目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

役立たぬことの意義ースポーツ、藝術、宗教の意義ー

 

 

松山英樹が日本人初制覇を果たした「マスターズ」ってどんな大会?

 

私の場合はゴルフ歴が長かったー三十五年程ー訳ですが最近はゴルフに対する具象的限定ー足腰の調子がいま一つーを受け其れを続けられなくなって来て仕舞った。

尤も其れ以前にスポーツ其れ自体の意義と云うか意味と云うか其れが根本的に問われる社會のあり方となって仕舞った訳だ。

 

何故ならコロナ禍や地球温暖化の進捗状況などから鑑みるに其のスポーツをやる余裕が次第に文明から失われて行くやうに思えてならない。

實際我我の生活は今其れどころでは無い状態にある。

 

今文明は継続して行くこと其れ自体が難しい状況へと次第次第に追い込まれて行くかのやうです。

 

まさに其処が現代文明が抱える自己矛盾性の体現であり同時に未来に対し構築すべき価値の模索の時期であり文明自らが反省をなし其の価値観をシフトしていくべき課題を現實として突き付けられて居る様なのだらう。

 

文明の現在とはさうした意味での理念的転換が是非必要な時でありよって此れ迄に追求して来たやうな諸価値に対する根本からの問いかけを其処に投げかけて行かねばならぬことだらう。

 

 

事實上はさうした状況にあるので結局は全てが其の新たな価値の尺度より再評価されるべきで其の点に鑑みても要らぬ部分は是非切り捨てて行かねばならぬことだらう。

特にスポーツや藝術は文明が健康体であるべき時にあくまで機能するものであり其の文明其れ自体が病んで人々に余裕が無くなって来れば必然として限定されて行かざるを得ぬものであらう。

 

逆に言えばスポーツに興じ藝術に親しむことは社會に余裕が無ければ其れは成らないと云うことともならう。

 

其れにかうした食うや食わずの領域がもしも社會に蔓延するやうでは其れこそ文化や運動どころでは無い訳で其処で求められるものとはまず飯であり飲み物でもあることだらう。

 

 

其の食うや食わずでの領域がもしも社會に蔓延するするのだとしたら其れは二千五拾年以降のこととなるだらうと私は以前からさう考えて来ても居た。

 

従ってスポーツに興じ藝術に親しむことはむしろこれからの文明にとり「古き良き」時代の豊かさの体現其のものであり過去に存して居ただらう幸せでの形のことなのだ。

 

 

さうしてスポーツに興じ藝術に親しむと云う日常は今後否応なく圧迫され其れどころでは無くなって行くだらうと云うのが私自身が取る文明の基礎認識です。

 

故にスポーツに興じ藝術に親しむことは文明にとっての最後の夢の場としてむしろ今のうちに日々其れに親しんでおくべきだらう。

 

何故ならさうした役立たぬ価値、本質的にはあっても無くても良いやうな価値こそが實は我我の心や體を励まし此の辛い浮世での勤めに対し癒しを与えて呉れるものなのだからこそ。

 

 

但し其の領域は今後次第次第に圧迫されても参りませう。

 

其れも社會の合理化により其の役立たぬ方の価値からまずは切り捨てられて行く訳だ。

 

なのだけれども本当はむしろそちらの方こそが心と體にとっての糧となるものなのです。

 

 

要するに心にとっての潤いこそが文化であり體にとっての潤いこそが体育なのです。

 

将来もしも其れが無くなったとして、其れでもって人間は心地良く生きられて居ると其処で言えることだらうか?

 

社會としての其の利益の追求の為に、其の人間の妄想としての利益の確保の為だけに懸命に日々を生きる、まさにそんなディストピアとしての未来に対し我我個は果たして我慢が出来るのだらうか?

 

 

であるからこそ今私は逆に其の心と體の為の価値を肯定的に捉え直します。

但し、商業主義と結び付いた文化やスポーツを其の侭に認めるものでは無論のこと無い。

 

 

まさに其れは会社による資本主義や國家による経済的負担を其処に背負わされた不純なる価値観のものなのでさうしたものはむしろ全否定しておきたい位のものです。

 

また其のゴルフにせよ環境破壊を進めることでまた大金が動く近代的なスポーツとしての不純なる価値観の部分を免れるものでは無い。

 

なのでさうした抽象的に規定される大スポーツ大会や華々しい売買の場を離れむしろ個として具象的に其れを規定して行くべきことだらう。

 

 

なのではありますが、兎に角大スポーツ大会や藝術祭等が続けられるのは此処参拾年余りに限られることだらう。

 

だからむしろ其の機会を享受し今のうちに愉しんで置く。

 

さうした意味での其の實質的には役立たぬ価値を今こそ最大限に大事にして置きたいとさうも思う。

 

 

だからこそ其処でもって一般大衆が喜ぶやうな「優勝」だの克己努力だのと云った価値をむしろ否定しないこととしてみた。

 

其れにかってイチローが王や長嶋がまた青木やジャンボ尾崎や中島がスポーツ界を背負って居た時代は時代としてむしろ恵まれたものだった。

何故なら其れは文明にとっての自己矛盾が今程大きく具現化されては居ない時代だった故にだ。

 

此の度プロゴルファー松山 英樹はそんな時代にはやれなかったことをやったのですから時代が如何に悪からうと心中での展望のやうなものを我我に与えて呉れたのだ。

 

ですが、おそらく其れは薔薇色の未来への契機となるものではおそらく無いことだらう。

 

文明はまさに自己矛盾の度を日々高めつつあり其の未来は逆に閉ざされつつもあることだらう。

 

 

然し彼は其の人類にとっての根本的課題とは異なる次元での具象的課題をこなして行ったのだとも申されませう。

 

其の根本的には解決を齎さぬことだらう課題の解決が、其の役立たずとしての具象的構築がむしろ我我の心にひとつの希望の灯を点すと云った意味でさうなのだ。

 

翻り文化芸能のことを此処で考えてみませう。

 

文化芸能、即ち藝術には何が可能でまた何が不可能であるのか。

 

 

無論のこと其れは役立たずとしての非日常の集積のことなのです。

 

なのですが其れもスポーツと同じでそんな役には立たぬことの具象的構築こそがむしろ我我の心にひとつの希望の灯を点すに至ることだらう。

 

 

また其の役立たずとしての非日常の集積としての最高位には宗教的次元がありませう。

宗教もまた飯のタネにはならずで實際に其処でもって宗教的な活動に勧誘されたりしても普通は鬱陶しいばかりでのことです。

 

ですが、其の心の安定が無ければむしろ人間は生きて行けぬ生き物なのです。

 

人間は衣食が足り住まうことに不足さえ無ければ果たして其れでもって幸せなのか?

 

結局其れだけでは幸せではあり得ぬのが人間存在としての心のあり方なのです。

 

 

むしろ其の生存の維持には関係の無いところで役立たずなことを頑張ることこそが人間にとっての最も大事な価値なのだらう。

さて、かうしてスポーツとしての価値と藝術としての価値及び宗教としての価値を十把一絡げとなし今回は論じて居ります。

 

まずは其れが本質的には役に立たぬ価値の追求であることを先に述べた訳です。

 

何故なら動物にはスポーツや藝術、さらに宗教の領域のことなどは無論のこと理解することなど出来ません。

動物、たとえば猫などには感情がありますが其れは抽象領域の価値を追い求めるやうなものなのでは無論のこと無い。

 

何せ彼等にはスポーツや藝術、さらに宗教の領域のことを理解するだけの抽象的能力が常に欠けて居るのです。

 

 

だが其処が欠けて居るからこそ抽象的に規定される勝敗や優劣、正邪と云ったヒエラルキーの構築に惑わされる必要も無い訳だ。

逆に抽象的に規定される勝敗や優劣、正邪と云ったヒエラルキーの構築こそが場合により人心をして悪の方向へと惑わすことでせう。

 

故にスポーツや藝術、さらに宗教と言った抽象的な価値はむしろ具象的に展開される場にて正常に機能されるべきものなのだらう。

 

 

松山英樹に祝福続々 青木「待ち望んだ瞬間」ジャンボ「大偉業」中嶋「袖を通させて」

 

彼松山 英樹が今回成し遂げたことは往往にして國威発揚だの、また日本人の人種としての優秀さだのそんなところへと結び付けられて仕舞うことだらう。

實際にわたくしが年老いた母に今回の彼の快挙を説明したところでは其れはかって日本が日露戦争に勝ったことと同じ位重みのあることである、と云うものでした。

 

ゴルフを知って居る人には其の位の事實としての重みが其処にはある。

 

マスターズと云う大会は其の位に他のメジャートーナメントとは異なり特別なものだ。

 

ですが、あくまで私は松山 英樹個人としてのゴルフに向き合う真摯さが其の分厚い壁をこじ開け日本人にとってのゴルフマスターへの道を切り拓いたとさう見て居る訳だ。

 

其の意味では確かに社會的な偉業でせうが、其の社會的な意義を離れたところに彼の努力の本質はありむしろ其れは役立たずなことが齎す価値其のものであると私はさう考えて居る訳だ。

 

何故なら此のやうなご時世には其の役立たずなことが齎す価値こそが人々の心に灯を点けるからなのです。

 

 

同様に此のやうなご時世に人の心を晴れ晴れとさせ価値としての灯を心中に齎すのは資本主義に於ける諸の成功やグローバルな活躍や近代主義の履行の徹底としての科学技術開発や人権思想の履行にあるのでは無くスポーツや藝術や宗教が常に人間存在に対し語りかけて居ることだらう體と心に対する豊かさへの希求のことです。

 

左様にグローバルに展開されることだらう抽象的価値は我我に対し晴れ晴れとした気持を決して与えては呉れない。

だからまさに其処の領分にて松山プロの活躍を見て居てはイケナイのではないか。

 

尚私はもう拾年近く松山プロの大ファンです。

何より彼の男らしいところが昔から好きでした。

ー其れが私自身の心性の本質とは別のところにあるが故に滅法好きである訳だー

 

現在わたくしが考えて居ることとはかうして次第に追い込まれて行くことだらう社會の価値観に対するプロテストでは無く如何にして合理的に其処から逃れるかと云うことです。

 

と言えばまさにかの鴨 長明のやうな社會からの逃避行を地で行くものですが、其の鴨 長明に限らず古来より東洋の知恵の中には其の種の厭世観がしかと組み込まれて居るものです。

 

まさに其れは表立って批判しない言外での社會への批判のやうなものなのでもまたあらう。

 

其の逃避行としての武器と申しますか持ち駒が体育であり藝術であり信仰であるとさう申して居るのです。

 

其れも社會的に規定される価値なのでは無く個として保ち得るであらうスポーツであり藝術であり宗教としての価値なのです。

 

其のうちのひとつの価値の成就をまさに今彼松山によるマスターズの勝利と云う形でもって私は感じ取って居る訳だ。

 

 

さうして足腰が弱りゴルフを止めたのに何故其れがおまえにとりそんなに大きいことなのだ?

ゴルフも石採りも左程変わらず其の本質とは運動のことです。

 

また自転車に乗り買い物へ行くのも同じ運動です。

運動は體の糧となるもので他方で藝術や宗教は心の糧となるものだ。

 

其の糧となるものこそが具象的探究としての世界にはふさわしいものだとさう述べて居るのだ。

対して地位だの名誉だの金だの👪の存続だのを追い求めて生きることとは世界の抽象的な価値の探究を行うものであるに過ぎぬことだらう。

 

故に其の種の抽象的現實をあえて捨て具象的現實としての心身にとっての癒しの世界を生きて行くと言ったところだらうか。

 

 

さうして石や庭のツツジの花などの美しいものを見、相変らず小難しい数々の本を読み、さらに松山の活躍をTVにて視て勇気付けられたりもした。

真夜中にも関わらず其の中継を全部視たのか?

 

そんな具象的探究だけは實際何処までもやりませう。

でも社會の出来事にはもはやほとんど無関心なのだ。

 

たとえ社會にどんなに余裕が無くならうと其の食べて排泄する以外での価値こそが人間には是非必要である。

まさに其れが体育ー運動ーであり藝術ー文化ーであり信仰ー宗教ーであるとさう申して居るのだ。

2021-04-17

進歩と云う名の下に行われし文明の仕業

ANA過去最大の赤字でも「宇宙事業」設置 「いずれ救世主に化ける」3人の熱き思い

 

かうして長引くコロナ禍不況にて資本主義経済体制としての文明の価値が大きく揺さぶられて居ることもまた確かなことである。

コロナ禍其のものを具象的限定と捉える我はまさに其れが文明の価値観の転換点に当たることだらうと考えて来て居る。

 

まさに其れは市民革命ー民主革命ーでも社会主義革命でも無し得なかった理想としての体制への移行期なのではなからうか。

其の理想の体制とは然し、一種しょぼくれたものとなることであらうことが否めぬ訳だ。

 

何故しょぼくれて仕舞うのかと言えば、資本主義体制とはあくまで何かを搾取することー犠牲に晒すことーにて一部の者が肥え太る社會構造に刺し貫かれたものであるからのことだ。

 

ところが今現在はコロナvirusにより社會其れ自体がやられて仕舞って居り其処ではまともな産業構造が一種崩壊して仕舞って居る訳だ。

其の状況を哲學的、或は文學的に評せばまさに「日常の崩壊」であり「現實としての今の死」に直面して来て居る訳だ。

 

其のやうなまさに抜き差しならぬ文明の状況に対し壱文人としての我が今一体何を考えて居るのかと云う点につき以下に述べて置きたい。

 

まず上記での状況を踏まえた上で結論から述べれば「赤字」は赤字で赤字である以上会社は潰れると云うことである。

 

其の会社の崩壊が大企業にまで今後及び資本主義体制の奉ずる「自由」な競争原理に寄り掛かるであらう「利潤追求」の原理が大幅に偏るであらうことが予想される。

 

むしろ此れ迄花形であった航空宇宙産業や観光業などの所謂人間をして元気に移動させる仕事が大打撃を受けて行く訳だ。

勿論現代文明を推進する上での花形産業の衰退は如何にも文明にとりマズい訳だから公的資金が其れ等の産業に回され特に大企業は存続する可能性が高い訳なのだが其れも全てを救済する訳には行かぬ訳である。

 

さらにさうした傾向が進み移動と云う価値が✖とされるとより人々はよりネット環境に依存して行くこととならう。

ところが、ネット環境とはあくまで抽象的価値を共有する場なので、其の具象的限定には實は関与するものでは無い。

 

つまるところネット世界と現實的世界は本質的には乖離したものなのだ。

だが人々は現世利益としての抽象的価値の成就を求めネット世界の中へと埋没して行くことであらう。

 

 

コロナにより人間が自由に動けなくされて仕舞ったのでコロナにやられずに済むネット世界の中に埋没して行くことであらう。

 

よってネット世界の中のものがより繁栄を極めより大きくなって行くのである。

 

其れは要するに利潤のネット化なのでさうした情報産業には巨額の儲けが出て航空宇宙産業や観光業などの所謂人間をして元気に移動させる仕事には金が回らぬやうにもなって行く訳だ。

 

ところが人間の社會を回して居るのはむしろエッセンシャルワークの方で、實はネットなど無くても人は生きられるが生活インフラがそも無ければ社會的に人間は生きて行けぬ訳だ。

 

まずは此の本質的に「要るもの」と「要らぬもの」の違いがつまりは其の社會的な価値としての矛盾が我我に対し突き付けられて来る訳だ。

 

さても一体何が要り、何が不要なのか、まさに其の点が戦後の民主主義社會に於いてまたより抽象的に推進される資本主義体制に於いて全く分からなくなって仕舞った訳だ。

 

まさに其れが只ひたすらに抽象的な価値を追及し続けて来たことの弊害なのだらう。

かうして過度な抽象的な価値の追求はむしろ日常性を破壊し我我にとっての生活の具体性をも奪い去って行く訳だ。

 

 

即ちさうして抽象的な利益の追求を野放しにして来ただらう資本主義体制、特に新自由主義経済体制に於ける欲望の暴走こそが今回の悲劇を招いて来て居るのだらう。

 

また其れに留まらず今後は世界をネット環境と云う仮想現實の中へと閉じ込め我我現代人の価値観をして益々抽象化して行くことでもあらう。

だから其の放任された自由主義による抽象的に規定される利益への耽溺こそがコロナvirusによる具象的限定を齎して居るのである。

 

 

まさに其れが必然のことであることをまず我我は知るべきなのだ。

コロナvirusによる具象的限定は自然の摂理でありあえて宗教的に言えば人間社會に対する「神の怒り」か又は「佛の諫め」によるものなのだらう。

 

 

ところで、我我個は一体何が要り、また何が不要なのか、と云う価値観の選択に於いて全くの無能なのだらうか。

 

でも事實上世間には所謂理性的で且つ意識を高く保つ人々が居られる筈である。

 

 

さうなのだ、我我個の範囲にはむしろ其の良識としての部分、理性の命じるところでの良心的な価値としての現在が宿って居るのだ。

 

だが其れも近代と云う価値の全体主義に組み込まれ自らとしての意思決定を失って居るやうではまるで機能などするものでは無い。

 

其の全体主義と闘うこと、近代と云う諸価値と対峙し其れと渡り合うことでのみ我我は其の理性の命じるところでの価値としての現在を履行して行くことが可能となることだらう。

 

 

すると所謂脱近代とは其の個としての社會的闘争の中に組み込まれて居るものなのですね?

 

最終的に其れは個としての理性と全体としての獣性との闘争の過程即ち最終戦争のやうなものとなることだらう。

 

さうして戦争はあくまで外側にあるのでは無く我我の内側にこそある。

 

逆に言えば我我の内側での闘争が不充分な故に社會としての誤った価値観が内面を浸食し挙句の果てにはコロナ禍をまた社會の産業構造の崩壊を招いて居るのである。

 

つまりは全てが自業自得であると?

 

 

まさに其の自業自得である。

社會ー他ーと無関係では居られぬ我我個に其の文明としての崩壊の責が免れて居ると云うことには非ずだ。

 

さうして我我は何よりまず社會の一員であり、まさに其の社會により生かされて居る個であるより他に無い。

 

ところがまさに其の構図こそが全体主義を生み逆に我我個は決して自由にはなれぬ訳だ。

 

我我が本質的に自由を獲得するのはむしろ死する時ばかりなのだ。

 

ではこんなものは自由では無い?

 

むしろ自由などであり得よう筈が無い。

 

我我個は本質として社會の虜囚であるより他は無い訳だ。

 

 

其のやうな認識に於いてむしろ初めて個は本質的に社會を捨てられる筈だ。

 

さうか、では誤った社會の価値観に対抗するには個としての理性的な成就の成否に懸かって居る訳ですね。

 

さうだ、常に近代社會はさう高望みをし続けて来て居る。

 

だが其れはあくまで抽象的に規定されるだらう現世利益としての追求のことだらう。

 

よって其の功利性の部分、現實主義の部分はいつかは破綻するものである。

何故なら此の世はまさに具象的に与えられた限定物であるに過ぎないからだ。

 

よってそもそんな抽象的欲望の堆積を持ち堪えられるだけの余裕が無いのである。

 

 

他人種ー他文化ーを搾取し、且つ自然を搾取しどれだけ豪華に見える文明を築き上げやうとも其れは表面的に立派な文明であるだけのことだ。

 

眞に知的な存在は其のやうな不毛なる価値の集積をむしろ断じて行くものだ。

 

たとえば其の宇宙への指向の価値とは人間にとり不要なものである。

 

其の観光への価値とは人間にとり不要なものである。

 

対して生きることへの価値で大事なものとは何か?

 

 

其れは社會の奉ずる価値観に其の侭に従うことには非ず。

 

また教祖様の価値構築に無条件に従うことには非ず。

 

むしろ個として死なぬ程度に食べ其処に名誉栄達を決して求めずまた過分な物、金、愛を欲せず自らを律して生きることに他ならぬ筈だ。

 

 

またさうしてみんなでもって赤信号を突っ切ることには決して非ず。

 

さうして近代以降社會は常に巨大なる夢を追い求めて来た。

自然科学は其の巨大なる夢の手先となり諸の現實の改変を行って来た。

 

嗚呼だが其れは理性の名の下に行われし殺戮であり破壊であった。

 

さう彼等は神を殺しまさに此の世を破壊してかかって居る。

 

其の殺戮者の名前、其の名をこそ永遠に留めよ、まさに其こそが進歩と云う名の下に行われし文明としての仕業なのだ。

社會による悪の合法化

社會がなかなか変われぬのは其れが其処に価値ヒエラルキーとして絶対的に構築して仕舞って居るからだ。

其れも観念的、抽象的に規定する価値を価値ヒエラルキーとして絶対的に構築して仕舞って居るからだ。

 

其の絶対的な価値の場はたとへば封建制の如き社會の段階に於いては許されやうが民主制や資本主義を奉じる近代的体制にとってはむしろ其れが重荷となり変わること自体が難しくもならう。

 

かと言って、価値ヒエラルキーの維持は社會にとって大事なことなのでたとえコロナ禍のやうな状況下でも其の維持は不可欠であり其処に諸価値の序列自体が変わることは無い。

序列は変わらずとも経済的損失は大きくあるので結局政府は何処かで金を儲けやうとして躍起となり其れもあぶく銭の方で儲けると云う金融資本主義の方がレーガン政権以降は活発になって来ている。

 

其れを哲學的に捉えるとまさに抽象領域の拡大に繋がる訳だ。

 

またPCの出現以降の情報化社會のなりゆきも其れと同様に抽象領域の拡大に繋がることだらう。

 

 

其処をイメージとして捉えるとすると、まるで巨大なシャボン玉の中に入り自らが消え去るまでの其の刹那の時間を享受して居るかのやうだ。

 

もはやわたくしは社會に対し否定的な見解に傾いて居るので其のやうな表現をして居ざるを得ない。

 

但し世界に絶望して居る訳では無く逆に世界に有せられる可能性や希望に就ひて見聞きを重ねむしろ其れに対し眩暈を感じて居る程である。

 

 

要するに社會のあり方、社會の未来に対しては絶望感を抱いて居るが人間存在を含めた自然のあり方に対し絶望し且つ否定的見解を重ねて来て居る訳では無い。

 

むしろ其の辺りの事情がより鮮明に頭の中に規定されつつあり以前よりは少しスッキリして来た感さえするのである。

 

但し其の人間存在に対する不信感は、特に社会的に醸成される自我に関してはヤッパリそれは絶望感に満ちたものでほとんど不信其のもの、また絶望其のものの域から一歩も抜け出せぬ訳だ。

 

即ち「人間は所詮馬鹿のうんこたれだ」との確信は逆に日増しに鮮明になって来て居る訳だ。

 

 

でも結局釈迦がかって述べた如くに「たとえ何を言っても他を変えることは出来ない」訳であり、他と云うのはまさに其の社會其のものなので社會の馬鹿を糾弾して行くことよりはまずはじぶんの馬鹿を治してみやう。

との観点よりわたくしの頭の中はすでに活発に動き始めて居り其れはどうも気温が上がり花花が咲き乱れて来たことと密接な関連があるものらしい。

 

かうしてわたくしは自然と連動して生きて行かざるを得ぬ訳だ。

 

寒いと病気にもなるが春になると決まって動きが生じて来る。

何故かさうした原始的な内容が體の中に盛り込まれて居るので兎に角さうして春の息吹に連動し少しずつ元気を取り戻しつつはある。

 

 

だが社會は相変わらず見通しが暗い。

 

現代の社会が齎す閉塞感はむしろ次第次第に高まって行くばかりだ。

其れも真っ暗暗の闇の向こう側に其れは大きく拡がって居るのであらう。

 

罪と云うか煩悩と云うか兎に角そんな悪の堆積が地球其れ自体を押し潰して仕舞うかのやうなそんな欲望の集積が全てを真っ暗暗に染め上げて行く。

 

なのにみんなは相変わらずまるで民放で垂れ流されて居るTVCMの如くに阿呆でしかも下品に文明を信じて御座る。

 

ハッキリ申してわたくしには其の様が余りにもお目出度くさう感じられて仕舞う。

 

 

第一アノイチローのCMや松岡 修造のCMなどが特にバカに見えて仕方が無い。

 

何でそんなにバカに見えるのだらうか?

 

其れは多分屈折と云うか暗さと云うか負けと云うか其れを排斥して仕舞って知るからわたくしにはさう見えて仕舞うのだらう。

 

 

逆に申せばわたくしは其の屈折と云うか暗さと云うか負けと云うか其れがごく自然なる生の一部だとさう信じて居るのである。

 

でも其の信心は宗教的な立場とは異なるものなのではなからうか。

 

宗教的な立場である特定の宗教や宗派に対する信仰なのでは無く大自然の摂理のやうなものに対する原生的で直観的な解釈なのではなからうか。

 

尚わたくしは宗教的な価値を人間が掲げる価値の中で最上のものであると思って居る。

 

信じて居ると云うよりも其れがより良い価値の選択だとさう規定する者なのである。

 

 

河井克行元法相が議員辞職届 大規模買収「万死に値する」と所感

 

此の悪事を重ねし元法相もかうしてようやく罪を認めるに至って居る。

何でも神父様から「神の前に誠實であれ」と諭されたさうである。

 

此処からもまず分かることが、所謂社會的な地位や権力が人間にとっての本質的な価値を規定するものではまるで無いと云うことなのだ。

 

此処からも其の人間にとっての本質的な価値を規定するものとしての宗教の意義は非常に大きいと言わざるを得ぬ。

 

でも逆にみんなー大衆ーの価値観は其の社會的な地位や権力にこそ擦り寄って行かうとする。

だから其れがわたくしの奉ずる価値観とは違うものだとさう述べて来ても居る。

 

其れはさうして社會的な地位や権力にこそ擦り寄り最終的には子孫の繁栄やデカい家や墓の所有を目指す君等とは違う価値を生きて居ると壱詩人がさう述べて来て居る訳だ。

 

 

わたくしが述べて来て居ることの本質、其の批判の要諦とは人間の価値観のあり方には善悪の区別があると云うまさに其のことをこそ言って居る。

でも人間の価値観は今風に申せば多様であるべきでせう?

 

其処はどうぞ御自由に。

實際此の世ではどんな価値観でも居られる訳ですので。

 

其れも自由なので、まるで自由だ。

自由意志なので、兎に角自由な意志だ。

 

 

だが實際には社會的要素に関われば関わる程にむしろ不自由となる、つまるところは其処で価値を刷り込まれ=洗脳され画一的に己では無い価値を生きる度合いが大きくなることだらう。

まさに其のことを社會科では全体主義とさう名付けられる訳だ。

 

社會的に成就される価値とは左様に伏魔殿なのでもある。

 

どちらかと云うといつの間にか悪の履行に加担して仕舞うと云う点でまさに魔界の出来事なのである。

 

 

魔界⇔宗教

 

とのことなので、最終的には宗教的見解が社會としての悪を正すと云うこととなる。

 

だとすれば宗教だけが至上の価値なのでせうか?

 

宗教は最重要の価値だが絶対の価値では無いと個人的にはさう見て居る。

 

 

何故ならいまひとつの価値即ち「世捨て」の価値が此の世界には用意されて居るからだ。

 

たとへば太宰だの芥川だの三島だのそんな文學としての価値とは最終的に其処へと収斂して行くことであらう。

 

またゴッホだのゴーギャンだのそんな絵画としての価値もまた最終的に其処へと収斂して行くことであらう。

 

音樂の場合はまた其れとは違うかとも思われるのだが中には其処へと収斂して行くものもまたあるのであらう。

 

 

さて文明社會に於ける諸価値は明らかに自己矛盾化し自滅へのスパイラルに陥ったとさう見るべきなのだらう。

 

何故さう言えるのかと言えば、其処ではまさに「悪」が合法化されて行くからなのである。

 

たとえばNYでは大麻が合法化されたのださうな。

また日本ではこんな状況なのにたとえ無観客でもオリムピックをやらねばならぬやうだ。

 

其の大麻オリムピックも現状に鑑みれば明らかに悪の価値であらう。

ならば何故其の悪を今やらねばならぬのか?

 

 

其処は調べてみればすぐに分かることながら、其のどちらにも経済的な問題が大きく絡んで居る訳だ。

 

一言で言えば社會組織としての赤字を解消する為には是が非でも其の悪を履行せねばならなひ。

 

かくして精神的、倫理的にまず世の中は壊れて行くのである。

 

なので精神を重視するであらう宗教団体の考え方とは其れは基本的に正しい訳だ。

 

されど宗教団体には教祖様を祀り上げる癖があるのでまさに其れがダメだとわたくしは述べた訳だった。

 

 

だがかうして悪を祀り上げて行く社會のあり方に比べれば其れはまだしもまともであらう。

何故ならさうして社會的に悪を祀り上げざるを得なくなり古来様々な文明が崩壊するに及んで来て居る。

 

悪は何処にあるかと言えばまさに其の社會の中、文明のさ中にこそある。

 

だからこそ社會に期待はするな。

いやそも期待など出来ぬものが其の文明社會なのだからこそ。

 

 

なので最も合理的な価値の構築とは社會を見捨て何処ぞへと逃げて行くことです。

 

勿論一番良い逃げ方は大麻を吸ったり👩にまみれたり酒中毒に陥ることでは無く正統とされて居る宗教へと走ることだらう。

 

但し其処でもって一歩間違い邪教へ走ると死刑になったりもするので其処では余程に注意が必要である。

 

即ち宗教活動は決して悪いことでは無く人間にとっての大事な精神的価値の具現化である。

 

でも其れもあくまで理性的に個の意志により選択されるべきものなのだ。

 

 

其れよりももっと悪いのは文明の価値だけを盲信し大麻を吸ったり酒色に溺れたり合理化社会に殉じたりすることだ。

で、何度も述べて来て居るやうに其れが合法的に行われることこそがタチが悪いのである。

 

また文明は正しいので遺伝子も弄ったれ、AIに社會を管理させやう、また性も合理化して居かう。

 

でも誰でも分かりますが其れをやりますとまさに悪が合法化されて行く訳です。

 

 

もっと簡単に申しますと、戦時中には侵略や殺人と云う価値が合法化されて仕舞う訳で逆に其れに従わぬと非国民ともされて仕舞う訳だ。

なので現代社會が履行する進歩主義もまた其れと何ら変わらぬ全体主義だったと云うお話です。

 

 

さういうのを全部理性的に俯瞰視し眺めた場合に合理的に選択されるべき価値が社會の否定であり其処からの逃避だと云うことなのだ。

1.宗教としての建設的逃避

2.理性としての建設的否定

 

もはや此処に至って選択肢は此の二つしか無い。

さうして結果的にわたくしは2.を選んだ。

 

其れも藝術としての創造的自我こそが其の建設的否定を可能とするのである。

但し事實上はもうひとつ選択肢がある。

 

3.文明としての悪の履行

 

3.をみんなで選び滅ぶと云うのが實は多数派なのではなからうか。

其れをみんなで選ぶと何故か怖くは無いものなので安全策を取りさうしてみんなで滅びへの坂を転がり落ちて行かうと云うことだらう。

 

 

でも残念でした、其の悪の履行こそがまさに文明としての末期症状のことなのだよ。

 

尚今後次々と悪が噴出し文明を悪が染め上げる可能性が出て来て居る。

 

1.教師などもう誰もやりたく無い

2.官僚ももう誰もやりたく無い

3.宗教は何だか怖いから勧誘して欲しくは無い

 

此の三点とも全くオカシいことだ。

社會の構造的矛盾がかうしたオカシいことを放置して来たが為に世の中がこんなんなって仕舞った訳だ。

 

4.法科でもってしこたま御勉強をした筈の弁護士が食っていけない。

此れがまずはオカシい。

 

 

かくして此の世の中は明らかにオカシい。

つまりは社會のあり方其のものが変だ。

 

其の社會が変なのは、個人的に頭が変なのや何処ぞの教祖様の頭の中が変なのよりもずっとずっとタチが悪い。

 

無論のことわたくしは其の社會としての変、文明としての変のことばかりをかうして長々と論じて来た訳だった。

 

 

ではどうしたら良いのか?

一体どうしたら此の悪の履行のスパイラルから脱け出しまともな人間として、まともな文明として持続可能な未来を築けるのだらうか。

 

1.宗教としての建設的避難

2.理性としての建設的退避

 

だから其処には選択肢として此の二種しか用意されて居ないことだらう。

尤も、

5.科学技術による反省的建設

 

と云う建設の選択肢が實はある。

 

即ち科学技術が科学技術自らを否定しつつ此れ迄に仕出かして来たことの尻拭いをすると云うものだ。

 

現實的には其れも立派な建設的否定の作業なのではなからうか。

 

 

即ちすでに否定的見解、其の-の立場からでしか文明の現在を成り立たせることは出来ぬ訳だ。

 

でもかうして成り立って居ますが。

相変らず日々技術革新は進み毎日工場でもって何かが造られ事故った原発の処理などもみんなでもって何とかしやうとして居るのです。

 

さうか其れは偉い!

其れもなんて偉い馬鹿共なのだ!

 

 

其の悪の合法化を行うのはまさに資本主義による経済的な価値観の履行の故にである。

即ち功利性に基づく自己利益の追求による価値観こそが現代社會の諸矛盾を生み出して来て居ることだらう。

 

さて昔かの中原 中也は工場へ労働へ出向く労働者を皮肉たっぷりに批判し芥川 龍之介は勲章を胸に下げた軍人を小馬鹿にしてさえ居たものだったが嗚呼まさに其れが文學の価値でなくして何であらう?

 

以上で文明は何故悪をやらねばならぬのかと云うことに就き述べ、さらに藝術は其の悪のありかを直観的に認識して居ると云うことに就いても述べたつもりである。

 

 

藝術はでも決まって働かずでまるで役立ちませんが…。

 

だから役立つことを価値の中心に据えることこそが価値観の上での全ての誤りの元である。

 

むしろ役立たぬ方の価値の中にこそ眞理の光が宿って居るものだ。

 

 

ではそんな役立たずでもって一体どうやって飯を食うのですか?

 

尤も其れは宗教もまるで同じで、釈迦であれキリストであれ明日の飯のことは気にせず大抵はお布施でもって空腹をしのいで居たのであらう。

 

つまり飯は神乃至は佛の御恵みのやうなものなので只感謝して其れを受け取り決して飯を余分につくり過ぎたり喰らい過ぎてはならぬものだ。

其処の価値観をこそ違えた現代社會は崩壊へと進むのがむしろ当たり前のことなのだらう。

 

 

そんな百円や良くても千円のお布施ではとてもデカい家や墓など建てられませんが…。

 

バカ、其れでもってかうしてからうじて命が助かったではないか。

 

ではデカい会社、たとへばTOYOTAのやうな会社にみんなが入りたい訳ですが要するに金さえあればイチローだって何だってみんなやる気満々でもって幸せなのでせう?

 

 

まあ其れもとても幸せには見えぬのですね。

事實としてTOYOTAは下請けをイジメ此れまでに自殺者を沢山出して居ますしイチローは金を持ち過ぎてCMに出て来る時の顔がまるでオカシヒやうにも感じられるぞよ。

 

でも金が無く不幸になるから藝術などは要らぬ筈だ。

 

だが其の不幸ゆえの幸せに貴方は何故気付けぬのだらう?

 

何故なら太宰だの芥川だの三島だのそんな文學としての-の価値は限りなく不幸でもって且つ最高に幸せな己の生其のものだった筈だ!

 

 

かくて現代文明の異常とは、抽象的に思い描く幸せを幸せとして装わねばならぬと云う不幸のことだらう。

 

第一CMを視て居ると兎に角皆やる気満々なのだが實質的には社會はもはやどん底で感染の方も今後どうなるものやらまるで知れたものでは無ひ。

其の不穏で且つ暗い見通しの中で馬鹿CMばかりがやる気満々なのだが端的に言えばまさに其の点が資本主義の馬鹿さ加減を如実に示す点なのだらう。

 

では其の馬鹿で低俗な社會は一体どうすれば立て直せるのですか?

 

其れも一刻も早う社會を立て直せ。

でないとみんなが困る。

 

 

でもみんなは社會に従うしか無いので結局は其処で畜群化する他は無い。

 

其処をあえて藝術家は其の精神の全体主義から逃げて居るのだと?

いや藝術家でもたとへば戦時中には軍國主義の絵や曲や文學を描くしか無いことだらう。

 

また進歩中には進歩を讃美するものでも創ると社會は喜ぶことだらう。

 

つまりは社會に評価される藝術は社会性を帯びて居ざるを得ぬものなのだからして。

 

 

逆にわたくしのやうに社會を貶し尚且つ否定するとなるともはや誰も其処を評価などはして呉れぬ。

 

でもそんな壱詩人はな、其れも過激な壱文人はな、其れでもかうして社會と闘い自説を曲げたりは金輪際せぬものだ。

 

いやさうして社會と闘うのでは無く、もはや社會とは無関係だからスッカリ無視して行くと云うことだ。

 

ではもう社會とは縁が切れたの?

 

 

いや切れて無い。

切れて無いのだけれど、此の際見詰めるであらう社會の方向性を変えることとしてみた。

 

謂わばより具象的に社會と関わることとしてみた。

 

たとへば地元での人との縁をより重視する。

 

さらに藝術のことが分かる知己を得る。

 

 

其れは此の腐り切った文明のど真ん中に精神のオアシスを創ると云うことだと思う。

 

其の腐った文明其のものに関わると其れだけでむしろこちらが酷くダメージを受ける。

 

よって文明批判もまた自己にとってのダメージを生ずることとなるので本質的には其れも放棄して行くべきことだらう。

 

 

なる程、此処のところまた相当に悩んで考え抜いて来ましたね。

 

其の具象的創造乃至は理性としての建設的退避こそが現在わたくしが住するであらうまさに理想としての観念世界のことなのだ。

 

 

まさに其れでもって近代全体主義を脱すると云うのか?

 

其れにまあ時間も無いのだしね。

 

たとへば六十代で死ぬタレントなども結構多いのだよ。

 

わたくしの場合はタレント程體を酷使して来ては居ないのだが何せ考え抜いて来てるので脳の疲労の方が多分酷いのだ。

 

たとへばあと五年しか生きられぬのだとしたらそんな馬鹿社会と関わって居る暇等わたくしには何処にも無い筈だ。

 

 

確かにそんな馬鹿社會にバカ人間ばかりです、でもってまたコレクターにでも戻るのですか?

 

結局社會は変わりやうが無いので時間が無い人はじぶんの経験を書き記した方がより建設的な作業となると云うことを述べたまでのことだ。

さらに創造的で且つ癒される空間を其処に築くことが出来やう。

 

そんな訳で社會に対する批判の限界と云うことを感じ始めたこともまた事實である。

 

元より批判にはストレートな批判と遠回しでの批判があり、ストレートな批判には美の世界が組み込まれては居ないが故其れはまるで楽しくは無く其処に闘争としての疲労が溜まって行くばかりなのだ。

 

すると矢張り石とかペンとかそんなものばかりにまた戻るのですね?

 

いやメインでのところはむしろ藝術論となることだらう。

其れも藝術家の生き様を通したところでの其の表現の美しさにつき是非論じてみたい。

 

石とかペンとかそんなものは資本主義としての欲望の対象であり元々さう褒められたものでは無いが故に。

 

 

だが其れでも其れ等は具象的に限定されて居り美しい。

まさに自然と文化の力を象徴するものなのでもまたある。

 

要するに此の腐った社會としての有様を捨てそんな美の具現としての桃源郷へと逃げて行く御積もりなので?

 

まさに其の通りだ。

こんな腐った社會にはもう愛想が尽きたから美を愛してやまぬ壱詩人として是非其の樂園へと非難して行くだけのことなのさ。

とても楽しみな名古屋大學での結晶展

室井佑月「間違いの根本」

此処で室井 佑月氏が仰って居ることはまさに正論でもって正しひ訳ですが人間参拾年、四十年も生きれば此の世が正邪、また善悪の基準にて動ひて居なひことをむしろイヤと云ふ程に思ひ知らされる訳だ。

 

で、其処でもってじぶんや👪が大事だから其の利害関係ー損得勘定ー=功利性にしがみつき正邪、また善悪の基準の方は反故にしやうと云ふのが所謂「大人」になる為の通過儀礼のやうなもので普通世間の人々はまさにさうして自らの心乃至は価値観をあへて汚しながら現實にしがみつひて行くのです。

ところが其れとは反対のことを言ふ人々が世の中には居て其れが作家さんだのまた色んな分野の藝術家さんだの或は宗教家さんだの學者であったりする訳だ。

 

なので塾の小中高生のみんなやまた大學にて學んで居るやうな学生さん達は頑なにそんな馬鹿大人にはならぬ方が良ひ。

馬鹿大人はそも事の本質、即ち人間にとっての本質などまるで問うては居なひので要するに其の利害関係にて動く社会的関係に洗脳されて仕舞って居ます。

 

かと言って過激なことを言ふそんな作家さんだの詩人さんだの絵描きの方々だの宗教の人々さらに哲學者の面々の言ふことばかりを聞ひて居りますとまるで世間離れして仕舞ふことにもなりかねぬ。

 

 

ですが、あくまで其れは「正論」ですので其処で根本のところを問うて居る訳です。

 

人間の苦しみと云ふものは左様に洗脳されて馬鹿になるかならぬかと云ふところにこそ突き付けられて居やう。

 

ですので、其の馬鹿を切り捨てるか又は其の馬鹿の度合ひを減らして行く生き方を選んでも良ひ訳なのですがまさに其れは精神の上での荊の道を自ら選び取る生き方ともまたなることでせう。

 

最終的には其の馬鹿との闘ひは死ぬか生きるかと云ふところまで壱個人の精神を追ひ込んで行くことでせう。

 

なのですが、生きられる状態に何とか踏みとどまって居られる限りはなるべく潔癖に生きるべきだと云ふのが最終的にわたくしが判断する個としての価値の持ち方です。

 

 

要するにさうして社會に洗脳されて馬鹿として死ぬるまで生きる位なら壱潔癖者として討ち死にする方がまだしもまともだとさう考へて居る。

 

何故ならさうして社會に負けて自己が心理的に殺されるのは如何にも悔しひので其れとはむしろ闘ひつつ生を終へて行くべきなのではなひか。

どだひ太宰も安吾もまた三島先生も皆さうして社會と闘ひつつ自らの生を全うされて行った訳だ。

 

 

ボオドレエルもラムボオもまたゴッホゴーギャンも社會と闘ひつつ自らの生を全うして行った訳だ。

 

さてこんな騒々しくも生臭ひ社會を無視することに決めたわたくしは此のところ美を探求することにだけ精を出して来て居ります。

 

より正確には其の社會の馬鹿を遮断することで美を見詰める為の時間乃至は心の余裕を得て来て居る訳だ。

 

 

 

「ヒスイカズラ」 (ストロンギロドン・マクロボトリス) -Strongylodon macrobotrys-

 

逆に申せば社會の馬鹿にまともに向き合ひ心を掻き乱されれば乱される程に其の美を見詰める心の余裕さへをも失って行くこととなります。

 

よって馬鹿は相手しなひと云ふのが冷たひやうですが此の世界をまともに生きて行く為の大事な要件です。

 

 

さて昔から花が好きなわたくしではあるが此のヒスイガズラと云ふ🌸は此れ迄まるで知りませんでした。

 

其れも靑ひ花が好きな筈なのが兎に角今回初めて知った次第です。

 

 

人間は何年生きたにせよかうして知らぬこと、分からなかったことがあるが故其の自らの無知を素直に認め常に學んでいく態度で行くことこそが最も大事なことです。

 

わたくしにはさうした意味での自己反省力即ち理性が常にありますが、中にはと申しますかほとんどの大人は六拾年、七拾年と生きますと頭が硬直しいや其れ以前に人間社會からの洗脳の度が酷くなり其の素直に學ぶ姿勢を決まって失って行く訳だ。

わたくしは其れを単に馬鹿化の過程だとさう捉へて居るので其の年寄りが寄りかかるであらう年の功としての権威、また肩書の充実による権力だの實績だのそんなものにはハナから捉はれてなど居りません。

 

ですが、こと社會秩序の維持と云ふ点では年の功、其れも長年に亘り生きた知恵の集積のやうなものが大事だとむしろさう認識する。

 

でも社會を離れた部分ー個としての生のあり方ーでの価値観としてそんなものはむしろ認めて居なひと云ふ話です。

なのでむしろ場に応じて価値観を変へると申しますか臨機応変に其れを変化させております。

 

ですので威張らなひと言ひつつ威張ったりもするのはさうした価値の両極を見据へた上でのわたくしなりの其の時々での意思決定であるに過ぎぬ。

 

 

其れでもって一番重要なのはヒスイガズラと云ふ珍しくしかも美しひ靑ひ🌸を知らぬ間に人生が終はって仕舞ふことでせう。

 

個人的には其れは何としても避けたひ訳です。

 

即ち社會のゴタゴタはもはやどうでも宜しひことなのでわたくしは其のヒスイガズラだけをしかと見詰めて参る所存である。

まさに其れがわたくしの望む理想的な形での生の終はり方であり社会との関はり方だと云ふことです。

 

社會にはもう随分長ひこと兎に角苦しめられて参りましたのでもうおまへのことは無視すると云ふ只其れだけのことなのです。

 

其れでもかって小中学生に社會科を教へた人間なのか?

 

そんなことを申されましても、わたくしだけにこんな社会にした責任がある訳ではありません。

 

其れはみんなが悪ひのであって戦争をやったり原発事故を引き起こしたりする責任が誰にも無ひのに實は大ありだと云ふことに等しひことだらう。

 

さうして眞の意味で美を理解するのはまさにさうした放棄の境地に於ひてのみなのやもしれませぬ。

 

本質的な意味での美の理解はさうして一筋縄では行かぬものでまさに離れ技のやうなものでもあることだらう。

 

 

若ひ頃と今とでは、其の美への感度に変化はありましたか?

むしろ今全てが美しく感じられつつあります。

 

昔は美しひとは思へなかった些細なものまでもが須らく輝きを持って感ぜられるそんな感覚でせうか。

 

其れは美としての此の世界の理想化のことなのですか?

 

まあ理想化でもまたあることでせう。

でもあくまで観念的な理想化のことではありません。

 

 

きっと感覚ー感度ーは年を取っても死なずより研ぎ澄まされて行くものであるのやもしれません。

 

いやでも普通は鈍感になるのでせうに、其れもそれこそ其の社会的な洗脳により感覚も且つ思考も鈍化しドロドロになって行く筈でせうに。

 

まさに其処を逆巻きし価値ヒエラルキーを逆転させて居る為より純化されて行くのやもしれません。

 

 

すると其処でもって何が見へるのですか?

もしや宇宙の神秘とかが感ぜられるのですか?

 

いへ此処はあくまで地球ですので地球上の自然が感ぜられれるだけのことでせう。

 

只其の感じ方がより直接的でピュアーだと云ふことでせう。

 

 

地球の自然だけでは無く地球の文明もまたある筈ですが…。

 

文明もまた美を生じませうが文明が生む美には加工が含まれて居る分本質的に美しひ訳では無ひ。

 

藝術に於ける美、また宗教に於ける心の美しさにさへ其の加工性が潜んで居て妙に其れが気に障ったり鬱陶しく思へたりもする。

 

 

もう其処まで行っちゃってますか。

ほとんど脱俗せし仙人ですね。

 

いやそんな御大層なものでは御座らぬ。

むしろ子供の頃の感性を大人の頭として取り戻して居ると云った感じです。

 

さうして齢が戻りましたか?

何故か戻りました。

 

多分わたくしは根が暗ひ人間なので戻ったのでせう。

ところで相変はらず石に魅入られて居るのだらう?

 

まあ石も藝術も其の根の部分は同じことでせう。

即ち其れぞ美の発露でせう。

 

 

さても美とは本質的に人間には欠けたものです。

何故なら庭を舞飛ぶ蝶もまた💎の数々もさらに植物園で観る南國の花花も其れ自体が美を認識して居る訳では決して無ひからだ。

 

 

するとさうして美を希求することは謂はば人間の本能のやうなものなのですか?

さう、其れも人間と云ふ相対認識の本能なのだらう。

 

他の認識は結局美を切り離してさう認識して居る訳では無ひ。

 

また他の認識は死を切り離してさう認識して居る訳では無ひ。

 

結局のところ人間とは何ですか?或はミュータントのやうな認識のことなのだらうか?

 

 

死が生まれたのは結局エントロピーの消去の為のことなのだらう。

 

有性生殖にて初めて個体の死は生まれたが逆に種ー社會ーとしての存続=社會的な秩序化には成功した訳だ。

 

其の社會的な秩序を観念化したのが人間の生なので必然としてむしろ死をさうして美を切り離して認識して御座る。

 

さうした意味では矢張り人間は特殊な生物なのですか?

 

 

其のイチイチ考へることこそが人間が背負ふ業な訳でまさに其れが矛盾的な価値を構築して行くことの原動力ともなって居ることだらう。

 

だがあへて其の思考を放棄し只感じ取ることが人間にとり癒しの時間となる可能性がまた高くあることだらう。

 

其れもさうして目的も無く且つどんな成果も期待せずに靑ひ花花を眺めるだけで人間の心が癒されると云ふことがあらうかと思ふ。

 

 

無論のこと其の意味で社會との概念的な闘争だけでは無く人間にとっての趣味の領域=拘る領域は必要なのだ。

 

但し其の拘りはなるべく小さな範囲に収めて置くべきなのだ。

 

 

逆に社會性のある欲望はまさに此の点で肥大化し易ひものと相場が決まって居る。

 

社會とは競争の場でもあることなので其処に虚栄や利己的排他的欲望が生じ易くまさに其のことにより其れが果てしなひ奪ひ合ひの場=餓鬼道の場と化して行き易ひ。

 

其の果てしなひ奪ひ合ひの場をして居る限りたとへどんなにスマートな言葉で其れを美化しやうとも其の闘争の本質は獣の仕業其のものと化す。

 

 

さても其のヒスイガズラの🌸の色は美しい靑色だったのですか?

 

さう左程に其れは美しひ。

まるで💎の如き色合ひであった。

 

個人的にはまさにターコヒズのやうな色合ひだとさう思った。

ターコヒズ、さう、鉱物には靑のものがまた多ひ訳だが植物には其れが少なひ。

 

ヒスイカズラ [翡翠葛]

ちなみにこちらでは緑の🌸として分類されて居た。

緑の🌸は数が少なく兎に角珍しひ。

 

鉱物のターコヒズにも、ターコヒズの靑もあれば實は緑の方もあるのだ。

其れはターコイズグリーン
と呼ばれる色合ひとなる。

 

 

ヴィシュヌ

印度の神々には蒼ひ体躯をした者が多くたとへば不動明王などもまたさうである。

靑は精神性を司る色だが其れは冷たひ色のやうで居て生命現象には欠くべからざる重要な色調をまた有して居る。

 

即ち其れは生命現象に於ける他方の極を指し示して居ることだらう。

 

生命には赤き血潮だけでは無く蒼黑ひ何かがさうして蔵されて居る。

輝くばかりの其の赤子の肌の下にはそんな不可思議な靑の性質が静かに拡がって居るのだ。

 

 

ー青の負のイメージ

英語で青はBLUE。「今はブルーな気分だ」などと使うように英語のBLUEには憂鬱という意味もあります。 ブルーデー、ブルーマンデーといった言葉にも結びつきます。

ブルースの歌詞の内容はあまり幸福なものではありません。

青は寂しさや孤独さも表す色です。

体調の悪い人の表情を指して顔色が青い、ショックを受けた状態を顔色が青くなると状態が良くないときの表現に使われます。

打撲の跡の内出血の色を青あざと呼んだりケガの表現にも使われます。ー青色・ブルーのイメージ色の性格・心理効果・色彩効果より

 

 

おそらく其の沈んだ靑の性質こそが生の一側面なのだ。

其の憂鬱も不安や不幸も皆生の一側面なのだ。

 

其の憂鬱も不安や不運が無ければ快活や希望や幸運でなどあり得る筈が無ひ。

 

今わたくしにとり靑とはそんな生の全体像を構成する為の重要な要素である。

憂鬱や不満をも含めまさに其れは生としての重要な負の要素なのだ。

 

では社會の馬鹿さ加減もまた其の重要な負の要素なのでせうか?

いや社會はブルーでは無く黑だよ、其れも真っ暗暗の真っ黑だ。

 

おおまさに破壊者の黑だよ、其れも真っ黑な心根の人間共にまさに似つかはしひ色なのだらう。

 

 

第27回特別展 結晶展 -研究者を魅了する多様な結晶たち-

 

植物会館弐階にて名古屋大學で結晶展が開かれることを知り驚愕して仕舞った。

 

丁度結晶への熱が高まって来たところにこんな展示なのだからコレは行かずばなるまひ。

 

左様に様々なことが思ひがけず起こることこそが實存としての生の波濤に接して居ると云ふことなのだ。

 

其の社會としての破壊の凄まじさに辟易しつつもかうして近く靑黑ひ石を見に行くこと程楽しみなことは無ひ。

 

どうもわたくしの場合はかうしたものを観に行くのが兎に角楽しひのである。

 

さうして孫の顔を見るだとかみんなで食事に行くだとかそんな風なことでは無く學び且つ美を探求することだけが其の愉しみの全てなのだ。

「レンズで見つめた生と死の時」

かくして限りなく負債を積み重ねて行く世ながら時は相変はらず経過し其処に美と美では無ひものとの鮮やかな対比を生み出して行く。

我は其の対比にこそ寄り沿ひ其の美の醸し出すなまめかしひ光景にみとれつつ日々を送って居る。

 

そんな今庭には紅梅が咲き大輪の椿の花が満開の様子である。

されどこともなげに其れは地に落ち其処に死としての彩の道をつくる。

 

さうかうするうちTVにて「心の時代」の「レンズで見つめた生と死の時」を視て居たら写真家の江成  常夫と云ふ方が出られて居て此の方が何と一時期落ちた椿の花の写真を好んで撮って居たと云ふことであった。

 

わたくしはかうした共時性のやうなものを最も大切にして居る。シンクロニシティ

何故なら其の共時性を感じられることこそが生きて居ることの証のやうなものでもまたあるからなのだ。

 

 

其の江成氏は還暦を過ぎてから癌を患ひ其処から鬱をも病んだのださうだ。

 

「鬱になると彼岸と此岸の区別が分からなくなる」と云ふやうなことを番組中で述べられて居て其処は何やら妙に納得出来る部分である。

 

とは言へわたくしの場合は鬱なのでは無く神経過敏症なのである。

要するに感度が高過ぎ世間とは価値観が異なるが故に其の齟齬にこそ苦しむ者なのだ。

 

どだひ鬱のテストをこれまで毎年続けて受けて来ているが鬱だとされたことなどは一度も無ひ。

 

鬱とは寸毫も嘘が付けぬやうになることなので其の点では充分に嘘コキであり要するに適当に誤魔化し生きる術を身に付けて居る訳だ。

なのだけれども鬱領域と神経過敏領域は極めて近しひ関係にあるが故にまさにちょっとしたことで其処に踏み込んで行かぬものとも限らぬ訳だからあくまで其処は注意して置かねばなるまひ。

 

しかしながら此の「心を病む程に感度が高ひ」と云ふことこそがこと対象を美と云ふ領域に限ればむしろ全的に有利なこととなるであらうことを忘れてはならなひ。

逆に言へば鈍感であればある程に其の美としての対象の輪郭がクッキリとは見へて来ぬ筈だ。

 

と云ふことはちょっと頭のオカシヒ昔の文士やら画家やら音樂家などはまさによりクッキリと其の美としての現實を捉へて居たであらう筈だ。

 

いやでも藝術家は時代だとか國籍だとかには関係無くまさに普遍的に其の美と美からの拒否と云ふ闘争を突き付けられても居る訳だ。

なので昔の藝術家であれまた現代の表現者であれ其の表現するところでの着地点にさう違ひがある訳では無ひ。

 

まさに其れは信仰其のものに垣根がある訳では無ひことと同じくして藝術の上での表現其れ自体にどんな垣根がある訳でも無ひのだらう。

 

 

ー83歳になった今、朽ち果ててゆく野菜や果物を撮り続けているー【こころの時代】写真家・江成常夫「レンズで見つめた生と死の時」の再放送・見どころは?より

 

ー江成:  もう咲いてますけど、椿なんですね。それが自然に落ちて、そこに絨毯のようになる。色あせて消滅していく。その時だけで終わるじゃなくて、それに自分を重ねて撮っていましたね。ーレンズで見つめた生と死の時より
 

 

では何故表現者は咲ひて居る椿を撮らずにあへて地に落ちゆく椿の花を撮り続けて居たのか?

また何故表現者は朽ち果てて行く野菜や果物を撮り続けて行くのだらうか?

 

おそらくは其処に美を感じて居るからなのだらうと我はさう推測して居る。

 

何故なら番組中で視た其の朽ち果てゆく野菜や果物はとても美しひとわたくし自身がさう感じたからなのだった。

 

何度も述べて来て居りますがさうして表現ー藝術ーとはより幅広ひ分離である。

 

正と負、+と-の領域をより幅広く見詰められる目を持つと云ふことなのだ。

 

但し一般的にはまさに其処こそが分からぬ点であらうかと思ふ。

 

 

普通は咲く椿の美しひ花の色に人間の目は魅せられるやうになって居るのだから。

 

また美女の振り撒く色香に、また漲る生命の鼓動のやうな自然の営みに快を感じ同時に其れが美だと思ひ込むやうになって居る。

 

確かに其れも美の一極なのだ。

 

だが他の極を感じ取ることこそが藝術表現にとってはむしろ大事である。

 

何故なら心地良くあるものは其の侭に美であるより他は無ひ。

 

然し美にはいまひとつの極があるのだ。

 

まさに其れが負としての美の極である。

 

 

わたくしは以前から其れを毒だとさう表現して来て居る。

さう其れは其の毒としての美の極のことなのだ。

 

其の根を掘り尽くし表現者は余すところなく美をより大きく映し出す。

 

其れは丁度宗教家が愛や信仰と云った精神的な次元をより拡大する形で我我に示して下さることと同じことだ。

 

されど凡庸な精神は残念ながら其の幅には欠けて居る。

 

だからより深く此の世の美を感じ取ることが出来ぬ。

またより深く此の世界の意味ー意義ーを汲み取ることが出来ぬ。

 

 

結局、其のより深く抉られた美の世界を世に指し示すのが藝術であり、より深く認識された世界観を指し示すことが宗教や哲學としてのあり方なのだ。

 

尤もより深く美の世界を抉ったりまたより深く認識された世界観を指し示すことは必ずしも人間にとり心地良ひ認識とはならなひことだらう。

其れはむしろ気分を害するやうなものであるのやもしれぬ。

 

なので藝術表現には、また宗教的な認識には一般性を離れて行くかのやうな部分さへもがまた含まれて居る。

 

 

まさに、何だ、コレは?

 

とむしろ否定したくなるやうな眞實としての姿が其処には含まれて居る。

 

 

常にわたくしが精神的な探究から感銘を受けるのはまさに此の点である。

 

だからと言って我我の日常生活はそんな深みのある認識から成り立つ訳では無くむしろ浅ひところ、其れも謂はば波打ち際にて波にさらはれて仕舞ふやうなところでこそ成立して居るのだ。

 

 

だから其れがまるで無意味だとさう述べて居るのでは無くむしろ其の現實としての功利性、現世利益の部分にこそ藝術や宗教をさう成らしめて居るところでの根拠が存して居るのである。

 

左様に今わたくしの観念は「否定無き」場へと必然的に向かひつつある。

 

其れも世の諸事象を否定しまくり貶しまくった挙句にようやく芽生へる全肯定への道程なのだらう。

 

 

即ち美を最大限に見詰める為にはまずは正としての価値観を全否定し其の負としての価値観を己の中に芽生へさせねばならぬ。

其の価値こそが自分でもってして生むもの、謂はば創造したところでの幅広ひ視野としての価値である。

 

だが其れは表現としての価値であり信仰による絶対的な価値なのでは無ひ。

 

表現としての価値はさうして負の美を見詰めかつ其れに寄り添ふ。

まさに美と寄り添ふことで表現者の生は終はって仕舞ふ。

 

其処でもって解脱する訳でも無ければ神佛により救われる訳でも無ひ。

だが其処には少なくとも表現があり、其の表現は常に美と結び付けられて居る。

 

左様に藝術表現とは其の美との絆を齎すものなのだ。

 

 

其のやうに永遠に美を希求して止まぬ表現者はまるで美に縛られて仕舞ふこととなる。

全ての価値がさうして美へと通ずる道となり其処でのみ彼は生き甲斐を、且つ悦びを其の生の實感を得ることが出来る。

 

 

美⇔醜

 

でも美とはまた分離だらう?

いや分離だからこそ美しひものがより美しく見へるのだ。

 

そんな椿の花の骸にさへ永遠の美の価値を添へることさへもが可能なのだ。

 

忌むべき其の醜に対する創造的過程が其処に美を育む。

 

美は美のみにて成立するものには非ず。

其れは同時に醜であり死でさへもある。

 

だが認識がしょぼければ此のどちらをも規定することは出来ぬ。

そも全否定をして居なひのだから全肯定もまた無ひのだ。

 

適度な否定に適度な肯定。

だが其処に映し出される美は眞の美では無ひ。

 

故に我我にとり決して心地良くは無ひ醜怪さや死を見詰めることなくして美の輪郭を得ることなどは出来ぬ相談だ。

 

 

でも昨今世間を騒がして居る行政と政治権力との癒着の問題は結局のところ自民党による矛盾政治に於ける精神性の欠如の問題ー馬鹿さ加減の問題ーなのだとさう結論付けることが出来る。

 

で、馬鹿を馬鹿として眺めて居るだけで實はコチラにも其の馬鹿がうつる。

と云ふことはもはや無視して置ひた方が其処に合理的な選択となると云ふことなのだ。

 

馬鹿がうつるといつの間にか自分も馬鹿になりもはやどうしやうも無ひところへと精神が追ひ込まれて行くことだらう。

なのでなるべく早う其の馬鹿を切り捨てむしろじぶんの城にでも籠っておく方が宜しひ。

 

左様に世の中の馬鹿が嫌ひだと云ふことは、其れは精神が潔癖である証拠で決して悪ひことでは無くむしろ眞正直に生きて居ることの証左であらう。

そんな馬鹿にじぶんの観念を破壊されるよりは此の春の陽射しの中で生命の息吹を感じ自分なりに前向きに生きて行くことの方が余程に大事である。

 

 

其れも学生さん方などは此の時期に是非哲學や文學、其れに宗教などの方面での読書を是非御勧めして置きたひ。

東京であれば神田、名古屋であれば鶴舞などのまた大阪は何処にあるのかは知らぬが兎に角古書店街へと出向き読書三昧に邁進せよ。

 

何故ならあくまで学校の御勉強は価値ヒエラルキー構築の為の御勉強なのでほんたうの意味での教養にはならぬものと相場が決まって居るからだ。

 

さうして偏差値が高くある奴にも関はらず言ってること、やってることに教養が欠けて居るのはズバリ本を読んで居なひからだ。

 

さても君は今どんな本を読もうとして居るのだ?

ああまさに春の本です。

 

春にはかうして庭でもって赤ひ梅の花木蓮の白い花が咲き乱れて居ります。

實は大輪の椿ばかりでは無く次第に花だらけになっても参ります。

 

 

でもそんな庭での有様とは異なり正の価値ヒエラルキー構築を信奉する世間の奴等は其の価値に胡坐をかき全てを幕藩体制化して居るからまさに其れは近代的価値では無ひ訳だ。

たとへば自民党と官僚、また利益を受ける為に其の役人を接待する企業の側の論理が須らく其の幕藩体制なのだ。

 

だが幕藩体制は民主主義國家には基本的に合って居なひぞ。

 

だから幕藩体制をやるならむしろ鎖国しなければならぬこと位は当たり前のことだ。

 

其の近代的価値とは何ですか?

 

不要で余分な価値のことだらう。

本質的にはまるで不要な価値の追求を文明が行ふと云ふことだらう。

 

 

但し、価値は相対的にしか規定し得ぬものだ。

絶対の価値と云ふものは此の世に無ひ。

 

よって全てに対し一流の価値を追求したにせよ得られるものはほとんど無ひと言ひ切れることだらう。

要するに其れでは価値が常に自分とは離れて居るので其れが身に付きはせぬものなのだ。

 

だから其の価値に拘る限りは心が充たされず其処に眞の意味での希望や幸福を得ることなどは難しひ。

 

其の価値は世間から教へられるものなのでは無く自ら生むものなのでなくてはならなひ。

むしろそちらの方での負の価値ヒエラルキー構築に勤しむことこそが眞の意味での學びであり自己の精神の成長を促すものなのだ。

 

 

また其れは金持ちの連中が貧乏人の苦労を理解出来ぬことと全く同じことだ。

健常者が障碍の引け目を理解出来ず恵まれた者が虐げられし者の苦悩を理解出来ぬこととまるで同じことだ。

 

だからと言って金持ちや健常者が全部悪く貧乏人や障碍者が全部偉ひとして仕舞ふとまた世の中はおかしくなって仕舞ふではなひか。

だから左翼思想の陥り易ひ誤った認識こそがまさに其の社会的救済思想にあるのだよ。

 

じゃあ宗教が貧乏人や障碍者を救ふ其の考へも何処かおかしくなるのではありませぬか?

いや宗教はまた別だらう。

少なくとも信徒の皆が死んで生きる宗教であれば其れは正教であり断じて邪教などでは無ひ。

 

では無差別殺人を目論む宗教などは矢張りと云ふべきか邪教なのでせうか?

宗教其れ自体は裁くものでは無くまた他の信心を否定するやうなものであってはならなひ筈だ。

 

 

世の中がオカシヒから逃げて行くと云ふアナタのやうな思想のあり方はまさに邪な思想なのではありませぬか?

いやだが自分を守り逃げて行ける立場にある場合にはなるべく逃げておくべきだ。

 

たとへば明治維新はあったよりも無かった方が良かったと云ふのがわたくしの到達した考へであり逃げ方なのだ。

 

まさに其れが逆巻きでの価値ヒエラルキーの構築のことなのですか?

さうだよ、あくまでじぶんの中での価値ヒエラルキーの逆行だと云ふことだね。

 

 

実際に此の世の価値は正と負が相剋し相即する関係に於ひてこそ成り立って居やう。

 

但しわたくしも昔は其のことがまるで分からなかった。

 

たとへば志望した大學には落ちても何とか入れた大學で自分の為の御勉強を進めることは可能だ。

また大學など出て居らずともまさに其の自分の為の御勉強を成し遂げて居る人を此れ迄に幾人か我は見て来て居る。

 

要するに此の世界での現實とは「人間万事塞翁が馬」と云ふことにもほど近ひことだらう。

 

またたとへば悪ひことがあるとする。

 

ところが其の悪ひ出来事を知った人が精神的にまた物質的に援助して下さり其処に新たな視野や価値が拡がることさへもが實際にあるものだ。

 

 

かうして悪や不運を遠ざけたひのは山々のことなれど、人間存在のあり方其れ自体が實は矛盾的でしかも正の価値ヒエラルキーには素直に従はぬものなのだ。

さうした意味での矛盾的認識しか人間には出来ず其の認識にて社会を構築するものだから事實上人生の上での正解など構築出来ずまた価値観の正しさも証明されぬ訳だ。

 

だから其の「正しひ」と思ひ込んだ価値を全的に履行する為には信仰の道へ入る他は無くなる訳だ。

 

其の信仰へは進めぬ程に懐疑的な人はさうした精神の相対性を受け容れまさに「人間万事塞翁が馬」でもって生きて行くより他は無ひ。

 

つまりは其れもまたひとつの負の価値としての選択法だとわたくしは見て居る訳だ。

 

 

1.得られるものはむしろ何も無ひ、此の世でもってもしも得られるのだとすれば其れは自ら建設した精神である。

2.得られぬことでむしろ多くを得る、よって何かを得ることを考へることよりも何を捨て去るべきかと云ふことにつき學び且つ考へて行くべき。

3.美の領域は正負にわたり限りなく拡がって居る。

 

最近のわたくしはこんな感じでもって生きて来て居る。

 

一番大事なことは自らの身にふりかかる負の要素を排斥しなひことである。

ですが負の要素には決まって腹が立つのでつひ其処で呪ひの言葉を投げかけたりもするのですが其れもまた表面上のことで本質的には正の価値ヒエラルキー化に対する耐性かまたは免疫を獲得しつつあるやうな気がするのですが或は其れは気のせひなのだらうか?

 

さうしていざ正の価値ヒエラルキー化に対する耐性かまたは免疫を獲得すればたとへ病気なのだとしても穏やかに生きて行けそうなそんな気さへもがするのだ。

 

4.藝術的な生き方は宗教的な生き方とは異なり其の負の要素を排斥することが無ひ。

5.藝術と宗教は異なるものだが、むしろ其処に於ひてさへ相剋し相即する関係性がまた認められる。

 

かくしてわたくしの観念は次第に負から生ずる正へとまた有としての無へと結び付けられて行くのであった。

『コヘレトの言葉』より學ぶー弐ー

 

ー9かってあったことは、またあろう。
かってなされたことは、またなされよう。
日の下におよそ新しいことはない。
10「見よ、これを、これこそ新しい」と
いうことがあろうか。それはわれらの前の
代々にすでにあったことだ。
11前のことは記憶されず、後のことどもも、
さらに後の世に記憶されることはない。

 

13そして天が下で行なわれる一切のことを知恵によって探り究めようと志した。
やっかいな仕事だが、神が人間を悩ますために賜うたことなのだ。
14わしは日の下で行なわれるもろもろのわざを見たが、
なんと一切は空であり、風を追うようであった。
15「曲がったものは矯(た)められず、
欠けたものは数えられえない。」

 

17わしは知恵と知識、狂乱と愚行(の別)を知ろうと心を傾けた。
だがこれもまた風を追うに等しいと知った。
18げに知恵が多ければ憂いも多く、
知識が増せば苦しみも増す。ー『コヘレトの言葉』より

 

 

其の知恵とはさうして知識とは所謂智慧の實を食って得た相対分別のことだらう。

神がまた佛が其処にましますと云ふのに小賢しひ悪知恵をひけらかしつつ我等人畜の群れが嗚呼まさに此の世を滅ぼして行かうとして御座る。

 

 

さうして曲がったものを矯め欠けたものを数え我等人畜は未来と云ふ虚の価値を追って行くのだ。

 

わたくしもまた知恵と知識、狂乱と愚行(の別)を知ろうと心を傾けた。

だがこれもまた風を追うに等しいと知った。

げに知恵が多ければ憂いも多く、

即ち知識が増せば苦しみも増す。

 

 

 

ー何もかも、もの憂い。
語り尽くすこともできず
目は見飽きることなく
耳は聞いても満たされない。

 

わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、17熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。
18知恵が深まれば悩みも深まり、
知識が増せば痛みも増す。

 

11賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。
ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した。
12それらよりもなお、わが子よ、心せよ。
書物はいくら記してもきりがない。
学びすぎれば体が疲れる。
13すべてに耳を傾けて得た結論。
「神を畏れ、その戒めを守れ。」
これこそ、人間のすべて。
14神は、善をも悪をも
一切の業を、隠れたこともすべて
裁きの座に引き出されるであろう。ー 『コヘレトの言葉』より

 

 

個人的に此れはルバイヤートにも程近ひやうな所謂厭世文學なのだと思ふ。ウィリアム・モリスの装飾文字とエドワード・バーン=ジョーンズのイラストレーションによるルバイヤートのページ(1870年頃)

 

だが人間には救済が必要だと云ふ意味で此の種の厭世史観、虚無主義はむしろ健全なのだとさうわたくしは理解する。

 

謂はば其処に救済が無ひからこそ是が非でも救済が必要となるのだ。

 

然し現代社會に対し果たして救済は必要なのだらうか?

 

即ち救済など要らぬとさう思って御座る其の人間の意識の方にこそ異常性が存するのではなひか。

 

 

かように過去の認識は異常では無く現代の認識こそが異常である。

と云ふ部分こそがまずはわたくしの基礎認識である。

 

異常なものを異常と認めまさに其処への反省を胸に抱き静かに且つ穏やかに暮らす。

 

まさに其れが理想の暮らしであらう。

 

かと言って日々頑張ろうなどとは金輪際思はぬやうに。

 

むしろ頑張らぬことこそが静かに且つ穏やかに暮らすことの要諦である。

 

 

其の裁きに関しては、佛は裁かぬ訳だ。

 

確かに無神論である佛が人間を裁くことなどは無ひ。

 

だが結果的に人間は自然に裁かれることであらう。

さうした意味で自然其れ自体がまさしく神のやうなものなのだからこそ。

 

 

 

「人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、 僕(しもべ)があなたを呪っても聞き流していられる。 あなた自身も何度となく他人を呪ったことをあなたの心はよく知っているはずだ。」  『コヘレトの言葉』7章21-22節 (旧約聖書1042ページ)

 

 

何故なら人の言ふ事は見当違ひなことであることがほとんどであるからだ。-他人に己のほんたうの姿はまず見通せはしなひ-

 

 

 

「悩みは笑いにまさる。顔が曇るにつれて心は安らぐ。」 『コヘレトの言葉』7章3節 (旧約聖書1041ページ)

 

 

何故なら悩み苦しむことでこそ人は眞に安心し得るからだ。

逆に笑ひにまた笑顔に満ちた生程偽善的でウソ臭ひものは無ひ。

まさに其れでは心が安らぐことが無ひことだらう。

 

 

 

「言葉が多ければ空しさも増すものだ。人間にとってそれが何になろう。」 『コヘレトの言葉』6章11節 (旧約聖書1041ページ)

 

だが其の空しさを知る人間こそが人間にとっての普遍的な痛みをまた良く知ることだらう。

また其れは宗教や宗派の違ひとは関係無く其れこそ人間としての普遍的な心のあり方の問題なのでもあらう。

 

 

 

「太陽の下に、次のような不幸があって人間を大きく支配しているのをわたしは見た。ある人に神は富、財宝、名誉を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかったので、他人がそれを得ることになった。これまた空しく、大いに不幸なことだ。」 『コヘレトの言葉』6章1-2節 (旧約聖書1040ページ)

 

 

神と同じやうに佛もまた此の世では何ひとつ得られず、もしも得られるものがあるのだとすれば其れは空しさであり不幸であることをしかとお説きになった。

されど其の空しさの中でこそ得られる境地がまたあることかと存ずる。

まさに其れが空しさと不幸とを捨て去ることの愉しみなのだ。

 

 

「銀を愛する者は銀に飽くことなく、富を愛する者は収益に満足しない。 これまた空しいことだ。」 『コヘレトの言葉』5章9節 (旧約聖書1039ページ)

 

 

かうして次元の低ひ愛は結局利己性に終始する。

キリストが普遍の愛を説き釈迦が愛の放棄を説ひたことには歴とした理由がある。

 

即ち+の愛と-の愛とが対として其処に説かれたのである。

即ち其れはどちらがより上だと云ふまた眞理なのだと云ふ問題には非ず。

 

まさに其れが説かれるべくして説かれねばなかった其の愛への信仰と放棄とであった。

 

 

「焦って口を開き、心せいて、神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、 あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ。」 『コヘレトの言葉』5章1節 (旧約聖書1039ページ)

 

神は多くを語らず、また佛も無駄事を決して語らず。

 

 

 

「さらに、二人で寝れば暖かいが、ひとりでどうして暖まれようか。」 『コヘレトの言葉』4章11節 (旧約聖書1038ページ)

 

でも弐人で寝ると寝つきにくひと云ふことがあらうかと思ふ。

一人で寝ると兎に角寒ひが寝つきだけは良くならう。

 

 

 

「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、 虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手に ある力を。彼らを慰める者はない。既に死んだ人を、幸いだと言おう。 更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。」 『コヘレトの言葉』4章1節 (旧約聖書1038ページ)

 

おお、コロナ禍にて今あらゆる虐げが行はれつつある。

でもって政府の関係者だけが悪ひことをやり其れでも給料だけは貰おうとして居る最中なのだ。

 

ああ、まさに既に死んだ人こそは幸ひだ。

 

すでに死んだ漱石も芥川も太宰も安吾も三島も皆幸福だ。

かうしてまだ生きて居る我我だけが何処までも罪人でしかも何処までも不幸なのだ。

 

 

 

「人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだと わたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。死後どうなるかを、 誰が見せてくれよう。」 『コヘレトの言葉』3章22節 (旧約聖書1038ページ)

 

 

其の自分の業によりかうして日々石と戯れる我は人間としては不幸だけれど個人的には幸福だ。

其れも出来得れば死後は石になりたひ程に。

 

かうしてコヘレトはあへて決定論的ー因果応報的ーに死後のあり方を規定していく。

だが其れは正統としての旧約聖書のあり方とは異なる解釈だったことだらう。

 

おそらくコヘレトは其処にあへて逆を述べることにより聖書に於ける信仰としての物語を完結させたのであったことだらう。

 

 

生前⇔死後

 

尚個人的には此の弐要素が密接に関はって居る筈だとさう見て居る。

其処では生と死が別箇に規定されるのでは無くまさに相剋し且つ相即する関係に於ひて関はり合って居るのである。

 

故に文明にとっての望み得る死とは生でもあり死でもあり得る生であり死のことなのだ。

其処を端的に言葉でもって示せば半分死につつ生きて居ることだ。

 

即ち半死半生でもって生きると云ふこととなる。

 

つまるところ其れは負としての生のことだ。

また同時に正としての死のことでもあらう。

 

負としての生を生きる為には負としての愛を見詰めねばならぬ。

正としての死を生きる為には負としての愛を見詰めねばならぬ。

 

 

「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」 『コヘレトの言葉』3章11a節 (旧約聖書1037ページ)

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時……」 『コヘレトの言葉』3章1節- (旧約聖書1036ページ)

 

 

確かに何事にも其れに適ふ時があらう。

但し永遠は此の世では得られなひ。

 

時は全てを限定し己の心もまた其れに限定される。

 

永遠とは彼岸でのことである。

神もまた佛も彼岸でのことである。

 

彼岸ーあの世ー⇔此岸ーこの世ー

されど彼岸はまた此岸と相剋し且つ相即する関係性を保つ。

 

故に生と死は無関係では無く密接に関はり合ふ。ーさうして矛盾的に関はるー

其れを佛法的に述べれば生即死であり死即生である。

 

問題は其の認識へと洗脳された精神が到達することが無ひと云ふまさに其の点なのだが…。

 

 

「一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、 実に空しいことだ。」 『コヘレトの言葉』2章23節 (旧約聖書1036ページ)

 

 

其の空しさこそが限定ー限度ーである。

限度ある者は空しひが其れ故にむしろ現象して居る。

 

現象は神では無ひのでむしろ其処に神が要り、佛では無ひのでむしろ其処に佛が要る。

 

 

空しさ⇔充實

空しさの反対には空しさでは無ひものがある。

だが双方を見詰めねば其れも共に見へては来ぬ。ー眞の意味で双方が理解されぬー

 

 

尤も現世で利益を成就させることは空しさであり充實では無ひ。

現世でもって得られるのは其の虚としての空しさと其の虚としての充實ばかりだ。

 

 

だから其処でもって負としての愛を貫け。

負としての愛とは一度死んだ愛のことだ。

 

佛法的に申せばまさに其れが慈悲、慈愛と云ふことなのでもあらう。

 

尤も大衆は其の慈悲の次元にまで心が及ぶことは無ひ。

故に死んだ愛、負としての愛には結局気付けぬ侭に其の生を終へる。

 

 

其の空しひことだけが生きることだ。

なので元々空しくは無ひ神佛は生きては居なひ。

 

 

 

「わたしはこうつぶやいた。『愚者に起こることは、わたしにも起こる。より賢くなろうと するのは無駄だ。』 これまた空しい、とわたしは思った。」 『コヘレトの言葉』2章15節 (旧約聖書1036ページ)

 

 

賢くならうとすること自体は無駄では無ひ。

だがより賢くならうとすることは確かに無駄である。

 

人間は観念が飽和すればもう其れ以上の學びなど要らなひ。

後は其の観念と心中するだけなのだ。

 

 

人間が成長することなどは無ひが観念だけは成長させることが出来る。

観念は年を取らずいずれは誰でもが賢者の如くに考へることが出来る。

 

其れも其の學びを継続させた者だけが。

最終的に其の知識と知恵は解脱することにはまるで役立たぬ。

 

だが人間の生の目的は解脱することにあるのでは無ひ。

 

生の空しさを其の侭に空しひと悟り他からおかしな洗脳を受けぬ為にこそ學びー理性ーとしての意義があらう。

さうして眞に學んだ者だけが自らの頭で考へることが可能なのだ。

 

まさに其れは組織上のリーダーに従ふこととはむしろ正反対のことだ。

其の反対をこそ大事にしやう、でなひと我我はかうして皆洗脳されて仕舞ふのだからこそ。

 

 

「わたしはこうつぶやいた。『快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。』」  見よ、それすらも空しかった。 『コヘレトの言葉』2章1節 (旧約聖書1035ページ)

 

 

愉悦もまた本質的には空虚だが負の愛に殉ずると云ふ意味に於ひて必ずしも否定すべきものでは無ひ。

特に自然を愛すると云ふ価値は其れこそ負の愛に殉ずると云ふ意味に於ひて健全なのであらう。

 

尚神佛への信仰もまた其の負の愛に殉ずること其のものだらう。

但し其れが教祖様への信仰ともなればまさに其れは正の愛の履行となり故に信仰としては如何にも不純であり且つ邪教へと殉ずることともならう。

 

キリスト教にもまた其の不純が無ひでは無ひのだらうが、何せキリスト教は二元分離して居り其の分複雑なので其処は學びを進めてみぬと何とも言へぬ部分である。

 

旧約聖書に於ける『コヘレトの言葉』の存在がまさに其の救済思想に於ける二元分離の様を示して居るのだと云へやうー

 

 

「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す。」 『コヘレトの言葉』1章18節 (旧約聖書1035ページ)

 

 

『コヘレトの言葉』に於ける人間の知識や知恵に対する解釈は左様に的確である。

つまりは理性を磨き続けて行くことー学校の御勉強とはまた少し其れは違ふのだがー程苦しひことは無ひ。

 

だがまさに其れを志すことでひとつの心の目を得ることが出来ることだらう。

其の眼は自分でもって拵へたものだが同時に神佛へも確實に通じて居ることだらう眼差しなのだ。

 

然し世間にあり時代にまた社會に洗脳された侭ではおそらくは其の境地を得ることなどは不可能であることだらう。

 

さうした意味で自らの価値観を確立させることとは社會に対し媚びを売ることでは決して無く己の内なる神佛と出遭ふことなのだらう。

『コヘレトの言葉』より學ぶー壱ー

現代人の心が今総じておかしくなりつつあるのは悲しみや苦痛と云った負の要素をむしろ社會の側が遠ざけやうとして居るからであらう。

 

 

生⇔死

樂⇔苦

靑年⇔老年

金持ち⇔貧乏

現世肯定ー現世利益主義ー⇔現世否定ー救済思想ー

 

 

現代人の生の目的が此れ等の二元論に於ひて全部左側に寄って仕舞って居ることこそがおかしな部分であり要するに其れは現實主義ー現世利益主義ーに偏って仕舞って居る訳だ。

其の一方的な価値観の流れを一旦堰き止め逆方向へも流れるやうにせぬとおそらくいつか其の価値の川の流れは氾濫を起こし文明の流れ其れ自体が崩壊するに至ることだらう。

 

 

 

[こころの時代] それでも生きる 旧約聖書 「コヘレトの言葉」について語る | 小友聡×若松英輔 | “異端の聖典” | 第3回 すべての出来事に「時」がある | NHK

それでも生きる 旧約聖書コヘレトの言葉 5 今を見つめる

 

尚わたくしは現代と云ふ時代其のものに対しかうして常に批判的な人間である。

 

要するに現代と云ふ時代を常に懐疑的に見詰めむしろ隙さへあれば其れを否定してかかるタヒプの人間なのだ。

然し元来は現代の全てを否定的に見詰める人間ではなかった。

 

其れが何故さうなって行ったのかと云ふ部分に就ひてはこれ迄の投稿にて其の経緯を明らかにして来た積もりである。

但し順を追って書かれて居る訳では無くむしろ其の折々の感懐に絡めしかも適度にざっくばらんな形にて書ひて来たので其の点に就ひてはあくまで過去の記事を参照して頂きたひものだ。

 

わたくしは昨年まで勤め人であり現在も家のことをほぼ全部やって居るから實はそんなに時間がある訳では無ひのだがかって塾にて社会科を教へて居た折から此の時代に対する違和感と言ふか懐疑の思ひが多々渦巻ひて居たのでまさに其の部分を言語化する試みこそが此処での内容であった。

 

ところが、其の告白に於ひて最終的に問題となったのが現代人が持つ感覚ー一般的な感覚ーとわたくし自身が持つ感覚のまさに乖離の部分であった。

 

正直其の感覚の差異こそがまさに埋められなひ溝でありおそらくは共に永遠に理解し合へぬ部分なのでもあらう。

 

で、わたくしは其の感覚の差異をこそ憎むと云ふか恐ろしくも感じて居る訳だ。

 

其の現代の常識こそが「やり過ぎ」でありまさに其処を限定せぬととんでもなひことになるぞよとわたくしは何年も前からさう述べて来て居た筈だ。

 

 

まさに其の危惧が「コロナ禍」として實現するに至った訳だった。

だが人間存在に対する本質的命題としてわたくしが現代のみんなに突き付けたかったのは實は其のやうな危機其のものに関してのことでは無かった。

 

わたくしがみんなに是非言ひたかったのは「負の生」のことでありまた「負の愛」のことであった。

 

其の負の生とはまた負の愛とはまさに一部の見識の高ひ方々には何となく了解されるものであることだらう。

 

と申しましても大多数の方々には一体全体何のことやらチンプンカンプンなのだらうが其れぞズバリ価値ヒエラルキーの逆戻しー巻き戻しーのことである。

 

だが其のことをわたくしの言葉にて矢継ぎ早に述べ立てたにせよおそらく其れはまさに焼け石に水であることだらう。

 

 

 

なのでわたくしは今此処に其のヒントとなることだけを具体的に示して置きたひ。

 

NHKテキスト それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」

 

此の本の中にはおそらく其のヒントがぎっしりと詰まって居ることだらう。

 

居ることだらうと云ふのは、わたくしもまだ此の本を入手しては居なひからのことだ。

 

 

だが其処で何だ、またバカにしていやがるな、などと思ってはいけなひのだ。

 

何故ならほんたうの智は本の中に埋まって居る訳では無ひのだから。

 

ほんたうの智は知の苦闘の中から生まれ其れは得るものでは無く自ら生むものなのだ。

 

さう自らの内なる世界に生むものであり灯すべきものなのだ。

 

 

 

ー全てのことが人を疲れさせる。語りつくすことはできず、目は見ても飽き足らず耳は聞いても満たされない。

太陽の下 新しいことは何一つない。(1章)ーNHKこころの時代・「コヘレトの言葉」を解説!辛さ・苦しみの中でも生きる意味とは?より

 

事實として今人間界ー現代社會ーでのあらゆることが矛盾に陥って御座る。

 

かうして社會的に組み上がる組織は腐敗、劣化しまるで其れに己の生命を託して生きる我我大衆はまるで馬鹿みたひなものだ。

いや、事實として其れは馬鹿なのだ。

 

社會的に組み上がる組織のトップ=リーダーに付き従ひ生きる事其れ自体が實は矛盾なのだ。

 

かう云ふことを述べると皆は嗚呼、また始まった。

とさう思ふことであらう。

 

でもまさしく其れがほんたうのことだよ。

 

何度も申して来たやうに社會に対し全的に与し其処から価値観を植へ付けられることこそが誤りの元だからだ。

 

 

 

ー星

 太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない。ー侏儒の言葉 芥川 龍之介より

 

 

かうしてかって芥川は旧約聖書を丹念に読み込んで居たやうである。

彼が死した時其の枕元には一冊の聖書があったともされて居る。

 

其のコヘレトとは古代の伝道者のことだらうが現在は誰だと特定出来るものでも無ひやうだ。

其の思想的な位置付けとしてはまさに西洋の老子のやうなものなのだらうとわたくしは思ふ。

 

だが老子よりもより悲観主義でありつまるところはペシミスティック且つニヒリスティックであり一見すると何処にも救ひが無ひかのやうにも見受けられる。

 

 

但し現代の識者による『コヘレトの言葉』に対する論調は大体以下のやうなものとなり易ひ。

 

 

ーけれども、こういう時にこそ、お伝えしたいことがあります。それは、この世界に何が起こるか予測できないけれど、他者に寄り添い、自分にあるものを分かち合いなさい、と「コヘレトの言葉」が勧めているということです(11章2節)。先日、対談者の若松英輔さんが、コロナ禍の今、自分の弱さを認め、弱い立場の人に目を向けようと新聞に寄稿しておられました。その通りです。不安が消え去らない時代に、命の大切さに気づかされ、弱さに寄り添う優しさを取り戻しましょう。NHKこころの時代・「コヘレトの言葉」を解説!辛さ・苦しみの中でも生きる意味とは?より


人生は矛盾だらけだがそれでも生きる、と述べています。

ー私たちは明日のことを分からないし種をまいても実を結ぶかどうかわからないけれども、それでも1日を休むことなく過ごすのだ、と述べています。

ーコヘレトは私たちが他者と一緒に生きることを述べています。 NHKこころの時代・「コヘレトの言葉」を解説!辛さ・苦しみの中でも生きる意味とは?より

 


「人生に無意味なことは、何一つない。旧約聖書の中で「名言」が多いとされる詩文「コヘレトの言葉」。未来への不安がはびこる現代で、人生のすべてを肯定してくれるこの章が注目されている。辛さや苦しみさえも幸せに変えてくれる、コヘレトの知恵とは何か。「束の間の人生を生きる」「すべての出来事に時がある」「小さな幸せを見いだす」「今を生きよ」……。キリスト教旧約聖書の基礎知識を押さえながら、「生きよ」とうながす言葉の数々を読み解いていく。巻末に「コヘレトの言葉」を全文掲載。批評家・随筆家の若松英輔氏の特別寄稿も収録。」「NHKこころの時代~宗教・人生~ それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」(NHKシリーズ)」本の内容紹介より

 


尚好き嫌ひで言へば個人的に其の作家の若松 英輔氏は好きである。

なのではあるが、わたくしの場合コヘレトの言葉をキリスト教的な有の思想ー全能者の被造物としての人間の生としての有(生の価値)ーと結び付け全的な肯定の手段として解釈すべきものでは無ひと考へて居る。ーキリスト教はむしろ負としての有、負としての生、負としての愛を生きるものなのではなからうかー

 

 

さうして結果的にコヘレトの言葉はむしろ悲観から人生の意味や生きる価値を捉へて居る。

 

では何故悲観から捉へねばならぬのだらうか?

 

其れは事象又は観念は逆側から捉へねば全的な把握即ち全体論的な認識が可能とならぬからなのだ。

 

即ち大衆ー一般人ーにとり決して出来ぬのがまさに其の認識なのだ。

其処をこそ突き老子やまたコヘレトが眞實を語って居たのである。

 

たとへばわたくしがリーダーに頼らず眞我に従ふべきだとさう述べると大衆的自我はコイツは今変なことを述べた、とさう思ふことだらうがまさに其処こそが大衆の犯す認識の上での誤りなのだ。

 

 

つまりは前向きの言葉ばかりでコヘレトの言葉を括って仕舞ってはならぬのだ。

もしも前向きばかりで人類の仕出かしたことを全て赦して仕舞ふと其れはもはや逆にキリスト教の説く終末論へと容易に捉へられて仕舞ふことだらう。

 

いやキリスト教が結局何を説ひて居るのかと云ふことは今暫く御勉強の時間を頂き其処で良く良く吟味してみねば正直分からぬことでもある。

但し上記の心の時代の番組中では小友 聰なる學者が其れは所謂ダニエル書に対するアンチテーゼのやうなものだとさう述べて居るのである。

 

 

即ち人類の仕出かすことはむしろ赦せぬとさうコヘレトは述べて居るのだらう。

 

そりゃ赦せる筈が無ひはな。

 

何故なら温暖化は仕出かすは、生物種は殺しまくるは、おまけにマイクロプラスティックやナノプラスティックでもって地球を全部汚染した我我は2050年以降次第次第に細胞の中に其のプラスティック汚染による影響が顕著となり結局はみんな死ぬしか無ひやうだ。

 

げえっ、そんな👿のやうな破壊者だったのか我我は。

 

ばか、そんなことは初めから分かって居ることじゃなひか。

だから大衆は馬鹿なんだよ。

 

いやそんな風におまへの言ひ方が如何にも毒々しひので其れに対してみんなが怒って居るだけのことだ。

 

だが其れも一部の見識の高ひ方々にだけには分かって貰へる筈だ。

 

 

 

ー青年時代=『雅歌』(愛の歌)

壮年期=『箴言』(知恵の言葉)

晩年期=『コレヘトの言葉』(この世の全ては虚しい)ー『コヘレトの言葉』の意味とは?思想を要約してまとめてみた より


 

此の「コヘレトの言葉」に限らず厭世的な思想は洋の東西にかって屡あったが時代が進むにつれー特に近代以降か又はルネサンス以降ーは時代の表面に現れぬやうになって行く。

と云ふことは其処に文明の奉じる思想が抽象的に+の方向へ捻じ曲げられたのだと考へられやう。

 

即ち本質的に悲観論が成り立たぬ世界観が其処に成立して行く訳だ。

 

 

だが遥かな過去の記憶ー思想ーはむしろ其の生の悲観性をもしかと内包するものであった。

故にわたくしが述べて居るのは其の新しひ思想に対する胡散臭さのことなのだ。

 

或は逆に現代人は合理化により正の思想ばかりを組み立てやうとして御座るがまさに其れこそが最も胡散臭ひであらう思想である。

 

どだひ全能性若しくは完全性は其の+思考ばかりでは組み立てられぬ筈である。

 

また愛にせよたとへば利己愛を+思考ばかりで追求すれば其れでもって破壊が齎されることはまず間違ひなひことだらう。

 

どだひ現代文明の愛のあり方とはむしろ其の利己愛の突き詰めによるものでもあることだらう。

 

 

故に眞の理性は其の偽善の様をこそ見破らねばならぬ訳だ。

 

温暖化もまたプラスティックゴミによる環境並びに生命の破壊にしてからもが全てが其の人類社會ー文明ーの仕出かした特等の罪である。

 

其のやうな文明を何故よりによりみんなは信奉し歩むのだらうか?

まさにわたくしには幼き頃より其れが分からなかった。

 

 

厭世的⇔建設的

 

と云ふ対概念の上から言へば無論のこと両方をやらねばならぬのだ。

 

第一神は👿と一体であり佛もまた魔と一体である。

其のやうに分別される認識自体に我我は縛り付けられて居る。

 

即ち其の両方をやると云ふ意味に於ひて初めて「コヘレトの言葉」は+思考へと転じて行くのだらう。

 

で、科学技術には其の-面が無ひー観念として無ひーからむしろほんたうの意味での破壊を招き寄せて仕舞ふのであらう。

 

 

勘の良ひ皆様ならば次第次第にお気付きのことかとは思ふのだが近代以降人間がやる気を出せば出す程にむしろ世界を破壊して来て居る訳だ。

其の破壊と停滞とのどちらが良ひかと云へば停滞の方がむしろ優れて居る。

 

 

では何故其のことに就き大衆は気付けぬのか?

所詮其れは近代思想に強ひ洗脳作用があるからなのだらう。

 

 

 

やる⇔やらぬ

人間には一番出来ぬことが其のやらぬことである。

 

まさに「やらぬ」と云ふ素晴らしき価値があるにも関はらず人間はつひやっちまふ訳だ。

 

其のやらぬ価値、まさに石橋を叩ひても渡らぬ価値を見詰めぬ現代社会は如何にも一方通行であり其の様やまさに奇妙であり異常ですらあることだらう。