目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

本年度の総括と来年度の展望

 

刺し身、カニ…正月向け魚介類が高騰、2倍で取引も 来年にも影響か (msn.com)

だから金持ちから重税を毟り取れといつも我はさう述べて居るではないか!

其のうちに庶民はカップ麺とたこやきやみたらし団子位しか食えなくなるぞよ。

 

其れにつけても今後の高級品はもしや刺し身か。

いや寿司だな。

さう言えば寿司をもう半年程食して居らぬ。

 

其れは果たして何故だらう?

正月は是非寿司を食いたいものだが今家は何故か食い物だらけなので其れは難しいかもしれない。

 

 

さて其の宗教ー其れも主に新興宗教ーをやってる人人のやうに「朗らか」に前向きに生きることは常に大事で、かの悲観主義の大御所ショーペンハウアーなどは朗らかさこそが宝であるなどとも實は述べて居たりも致します。

前向きー本能的、楽天主義的ー⇔後ろ向きー(人文)理性的、悲観主義的ー

 

實は此の双方が大事であり、どちらかに偏ると必ずや酷い結末を迎えて仕舞いませう。

 

學者や藝術家や宗教者はある意味前向きなんですが壱面では眞理方面を常に見詰めても居るが故に双方の立場を行ったり来たり出来る訳です。

故に我自身もまたそちらのタイプの人間であることはまず間違い無いことでせう。

 

ショーペンハウアーだのコへレトだのハイヤームなどと云った悲観主義者は基本的に「全てが空しい」生には期待などして居りませんのですが結構其処に快樂を否定せずでつまりは空しい侭に欲張って生きよとさう言って居るかのやうです。

其れ等の言葉が何か非常に奥深いもの、まさに含蓄に富むもののやうに思えるのは彼等が生の両面を見極めて生きたからなのだらう。

 

 

対して學者や藝術家や宗教者では無い庶民は概ね「文明の今」を信じて生きることとなりませう。

尤も其れが間違って居る可能性も常に御座りますが所詮庶民はさうして「生活」に縛り付けられても居ります。

 

其の「生活」至上主義をかって芥川 龍之介はこっぴどく批判して居り其の作品こそが例の『河童』です。

無論のこと其の芥川はまさに天才級の知性の持ち主ですのでそんな生活教が可成に煙たい訳だ。

 

尤ももっと現實的には家族や親戚の扶養の義務だの自ら仕出かしたところでの女性関係の清算の失敗などから彼は至極現實的に追い込まれて行った訳だ。

 

でも天才級の知性は結局現實上の生活力には欠けるものなのです。

天才級の知性=理性の権化⇔食って寝てウンコ垂れる庶民=本能の権化

 

とのことですのでまさにみんなー芥川の作品や此処の読者を除くーはおバカだけれどもさうして何故か元気なのですね。

で、其の庶民の糞力こそがインテリ文學者やインテリ科学者、またインテリ左翼の方方が求めてもどうしても得られぬ打たれ強さ其のものなのだ。

 

 

…また庶民をバカにし始めたな?

ちゃいます、今僕は其の本能の力のことを考えて居るばかりでのことだ。

 

其の本能の力とはもしや芥川が嫌った生活力のことなのですか?

まさにさうでせう。

ですが意外と彼芥川は性欲の方が強かったやうだ。

 

うーん、昔の文學者はさうして皆欲望が獣並だったのですかね?

まあ太宰などもさうですが彼等は明らかに性欲の方こそが並大抵では御座りません。

 

対して尾張の詩人さんはもはや性欲が無いの?

まあほぼ絶産したと言っても良いのではなからうか。

 

逆にかうして物欲が強くある訳だ…。

まあ昔から其れはさうなのですがね。

 

 

其れはさうとさても此の現代文明は今後何処へ行くのでせう?

明らかなのが此れから文明は年越しへと向かい正月三が日を迎えることとなりませう。

 

しかも来年もまた獣の生活力にて乗り切って行くことだらう。

うわあー、獣臭い。

まるで👿共のウンコのやうなものなのですね。

 

さうです、まさに其れこそが「庶民のクソ力」でもあることでせう。

別の表現で申せば本能の爆発力、即ち丸出しモロ出しでの生きる力の発露でもまたあることだらう。

 

たとえオレラは殺されても死なん。

芥川や三島や川端のやうに生きるに絶望し自決などするのは真っ平御免だ。

 

馬鹿はな、さうして只生きるのだ。

ああまさに「生きとるだけでモウケモン」なのだ。

 

 

偉い!

其れもなんて徹底された本能力なんだ。

 

でもお前達は何の為に、壱體何の為にソコまで開き直りさうして生きて行かれるのだ?

其れはな、僕等が所詮生活教の信者だからなのさ。

即ち現世利益教の信者なのさ。

 

ぎゃおー、うおー、ぐわおー。

どっこい生きてる我等が勝ちー価値ーなのだと。

 

 

ところでお前自身も其の生活教の信者なのだな?

…まさに半分はさうだ。

 

だが他の半分は決してさうでは無い。

彼の半分は決してさうでは無い。

なので彼の半分は常に藝術や宗教や哲學と壱體である。

 

 

彼の心のお花畑には常に其のやうな理性の御花の数数が咲き乱れておる。

だが肉體の方には食欲と物欲とがしかと居座っておる。

 

するとお前は食い倒れしかも物に耽溺しつつ此の年末年始を過ごそうとさう考えて居るのだな?

其れもEテレばかりを視つつ其れを成就したいとさう思って居るのだな?

 

良くぞ我が本心を見抜いたな。

人間とは所詮は其の獣以外の何者でも無い。

 

だが同じ獣であるのならば抽象的な欲の達成を目指すよりは具象的にさうして飲み食いし且つEテレばかりを視て居た方がより平和である。

もしや其れが例のアタラクシアのことなのか?

 

 

いやアタラクシアとは最終的に「求めぬ」境地のことであり具象的に「求める」今の我のあり方とは違うものだ。

なので同じ求めるのであれば其の範囲をなるべく切り詰め小さくすることだ。

なるべく安上がりに求め大きくは決して求めぬことだ。

 

まさに其のことこそが我が導き出した生き方の極意なのだ。

 

さうして時間はカイロスー与えられし時ーの方をも同時に向き直ること。

そんな今だけの今に拘泥せず神佛に与えられし永遠の今をも常に見詰め続けることだ。

 

 

さて今日は灯油の巡回販売が年内の最終日であり其れでポリタンク4つ分を買ったのでしたが其れを持って来たのが京都人の蟹屋でした。

其の人が京都人であることを本日初めて知った。

 

丁度先週半分泣きながら其のオジサンに自分は足が悪くなり重い灯油タンクをもう運べやしない。

だからどうか玄関の前まで持って来て欲しい。

 

などと弱者を装いおまけに會社にまで電話をかけわざわざ家へ持って来させたところだった。-實は家の前の道が巡回ルートには入って居ない-

すると灯油のオジサンはそんな我の儚げな頼りなさに同情さえして下さりさうして灯油タンクを弐つ玄関先まで持って来て呉れた。

 

其の時すでに此の人が関西人であることに気付いた。

関西人の言葉は尾張人のものとは違う故に其れはすぐに分かる。

 

 

ところが今日はちっとも来ないのでまた會社へ電話をし確認するとどうも最終日なので遅くなって居るらしい。

 

其の後壱時間程してから其のジジイがやって来て「金が歩道に落ちて居た」とさう言うのであるが其れはアンタがポリタンクを上げた時に金入りの銀行の袋が其れにくっつき上がり歩道に落ちたのである。

ちなみに家の辺りはドロボウもまた入るのではあるが何故か灯油タンクの下に置いた金を盗んで行く奴は居ないのである。

 

もしやオジサンは関西の人ですね?

京都ですよ。

 

何でそんな京都人がワザワザ此処名古屋くんだりまで出没して居るかと云うと其の灯油の巡回販売の會社が元々大阪の會社で繁忙期には関西から応援を頼んで居ると云う理由があった訳だ。

 

其れにつけても京都はモノの値段が高い。

はあ、壱見さんはお断りと云うことがありましてな、其れが絡んでるのやもしれませんな。

 

其れに京都は左翼が多い。

まあ右翼もまたようけ居りますがね。

 

 

まあ名古屋も左翼が多く僕は昔は塾の教師だったので其の左の方へと今走って居ます。

ああ、先生さんでしたか、それはそれはどうも。

 

實は京都の東山の料亭の監修したおせちが明日家へ届きます。

また其処からは蟹ーズワイガニーも買いましたが解凍中に全て猫に半分づつ食い散らかされた。

 

其れも何故か全部は食わないんです。

 

其の根性の悪い🐈共は今五匹居ます。

でも自然とは實に儚いものです。

 

拾月には壱番立派な♂のトラ猫が野良の黑猫のボス🐈に追われもう戻らなくなった。

また此の年末には壱番綺麗な♀猫のシロが突然エサを食いに来なくなった。

 

其の弐匹はおそらくはすでに死んでおることだらう。

 

🐈は増えますからねえ。

ところでウチもおせちは作って居るがもう売り切れた。

 

はあ?オタクは壱體何屋さんなのですか?

 

蟹屋です。

尤も會社は大阪にあるが。

 

ちょっとパンフレットを持って来て下さい。

 

うーむ、其のおせちが壱万円でたったの限定参拾個だけですでに売り切れか。

他には蟹とフグか。

 

いやー、関西人は此のフグを良く食うんですね。

まあ兎に角来年もまた宜しく灯油を運んで来て置いて下さい。

 

今回はサーヴィスで少しづつ大目に灯油を入れて置きました。

年末は京都に戻るのでまた来年ね。

 

 

其の関西人のサーヴィス精神と云うことはほんたうにあることです。

其れを母にも伝えましたところ関西人は嫌らしいところがあるが人思いでもあるとさう言って居た。

 

若い頃より母は京都の大徳寺を屡茶會などで訪れて居た。

東京はおそらくもっと合理的且つ冷たくもあるのかもしれない。

 

但しわたくしの説では其れは愛知県から流れて行ったところでの弐系統なのだ。

つまり愛知には両方があります、またわたくしなどにも両方がありわたくしはとても心があたたかく同時に冷たい人間です。

 

 

さらに其の後おせちの配送に就いての個別対応を佐川急便の配送センターへこと細かくお願いをし再配達とならぬやうにしかと手配をして置いた。

何せおせちは参つも来るのである。

 

其れも参段重のおせちが参つも来るのである。

 

とのことで、来年また其の京都の蟹屋のジジイが灯油巡回販売で家へ来たら京都のことを色々と聞き出してやらうかとさう思って居るところだ。

其れにつけても大阪だの京都だのはさうしていつも食う事ばかりを考えて居るのだらうな。

 

其れも美味いものを食うことばかりを…。

 

だが其れにも壱理あると最近の我はさう思うのだ。

問題は未来には其の食う事さえもがおそらくは先細りとなって行くことであらうことだ。

 

 

だが我が生きてるうちはかうしてまだおせちを食う事さえもが可能なのだ。

だったら今食ったれ。

まさに食うのは今でせう?

 

お前は今明日其のおせちを食う事ばかりを考えておるな?

良くぞ我が本心を見抜いたな!

 

 

1.西田哲學との格闘ー佐伯啓思 『西田幾多郎―無私の思想と日本人―』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)との格闘を含むー

2.『佐々木閑、宮崎哲弥 『ごまかさない仏教―仏・法・僧から問い直す―』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)』との格闘

3.『NHK出版新書 656 宗教の本性 誰が「私」を救うのか | NHK出版 (nhk-book.co.jp)』との格闘

4.『NHK出版新書 662 日本人にとってキリスト教とは何か 遠藤周作『深い河』から考える | NHK出版 (nhk-book.co.jp)』との格闘

 

さて我は此の師走の壱ヵ月でもって壱年分位の御勉強をすでに済ませて仕舞った。

 

だから後はEテレを視つつ年越しをし来年になってもすぐには御勉強はしないのである。

わたくしはかうして昔から纏めて御勉強する方なのでやると決めたら拾時間程ぶっ続けに御勉強し他のことはほとんどしないのである。

 

左様に常日頃よりわたくしが格闘するものとはまさに「精神」であり人間の「生活」でもまた文明の「未来」でも無い。

まさにたった今其の「精神」を指向することでこそわたくしと云う實存が其処に完遂されるのである。

 

故にわたくしには例えば拾年後の我のことがまるでもって想像出来ない。

そんな意味で我はまさしく今を生きて居り其れ以外の何ものでも無いのだ。

 

尚以上に挙げた四冊の著作は其のいずれもがまさに壱級の本である。

故に来年度は是等の本をテキストとなしつつ是非自説を展開して行きたい。

 

 

元より認識上の誤謬は自力にて直すことが困難だ。

故に知的能力を駆使しつつ良書や良き番組に縁をしつつ謂わば他力にて救って頂くより他は無い。

 

だが其処で自分の頭でもまた考えて置かねばならぬ。

 

何せ、

他力救済⇔自力救済

なのであるからして。

 

 

でもって冬休みは確りと遊びなされ。

但しゲームやギャンブル、またピンサロなどへは決して近寄らぬやうに。

 

しかしながら君等にとっての冬休みの遊びとはむしろ課題図書を具に読むことだらう。

課題図書とは以上の四冊である。

 

でもって我だけがこれから遊ぶのである。

さあて何で遊ぼうかな?

 

 

仕舞った!

さう言えばアノ佐伯先生のユーチューブを視るのをスッカリ忘れておった。

 

是非其れを視ずばなるまい。

また他の本も読まねばなるまい。

 

と云うことは結局は年末年始もまた御勉強浸けの毎日だ。

 

其の遊べないこと=眞理のみに生きること、こそがおそらくは我が病気なのだらう。

我ながら實に困った奴だぞ。

 

結局全てがさうして御勉強へと収斂して行く訳だ。

 

 

さうだ、是非御勉強しつつ万年筆でもって遊ぼう。

御勉強しつつ石でもって遊ぼう。

 

…普通の人間はさう云うものではまるで遊べないものなのですが…。

さうですかねえ、僕にとってはまさに其れがパラダイスなのですがねえ。

 

 

さて世は相変らずグタグタのドロドロである。

酔っぱらいは道路に寝て居て車に轢かれるわ、クスリはやるわ金を盗むわ。

 

何処にでも火を点けるわ、👩に手を出すわ。

喧嘩はするわ、殺し合うわ。

 

でも宗教者は其処から目を背けては決してならない。

 

かの現實をしかと見よ、おおまさに其が此の世の實相ぞ。

うわあー、もう何だか気が狂いさうになる。

 

 

さうか、其れは偉い!

偉いぞ君は、君程真摯に世の眞實と向き合う者は他には居ない。

 

煩悩即菩提、罪即贖罪。

哀しみはかうして世に満ち溢れておる。

 

こんな哀しみこそが人生なのか。

さうだそんな哀しみだけがまさに人生なのだ。

 

 

其の哀しみに寄り沿え、常に其れと共に歩むのだ。

…イヤです。

 

其れも金輪際イヤだな。

うーむ、だから君はさうして御勉強にばかりに拘り其処へと逃げて行くのか。

 

普通はソコへは逃げ込まぬ筈なのだがヤッパリアンタは変わって居ますね。

まあ正直変わっては居ます。

 

 

さあてプライム・ヴィデオの方でおそらくは色々と視たいものが溜まって居ることだらう。

其れにアノ見逃し番組、例のブラタモリ糸魚川篇のものが。

 

其れをどうしても視ずばなるまい。

 

ところで酒はしこたま買い込んだのか?

酒などは要りません。

ですが何処かで梅酒か養命酒でも探して来やうかとさう考えて居るところです。

 

梅酒か養命酒の杯を傾けつつおせちを食う。

コレに勝る快樂は實際御座りませぬが故に。

 

 

さても此の年末年始には神社佛閣へと出向くのか?

勿論です。

 

其れもまあ近場が中心となりませうが。

さて僕は此れから冬休みに入ります。

 

何、早く我に逢いたい?

僕はそんな単純な人間では無い。

常に我は高尚且つ複雑な人間なのだ。

 

壱月の終わりまで出て来ませんでしたらもはや死んだものとどうか諦めて下され。

それでは皆様ごきげんやう、どうか良い御年をお迎え下さりませ。