目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

まさに驚愕としての革命論ー『人新世の「資本論」』を読んで 弐ー

さて私は相変らず毎日多くのことに就き思考を巡らせて居る。

其のことは勿論私にとっての苦です。

 

ですが理性を持つ者の一人として其れは逃れられぬ運命だと其れをさうも受け取って居る。

私の苦は八割方が其の観念苦であり社會苦でした。

 

むしろ己の苦では無く他がさうならしめて居ることでの苦、謂わば公としての苦のことでした。

 

拾代の頃はさうでは無くむしろ自分の特殊性に悩み果てて居たのだったが、特に四十を過ぎてからは一体何で此の世はこんなに低級なのだらうと云う悩みがほとんどのこととなった。

で、其の悩みから逃れる為には石の世界へまた万年筆の蒐集の世界へと没入して行くより他は無かった。

 

さうして實は私はひとかどの筆記具蒐集家なのですよ。

 

だが其のこともまた大きな矛盾を抱えて居た訳です。

即ち逃避の為の其の物欲への没入が本質的に私の観念苦を救って呉れる訳では無論のこと無い訳だ。

 

其れもまあ人から見れば如何にも高尚な趣味なのですけれども。

 

 

いや別に酒と👩へ走ることが下劣な趣味だなどとさう断定して居る訳では御座らぬのだが。

まあ私は👩にはもう懲り懲りですね。

 

まだしも♀🐈の方がマシだとさうも思います。

また酒飲むと最終的には内臓がやられまさに家の父のやうに齢70でもって死にますのですよ。

 

煙草も勿論悪いのですが酒など本当はもっともっと悪いものだ。

 

 

さて其の社會に対する苦と云うのはどう考えてもインテリ苦としてのひとつでせう。

何故なら馬鹿は社會が悪いなどとは實際余り思いませんので。

 

しかも私はもう中学生の時分よりそんな社會による苦だの文學上の苦だのまさに抽象的な苦にばかり悩まされて来たが故にまさに其の点では其れが幸せな人生だとは勿論言えなかった訳だ。

ところが今ふと気付くとさうして本をしこたま読み、其の知識を元にして様々に考え、また時には現實の上での様々な矛盾に苦しみ、特に人間関係と申しますか人間の馬鹿さ加減にこそ苦しめられ、ああー、もう其れを放棄したい。

其ればかりか人間であることから早う去りたい。

 

と其の位にも悩むのですがイーベイだのヤフオクだのでつい石だの筆記具だのを買って居るとそんな憂鬱もまた晴れて来たりもする。

いやむしろ私の精神のバランスを保って居たのはまさに其の物の美に対する関心の高さからなのだった。

 

なんですがほんたうにまた最近は酷く苦しんでも居ました。

其れがヤッパリ社會が馬鹿であり性悪であることに対する怒りのやうなものなのだ。

 

つまりは社會に対する正義の怒りです。

でも其の正義の怒りはほとんどの場合は通用しない、其れは単なる思い込みであると先に私は述べても居ます。

 

 

では何で私の其の正義の怒りだけが通用するのでせうか?

何故なら私は此の怒りの根拠をむしろ外部に求めて居る、世間での正義と思われる意見と擦り合わせることにより其の正統性の根拠を確認する作業を決して怠らぬからなのだ。

 

例えば私は所謂ソーシャルメディアの価値をまずは否定的に捉えます。

ですが其れと同じことをかのマルクス・ガブリエル氏がまさに述べられて居る訳だ。

 

かうして高名な哲學者と同じ結論に達すること程私にとって嬉しいことは無い。

 

事實私は彼等と同じ位に理性的な人間なのです。

ですが地位も名誉も金もまるで無いので此れ迄まるでウソコキのやうに扱われざるを得なかった。

 

むしろおまえはガキだ、低能だ、ほんたうの馬鹿野郎だ。

兎に角いつもそんな風に軽くあしらわれても来たのです。

 

 

でもほんたうは至極重いのだ。

僕の哲學は至極重いのだし其れにボクの藝術はもっともっと深くて重いぞ。

 

何故みんなには其れが伝わらぬのだらうか。

 

 

其れはおまえが人間の社會のことを蔑みまさにウンコたれだの肥溜めに落ちよだのそんな下品な表現に終始して居るからだ。

何故もっとロマンティックな例えばブラームスの愛の歌のやうな旋律を此処に奏でられぬのだ?ブラームス ワルツ第15番【ピアノ名曲】 ピアニスト近藤由貴/ Brahms Waltz Op.39-15, Yuki Kondo - YouTube

 

何を仰いますか、アノモーツアルトはな、いつも貴婦人たちに対し「ウンコ、ウンコ」とさう連呼して居たのだと云う。

其れに天才はな、さうして常に逆のものをこそ見詰めて居る。

 

例えば美はむしろ醜を見詰めることでこそ完遂され得るのだ。

だから其の位のことは例えば東京藝大出ならば誰でもが知って御座る。

 

でも此の辺には余り居ないのだなソコまで分かって居る奴そのものが。

 

 

兎に角おまえは変わって居るな。

一体全体おまえは何者なのだ?

 

だからあくまで外見は至極普通のおじさんにしか見えません。

また服装も地味なのでむしろ目立たぬ位だ。

でも頭の内容がブッ飛んで居ることだけは確かでせう。

 

 

そんな苦悩する私は今心に泪を流して居る。

 

エッさうして泣いて居るのか?

其れは一体何故だ?

 

其れはかの斎藤先生の本にスッカリやられて仕舞ったからだ。

 

斎藤先生、今私はアナタ様の僕に是非なりたい。

アナタの下の方の面倒を是非みさせて頂きたい。

 

いやだがそんな若手の哲學者にはまだ介護は必要じゃない筈だ。

むしろおまえの方が危ないのではないか、實際もうギリギリではないのか?

 

いや最近は健康診断の方もロクに受けて居ませんので此の體がどうなって居るものやら確かにまるで分かりません。

 

ですがまだ生きて居ます。

其れだけは確かなことでせう。

 

 

ワクチンの方もまだやって無い?

まるでやっては居ない。

年寄りはワクチンでもって死ぬる可能性もあるので出来れば打ちたくは無いのだが。

 

 

さて眞面目な話私の頭の中身は今革命されて居る最中です。

 

其の『人新世の「資本論」』に就き本日は276ページ迄読み進めてみました。

其れで余計に凄いことになって来て居ますのです。

 

まさに此の本の全編を通じ斎藤先生は我我が今受けて居る制限や苦しみが資本主義が齎す必然的弊害である旨を述べられて居る。

まずは其の御意見に対し全面的に賛同させて頂きます。

 

私の場合正直其処まで資本主義を悪者扱いして居た訳ではありません。

但し地球環境をまさに破壊しつつあるのは其の資本と結託せし科学技術であることだけは疑うべくも無いことです。

 

ですが問題はむしろ其の資本の力こそがすでに長く現代文明を推進させて来たことです。

現代文明ばかりか我我個としての生活其のものを成り立たせて来て居るのです。

 

なので其の資本主義を否定的に扱うことは一面では我我の生活其のものを否定して行くことにも繋がらう。

だから其処で其れこそ右だらうが左だらうが全面的には其れを否定し切れぬ訳だ。

 

しかしながら其の辺りのことは日本共産党の偉い方々にでも私が直に聞いて確かめて置くべきなのやもしれません。

もしも政権を掌握した場合に日本共産党はどんな経済体制を布く積もりなのか、まさに其の部分をこそハッキリさせて置く必要がある。

 

 

ですが『人新世の「資本論」』によるところでの新解釈でのマルクス主義は其の日本共産党の党是とはまるで無関係なところにあります。

 

其処からもどうも此の『人新世の「資本論」』によるところでの新解釈でのマルクス主義を左の思想と決め付けるべきでは無いやうな気がしてならない。

まさに其の右だの左だのと云ったイデオロギー対立を超越して仕舞って居るのです。

 

果たして其れは如何なることか?

では其の部分に就き以下に述べてみませう。

 

1.本書の思想的目的とは世界を破壊に至らしめる資本主義体制を打倒し新解釈としてのマルクス主義による新たなる体制を世界標準として規定して行くことです。

2.本質的に其れは思想としての対立から選択されるものでは無く地球を破壊に至らしめぬ為にこそ選択する刷新であり変革の流れです。

3.現實として現代社會に於ける矛盾を生み出して居るのは資本主義による利益至上主義でありつまりは其の強欲としての非道なる部分だ。

4.斎藤先生はさうした破壊はイデオロギーに関係無く今すぐに止めるべきだとさう述べられて居るが其の御意見には全面的に同調させて頂きたい。

 

で、最終的には文明に是非制限が加えられるべきだと述べられて居る。

でも其れ即ち私の限定論と全く同じ結論ですね。

 

しかも其れが理性的に制御されねばならぬのであり其れ即ちかのカントによる「定言命法」のことなのでもまたありませう。

其の理性の限界を指摘して居ると云う部分に於いてまさにカントこそが史上最高の哲學者です。

 

文明ー社會ーの問題は全てが最終的には理性のあり方にこそ帰結する訳で其れも結局は「眞の理性は自己規制」すると云う命題にこそ突き当たる訳だ。

 

逆に申せば儲け主義の強欲資本主義に於ける理性とは名ばかりの理性であり嘘の理性のことです。

 

どだい投資でもって儲けようとして居るやうな奴の馬鹿さ加減に良くぞ社會は付き合って来たものだ。

つまりは其れも社會其れ自体が狂って居るからこそさうなって仕舞うのだ。

 

尚いつも私が「馬鹿」だ「阿呆」だと罵倒して居るのはまさにそんな社會の誤りに就きさうしてストレートに指摘して居るのです。

まあ其れ以外にも大衆のおバカな様を罵倒してもおる訳なのですがむしろ其れ以上に社會としての価値観の誤りに就きさう指摘して居る訳だ。

 

要するに口は悪いが其れこそ眞心からして居ることなのだ。

 

 

で、最終的には其れこそ論理的哲學的には其の資本主義を今すぐに止め新体制へと移行させないと文明の継続がもはや無理なところまで来て仕舞って居る。

 

ですが結局「しがらみ」がまとわりつき結局は何も変えられずにいつも終わって仕舞う訳です。

 

だが今其れをすればもはや文明の未来などは無い。

 

だから孫がウジャウジャ居ても彼等を将来苦しめるだけのこととなる。

 

インテリー心の?ーは普通其処ら辺りまでは考えますので子孫が欲しいなどとはまるで思わぬ訳です。

 

 

イザ本を読み終わったら資本主義批判の部分、またマルクス主義の新解釈の部分と云うやうに各論的に此の新解釈のマルクス論を読み解いて行ってみませう。

斎藤先生による資本主義批判は辛辣でもって至極手厳しいものです。

 

まあ私は仰る通りだとあくまでさう思いましたのですが。

いずれにせよ斎藤先生の論理が頼もしくも思え何やら安心さえしました。

此処まで言える學者が居る限りはまだまだ日本の知性も捨てたものでは無い。

 

と同時に私自らが進もうとして居た体制としての方向性にお墨付きを与えて下ったやうな気さえもし其処はむしろ頗る気分が良い訳です。

また『人新世の「資本論」』を読んで左派の人々は勇気付きられまた逆に右派の人々も勇気付けられこととなる可能性が無いでも無い。

 

そんな稀有なるケースでもって現代の苦悩する理性に対し此の本が一筋の光明を投げかけて呉れるのであればまさに其れは先生の論理の大きな価値を示すものとなる。

 

今回もまた総論的に論じて仕舞いましたので兎に角次回からは各論的に其のマルクス主義新解釈の論理的整合性を重視しつつ見て行かうかと思って居ります。

まさに驚愕としての革命論ー『人新世の「資本論」』を読んで 壱ー

さて私が掲げる理性至上主義とは大枠では以下の如き構造をとります。

 

1.体制の骨子をなす思想には正誤の差がある

2.理性に於ける正しい選択とは全体論的帰結からの選択である

3.理性により文明をソフトに着地させることだけが可能である

 

1.に就いて

所謂思想は全てが間違って居るのでは無くむしろ其の一部に正答が眠って居るのです。

逆に何が間違って居るのかと申せば結局は其の選択に於いて間違って居るのです。

 

2.に就いて

以前から私は二元概念対立の幅をむしろ其の侭に見詰める全体論者であるとさう申しても来ました。

其れは要するにより広い視野を持つ為にさうして来ざるを得なかったものです。

 

また所謂直観的解釈は合理と非合理、また論理と感情と云うやうな二項対立要素の超克を前提として営まれるものです。

然し此れは大衆的な認識に対してはほぼ無理なものであることもまた確かなことである。

 

3.に就いて

理性とは反省のことでありまた其の逆に突き進むことなのでもまたある。

 

反省⇔突進

人文理性⇔還元知

 

還元知は部分知ですので全体論知としての人文知性こそが是非必要です。

 

人文知性を欠く科学技術知、自然科学知の偏重は其の一方通行での全体主義の温床ともなり得るものだ。

よって科学技術知、自然科学知は本質的には無くなってもまるで構わず。

 

でも状況は深刻です。

事實上はまさに其の本質的には人間にとって要らぬ科学技術知、自然科学知により地球の破壊を何とかして止めて行くことしかもはや出来ぬ訳だ。

 

4.馬鹿と云うのは其の理性を欠く状態のことだ

5.獣と云うのも其の理性を欠く状態のことだ

6.つまりは理性の使い方、使いどころが誤って居るので今人類が總おバカ化して来て仕舞って居る。

 

 

では馬鹿では無い人のお話を是非伺いたいものだ。

 

いや私は丁度今其の作業に着手して来て居るところだ。

 

昨日は御日柄も良くまずはあかのれんへ行き中国製のシャツを弐枚ーで約弐千円ー買って来たのです。ー其れも好きなストライプ柄のー

ーかうして私は服装には無頓着でむしろ粗末な服、質素な身なりを好む傾向が強いー

 

帰りに七五書店へ出向くと相変わらず人文系が強いところで地元の文化人ー直木賞作家ーなどの色紙が飾ってあったりもする。

無論のこといずれは其処へ私の色紙も置いて貰う積もりです。

 

すると其処に「No.1」と印字された新書が山と積まれて居た。

いや其れが昨年来是非読みたかった『人新世の「資本論」』でした。

 

其れも「2021新書大賞 第一位」とありおまけに「27万部突破」とのことでした。

 

著者の斎藤  幸平氏は気鋭の若手哲學者であり且つ経済、社會体制史などにもお詳しい方です。

 

若手の學者だけあり結構過激なことも述べられて居るやうですが根が眞っ直ぐな感じで私が好きな學者の一人です。

かのマルクス・ガブリエル氏との共著本などにも意見を書かれて居たやうに記憶して居ます。

其れが何故か『人新世の「資本論」』だけ昨年アマゾンにて買い忘れて居りまだ読んで居なかったのです。

 

まずは其れを買い込み半分程読み進めてみました。

 

読んでみるとグイグイと引き込まれるまさに力強い本です。

三十台と言えば私共還暦世代の子の世代ですが其処は流石にバリバリの學者さんだけあり頭のキレが我我年寄りなどより遥かに良いですねえ。

 

では其の感想に就き纏めます。

 

1.此れぞ馬鹿以外の全ての理性に是非読んで頂きたい究極としての人文書です

2.何故か私自身の思想をまさに代弁して下さって居るかのやうな本だった

3.マルクスの思想を所謂左派を超越する視点でもって捉えられて居る

 

で、斎藤先生は大阪市立大学大学院の准教授であらせられる訳だ。

尚私は結局関西と云うのは革新系の思想が強いのだと元々思って居る。

 

其処は名古屋もまたさうなのですが、江戸時代にああして幕藩体制として江戸がやって居た訳ですので其れがどうも気に食わぬ部分がどうしてもあり其れでもって共産主義だの創価学会だのが蔓延り易い地盤にあるのやもしれません。

 

 

尚私は現在「赤旗」の愛読者です。

尤も日本共産党を始めとする日本の左派を此処五年ばかりはむしろボロクソに批判して参りました。

 

其れは何でかと申しますと日本に限らず世界中の左派は唯物史観即ち進歩思想の信奉者であり要するにイケイケドンドン派だからなのであります。

其のイケイケドンドンなことを突き詰めて参りますと其れこそ宇宙へは出るわ、軍拡競争にて核兵器はしこたま造るわ、さらに婦女子と障碍者の人権なるものが過分に重視され嗚呼まさに儒教的秩序なるものが、其の上限関係がまさにグズグズに破壊され其れこそ援助交際は○だわ、爺婆は死ねだわ、障碍者は神様です、だわで其れでは幕藩体制がかの家康公がやっと築き上げた人文理性としての礎がボロボロに壊されもはや三島先生みたくに沈没して行く他は御座らぬではないか。

 

三島先生、先生はよもやこんな左派政策を御認めになっては居らなんだ筈だ。

三島先生、此の際共に特攻致しませう。

是非御一緒させて下さい。

 

我が爆弾を抱えアノ國會議事堂へと飛び込みまするが故に!

ーあくまで文學的に飛び込むと云う意味でほんたうにテロをやる訳では御座らぬ、念の為にー

 

いま少し眞面目に申しますとマルクス主義を始めとする左派の論理とは其の精神論の部分を反故にしてまさに進歩主義にて常に革新的な体制をつくり上げると云うものです。

謂わば其処が人間中心主義であり非宗教的世界観のものでもあり何でも変えて行けば良いと云う位でのものなのだ。

 

でも私はそんなのは嫌いだな。

但し私はかって暴力革命にも魅力を感じて居たほどでした。

 

 

問題は其の左派による非限定性がむしろ文明の持続性を不可能とする部分にこそありました。

だから私は逆に保守としての立場を貫き要するに限定者として行き革命などの無い平和な共同体主義でもって仲良く行くべきだとさう考えて居ました。

 

ところが其の共同体主義ナショナリズムとの相性こそが最悪でした。

尤も其れは当たり前のことで國粋主義とはまさに國家を大事にすることですので其処に共同体統治が生ずるべくも無いのです。

 

 

さうかうするうちに強欲金融資本主義=グローバリズムの流れが墓穴を掘り自らコロナ地獄へと転落して行ったのです。

さうです、其処にコロナちゃんが生まれみんなが其れにやられることになったのですう。

 

さらに幕藩体制化して居るー体制に胡坐をかいて居るー國會議員だの官僚だのの不祥事が相次ぎ起きうわあ、ついに保守の本質として馬鹿が噴出しちゃったな。

困ったなあ。

保守の馬鹿はほとんど体育会系での理性無きノリだからもう歯止めが効かぬぞよ。

 

事實其の通りとなりもう政治家だの官僚だのを東大に任せて置いてはダメなんじゃないかと云う位に社會は荒れても参りました。

 

いや東大はまだしも、其の田舎の出の総理大臣、かの弐名が特に無能で自民党と云う保守の名の下に大矛盾政策ばかりを實行して行くのです。

此の田舎の出の奴等の都會への憧れ、まさに其れが日本の近代化を牽引して行ったことでせうがまさに其れは田舎者思想以外の何ものでもありません。

 

逆に眞の都會としての知性は近代的価値を否定してかかるものです。

 

ですが近代的価値にもまた良いところがあります。

即ち其れが封建的非合理性の排斥のことです。

 

要するに合理化されると云う部分です。

でも何も婦女子やら障碍者の人権ばかりを確立せずとも良いやうにも思われるのだが。

 

 

第一日本共産党は何故日本の民主憲法を守るのだ?

私にはまずソコが分からん。

 

まあかように思想の世界、政治の世界、また官僚統治の世界はまさに矛盾だらけにて其の矛盾を矛盾の侭にむしろ体制に胡坐をかきつつ続けて行く訳だ。

 

もしや其れって悪い保守であり悪い踏襲のことだよ。

何せさうして米國の🐕となり果て保守政党が保守としての正しい選択の出来ぬ日本社會ですのでもう全てがグズグズに壊れて来て仕舞うのだ。

 

其れはコロナ禍とはまた別の日本の体制が抱えることだらう構造的矛盾だったのです。

まさに其の自立的な判断を政治がまた行政が欠くと云う事態こそが異常なことだったのです。

 

 

てな訳で、要するに左もまた右ももうぜんぶがダメでした。

私と云う理性は其れにガッカリしもうこんなもんは絶対に無視したる。

 

其れに僕は本来ならば藝術家だからもうおまえらは全部無視して我自身の藝術にこそ生きる。

と苦し紛れにさう判断したのでしたが其れが實に間の悪いことに宗教や政治思想は私にとってのアヘンだったのです。-かってかのマルクスが言ったやうに確かにさうでした-

 

以降私は禁断症状に苦しむこととなりむしろこんなに苦しいのならまた革命を目指した方が良い。

 

との結論を得ました。

革命を目指すのであれば是非「赤旗」を読まねばなるまい。

 

 

だから其れを今読んで居ます。

ですが、私が目指す「革命」は至極理性的なものなのであり謂わば其れはマルクス原理主義とでも言えることであらう平和主義から齎されるものです。

 

其の平和裏に行われる革命に就きまさに斎藤先生が『人新世の「資本論」』にて述べられて居ます。

要するに此の本の主要な論点とはまさに其のマルクス主義の再評価としての新解釈の部分にこそある。

 

まさに其の部分を如何にも大學の先生らしく様々な観点より論理的に組み上げ取り上げられて居る。

ですが私のものはいま少し直観的なものですので其れに対し此処までの説得力をなかなか与えられぬ訳です。

 

但し昨年私はマルクス主義のことも屡書いて居た筈です。

 

其れは左派思想の持つ合理性にこそ体制の持続可能性を重ね合わせて行くと云う類での作業でした。

さうなんです、合理性はまさに世界を破壊しにかかるのですが他面では實は世界を救うのです。

 

 

合理性⇔非合理性

 

其の東京一極集中での幕藩体制の履行が過ぎれば逆に非合理的要素が増し最小限必要な合理性の部分をも圧迫するに及ぶ。

東京一極集中と云うのは要するに江戸幕府のことですので其の田舎者の総理を始め國會議員にせよ官僚にせよ皆其れが幕臣である訳です。

 

ですが関西には商魂か又は京大のボケなどもまたある訳でひょっとしたら革命思想の巣窟なのやもしれぬ訳です。

第一京都などはもうほとんど革命都市でせう。

 

で名古屋はどちらでも良いと思って居ましたのですがすみませんのですが私に限り今回もうスッカリ此の本にやられて仕舞いました。

いやでも東京に革命思想が無い訳でも無く第一安保闘争やら何やらで昔は凄かったでは無いですか。

 

ではイザ革命ですか?

此の際其の革命へと走るのですか?

 

 

さうです、今こそ其の革命へと走るべき時なのです。

革命へと走ると例えば天皇家だのまた宗教だのはヤバくなりませんのですか?

其れに伝統だの家父長制だのそんな旧来の価値に対し著しく制限が加えられるのでは?

 

いや、其れがさうでは無いのです。

であるからこそ此のマルクス主義の再評価、新解釈の部分にまさに私は脱帽した訳だ。

 

 

ですがおそらく日本共産党などは其の論理を???と思うのではなからうか。

其ればかりか立憲民主党なども??と思うのやもしれません。

 

全くのところ斎藤先生による此の新解釈はまさにマルクス主義に於ける革命的価値転回です。

 

でも革命なんて嫌いだ!

何せ僕は解脱したいだけなのだ。

 

まあさうマルクスを毛嫌いせずとも。

まずは此の本を読んでみて下され。

 

「革命」と云う言葉其のものでそもイメージが悪くなる訳だ。

革命とはテロである位に特に戦後の日本人は思って居るので「革命」と云ったが最後もうおまえはテロリストだとさう決め付けて来る訳だ。

 

でも「革命」こそが文明を立て直す最後の手段である位のことを斎藤先生は述べられて居る。

其の大前提としての資本主義の末期的症状と云うことがまずはあらうかと思う。

 

資本主義は収奪を繰り返しつつ資本を増大させるー利潤を積み重ねるーと云う非限定性を元々兼ね備えて居る。

 

市場とは其の利益を合理的に得る場のことだが其の市場は今や地球環境や宇宙開発に対してもしかと開かれて居る。

此の非限定的な儲け主義が地球や宇宙までをも商品と化し其れをやがては食い潰す即ち破壊に至らしめて仕舞う訳だ。

 

 

父ちゃん、さうして働いて呉れてありがたう。

お蔭でボク等は今豊かでもって便利な暮らしを享受することが出来る。

 

嗚呼、君は偉いね、さうして労働に感謝することは良いことだらう。

とさう思うのかもしれぬのだがあくまで其の善意としての労働により地球環境は破壊されて行く訳だ。

 

但し其の事は極一部の人にしか分からない。

其れは斎藤先生のやうな學者か又は宗教家や作家や詩人などの學問か又は感度に優れる人々で無ければ感得されぬことなのだ。

 

 

元より資本主義は大幅に限定される必要があった。

其れが廿世紀後半は特に加速し其の抽象性を高めて行くこととなった訳だ。

 

斎藤先生は其の資本主義の修正はすでに限界を迎えて居り新体制としてのマルクス主義による価値の創出が最も有効だと考えて居られるやうだ。

 

ちなみに私が今取る思想上の立場は、

 

1.正しい思想はかってあったか又は創り出せるもの

2.悲惨な現状は誤った解釈か選択によるものだ

 

とのことである。

だから思想を是非正さねばならない。

 

 

資本主義がさうして根本的に誤って居るのであれば即刻其れを止め晩期のマルクス主義思想による新たな体制への移行を急がねばなるまい。

そんな全共闘のやうなことをイキナリ言われましても…。

 

全共闘なんかじゃ無いわい。

日本共産党とも違うぞ。

 

ましてや中國共産党とも無関係なのだしソヴィエト國家としての社会主義ともまるで無縁だ。

 

其の暴力革命が…。

 

だから言ってるだらう、暴力革命なんかじゃ無いわ。

 

其れにあさま山荘で…。

 

だから其んな総括リンチとはまるで関係無いのだって。

 

 

第一孫も要らぬだなんてそんな人非人みたいな冷たい方の言われることは…。

 

だって事實孫は要らないもん。

どだいさうして孫がウジャウジャ居るからこそ人間は精神的にダメになるのだ。

 

 

いいかい、此れは斎藤先生も仰って居ることだが、

 

1.資本主義は地球を本質的に破壊へと至らしめる

2.資本主義は最終的に資本主義其れ自体を収奪する

3.経済学はそんな破壊的な欲望の奴隷である

 

と云うことである。

 

つまり地球其れ自体を収奪し且つ破壊し尽くすのは誰あらう資本主義と云う経済体制によるものなのだ。

と云うことは現在の我我の苦境、おおまさに神佛に救って頂く他は無いやうな矛盾やら不幸やらに苛まれて居るのはまさに其の強欲資本主義による利益追求至上主義による結果なのだ。

 

 

で、其れは保守にとってもあくまで矛盾となることを決して忘れてはならぬ。

 

保守はね、只古き良き日本の価値を守りたいだけなのだ。

其れは一面では正しい。

 

何故なら文明は文化はさうさう変わるべきものでは無い。

でも弁証法的進歩過程は其の伝統だの秩序だのを反故にして行くものでもある。

 

なので日本の体制其のものがそも大矛盾を抱えて居る訳だ。

そんな無難な保守をやる為にむしろ革新性としての進歩に頼って来ざるを得なかったことこそが其の大矛盾なのだ。

 

なる程、だから保守もまた馬鹿ではイケナイのですね?

 

其の通りだ。

保守はそもみんなが野っ原で日本の生き物と仲良く暮らさねばならぬ。

其れもメダカやゲンゴロウや在来種のザリガニやオオサンショウウオなどを愛さずしてどうするのだ?

 

だが實はそも其れを守る為の新解釈でのマルクス主義なのだ。

 

 

なにぶん保守の方がどうしても頭が悪くなりがちなのだ。

対して左へと寄った弁護士だの大學教授だの医師だのは大抵は頭が良いと来てる。

 

じゃあもしや新解釈マルクス主義も頭が良いんですか?

 

良い。

其れは今此処で保証して置いても宜しい。

 

そもまだ半分しか本を読んで居ないのにさう何で断定することが出来るのだらう。

 

半分も読めばもう全部読んだも同然よ。

 

 

其の新解釈マルクス主義はほぼ完璧に理論的整合性を保って居る。

でもボクはあくまで田舎の保守人間ですのでかうして東京へは参勤交代を欠かさずにしてそんな京都やら名古屋だのの変な革新性などが大嫌いです。

 

だがすでに東京にも新解釈マルクス主義者がおそらくは居るのだ。

其れも政府やら官僚だのまた日銀に対してもうキレてる人がボロクソに其れを批判したりもして居られることだらう。

 

其の新解釈マルクス主義者の群れが今後の日本を革命へと導くのですか?

でも一番重要なことはすでに地球が壊れかかって居ることだ。

 

 

つまり問題の核心は日本を保守すること以上に地球を保守せねばならぬことなのだ。

日本のみんなは其れでもなかなか変わりたくは無いことだらう。

 

此れ迄のやうに美味い飯を食いまた美味い魚を食いまたさらに美味い日本酒をたらふく飲みしかも其処で日本の👩の尻をちょろりと触り最後には必ずや孫の頭を撫で「コレがワシの生き甲斐だ」などと言うのであらう。

 

だって其れ平和でもって至極良いことでせう?

革命だの何だのむしろアンタ方の言ってることの方が気が狂って居るではないか!

 

いやさうでは無い。

眞の保守とは、今まさに其れを守らねばならぬと云うことなのだ。

 

 

守ることとは闘うことである。

ホレ、昔武士がさうして戦って領地を守っただらう。

まさに其れが保守としての守り魂のことだ。

おおまさに其れぞ武士の魂としての要諦のことなのだ。

 

ではもしや其処でマルクス武士も有り得ると云う事なの?

さうだ、其のマルクス武士も今後は大いに有り得やう。

 

其れもコレも資本主義と云う強大なる悪と闘う日本の新しい武士団の誕生なのだ!

 

ところでアンタはそも左派なんですか、其れとも右派なの?

もはや右左には与せず。

 

其の右左と云うイデオロギーの類別其のものがもはや概念的には古いのだ。

 

では次回は此の「新解釈マルクス主義」に就きもう少し詳しく見て行かう。

其処で論点として据えるものこそがまさに「思想的矛盾」への挑戦と云うことだ。

持てる者と持たざる者の眞の意味 弐ー欠落部=前半部ー

持つ者と持たざる者


此の庶民としての問いに対しさても御坊様方は何を答えられて居るのでせうか?


まずは他と「比較する」と云うこと其れ自体がオカシイと云うことを述べられて居るやうだ。

ところが我我はつい比較して仕舞いがちだ。

でも所詮其れは認識上の曇りが齎す相対論議なのです。


だが其の相対論と云うのは現代に於ける価値認識のむしろ主流でもある考え方です。

科学的思考ー相対論や量子力学にせよーまたさらに哲學ですら例えば構造主義による文化相対主義などと云うやうに相対的価値認識こそが現代の主流での価値観です。


ですが其の価値観こそがむしろ個としての幸福のあり方を圧迫しさうした所謂金儲け至上主義だの行き過ぎた自由の蔓延だのに繋がって行く虞がまた大きくありませう。

ならば我我個はさうした社會が奉ずる価値観を一旦退いた上で御坊様方や神父様方がかうして御教えになって下さる価値に就き學んでいくべきなのではなからうか。


其の御勉強と云う事には矢張り弐種があり、其れは頭の内容に関するものと心の内容に関するもののことだらう。

しかしながら現代人は概ね後者に関することがまさになって居ない訳だ。


またつい其のプライドに拘る部分なども現代人の悪い癖なのだらう。


だがむしろ眞に理性的なこととはプライドを減じて行くことである、などとも私は考えて居る。

でもおまえはいつもさうして自分は理性的な人間だと何処までも威張って居るぞ!


いや其れはあくまで文學上のプライドのことでむしろ私は其れこそルンペンさん並にプライドには縁が無い。

ところで其の煩悩と云う事はむしろ社會的な関係性から生じて居るものがほとんどである訳だ。


家族の中で言えば家族の中で、また親類縁者の中で言えば親類縁者の中で、さらに町内会の中で言えば町内会の中で、さうして會社の中では其の會社の中で常に力関係だの何だのさうした社會的価値を比較されることこそが近現代社會が奉ずる相対的価値観のことですので其れにドップリ浸って仕舞ったが最後もはや其処で身動きが出来ぬやうにもなって居ります。

 

 

 

以上の部分が欠落して仕舞い訳の分からぬ文章になって仕舞って居りましたので補足して置きます。

 

尚ネット上で大乗各派の御坊様方はむしろ最大限に説法をされたりもして居る訳です。

 

さて変なことを申しますが、御坊様もまた宗教としての社會的価値にドップリ浸かって居ない若い世代の方々の方がむしろ分かり易く法を説いて居られるのやもしれません。

 

世俗だらうが出家の世界だらうが所謂しがらみと云うものが事の眞相の部分、また本質的な意味の部分を何故か隠し其れ以上其の価値を吟味して行くこと自体を不可能として仕舞います。

 

さうした意味では旧来の価値にドップリと浸かり其処でもって温泉気分になって居る露還暦以降の世代はむしろイカンのではないだらうか。

 

むしろ還暦世代は現代社會に対し是非宣戦布告するべきだ。

アンタの孫、其の弐匹も参匹も居る孫はむしろこれからどんだけ苦労することだらうか。

 

だから孫の顔を見るなどして単純に喜んでおってはイカンぞ。

 

孫?

ヘッ、居るか、そんなもん。

 

我はかうして社會を糾弾し其れと共に宗教的自我を生きるのだよ。

 

ああ、でも🐈に孫はすでに生まれて居り實は其の数が多くて困っても居ります。

 

 

まあいずれは曹洞宗の若住職と禅の教義の上での観念論議を是非したいところです。

 

何せ私が佛法上の疑問をぶつけさせて頂いた御住職は御二人ともすでに身罷れて仕舞ったからなのです。

 

かうして人間は坊主だらうが學者だらうが必ずや死にます。

まあ私は死ぬる瞬間まで多分考え込んで居りませう。

何故なら其れこそが私にとっての一番の幸福だからなのです。

自分の頭とペースでもってさうして考えて居ることこそが。

 

持てる者と持たざる者の眞の意味 参

ですので、其れはむしろ其の顛倒せし認識でもって自己が成り立って居る訳ですので変わりやうが無いのです。

変わりやうは無いが、其れを続けて居る限りは苦は逆に増して行くと云う事なのだらう。


であるからこそ他と比較しつまりは社會的に比較し自己を規定してはならぬのだと私は思う。



また此の曹洞禅の御坊様は最後に凄いことを述べられて居ます。

要するに其の「持つ」「持たぬ」と云う分け方其れ自体が分別概念による妄想其のものでもある訳だ。=「莫妄想」


尚此の部分は少し考えてみますればすぐに分かります。


投資での儲けが好き⇔そんなあぶく銭が嫌い

👩好き⇔👩嫌い

明るい⇔暗い

無頓着⇔神経質

軽い⇔重い


自身が壱方に規定されれば他方の気持ちは本質的には分からなくなります。

ですが他方は常にまさに自分には欠けるものをこそ持って居るのです。


金持ち⇔貧乏人

會社員⇔ルンペンさん

お馬鹿⇔お利口


其れは實はどちらが偉いと云う問題では無く其の分別概念其れ自体が妄想だと云うことなのです。

何故ならあくまで他は自分が決して持ち得ぬ価値を持って居る訳なのだから。


尚個人的には此の相対分別による認識上の誤謬は哲學的即ち理性的にも判断することが可能だとさう考えて居ります。

尤も其の先での認識に就いてはもはや観念的論議では収拾が付かなくなる問題となるのやもしれませんのですが。


宗教的な解釈にせよまた學問的な解釈にせよいずれにせよ其処には強靭なる理性の場が是非必要となる訳です。

特に釈迦の佛法は高度に理性的なものであり基本的には其れは他力救済を認めぬ程に強靭なる理性としてのものでした。


但し他力救済は其の人間の矛盾を矛盾として受け持った侭で何かに救われて行くと云う考え方のことです。

さうした或る意味では現實に即した救済法ですので釈迦の佛法や禅宗程に突き詰めて考えて行く必要は無いのやもしれぬ。


要するに人間の馬鹿ー無明=迷いの様ーをそも前提とした救済としてのあり方なのだらうから。


然し個人的にはあくまでかうした禅の持つ理論性にもう何処までも惹かれて行って仕舞うのです。

其の論理とは本質的にはむしろ脱論理ですが、其の脱論理するまでの観念性たるやもう脱帽したくなる程にやられて居て矢張りと言うべきかどうしても其の部分にこそかうして引き寄せられて行く訳だ。


禅!

もしや其の禅と勝負する時が愈愈来たのか?

いやでも其の前に大乗佛教に於ける問題点に就き幾つかを是非考えて置かねばなりませ

ん。

持てる者と持たざる者の眞の意味 弐

要するに世間が声高に権利だ、また自由だと叫ぶ割には此の社會の有り方は如何にも不自由でありむしろ牢獄のやうなものなのではありますまいか。

ですからまずは其の比較、此の部分を理性的に是非断ち切るべきだ。


其れでもって余り考え過ぎて苦を増大させるなとも御坊様は仰って居る訳ですので理性的に比較を遮断した後には考え過ぎずに其の様を傍観して居れば良いのであらう。

 


次なる回答者の御坊様が以前より私が壱ファンとなって居ります臨済禅の川口 英俊師で御座りまして其処は流石に禅宗の御坊様らしく最終的には心の向上を図ることこそが佛法上での目的である旨を述べられて居ります。

要するに此れもまたそも其の比較すると云うこと自体に認識上の顛倒がありつまるところは正しい認識では無いのでそんな状態でたとえ幾ら努力するにせよ根本のところが間違って居るのでついぞ幸せにはなれぬので御座ります。


さらに曹洞禅の御坊様がまさに何処かで聞いたことのあるやうな「莫妄想」と云う概念を述べられしかも其れに就き解説して居られ其処でもって矢張りと云うべきかかうしてちゃんと説明して頂けると能が足りん凡夫共にも佛法が至極分かり易くもなる訳です。


御坊様曰く、弐見にわたる分別心こそは妄想である。


でも其れはいつも私も申して居る事ですので何となく分かって頂けるのではありませんでせうか。

尤も私は別の言葉でもって其れを申しては居りますが。


相対(的)分別⇔絶対的脱分別


其の分けて捉えて迷いとしての境涯、迷いとしての認識を成り立たせて居るのが我我が奉ずる非我だと云うことです。

非我に基づく其の認識上の錯誤を隠滅せしめて行かんとするものこそが禅宗に於ける観念的な方向性なのだと考えられる。


考えつまりは智恵の部分ではさうだと云うことです。

ですが其の智恵の部分だけが分かっても結局悟りには程遠いので座禅を組み行動の上から自らを律して行きます。


其の妄想と云うことは、結局近代の営為其のものが妄想の如きものでもまたある訳です。

さうして相対認識をより突き詰めて行き人間にとっての幸福を追い求めて行く訳ですが根本のところがなって居ないので其れにより本質的には救われません。


たとえ本質的には救われずとも、他力救済即ち大乗佛法やキリスト教による救済は其れでも其処に生きて居ります。


他力救済とは人間の馬鹿を馬鹿の侭に救うと云うことであり自力救済とはあくまで人間の馬鹿を自分でもって治しまさに自分でもって救われると云うことです。



要するに禅宗はまさに其の認識に於ける根本義を問うていく宗派ですので葬式佛教だの形式佛教だのとは異なり論理形式の方も實はかうして大事にして居るのです。


なのですが最終的にはまた其の論理形式をも放棄して行くところこそが禅宗の分からん部分でありまたプライドが有るのだかまた無いのだかも分からぬ部分なのです。

では禅宗はたとえばじぶんのことをインテリ宗派だと思って威張っては居ないの?


實際のところではそりゃ分かりません。

浄土眞宗の御坊様方は普通威張らぬのですが其れでも實はプライドはあるのじゃないかとさう見ても居ります。

だから禅宗にはまず其の倍程ものプライドがある筈ですがでもほんたうの禅宗とはむしろ其れをも滅して行くものなのやもしれません。

 

 

 

 

兎に角其のアナタの所謂分別相対価値こそは妄想です。


さうイキナリ申されましても、かうして僕は僕で妻は妻で子は子ですが…。

いや其れが實在しないのだな、本質的には。



でも其れではアノカントの認識論とまるで瓜二つではありませんか。

さうだね、カントの認識論と佛法に於ける認識論は實際良く似て居るのだよ。


ですから、所謂世俗での認識と聖なる世界での認識はまるで異なるものなのですよ。

そこんとこを反故にして佛法だのカントだのが理解など出来やう筈も無い。

 



壱番良くないのは、現代人はさうした根本での認識が濁りに濁りむしろじぶんが眞相の部分を、其の世の實相の部分を理解して居るなどとさう思い込み易い部分です。

ですので佛法やキリスト教などの聖なる認識の部分に就きちょっと勉強した位でもう其れが分かったなどとは思わぬ方が良いのです。



エッ?

人のスペックはトランプのカードみたいなもの?


即ち無いカードなどハナから使えやせぬのだと。

まさに仰る通りで、其の強欲カードがそも私には無いので強欲投資などがまるで理解出来ぬのであります。


逆に申せば其の投資野郎にはむしろ私のやうな善人振りと申しますか心ある部分と申しますか其れがまるで分からぬことなのだらう。

さても何処かまた威張ってませんか?


いや最近自分が善人過ぎるのがむしろ苦痛になって来て居るのであります。

さうした人は結局貧乏籤を引かされ損をするやうに此の世は出来て居るのだらうから。


でもアンタは善人ではまるで無いよ。

第壱さうして毎回社會を論理的に罵倒し文明はダメだとさう言ってるのだからおまへはむしろ悪い奴つまりは観念の👿=魔だらう!



其れは其れはどうもすみませんでした。

でもむしろ今後も私は変わることなど出来ません。


持てる者と持たざる者の眞の意味 壱

 

「持てる者と持たざる者」(もてるものともたざるもの)の意味 (jitenon.jp)

 

とのことで持って居る人とは金を持って居る人のことで持たぬ人とは金が無い人のことを言うやうです。

ですが其れもあくまで通俗的解釈なのでは?

 

何故なら聖書に「持てる者はさらに与えられ、持たざる者はさらに奪われるであろう」(マタイ伝)と云う言葉があるさうだ。


此れをどう解釈したら良いのかと云う事であるが結局検索しても良く分からなかったので自己解釈してみるとしやう。


まずは其の持ってるモノが物かどうかと云うことさえもが分からない。

ですがとりあえずは聖書とは精神的な内容を述べたものである筈だ。


と云う事は字義の通りに解釈すれば「持てる者」即ち神を知る者はさらに与えられ神を知らぬ者はさらに奪われて行くのだとさう解釈されやう。



ところが今は其れを物質的に解釈して居るところがほとんどのやうである。

だから私にはまずは其の部分こそが疑問なのである。


私は現代と云う時代過程の価値を「合理化」として捉えて来て居り其の合理化過程こそが善悪対立としての最終戦争ーズバリ其れがハルマゲドンのことだーのことだとさう考えるに至った。

合理化とは数的還元の価値に操られる所謂功利主義的世界観のことであり其れをいま少し噛み砕いて言えば現世利益主義のことであらう。



現世利益主義即ち功利的価値観の中には其のやうに基本的に思考が欠落して居やう。

よって金儲けは考える力の醸成には決して繋がらず。



だが物質的な富を持ってる者にはさらに与えられ富の無い者はさらに搾取される、との解釈もまた同時に成り立つ。


ところがキリスト教に於いて富を持つことが+の価値とされて居るとはまた言い難いのではなからうか。

なので其の富の無い者はさらに搾取され其処でまさに死にさうになるが逆に其のやうな境涯にあってこそ神を見詰めることが出来るのだとも解釈されやう。



キリスト教ばかりか佛法に於いても物質的な富を持ってる者はむしろ何も持って居ないのである。

逆に人間は本来無壱物であることに気付いた修行者こそがまさに「持って居る」人なのである。


まず私が申したいのは凡夫ー一般人ーとしての認識が常に眞理とは逆方向から何かを見詰め論じて居ることの愚かさのことである。


で、其の正教に於ける価値認識が21世紀を迎えて以降はより理解されなくもなって来て居るやうだ。

要するに全てが合理的還元価値を基準とした価値認識をして居る訳で其のやうなことでは元より人間としての精神の未来など無いと私は常々よりさう考えて来ても居た。


で、他方では私は大乗佛法を是非合理化して置くべきだなどとも述べて来た訳である。



合理領域⇔非合理領域


此の二項対立領域が實は曲者で、其のやうに二元分離する関係性即ち相対分別認識には其の二元的要素に対し相剋し尚且つ相即する関係が築かれるが故に話が極めてややこしくなるのである。

尚其の関係性を見出したのは私自身による直観的解釈である。


其れでもって兎に角私が今述べて居ることとは功利的解釈ー合理的解釈ーにて精神の世界を論ずることは誤りではないかと云う疑問をこそ今まさにぶつけて居る訳だ。

要するに唯物論の世界へと傾き過ぎると正確な認識ー価値判断ーからはむしろ遠ざかって仕舞うのではなからうか。



第一其の「持てる者」と「持たざる者」との違いは比較でなどあってはならず、まさに其れは神か又は佛に対しての「持つ」「持たぬ」で無ければ宗教的にはまるでお話にはならぬ訳だ。

宗教とはさうしたあくまで實存としての認識を対象とするものでAの人は今壱億円を持ってるがBの人は今壱萬しか持って無いなどと云う数的還元価値の比較とはまるで別物なのだからこそ。


で、たとえ今百億を「持ってる」人でも神佛への機縁を持たぬ人なのであれば其れはむしろまるで「持って無い」人なのであらう。

逆に今拾円しかありませんのですが一体どうやってコレで飢えをしのぎませうや?


いや欠食したならしたでちゃんと神佛を信じて居さえすればむしろ大丈夫だむしろ君は何処までも生きられる。

其れに欠食したならしたでむしろ精神は黄金の宮殿にさえ住んでも居らう。


其れに其れは天國でも浄土でも良い、兎に角其の心を持ってることだけが現世での価値でありイノチの糧としての全てなのだ。


ですがもはや壱円きりしか持って居ないので我はもはや死にさうです。

ウソコケ、さうしてまだちゃんと生きてるじゃないか。


其れは壱体誰のお陰だ、結局は神佛の御力によるものだらう。

其のやうに實存としての価値を比較することなどは出来ぬと云う意味で宗教的に人間は平等なのである。


尤も其の平等性が担保される領域はあくまで絶対性をも視野に入れたところでの認識である。



相対的幸福⇔絶対的幸福


前回述べたやうに相対的幸福はむしろ社會構造として大多数の人をむしろ苦境へと陥れて行く。

其の幸福としての価値其れ自体を比較して仕舞うからこそ其の絶対的に齎される實存的価値からは遠ざかって行って仕舞うのである。


其の面では資本主義による自由競争原理や近代オリムピックによる能力至上主義などは其の全てが其の比較による正の価値ヒエラルキー序列としての具現化である。

まさに其れこそが近現代社會、近現代文明が奉ずる価値認識の正体なのだ。


本来比較など出来ぬ価値をさうしてワザワザ比較し元来平等である価値をワザワザさうして競争させ其ればかりか其処からしこたま搾取しても御座る。

さうしてみんなが正しいと其の価値を信じ込まされ其れもイキナリおまえなどはもう派遣だ、の、おまえなどはもう操り人形だ、など、そんな酷いことばかりを我我に強いさうしてチュウチュウと毎日毎日我我の生き血を啜って御座るのだ。


だが元より我我はそんなドレイなのでは無い。

奴隷では無いのに何時の間にか我我の精神をさうして功利的価値観ー現世利益主義ーへと引き摺り込みじぶんの頭ではついぞ考えぬうわあまるでもってロボットの如き人間とされて仕舞うのだ。



持てる者と持たざる者の格差が増大するということ - たぱぞうの米国株投資 (americakabu.com)


此処には何やら如何にもまともさうなことが書かれて居りますのですが個人的には其の投資をやり其れでもってひたすらに自己利益の拡大を図って居る人などは基本的に嫌いです。

但し其れでもって儲け世の中から引退すると云うのならば其れは逆に充分に理解出来るのですが。


さて其の投資をやり金を儲けて居る人が以前🏥へもバイトに来て居ました。


其の方は何もやらずに年間参百万は儲かるとさう言われて居た。


勿論其の収入の方がバイト代よりもずっと高い訳です。

其れでもって彼はデカいワゴン🚙などを新🚙にて買い求め屡其れに乗っても来るのです。



ところが其の人は悪い人では無くむしろ感覚的には私と合う人であった。

だから其の良い悪いと云う人間の心の基準其のものが其処でまさに分からなくもなる訳だ。



持つ者と持たざる者


此の庶民としての問いに対しさても御坊様方は何を答えられて居るのでせうか?


まずは他と「比較する」と云うこと其れ自体がオカシイと云うことを述べられて居るやうだ。

ところが我我はつい比較して仕舞いがちだ。

でも所詮其れは認識上の曇りが齎す相対論議なのです。


だが其の相対論と云うのは現代に於ける価値認識のむしろ主流でもある考え方です。

科学的思考ー相対論や量子力学にせよーまたさらに哲學ですら例えば構造主義による文化相対主義などと云うやうに相対的価値認識こそが現代の主流での価値観です。


ですが其の価値観こそがむしろ個としての幸福のあり方を圧迫しさうした所謂金儲け至上主義だの行き過ぎた自由の蔓延だのに繋がって行く虞がまた大きくありませう。

ならば我我個はさうした社會が奉ずる価値観を一旦退いた上で御坊様方や神父様方がかうして御教えになって下さる価値に就き學んでいくべきなのではなからうか。


其の御勉強と云う事には矢張り弐種があり、其れは頭の内容に関するものと心の内容に関するもののことだらう。

しかしながら現代人は概ね後者に関することがまさになって居ない訳だ。


またつい其のプライドに拘る部分なども現代人の悪い癖なのだらう。


だがむしろ眞に理性的なこととはプライドを減じて行くことである、などとも私は考えて居る。


家族の中で言えば家族の中で、また親類縁者の中で言えば親類縁者の中で、さらに町内会の中で言えば町内会の中で、さうして會社の中では其の會社の中で常に力関係だの何だのさうした社會的価値を比較されることこそが近現代社會が奉ずる相対的価値観のことですので其れにドップリ浸って仕舞ったが最後もはや其処で身動きが出来ぬやうにもなって居ります。

さうしてみんなで幸せを目指すとやがてはみんなが不幸とならざるを得ぬのは一体何故なのだらう?

 

 

一人一人が相対的幸せを追求してると全体で不幸になる理由

 

かうして28歳で彼女無しでしかも派遣社員の方が幸福の本質的意義に関し様々に考察されて居ますがまずは此れを一読して驚かされました。

つまるところ其の相対的幸福を強いる日本の社會とは果たしてどうなんだ?と云うことを此処に論じられて居る訳です。

 

で、結果的に此の方は其の相対的に規定される幸福追求はむしろ社會全体か又は個としての不幸を招くと云うことを仰って居る。

まさに此れぞ正論であると言うべきだらう。

 

其の競争があるからこそ発展があり進歩があるからこそ社會はより豊かになるつまりはより幸福となるとの価値観を文明は奉じて居る。

だが其の所謂弁証法による幸福追求の論理には大きな落とし穴がある。

 

其れは一方通行による不自由の蔓延=全体主義の履行なのだと私は思う。

 

 

 

1.格差の無い社會ー平等な社會ーでは相対的幸福が是認され得る

2.閉じた社會では相対的幸福がそも生じたりはしない

 

まさに此の方が述べられて居るやうに格差の無い社會では相対的幸福の幅自体が縮小されるので相対的幸福と云う価値観其れ自体により社會全体が不幸となる虞が無くなることだらう。

また閉じた社會ー例えば鎖國主義や唯我独尊での國家ーではそも価値ー絶対的価値ーを他とは比べやうが無い訳なので相対的幸福では無く絶対的幸福こそが価値観として規定される筈だ。

 

故に其の1、と2.は共に社會のあり方としては現代文明の主流としての価値観ー主流としての体制のあり方ーよりもより望ましいものです。

 

かうして確かに其の共産主義社會や鎖國社會は其の余分な競争の部分を制限するが故により理性的な社會を實現する為のものであるとも申せませう。

ですが明治以降の近代化以降我我日本人は欧米近代が掲げる社會発展思想にむしろドップリと浸かり逆に其れを信奉するに及んで来て居る。

 

でももしも其れが間違って居たとしたら一体日本のみんなはどうするのだ?

 で、此の方は何で其れが間違って居るのかと云う部分にまで踏み込んで論じられて居ます。

 

其れがどうやら相対的幸福が時代にむしろそぐわず簡単に個を不幸へと陥れる作用がある故に結果的に全体として不幸となって行かざるを得ぬとさう述べられて居るやうだ。

 

此れぞ全くの正答でせう。

其れも物凄い思考力ですぞ。

 

つまりはむしろ現代社會としての其の体制の不備により人間は自らの首を絞め最終的には社會全体を不幸にして行くより他は無いと云うことなのだ。

 

 

また其の相対的幸福を追求すればする程にむしろ人を貶めることで其れを成就しやうとするなどとも述べられて居る。

 

だからこそ人間の心が荒ぶとでも申しますかむしろ悪の方向へと必然的に向かって行って仕舞う訳だ。

また其のことは個としての人間の心のあり方である以上に實は社會的制度的に規定されて居ることなのだ。

 

まさに其の点こそが此の方の分析力の凄い点なのだと思う。

 

対して宗教は基本的に社會を批判せずまず自己としての心のあり方をこそ正そうとする。

 

無論のことまさに其れは正しいことだ。

ですが現代社會に於ける最大の問題点とは其の社會的制度的に齎される不利益のことであるより他には無いことだらう。

 

其の弁証法的進歩過程にそも欠陥が存するが故に現實的に矛盾が生じしかも其れが常に最大化されて仕舞う訳だ。

其のやうな欠陥若しくは間違いは感情的に或は心理的にどうこうしやうとしてもまるで太刀打ち出来ぬことだらう観念領域での大問題です。

 

 

さて其の「相対的幸福」では人間は決して幸せにはなれぬので例えば老子は所謂「小國寡民」と云う概念を人間の社會の理想的な状態であるとかって説いた訳です。

 

小国寡民
使有什伯之器而不用。
使民重死而不遠徙、雖有舟輿、無所乗之、雖有甲兵、無所之。


使民復結縄而用之、甘其食、美其服、安其居、楽其俗、隣国相望、鶏犬之声相聞、民至老死、不相往来。

"出展:「老子」(老子道徳経)独立第八十"


小さい国で国民は少ない(国があるとしよう)。
(そこでは、)便利な道具(*)があっても(国民には)使わせない。国民に命を大切にさせ、遠くに移住させないようにするのであれば、たとえ小舟や車があったとしても、これに乗ることはなく、たとえ鎧と武器があったとしても、これを並べることはない。(並べて戦争をすることはない。)

国民に、縄を結んでそれを約束の印として用い(た古代のような生活をさせ)、食事をおいしいと思い、着ている服を美しいと思い、住居に満足し、自分たちの生活の習慣を楽しいませるようにすれば、近隣の国がすぐ見える所にあって、鶏や犬の鳴き声が聞こえる距離にあったとしても、国民は老いて死ぬまで、互いの国を行き来するようなことはない。老子『小国寡民』書き下し文、現代語訳と解説 より

 

ー国民が昔ながらの生活をし、食事や着ている服、住んでいる家や習慣に満足をしている。このような環境下であれば、例え隣国が目と鼻の先ぐらいの距離にあったとしても、国民は自分たちの国に満足をしているので、わざわざ他国まで出かけて行くこともない。結果的に、他国と比べることがなくなり、自分たちに無いものを求め、自分たちよりも持っている人たちを妬み奪おうとする心が芽生えなくなる。また、領土を拡大しようとする欲求も生まれない。そんな世界が理想である。

老子『小国寡民』書き下し文、現代語訳と解説 より

 

 

其処で老子はむしろあえてマイナス思考をプラス思考へと転換せしめて居る訳だ。

 

やる(+)⇔やらぬ(-)

 

むしろやらぬこと方がやることよりもあくまで社會的には理想的な環境ー体制ーが築ける訳だ。

しかも其れは個に対しどうのかうのと云うことでは無くまさに社會がさうでなくてはならぬのです。

 

老子はむしろ其の社會を限定することでこそ社會的な理想が築け結果的に國民は幸福となることを其れこそ2500年も前に述べて居た訳です。

 

其の近代が奉じる人と人を比べると云う価値。

其れが最終的には格差を生みしかも其ればかりか人を貶めることで優越感を高める価値へと繋がり要するに利己主義の様を助長して行く訳だ。

 

ところがそも比べなければ其の破壊的な自我の拡大などは無い。

破壊的な自我の拡大により其れを続けた社會は結局崩壊して行かざるを得ぬことだらう。

 

さうなんです、残念ながら此の近代と云う価値過程はさうしてやがては崩壊して行かざるを得ぬ。

其れがあと三拾年なのかまたは五拾年なのかと云う時間の問題であるばかりで本質的な意味での其の誤りからはすでに抜け出せぬ訳だ。

 

 

相対的価値⇔絶対的価値

 

また此の方はかっての歴史過程では其の「相対的幸福」は問題とはならなかった旨に就いても述べられて居る。

まさにさうなんです。

 

近代以前の社會では全ての価値ー価値に於ける矛盾ーが大きく対立を引き起こし破壊に至らしめると云うことが無かったが故にだ。

逆に言えば其の相対的価値の肥大により絶対的価値とのバランスが崩れ社會としての価値がむしろ一元化して仕舞う=一方通行化すると云うことなのだ。

 

其れもこれも、全ては幸福と云う価値次元に於いて合理化をして仕舞うからこそさうなるのだ。

幸福と云う価値次元に於いて合理化などしてはならぬと云うのにさうして合理化を進めるので根本のところでの価値認識其のものがやがて狂って来やう。

 

いや狂って来ざるを得ぬ。

 

 

ではどうしますか?

其れに抗い価値認識を正す手立てが何処かにあるのでせうか?

 

其れを私の言葉で述べれば社會としての価値観を一度分断した上で今度は自己としての価値観の方で其れを組み直してみるべきです。

要するに社會としての其の相対的価値の實現などはまさにゴミみたいなものでそればかりか誤り其のものでの価値追求ですのでまずは其れを無視してみる他は無い。

 

でも余程の金持ちにでもなるか其れとも年金生活者となってから其れをやって行く他は無いことだらう。

社會とは結局のところそんな檻ですので其処から逃れるにはまずは金と理性とがどうしても必要となる。

 

但し此の方はたとえ派遣社員でも其れをやって行かれる訳なので其れは全くもって凄い人間だと云うことである。

其れも我我のやうな旧人類とはまるで違う多分新人類の方なのだとさうお見受け致しました。

 

そんな訳で個としての人間に可能なのはさうして社會に対し理性的に抗うことのみなのです。

ですが其れを行うことが可能であるのはまさにごく一部の理性的に生きるー自己として生きるー人人のみです。

 

逆に大方の人間は其の間違った社會のあり方と一緒になって只流されて行くばかりです。

まるで土座衛門の如くに只さうして社會的に歴史的に流されて行くばかりです。

 

あああー、ドロドロ、うわあー、ズルズル。

 

つまりは其れが幸福でなど有り得る筈が無い。

自己實現としての機会を奪われさうして虚としての相対的価値に惑わされまるでバカみたく価値の🐜地獄の中へとさうしてみんなで吸い込まれて行くのだ。

 

 

またみんなでさうして其の間違った価値の野っ原を突っきらうとすると必ずや肥溜めなどにも落ちませう。

もうみんなが肥溜めに落ち其処でもってみんなが肥溜め野郎となる訳ですよでも私だけは其れは金輪際御免なのでもはやかうして社會のことなどは全て無視を決め込んで居る訳だ。

 

みんなも是非さうして大人しくして居ませう。

理窟の上ではあくまでさうして此の社會は間違って居る訳だ。

 

其の間違って居るのは妄想でも無くウソでも無く眞實の様です。

 

此の方は社會の仕組みが悪くて格差社會を招いて居るにも関わらず旧態然とした侭に其の相対的価値の成就を求める思考こそが凶悪なものであるとも述べられて居る。

まあまさにさうでせう、まさに其れこそが凶悪なものであり破壊的なものであると云うことです。

 

ですが現在日本社會が抱えるであらう此の自己矛盾の様は近代化の問題としてまた合理化の問題としてまさに複雑化されても居りさうさう簡単に解決されるものではありません。

 

なのではあれ此の種の理性がかうして社會に対し物申すことで一部の馬鹿に対し薬としての効果を齎すのではないかと私は考えます。

理性とはさうして人間のバカさ加減に対する薬でこそあるべきだらう。

 

他方で人を貶めたりすることでむしろ自己としての優越感を得其の事を幸福だなどとも勘違いして居る馬鹿はむしろ現代の多数派に達して居るのだと私は感じても居る。

其の馬鹿の増長、馬鹿の蔓延こそが大衆社會としての本質なのでもあり無論のこと其れは社會全体、文明全体での馬鹿の増長、馬鹿の蔓延にも即繋がる訳だ。

 

ですから、其の馬鹿思想に与して居ればやがては全てがおバカ化して仕舞うのです。

なので自分が其の馬鹿思想を生きて居るなどとは金輪際思えなくなることだらう。

 

逆にみんなはじぶんだけは利口なので馬鹿な人の頭の中を正してやらう、などとも思って居ることでせうがまずは其れこそが間違いなのです。

何故ならさうしてむしろみんなが喜んで社會的営為に加わりおおまさに悪をやって居る君等は私から見れば単なる洗脳者であるバカ其のものなのですから。

 

 

其の絶対的価値と云うのは自己實現を含む方での揺るぎない価値其のものなので社會的にどーたらかうたらと決められるものでは無い。

 

例えば宗教的な価値がまさに其れに当たる訳だ。

さらに自然が本来持つであらう具象的価値、また自身の肉体に宿る具象的価値などが其れに含まれやう。

 

問題は社會的価値に圧迫され過ぎると其の具象的価値への感度を失って仕舞うか或は次第に其れが鈍くなって行って仕舞うことだらう。

さうした意味からも此の現代社會が奉ずる近代的価値観に対しむしろ自ら限定して行く方がよりまともなつまりは理性的な思考としての場が築ける訳です。

 

即ち其の資本主義による強欲振りだの自由の追求による権利行使に於ける放埓振りだのさうした非限定性がむしろ個としての幸福追求を困難として仕舞う訳だ。

なので至極難しいことではあるが個の立場として社會的関係を自ら限定して行くこと、権利の行使並びに人間の可能性、理性、未来に対し常に限定的に扱い其れを拡げないこと、つまりは人間が自らを獣として認識し其の分を弁えることこそが最も大事なことなのだ。

 

一般に宗教は其の限定に関しては親和性を有するものだ。

宗教に限らず倫理的に生きる団体や思考が生み出すものは結果的に其の限定性へと連なることであらう。

 

 

相対的価値⇔絶対的価値

 

其の相対的価値は相対的幸福に繋がるが結局其れは一部の幸福を生み出すに限り決して全体の幸福に繋がるものでは無い。

其の絶対的価値は絶対的幸福に繋がるが其処では常に強靭な理性の力がまた必要ともされて居やう。

 

と申しますのも相対的価値は社會的に形成される利己主義へと繋がり易く逆に絶対的価値は自我の範囲での利己主義へと繋がり易い訳です。

であるからこそ絶対的価値の追求に於いては常に個としての強靭な理性的な意志の力が其処に求められて居る。

 

 

28歳で非正規雇用・恋人なしの僕が胸を張って幸せと言える理由

 

仰る通りで其のしがらみだの何だのが個としての精神をむしろこっぴどく制限し且つ蝕んで行く訳です。

 

それにつけてもなる程、其の絶対的幸福とSNSとの相性は最高なんですか?

でも私の場合はそも其のソーシャルメディアなるものを否定して居ますので其の点に関してはまさにどーでも宜しいやうなことなのですが。

 

 

最終的に私にとっての幸福とは壱理性として築き上げし-としての価値、拡張しない価値、限定された具象性を保った侭で生涯を終えることなのです。

 

自己とは所詮は實存的展開ですので其れは他人には決して変わり得ぬものです。

さうした意味で人間は決して社會的にばかり規定されるべきものでは無いことだらう。

 

ですが近代と云う認識が其の社會性を重視せざるを得なくなった。

 

 

「自分にとって当たり前のことが他人にとって当たり前とは限りません」

他とは結局自分では無いものの塊のことです。

故に他とは他でしか無く、また自己は自己でしかあり得ず。


他に理解して貰いたい、自分のことを大事にして欲しい。

などと考えて居るととんでも無いしっぺ返しを食らうのがオチである。


だから逆に別のものとして尊重してあげれば良いのではないでせうか。

尤も私は何せ癇癪持ちですので大抵は他を罵倒することが多いのですがむしろ其れが優しさだとさうも思って居るのです。


他面で私は理性的な御意見には頗る弱く、だから派遣社員だらうがまた彼女も無い人であらうがこんな方の御意見にはコロリと参って仕舞う訳です。


自分にとって他を理解し難いことと同じやうに他もまたコチラを理解出来ぬものなのでせう。

ですが例えば感情的に合う人と合わぬ人が居るやうにまさに理性として合う人と合わぬ人とが居るやうに思う。


其の理性として合うか合わぬかと云うことこそがまさに社會性と云う立場に於いては最も大事なことかと思う。


理性として合う人の御意見はかうしてスンナリと受け容れられる訳だ。

また其れは年代の差や性別の差と云うことなのでもまるで無い。



「幸せの基準は他人ではなく自分の中にある」


尚私はむしろ今幸せです。

人間の中には私のやうに社會的に縛られるのが何よりイヤな人もまた居る訳なので社會で活躍して居るのが良いだとか家庭を築いて居るから良いだとかさう云う具合に決め付けて仕舞わぬ方が良いことだらう。


さうして幸せの基準はあくまで自分の中にある訳ですのでさうして派遣労働をこなし余った時間を自分の好きなことに使うだとか、要するに価値観は其れこそ多様で何処を基準にして世の中をまた人間を見詰めて居るかによりまさに千差万別となる訳だ。

ちなみに私の場合は「果たして文明が何処まで持つのか?」と云う視点でもって全てを見詰めて居ますので少なくとも其れが一般的な視点では無いことだけは確かです。


まさに其処では常に文人めいたものの見方をして居ると云うことです。


さうした認識をする癖のある私は労働に時間を束縛されて居ること自体が何よりも苦痛でした。

會社要するに資本主義とはさうして何よりー個としてのー時間を奪うものでもある訳だ。


但し其れが苦痛にはならず逆に誉、栄誉の如くに思う人もまた居る訳だ。

でも私は結局其れとは別ものなのです。


別ものなのであれば其の別ものとしての生を歩むことこそが自己實現へ向かう道だと云うこととなる。

但し其の変わり者としての能力が足りず結局六十過ぎまで勤め人の方をせざるを得なかった。


ですのでむしろ其のことが私にとっての悔い其のものなのだとも申せませう。

其れも四拾位までに芥川賞でも貰って置いてやれば毎回クドクドと訳の分からぬやうなことをブログで書いては居らずとも良くもしや今頃は信長作家として文學界の統一を果たして居たことだらうに其れを思えば實に残念なことであったものよ。



左様にまさに幸せの基準は人それぞれなのです。

其の千差万別である筈の基準を近代社會が勝手に決め込むなと云うことなのである。


其れも其れが上手く行って居る基準であり制度であり体制であるのならば文句は申しませんが第一其れは持続不可能なものであってしていつどうなるか知れたものではないじゃないか。

そんな馬鹿社會、おバカな体制を逆に権威化して奉じて居るともうロクなことにはならぬと云うのに一体なーぜ其れが分からぬのか?


まあ兎に角かうして怒りまくる訳ですが其の怒りにも疲れ果てたと申しますかもはやバカバカしくなりましたので最近に限りむしろ「どーとでもなれ」とさう思って居る位なのです。


それにつけても宗教の皆様は人間が出来て居て決して社會を罵倒したりはせぬのでまさに其処こそが偉い!

私の宗教は其れとは違い謂わば「怒りの宗教」としての文學ですのでそんな清廉潔白な善人様の世界へはよもや行けぬことでせう。



眞面目な話、現代社會の問題とは心の問題である以上に制度的思想的に齎されるであらう不備若しくは誤謬での大問題なのだ。

此の方はまさに其の部分を指摘されて居る訳で其の彼の炯眼の部分にこそ此の度私は屈服致しました。


其処からもかうして金の有る無し、家庭の有る無しには関わらず其の理性が有るか無いかと云う部分でこそ人間の魂の価値、心の価値と云うものが規定されて居るやうに思う。