまで及ぶとなるともはや誰も其れには逆らえなくもならう。

 

其の現世利益性はもはや歯止めが効かぬ程に世界中を席巻するに至って居るのやもしれぬ。

事實上もはやあらゆることが其の今だけの利益性に基づき構築されるやうになったのだと言えやう。

 

 

ではキリスト教其れもカトリシズムや原始佛教は其れとは別に清貧の道を甘んじて歩むのですね?

まあさうだらう。

よって彼等はクリスマスに鳥の丸焼きを食ったりは決してせぬ筈だ。

 

もしやお前は其の鳥の丸焼きをすでに食って居るな?

はい食いました、其れもついさっきのことでしたが。

 

お前は其の鳥の丸焼きをすでに食って居るにも関わらずカトリシズムだの原始佛教だのそんな清廉潔白なことを論じて居られる御身分なのか?

まさかさうではありませんでせう。

 

なのでわたくしは今日宗教のことなど壱言も述べては居ない。

其れにお前は本日教會を回るのでは無かったのか?

 

いえ其れが昨日の採集と剪定とで可成に疲れまして…。

 

お前はまだ何かを今夜食う積もりだらう?

まあ後はクリスマスケーキを食ってからプライム・ヴィデオで映画でも視て🐈と壱緒に寝るだけのことです。

 

 

いやあ、如何にも平和なクリスマスだなあ。

いま少し其処に苦悩が必要なのではないか?

 

いやヤマト運輸と戦闘状態ですので其れは苦悩と言えば苦悩でせう。

 

さてもお前は壱體何匹の🐈と共に寝て居るのだ?

たったの四匹です。

 

 

さて其の日本社會の共産主義に対する拒否感は壱體何処から醸成されしものなのであらう?

 

こと資本による環境破壊と云うことを鑑みる限りは資本主義的な欲望の無限の拡張は是非抑える必要がありよって其れは計画経済を採る社會主義、共産主義社會の方が明らかに向いて居る訳だ。

然し日本人の多くはおそらくは其の辺りまで考えては居ないのであらう。

 

どうも其処が勉強不足であるやうな気がしてならない。

其れも根本的な部分での無知であり無思考なのではないだらうか。

 

ちなみに今Eテレの方で斎藤 幸平先生による「資本論」の講座ー100分de名著ーが再放送されて居る。

其れも反響が大きくあり再放送が決まったのだと言う。

 

 

資本論」に就いては私も今年の夏に講義し其れでもって可成に疲れたのであるがまさに其れこそが大事なことである。

何故なら結局個を規定するものは其の社會的規範であり制度=イデオロギーである部分が大きい訳だ。

 

さうしてデカい社會の制度が個を規定して仕舞う部分には誰も抗えぬものだ。

であるが故に只社會に対して従うのでは無く其れを自らの理性と照らし合わせ常に考えて行かねばなるまい。

 

 

少なくとも我にとり其のマルクスの晩年の思考ー所謂エコロジーと関連した部分でのー程魅力的なものは無い。

わたくしが左翼思想を再評価するやうになったのもまた其のマルクスの深い思慮の部分が見えて来たからなのである。

 

ーかくして、今日の環境危機の根源が資本主義そのものにあることを『資本論』は理解させてくれます。そしてまた、資本主義社会そのものを問い直さない「対策」は、すべて小手先にすぎないと断言すべきことも理解されます。増殖するためには際限なく自然と人間から収奪するという資本のロジックによって社会が構成されているという状況を乗り越えない限り、危機を克服することはできないわけです。ー『資本論』は環境問題も見越していた マルクスが指摘した問題の本質を見なければSDGsは達成できない - wezzy|ウェジー (wezz-y.com)より

 

今人類がつまりは文明が向き合わねばならぬこととはより儲けたり進歩することでは無く自然界の摂理をしかと學ぶことであらう。

 

 

マルクスが、資本主義経済体制の無秩序性に対して何らかの統制が必要だと考えていたことは確かですが、その具体的手段を国家の巨大官庁による経済秩序の完全な計画化に見定めていたわけではありません。ー“資本主義”を考え直さなければ、社会にまん延する“生きづらさ”はなくならない…いま改めてマルクスを学ぶ意義 - wezzy|ウェジー (wezz-y.com)より

 

御勉強を進めて行きますとかうしたことさえもが分かって参ります。

 

いや、なにしろ無意識的ですから、それはもっと漠然としたもの、つまり「資本主義が唯一可能な社会の在り方だというのは常識だから、常識ハズレな奴だと思われるのはカッコ悪い」といったような感覚ではないでしょうか。そうだとすれば、こうした姿勢こそ、まさに「カッコ悪い」ものだと言えます。世間の常識の当否を自分の頭で吟味することなしに、他人の目ばかりを気にして、自分は常識人だと周囲から思われたいと願う。主体性というものがなくグニャグニャで、そのために実は不安でたまらない精神状態であるからです。“資本主義”を考え直さなければ、社会にまん延する“生きづらさ”はなくならない…いま改めてマルクスを学ぶ意義 - wezzy|ウェジー (wezz-y.com)より

 

かうして資本主義の信奉者はおそらく批判精神を眞の意味では持たぬ人人なのでせう。

要するに彼等は精神的にグニャグニャの輩なのだらう。

 

 

ーこうして社会全体の生産力は上昇し続け、一面では私たちは豊かになります。しかしその「達成」は、「労働者の犠牲」「個別労働者の不具化」という代償と引き換えに得られるものだ、とマルクスは指摘したのです。

 主要な労働の在り方がマルクスの時代から移り変わって、肉体労働からサービス労働へと変化しても、根本の問題は変わりません。私たちは、巨大な経済機構のごく一部に一片の歯車として参与するのみで、何かをやり遂げたという満足感を得ることができず、同時に、その巨大機構に生活の糧を依存することを強いられて、自立性を失うばかりです。ー『資本論』も大谷翔平は「すごい」と言っている - wezzy|ウェジー (wezz-y.com)より

 

其の自立性、まさに其れが思考の分野にまで及んで居るのだと我は考えます。

まさに商品化された思考や労働が眞の意味での個の自立性を限りなく妨げて行く訳だ。

 

尚此の社會の体制上の問題は宗教とはまた別箇の大問題です。

資本主義は自然破壊ばかりか個の破壊、思考の破壊ー洗脳としての破壊ーをも押し進めて来て居る可能性がまた大である。

 

そんな訳で盆であらうがかうして年末であらうが資本主義が抱える根本命題の部分は何処へも逃げてはいけない訳だ。

尤も其れは所詮個にて解決出来る問題ではありませんので個としてはあくまで御勉強をしつつ考え何かを食って居るより他には為すことは無い。

 

おや、ようやく従妹が来てクリスマスケーキが届いたやうだ。

其れではまさに其れを食う為に資本主義批判を壱時休止致します。

 

「得ることこそが得られぬこと」

インテリ左翼風にあえて申せばまさに此の豊かさこそが得られぬこと其のものなのやもしれません。