目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「コヘレトの言葉」に於ける時の概念

信仰4

 

 

 

 

中国の「クリスマス禁止令」ネット上で物議 「当局の許可必要?」 (msn.com)

確かに中國には中國としての所謂黄河文明五千年の歴史が御座りますのでクリスマスなんぞをやって居らずとも良いと云う論理も分からぬ訳ではありません。

 

本来ならば我我日本人もまた同じでお釈迦様のお誕生日を祝わずしてキリスト様の御生誕日を祝うと云うのは本来筋違いでせう。

例えばお釈迦様のお誕生日としての四月八日には精進料理を各家庭で作り祝うと云うのはどうでせう?

 

其の日には女共は命を懸けて其の精進料理を作らねばならない。

また子等は学校を休みまさに其れを手伝う。

でもってお父さんだけが其れを食っても良いのです。

 

お釈迦様の誕生日|4月8日の花祭り・甘茶の由来や仏陀誕生の伝説を解説 | 神仏.ネット (shinto-bukkyo.net)

ですので、其の四月八日は佛教徒としての祝日だと考えて頂いた方が宜しい。

 

其の日にはまずお父さんが読経をせねばなりません。

其の読経は般若心経を是非御勧め致します。

 

また👩子供に対し其の般若心経の解説もせねばならない。

よってイヤでもお父さんは其処で佛法を學ばねばなりません。

 

 

でもアンタ今日はクリスマスの日だらう?

うーん、クリスマスと云うよりもまさにコへレトの日ですね、少なくとも僕にとっては。

 

…また旧約聖書での老子の世界に浸って居るのですか?

うーん、老子と云うよりはまさにルバイヤートの世界のやうなものです。

 

ルバイヤートの其の快樂主義、逃避主義はかって太宰 治にとってのお気に入りの世界観其のものでした。

ですがコへレトの言葉の場合はかの芥川 龍之介に影響を与えて居たやうです。

 

 

   星

 太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない。
 天文学者の説によれば、ヘラクレス星群を発した光は我我の地球へ達するのに三万六千年を要するそうである。が、ヘラクレス星群といえども、永久に輝いていることは出来ない。何時か一度は冷灰のように、美しい光を失ってしまう。のみならず死は何処へ行っても常に生をはらんでいる。光を失ったヘラクレス星群も無辺の天をさまよう内に、都合の好い機会を得さえすれば、一団の星雲と変化するであろう。そうすれば又新しい星は続々と其処に生まれるのである。
 宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火りんかに過ぎない。いわんや我我の地球をやである。しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起っていることも、実はこの泥団の上に起っていることと変りはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環しているのである。そう云うことを考えると、天上に散在する無数の星にも多少の同情を禁じ得ない。いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表わしているようにも思われるのである。この点でも詩人は何ものよりも先に高々と真理をうたい上げた。

真砂まさごなす数なき星のその中にわれに向ひて光る星あり

 しかし星も我我のように流転をけみすると云うことは――かく退屈でないことはあるまい。

 

芥川龍之介 侏儒の言葉 (aozora.gr.jp)より

 

 

01:09かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。

01:16わたしは心にこう言ってみた。「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」と。わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、
01:17熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。
01:18知恵が深まれば悩みも深まり
知識が増せば痛みも増す。
02:01わたしはこうつぶやいた。「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」見よ、それすらも空しかった。

 

02:11しかし、わたしは顧みた
この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく
風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。

 

02:13わたしの見たところでは
光が闇にまさるように、知恵は愚かさにまさる。
02:14賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。しかしわたしは知っている
両者に同じことが起こるのだということを。
02:15わたしはこうつぶやいた。「愚者に起こることは、わたしにも起こる。より賢くなろうとするのは無駄だ。」これまた空しい、とわたしは思った。

 

02:19その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい。
02:20太陽の下、労苦してきたことのすべてに、わたしの心は絶望していった。
02:21知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。
02:22まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。
02:23一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。
02:24人間にとって最も良いのは、飲み食いし
自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは
神の手からいただくもの。
02:25自分で食べて、自分で味わえ。
02:26神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる。だが悪人には、ひたすら集め積むことを彼の務めとし、それを善人と認めた人に与えられる。これまた空しく、風を追うようなことだ。

「聖書 新共同訳」   コヘレトの言葉    Copyright: 日本聖書協会 (jpn.org)より

 

左様に此の太陽の下に新しいことなど何壱つ無いのである。

殊に自然は特にさうである。

 

自然は何度もさうして繰り返されて居る可能性が高い。

故に世界はひとつでは無くおそらくは無数にあらう。

 

コへレトは古の知識人として世界とまた神と格闘し是等の言葉を残した。

 

ーそれに対して、『コヘレトの言葉』では決定論に基づいた世界観が述べられている。義人も罪人も等しく死ぬことなど、この世のすべては定めがあり、その定めは決して変えることはできないと論ずる。もし、すべてが予定されているのならば、自由意志なるものは虚しい。すべてが予定されている世界では、普遍的な正義を行うことに、積極的な価値を見出すことができないのではないか、と論ずる。

『コヘレトの言葉』には厭世主義に基づいた思想が多分に含まれており、それだけでも十分、同書を異文化の世界観を持つ書物と見ることもできよう。その反面、人知の及ばない事柄は人間からは何もできないのであり、コヘレトはその人間をありのままの姿で肯定もするといった視点もある。この点はむしろ楽天的と評することも可能である。ーコヘレトの言葉 - Wikipediaより

 

ー伝統的な解釈に従えば、賢者と讃えられたソロモンは、人生の意義と全生涯にわたって幸福を得るために必要な行いについて、論理的かつ哲学的な探求を実践していたとされている。その結果、一般的に幸福をもたらすとされる知恵、正義、女性、家族、財産、信仰といったものはむしろ相応しくなく、これらのものは絶対的な満足感をもたらすどころか、逆に欲望を増長させるに過ぎないと結論する。

ソロモンは人生の意義に有益な格言を見つけてはそれを自賛していたのだが、いつも次の瞬間には不満になり、なぜそれが格言として不適格なのかを解き明かす。いわく、格言とは人間に、痛み、苦しみ、虚しさをも覚えさせるというのであった。人生のあらゆる出来事を心に刻み込んだ晩年のこと、ソロモンは人生に秘められた真の意義と人間を幸福に導く生き方について熟考しているとき、ついに極意を得るに至る。それを言葉にしたのが、すでに引用した12章13節の一文である。ーコヘレトの言葉 - Wikipediaより

 

尚コロナ苦と云うことは、コロナ自體が本質的な苦を齎すものなのでは無い。

むしろ生の不完全性ー理性に対するーこそが苦其のものなのだ。

 

洋の東西を問わず多くの先哲が其の不完全性が齎す無力感に就き語りかけて来た。

其れこそ中華文明では老子荘子が、さうしてイスラーム世界ではかのハイヤームが其れに就き述べて来て居る。

 

 

知恵の力が増すと壱般に所謂厭世的な世界観に捉えられ易い。

つまりは其のやうに世界が虚無的にしか見えなくなって来るのである。

 

但し其れもまた其れ相応の勉強量をこなした者に限られる。

自分はトコトン受験勉強をしたとかトコトン本を読んだとかソコまで自分で言い切れる位で無いと其の厭世観を持つことすら容易では無い。

 

つまりは普通の人人は普通の範囲でしか其れをして居ないのであり其の位のことで自分はコへレト並だなどと思って貰っては困る。

 

で、其の絶望にせよ自分は👩にフラれて絶望して居ます、だとか志望校に合格出来ず絶望しました、と云った現世利益に見放された上での絶望は眞の意味での知的絶望では無いのである。

眞の意味での知的絶望とは例えば芥川氏のやうに「只ぼんやりとした不安感であり虚無感」なのでありそんな高等な悩みは庶民にはまず無理なのだから別にさう心配などせずとも良いことだらう。

 

ほんたうに癖の悪い虚無感、絶望感とはそんなレヴェルのものには非ず。

だからニーチェだとか芥川だとか其の位の知力がそも無いとアンタらのウソ臭い絶望とはまるで質が違って居る訳だ。

 

ああ、僕?

僕はね、ヤッパリ可成に行ってることでせう。

 

だから其れがイヤだと何度も何度もさう述べても参りました。

 

 

で、コへレトも其れがイヤなので飲み食いせよとさう述べて居る。

尤も飲み食いしてもまたすぐに腹が減るのだし喉が渇く。

 

まさに其の部分こそが永遠の虚無の循環であらう。

 

知恵ー利口ー⇔無知ー馬鹿ー

栄華⇔滅亡

永遠⇔時間

壱流高、壱流會社⇔参流高、参流會社

金持ち⇔貧乏

満腹⇔空腹

 

とのやうに弐元対立がそも限定性を示して居り其処から逃れられぬが故に知識人ー知恵者ーは其処で精神的に悶え苦しむ訳だ。

 

但し其のレヴェルまで御勉強が進むと所謂世間的な価値観には心が反応しなくなって来る。

 

曰く進歩及び経済成長をやること、何でも壱番でもって壱等國を目指すこと、上玉の👩を嫁となし頭の良い子を世に生み出すこと。

ですからまさに其れが空しいことだとコへレトは述べて居るのである。

 


 

それでも生きる〜旧約聖書・コヘレトの言葉〜 (3)「すべての出来事に時がある」 - こころの時代〜宗教・人生〜 - N

さて本日此の番組の再放送を視たのだったが、其処で大きく示唆を受けたのがまさに「時」に就いての概念である。

 

西洋的な理解での時にはクロノスとカイロスがあるのだとされ、クロノスとは所謂時間ー過去、現在、未来としての流れる時間ーのことでありカイロスとは刻ー時節、時期ーだと云うのである。

すると矢張り其れは弐元論と云うこととなる。

 

クロノスが人間理性により相対分別された抽象的時間ー流れる時間ーであることに対しカイロスの方は謂わば神より授かりし永遠をも含む瞬時の流れぬ時間である。

其の神より授かりし時間には永遠と瞬間が同時にセットされて居る可能性が高い。

永遠⇔瞬間

 

我我人間の認識ではクロノスの方が理解し易いー其れもさうした認識上の形式を取るが故にー訳だが自然にある時とは其の刻刻としての瞬間ー今ーの集積だけなのやもしれぬ。

 

尚永遠とはオーラームとされ元来「隠される」と云う意なのださうだ。

永遠とは左様にどうも時では無い。

 

私は時間とはー永遠のー分離であるとさう述べて居りであるからそも永遠の時間と云うものは考えられぬ訳だ。

逆に時間とは常に「限定」である。

但し其れは所謂クロノスのことである。

 

 


03:01何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

03:02生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時

03:03殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時

03:04泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時

03:05石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時

03:06求める時、失う時
保つ時、放つ時

03:07裂く時、縫う時
黙する時、語る時

03:08愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時。

 

「聖書 新共同訳」   コヘレトの言葉    Copyright: 日本聖書協会 (jpn.org)より

 

此処で述べられて居る時とはまさに其のカイロスのことなのだらう。

實は私自身が五拾歳を過ぎた辺りから此の「其の時」のことを頻繁に感ずるやうになった。

 

尤も其れは若い頃には壱度も感じられなんだことである。

おそらくはかうして何にでも時が来たるのであらう。

 

其れは老いも若いもむしろ関係無く人間に対しまた生物に対し訪れることであらう其の唯壱の時のことなのだ。

であれば矢張りコへレトの言葉は所謂決定論的な世界観を示して居ると考えられる。

 

ちなみに私自身もまさに其の決定論者なのである。

我は所謂「自由意志」なるものは虚妄の認識により生ずる錯覚に過ぎないとさう捉えて居り従って「自由意志」を認めて行く思想とは基本的に相性が悪いのだが近代其れ自體がむしろ其の「自由意志」遂行の為の展開なのであらう。

 

分離=分節し区別すること=限定=現象ー苦ー⇔永遠=分れたり区別されぬこと=非限定=無辺際=神と佛ー樂ー

 

との世界への理解が個人的には進んで居り従って僕の苦しみはみんなの苦しさとは違って居て「分かって居ない」ことでは無く「分かり過ぎる」ことなのである。

まあエエわな、そんな奴が愛知県人に壱人位は居てもエエことだらう。

 

 

實際にどんなことにもまさに時がある。

愛する時、拒まれる時、夢見る時、目覚める時。

 

何?

石を放つ時、石を集める時?

 

いや別に石は投げませんが確かに石を集めて来て居ります。

 

其れにつけても何故「飲み食いしてもまたすぐに腹が減るのだし喉が渇く」のであらうか。

さうして飲み食いせずとも良い世界こそが壱番良い世界なのではありませんでせうか。

 


03:11神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。

03:12わたしは知った
人間にとって最も幸福なのは
喜び楽しんで一生を送ることだ、と

03:13人だれもが飲み食いし
その労苦によって満足するのは
神の賜物だ、と。

03:14わたしは知った
すべて神の業は永遠に不変であり
付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。
03:15今あることは既にあったこと
これからあることも既にあったこと。追いやられたものを、神は尋ね求められる。

「聖書 新共同訳」   コヘレトの言葉    Copyright: 日本聖書協会 (jpn.org)より

 

所詮人間は限定者でありたとえ知恵を磨いたにせよ悟れぬ者なのでまさに飲み食いしてつまりは「食い倒れ」したらうぜ。

つまりは其の飲み食いこそが神の賜物なのだ。

 

しかもわたくしは知った!

言わば神の御業は永遠に不變だ。

 

其の神にせよまた佛にせよ眞に畏れ多いものである。

現代人の壱番頭がオカシイところはさうして神佛を畏れ敬わぬところにこそあらう。

 

しかも其のことがまるで自分では分かって居ない。

嗚呼、もしや神とは其の神とは閻魔大王様のやうなもののことなのであらうか?

 

其の閻魔大王様のことですが、其れはもしや神の化身なのではなからうか?

其れも全知全能の神の。

 

ーヤマは人間で最初の死者となり、死者が進む道を見いだした[12]。そして死者の国の王となった[1]。虚空のはるか奥に住むという。インドでは、古くは生前によい行いをした人は天界にあるヤマの国に行くとされた[1]。そこは死者の楽園であり、長寿を全うした後にヤマのいる天界で祖先の霊と一体化することは、理想的な人生だと考えられていた[13]

しかし後代には、赤い衣を着て頭に冠を被り、手に捕縄を持ち、それによって死者の霊魂を縛り、自らの住処・国に連行されると考えられた[3]。ヤマの世界は地下だとされ、死者を裁き、生前に悪行をなした者を罰する恐るべき神と考えられるようになった[14]。ー

閻魔 - Wikipediaより

 

しっかしどう考えても裁く神とは壱神教の神であるべきなのではないだらうか。

壱體何故多神教の神が人間を裁くことがかうして可能なのだらうか?

 

 

   好悪


 わたしは古い酒を愛するように、古い快楽説を愛するものである。我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。ただ我我の好悪である。或は我我の快不快である。そうとしかわたしには考えられない。
 ではなぜ我我は極寒の天にも、まさおぼれんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか? 救うことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救う快を取るのは何の尺度にったのであろう? より大きい快を選んだのである。しかし肉体的快不快と精神的快不快とは同一の尺度に依らぬはずである。いや、この二つの快不快は全然相容あいいれぬものではない。むし鹹水かんすいと淡水とのように、一つにっているものである。現に精神的教養を受けない京阪辺の紳士諸君はすっぽんの汁をすすった後、鰻を菜に飯を食うさえ、無上の快に数えているではないか? かつ又水や寒気などにも肉体的享楽の存することは寒中水泳の示すところである。なおこの間の消息を疑うものはマソヒズムの場合を考えるが好い。あののろうべきマソヒズムはこう云う肉体的快不快の外見上の倒錯に常習的傾向の加わったものである。わたしの信ずるところによれば、或は柱頭の苦行を喜び、或は火裏の殉教を愛した基督教キリストきょうの聖人たちは大抵マソヒズムにかかっていたらしい。
 我我の行為を決するものは昔の希臘人ギリシアじんの云った通り、好悪の外にないのである。我我は人生の泉から、最大の味をらねばならぬ。『パリサイの徒の如く、悲しき面もちをなすことなかれ。』耶蘇やそさえ既にそう云ったではないか。賢人とは畢竟ひっきょう荊蕀けいきょくみちにも、薔薇ばらの花を咲かせるもののことである。芥川龍之介 侏儒の言葉 (aozora.gr.jp)より

 

芥川は此処で弐元論に就き論じて居ります。

 

苦⇔樂

好き⇔嫌い

善⇔悪

 

賢人とは畢竟荊の道に薔薇の花を咲かせる者のことであると。

尤も宗教の人人の所謂朗らか体質、前向き体質に対し嫌気がさすことがわたくしには御座ります。

 

芥川や太宰はまさにさうした意味で知の方面に振れた文士なのであり宗教者では無かったのです。

そんなわたくしでもコへレトの言葉はまるで心に食い入るが如くに理解することが出来る。

 

其れはコへレトの言葉が知の上部構造としての生の虚無性、空しさの辺りから述べられた言葉であるからなのだらう。

其れがまた同時に絶望の淵より紡ぎ出される神に対する懺悔録のやうなものでもまたあることでせう。