目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「絶対矛盾的自己同壱」概念に就き考えるー五 宗教的要求と哲學的希求の壱致ー

哲學15

 

 

 

ちなみにもしも今壱億円の自由になる金が手元にあればすぐにでもわたくしは静かな山の中へでも逃げて行くつもりです。

何せ寒いのが苦手なので三河や静岡、其れに三重県などが其の移住の候補地です。

其処にログハウスー但し冷暖房の効くーでも建てて是非住みたいです。

 

左様にわたくしはもはや文明を信用して居らず出来れば其れからなるべく離れたいと思って居る。

ですが實際はむしろ次第に自分の體が壊れて来ても居るので事實上其れも難しくなって来た。

 

故に事實上其れは無理ですがもしも何かの拍子に其れが可能となるならば、わたくしは其処に隠遁者の樂園を建設したく思う。

其れでまずやりますことは食料や飲料水の買い溜めでせう。

 

移住地に倉庫も建て其処へ拾年分位の非常食を溜め込むつもりである。

 

其れと本棚などもまた大きく造らねばなりません。

何せ此の弐部屋に充満する本を其処に持って行く訳ですので。

 

かうしてわたくしは考えて居ること其れ自體が世間とはすでにズレて仕舞って居ます。

ですが其れは犯罪者と云うことでは無しに逆に聖なる心の方向性を指向する者なのであり只人間嫌いですので変わって見えるだけのことです。

 

 

なんですが、實は子供には相変わらず好かれることが多い。

今も猫を見に来る小学生達に石をあげることなどを考えて居ます。

 

其の小学生達は二軒西隣のソロバン塾に来る子等ですが、いつも彼等がソロバン塾の前で遊んで居て我が昔塾の先生だったことを話したので屡家へも遊びに来るやうになりました。

其れで猫をもって行けと言いますのですが今の親は何かと難しいらしく🐈は飼えないと云うので代りに石をやらうかと思って居ます。

 

其のソロバン塾の先生とは顔見知りで屡何かを手伝って頂いたりして居る仲です。ー七拾弐歳にて独居中ー

かっては其の塾を先生の母親がやっておられ其処へ小学生の頃わたくしも通って居たが其れも半世紀以上前の話となって仕舞いました。

 

其の子等の父母が丁度かってわたくしが勉強の方をみた四十代の人人です。

 

さて其の棚山のコモンオパールの小さいのを弐個程纏めて六人分作りましたところ小学生の👩の子ばかりが参人連れ立って其れを本日受け取りに来た。

もっと沢山人数が居るよ。

 

じゃあとりあえずはジャンケンをして欲しい人にあげなさい。

親に聞かれたらソロバンの先生の友達の塾の先生から貰ったとさう伝えておきなさい。

其れから此の石は瓶に入れ水に浸けて置くやうに。

壱ヵ月に壱度位は其の水を替えてね。

 

石もまたかうして受け継がれていくもののやうです。

 

 

さてでは今回はこちらがテキストとなります。

西田幾多郎(3)西田の宗教哲学 | 哲学・教養入門ブログ (tetsugaku-life.com)

 

西田 幾多郎の云う「純粋経験」とは「無分別智」に近いものであらうことをわたくしは前回述べました。

其れは唯物論が陥る課題としての「意識」の問題を克服出来ないことに比べ其れを回避出来る利点があると此処での著者は述べて居ます。

 

但し其れは所謂「独我論」に陥り易いとも書いてあります。

ー私たちが事物を認識するとき、何らかの客観的な事物が存在し、感覚器官を通じてその事物が意識の中に現れると考える。例えば、「私はリンゴを見ている」というとき、まず私の認識とは無関係に存在する客観的なリンゴがあり、ついで私の視覚を通じて、私の意識の中に、主観的なリンゴの形や色が現れ、両者は一致する。これが、事物を説明するにあたっての常識的な考え方である。ー独我論 - Wikipediaより

 

普通我我人間は客体物がまず在り其れを目と云う感覚器を通じて見るから其れが認識されるとさう感じて居ります。

 

ー子供などが持っている素朴な実在論である。また大人などでも、哲学を学んだことがない一般人が抱きがちな実在観である[2]。ー素朴実在論 - Wikipediaより

人類は古くから、自分の眼に見えていてもそれが実在していなかったという経験や、反対に、たとえ肉眼では見えなくても(あるいは他の感覚器でも知覚できなくても)確かに何かが実在していた、という経験を繰り返している。こうして人間は、素朴実在論とは異なった考え方を探求してきた。ー素朴実在論 - Wikipediaより

 

また我我人間は特に哲學的なものの見方をせぬ限りはー「この世界というのは、自分の眼に見えたままに存在している」ー素朴実在論 - Wikipediaとさう思いがちです。

 

然し客体物が其処に有るとさう思い込むのは逆に言えばまさに其れを「本能的に」見て居る訳です。

「本能的に」見れば見る程其れは確固とした形でまさに客体として其処に有る訳です。

 

大多数の人間はかうしたものの見方を日頃して居ります。

ごく壱部懐疑主義者を別とすれば。

謂わば其れがまさに常識的認識である訳ですが哲學的には其れはむしろ間違って居ると捉えられるものです。

 

 

どだい其の哲學にせよ宗教にせよ、其処ではむしろ目には直接見えない何らかの原理を追及して行くものです。

また其れは謂わば即物的では無く且つ本能的でも無い精神的な価値に就き學んで行くのです。

 

ところが所謂「常識」の範囲内では其の精神的な価値への機縁がなかなか保たれぬものです。

要するにさうして世俗的な意味での常識、言い換えれば本能的な価値に縛り付けられ易いのだと言える。

 

故にかってお釈迦様はむしろ其れとは逆の価値観をお示しになられ其れ即ちさうした価値観に生きることこそが「修行」であると捉えられた訳です。

つまりは佛教とは世俗の価値とは正反対の「精神的」価値を生きるもののことです。

 

 

佛教にも色々とあり其れ等の中には「精神的」価値と云うよりは現世での御利益を求めて行くものもまた御座りませうが基本的には其れは正しい佛教のあり方には非ず。

逆に申せば現世での御利益を求めて行く宗教のあり方は「精神的」価値を生きて居る訳では無い立場から齎されるものだとも言い得ませう。

 

さうして「精神的」に物を見ますと其れは壱種の本能を離れた認識をする訳ですので当然のことながら其の物の客体性は否定される場合などもまた出て来ます。

其の逆に「唯物的」に物を見ますとあくまで其れは壱種の本能より其れを見る訳ですのでむしろ其の物の客体性はほぼ完全に肯定される訳です。

 

「唯物的」な物の見方はさうして壱種本能的でありまた素朴實在論的であり多くの人間に取りむしろ至極分かり易いものです。

さらに現代では哲學や宗教などの「精神的」なものの見方が劣勢に立たされ主に自然科学に代表される唯物論の方こそが幅を利かせて居る訳だ。

 

ですのでより多くの人間が従うもの、其れも大多数の人間がやり易いものはむしろ間違って居る場合の方が多いやうです。

 

 

其処で個人的には「独我論」と「素朴實在論」のどちらかを選べと言われればすぐさま「独我論」の方を選びます。

独我論」は偏屈でもって変な考えですが「素朴實在論」としてみんなでもって間違いの認識をあえてして居るのとではまだしも其の方がマシと云うものです。

 

わたくしが今批判して居るのはズバリ其の「常識」としての物の見方であり概ね其れは眞理としての見方の反対をやって居ることが多い。

尚「独我論」は極端な唯心論ですが、テキストにもありますやうに唯心論は概ね神佛の存在を大きく認めて行きます。

対して「唯物論」の極端なものとして「無神論」がありませうが其処では無論のこと超越的な存在をそも認めて居ません。

 

ですから超越的な存在を認めるからこその「精神性」であり観念的な物の見方なのです。

個人的に現代人に今最も欠けつつあるのが此の「精神性」であり観念的な物の見方なのだと思います。

 

「精神性」はかっての所謂「精神論」では無く精神に沿って物事を理解して行くと云う態度のことを言う。

わたくしは其の意味では可成に「精神的」な人間です。

 

ですので現代社會の唯物性に対し時折我慢がならなくなり屡其れに対し怒ったりもして居ます。

 

 

尚其の超越的な存在を「精神性」即ち観念性に組み込むと「独我論」に陥らなくて済むとテキストには書かれて居ますがまさに鋭い指摘だと思います。

唯心論にせよ観念論にせよ超越的存在を概ね認めて居り従って当時の哲學はむしろ宗教を否定して居ない訳です。

 

宗教を否定的に扱うやうになったのは謂わば唯物的な進歩の方向性が確立されて以降なのだと思われる。

但しまさに其処に唯物論は限界に突き当たります。

 

其れは物が溢れ豊かになり長生きの出来る世の中になった代わりにむしろ人間の心の中身は空虚となり幸福であることが實感されなくなって行ったからなのでした。

現行の文明の流れはむしろ其れをより加速させて居るのだと申せませう。

 

ですがもはや誰も望んでは居ないのですがね、そんな不必要な進歩や不必要な物の充満などは。

よって問題は壱體何処で其の文明の気が狂ったかと云うことでせう。

 

 

尤もわたくし壱人がどう批判したにせよ文明は自身がキチ外であることを決して認めはしないことでせう。

逆にわたくしは社會からキチ外の思想犯だとおそらくはさう見られて居りだから近いうちにわたくしは牢屋に入れられ其処でもって餓死するのです。

 

いや餓死などは金輪際したくは無い。

逆におかわりさえしてやらう、其の臭い飯を何杯も何杯も…。

 

ちなみに素朴實在性は観念的には否定出来ますが独我論の方は観念的に否定することが出来ません。

 

 

さて次に「個別的純粋経験」と「普遍的純粋経験」のお話が出て参ります。

個人的には至極分かり易い種別の仕方だと思う。

 

されど我我凡夫が其の侭に「個別的純粋経験」を持ち得るかと言えばまさに其れは至難の技であることでせう。

其の純粋経験を「無分別智」とした上で考えてみますと其の「無分別智」化をする為に禅の修行僧が何拾年も修行を積み重ねた上でもまだ猶悟れないのです。

 

其れに普通は現代社會での価値バイアスが強く働いて居ますので我我庶民に出来ることは眼前のことを實體として感じせいぜい毎日飯を食い生き抜いて行くことだけなんです。

其処に加えインテリさん方は御勉強する癖が付いて居るので其の御勉強の方も欠かさずやる訳ですが元より御勉強で悟れるものでは御座りません。

 

まあ僕なども確かにそんな面が御座ります。

で、其の僕の結論とは「人間は悟れません」と云うことでした。

 

つまりは其の「個別的純粋経験」の世界を常に我我が生きられるやうになる訳では無い。

尚わたくしには直観智が屡働きつまりはむしろそちらの側での人間なのですが其れでも自らの頭の中を「無分別智」化などするにはほど遠い段階だと云うのが正直なところです。

 

 

ー宗教的要求は我々の已まんと欲して已む能わざる大なる生命の要求である。厳粛なる意志の要求である。宗教は人間の目的そのものであって、決して他の手段とすべきものではない西田幾多郎善の研究』、小坂国継全注釈、講談社学術文庫、2006、p.380)

 世には往々何故に宗教が必要であるかなど尋ねる人がある。しかし、かくの如き問いは何故に生きる必要があるかというと同一である(中略)真摯に考え真摯に生きんと欲する者は必ず熱烈なる宗教的要求を感ぜずにはいられないのである(同、p.385)。ー西田幾多郎(3)西田の宗教哲学 | 哲学・教養入門ブログ (tetsugaku-life.com)より

 

西田幾多郎にとってはおそらく其の宗教的要求と哲學的要求が壱致して居たものと思われます。

宗教的要求と哲學的要求が壱致することは稀と申しますか考えられる得る最も幸福な境地なのではないかと個人的には感じられる。

 

わたくしもまた若き頃より其の宗教的要求に於いてまた同時に哲學的要求に於いて並外れた希求が御座りましたものです。

故にわたくしに取り人生はあくまで観念的にこそ希求されるものでした。

 

たとえ飯を食って居てもまた酒を飲み👩を触って居ても私の場合は其のことを常に問い続けて来たのです。

即ち我に取り宗教は人生の目的其のものでした。

 

また哲學こそが人生の目的其のものでした。

ですが世の中の大多数の方々に取り人生とはむしろさうしたものでは無かったのです。

 

其の部分との軋轢、齟齬に苦しみましたわたくしはまさに其の点に於いて幸福であり且つ不幸でした。

わたくしの生は左様な難解さの中にむしろ初めから投げ込まれて居り故にかむしろ少々の難解さ位にはたじろがぬ人間なのですがむしろ大衆の方々の無神経さには大いにたじろがされても来た訳だった。

 

 

またひとつには今のわたくしには人間がまるで獣の如くに見えるのですが、コレってもしや何処か変なのでせうか?

いやお前こそがむしろ獣だらう?

 

だって獣はこんなに考えたりはしないし其れにこんなに沢山の本は読みません。

さうです、僕は獣になりたい、是非なりたい、其の獣に。

 

其の宗教的要求とはまた哲學的希求とは基本的に特殊な人人のものであらうことを最近は感じて居ます。

であるからこそ釈迦は其の特殊な人人の為にこそ法をお説きになられた。

 

特殊な人人はむしろ自ら「純粋経験」の中へと飛び込んで行く。

されど其れは誰にでも出来るものでは無く矢張りと言うべきか特殊な人人の為の道なのです。

 

 

其処で新たな問題として提起されることが、まさに宗教は大衆ー社會的現象ーをどう救うのかと云う部分でせう。

何故なら、

 

個⇔社會

であり、

藝術家、宗教家⇔大衆ー社會ー

 

だからなのです。

 

何故なら現代の問題とは須らく大衆の側の問題であり且つ社會の側の問題です。

其の「宗教的要求」が目覚めた個にとってはかうして常に目覚められ無い社會の側にどう其れを摺り寄せて行けるかと云う部分だけが残ることとなる。

 

 

この悪い意味での自我、言うなれば「偽物の自分」「偽我」を滅却しなければ、神と通じるような「真実の自己」に目覚めることはできません。ー西田幾多郎(3)西田の宗教哲学 | 哲学・教養入門ブログ (tetsugaku-life.com)より

 

其のニセの我のことをわたくしの場合は「非我」として居ます。

 

我我壱般人はむしろ其の「非我」にこそ比重を置きまさにより良い明日を目指す為に仕事や生活に精を出して居ます。

ですがであるからこそ迷いの境涯だと佛法はそんな価値観を否定致します。-より本来的な意味では-

 

此の辺りのことが分かって来ますと多くの人が「では壱體どうしたら良いのだ?」と考え込むこととなる。

ですが佛法を學んで来た人には其の道理もまた分かって居る訳です。

 

またキリスト教にせよ神と繋がらぬ形で只利己的に仕事や生活に精を出すことを認めては居ないことでせう。

さらに佛教の場合にはむしろ仕事や生活の「滅却」であり消去法なのです。

 

つまりは其処での頑張る方向性がそも百八十度違うと云うことだ。

其処からしてもさうして頑張らないのがむしろ良いとされる佛教からビジネスを學ぶことなどはまさにちゃんちゃらオカシイです。

 

弁証法という発想もヘーゲルの影響を受けたものです。ただヘーゲル弁証法は「歴史が弁証法的に展開する」というように「時間」のイメージが強いものでした。

しかし西田は「心を開拓して真実の自己に至る」という仏教的展開の中に弁証法のプロセスを見出したのです。

東洋思想と西洋哲学の良質な融合がここに見られるのではないでしょうか。ー西田幾多郎(3)西田の宗教哲学 | 哲学・教養入門ブログ (tetsugaku-life.com)より

 

佛教が結果的にはマイナスの方を向くにせよ其れはまさに心を正して眞我を獲得する為に其れをするのです。

ですのであくまで佛法に対しては其れはプラスのプロセスとなります。

 

さて宗教的希求の度合いは人により大きくことなるものと思います。

どちらかと言えば現世御利益への洗脳度が酷い人の方が無宗教へと傾き易い筈です。

 

逆にわたくしの如きに現世利益を否定してかかる向きにとっては宗教への期待度が大きく増して来る訳です。

また文明をどの程度信じて居るかによっても其の宗教への期待度が変わって来ます。

 

まさにわたくしの如くにほぼ文明を信じて居ない場合には逆に宗教をこそ信じざるを得なくなる。

 

 

さて西田 幾多郎はかってかうして大きく宗教の意義を認めて居た訳です。

彼は多くの肉親を次々に失うと云うまさに悲壮な体験を通じて宗教の意義を實感せざるを得なかったことでせう。

 

其の神と通ずるにせよ、眞の佛に出會うにせよ壱種心を空しうして悩んでみなければ其れ等とは決して繋がれないものです。

 

逆に悩み苦しむ者、虐げられし者などに対し神佛は常にあたたかく迎え入れて下さるものです。

其の東洋思想と西洋哲學の融合と云うこと以上に西田はおそらく宗教体験のやうなものを是非哲學化したかったのではなかったでせうか。

 

其れに西田の「絶対矛盾的自己合壱」と云う概念自体が脱論理であり従って其れは近代哲学の枠内には収まり切らぬものでありまた其れは所謂合理性の観点からは理解し難いものなのです。

そんな訳で西田 幾多郎に於いて東洋的でしかも脱論理的な論理構築が初めて完成されたと評したとしてもまさに其れは過言では無い訳です。

「南海トラフ大地震」が起きる前に個として是非して置くべきこと

 

真珠湾攻撃から80年「元日本兵」が語る戦争の内実 | 安全保障 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)

其の戦争と云うことは抽象的な社會的状況にて行われる個としての判断を超越する歴史的状況です。

現在の米中、また米中露のイデオロギー対立もまた其の極めて抽象的な社會的状況にて行われる個としての判断を超越する歴史的状況です。

 

故に哲學的にはまさに其れを個の判断と壱致させてはならない訳です。

よって、其れは、最終的には、

 

社會⇔個

の対立関係、矛盾関係へと其れは還元されて行きます。

 

戦争の問題のみならず環境破壊や進歩主義に於ける諸の大問題もまた最終的には其処へと収斂して行くことでせう。

 

 

しかしながら当時の日本人にとりむしろ戦争にて「勝利」することこそが善の価値でした。

だから真珠湾米國の戦力を殺いだことこそが日本人の誇りでありまた希望でもあった。

 

問題は何故其の「悪」がかうも簡単に社會的に容認されて行くのかと云うところにこそある。

其れは社會科で云う所謂「全体主義」の問題です。

 

但し其の「全体主義」は現在むしろ拡大して居ることでせう。

無論のこと共産制による中國の全体主義と云うことがあらうが、対する米國を始めとする西側諸國の資本主義、民主主義に支えられし進歩主義もまた其の全体主義の壱形態であるに過ぎない。

 

わたくしは昔社会科に関わった者としてさうした社會的状況に嫌気がさしたつまりは其処で絶望のやうなものを感じざるを得ない。

其れはもはや社會の復元力だの歴史としての修正力だのと云う力を凌ぐことだらう大問題です。

 

 

社會⇔個

 

とのことですので、其処で社會の比重が大きくなれば必然として個は其れに隷属せざるを得ません。

また其れはどんなに個として頭脳明晰であれ才能豊かであれ関係無く其れに隷属せざるを得ません。

 

要するに其の社會の齎す圧力こそが「悪」を生み出すことの源泉ともなる。

 

其のやうにむしろ社會的推進力其のものが悪の力に満ちたものでもある。

では戦争の反対の平和を希求すれば世の中は良くなりませうや?

 

平和=繁栄=人口増大

 

 

まさに其の人口増大こそが人類にとっての本質的危機をも招きませう。

左様に理性的には何処を向いてみても實はお先は眞っ暗なのでした。

 

ですが、さうした理性的俯瞰を続けるうちにひとつだけ輝きを増すものがまた見えても参ります。

まさに其れが「宗教」だと云うことです。

 

また其の社會が齎す「悪」としての「全体主義」をさう規定し得たのはまさしく先哲による「哲學」としての業績でした。

わたくしが今何故其の壱種古めかしい西田哲學を論じて居るのかと申せば其の「宗教」と「哲學」を繋ぐものこそが他ならぬ西田哲學だからなのです。

 

西田哲學とは其の意味で時を超越し我我人類に対し常に事の眞相を語りかけて来るものだ。

 

 

南海トラフ巨大地震の災害予測 — 鎌田 浩毅 | アゴラ 言論プラットフォーム (agora-web.jp)

 

さて先の木曜日には久し振りにマイサイクリングコースー主に山崎川沿いを走るーを経巡って来たところですがパロマ瑞穂スポーツパーク | 公園MAP (nespa.or.jp)名古屋グランパスの本拠地ーの際の森の中の遊歩道の黄葉が見事でわたくしが今生きて居ることで壱番愉しいのは矢張り自然を愛で其の美に酔うことなのだなとさう改めて認識したものでした。

 

昨日は朝に神田 正輝の旅番組を視て矢張り箱根だの御殿場だのは良いなとさう思いましたが其処らは所謂観光地ですので實は行ったことがありません。

わたくしが廿代にやって居りましたのは所謂富士山巡りで要するに富士五湖巡りのやうなことを屡🚙にてして居りました。

何故か其の頃に富士山ばかりへ行って居たのです。

 

わたくしは11歳の頃にカブスカウト世界ジャンボリーの参加者に選ばれ富士山麓朝霧高原にて其れに参加したことが御座りました。

ですので其の頃の思い出が再燃したのか、何故か其の廿代後半に富士山の周りばかりを経巡っておったのです。

 

其れとわたくしの母方の祖先がかの今川 義元の家来でありよってわたくしの半分は名古屋人では無く静岡方面の人間なのです。

なのでなのか兎に角四拾歳位までは何故か静岡方面へ出向くことが多かったものです。

 

静岡は海があり山がある良いところで心と體が弱めなわたくしの保養地としてはむしろ最適でせう。

 

 

其の神田の「旅サラダ」は以前は美味いものばかりを食って観光地を経巡るだけの低俗番組だとさう思って居たのだがこのやうなご時世となった手前むしろ大変貴重なヴァーチャル旅の出来る番組として個人的には重宝させて頂いて居ります。

さらに其の後に大阪の番組で「正義のミカタ」と云う番組が流れますが此れもまた毎回熱心に視て居ります。

 

尤も最近は政治的なものには余り興味が無く、しかしながらイザ此のやうに露西亜と中國がくっついて来ますと米國はもはや其の赤勢力に対し対抗出来なくなり其のうちに世界革命が勃発し全世界が共産主義化される懸念などもあるなとさう思わずには居られません。

ま、別に其れは其れで宜しいかと思いますのですけれども。

 

相変らず金に汚い自民党政権にはほとんど興味が無くヤッパリ彼総理も所詮🐶なのだからまさに🐶のやうなことしか出来ないのだなとさう思いつつ傍観して居るばかりで御座ります。

で、問題は「正義のミカタ」の後半部で取り上げられて居た「南海トラフ地震」のことです。

 

 

さて此の「南海トラフ地震」ですが、矢張りと言うべきか日本にとっての最大の問題でせう。

緊急寄稿 首都直下・南海トラフ・富士山噴火に備える=京都大名誉教授・鎌田浩毅〈サンデー毎日〉 | 週刊エコノミスト Online (mainichi.jp)

鎌田浩毅の役に立つ地学:次は3つの震源域の連動型? 南海トラフ巨大地震が2030年代に発生する可能性が高いとされる理由 | 週刊エコノミスト Online (mainichi.jp)

 

要するに其れはコロナ禍や今後の中國の圧力以上に我が國にとり壊滅的な被害を齎すことだらう究極としての災害です。

其れは2030年頃に高い確率で起きるとされて居りますが、最近日本列島には各地にて大きな地震が相次いで起きて居ることを鑑みるとすでに何時起きてもオカシクは無い段階へと突入して居るのやもしれません。

 

で、もしも其れが今日明日起きましたなら其れこそ日本の壊滅です。

まさかと思いますが事實として其れはあり得ます。

 

 

何故なら其の「南海トラフ地震」でもって名古屋、大阪、京都、神戸などの大都市は壊滅する筈です。

おまけに東京もまたソコソコ酷く揺れませうし、また壱番怖いのが富士山の噴火が其れに誘発されることです。

 

すると其の火山灰等の噴出物にて静岡や神奈川、さらに東京も間違いなく壊滅致します。

然し此れで壱體どうしますか?

 

まあどうにもならんと云うのが正直なところです。

だからバカなことなどやって居る余裕など何処にもありません。

 

今のうちにやりたいことを全部やって置く必要が御座ります。

ですが僕はもうやりました。

 

 

社會に対し言いたいこともかうして言いました。

其のやりたい哲學もやりましたし、さらに多くの文學作品を読み絵画を鑑賞しまたベートーヴェンの全曲演奏もかの伊藤 若菜さんの講演で其の全てを聴くことが出来ました。

 

嗚呼、何て素晴らしい人生だったのだらう!

 

しかも万年筆放蕩や読書フェチ、タバコマニア、🐈との戯れ、など多くの快楽を味わい其れ即ち眞性のエピキュリアンとしてかうして生きて来られたのでした。

また學問にも首を突っ込みかうしていつも難しいことばかりを考えても来た。

 

 

其れだけでは無く宗教にさえ強いのです。

もはや人間として此れ以上を望み得ぬ程に完璧な人生を歩んで参った。

 

ですので、個人的には世界が何時壊れやうが其れは知ったことでは無い。

ですが問題は其れは世界の崩壊では無く日本の崩壊であると云う点です。

 

 

第壱皆様考えてみてご覧なされ。

東京、横浜、浜松、名古屋、京都、大阪、神戸がもし瞬間的に壊滅したら壱體どーするのですか?

 

まあ後は田舎だけが残りませう。

其の田舎の奴等には然し金が無いです。

 

金を生んで居るのは上記の都市部ばかりでのことです。

しかも東大も京大も名大も阪大も皆壊滅します。

 

すると大學教授は皆瓦礫の下敷きとなり後は田舎の爺ちゃん婆ちゃんばかりとなるのです。

其れも皆八拾以上の爺ちゃん婆ちゃんばかりなのです。

 

 

其処からしても分かることがひとつあり、其れは近代社會其のものがさうしたマイナスとしての文明の要素を見据えること無く自分のやりたいことだけに突き進む社會であると云うことだ。

其の代わりに近代的な繁栄を其処に享受し其の便益をまた快楽を只ひたすらに何処までをも求め続けて行く社會であると云うことだ。

 

さうした如何にも矛盾に満ちた近代社會にドップリ浸かった上で我我は其の近代的幸福や希望を追い求めて参りましたのですし今後もまた其れを追い求めて行かざるを得ない。

 

ですが特に此処日本國の場合は其の天変地異による大災害の勃発の虞が多分にある訳だ。

尚さうしたことをワザワザ此の師走にイチイチ論じて居る人などまず居ない訳です。

 

ですからまさにソコこそがわたくしのユニークな点なのです。

即ち常にみんなが見やうとしないところばかりを見詰め続けみんながやりたくないマイナスの要素ばかりを逐壱論じて行く訳だ。

 

 

そんなわたくしにも今夢があります。

でもわたくしの夢は常に小さく皆様のやうに文明の未来などはほぼ信じて居りません。

 

果たして其れはどんな夢か?

はい其れはまずクリスマスに教会巡りをして来ることです。

 

さらに29日にはまた大阪の蟹屋から京都の料亭道楽監修のおせちが届くのでまた其れを年末に食っちまうことです。

また其のクリスマスには鳥の丸焼きを食います。

 

お前の夢とは結局宗教と食う話ばかりではないか!

 

 

近代社會が災害にて限定を受けることは個としては實は如何ともし難いことです。

個人的には近代社會もリスク分散型の打たれ強い文明の形態へとシフトして置く必要がまたあるかと思うのだが今の近視眼的な利益追求に走る文明が其れを速やかにやれるとも思えません。

 

よって個は今のうちに自分の望みを叶えて置く方が良い。

 

尤も其の望みには其れこそ+と-の面がありませうがたとえ其れが社會にとってはマイナスの行いであれ逆に個に取り其れはプラスのことともなり得ませう。

左様に個と社會の関係は融通無碍に即ちフレキシブルに捉えて置く方が其の「全体主義」から身を守るのに大いに役立つ筈です。

 

文明は進めば進む程にむしろ高リスク化して来るものです。

其の高リスクな様と心中しない為には確固とした自己の価値観の確立がまずは急務です。

 

そんな自らの価値観の確立を成らしめる為には文明を批判し得る程に勉学を積み重ねて置かねばならない。

其の自らの価値観の確立にとり其の西田哲學こそが大きな援軍となって呉れることでせう。

 

ちなみにさうして大都市圏が壊滅すれば田舎へ首都が遷る可能性すらもが御座ります。

さうして大都市が消滅して何処ぞの地方都市が日本の首都となる可能性なども今後は高いと見て置くべきでせう。

 

いずれにせよ此の文明世界では今後何が起きるものやらまるで分かりません。

我我が安定した今を生きて居るやうに錯覚して居るのは其れは単なる文明のバイアスによる価値の洗脳に過ぎません。

「絶対矛盾的自己同壱」概念に就き考えるー四 藝術と「純粋経験」ー

哲學14

 

 

 

西田幾多郎(2)純粋経験とは何か | 哲学・教養入門ブログ (tetsugaku-life.com)

尚今回はこちらがテキストとなります。

 

御勉強の前に壱言だけ述べて置きますが眞理探究を欲する理性は喉が渇けば水を飲み腹が減れば何ぞものを食うと云う所謂生命に備わる本能と同じやうに知を欲し自らの頭脳の中身を常に磨いて行かねばなりません。

まさに其れが知的努力と云うことです。

 

其の知的努力には向き不向きもまた御座りませうが「やると決めたらやる」のがたまたま頭が良く生まれた者のまさに責務なのです。

ですが其れは例の林 修が言うやうに「今でしょ」ではなくても良くて「明日」でもまた「壱週間後」でも何時でもやれる時にやれば良いのです。

 

ですのでもう今日は止めて映画を視やうだとか、また今は哲學するのは重苦しいからまた次にやります、でもって全然構いませんのです。

 

 

さて其の「純粋経験」に就いてですが、まずはさうして藝術家の作品構築のことを述べられますと成る程そんなものかと思わざるを得ない。

尤も対象への没我も度を越すと壱種気持ちが悪くも見えるものです。

 

とは言え藝術家の直観力が並外れたものであることもまた確かなことなのでせう。

いえ直観と云うよりも直感的洞察に優れて居るのやもしれません。

 

直観と云うものは屡哲學や宗教の分野で使われますがいま少し論理的なものー言葉により規定されるものーであるやうな気もまた致します。

 

ー直観は本能とは異なっている。本能は必ずしも経験的な要素を必要としない。直観的な基礎による見解を持つ人間は、その見解に至った理由を即座に完全には説明できないかもしれない。しかしながら、人間は時間をかければ、その直観が有効である理由をより組織化して説明するべく論理の繋がりを構築することで、直観を合理的に説明できることもある。

付け加えるならば直観を前提として具体的な問題を正しく説明したり解決に導くためには多くの経験知識理解が必要でもある。

なお、日本語の直観(ちょっかん)は、仏教用語のप्रज्ञा(プラジュニャー、般若)の訳語の一つである直観智に由来する。直観智は分析的な理解である分別智に対する直接的かつ本質的な理解を指し、無分別智とも呼ばれる。ー直観 - Wikipediaより

 

此処からしても藝術的感覚は直観其れ自體よりもより感性方面に振れて居るものと思われます。

但し文學其れも小説などは文章構成が合理的に説明出来るもので無ければ意味を成しません。

 

其の点では明らかに詩の方がより直観的でありより藝術的です。

で、子供が描く絵が天才的であったとしても其れが藝術かと問われれば藝術では無い訳です。

 

直観には其の理性の力がおそらくは不可欠なのでせう。

ちなみにわたくしには其の分別智もありますが同時に無分別智の方にも長けて居ると申しますか其の直観が得意な方です。

 

 

次に作品の構築には「我に返る」部分もまた必要だと書かれて居り此の辺りは實に興味深い指摘です。

無分別智⇔分別智

 

つまりは其処に相剋し且つ相即する関係性があり其れを行ったり戻ったりせぬと藝術作品は生み出せない訳です。

ですので例えば幼児が天才的な絵を描いたにせよ其処には分別智の方での経験や知識の蓄積が常に欠けて居るので藝術作品とはなり得ぬ訳だ。

 

凡夫の分別は、主観事物との主客相対の上に成り立ち、対象区別分析するから、事実のありのままの姿の認識ではなく、主観によって組み立てられた差別相対の認識に過ぎないため、妄分別(もうふんべつ)である[2]。それによって得られる智慧である分別智(ふんべつち)も一面的な智慧でしかない[2]。それに対し、主客の対立を超えた真理を見る智慧無分別智(むふんべつち)という[2]。俗には無分別は「思慮の足りないこと」の意義で用いられるが、仏教では本来と反対の用法である[2]。ー分別 (仏教) - Wikipediaより

 

お釈迦様はかって「未だ悟りを得て居らず事の道理を知らぬ者」の意として凡夫と申されましたのですがと云うことはほぼお釈迦様以外は凡夫だと云うことでせう。

従って天才級に頭の良い奴でも悟って居ない奴は皆凡夫なのです。

 

故にたとえ偏差値が八拾もあったにせよ彼は凡夫です。

尚此処で壱番重要なことは屡世間で還暦を過ぎたオジサンなどから「君はなんて無分別なんだ。」などと若者が諭されたりもするものですが其の俗的な言葉の使い方其れ自體が實は誤りなのです。

 

より正確には無分別智に生きる者こそが其の佛の智慧ー般若智ーに生きる者のことです。

だから、「君はなんて無分別なんだ。」とは、むしろ「君は最高の智恵者である。」との意味となり逆にさうして如何にも分別のありさうな還暦を過ぎた爺の方こそが分別智ー世間の垢にまみれた小汚い常識ーに毒されたもうどうしやうも無いクソジジイのことなのです。

 

嗚呼しかも其れがまさに虚妄分別としてのまさに肥溜めのやうな単なる思い込みに過ぎぬのです。

左様に其の思慮分別とは俗世間と聖なる世界とで使い方が百八十度違う言葉なのだ。

 

 

其の対象と其れを認識する画家の心とに分裂して居るものを統合して見ることが直観なのだとすれば、確かに藝術家は凡夫は凡夫でもさうした認識がし易い種族に生まれついて居り他方で凡人ー壱般人ーは其の分裂を統合することの出来ぬ何かに圧迫され続けて居ることとなりませう。

 

わたくしから言わせて頂くとまさに其れこそが社會的に齎されて居る常識としての数々でせう。

其処にドップリと嵌り込んで居たらもはや絵も描けないわ、詩も心に浮かばぬわ、さらに酒は飲むわ👩は触るわでもはやドロドロに溶けて居るではありませぬか!

其の大事な筈の心のあり方こそが。

 

でも藝術家は逆に分別が無いので怖いのではありませんか?

まあ確かに怖い部分もまたあります。

 

其れもセザンヌとかゴッホ級の人などは實際に目の前に居ると矢張り怖いことでせう。

其れにアンタもまた怖い。

 

 

何?

壱體全體俺の何処が怖いのだ?

こんなに優しい僕の壱體何処が怖い?

 

うーん、何だかクドイ。

其れは認めます。

認めますが、かうして御勉強の最中なのでむしろ其の拒否感は捨て置いて是非前に進むべきです。

 

 

「意識と対象に分離する以前の主客未分の経験」

 

其の主客未分と云うことこそが實は佛法の上での最大の課題でもある訳です。

主客分離するから人間の認識が生じ其の認識に従い社會化が成されます。

 

まさに其れが文明を形作る訳ですが、實は主客未分であっても社會は生じたりもする。

まさに其の例が🐜や蜂の社會の様です。

 

🐜や蜂の社會と人間の社會=文明は實際に良く似て居たりも致します。

されど彼等は主客分離する形で其処に主観的な欲望ー財産所有や子孫の繁栄や不老不死ーなどを望む訳では無く只自然の摂理としての種の繁栄に対し突き動かされさうして働くだけのことです。

 

主観的な欲望は其の意味では利己的であり他方で🐜や蜂の頑張りはむしろ種の為の無私の奉仕なのやもしれません。

逆に主客分離する形で社會化すればする程にロクなことにはならないと云うのが個人的な社會に対する論理です。

 

 

凡夫の分別は、主観事物との主客相対の上に成り立ち、対象区別分析するから、事実のありのままの姿の認識ではなく、主観によって組み立てられた差別相対の認識に過ぎないため、妄分別(もうふんべつ)である[2]。それによって得られる智慧である分別智(ふんべつち)も一面的な智慧でしかない[2]分別 (仏教) - Wikipediaより

 

との理由にて佛法は其の相対認識其れ自體を否定的に捉えます。

 

主観と云う非我による認識は眞の意味での智慧による見方では無いとむしろ切って捨てる訳です。

其れもあくまで佛法の純粋な意味に於いては。

 

では眞我による認識とは何かと問えば其れは智慧による見方であり要するに其れが般若智のことです。

ですのでまさに其れがありのままの認識であり差別的相対の域を離れた眞の認識のことです。

 

 

従って佛法の要諦とはまさに其の認識上の誤謬を自ら正して行くことにこそ存して居ます。

ですので其れは何処ぞの宗祖や開祖を崇めると云うこととは全く別次元でのむしろ哲學的に齎される認識論での自己転換の課題なのです。

 

また外に向かい祈ったり願ったりすることなのでも實はありません。

外部に救いを祈り願うのであれば其れは純粋な意味での佛法とは異なる救済宗教に与することとなります。

 

ですが其れが間違って居る訳なのでもまたありません。

其れは其れとしてあくまで他力救済として成立する立派な宗教であり信仰なのですから。

 

なのではあれ佛教徒として研鑽を積み壱応は解脱の方向性を見極めたい向きには釈迦直伝での此の認識の転換こそがどんな宗祖や開祖の説よりもより重要な教えとなることでせう。

 

 

さてたとえ社會化するにせよ🐜や蜂は自然破壊を行いませんが、さうして主客分離した侭で利己的な欲の追求につい走った人間の場合はついに其れをやっちまいました。

尤も其れはお釈迦様ばかりでは無くイエス様もやってはイカンとさうハッキリと仰せでのことでした。

 

ところが文明の中で宗教もまた社會化致しますれば、まさに其れに伴い宗教としての癖や欲が逆に生じて仕舞い其の宗教さえもがまたついに其れをやっちまいました。

つまりは無暗に勢力を拡げ闇雲に教祖や宗祖を崇めること、また凡夫にも分かり易いやうに兎に角像だの仏壇だの墓だのに願いを捧げ現世利益を只ひたすらに追い求めて参ったのです。

 

すると情けないことにお釈迦様やイエス様の純粋なる志が次第に壊れ且つ薄れ逆に其処に居座ったのが凡人である弟子達の身勝手なる宗教解釈だったのです。

まあ其れでも佛教はいまだ佛教ですしキリスト教はいまだキリスト教です。

 

其れも滅びかかっては居りませうがいまだ滅んでは居りませぬ。

どっこい死んでも死なぬのが其の信仰だと云うことでせう。

 

 

で、西田哲學は壱體どうなったのだ?

 

あれすみません、いつのまにやら比較宗教史のお話となって居りました。

さてテキストの方では論者の方が「直接経験」の哲學のことを論じられて居ます。

 

フッサールの現象學やハイデガーの哲學は西田哲學との関連性が確かに認められます。

ですが個人的にかって影響を受けたのはベルグソンの哲學でした。

 

ベルグソンはまさに天才級の理系の知性の持ち主でしたが哲學者となった変わった人でした。

ベルグソンの「エラン・ヴィタール」なる創造的進化説にはかって心酔して居たものです。アンリ・ベルクソンの 「エラン・ヴィタール = 生命の飛躍」 (No.1788 13/09/19) : ミネルバのフクロウ (exblog.jp)

 

哲學には所謂「生の哲学 - Wikipedia」なる分野がありベルクソンこそが其の代表格です。

19世紀以後の生物学革命、とりわけ進化論に呼応しつつ、生まれた哲学的潮流をいう。その特徴は、「生」「生命」を強調して、抽象的、観念的合理性に対して批判的な姿勢をとることである[1]生の哲学において、「生」は、科学的知性や理性では捉えきれない根底的、全体的なものとして強調される[1]。また、抽象的な知性や理性が捉える不動性よりも、生のうちに見られる具体性や生成、運動が優位だとされる[1]。さらに、根底的、動的、具体的な生に即したものとして、単なる知的な理解ではなく、直観、意志、情動、体験などが強調される[1]生の哲学 - Wikipediaより

 

其の抽象的、観念的合理性に関して批判的な姿勢とのことであれば養老 孟司先生の考え方などもまた其の範疇に属するのやもしれません。

つまりは兎に角生命現象は合理的判断によるものでは無いと云うより動的な生命解釈を其処に打ち出して居りまさに直観重視での認識論を其処に展開されて居る訳です。

 

ですが、西田哲學は矢張りと云うべきか佛教哲學其れも禅宗との関連性が色濃く見て取れます。

禅宗こそがまさに其の認識の無分別化を目指さうとする釈迦の佛法により近い論理形式ー脱論理形式ーを旨とする宗派です。

 

其の論理的であることは人間でありかうして文明を形作る以上は重要ですがむしろ其処に拘れば拘る程に人間の生としての具體的側面が圧迫され生き苦しくなって来ることもまた事實です。

また眞理探究の面からも實は論理構成だけでは其れには到達出来ないことをすでに廿世紀に人間は學んで来て居る筈です。

 

眞理は追い求めれば求める程に遠ざかりまた壱歩誤れば破壊を生じせしめると云う危ういバランスの上に築かれるまさに幻の楼閣のやうなものなのやもしれません。

其れでも尚理性は其れを欲して止まずかうして我我は「考える」ことから解放されることがありません。

 

故に人間にとっての最大の欲望とはむしろ其の知的好奇心であるのやもしれません。

「絶対矛盾的自己同壱」概念に就き考えるー参 西田 幾多郎による相対認識による分別智ー合理化ーへの批判ー

哲學13

 

 

 

 

AI支配でヒトは死ぬ。 ―システムから外れ、自分の身体で考える― | 養老 孟司 |本 | 通販 | Amazon

 

養老先生は御年を召してもかうして常に社會の常識と闘われて居る。

何が尊いかと言って其の理性的態度程尊敬に値することは他にありません。

 

常識にドップリ浸かるとむしろ眞實ー事の眞相ーを見失い易い。

だから批判とはつまりはさうした部分からこそ行われるものだ。

つまりは眞實を守る為にこそ行われるべきことだ。

 

 

哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない。 | きょうのことば | 読むページ | 大谷大学 (otani.ac.jp)

 

我の理解では其の人生の悲哀に気付くことこそが宗教的見地です。

西田哲學は所謂合理主義では無く確かに其の悲哀の面への傾斜などもあるものかと思われる。

 

其れはまるで壱種の感性論ですがあくまで哲學ですので所謂感情論とは違う訳です。

其の哲學と云うものを世人が嫌い易いのは其れが感情論とは対極に位置するものだからです。

故に特に🚺に取り其れは理解し難いものであることが多い。

 

割合として🚺は實感の方に振れて居ますので必然としてさう成らざるを得ない。

尤も僕もまた其の感性人間ですので論理だけを生きて居る訳では決して無い。

 

ですので、ほんたうは其の両方が必要となります。

即ち、

感性⇔論理ー感ずることと考えることは常に相剋し且つ相即するー

です。

西田哲學はむしろ其の両方を繋ぐ役割をすることであらう脱論理からの哲學理論です。

 

 

さて其の西田 幾多郎の「絶対矛盾的自己同壱」の原文の方を読みますと矢張りと言うべきか可成に難解です。

元々難解な概念を組み合わせた上で難解な哲學的構築がなされて行くのでより難解となる訳だ。

 

尤も個人的には難解なものがむしろ好きなわたくしは逆に西田哲學に対しある種の親しみ易さを感じないでもありません。

 

さて上で仰るやうに矛盾に満ちた世を認めしかも其れを熟知した上で勇気を持って生きるより他に我我は術を持たない。

しかも最終的に其れは個の認識、個としての判断力に背負わされて来るものです。

尤も社會は逆に足を引っ張りますが其れにも耐え養老先生の如くに死ぬまで闘い続けると云うのがまさに人間として此の世に生まれたことの本義なのではなからうか。

 

 

其れでは今回はむしろ分かり易く解説された「絶対矛盾的自己同壱」に関するブログの内容をテキストとして其れを學んで行ってみませう。

 

 

西田幾多郎(1)西田哲学を学ぶ準備~二元論の問題 | 哲学・教養入門ブログ (tetsugaku-life.com)

 

1.主客弐元論

 

主体⇔客体

表象⇔物體

唯物論⇔唯心論

 

上ではまず弐元論の克服の問題が語られますがまさに鋭い着眼点です。

弐元論は人間が古来より行って来た概念的な事象に関する整理法でよって古いと言えば古い考え方ですが實は其れこそが近代を規定する考えなのでもまたある。

 

進化⇔進歩

進化と進歩は違い文明をやる人間は進歩しますが文明を持たぬ動物は只進化だけをします。

即ち近代とは其の進歩史観の確立のことなのです。

 

また宗教などもまた概ね其の弐元論の形を取ります。

 

壱神教⇔多神教

自力救済⇔他力救済

などのやうに。

 

また例えば他力救済の宗教では壱元化論ー壱神教や大乗各派ーが出て来ますが例えばキリスト教では神⇔👿、また大乗佛法では佛⇔魔ーマーラーと云うやうに其の大元では結局弐元論の形が取られて居ます。

さらに現實的にも、

 

貧乏⇔金持ち

👨⇔👩

利口⇔馬鹿

 

と云うやうに此の世の性質は弐種に分離され把握されることがほとんどです。

其れの亜流として参種や四種に分離され把握されることなども可能ですがあくまで基本は弐元的要素に於ける対立こそが矛盾を引き起こす訳だ。

 

で、わたくし自身の考え方もまた其の弐元性を基に組み上げられたものです。

ですが同時に其処で対立関係を脱論理化し「止揚」して行く訳だ。

 

 

まさに其れが西田哲學と同様の手法だと云うことで、ですが其れは西田哲學から我が學んだものなのでは無く私自身が實体験として積み重ねて来た矛盾苦よりわたくし自身が生み出して来た論理ー脱論理ーであった訳です。

但し其れには独學にて學んだ原始佛教から大きく示唆を受けたであらうことはまず間違い無いことです。

 

また原始佛教と対になる形での大乗佛教からも大いに示唆を受けて来ても居る。

いやむしろ大乗各派の教えが無ければ其の脱論理的展開など成り得ませんでした。

 

さて問題は、其の弐元的相対認識からは論理的に矛盾が必然として齎されると云う事實です。

事實と云うことはあくまで現實的にはさうなりますと云うことです。

 

 

進化⇔進歩

 

例えば今人類ー文明ーはまさに此の弐元論の齎す矛盾の故に存続の危機に立たされて居ます。

其れもあくまで事實と云うことですのであくまで現實的にはさうなります。

 

最終的には其の矛盾律にやられて其の弐元的関係其れ自體が崩壊せざるを得ないと云うことです。

其れも、

進化⇔進歩

と云う弐元的相対認識を取る限りはです。

 

まさに其れが文明規模での大問題だと云うことです。

 

ですが、其れはむしろ認識論の問題であるとわたくしは捉えて来て居ます。

何故ならお釈迦様もキリスト様も共に「人類の認識は間違って居る」とさう述べられたからなのでした。

 

「悔い改めよ 神の國の到来は近い」

「そも四顛倒にておまえらの認識は狂ってる」

 

とさう仰せになりましたものですから其処は矢張りと言いますべきか神や佛が間違いなのでは無く我我人間自身の認識が間違って居るのでせう。

 

 

で、問題なのは最終的に其の弐元論が破壊を生み出して仕舞うと云う力學が其処に強く働くであらう部分です。

かって其の破壊をこそ直観したわたくしは其の破壊を阻止せんが為に人間が「目覚める」為のブログをかうして展開して参りました。

 

さうして佛教もまたキリスト教もさらに西田哲學も全ては其の「目覚め」に直結する要素であり謂わば文明其れ自體と闘う為の武器即ち法具のやうなものなのだった。

其の破壊へと連なる弐元的相対認識との闘いの様、其の理性的闘争の様をひとつのノンフィクション文學として表したのが此処での内容の全てです。

 

 

さて其の所謂「クオリア」の問題ですが其れが實は大問題です。

かって私も其れを考えたことがありました。

 

例えば「色其のものの色合いを論理的には規定出来ない」と云うことがあります。

其れは私がかうして感じて居る靑や赤は他人が感じて居る靑や赤の真逆となって居る可能性もまたあると云うことです。

 

さらに以前も申しましたが、「右手を上げて鏡に映る自分の姿は何故か左手を上げて居る」などと云う不可思議な命題なども御座ります。

此れなども明らかに論理的には辻褄が合わぬこと即ち矛盾して居ることだ。

 

かうして矛盾して居るのにも関わらず其処にはしかと其れがある。

と云うことこそが世の實相です。

 

しかしながら、其の相対認識が生じさせる矛盾を放置して置けば其処では矛盾がさらに矛盾を生み結局破壊へと至らしめる訳だ。

 

 

2.意識のハード・プロブレム

 

心的現象⇔物理現象=霊肉弐元論=霊⇔肉體

 

此の対置された認識ですと互いとしての要素を他方へ還元し得ず結局其処には矛盾だけが残り其れが時間の経過と共に増大し其の関係性其れ自體が破壊されるに至る。

要するに「意識」の問題は物理的には還元出来ず且つ物理現象は心的現象に還元し得ないー論理化することが出来ないー。

 

即ち此の関係性に於いても其の弐元論自體に矛盾が生じ論理的には解決不能に陥る訳です。

論理的には解決不能であれば最終的には其れが矛盾を孕まざるを得ないと云うこととなる。

 

 

3.唯物論の限界

 

唯物論⇔唯心論=物質主義⇔精神論

 

其の唯物論とは相対認識に基づき人間の生の目的を物質的に定量化し幸福の目的を其れを充たすことに求めたものです。

所謂資本主義にせよまた共産主義にせよ其の唯物論の壱形態です。

 

また民主主義など近代社會を組み上げる政治的原理なども其の唯物論の壱形態だと考えられる。

即ち近代と云うシステム其のものが其の唯物的にこそ与えられたものなのだ。

 

其の近代システムの枠内では主に合理性こそが重視される訳です。

合理性即ち合論理性のことです。

合理性はされど「意識」即ち「心」の課題を置き去りにして進むことが多い。

 

例えば現在我が國が抱える問題としては労働環境が派遣化されたり壱方で投資をやり自己資金を稼げだのと云った悪しき政策にて日本人の心のあり方がズタズタに引き裂かれつつある事實などがある。

ですので其れを逆に合理的に問えば、其れはあくまで政府が國として國民の面倒を見ることを止めるつまりは合理化したからこそさうなったのです。

 

ですので逆に合理的に義務を果たして居ないのは國民では無く政府であり國であり國會議員なのです。

 

いやそんな政治のことを語り出すと大事な哲學のお話が台無しとなりませうからもう止めて置きませう。

兎に角さうして理詰めでもって世の中の全てを回そうとすると社會システム其のものに矛盾が生じ挙句に國が壊れて行くことにもなりかねません。

 

 

さて、其の「實在性」に関してですが、

心的現象⇔物理現象より、

 

唯物論=物理現象→心的現象

であり、また、

 

唯心論=心的現象→物理現象

との理解がテキストには出て居りますが、

 

私が考えるところでの「實在性」とはあくまで現象界には備わらないものです。

 

と申しますか、

唯物論⇔唯心論

と云う区別ー限定ー自體が相対分離されたものであると云うことで従って其れはむしろ「實在性」を欠く妄執的認識により引き起こされて居る虚妄の世界であり価値観とならざるを得ない。

 

よって認識としてはあくまで「主客未分化」としての「純粋経験」の方をより重視せねばなりません。

其の「純粋経験」とは或は直観的解釈、直観的認識とも密接に結び付いて居ることでせう。

 

佛法に於ける相対分別の抹消ー分別智の抹消ーに於ける知のあり方、認識のあり方こそが其の直観的認識なのであり其れが所謂般若智のことなのだと思われる。

 

 

佛法は左様に人間の認識の形式其れ自體をまずは否定的に扱います。

故に其の唯物的思考に洗脳されて来た人間に対し其れとの相性はほぼ最悪でもありませう。

 

まさに其処こそが佛法が現代の日本人に対し精神的に浸透して行かない理由ともなって居る。

要するにお釈迦様はまさに合理的な思考をなされた方でしたが分別智の抹消と云うことを説かれたことでまさに近代の思考システム其れ自體を結果的に否定された訳だ。

其の否定に対し近代教育を受けた合理化人間達にはとても我慢がならないと云うことなのだと思う。

 

個人的には其の合理化は社會に対してはむしろ必要不可欠なことなのだと思う。

従って宗教もまた社會を形成する要素である手前宗教の合理化もまた今後は図られて然るべきなのではあるまいか。

 

其の西田 幾多郎の云う「純粋経験」の世界とは言わば合理性を選び取る以前での認識のあり方であり佛法で云うところでの無分別智の世界、相対分別以前の所謂「あるがまま」に保たれた侭での認識世界のことかと思われる。

其れであるが故に西田哲學はむしろ思い切り世俗の認識を離れて行きます。

 

また其の無分別智の構築こそが眞我の形成と連なるものでつまりは其れが「目覚め」への契機となるものでせう。

「絶対矛盾的自己同壱」概念に就き考えるー弐 罪深く且つ欲深い我我人間の實相とはー

哲學12

 

 

 

 

ーあらゆる罪や煩悩を背負っている有限な人間と、人間を超越した神や仏といった無限な存在は、互いに異質でありながら本質的に結び付いているという関係を、この概念で言い表しました。わかりにくいかもしれませんが、いかにしても救われない人間がいて、初めて神や仏が存在する、つまりその求めに応じるのが神や仏だという意味です。この関係を、西田は絶対矛盾的自己同一という言葉で言い表しました。後期には、西田は世界の論理的構造を問題にしましたが、それもこの絶対矛盾的自己同一という表現で言い表しました。ーわかりたい人のための西田哲学入門 | DiamondQuarterly | ダイヤモンド・オンラインより

 

其の有限であり且つ異質なものが結び付かざるを得ないー罪深く煩悩まみれのー人間の實相をむしろ見ない者がほとんどであることこそが世界に於ける最大の矛盾であるつまりはまさに其れが問題です。

そもそんな救われ難い自らであるのに其れを自覚して居ないのが大多数の人間であると云うことです。

 

但し人間の中にはまた其れを自覚して居るー何とか自覚することが出来たー人人もまた居ます。

そんな人人に取り問題なのはむしろ其の自身としての自覚では無く周りの無自覚のことでせう。

 

なんですが、其の無自覚と己の自覚が相互に関連し合い別ものでは無いことこそがそんな感度の良い人人にとっての「悩み」です。

即ち自ら考えられる人人の悩みはむしろ自ら考えられぬ人人の悩みとはさうしてまた逆方向へと振れる訳だ。

 

 

さてもわたくしは壱貫して其の理性や悟性がある人人に対しものを述べて来たつもりです。

 

で、何故神や佛が居なければならぬのかと申せば其れ即ち人間が左様に罪深く煩悩まみれであると云う事實から導かれる当然の結論です。

さうださうして人間に対しての神や佛が其処におわすのだ。

 

尤も🐕や🐈や🐻や🐗や🐒にとっては自然の摂理こそが其の神であり佛なんです。

ですから彼等は其の自然の摂理からはみ出るやうな行いをついぞしたことなどは無い。

 

 

ですが罪深く煩悩まみれの人間共だけが常に自然の摂理からあえてはみ出て生きねばなりません。

まさにソコのところを感度の良い人人は思い悩む訳だ。

 

よりによりかうして何で僕は人間になってますか?

 

ですが、其れはあくまで藝術家級、宗教家級の悩みですのでおそらく多くの方方はそんなことまでまさか悩んでみたことなど無いのやもしれません。

また理系の科学者などであれ心ある研究者はまさに此のことにこそ心を痛められて居ることだらう。

 

但し其れも常に少数派であることでせう。

 

さうして本質的には違うものが逆に本質的に結び付くと云う脱論理的論理をおそらくは世界で唯壱述べたのがかの西田 幾多郎による哲學です。

ー同様な意味合いのことを違う表現で述べた例もまた数例ある。屡我が述べる「相剋し且つ相即する」関係性などもまた其れに含まれることだらう。ー

 

個人的に哲學とは其の人間の矛盾律つまりは自己矛盾の様を如何に超克して行くかと云う観念的闘争なのだと思う。

そんな観念的闘争ですので其れには向き不向きがありわたくしのやうに其れが大得意な人も居れば全く向いて居ない人もまた居られる訳です。

 

 

ですが別に観念的闘争が出来るからと言って偉い訳でもまた解脱に向いて居る訳でもありません。

例えば佛法ではさうした類の独覚のタイプの人はむしろ悟れないなどとも語られて居ます。

 

特に大乗佛法ではまずは「他己」を大事にしないとイケナイのでさうして自分で悟って其の城に籠るタイプの人はむしろ謗法者なのです。

だから昔はわたくしも元々自分はこんなに理窟っぽいから悟れないのだとさう思い込み自分はダメだダメだとさう自分を卑下ばかりして居りましたものでしたが其の後原始佛教を學んでみたところ案外お釈迦様は「自己を大事にし独りで歩め」などと説かれても居られますので逆に大乗佛教への不信感が増して行ったりもしたものでした。

 

ほんたうのほんたうは其の「他己」を大事にして行くのは他力での救済宗教としての特質です。

ですが日本の大乗佛教はまさに其の他力での救済宗教ですので本質的には其れはキリスト教的だと云うことでもある。

 

対して禅宗だけが釈迦による自力救済の方に近いものと思われますがより正確には其れもまだ結論付けられません。

 

さてそも何故西田哲學でもって宗教の話が出て来るのかと云うことですが大昔の宗教はほぼ哲學であり教祖、開祖はズバリ思想家のことでもありました。

其れもまだ所謂世界宗教が成立して居ない段階での話ですので其処では所謂宗教団体としての諸の掟などよりも其の教祖、開祖の思想性の方がより大事であった訳です。

 

即ち現在ー現代ーよりも思想と宗教の区別が曖昧でもあった訳です。

 

 

ー私たちの世界は、「時間」と「空間」から成り立っています。過去から現在を通り、未来へと流れていくのが時間です。他方、空間は現在において成立しますが、その中には過去的な要素も未来的な要素も詰まっています。その間に生じる矛盾が動因となって、現在が動いていきます。この時間と空間という対立するものが、対立したまま同時に一つに結び付いているという世界の構造についても、西田は絶対矛盾的自己同一という言葉で表現したのです。ーわかりたい人のための西田哲学入門 | DiamondQuarterly | ダイヤモンド・オンラインより

 

其の「時空」を認識して居るのはおそらく人間だけです。

尤も頭の良い🐒なども少しは感じ取れるのやもしれないが動物はまた植物はおそらくは意識的に時空を認識して居る訳では無いことだらう。

 

かってわたくしは其れを分離度の低い認識ー壱義的認識ーであると捉え、対する人間の認識は其の認識をさらに分離させた弐義的認識であるとさう結論付けて居ます。

ちなみにさうしたことを机上にて考えるのでは無く森歩きをしつつ考える訳です。

わたくしはさうした哲學的な山歩きを何より好む人間です。

 

で、そんな私の直観によれば時間も空間も結局は分離です。

其れも弐義的認識による分離だと云うことです。

 

 

時間⇔空間

尤も其の時間と空間其れ自體もまた弐元分離して居ます。

で、私の解釈によれば其れもまた相剋し且つ相即する関係性の上に成り立って居る。

 

其の相剋し且つ相即する関係性が俯瞰され得るのは確かに現在を置いてより他に無い。

其の意味では現在無くば過去と未来もまた無い訳だ。

 

動物達は壱見「今だけ」を生きて居るやうに見えるが厳密には其処にはさうして分離された時間など認識されて居りません。

あくまで其れは自然の摂理としての与えられた時空であり自らが認識し得たところでの概念的時間や概念的空間とはまた異なるものです。

 

 

対して人間の理性は時空を其処であえてさうして分離的に見て居る訳です。

其れが良いか悪いかと云う問題なのでは無く事實さう見る癖を有して居ると云うことだ。ー宗教的にはむしろ其れが罪深く煩悩まみれだと云うこととならざるを得ない、善であるかまたは悪であるかと云うこととはまた別として。ー

 

其の「絶対矛盾的自己同壱」なる概念はさうした意味での弐義的認識に対する實相として提起されたものであることでせう。

然し自然界にもまた其れが適用されぬとも限らない。

 

何故なら自然は概念として分離されては居ませんがあくまで現象としては分離されて居ます。

故に自然へと人間が戻れば即幸せになれるかと言えば決してさうでは無い。

 

第壱其の食うか食われるかの自然でもってもしみんなが食われて仕舞ったなら其れはまさに人権もクソも無い血まみれの恐怖映画でのことです。

故に人間とは其の侭では神佛とは合壱出来ずさらに動物界へも戻れないと云うまさにとんでも無く孤立した現象のことだらう。

 

まあ藝術家ならばそんなこと位は百も承知なのですが。

まあ宗教家ならばそんなこと位は百も承知なのですが。

 

 

ー社会や組織において必ず生じる「全体」と「個」との関係についても、西田は絶対矛盾的自己同一で説明しています。全体と個とはそれぞれ独立していますが、各々の個が十分な力を発揮するには全体や自分以外の個の存在が不可欠です。他方、各々の個が力を発揮するからこそ全体が成り立ちます。組織と組織メンバーと言い換えてもよいでしょう。これも絶対矛盾的自己同一といえます。ーわかりたい人のための西田哲学入門 | DiamondQuarterly | ダイヤモンド・オンラインより

 

社會⇔個

全体⇔部分

社會科的に申せば、社會が個を搾取し過ぎてもまた個が社會を否定し過ぎても文明の持続可能性が著しく低下して仕舞う。

 

全体と部分はさうして相剋し且つ相即する関係にあるが故に是非お互いに大事にして行かねばならない。

ですが近代社會は壱見其れをやって居さうで居てまるでやれては居ないです。

 

やれて居ないので破壊を生み出し例えば今年は北海道で海の幸が獲れなくなったりもする。

其の温暖化や環境破壊の問題とは實は即さうして個の生活へと響く問題です。

 

 

ですから、個として究極的には、

1.社會を遮断する

2.勉強する

かのどちらかの選択となります。

 

尤も悲観文人の我は2.はもうやり終えましたので還暦を過ぎてからかうして社會を捨て去ることと致しました。

但し厳密には私は世界の諸を愛して居り否定に傾いて居るのは現代社會の価値ヒエラルキーのみのことだ。

 

さう綺麗ごとのやうにお互いを大事にすると言ってもあくまで其れは理想論であり事實上現在五拾歳以下の世代は自民党政権により搾取され未来に希望が持てぬ状況ともなりつつある。

ですが、他の國などではもっともっと酷い状況です。

 

だが日本の場合はかうして美味い飯がまずは食えますよ。

またたとえ金が無くても大都市圏の教會などでは🍱が配られたりもして居ります。

ちなみにわたくしはアノ困った方方に配られる🍱をどうしても食ってみたい。

 

市内でもって探して是非其れを貰いに行きたいのです。

アンタそんなではもはやルンペン並だぞ。

いいや藝術家とは元々其の浮浪者のやうなものだよ。

 

 

ー西洋的合理主義は、「AはAである」という同一律、「Aは非Aであることはない」という矛盾律、「Aと非A以外はない」という排中律、これらの論理原則の上に成り立っており、AかBかという二分法ですべてを説明しようとします。しかし、現実の世界の中には、それでは説明し切れないことがたくさんあります。

 たとえば、卑近な例で言えば、ワークライフバランスの場合、どちらが重要かで割り切ることはできません。仕事が大切な時もあれば、私生活が大切な時もあります。その時その時の状況に応じて、私たちは判断していくわけです。西田は、形式的な論理よりも、このような現実の姿に注目しました。ーわかりたい人のための西田哲学入門 | DiamondQuarterly | ダイヤモンド・オンラインより

 

わたくしが現代の合理化社會を飽きもせず批判して来た其の根拠となるものが其の「割り切れない」現實としての社會の成り立ちにこそある。

 

現實とはかうしたどうにもならないやうなものでよもや理想でも無ければおまけに希望でも無くさらに欲深く罪深いだけでのものだ。

故に其の實相をこそしかと見詰めるべき。

 

要するに具体的な生とは抽象化しては語れない實存的現象のことなのだ。

故に野垂れ死ぬことを回避する為の實存的努力が大金持ちが大金を維持する為に行う努力よりも賤しいと云うことは無いのである。

 

其れを逆に価値ヒエラルキー化するからこそ社會がバランス良く機能しなくなる。

さうして常に事實上其の形式的論理よりも個に突き付けられるものはまずは生きるか死ぬかである。

 

即ちあくまで具象的に此の闘争の場に生み落とされて仕舞って居るのだ。

であるが故に合理化よりも何よりも遥か以前に個としての生命を守らずして社會の意義など何処にも無い。

 

 

ー人間の意識の働きは身体の働きに影響されていますから、心と身体を分けて考える二分法のほうがおかしい。まさに心身一如なのです。ただし、一如といっても、西田は相矛盾する面を見落とすことはありませんでした。両者が完全に一体化しているわけではなく、身体は身体で、心は心で、それぞれに働いている局面がある、しかし両者は根本のところで結び付いている、と西田は考えました。ーわかりたい人のための西田哲学入門 | DiamondQuarterly | ダイヤモンド・オンラインより

 

即ち、

心身一如=心と體は相剋し且つ相即すると云うことなのだらう。=心⇔體

 

然し元より其れが無関係のものではあり得無い。

より正確には心と體は現象にこそ宿るもので其の現象以外のものに心と體は生じず。

 

尤も霊肉弐元の場合にも其れは同じで、其の霊肉弐元は現世に於けることに限られると見るのが個人的な理解である。

 

 

善の研究』の解説部より

 

善の研究』にて西田 幾多郎は「永遠の眞生命」を得る為の道筋を示すのが宗教の意義だと述べたさうだ。

 

其の「永遠の眞生命」を得る為の方法論は矢張りと言うべきか自力救済と他力救済とに分かれることだらう。

或はキリスト教徒の方で誤解されて居るかもしれぬのだが佛法もまた「永遠の眞生命」を得る為の方法論の壱つであることは確かである。

 

但し其れは来たる世ー次の世ーで再生されると云うことでは無く弐度と再生されぬやうに自らの力ー己が佛の力ーにて現象其れ自體を止めると云うことである。

其の佛の力にて再生することが無ければ逆に「永遠の眞生命」が其処に得られやう。

 

ところが其れはあくまでお釈迦様の佛法での話で大乗各派はまた其れとは異なる他力救済論を編み出して行った訳だ。

とは言えあくまで其れは悟りへのプロセスとしての話で最終的には大乗佛教もまた現象の消去を目指して行くこととなる。

 

 

神に生きる⇔佛に生きる

と云う其の壱神教と無神論である佛教との関係性にもまた相剋し且つ相即する関係が見出されやう。

 

つまるところ個人的には其れが無関係では無いと見て居る。

ところが、

 

神に生きる=神の國ー次の世ーで再生する⇔佛に生きる=どんな世界からも消え去る

 

でもまたある訳だ。

ですが、其の命の有る無しに関わらず結果的に其処で「永遠の価値」を得るのである。

 

で、其れこそ厳密な意味での「永遠の命」とはむしろ「命では無い」ことであらう。

 

何故なら其れこそ神の國でもなければ肉體は劣化しまた心は惑い易いものなのだから。

つまりは「永遠の価値」を生じせしめることで其の完璧度に於いてお釈迦様が説かれた人間の消去法以上のものは無い。

 

但し神の國での再生の方も論理的にはおかしくは無くむしろ正しいのだと言える。

故に實はどちらも正しいのである。

其れも「永遠の命」を得ることに関してはどちらも正解である。

 

 

但し大乗各派の論理構造は純粋な佛説では無いが故に多多矛盾が生じて来るのだとは思う。

 

例えば浄土眞宗の家の人は或は「念仏を唱え極楽浄土へ行き其処で阿弥陀佛に護られ永遠に生きる」などと思い込み易いのだが實は其れではまるでキリスト教での話である。

まあ他にも色々とあるが余り言うと皆様気分が悪くならうから此れ位にして置きますが兎に角さうして大乗各派は壱神教化しても居りお釈迦様の佛法とはそも宗教としての質が異なる。

 

そんな訳で其の西田の言う「永遠の眞生命」こそが宗教の意義であると論じられた部分は全くに正しくまさに其の通りでのことなのだ。

但し我の理解では其の方法其れ自體がそも分離されて居ると云うことなのだ。

「より真実に、より深い知に達する喜びのため」の絵画作品ーかってセザンヌが描いた眞実の絵ー

絵画5

 

 

 

Amazon.co.jp: セザンヌと過ごした時間を観る | Prime Video

 

此の程こちらを視聴しましたがとても良く出来た藝術ドラマに仕上がって居ると思いました。

個人的にはセザンヌに対し大きく興味がある訳では無いのだが彼が大変強い個性の持ち主であったことを其処に初めて知ることが出来た。

 

此のドラマでは個性的な画家であるセザンヌと文豪エミール・ゾラとの生涯に亘る藝術家同士としての友情が随分と掘り下げた形で描かれて居た。

其の藝術家同士の友情だのまた恋愛だの、さうしたものはまさに通常の人間関係以上に難しいものがある。

 

何故なら彼等は等しくオンリーワンでの境地を生きて居る人間なので決まって其処に価値観の違いがぶつかり合い火花を散らす羽目に陥るからなのだ。

また其れはかのゴッホとゴーガンの場合などもまさに其の通りでのことなのであった。

 

藝術家は等しくそんなひとつきりでの自我を生きて居ざるを得ない。

 

 

其れは大衆の生き様とはまるで正反対での生き様なのだ。

何故ならみんなは普通其のみんなで居る事に安心感を覚えたりもすることだらう。

 

さうして其の逆に孤独を怖れる。

しかしながら藝術家の心性のあり方は其れとはまるで逆なのだ。

 

彼はさうしてみんなでもって生きることをむしろ拒否してさえ居る。

其れはみんなでもって生きると決して己の個性が発揮されぬからなのだ。

 

 

僕自身が幸か不幸かそんな心性の持ち主なので其の事はまさに痛い程に分かる。

でもって私自身はむしろそんな生き方がイヤである。

 

此の内面的に沈潜し易い心の性質がイヤと云えばイヤである。

ところがまた其処にも大きくプライドのやうなものがありみんなが出来ないことをやってやるのだと云う根拠の無い自信のやうなものにもまた突き動かされるものだから余計に始末が悪い。

 

但しわたくしにはそんな藝術家達の気持ちがまさに痛い程に分かる訳だ。

 

 

セザンヌはかうして若い頃より目付きが悪いと申しますかとてもきつい眼差しをして居ます。ポール・セザンヌ - Wikipedia

 

其の目付きの悪いのは暴力団員であるとかさうした悪の類の世界のものでは無くおそらくは眞理探究に壱途な余りに自然とさうした目となって仕舞うことでせう。

また環境活動家としてのグレタさんの目付きなどもきついと申しますか眞實を訴えるかの如き強い眼差しをして居ります。

 

セザンヌはまずさうして藝術的洞察に優れ其れによる眞理探究に嘘がつけないやうな眞っ直ぐな人であったことでせう。

 

 

尚藝術家は所謂上品な理性世界を生きる人だと普通人は思う筈ですが其れは正確にはさうではありません。

より正確には彼等は、

 

上品ー美ー⇔下品ー醜ーの両方を行ったり来たりする者のことです。

勿論俗人の場合にも其れはありませうが、藝術家に限り其の幅が並外れて大きいと思って頂くと分かり易いことかと存じます。

 

上品ー美ー→其処に藝術作品が生まれ至極理性的且つジェントルな世界解釈ー丁寧な世界解釈ーが其処になされる

下品ー醜ー粗野な言葉遣いを好んでなしまるで👿の如くに振る舞ったりもする

 

此の分裂の幅が大きくなるのが藝術家の心性なのだとさう思って頂きたい。

ですのでキチ外=異常者にも近くなる代わりにまた壱面では高い境地の世界ー所謂神佛とはまた方向性の違う高度な感度の世界ーを體現する者のことです。

 

つまりは其れは、

上⇔下

右⇔左

善⇔悪

と云うやうに振幅がより大きく見られ且つ考えられると云うことだ。

 

 

セザンヌは非常に気難しい人間でした。印象派の画家の中でピサロという画家がいますが彼が人格者であったことを示すエピソードに「唯一セザンヌとコミュニケーションがとれる人」と評されています。

多くの印象派のメンバーがパリで生活をしてお互いに交流をするなかで、パリに住むことなく故郷のエクスに戻りアトリエに籠もって絵を描きながらひっそりとした隠遁生活を送っていました。

ーどうしてかわからないが、セザンヌを殺したいほど嫌っている一派がいた。その内の一人がセザンヌを見つけると「こんな画家は銃殺しろ」など大声で叫びセザンヌをあざ笑った。

さらに街中で声を掛けられるとセザンヌはそういった人達が自分を迫害すると信じ込んでおり、尾行されていると勘違いした。そして逃げるように自分のアトリエ駆け込み家中のドアを閉め鍵を掛けた。そして自分がなぜみんなから敵意を持たれるのかと自分自身に問いかけたーゴッホとセザンヌ ~超絶嫌われ者の画家達~ | Historiai (histori-ai.net)より

 

藝術家には変人が多いものと相場は決まって居りますが此処まで来ますとほとんどキチ外並です。

其れでも性欲が強いものだから奥さんらしき者ー内縁の妻か?ーは居る訳です。

 

其の被害妄想のやうなものはかの漱石にもあり彼もまたほとんどキチ外並のことを述べたりもして居りますので常識人が其れを聞くとまさか理解出来ない訳です。

ですが藝術家からすれば感度の悪い常識人の側の方こそがむしろキチ外に近い訳なのだ。

 

セザンヌゴッホは確かに藝術家の中でも其のキチ外度では双璧なのやもしれません。

其の気難しいと云うのはなかなか説明しにくいのではありますが要するに藝術的自我が肥大化して居て其れに触るもの悉くが気に入らないやうな感じでせうか。

 

だから、

すぐに「此の敏感な僕に触るな!」

となるのです。

 

でもってセザンヌがさうしてキチ外度が強い訳でおまけに目付きの方も何やら怖いので都會ではまともな市民生活が出来ず結局生まれ育った田舎へ逃げて行く訳です。

 

 

ちなみに同じく隠遁したいわたくしのキチ外度はまだまだヒヨッコ並なのですが其れでも周囲との軋轢は多い方で「僕に触るな!」と癇癪を起すことなどもまた屡です。

ところが逆に妙に腰の低い部分もあるので其処だけを見た人からは「類稀なる良い人だ。」などと評されることなどがむしろ多い。

 

其れと老人や子供には何故か好かれ易い。ー其れも多分優しいので…ー

逆にバリバリの近代的世界観の持ち主特に女性からは馬鹿だ阿呆だとさう思われ易いやうです。

 

 

さて其のゴッホのやること為すことも兎に角変人と申しますかほぼキチ外並ですが藝術家のキチ外は並のキチ外の人とは違い作品を生み出します。

故に其の作品が全てとなります。

 

其の作品の為にこそ藝術家は生きやがて死を迎えるのです。

 

ー1990年代にも次々記録が更新され、1999年5月10日のニューヨーク・サザビーズで『カーテン、水差しと果物入れ英語版』が5500万ドル(67億1000万円)で落札され、更に記録を塗り替えた[111]。その後の2011年相対取引のため詳細は公表されていないが、カタールが『カード遊びをする人々』を2億5000万ドル超で購入したと伝えられ、そのとおりとすれば美術取引史上最高値とされる[112][113]2013年には、『サント=ヴィクトワール山』が1億ドルで相対取引されたとされる[114]。ーポール・セザンヌ  作品の高騰- Wikipediaより

 

生前から壱定の評価のあったセザンヌですが死後其の評価はうなぎのぼりに高まり今や数億ドルもの絵の評価となって居るやうです。

ですが彼セザンヌの場合には元々裕福な家の出の人ですので金や名声を目指すと云うよりは自らの藝術的希求を其処に最大限に追求してみたかったのだと思われる。

 

されど晩年に至り山ばかりをしかもサント=ヴィクトワール山ばかりを飽きもせずに描き続けたところなどはまさに藝術家としてのカルト魂の発露其のものです。

 

ゲージツ家とはかやうに変なところに拘るもので其れが何で其れにばかり拘るのか今ひとつ分かりませんのですが当の本人からすればまさに其れこそが眞理探究の壱環なのであり決して疎かには出来ぬ謂わば魂の彫刻の如きものなのだ。

「果たして何でソコにさうまで拘りますか?」

 

だって其れが眞實であり眞理ですがね。

只貴方方には其れが見えては居ないだけのことなのだ。

 

 

 

「私が完成を目指すのは、より真実に、より深い知に達する喜びのためでなければなりません。世に認められる日は必ず来るし、下らないうわべにしか感動しない人々より、ずっと熱心で理解力のある賛美者を獲得するようになると本当に信じてください。」

ポール・セザンヌ - Wikipediaより

 

即ち藝術家に取り世間の様ー現世利益に壱喜壱憂する世間の価値観ーは只上辺だけをなぞる所謂浅はかな生の解釈であるに過ぎません。

ですが詩の魂はまた絵心はもっとずっと深いところをまさぐり其れと心中しやうとさえして居るのです。

 

然し多くの藝術家の決意はまた大抵は無駄骨に終わるのが常です。

其のより多くの無駄骨の中から壱握りの作品だけがかうして世に認められ永遠の評価を与えられる。

 

されど問題はそんな大評価に化ける遥か以前よりセザンヌの絵はセザンヌの絵であり他の誰のものでも無いと云う点です。

藝術とは常に其のやうな個に於ける止むに止まれぬ表出です。

 

重要なことは其の表現が己がものになり切って居るかどうかと云うことであり従って世間からの評価の高低では決してありません。

尚此のドラマではとりあえずは成功を収めた文豪ゾラにしてさえもが様々な悩みを抱えて居たことが同時に描かれて居る。

 

 

もっともそりゃあさうでせう。

我が國でも芥川がまた太宰がああして死んで行く訳ですので元より文學なんてロクなものじゃあ御座りません。

 

また文豪漱石は結局胃をやられて死にましたがおそらくは考え過ぎてさうなったのではなからうか。

 

ですので文學は文學でまたややこしい観念の世界を形成致しますがまさに其の文學作品にて心が救われることなどもまた御座りませう。

またセザンヌゴッホの絵、またゴーガンやルドンの絵で心が救われることなどもまた御座りませう。

 

さらにベートーヴェンショパンのピアノ・ソナタにて心が救われることなどもまた御座りませう。

 

嗚呼、さうか!

藝術とはまさに其の藝術とは宗教などとはまた違う意味での心を救うものだったのだ。

 

で、例えば以下のやうなセザンヌの絵にわたくしの心は救われます。

 

セザンヌ『果物入れ、グラス、りんご』1879-82年。

かやうにわたくしは彼の静物画が好きだ。

 

其れも果物を描いたものがとても好きなのだ。

特にゴーガンとセザンヌ静物画はとても良いと思う。

 

 

りんご、ピーチ、梨、ぶどう 1879-80

オリーブ・ジャーの花 1880

花と果実 1880

 

自画像 1885

 

ペパーミントボトル 1893-95

カーテンのある静物 1895

玉葱のある静物 1895-98

 

庭師の肖像 1906

 

 

兎に角セザンヌが描く静物画は特に魅力的です。

おそらく美術史の上ではあくまで水浴図やサント=ヴィクトワール山を描いた絵画がより重要なのでせうが個人的に興味があるのが其のセザンヌが描く静物画だと云うことです。

 

ポール・セザンヌの作品一覧 - Wikipedia

 

尚此の度はこちらの作品壱覧を大いに参考にさせて頂きました。

 

さて其の大画家に対する世間での評価とは別に誰しも其の作品とは壱體壱での唯壱の関係が結ばれて居ります。

絵画鑑賞に於いてわたくしが重視して居るのはむしろそんなパーソナルな関係性の方です。

 

だからなるべく先入観を持たずに其れを鑑賞しまさに其処で感じたこと思ったことを其の侭に述べて行けば良いのです。

従ってわたくしがセザンヌが描く静物画を特に魅力あるものとして感じ取ることはさうして彼が変人であったこととは関係無く成立することです。

 

また其の変人云々と云うことはむしろ変人だからこそ魅力的な藝術が生み出せる筈で、其れがもしも常識的な人であったならまさかそんな人を救う程に感動させて呉れる世界など生み出せる訳が無いではありませぬか。

だから変人が必ずしも悪い訳では無く変人だからこそ大藝術を生むことが可能だ位に思って置く方がむしろ此の世の全てを愛するやうになれるのです。

 

 

尚他にも画家シリーズ、文人シリーズの海外ドラマがプライム・ヴィデオには数々ありますので其れを視聴するつもりで居ります。

其れが師走らしく藝術にドップリと浸かると云う如何にもわたくしらしい趣味の世界です。

 

かうして藝術の方では悩みが出て来ない分僕は随分と樂だ。

もう社會批判やら何やらですと逐壱絶望しないとイケナイのでコッチの方がそもずっと樂だぞ。

其れに悩んでるのは彼等藝術家の方で僕は其れを眺めて居れば良いのだからある意味では気樂でしかも良い藝術作品に接すれば其れに救われることさえあるのだ。

 

そんな訳で相変らず足は痛いがまずは無事にクリスマスと正月が迎えられさうだ。

嬉しくもそんな我の師走を彩って呉れるのが大画家たちの絵の数々なのだった。

「絶対矛盾的自己同壱」概念に就き考えるー壱 打たれ強い脱論理としての西田哲學ー

哲學11

 

 

 

 

わかりたい人のための西田哲学入門 | DiamondQuarterly | ダイヤモンド・オンライン

さて其の西田哲學こそが所謂悩める理性に取り解決の場を提示して呉れる方向性を指し示すものであることでせう。

 

いえ、結局解決までにはなかなか至らぬものなのですがまるで訳の分からぬ此の世の仕組みに対し其の侭分からぬ侭に終わるのか、其れともとりあえずは分かったやうな気になり生きて行けるのかと云うことに関しておそらくは分水嶺の如き役割を果たすものであらう。

 

で、其の分かったと云うことは禅の悟りであるとかさうした宗教的見地とはまた別のものです。

西田哲學は左様に宗教と哲學を結ぶものではあってもあくまで「悟り」では無く哲學です。

 

さて上の記事は無料会員登録をすれば読むことが出来る。

ですが此処は所謂ビジネスの為の教養を身に付ける場なのでせうからあくまで俗世間としての功利性追求の場なのでせう。

 

其のビジネスと哲學は違うのだしまたビジネスと宗教とはまた違う訳です。

 

 

さて上の記事で最初のところを読んでみますと、西欧近代型の合理主義による社會構築がむしろ今行き詰まりを見せて居ることが書かれて居ます。

尚私は其れを合理化による破壊だとさう結論付けかうして多年に亘り其れを批判して参りました。

 

ところが其の西欧近代型の合理主義社會でしか成し得ないものこそがまさに此の近代的な生活です。

で、事實上は此の生活を放棄することなどもはや誰にも出来ない相談です。

 

其れこそ例えルンペン化し公園などで寝起きするにせよ、また山奥にて独居し電気や瓦斯に頼らぬ暮らしを営むにせよ病にでもなれば最終的には其れのお世話になって行かざるを得ない。

 

なのですが西欧近代型の合理主義社會は進めて行けば行く程に世の實相とはかけ離れむしろ要らぬ努力にばかりかまけていく様相を呈して来て居ります。

さても何でそんな風になるのだらう?

 

 

と云う素朴な問いがわたくしには若い頃より御座りました。

其れで最終的に其れは「社會としての認識」の誤りであることをまずは突き止めました。

 

例えば地球温暖化対策として「個として出来ることをやりませう。」などといつも言われて居る訳ですが個がどうしやうが社會全体が滅茶苦茶やれば結局地球は壊れて行かざるを得ません。

 

ですから、結局は其処に帰結する訳で、其れも進歩だ進歩だと馬鹿のひとつ覚えみたくに申して諸のバカ進歩に勤しむからこそ世の中が崩壊して行くのです。

だから其のバカ進歩を壱刻も早う止め正常な心へと我我をして戻して頂きたいものだ。

 

で、其のバカ進歩や馬鹿な合理化社會に対して異議を唱える向きが今あらゆる學問の分野より噴出して来て居る最中です。

ですが、實は其れは幼稚園児でも分かる程の事の道理なのです。

 

たとえ幼稚園児であれ身の危険が迫れば此の侭ではマズいと云うこと位は實感として分かる。

いやむしろ教育に洗脳されて居ない彼等だからこそ此の文明が至極危険なものであることが分からう。

 

また生きるのに必要なものは彼等にとり沢山のものでは無くまた高度なものなのでも無く只其処に普通にあるもののことです。

問題は其のより多くをまたより高度なものを欲すると云うことからこそ世界に対する本質的破壊を生じせしめて居ることだらう。

 

 

さうして其の合理主義的価値ヒエラルキーはむしろ其の当たり前にある価値ー眼前に今ある価値ーを壊して行きます。

其れもより利便性と能力に優れる価値が日常を汚染する故にさうならざるを得ない。

 

其れと「現世利益」に凝り固まった合理化人間共が先哲としての人間の知恵を忘れ去る始末です。

さうしてやがて其の今の其の利益にだけ固執する生活の亡者の如き者共が繁栄するに至る。

 

 

 

個⇔社會

合理⇔非合理

 

理性⇔情動ー感性ー

部分⇔全体

価値⇔無価値

 

言葉にて抽象的概念を規定するとかうして其の反対のものが生じざるを得ません。

ですが現實的ー具象的ーには其れはあくまで両極を含んだ対立であり同一性です。

 

即ち感覚的にはむしろ其れが統合された形にて直感され得る。

ところが感性は情動と結びついて居り常に其処に流され易い。

 

ですのでより正確には其れは直観に基ずくものでなくてはならない。

直観は全体知に属するもので部分的、末端的な要素還元論とは異なる認識の方法です。

 

其の直観は藝術的かまたは宗教的な見地により導かれます。

或は哲學的なまた内省的な心根こそが生み出すものだらう。

 

 

さて、

テーゼ⇔アンチテーゼ→ジンテーゼ

と云うのがかのヘーゲル弁証法に於ける所謂アウフヘーベン止揚 - Wikipediaの理論ですが、其処で緒矛盾が昇華される形でもって新たなる次元の命題へと繰り上げられて行く訳です。

 

此処での特徴とは其の新たなる次元の命題に於ける対立ージンテーゼに於ける対立ーがテーゼ⇔アンチテーゼに於ける矛盾つまり悩みであり問題があたかも克服されて居るかのやうに見えることです。

例えば君主制をはじめとする封建的秩序に於ける矛盾や貧乏ー物質的困窮ーの問題などは其のジンテーゼとしての近代的闘争のうちに確かに解決されて行きます。

 

ですので、必ずしもヘーゲル弁証法が間違って居るとは言えずむしろ其れは正しい訳です。

其のヘーゲル弁証法にせよ史的唯物論にせよ全ては「近代」を成立させる為の理論でありこと其の「近代」を成立させることに於いてはむしろ大正解でもあった訳だ。

 

 

ところが其のジンテーゼとしての近代に於いて、其れも近代末期かと目される21世紀に於いてむしろもはや如何ともし難いやうな難題が山積みとなりましたのは其れは矢張り其の進歩史観其のものに誤りがあったであらう可能性が高く存して居る。

 

ですが其の我我に取りより樂な近代的生活、其れも特に資本主義により邁進される「モノが豊かな生活」にドップリと浸かった我我が其処から脱け出すのは容易なことでは御座りません。

僕なんぞも結局は何かを得ることでこそ今を生きて居るのだと思います。

 

ほんたうのほんたうはそんな下品此の上無い人間でむしろキリスト様やお釈迦様とは対極を生きることだらうタワケ人間の壱人であるに過ぎぬ。

但し少しだけ毛色が違って居りますのは其の「下品」と「タワケ」を我はかうして自覚して居りますのです。

 

 

左様にヘーゲル弁証法は正しい訳ですが問題なのは其れがあくまで観念論の枠内での正しさであることでせう。

ところが地球上には他にも猛獣共やらまた🐼ちゃんやら其れからまた訳の分からぬやうな生き物が沢山居ますので彼等の考えて居る事は無論のことそんな観念論では無く強いて言えば其れは自然の摂理に従い考えずに行動して居りませう。

 

つまり、

ヘーゲル弁証法⇔自然の摂理

と云う対立こそが我我人類に突き付けられて居るであらう21世紀に於ける根本での大命題です。

 

で、最終的にはヘーゲル弁証法は人間を神の領域にまでおそらくは持ち上げて行く筈です。

近代的対立の超克→神人間による自然界の完全支配=宇宙の完全支配

 

とのことが畢竟近代的人間ー社會ーとしての夢であり究極としての目標です。

 

 

ところが其れはまさに神をも畏れぬ所業の筈です。

 

其れでもって實際にすでに神は御怒りでもあることでせう。

また佛は呆れ果ててソッポを向いても居られませう。

 

其れは何を御怒りなのかと申しますと決して我我馬鹿な個人を怒って居られるのでは無くまさに其の進歩史観をこそ否定しておいでなのだ。

 

『「進歩」は今すぐに止め汝等が罪人であること、煩悩まみれであることを今すぐに認めよ!』

と神と佛がたった今さうお命じになられた。

 

 

つまるところ、我我21世紀人は「我我に取り正しい進歩」をやりつつ「我我以外に取りあくまで間違ったシンポ」をやって行かざるを得ません。

我我に取り正しい進歩⇔我我以外に取りあくまで間違ったシンポ

 

うわあー、またいつの間にやら逆に問題がよりデカくなって仕舞ったな。

さうです、まさに其のリスクーをよりデカくする傾向にあるのが近代的発展ー進歩ーによる負の側面での特徴です。

 

其処に於いて利便性や快適性ばかりをまた物の豊かさばかりを追及するので必然としてさうなります。

其の考えー観念ーと決別せぬ限りはむしろ何処までも其の自然ー環境ーとの断裂と申しますか亀裂と云うかそんなものがよりデカくなるばかりです。

 

さうしてまさに其の地点より脱近代への概念的道程が拓かれても参りませう。

 

 

尤も我は其の道程を此処参拾年程に亘り歩んで来ました。

其処で脱近代は何としてでも成し遂げねばならぬ壱つの思想的闘争でした。

 

されど脱近代を成し遂げることは最終的には其れは社會の責任です。

近代的社會には其れを維持せねばならぬ責任が元より社會其のものにある。

 

其れは此の進歩史観を實行する社會には我我を搾取する権利と共に社會を維持する義務がしかと生じて居ると云うことだ。

また社會の統治者の側にも同様に其の責務が生じて居ります。

 

よってもしも社會が維持出来なくなるやうでしたら女房子供を阿弗利加に叩き売ってでもして其れを維持して行かねばならない。

また其れが出来ぬやうでしたら自ら進んで断頭台へと出頭して行かねばならない。

 

公務員とは、また公僕では無くとも例えば塾の講師などをも含む体制を創る側の人間はまさに其の位の覚悟でもってほとんど泣きながら或は半分奴隷の如くとなりやって行かねばならない。

また教師や医師や弁護士、さらに裁判官や國會議員、さらに地方の議員などもまた同様に其の責務を担う者等なのだ。

 

 

対して西田哲學に於ける世界認識はそんな近代進歩主義とは異なるものとなる。

 

テーゼ⇔アンチテーゼ

と云う其の弐元対立は元より如何ともし難いことです。

 

其れを西欧近代流に力技にて統一し新たな矛盾世界を生み出すのでは無くむしろ此の対立関係の方にこそ注目し其の対立としての概念的立場ー認識ー其のものを変えやうとします。

 

だから其れは、

A⇔B→C⇔D

では無く、

 

A⇔Bは対立して居るがむしろ其の対立により維持されて居るとさう見る。

まさに其の対立其れ自體を解消するのでは無く認識のあり方を変えることにより其の対立に拘らぬやうにすることなのだと思う。

 

 

 

「我我の自己ー個ーは、どこまでも自己の底に自己を超えたもの(超個)において自己を持つ。自己否定において自己自身を肯定するのである。かかる矛盾的自己同一(即非)の根底に徹することを見性という。」西田幾多郎

 

さても貴方方は世界の實相に就き考えてみたことがおありだらうか?

私は考えてはみましたが分かりませんでした。

 

ですが實體験を積み重ねるうちにようやく直観出来たことがあり其れは「分離する要素が相剋し且つ相即する」と云う概念的理解でした。

尤も其れには佛法に於ける學びの機会も色濃く関係して居たのやもしれぬ。

 

 

其処で最終的に般若智を追及した我は+(陽)と-(陰)と云う弐元的矛盾を世の根本での仕組みとして捉え其れをどう結び付けるかと云う壱つの東洋的陰陽説の展開を頭の中で練り上げて居たものだった。

 

また其の弐項対立はカントに於けるアンチノミーや其れこそ弁証法過程に於ける進歩の概念共密接に絡んで居りました。

ところがむしろ其の対立其れ自體としての何かを概念的に区切ることが必要不可欠であることに気付く。

 

何故なら現象其れ自體を成り立たせて居るのは対立其れ自體としての矛盾である。

ですが其れが實は当たり前のことで、まさに幼稚園児でも分かることだったのです。

 

何故なら「考える」と云う行為こそが分離に関する作業で其れ自體に實體性など無いからなのです。

要するに矛盾するからこそ今此処にかうして我我が生きて居る。

 

矛盾無くばそも生ぜず食わずウンコも垂れずどうだかうだと論を張ることなども無い。

 

其の相剋すると同時に相即する論理はまさに脱論理であり即ち論理としての矛盾的記述です。

ですが其の矛盾こそが生の正體ですので論理的にはあくまで規定が変でも實は何処にもオカシイところが無い訳です。

 

 

逆に論理的にはオカシクは無い近代的弁証法過程ー進歩主義ーの方が余程にオカシイと言えるのやもしれない。

 

+⇔-

其の+と-はそも違います。

 

言葉の枠内ー論理的展開ーのものとしてはそも異なります。

 

👨⇔👩

還暦以上の老人⇔二十歳未満の少年少女

自民党日本共産党

人文理性⇔理系理性

数拾萬もする高額なモンブランの万年筆⇔弐千円の中華万年筆

偏差値八拾⇔偏差値参拾七

 

は、皆言わば対照的に違う訳だ。

 

だから普通の論理では其れはとても壱緒にはなれません。

普通の論理ではダメなので、其処で是非進歩主義を取り対立を解消して仕舞おう。

 

👨⇔👩の対立はジェンダーフリーで解決出来る。

自民党日本共産党の対立は國會を廃止すれば無くなりませう。

人文理性⇔理系理性の対立は人文理性に数学をやらせ理系理性に文學作品の感想文を書かせることで解決出来る。

 

数拾萬もする高額なモンブランの万年筆⇔弐千円の中華万年筆の対立は万年筆を無くしてより強力な筆記具を生み出せば無くなりませう。

ですが西田哲學では其の進歩のことは元々考えない。

 

 

A⇔B

 

純粋に論理の枠内では矛盾は矛盾でありよって其れは良くは無いことですが「絶対矛盾的自己同壱」の概念に於いてはむしろ其の侭に矛盾は超克され得ます。

で、其の矛盾の超克に就き私は弐元論を適用し「相剋し且つ相即する」関係性として規定し得た訳です。

 

つまりは其れは単なる矛盾律の如くに見えるが實際上、實質上は決してさうでは無い。

要するに其れは矛盾の如くに見えるがまるで矛盾には非ず。

 

何故なら其のAには+と-即ち正と負ー光と陰ーの面があり同様に其のBにも正と負ー光と陰ーの面があり其れが複雑に絡み合う訳です。

 

従って其れは最終的に四元構造ー四次元構造?ーを持ち自己肯定と自己否定の間の中で矛盾的且つ自己同一的に振る舞うのです。

よってさうした視野に立てばすでに矛盾は其の侭に矛盾では無くなり其の侭では理解し難い他は自己に含まれるかまたは自己が其処に含まれる訳だ。

 

つまりは対立や矛盾、また避け難い苦悩などに対しより柔軟に考えられるのだと思う。

其の柔軟性と云うものが石だのコンクリだので造った西欧近代型の論理構築物なのでは無く東洋式の木だの紙だの土壁だので造った脱論理的構築物なのでむしろより災害リスクには強い訳だ。ーたとえすぐに壊れても本質的には強いと云う事です。ー

 

また其れはストレートな論理では無いので屈折して居ります。

屈折して居るもの、つまりは曲がったりうねったりして居るものは結局打たれ強いのではありませんでせうか。