目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「より真実に、より深い知に達する喜びのため」の絵画作品ーかってセザンヌが描いた眞実の絵ー

絵画5

 

 

 

Amazon.co.jp: セザンヌと過ごした時間を観る | Prime Video

 

此の程こちらを視聴しましたがとても良く出来た藝術ドラマに仕上がって居ると思いました。

個人的にはセザンヌに対し大きく興味がある訳では無いのだが彼が大変強い個性の持ち主であったことを其処に初めて知ることが出来た。

 

此のドラマでは個性的な画家であるセザンヌと文豪エミール・ゾラとの生涯に亘る藝術家同士としての友情が随分と掘り下げた形で描かれて居た。

其の藝術家同士の友情だのまた恋愛だの、さうしたものはまさに通常の人間関係以上に難しいものがある。

 

何故なら彼等は等しくオンリーワンでの境地を生きて居る人間なので決まって其処に価値観の違いがぶつかり合い火花を散らす羽目に陥るからなのだ。

また其れはかのゴッホとゴーガンの場合などもまさに其の通りでのことなのであった。

 

藝術家は等しくそんなひとつきりでの自我を生きて居ざるを得ない。

 

 

其れは大衆の生き様とはまるで正反対での生き様なのだ。

何故ならみんなは普通其のみんなで居る事に安心感を覚えたりもすることだらう。

 

さうして其の逆に孤独を怖れる。

しかしながら藝術家の心性のあり方は其れとはまるで逆なのだ。

 

彼はさうしてみんなでもって生きることをむしろ拒否してさえ居る。

其れはみんなでもって生きると決して己の個性が発揮されぬからなのだ。

 

 

僕自身が幸か不幸かそんな心性の持ち主なので其の事はまさに痛い程に分かる。

でもって私自身はむしろそんな生き方がイヤである。

 

此の内面的に沈潜し易い心の性質がイヤと云えばイヤである。

ところがまた其処にも大きくプライドのやうなものがありみんなが出来ないことをやってやるのだと云う根拠の無い自信のやうなものにもまた突き動かされるものだから余計に始末が悪い。

 

但しわたくしにはそんな藝術家達の気持ちがまさに痛い程に分かる訳だ。

 

 

セザンヌはかうして若い頃より目付きが悪いと申しますかとてもきつい眼差しをして居ます。ポール・セザンヌ - Wikipedia

 

其の目付きの悪いのは暴力団員であるとかさうした悪の類の世界のものでは無くおそらくは眞理探究に壱途な余りに自然とさうした目となって仕舞うことでせう。

また環境活動家としてのグレタさんの目付きなどもきついと申しますか眞實を訴えるかの如き強い眼差しをして居ります。

 

セザンヌはまずさうして藝術的洞察に優れ其れによる眞理探究に嘘がつけないやうな眞っ直ぐな人であったことでせう。

 

 

尚藝術家は所謂上品な理性世界を生きる人だと普通人は思う筈ですが其れは正確にはさうではありません。

より正確には彼等は、

 

上品ー美ー⇔下品ー醜ーの両方を行ったり来たりする者のことです。

勿論俗人の場合にも其れはありませうが、藝術家に限り其の幅が並外れて大きいと思って頂くと分かり易いことかと存じます。

 

上品ー美ー→其処に藝術作品が生まれ至極理性的且つジェントルな世界解釈ー丁寧な世界解釈ーが其処になされる

下品ー醜ー粗野な言葉遣いを好んでなしまるで👿の如くに振る舞ったりもする

 

此の分裂の幅が大きくなるのが藝術家の心性なのだとさう思って頂きたい。

ですのでキチ外=異常者にも近くなる代わりにまた壱面では高い境地の世界ー所謂神佛とはまた方向性の違う高度な感度の世界ーを體現する者のことです。

 

つまりは其れは、

上⇔下

右⇔左

善⇔悪

と云うやうに振幅がより大きく見られ且つ考えられると云うことだ。

 

 

セザンヌは非常に気難しい人間でした。印象派の画家の中でピサロという画家がいますが彼が人格者であったことを示すエピソードに「唯一セザンヌとコミュニケーションがとれる人」と評されています。

多くの印象派のメンバーがパリで生活をしてお互いに交流をするなかで、パリに住むことなく故郷のエクスに戻りアトリエに籠もって絵を描きながらひっそりとした隠遁生活を送っていました。

ーどうしてかわからないが、セザンヌを殺したいほど嫌っている一派がいた。その内の一人がセザンヌを見つけると「こんな画家は銃殺しろ」など大声で叫びセザンヌをあざ笑った。

さらに街中で声を掛けられるとセザンヌはそういった人達が自分を迫害すると信じ込んでおり、尾行されていると勘違いした。そして逃げるように自分のアトリエ駆け込み家中のドアを閉め鍵を掛けた。そして自分がなぜみんなから敵意を持たれるのかと自分自身に問いかけたーゴッホとセザンヌ ~超絶嫌われ者の画家達~ | Historiai (histori-ai.net)より

 

藝術家には変人が多いものと相場は決まって居りますが此処まで来ますとほとんどキチ外並です。

其れでも性欲が強いものだから奥さんらしき者ー内縁の妻か?ーは居る訳です。

 

其の被害妄想のやうなものはかの漱石にもあり彼もまたほとんどキチ外並のことを述べたりもして居りますので常識人が其れを聞くとまさか理解出来ない訳です。

ですが藝術家からすれば感度の悪い常識人の側の方こそがむしろキチ外に近い訳なのだ。

 

セザンヌゴッホは確かに藝術家の中でも其のキチ外度では双璧なのやもしれません。

其の気難しいと云うのはなかなか説明しにくいのではありますが要するに藝術的自我が肥大化して居て其れに触るもの悉くが気に入らないやうな感じでせうか。

 

だから、

すぐに「此の敏感な僕に触るな!」

となるのです。

 

でもってセザンヌがさうしてキチ外度が強い訳でおまけに目付きの方も何やら怖いので都會ではまともな市民生活が出来ず結局生まれ育った田舎へ逃げて行く訳です。

 

 

ちなみに同じく隠遁したいわたくしのキチ外度はまだまだヒヨッコ並なのですが其れでも周囲との軋轢は多い方で「僕に触るな!」と癇癪を起すことなどもまた屡です。

ところが逆に妙に腰の低い部分もあるので其処だけを見た人からは「類稀なる良い人だ。」などと評されることなどがむしろ多い。

 

其れと老人や子供には何故か好かれ易い。ー其れも多分優しいので…ー

逆にバリバリの近代的世界観の持ち主特に女性からは馬鹿だ阿呆だとさう思われ易いやうです。

 

 

さて其のゴッホのやること為すことも兎に角変人と申しますかほぼキチ外並ですが藝術家のキチ外は並のキチ外の人とは違い作品を生み出します。

故に其の作品が全てとなります。

 

其の作品の為にこそ藝術家は生きやがて死を迎えるのです。

 

ー1990年代にも次々記録が更新され、1999年5月10日のニューヨーク・サザビーズで『カーテン、水差しと果物入れ英語版』が5500万ドル(67億1000万円)で落札され、更に記録を塗り替えた[111]。その後の2011年相対取引のため詳細は公表されていないが、カタールが『カード遊びをする人々』を2億5000万ドル超で購入したと伝えられ、そのとおりとすれば美術取引史上最高値とされる[112][113]2013年には、『サント=ヴィクトワール山』が1億ドルで相対取引されたとされる[114]。ーポール・セザンヌ  作品の高騰- Wikipediaより

 

生前から壱定の評価のあったセザンヌですが死後其の評価はうなぎのぼりに高まり今や数億ドルもの絵の評価となって居るやうです。

ですが彼セザンヌの場合には元々裕福な家の出の人ですので金や名声を目指すと云うよりは自らの藝術的希求を其処に最大限に追求してみたかったのだと思われる。

 

されど晩年に至り山ばかりをしかもサント=ヴィクトワール山ばかりを飽きもせずに描き続けたところなどはまさに藝術家としてのカルト魂の発露其のものです。

 

ゲージツ家とはかやうに変なところに拘るもので其れが何で其れにばかり拘るのか今ひとつ分かりませんのですが当の本人からすればまさに其れこそが眞理探究の壱環なのであり決して疎かには出来ぬ謂わば魂の彫刻の如きものなのだ。

「果たして何でソコにさうまで拘りますか?」

 

だって其れが眞實であり眞理ですがね。

只貴方方には其れが見えては居ないだけのことなのだ。

 

 

 

「私が完成を目指すのは、より真実に、より深い知に達する喜びのためでなければなりません。世に認められる日は必ず来るし、下らないうわべにしか感動しない人々より、ずっと熱心で理解力のある賛美者を獲得するようになると本当に信じてください。」

ポール・セザンヌ - Wikipediaより

 

即ち藝術家に取り世間の様ー現世利益に壱喜壱憂する世間の価値観ーは只上辺だけをなぞる所謂浅はかな生の解釈であるに過ぎません。

ですが詩の魂はまた絵心はもっとずっと深いところをまさぐり其れと心中しやうとさえして居るのです。

 

然し多くの藝術家の決意はまた大抵は無駄骨に終わるのが常です。

其のより多くの無駄骨の中から壱握りの作品だけがかうして世に認められ永遠の評価を与えられる。

 

されど問題はそんな大評価に化ける遥か以前よりセザンヌの絵はセザンヌの絵であり他の誰のものでも無いと云う点です。

藝術とは常に其のやうな個に於ける止むに止まれぬ表出です。

 

重要なことは其の表現が己がものになり切って居るかどうかと云うことであり従って世間からの評価の高低では決してありません。

尚此のドラマではとりあえずは成功を収めた文豪ゾラにしてさえもが様々な悩みを抱えて居たことが同時に描かれて居る。

 

 

もっともそりゃあさうでせう。

我が國でも芥川がまた太宰がああして死んで行く訳ですので元より文學なんてロクなものじゃあ御座りません。

 

また文豪漱石は結局胃をやられて死にましたがおそらくは考え過ぎてさうなったのではなからうか。

 

ですので文學は文學でまたややこしい観念の世界を形成致しますがまさに其の文學作品にて心が救われることなどもまた御座りませう。

またセザンヌゴッホの絵、またゴーガンやルドンの絵で心が救われることなどもまた御座りませう。

 

さらにベートーヴェンショパンのピアノ・ソナタにて心が救われることなどもまた御座りませう。

 

嗚呼、さうか!

藝術とはまさに其の藝術とは宗教などとはまた違う意味での心を救うものだったのだ。

 

で、例えば以下のやうなセザンヌの絵にわたくしの心は救われます。

 

セザンヌ『果物入れ、グラス、りんご』1879-82年。

かやうにわたくしは彼の静物画が好きだ。

 

其れも果物を描いたものがとても好きなのだ。

特にゴーガンとセザンヌ静物画はとても良いと思う。

 

 

りんご、ピーチ、梨、ぶどう 1879-80

オリーブ・ジャーの花 1880

花と果実 1880

 

自画像 1885

 

ペパーミントボトル 1893-95

カーテンのある静物 1895

玉葱のある静物 1895-98

 

庭師の肖像 1906

 

 

兎に角セザンヌが描く静物画は特に魅力的です。

おそらく美術史の上ではあくまで水浴図やサント=ヴィクトワール山を描いた絵画がより重要なのでせうが個人的に興味があるのが其のセザンヌが描く静物画だと云うことです。

 

ポール・セザンヌの作品一覧 - Wikipedia

 

尚此の度はこちらの作品壱覧を大いに参考にさせて頂きました。

 

さて其の大画家に対する世間での評価とは別に誰しも其の作品とは壱體壱での唯壱の関係が結ばれて居ります。

絵画鑑賞に於いてわたくしが重視して居るのはむしろそんなパーソナルな関係性の方です。

 

だからなるべく先入観を持たずに其れを鑑賞しまさに其処で感じたこと思ったことを其の侭に述べて行けば良いのです。

従ってわたくしがセザンヌが描く静物画を特に魅力あるものとして感じ取ることはさうして彼が変人であったこととは関係無く成立することです。

 

また其の変人云々と云うことはむしろ変人だからこそ魅力的な藝術が生み出せる筈で、其れがもしも常識的な人であったならまさかそんな人を救う程に感動させて呉れる世界など生み出せる訳が無いではありませぬか。

だから変人が必ずしも悪い訳では無く変人だからこそ大藝術を生むことが可能だ位に思って置く方がむしろ此の世の全てを愛するやうになれるのです。

 

 

尚他にも画家シリーズ、文人シリーズの海外ドラマがプライム・ヴィデオには数々ありますので其れを視聴するつもりで居ります。

其れが師走らしく藝術にドップリと浸かると云う如何にもわたくしらしい趣味の世界です。

 

かうして藝術の方では悩みが出て来ない分僕は随分と樂だ。

もう社會批判やら何やらですと逐壱絶望しないとイケナイのでコッチの方がそもずっと樂だぞ。

其れに悩んでるのは彼等藝術家の方で僕は其れを眺めて居れば良いのだからある意味では気樂でしかも良い藝術作品に接すれば其れに救われることさえあるのだ。

 

そんな訳で相変らず足は痛いがまずは無事にクリスマスと正月が迎えられさうだ。

嬉しくもそんな我の師走を彩って呉れるのが大画家たちの絵の数々なのだった。