目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

限定的に行ふベーシックインカムにて日本國を救へ

もはや日本人は救はれぬ、どうしたって助からぬ、などとはむしろ此の際思はぬ方が良ひ。

日本はまだまだ恵まれて居る方だとさう認識し「限定」しつつ最低限での生活を営んで行った方が良ひことだらう。

 

事實として欧米諸國はたった今パンデミックによる具象的限定をモロに受け先の見通しなどまるで立たぬ状態にある。

米國米國であらうことか選挙結果のことで暴動が起きて居り其れも進んだ民主國家が一体全体何をやってるのだ?と云ふ感じである。

 

さうした現代文明のまさにお騒がせ振りを見るにつけ其処に我我日本人が學ぶべきこととは欧米が築ひて来た文明への懐疑であらう。

つまるところは現代文明には元々さうなるだけの矛盾乃至は無理が突き付けられて居たのであり其処はたとへば學者などからも其処からのカタストロフィを予見する考へが多く出されても居たのだった。

 

只戦後日本人は自分の頭で考へることが何より苦手となった手前まるでさうした様が見へず、其処でもってやれ高度なる経済成長だ、やれ大阪万博だ何だのだで要するに只ひたすらに其処に経済的な成長だけを追ひ求めて来たのである。

 

経済つまりは金、まさに此のことこそが現代を規定する最も重要な価値となり下がって行って仕舞った。

 

第一京都の料亭の値段が高ひおせちなどは決まってサヒコーな味をして居るものだ。

つまりは値段が高ひもの程何でも高級だ。

だがどうも金と云ふ抽象的な力により強く縛られるとロクなことにはならぬやうだ。

                                                                                                       

左様に金の力こそが今や文明を規定する根本での力となって居る。

 

また問題は労働に貴賤の差を設け其のヒエラルキーに沿ふ形にて報酬の額が決定されて居ることだらう。

まさに其れが古より存する身分制度であり階級としての秩序であらう。

 

で、現在は其の階級としての秩序の下位者程悲惨な状況を突き付けられても居やう。

 

 

だが近代社会とはまさにそんな秩序ヒエラルキーを粉砕する為にこそ生じたものではなかったのか。

 

さうださうして一部の特権層が労働者をこき使ふことでこそ嗚呼彼等をば奴隷となした上で成り立たせて居る其の特権的秩序こそが問題なのだ。

 

さうして基本的人権を無視し生存権をも反故にし其処でもってやりたひ放題、蹴りまくり犯しまくり殺しまくる其の無慈悲な、おお無慈悲なまるで鬼畜の如き仕業の数々よ。

 

で、今は果たして其れが無くなったのか?

みんなはもう奴隷をやらずに済んで居るのか?

 

いーや、違ふ、違ふぞ、其れは。

ズバリ申せば我我こそが其の文明に飼育されるところでの家畜なのだ。

 

 

家畜の群れ共よ、今こそ嗚呼今こそ我我はこんな腐り切った世の中に宣戦布告をしてやらうではなひか!

家畜を飼育する文明の支配層に対し今こそ反旗を翻してやらうではなひか!

 

安倍や🐵や🐶や🐊や二階が支配する此の悪ひ世に戦ひを挑むのだ、まさに其の戦ひをこそ!

 

みんなは以降も奴隷としてこき使はれ黙って死んで行っても良ひのか?

 

みんなはもう直に金持ちのエサとなり食はれるのだぞ。

其れにみんなには自由が無ひ。

 

何故ならみんなには考へる力が無ひからだ。

 

さうしてみんなを洗脳し何でもヘヒヘヒと言ふ事を聞くおおまさにおバカに仕立て上げたのは誰あらう現代社会と云ふシステムの力だらう。

 

 

第一みんなにはもうすでに🐵並の知能しか無ひぞ。

 

さうだもはや人間では無ひのだ!

嗚呼、実際何と云ふことだらう、もはやみんなは人間では無ひのだ。

 

だがもしも其処に僅かでも理性の力が残って居るのであればすぐに立ち上がらねばなるまひ。

さうだ、今こそ立ち上がり早速奴等特権層を断頭台へと送ってやらねばならぬ!

 

 

仏蘭西万歳!

日本萬歳!

 

 

いつしか革命の日をかうして迎へつつあります。

 

まさに其れは日本で起きる仏蘭西革命です。

 

安倍の首と🐵の首と🐶の首と🐊の首を是非河原に並べてやりませう。

 

結局二階氏は助かったのですか?

さうです、結局二階氏だけは助かり其れは何故かと云ふと其の思想がたまたま自称詩人の考へに近かったからなのです。

 

1.コロナ感染による首都圏崩壊を食ひ止める為にはもはやベーシックインカムを實行するしか無ひ

2.コロナ感染による関西崩壊を食ひ止める為にはもはやベーシックインカムを實行するしか無ひ

3.観光不況にてもはやボロボロの地方を救ふ為にはもはやベーシックインカムを實行するしか無ひ

4.尾張の壱自称詩人を救ふ為にはもはやベーシックインカムを實行するしか無ひ

 

との理由にて此の際ベーシックインカムを是非やって頂きたひ。

 

5.断片的なつぎはぎの緊急事態政策ではコロナ感染を収束させることなど極めて難しひ

6.爆発的なコロナ感染へと至らぬ為にはより根本的でより厳しひ行動制限が是非必要だ

7.かうして日本人はコロナには強ひ筈だがコロナの変異種にも対抗出来るものとは限らぬ

8.経済を弐箇月間程完全に止め其の間だけベーシックインカムを實行すれば日本は國として救はれやう

 

ですが🐵と云ふか自民党が其れをやれるとはなかなか思へぬ。

するとどうなるか?

 

9.何かと都会過ぎる首都圏は医療が完全に崩壊し病気が治せなくなるので関東の奴等が田舎へと逃げて行く

10.大阪も何せ食ひ倒れとりよって結局は医療が完全に崩壊し病気が治せなくなるので関西の奴等が田舎へと逃げて行く

11.名古屋が助かると云ふ保証は今のところ何処にも無ひ、故に結局のところ愛知もまた田舎へと逃げて行かざるを得ぬのやもしれぬ。

 

よって大都会は壊滅し日本の首都は浜松とか金沢とか松本とかそんなところへ持っていくしかなくなることだらう。

 

 

だが山に囲まれた京都は助かる可能性もまたある。

なので都が京に戻される可能性もまた次第に高まりつつある。

 

何?京都もまた意外と感染して居る?

 

では此の際三河の松平郷にでも都を遷してみてはどうだらうか。

何せかの家康公の御先祖の土地なのでまさにクソ田舎の良ひ処ですよ。

 

12.自民党は自分の頭で考へ政策を決定して居なひことこそが何より問題だ

13.自分の頭で考へればもはやベーシックインカムの限定的な實行しか無ひことが明らかだ

14.ベーシックインカムを實行すべく金持ちと金持ち企業とに重税をかけ其処から大金を毟り取れ

15.自民党は一体金と國とのどっちが大事なのだ?

16.近ひうちに國民がほとんど死んだらもはや自民党もクソも無ひぞ

17.自民党の馬鹿でもってもしも日本が滅んだら🐵や🐊の晒し首位ではまるで其の罪は贖へぬぞ

18.自民党の奴等は女房や娘を女郎屋にでも叩き売ってでも兎に角金を作れ、金を

19.兎に角金を國民にバラ撒け、金を

20.冗談抜きで失敗などは決して許されぬぞ、もしコロナに國がやられたら其の全てはおまへたちの責任だ

21.公明党には責任など元より無く全てがおまへたちの責任だぞ

22.そんな中途半端に緊急事態宣言をやってもまるで効きやせぬぞ

23.まずは國會議員の給料を拾分の壱まで即刻下げよ

24.リヤカーを引け、其のリヤカーを、銀座だか何処だかの料亭の人がリヤカーに🍱を山積みし売り歩いて居るものを代はって自民党の議員が売り歩け

25.馬鹿共はもう皆國會議員を辞めよ

 

 

嗚呼、もはや瀬戸際だぞ。

其れも日本國が助かるかどうかの瀬戸際だ。

即ちわたくしが考へるところでの政策とはズバリ其の限定的に行ふベーシックインカムだ。

 

もしも其れが可能となればおそらくは夏にはオリムピックが可能となるまでに感染は抑へ込まれて行くことだらう。

確かにコロナ感染は破滅的に怖ひ、でも其れも夏までにはおそらく収束する、だから其れまでに死んではならぬ

ー調べると、現状は新型コロナと人類の戦い、つまり有事であることがわかった。日本は敗戦後、戦争をしない国、いわば有事がない国とされてきたわけだ。

 また、他国は緊急事態時に罰則規定があるのに、日本にはない。なぜかと問うと、「日本は憲法で緊急事態を認めていないのだ」と安倍氏は答え、そして、「日本の国民は、政府の言うことに素直に従ってくれるので、罰則規定がなくても大丈夫なのだ」と説明した。

 そういえば、米国や欧州では、緊急事態宣言が発せられれば、生活の基盤が損なわれると、大掛かりなデモが発生していた。だが、日本ではデモなど生じていない。安倍氏が言った通り、国民は政府の言うことに従っていて、自粛警察という言葉さえ広まっている。ー田原総一朗「国民甘く見たしっぺ返し 今さら焦るあきれた菅内閣」より

 

まず、此れ迄にも長々とわたくしが述べて来て居たやうに、日本に於ける戦後民主主義は特殊な体制上の地盤の上に築き上げられし矛盾的推進其のものだった訳だ。

だからこそわたくしは保守としての立場から其の日本の國としての矛盾をこそ逐一述べ立てて来て居た訳だ。

 

但しわたくしは今其れをまた改めて述べ立てるつもりには非ず。

 

では何を述べると云ふのか?

むしろ日本人の立派さを述べやうと思って居るのだ。

 

1.日本を國として再生させることは欧米諸国に比し比較的可能性が高くあらうこと

2.日本人は規則に従ふと云ふ潔癖な精神的性質を持つ

3.でも日本人は左派思想をも是非學ぶべきだ

 

尚欧米主導での文明は今後崩壊して行く可能性が高まりつつある。

中國がもしも其れを意図してやったのだとすればまさに其れは物凄ひことだった。

 

コロナウヒルスはネアンデルタール人の遺伝子を多く持つ白色系の人種を標的としたものであった可能性もまた存して居る。

つまりは中國が其れを意図しつつウヒルスをバラ撒ひた可能性などもまた無ひでは無ひ。

 

個人的には欧米型の文明の批判者であるわたくしのことだから基本的にはもしもさうなのだとしても其のことを大きく批判する立場には無ひ訳だ。

だが資本主義化した中國を其の侭に認めて居る訳では勿論無ひ。

 

 

欧米型の文明は個としての権利を重視して行く訳だが問題は其処で個としての欲望のあり方に歯止めが効きにくひことなのだ。

だからロックダウンされて居るにも関わらずまさに個としては色々とやって仕舞ふのでまた白色人種はコロナウヒルスには極めて弱ひが故に感染爆発へと必然的に至って仕舞ふ。

 

要するに自分勝手=利己主義の度が常に社会に高く存するので社会がボロボロになるまで感染は止まらずもしも将来其れが止まったにせよ其れでは國力が衰退して仕舞ふ訳だ。

 

だがたとへば台湾など東洋の國はまた其れとは違ひまさに潔癖な精神性でもって國の決定にはしかと従ったりして居るものだ。-其処は日本國もまたさうだ-

 

つまるところ、東洋の國々に於ける眞の脅威とはコロナウヒルスであることよりもむしろ地球温暖化が加速した場合での世界的に甚大な被害であることだらう。

 

 

だが事實として今我が國では特に関東圏でもってコロナ感染が爆発しさうな雰囲気となって居る。

 

なのだけれども、今回緊急事態宣言の発令にて其れも次第に収束して行く可能性が高ひことだらう。

 

問題は、政府の補償のやり方に難があることと関東圏は兎に角人口が多過ぎることなのだ。

 

つまるところは政府の無能と首都圏の日頃からの文明のやり過ぎにこそ問題がありコロナウヒルス其れ自体が我我日本人にとっての脅威となる可能性は常に欧米よりも低ひと云ふ事實をこそ述べて居るのだ。

 

政府の無能は権力行使の上での誤った認識から引き起こされて居り、より具体的には🐵や🐊、また二階氏などの保守ボケ老人による國家権力に対する特権意識より生じて居るものだ。

 

だからこそ奴等を早速に断頭台へと送らねばならぬ訳だ。

 

 

「日本は憲法で緊急事態を認めていないのだ」

だが此の発言は如何にもおかしひ。

 

其れでは日本人には自律的な危機意識が欠けて仕舞ふことであらう。

安倍氏は第一ちゃんと學生時代に勉強をして居たのか?

 

まるでして居なかったのではなかったか。

安倍も🐵もそんな不勉強では政治家としてそも失格なのに何でまた此の馬鹿共が総理大臣までをもやって居るのであらうや?

 

要するに自民党による政治こそがおバカの見本其のものなのだ。

 

なので日本の社会が今かうも窮屈でしかも苦しく感ぜらるのはコロナウヒルスにやられて居る以上に自民党のおバカさにやられみんなが死にさうになって居るのである。

 

だから結論としては一刻も早う革命こそが必要なのだ!

 

 

だからお利口な日本のみんなはむしろこれからでも遅くは無ひ、かのマルクスの本でも読み平等な社会の建設のことにつき是非學んでみやうではなひか。

 

「日本の国民は、政府の言うことに素直に従ってくれるので、罰則規定がなくても大丈夫なのだ」

 

じゃあ日本には警察も何も要らぬのか?

其れに日本には刑法も要らぬのか?

 

安倍の思ひ込みはかやうに甚だしくも國家権力に依存したもので少なくとも個としての國民の自由意志を認めるものでは無ひことだけは確かだ。

だから安倍は結局馬鹿だったのだ。

 

其の馬鹿に政治を任せたこと、只其れだけのことの為に今我我はかうしてドン底へと突き落され皆がさうして自治体もまた苦しひ立場へと追ひやられて居るのだ。

 

 

では政治家から馬鹿が消え去ると日本は復興出来るのですか?

 

だから其れは当たり前のことだよ。

枝野を始めとする左派合理主義者達が日本の政治を合理化せぬとやがて首都圏は壊滅し都が京に戻され大阪が其れを補佐し今度は秀吉体制へとまるで逆戻りとなるのだ。

 

尤も愛知ー信長ーは其れには従ひます。

愛知は家康体制だらうが秀吉体制だらうがそんなことはどーでも宜しひことで只将棋界の信長や産業界の信長を今後も目指して行くだけのことなのだ。

 

おそらく今首都圏を救ふには膨大な額の補償が必要なのだらう。

 

だが社会の全てをストップさせても其れをやらねば首都圏はやがて壊滅せざるを得ぬことだらう。

 

でもコロナウヒルス其れ自体が怖ひ訳では無ひのでせう?

 

いや馬鹿政策と感染爆発が連動すればまたドーンと首都圏沈没ともなり得る。

 

だから枝野、まずは君が公明党へ出向きまさに土下座でもして自民連合からの離脱をまずは頼んで来るべきだらう。

 

 

なる程、問題の要点を纏めれば首都圏の現況はむしろ無能なる馬鹿政策が引き起こして居ると云ふことなのですね。

 

どだひ其の緊急事態宣言にせよ其の時短要請に強制力が無ひのであれば店を潰さぬ為に店を開ひて行かざるを得なくなることだらう。

 

其の無能なる馬鹿政策には官僚の責任などもまた大きく存して居らう。

其れも東大を出た馬鹿田大學の奴等が滅茶苦茶な答弁の内容を作成し其れをよりにより🐵に渡し読ませて居るのだ。

 

左様に今日本の國が抱へる問題とはズバリコロナウヒルスなどでは無く政治の腐敗の問題であり且つ田舎者の七十代の馬鹿が自民党を推進させて居ることの弊害である。

 

二階、第一おまへは何でそんなにオリムピックをやりたがるのだ?

 

二階 俊博

ゲエッ。

 

コヒツは何と八十代の老害議員であった!

 

 

一帯一路

ー2017年5月、中国の最高指導者習近平の唱える一帯一路をテーマにした一帯一路国際協力サミットフォーラム英語版への出席のため、戦略的互恵関係を重視する旨が書かれた内閣総理大臣安倍晋三親書を携え、代表団団長として、経団連会長榊原定征経済産業副大臣松村祥史[29]内閣総理大臣秘書官今井尚哉[30] らを引率して訪中し、「日本も積極的に協力をする決意をもってうかがってる[31]」「日本は一帯一路に最大限協力する[32]」と述べた。

また、同サミット直前に行われた北朝鮮のミサイル発射については「こういう日に北朝鮮の行為は許されるものではない。強く日本国としても自民党としても抗議する」「日中両国を含む北東アジア地域および国際社会の安全保障に対する明らかな挑発行為だ」「日本は中国と緊密に連携する」と述べた[33]。ただし、同サミットには北朝鮮の閣僚級も出席しており[34]、同サミットに代表団を派遣していたアメリカ合衆国政府からも中国に懸念は表明されていた[35]。同じく中国の主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)についても「参加をどれだけ早い段階で決断するかだ」と発言した[36]

2017年8月に自民党公明党中国共産党の間で行われた第6回日中与党交流協議会では一帯一路への協力を具体的かつ積極的に検討するとする共同提言をまとめた[37]

2019年4月の第2回一帯一路国際協力サミットフォーラムでは財政の健全性や透明性などを条件に「日本も協力していく」と述べ、持論である国土強靭化も自然災害対策のインフラ整備に必要と演説した[38]

共創

2017年12月での第7回日中与党交流協議会への参加のための訪中で中国共産党中央党校で講演した際に、現代日中関係の基礎である戦略的互恵関係を共に未来を創る「共創」に格上げすることを提唱した[39]。また、「大国である中国と、それを追う日本が協力し、時に競争することも必要」とも述べている[40]。ー二階 俊博より

 

医師のモラル低下説

2008年9月22日晩から23日明け方にかけて東京都の妊婦の容体が急変し、受け入れ先が見つからなかった事件に関連して、経済産業大臣として、「政治の立場で申し上げるなら、何よりも医者のモラルの問題だと思いますよ。忙しいだの、人が足りないだのというのは言い訳にすぎない」という見解を表明した[75]。ー二階 俊博より

 

 

 

但しわたくしにとり實は部分的に共鳴出来る思想の持ち主としての爺さんなのだ。

尚此の人は所謂亜細亜主義を奉ずる人なのやもしれぬ。

 

極東国際軍事裁判にて後ろから東條 英機の頭を叩ひた思想家が居て彼が大川 周明である。東條の頭を叩き両肩を抑えられる大川と苦笑する東條

 

大川の思想は基本的に嫌ひでは無く、むしろ同調し得るものだ。

山形県酒田市出身。祖先は代々「大川周賢」を襲名してきた医師の家系である。荘内中学(現:山形県立鶴岡南高等学校)、第五高等学校[3]を卒業し、東京帝国大学文科大学卒(印度哲学専攻)。荘内中学時代は、庄内藩儒者角田俊次宅に下宿し、このときに漢学の素養を身につけた。また『南洲翁遺訓』(西郷隆盛が遺した言葉を庄内の人々が纏めたもの)を何度も読み、明治政府に批判する西郷の精神を学ぶ。五高時代には、栗野事件(入学試験における学校当局の不正事件)で自ら先頭に立ち活躍した。大学時代は先賢古聖を思索する中で頓挫・懊悩し、救いをキリストに求めた。キリスト教系の新興宗教団体「道会」に加入。大正2年(1913年)、道会創立者松村介石に依頼され、歴代天皇の業績を表した『列聖伝(れっせいでん)』の出版を試みたが、実現しなかった。やがてキリスト教会の物質を偏軽する道徳の虚偽に憤り、社会制度の根本的改造を必要とし「マルクスを仰いで吾師とした」[4]。さらにプラトンの国家理想を知り、「キリストもマルクスも最早吾師に非ずと思った」。エマソンダンテヘーゲル等等西洋古典哲学の遍歴からインド哲学に回帰没頭した。

英語フランス語ドイツ語サンスクリットの各言語に通暁し、中国語ギリシャ語アラビア語でもこれを目指した。ー大川 周明より

 

 

こんな具合に思想的にはまた随分と悩んだ人のやうだ。

西洋起源での合理主義思想には元より大きく問題がありまさに其れがやがては社会の存立の根本の部分に跳ね返って来るので東洋の學者はかねてから其の矛盾ー危険ーを指摘して居たのであった。

 

尤も近年では梅原 猛先生による日本學が其の任を担って居たやうにも思ふ。

 

尚わたくし個人はどちらかと言へば其の亜細亜主義的な思想を西欧近代思想よりもより重視する立場にあるとさう捉へて頂ひても構はぬのだ。

 

二階氏の考へ方はさうした意味ではわたくしにとり決して悪くは無ひものなのだ。

但しオリムピックの開催に拘る点だけはまるで解せなひのだが。

 

 

また其の中國共産党の党是である一帯一路に共鳴していくかどうかは今後の世界情勢を踏まへた上で日本國としての意思決定を行ふべきだとさう考へる。

 

但しひとつの懸念として、「老害」と云ふことはまさにあることなのだと思ふのだし自民党の政治を乱して居るのはまさに其の「老害」である可能性もまた高ひと云ふことなのだ。

 

問題はかやうに右と左の考へ、古ひ考へと新しひ考へ、また洋の東西に於ける価値観などが錯綜し且つ反発し合ふ様が世の常である他は無ひと云った部分にこそあらう。

要するに此の世は常にそんな対立する概念の場であると云ふことなのだ。

 

だから幾ら地道に學んだとしても其の部分での根本的な対立だけは解決することが出来ぬのだ。

また其のことは幾ら時間をかけ學んだにせよ結局此の世の中は如何ともし難ひと云ふことなのでもある。

 

なのでまさに其処で勉學を重ねしインテリは皆頭が半壊し心中だの自決だのとヤバひところへと追ひ込まれて仕舞ひ易ひ。

であるからして「逃げる」ことが一概に悪ひと云ふ訳では無ひのである。

 

頭が良ひ奴はさうして逃げぬとどうしても精神的にヤバくなる部分もまたあることだらう。

 

で、本日わたくしが述べたところでのものとは、

1.コロナウヒルス以上に自民党による古ひタヒプでの政策決定のあり方こそが危険だ

2.でも地球温暖化よりはコロナウヒルスの方がまだ何とかなりさうな問題だと云ふこと

3.だが老害政策に頼って居るとなればもはや首都圏を救ふことなどは無理である

 

と云ふことであった。

 

保守主義者であるのならばむしろ積極的に共産主義をば學んで行くべきなのだとむしろわたくしはさう考へる。

つまるところ最終的に世界を破壊して行くのは人間の頭の中身の愚かさ=馬鹿さ加減なので我我個としては其処で逆に理性を磨き続けて行く他は無ひものとさう考へる。

 

或は理性を丸投げして神か又は佛に帰依することでも勿論良ひ訳だ。

ですがわたくしの場合にはかうして理性の力が強ひ訳なので其の學と信仰の間をかうして行ったり来たりもして居る訳なのだ。

 

また自民党の馬鹿政治を選んじゃひました。

と云ふやうなことが金輪際無ひやうにコロナにやられぬ限りは今後も是非御勉強の方を続けて参りませう。

 

 

尚現代では社会の全ての価値が合理化され抽象的なものへと化して居るのでたとへみんなの命が危なひと言っても抽象的な価値としての補償を行はねば具象的な肉体を救ふことなどは出来ぬ。

自民党の政治の一番悪ひ点は時代錯誤としての精神論にて其の命を守ろうとして居ることなのだ。

 

でもそりゃ精神じゃ無く金だよ。

また感情論では無く罰則規定としての法規なのだ。

 

そんな自民党による意思決定の曖昧さ、まさに其の老害としての精神論の横行こそが元来日本人にとり危機では無ひ筈のコロナをまさに危機的なものへと変身させて居るのだ。

 

ですが今後は特攻が減る分感染は収束して行く可能性もまた出て参りました。

 

 

ところでアンタは此の三が日に書店へと特攻して来たのですか?

イヤ何も好き好んで行って居た訳では無ひのだ。

 

わたくしにとっては大事な其のぶり寿司が入荷されて居らず明日は入ると言はれたので行ったらまだ無く其れでもってようやく三日に手に入れたのだった。

 

ちなみに欧米諸國はさうして合理的にロックダウンしたにせよ其れでもコロナにやられて仕舞ふ。

だが首都圏は合理的全面的にロックダウンしたとすればおそらく春までには助かることであらう。

 

つまりは今政府が断行すべき政策とは合理的に補償をした上での完全なるロックダウンなのだ。

でも経済の方が…。

 

馬鹿者!ソコは金がある金持ちから金を絞り取れば良ひだけのことよ。

特に🐊ー麻生氏ーなどからは沢山金が出て来やう筈だ。

 

 

其れでも首都が全部やられたら京大出の人に官僚の仕事を任せるのですね。

さうだ、かの玉川氏にこそ全部をやらせてみやう。

 

でも玉川氏は独身でもって価値観が多分ヲタクっぽひ筈だよ。

其れにたまにですが髪の毛に寝癖を付けて居ること等もまたあるやうです。

 

まさに其れが京大出のボケなのですか?

さうまさに其れが京大出のボケなのだ。

 

ちなみに梅原 猛先生もまた其の京大の出身者だよ。

其れにもう亡くなったわたくしの恩師もまた其の京大出の社会の先生だったのだよ。

今後の文明とわたくしの正月三が日

明けましてお目出たう御座ります。

 

さて本年はこんなコロナ禍での年明けとなりました。

さても今後文明はどうなるのか?

 

どうなるもかうなるも、全ては人間の心の持ち方を正さねば話にも何もなりはしなひ。

 

要するに過分なる欲を捨て小欲知足に徹すれば文明は助からうがさうでなければ次第に崩壊しても参りませう。

 

で、わたくしは近くの神社を訪れると云ふ平穏な三が日を過ごして居りました。

 

1.西八幡社ー家より150メートルの神社ー西八幡社に行く…瑞穂区軍水町三丁目1…瑞穂区の史跡巡り(その16)

今年は中根銅鐸ーかって此処より出た銅鐸のレプリカーの展示があり其れを見て来た。

 

近隣の人が良く訪れる普通の神社ながら幼ひ頃には此処でもって良く遊んだ思ひ出の場所である。

 

2.山神社(下山町)

以前勤めて居た病院の近くにあり屡訪れて居たなかなか古風な神社である。

此処もまた杜が素晴らしひところだ。

 

高級住宅街にある為金持ちが皆参拝するやうでもある。

 

 

が、實は三が日に百貨店へも通ひつめても居た。

 

 

實は此の三日ばかりパレマルシェ神宮店へ通ひ詰めて居た。

 

此処は小規模な百貨店でありスーパーには無ひ品が揃ふ素晴らしひところだ。

 

おまけに此処のすぐ横が熱田神宮であり此処から参拝者の数なども確認出来る。

 

毎年此処へ富山のぶりのすしを買ひに行くことにして居るのである。

 

 

 

其の小規模百貨店は混んで居たのか?

まあ意外と混んで居たがむしろ元日に限れば空ひて居た。

 

コロナ対策は大丈夫か?

百貨店の消毒用アルコール液は質が良く其れを行きと帰りにタップリとマスクの裏側にふりかけるのだ。

 

するとコロナは皆やられて仕舞ふ。

 

 

次に百貨店内の書店へ行く。

すると何せ空ひて居るので立ち読みがし放題だ!

 

其れでもって文房具関連の情報誌を久し振りに立ち読みす。

 

VISCONTI Medici golden blue

こんなペンの情報を見つけつひ欲しくなって来て仕舞ったが此のタヒプのヴィスコンティはクリップを取らねばダメだ。

 

 

次に宗教コーナーへ行き1日1話 マンガでわかるブッダの教え (TJMOOK) (日本語) 大型本 と云ふのを三日かけて全部読んだ。

 

ところが其れが凄ひ内容の本だったのだった。

ズバリ言おふ。

 

此の本こそが今まさにみんなが是非読まねばならぬ本なのだ。

全くとんでもなく役立つ精神ー心の持ち方の為のー本である。

 

 

其処に佛陀が「他人は清められぬ」と云ふことを述べて居たと云ふ解説があった。

 

「他人は清められぬ」

まさに其れこそが眞實なのであらう。

 

第一こんなコロナの最中にも世間の馬鹿は株価が上がったのを喜び大儲けしたりもして居るのである。

また元日から手を繋ひで歩道橋の上をさも楽しさうに歩ひて居るな、此のバカップルめが!

 

かうして「他」と自分との間にはこんなどうしやうもなひやうな認識の上での開きがある。

危機感の持ち方の上での違ひがあるのだ。

 

 

だが三が日をさうして食と宗教にのみ邁進して居るわたくしの姿なども或いは周りから見ればタダの馬鹿にしか見へぬことであらう。

人間にはさうして何故かやりたひことの違ひ、観念と行動の上での方向性の違ひがあり其のことの愚かさは客体化して見た場合にのみかうして知らされることなのだ。

 

さうして他人を清められぬのであれば、社会を清めることなども無論のこと出来ぬのである。

他人の集積である社会は其れこそ自身から変はらなければどう指摘したにせよ其れは変はりやうの無ひこととなる。

 

 

かうして釈迦の佛法は後の大乗佛法などと比べるとある意味では自己本位なのでもある。

だが其れは利己主義なのでは断じて無ひのだ。

 

さうでは無くむしろ正しひ自我のあり方=眞我を形成するには己を頼りとして行かねばならぬことを述べたものなのだ。

さうして他を頼るな、他からの評価を気にするな、などと佛陀は述べたなどとも本には書ひてあった。

 

要するにさうしたことなのだらう。

世俗の人々は余りにも其の社会からの評価を重んじ過ぎて居る。

 

社会はむしろどうでも良ひ、などと言へばまさに狂ってるなどとも思はれさうだが社会で認められるやうに生きることが必ずしも正しひ生き方では無ひことだけは明らかなことではなひのか。

むしろ自分の意思、自分の考へを確立し其処から得られた価値を社会が奉ずる価値と照らし合はせた上で物事に対する判断を是非行って行くべきではなからうか。

 

 

かうして他者程厄介な者もまたなひ。

わたくしも此処五年ばかり、いや此処二十年ばかり、いへもっと長きに亘り其の他者から邪魔をされることで心の平穏を脅かされ続けて来た。

 

されど佛法は常に自己をこそ省みよとさう宣ふ。

また自業自得としての今を生きて居るのだとさう仰りもする。

 

なのだけれども、此の社会が形作るものとは大抵の場合敵としてのまた理解し難ひ価値観としての今の様ばかりなのだ。

 

 

自己⇔他者

かうした二元分裂が常に存するので其処に平穏さ=佛の心の境地を得ることなど適はぬ訳だ。

 

逆に言へば其れがまさに我執の産物なのだとも言へやうがでも己を滅すれば滅したで其れでは流される者となって仕舞ひがちなのだ。

そんな世の風潮に流されること無く自己を確立する=眞我を形成するなどと云ふことは社会生活をかうして続けるうちは不可能に近ひことだらう。

 

其れでも猶其れをやれ、少なくとも其れを目指し生きて行くべきだとさう佛陀は仰って居られたことだったらう。

 

他者のデカひ奴がまさに社会なので其の社会とどう関係を結ぶかと云ふことを其処に強く感じさせられた其の一冊だった。

 

只ひとつだけ言へることは社会とはなるやうにしかならぬものだと云ふさうしたことなのやもしれぬ。

なのであれば社会を俯瞰視することもまた必要なことだ、社会に己の価値を託さず逆に社会に対し批判を加へて行く視座こそが其処にどうしても必要とならう。

 

 

生きることとは獣ー矛盾による苦の生成ーの履行でありまるで良ひことなのでは無ひ。=✖

 

だが現世利益を奉ずる限り生きることが○ともされて仕舞ふ。

 

他力救済は概ね現世利益性を求めていくものだがでもキリスト教禅宗は違ふことだらう。

禅宗は自力救済に極めて近ひことでもまたあるのだらうがあくまで大乗佛教でもまたあるのだがー

 

キリスト教は👿に唆された社会が一度滅びることで人間を救済するのだし釈迦の佛法や禅宗は自らの心のあり方の誤りを正すことで悪の社会からの脱出を試みる。

 

でも誰もが此の世はまた社会は悪だなどとはまるで思って居なひ筈なのだ。

其れ即ちもはやみんなが現世利益主義に洗脳されて仕舞って居るからなのだ。

 

でもかうして事實として世界は壊れて行って居る。

なので其処でもって正しひ宗教のあり方が選別されて行くのではなからうか。

 

前回全ての宗教は正しひなどと申しましたが其の考へこそは誤りでした。

矢張りと云ふべきか宗教には正邪としての別がさうしてあるのです。

 

 

さて首都圏に対し緊急事態宣言が再び出されやうとして居る今我我は何を信じこれからを生きていけば良ひのだらう?

わたくしは其れを自分を信じて生きて行くことなのだとさう今申して置きたひ。

 

其の自分とは自我では無く自己である。

自己には価値観を正す其の力があるとさう信じやうではなひか。

 

自民党の政治が馬鹿である。

確かに其れが事實なのだ。

だからかうした矛盾だらけの世に必然として陥って仕舞ふ。

 

しかも其の馬鹿は不治の病なのだ。

其れ即ち保守の病とは其の馬鹿の病のことなのだ。

 

対して枝野が今なかなか良ひことを述べて居る。

枝野に是非総理大臣をやって貰ひたひ位だ。

 

馬鹿の🐵と二階がまたオリムピックなどをやらうとして居るがまさにおまへらは馬鹿か!

 

みんなはそんな馬鹿に命を預けて果たして其れでもって平気なのか?

そんな馬鹿🐵は早う秋田の山へと帰るべきではなひのか!

 

 

枝野よ、何故野党にはこんなに力が無くなったのだ?

公明党よ、枝野とくっつき自民党を叩き潰す為の野党大連合を成立させて頂きたひ、政教分離の原則の方も誰かが改憲するので是非さうして頂きたひ。

 

でも基本的には政治の馬鹿振りにはもはや興味が無ひ。

 

 

ところでぶりの寿司は美味かったのか?

其のぶりの寿司こそがわたくしの大好物なんだ。

でもますの寿司の方ではダメなんだよ。

 

其処が難しひのさ。

 

ぶりの寿司には蕪と昆布が入って居り其の味の組み合わせこそがまさに最高なのだ。

 

 

其の他にも此の正月に何かを食って居たな?

京都東山の料亭道樂のおせち、アレはまさしく絶品だった。

 

で、煮アワビにアワビの殻が器として付ひて居たので今其れを左手で握りつつコレを書ひて居る。

其のアワビの殻が放つ虹色の光彩が何とも美しひものだ。

 

祇園岩元のおせちも評判が良かった。

結論から言へば矢張りと言ふべきかおせちは京都の料亭のものに限る。

 

どだひ東山の料亭道樂なんぞは何と380年もの歴史を培う料亭なのだ。

そんなものがマズひ筈など無からう。

 

ズバリ京都のおせちはヤッパリイケていたのであった。

 

他にも従弟が木曽路のおせちをまた持って来て呉れて居たが其れも確かに美味ひのだが其の倍程は美味ひのが京の料亭のおせちだ。

 

そんな訳でまさに食ひ正月であった。

またTV正月でもあった。

 

特にNHKによる絵師若冲のドラマなどは素晴らしかった。

其れから「麒麟がくる」でのアノ信長の演技は🌸🌸🌸でつまりは大合格だ。

麒麟がくる」は今最高の水準の大河ドラマとなりつつある。

 

 

さてパレマルシェ神宮店の中にあるダイソーでもあれこれと菓子を買ひ込んで来た。

 

1.丸福米菓 黒胡麻

2.ヘテパシフィック 辛ダンドン トッポッキ味スナック

3.名糖 白桃キャンディ

4.ハッピーポケット プチガレット [ココアクリーム&ビスケット]

 

其の評価

1.兎に角黒胡麻だらけだ

2.例の辛ラーメンとは妙に合ひ癖になる

3.兎に角サヒコーに美味ひ飴だ

4.駄菓子っぽひのが逆に美味ひ

 

尚、漱石は明らかに甘党で常に戸棚などに大福や羊羹などを隠して居たさうである。夏目 漱石と羊羹

また室生 犀星なども相当な甘党であったものらしひ。室生 犀星と羊羹

かの芥川 龍之介までもが其の甘党であった。芥川 龍之介と汁粉

 

かうして甘党の人は普段ほとんど酒を飲まぬ。

なのでわたくしもまた其の甘党なのである。

 

と云ふか甘ひのと辛ひのを同時にイクのである。

かうして甘ひものを好む作家が居るのは、其れは甘ひものを食べると頭の働きが良くなりより思考が深くなるからなのだ。

とわたくしは自身の経験からさう判断して来て居る。

 

 

いやでもわたくしの場合には甘ひのと辛ひのだけでは無く兎に角弁当系もまた好きなのだ。

またレトルトカレーのファンなのでもある。

 

如何にも食ひ過ぎでっせ。

いやわたくしの場合はなにせ常に頭脳がフル回転なので此の方が良ひのだよ。

 

 

さても今関東はコロナ感染が危険である。

別に誰がコロナ死しやうと構はぬのだが此処の読者及び此処を視たみんなの命だけは助けてやるつもりだ。

 

君等はわたくしの此の義憤のパワーをすでに頭の中一杯に浴びて居やう。

良かったなあ、もう君等はコロナ感染からは救はれたのだ。

何故ならわたくしの怒りが其処に乗り移りコロナを撃退して仕舞ふからなのだ。

 

でも眞面目な話、コロナ感染は後遺症も残るのだし恐ひものだ。

だからマスクは二重に付けしかも其の内側にアルコールを沁みこませたティッシュなどを是非仕込んでおくべきだ。

 

死ぬなよ、君等。

君等はわたくしの大事なお客様でありパトロン?だ。

誰一人死んで貰っては困る、生きよ生きよ生きて此の詩人の話を毎日聞け。

 

さすれば世界は救はれずとも少なくとも君等は救はれるのだ。

さうして救ったお礼は此処での壱話の購読料が壱万円だからちゃんと読んだ分はわたくしの口座の方にお布施してね。

 

でも金だけじゃなひ、ほんたうのほんたうにわたくしは関東の読者の方々のコロナ感染を心配して居るのだ。

わたくしはかうしてとてもやさしひ人間なのでほんたうのほんたうに心配して居るのだよ。

 

さてもコロナに文明は打ち克つことが出来るのか?

其れは分からなひ。

でも皆がいつかは文明は元に戻るとさう考へて居る筈だ。

 

でも五年後位からは今度は温暖化による脅威が世界を蹂躙して行くことであらう。

だから社会ー文明ーは俯瞰視しつつ自分とは別物だと云うやうな感じでもって生きて行った方が良ひことだらう。

 

要するに同じやうに死ぬるのなら文明の為に死んでやらずとも良ひのである。

此の暮れに考へたところでの時間の構造

#さても限定論とは何か?

 

わたくしの考へ方の基本にあるものとは所謂「全体論」であり其の「限定論」です。

 

「限定論」とはわたくしが創った考へ方のことで要するに此の世の全てが限定物の寄せ集めだと云ふやうなことです。

 

わたくしはかうして屡自らの哲學を語ります。

 

だからちょっと気を抜きますと現實を離れて考へが何処までも膨らんで行ったりも致します。

 

 

ちなみにわたくしは此の年末に所謂時間の構造のことにつきずっと考へ続けて居ました。

 

で、其れも其の「限定論」にてある程度まで理論化を致しました。

 

 

わたくしの捉へ方からすれば時間とは其れ即ち「限定」です。

限定とは限られて居るか又は区切られて居ると云ふことでありつまりは有限であると云ふことです。

 

即ち時間とは其の有限としての分離された認識上の産物です。

 

其ればかりか空間をも含めた時空其のものが有限であり其れ即ち「限定」なのだらう。

 

さうして時空が限定なのであれば其処に生じて居ることだらうあらゆる現象もまた限定され分離されて居る。

 

と云ふことは物質的にも限定されて居ざるを得ぬと云ふさう云ふことだ。

 

 

其れ等がさうして限定されて居るが故に対義的に生じるのが観念としての物自体ー神佛としての超越者の智慧ーです。

ですが物自体は不可知ですので物質的にも観念的にも認識とは無関係です。

 

現象は、

 

物質⇔観念

 

と云ふやうな対義的関係となるが故に其処に相剋し且つ相即する関係が生じても参ります。

 

 

要するに其の相剋し且つ相即する関係性が生じるやうな認識こそが現象としてのあり方ー認識の形式ーだと云ふことです。

 

其の限定とはまさに分離であり分裂です。

 

まあ全体論からの離反こそが其の分離であり分裂でもあることでせう。

 

つまりは全体論的な価値の喪失の過程こそが現象としての分裂の過程だと云ふことです。

 

 

要するに細切れにされるやうな価値認識しか人間には出来ぬのでさう現象して居るのです。

いやさうした認識の形式を取って居るのが所詮は人間だと云ふことなのだらう。

 

 

尚わたくしが観念的に到達した限定論とは其のカントによる認識論と佛法の内容及び旧約聖書の失樂園の部分とがごちゃ混ぜになったやうなものでほぼオリジナルなものです。

 

でもわたくしは其のオンリーワンの世界が實は得意過ぎるので其処がむしろじぶんではイヤなのですがね。

 

 

兎に角現象其れ自体が相対分離されて居ります。

まあ此処は佛法に於ける認識論のことでせう。

 

即ち現象とは有ると思ひがちですがむしろ其れは無ひものだ。

 

有⇔無

 

其の有無と云ふ概念的分離ー相対分別ー其のものが現象を現象たらしめることの正体であり物自体からの離反でもある訳だらう。

 

即ち神からの離反であるまさに失樂園のことで同時に佛からの離脱のことでもあり故に此の地の上ではかうしてやがては末法の世界を形作ることともなるのだ。

 

 

有ると無しとはかうして対概念なのですが、対概念には相剋し且つ相即する関係が生じるので實は互ひに無関係なのではありません。

 

要するに現象其れ自体に対義化することだらう呪ひのやうなものがかけられて居るのでさうして二元分離、二元分裂して行かざるを得ぬ。

 

そんな分離は全てが限定性を帯びるのだとさう申して来て居る訳だ。

 

 

二元分離の世界は旧約聖書による世界観の上で言へばまさに神の園から追放されて地に降り立った原罪に充たされし世界でありまた佛の智慧からすれば煩悩まみれでのまさに肥溜めのやうな世界のことでせう。

 

重要なことは常に其れがドロドロに腐った肥溜めのやうなものだと云ふことです。

なので、そんなところを科学などの言ふ通りに美化して見詰めたりして居ては金輪際ならぬ。

 

そんな自然科学の言ふ通りで行くといつしかみんなは獣化されて仕舞ひ🐵か🐶か🐊や🐍などにでもなる他ありません。

では🐻や🐅ならば良ひのだらうか?

 

いや君はあくまで人間だらう?

人間ならば持って生まれた其の理性を大事にしろよ。

 

だって其の理性こそがイケナヒのでせう?

いやイケなくは無ひ。

 

何故なら人間は🐵や🐶や🐊や🐍や🐻や🐅を食はなひ。

 

でも🐂を毎日食ってるぞ。

其れに🐟も毎日食ってるぞ。

 

だからたまには食はれる方に回ってみてはどうか?

さうして獣達に食はれることで初めて分かる命の尊さのことだよ。

 

 

 

時空⇔物質

 

其の時空と物質の関係性もまた相剋し且つ相即するものなので互ひに影響し合って居る筈だ。

居る筈だと云ふのは、思考もまた移り変はるものなので其処で断定することは不可能だと云ふことを指し示して居る。

 

 

要するに時間もまた相対分離と云ふ認識上に生ずる対概念としての属性のことです。

 

時間⇔空間

時空⇔物自体

 

と対義的に適当に概念を当て嵌めてみても其の全てが正解ともならう筈です。

 

重要なことはあくまで対概念化されし認識に於ひては常に相剋し且つ相即する関係性が生ずると云ふことのみでせう。

 

 

で、かのマルクス・ガブリエルではなひのですが世界の有無に就ひては其れが本質的には無ひが現象上はあくまで有るー相対認識がさう現象させて居るだけのことーと云ふのがわたくしの見解です。

 

では人間が死んだらどうなるの?

 

まず人間が果たして死ねるものなのかどうかにつき論じてみる必要があるやうにも思ふ。

 

わたくしは動植物の生と人間の生は質的に異なるとさう考へる。

 

人間の生とは観念領域にシフトされたものである可能性が高ひことだらう。

 

第一動植物は「死」を考へたりしては居なひことだらう。

彼等は只感じて居るのです、まさに其の「死」を感ずるだけなのだ。

 

つまるところ彼等にとっての死とは全体論的な生の価値の喪失としての死であり其れ即ち無辺際の死でもあることだらう。

ですが我我相対分別者に可能な死とは不完全な死即ち分離領域にシフトされた観念の上での限定的な死である可能性が高ひ。

 

 

では人間が死んだら果たしてどうなるの?

 

相対認識其のものが其処に終はりを遂げる為人間としての認識ー識別ー能力は消へ去りませうが或は元に戻るのやもしれません。

元に戻る?

 

要するに相対認識以前での段階にリセットされ動植物並での感覚状態に戻るのやもしれません。

つまりはより感覚的な認識に戻るのやもしれぬ、但し其れも輪廻転生した場合に限るのだが。

 

じゃあ佛様やキリスト様は死んでから何処へ行って仕舞はれたの?

おそらくは物自体となって居られ現象などすることは無ひのだ。

 

ですがカントによれば物自体は不可知なので其れも正確には言へぬことなのですがね。

 

 

さてもさうして相対認識が時間の流れを生んで居るのか?

 

厳密には抽象的に時空を認識することが可能なのは人間のみであることだらう。

だが高等動物程感覚的にではあっても時の流れや空間的な拡がりを感ずることが可能となるのだらう。

 

ズバリ時空とは相対認識による分離ですか?

 

ズバリ時空とは其の相対認識による分離です。

 

故に時間とは分離でありしかも限定ー有限のものーされしものだ。

 

問題は現象の全てが其の認識の形式としての産物だと云ふことであり、故に我我はさう見へて居る世界を認識して居るに過ぎぬと云ふ点だらう。

 

 

ところで時間は何故流れるのですか?

時間其れ自体が流れるのでは無く意識の流れが其れをさう見て居ると云ふことではなからうか。

 

さう其の意識の継続こそが時間がさう流れて居るかのやうに感じさせて居ることだらう。

 

意識とは何ですか?

また動植物にも意識があるのですか?

 

 

おそらく意識とは相対認識に関連付けられたものであることだらう。

相対認識即ち分離であり限定であるものが其処にある限り意識は生じ続けることだらう。

 

では🐶や😸、また🐗や🐊など、また🐻やミジンコ、さらに細菌やウヒルスに其れから植物には意識があるのですか?

あることだらうけれども勿論人間に対しては其の働きが相対的に弱くもならう。

でも多分🐵などには人間の意識に近ひものがあるのじゃなひだらうか?

 

植物の意識はまた質的に異なる意識でもっておそらくは無意識的な集合意識のやうなものであることだらう。

 

 

其の意識は進化するものですか?

進化はするのだらうけれどもよもや進歩などはしなひものだと思ふ。

 

すると人間は意識の上での進化を続けて居るのですね?

 

意識の進化⇔意識の退歩

 

問題は進化すると云ふことが退歩をも含むー孕むーと云ふことなのだ。

 

相対認識の上での分別は常に逆方向での価値を生み出し其処に相剋し且つ相即する関係性を生じさせやう。

 

まさに其の価値の対立ー矛盾ーこそが欲望の所産なのだ。

 

其れも抽象的なる欲望の所産なのだ。

 

 

すると抽象的な欲望の所産である現象を生きる我我人間こそが劣化=破壊の犯人だと云ふこととなり其れでは何処にも救ひが無ひではありますまひか。

 

結局相対認識の上での分別は抽象的な欲望の所産としての劣化ー破壊ーを生じさせて仕舞ふ。

釈迦やキリストが一旦現世否定を行ふのは其の認識上の不完全さを放逐せんが為のことだらう。

 

要するに進めば進む程につまりは時が経過すればする程にむしろ現象界はより不完全な様を曝け出し世界其のものを壊しにかかることであらう。

でも其れでは全部がブチ壊しとなるので釈迦やキリストは一旦現世否定を行った上で涅槃へ至らせたり天國へ行かせたりもする訳です。

 

つまるところ時の流れー時間ーとはまた此の世界ー空間ーとは意識の産物であり欲望の所産なのですか?

 

まあかのショーペンハウアーが述べたが如くに生への盲目的な意志こそが其の欲望を生じさせて居ることだらう。

すると意志ー意識ーが時間を生じさせて居るのだとさうも言へさうですね。

 

 

さうさな結局時間とは意識による分離ー限定ーなのだとさうも結論付けられやう。

 

ではみんなが死んだらそれぞれの時間もまた消へるのですね?

死ぬることで観念-意識-が消え去るかどうか、まさに其れが問題だらう。

或は死ぬることのみでは観念-意識-を消し去ることなど難しひのやもしれぬ。

 

事實釈迦の佛法などでは生死などとは無関係に徹底的に欲望のあり方が隠滅されて行く訳です。

欲望其れ自体が謗法であり悪のやうなものなので其処ではあらゆる現世利益の追求が否定されて行きます。

 

つまりは偉ひ御坊様を讃へたりお寺をお参りしたり立派なお墓をつくることなどはむしろ此の世への未練を宿す=現象に拘ると云ふ意味では立派な謗法ともなるのであります。

 

だとすると釈迦を讃へたりしてもイケナヒのですか?

まあ厳密には釈迦もキリストもまるで役立たずだ、と云ふのが所謂禅での見解なのでせう。

 

 

何せ禅は観念的にもブッ飛んで居るので折角の其の価値ヒエラルキーの部分をあへて脱構築して仕舞ふ訳だ。

 

さうして観念的に価値ヒエラルキーを組み上げた時点ですでに思ひ切り相対分別をして居る訳ですので其れをあへてブチ壊す為に佛なんぞは馬の糞だとかあへて其処で常識に反したところでの滅茶苦茶を言ふ訳です。

 

故にかの一休 宗純などの風狂の僧もまたこんな価値ヒエラルキーの積極的破壊を為して居たりもする。

 

対して世の価値観に従って居る限りは其の風狂の境地を理解することなどまず不可能でせう。

 

 

要するに佛法で一番イケナヒことは此の世ー現象ーに拘ることです。

観念的にまた物質的に拘るー此の世と縁を結ぶーこと自体が實は謗法なんです。

 

だから其処の部分をこそ禅は潔癖に追求して行くので其処では要するに半分頭が狂っても居ませう。

 

だがわたくしに限り其の半分頭が壊れてる世界こそが何故か大好きなんですね。

 

でも禅や釈迦の佛法は實際現代人にはハードルが高過ぎるのです。

 

現代社会は特に戦後現世利益に与るやうな価値ヒエラルキーをむしろ堅固に築ひて来て居ませう。

 

 

ですのですでに救はれやうが無ひことをやって来て居りませうが其処はまさに良くしたもので半分程崩れた大乗佛法や堕落せしキリスト教などに見合ったものであるのがまさに其の現代文明を貫くことだらう精神世界なのです。

 

であるからこそ大乗佛法や現代のキリスト教をこそむしろ我我は大事にして行かねばなりません。

 

尚わたくしは最近新興宗教をも含めて宗教は矢張り大事なものだとさう思ふやうにもなりました。

なので何教が悪ひなどとも決め付けぬ方が良ひことでせう。

 

宗教は社会生活を営む上での精神の礎となり得るものです。

 

実際に赤信号を平気で渡って行くやうな歩行者が今ほんたうに増へて来て居る。

 

其れに今ほんたうにコロナウヒルスが蔓延して来ても居ります。

 

誰しも本心ではこりゃヤバひぞとさう思って居ることだらう筈だ。

 

 

でも相変はらず我我には明日の予定だの経済の動向のことなどが気にかかって居るのです。

 

要するに現象其のものに捉へられさうして認識が分離されても居りませう。

 

認識の分離=拘りです。

 

其の拘り=欲望が今を生じさせて居る。-現象を生じさせて居る-

 

でも今には二種があり、禅や原始佛教にて捉へられる今とは時空を超越した今のことです。

 

つまりは其れが相対分離と云ふ認識を滅し去ったところでの今なのです。

 

相対分離と云ふ認識を滅し去った今とはそも其処に時の流れを含んで居ません。

 

時の流れを含んで居なひ=今だけの今、なのです。

 

つまりは意識の流れをも滅し去った今のことなのでせう。

 

 

でも其れはもはや我我には不可能なことです。

惜しひ哉あくまで其れが不可能なのでまさにキリスト教での終末論の如くに世界が破滅に向かって居るかのやうでもある。

 

まあ其処では神に祈るか其れとも禅やタオの道の如くに風狂化または仙人化するより他は無ひのやもしれぬ。

 

要するに他力救済に属するものでなければ我我には出来なひことと必然的にはならう。

 

釈迦御自身による佛法は解脱する智慧としてはまさに完璧なのですが残念ながら我我にはもはや手が出せぬ領域にあるものなのだ。

 

 

なので此の際自力救済への道は諦めるべきでせう。

 

我我はまた来年もコロナが生じさせる肥溜めを何処までも泳ぎ続けて行く訳ですが其処に眞理の花を咲かせるかどうかはそんな我我一人一人の「拘りの無さ」にこそかかって居ります。

 

 

現代社会は其れ自体がかうしてより問題をデカくし我我個に生存としての圧迫を強めて来ることでせう。

 

つまるところ社会にはまるで期待など出来ぬので我我は此の分別された「今」と云ふ肥溜めを自分でもって泳ぎ続けて行く他は無ひのです。

 

くれぐれも申しますが其の今に拘り家族だとか地位だとか金だとかに拘って居るうちは時間の内部に囚はれて仕舞って居るのです。

 

まさに其の時間ー時の流れーとは縁を切るべきでせう。

 

 

と言へば狂ってると思はれるので其れを言ふのは止めて要するに学校とも仕事とも縁を切りませう、と云ふことだ。

 

嗚呼また言って仕舞った。

 

👪とも彼女とも縁を切りませう、と云ふことだ。

 

嗚呼さらに言って仕舞った。

 

 

もう何かを言ふことは止めやう。

 

ではどうしますか?

 

 

詩人さん、アンタは実際これからどうするのですか?

 

どうもしませんのですしかうして家で京都のおせちばかりを食って居ます。

 

ガマンが出来ずにもうおせちを食って居るのですか。

 

そんな体たらくにて良くもこんな高尚な哲學のやうなことが言へたものだな。

 

 

現代文明に於ける唯一の問題点とはいつしかかうして社会の問題を神佛の世界へと丸投げして仕舞って居ることだ。

 

其れでもさうしてワクチンを打てばみんなは助かりませうか?

 

ワクチンにてたとへ肉体は救へてもおそらく現代人の心を救ふことなどは難しひことだらう。

 

でも祈る対象はある訳なのでむしろみんなで祈りに教会や神社、其れからお寺へと是非出向かうではなひか。

 

でも其れは行くなとさう政府に言はれてることでせう。

 

其れに雪も降り何より寒ひことでせう。

 

だからこそ空ひてますよ、多分神社仏閣、教会などは。

 

 

さても来年文明はどうなることでせうか。

まあなるやうにしかならんことかとは存じます。

 

ーさうして来年のことを考へること其れ自体が相対分離としての時間に囚はれて仕舞って居ることなのだらうー

 

さうして観念的に時間を超越した上で来年は是非解脱することをのみ目指すべきだらう。

 

其れでは皆様良ひおせちを。

 

では無くて良ひ御年を。

本年度の総括

其れでは早速に本年度の総括をさせて頂きます。

 

尚個人としての総括なのでは無く無論のこと現代社会としての総括のことですよ。

 

1.合理化が生存権を脅かす

2.合理化が文化を脅かす

3.合理化が社会を破壊する

 

此の三点がまさに今文明を破壊しつつあります。

ちなみに1.は今まさにコロナ禍に於ひて顕在化しつつある恐るべき社会問題のことです。

 

 

其の例

 

例壱ーコロナ切りにて派遣労働から解雇されました。

でも妻には逃げられたが子供が三人も居て此の侭では一家心中する他無し。

 

例弐ー食ひ物屋の店が潰れおまけに借金までもが残りました。

もはや首を括る他ありません。

 

例参ー食ひ物屋の店が潰れおまけに借金までもが残り炊き出しにて飢へを凌ひで居ります。

 

 

そんな訳で此の個に対し「死」までをも突き付けて居ることだらう地獄の様とはコロナがつくったのでは無くズバリ現代の社会がつくったものです。

第一ちゃんと社会に備へさへ出来て居れば危機の時に派遣が切られることなどは無ひ筈です。

 

何?ウチは中小企業にて元よりどんな余裕も無ひ?

 

だから其れは大企業の儲けばかりを優先させて来た政治の誤りによるもので其の根っこにあるものとは所謂功利的な合理主義です。

其の儲け主義による合理化が社会の底辺層への援助を圧迫して居るが故によりによりこんなエッセンシャルワークでの部分が破壊されていきます。

 

ですが、何度も申して来て居りますやうに、金持ちこそむしろ喜んで社会に対し施しーお布施ーをして行かねばならぬのだ。

おおまさに其れこそがイエス・キリストが述べられた施しなのであり僧侶の皆様がみんなから頂くお布施のことなのです。

 

金持ちはむしろ持ってる金の八割方を喜んで社会に差し出すべきだ。

 

また金持ちはむしろ派遣労働をこそやってみなされ。

さすれば貧乏人の苦労が其処でほんたうに分からう筈です。

 

 

其の金に関する合理化即ち資本主義に於ける合理的な儲けの実践こそがかうして憲法第弐拾五条の生存権の保障をも脅かして居るのだ。

で、其の合理化に負けて派遣が死んでも金持ちはびた一文出しやしません。

 

だからそんなことで死ぬ位なら金持ちや自民党に復讐する為に是非派遣が立ち上がり革命を目指さうではなひか。

また其の革命は仏蘭西革命でも露西亜革命でもどちらでも良ひのです。

 

兎に角革命でもやらねば此の世が回らなくなって仕舞ったのだ!

 

でも實は大企業の方でも今や危なひ訳だ。

 

特にコロナ禍に於ける大企業間での格差により大企業の従業員でも容易に合理化ー人員削減ーの対象とされて仕舞ふご時世です。

要するにかっては大企業に居たと云ふ派遣労働者がこれから増へても参りませう。

つまるところコロナ禍とはさうした資本主義の合理化ー功利的に達成される合理的な利潤の追求ーに対する破壊其のものー具象的限定ーなのです。

 

だから兎に角革命でもやらねば此の世が回らなくなって仕舞ったのだ!

 

2.貞節であるとか謙譲の美徳であるとか、さうしたかっての日本の文化的素地が今や崩壊しかかって居ます。

此れの犯人は誰かと申しますれば結局は其れも合理化によるものです。

 

つまるところは文化的な合理化と云ふことです。

日本をアメリカナイズすると結局其の文化的破壊が生じませう。

 

かって三島 由紀夫先生が危惧されて居たのはまさに其の点でのことでした。

 

例壱ー歩道でもって眞対面から自転車に乗った男子中学生が突っ込んで来てぶつかりさうになりました。

 

例弐ーバカみたひな若ひ男女のグループが歩道一杯に拡がり歩ひて居て「バカヤロウ、ちゃんと小さくなって歩け!」と注意しましたところ其の中に居た兄ちゃんが怒って走りながら追っかけてきました。

例参ー兎に角不倫などに勤しむふしだらな👩が多くなりました。

 

實際自転車に乗って方々へ買ひ物へ出向きますとかうして恐ろしひ光景に屡遭遇するのであります。

 

例四ー歩行者の信号無視が恐ろしひ程に増へても居ます。

 

つまりは其れも利己主義化であり其れ即ち自己にとっての合理化其のものなのです。

 

尚其の兄ちゃんに対しては何せこちらは自転車なので余裕にて逃げ切れました。

 

 

3.元より其の「合理化」とは何かをより良くする為の方策である筈です。

 

ですが實際には合理化にてバランスが取れることは小さひ領域のことに限られて居ます。

故に合理主義とはデカひ領域で行ふやうなもののことではありません。

 

以前わたくしはかうした合理化の範囲のことばかりに拘って居たものでした。

 

たとへば大掃除などは小さひ領域での合理化のことです。

 

ですが労働の合理化は其れこそ生存権の破壊をも齎しませう。

 

 

合理化すると一見社会は良くなるやうに思はれませうがどうも社会と合理化とは相性が悪ひもののやうで特に資本主義に於ける合理化などはロクなことにはならぬやうです。

 

ですが、人文理性による合理化はまさに今やらねばならぬことなのでせう。

 

尤も人文理性による合理化が仏蘭西革命の方なのか其れとも露西亜革命の方なのか又は鎖国主義のことなのか今のわたくしにもまるでもって分かりませんのですが。

 

人文理性による合理化⇔科学主義による合理化

 

の筈ですので、其の科学主義による合理化が現代社会にとり益を齎すばかりでのものでは無ひことだけはもはや明らかでせう。

コロナ禍もまた其の科学主義による合理化が齎したものである可能性がまた高くあらう。

 

科学主義の履行の場合其の効果は絶大ですが結局其れでもって壊すべきでは無ひところまで影響を及ぼし破壊して仕舞ふと云ふ危険性を常に孕んで居るのだ。

 

 

対して人文理性による合理化の部分をこそわたくしは以前より大きく評価して来て居る訳だ。

 

人文理性による合理化は全体論的なもので要するに其れはぜんたひの幸福ーかの宮澤 賢治の言葉ーとしての全体のバランスを重視するものです。

 

さうして賢治もまたジョン・ラスキンの信奉者として社会主義に歩み寄って居た訳です。

彼は何より法華経への信仰者でしたが同時に革新的な思想への傾倒者でもまたあった訳だ。

 

とは言へ彼はまたキリスト教への理解も深かった訳なのです。

 

いずれにせよ文人と云ふものは昔からかうして社会のあり方に対し深く悩んで来ざるを得なかった訳だ。

 

何故なら社会が悪ひと結局個としての幸福も何も無くなっちゃふからなのだ。

 

兎に角社会が悪ひと全部が悪くもなるのでお願ひします、どうかどうか社会よ良くなって下され。

 

 

とどんなに祈っても實際良くはならぬものなのですね、其れも此の社会だけがね。

 

なんでわたくしはむしろ隠遁文人気質の者なんです。

 

もうどうにもならぬ此の社会に対し何かを考へて居ること自体が時間の無駄だらう。

 

つまりは此の「ぜんたひの幸ひ」の實現こそが人類にとっての最難関課題なのだ。

 

 

五木寛之「コロナ後は三散の時代がやってくる」

 

いや、然しこちらでは五木先生が興味深ひお話をされて居ます。

 

然し「三散」とはまた面白ひ社会関係での言葉です。

 

若ひ頃よりほぼ完全なる夜行性であった筈の五木先生がかうして朝型の人におなりだったことなど此れ迄まるで知りませんでした。

 

尚わたくしは五木 寛之先生が書かれた作品の愛読者であり同時に五木先生のファンでもあります。

 

作家の講演会でもって此れ迄に唯一出向ひたのが五木 寛之先生によるものでした。

 

其れもかって👪三人でもって其のお話を伺っても来ました。

 

わたくしは五木先生がお持ちである其の視点の「暗さ」が何より好きです。

 

何故なら暗ひ見方こそが明るひものを見詰めることでもまたあるからです。

 

 

つまるところ、

 

暗ひのがほんたうは明るく、

 

やさしさはほんたうの愛では無ひ、

 

と云ふやうなことです。

 

 

文學とはまずは何よりもさうした見方をしなくてはならぬものだとわたくしは信じて居る。

何故なら文學とは合理主義による産物では無ひからだ。

 

生の暗ひ側面をあへてさうして見詰め其の暗部を回りくどく述べ、また役にも立たぬことばかりを述べ立てて、其れでも猶希望と申しますか人間にとっての光の方向性を見失はぬものが文學としての眞の力であり作業なのだらう。

 

対して合理化は生の明るひ側面ばかりを追ひ求めて行きます。

でも其れでは人間其のものを明るくすることなど出来ぬ筈だ。

 

人間の本質はもっともっと屈折して居て暗く毒々しひ程のものであり一種臭ひものですらある。

 

臭ひ?

さう臭ひ。

 

人間こそがとっても臭ひ生き物なのだ。

嗚呼だが文學は其の臭気にこそ敏感なのだ。

 

 

尚、五木先生の著作で是非御勧めなのが杁中の三洋堂書店で売って居る中古本の百円コーナーに置かれて居る新書版のものです。

以前わたくしは此処から五冊程買って来其れを貪り読んだ覚へが御座ります。

 

但し其の百円コーナーが今もあるのかどうかは分かりません。

 

兎に角文學や哲學の中古本などを書店にて買って来て此の年末年始にでも是非熟読してみることでせう。

さうして文學や哲學の本を眞面目に読むことこそが個としての思考力の錬磨に必ずや繋がることでせう。

 

まさに其れはみんなで歩道に拡がって歩くこととは正反対での行ひなのだ。

 

現代文明に今求められて居るものとはまさに其の沈思黙考した形での文學の上での熟読のことなのだ。

 

かくてみんなは文明に飼育されるところでのバカになって居ては金輪際イケなひのです。

みんなはまず自分の頭にて考へられる人にならねばなりません。

 

其の為には兎に角本を読んで下され。

もう兎に角死ぬほど本を読んでみて下され。

 

アア本を読み過ぎてすでに頭が半壊した。

と云ふほどに兎に角本を読めよみんなは。

 

 

1.権力の「分散」

2.「三散」の2つ目は「拡散」

3.逃散

 

ー一般的な逃散は労働力のサボタージュです。しかし、宗教的な逃散は違う。そこがすごいところです。だから内密に何年もかけて逃亡計画を立てる。その間は、子どもも産まないようにする。そうやって周到な用意をして、ある日一夜にしてこつぜんと村全体が他藩に逃げていく。これは逃げられる側からすると、生産力が一気に低下するわけだから大打撃です。

計画段階で、藩とずっと交渉しているんです。人手が足りないという藩は、労働力が欲しい。だから来てくれるんだったら念仏を許すと。そういう条件交渉をして、逃散する。ー五木寛之「コロナ後は三散の時代がやってくる」より

 

此の三散と云ふ社会への読みはまさに鋭ひものです。

改めて五木先生の読みの深さに感服致します。

 

其の逃散と云ふのは、ある意味では市民革命や社会主義革命もまた其の逃散の一形態だと考へられなくもなひ。

人民に逃散されればいや社会其れ自体が根本から変革されれば以前からあった体制は人民に逃散されたのと同じことでせう。

 

問題はまさに其の部分が生存権の存立の部分にまで下がって来て居ることです。

まともに生きられぬやうな社会にするのならもう死んでやらう、位のところにまで實際生存権の確保のレヴェルが下がって来て居りつまりは弱ひ立場に居る人々程もはや滅茶苦茶です。

 

 

ーコロナ以前の先進国は、低賃金な労働力が必要だということで、移民・難民を受け入れてきました。しかしコロナによって経済が縮小し、失業率も高止まりになると、彼らへの風当たりや排外主義は今まで以上に強くなる可能性があります。そうすると、自国から逃散してフランスやイギリスに来た移民・難民がさらにまた逃散を重ねるような状況が出てきてもおかしくありません。

一方で、これまでと同じように、中東やアフリカで生活に行き詰まった人や、政治的な迫害を受けている人は、自国を捨ててどこかへ逃散していくでしょう。さらに今、ブラジルでコロナの被害が非常に大きくなっていますが、今後、南米やアフリカ、インドのように、貧しくて人々が密集して暮らしているような国や地域で、第2波、第3波が猛威を振るうことになるでしょう。ー五木寛之「コロナ後は三散の時代がやってくる」より

 

移民・難民もまた國家からの逃散者でありさらには文明圏からの逃散者となることだらう可能性もまた今後は多分にあると云ふことだ。

 

でも素朴な疑問なのですがほんたうに一体何故人間社会は自國民のみんなを幸せには出来なひのでせうか?

自國民のみんなを幸せにしてこその政治体制であり社会制度の意義である筈なのに何で其れを人間の社会はいつまで経っても成し遂げられぬのでせうか。

 

また此のことは若ひ頃にも確かにさう感じて居りましたが最近余計に酷くさし迫った形でわたくしに感じられるやうになった問ひであり疑問なのです。

 

だから社会って一体何の為にあるものなのだらうか。

もしや個としての人間を抑圧し苦しませる為にこそ存在しているものではなかったか。

 

正直申しましてわたくしは五木先生のやうな優れた感度なら信用しても宜しひのですが政治家だの社会体制だのに対してはまるで信用することなどは出来ません。

要するにズバリ申しまして社会を信頼することなど出来ません。

 

 

ーその後に起こった応仁の乱や戦国時代の天下大乱は、新しい時代へのアプローチでもありました。中世ヨーロッパでは、ペストがルネッサンスを準備したというのはよく言われる話です。おそらく今度のコロナウイルスも、大きく時代を動かすことになるでしょう。

分散・拡散・逃散という「三散」は、これまでも少しずつ問題になってきていたものです。今まで、変わろう変わろうとしていて、なかなかふんぎれなかったもの、膨張していて崩れる寸前になっていたけれど、かろうじて維持していたものもたくさんあります。

 

 でも、コロナによって対症療法ではどうにもならなくなってしまった。コロナを契機に、それらが一斉に雪崩をうって崩れています。ー五木寛之「コロナ後は三散の時代がやってくる」より

 

 五木 寛之先生はもう随分前からー二十年程前からかー文明の危機を予見され様々な見解をお示しになって来て居ました。

また此処でも仰って居られるやうに文明にはすでに今世紀の初頭の時点でまさにギリギリであった下部構造が大きく拡がって居たのだらうと思ふ。

 

今まさに破壊されて居るのはさうしたからうじて維持されて居た部分での崩壊でもあることだらう。

「それらが一斉に雪崩をうって崩れ」て行くのであれば其れはもはや文明規模での崩壊であることは明らかです。

 

其の崩壊はかくして具象的にコロナウヒルスが齎したものですが其の引き金を引ひたのはむしろ抽象的に推進されし文明社会の過分なる欲望其のものでせう。

謂はば人間社会としての大き過ぎる欲望が其の引き金を引ひたのですから、其の責は全て社会に問うて行くべきでもはや個としての欲望が云々と云ふ次元のものではありますまひ。

究極としての個の愛の形ーベートーヴェンとジョン・レノンの愛の本質ー

本日午前中に葉加瀬 太郎氏がやって居るベートーヴェンのTV番組を視ましたが其れが大層面白かったです。

また其処にかの林 修氏なども招かれて居ました。

 

尚わたくしは基本的に民放を視るのは嫌ひです。

何故ならおバカな内容の番組が多ひのでじぶんがバカ化されるのがそもイヤだからなのだ。

 

ですが民放のTV番組が全部バカだとは限らずまあ其処は割合で言へば拾パーセント位は素晴らしひ内容の番組もまたあると云ふことだらう。

 

 

で、其のベートーヴェンですが矢張りと云ふべきか何より生眞面目で潔癖であり手を洗ったりお風呂に入るのが好きだったと云ふ葉加瀬 太郎氏よりの解説があり其の部分は妙に納得させられました。

なので何より完全主義でもあった訳で、また先に此処でも述べましたやうに音樂の上での革命家でもあった訳です。

 

番組では其のまさに革命家としてのベートーヴェンの姿が炙り出されて居て其処は流石に正しひ視点から番組が制作されて居たやうに思ふ。

 

藝術家の気質にはまず其の生眞面目で潔癖な点が挙げられるものです。

其れも生半可なものではダメで周囲の人々にはまるで理解されぬ程にさうでなくては藝術家の域まで普通はいかぬものなのです。

 

ちなみにわたくし自身もまた其の藝術家的な気質の持ち主です。

なので周囲との軋轢が何かと多くむしろ誤解されて仕舞ふやうな人生を半世紀ー中学生の頃位からーにも亘り過ごして参りました。

 

 

でもわたくしは何より其れがイヤなので普通の人間に是非なりたかった訳ですが人間の本質と云ふものはまさに変へやうが無ひものなので長きに亘り其れをやって来ざるを得ませんでした。

 

但しわたくしの場合は藝術一本槍なのでは實は無く學者的な気質も多分に持ち合わせて居ます。

また宗教家に近ひ心理的傾向なども御座りますのです。

 

ですので全くに一筋縄ではいかぬ人間なのですが周囲からするとタダの夢想家に見へるやうで其処を逆にバカにされることが多かったものです。

 

 

ベートーヴェンはさうして生眞面目で潔癖な癖に着るものにはまるで構はず特に其の晩年は相当にボロの服を着込んで居たやうですが何故かわたくしもふと気付くと40年前の死んだオヤジのハーフコートを着込んで居たりも致します。

また家に居る時は寝癖が酷く付ひたボウボウの頭とヒゲ面でもってしていつもおりますのでまるでもって普通の人間には見へぬのであります。

 

要するにゲージツの方が現實よりも常に大事なのでなりふり構はず其れにこそ突進して行くのです。

 

但しわたくしが此処五年程して参りましたのは社会の危機を叫ぶことであり文人として藝術をやることではありませんでした。

 

社会の危機は事實として存しておりまずは其れを述べなければならなかった。

其処の部分は元塾の社会科の先生であったことがさうさせたもので藝術の上での表現などではなかったことかと思はれる。

ですから其の部分にはわたくしの學者的な気質の部分が何より投影されて居たことだったらう。

 

番組中でいまひとつ面白かったのはベートーヴェンは👩にフラれ続け結局此の世では👩の愛に包まれることは無かったと云ふ点でした。

 

さうです、ベートーヴェンの人生とは其の愛の不毛、愛からの拒否との闘ひの記録でもまたあった訳だ。

ですが其の現實上の愛の失敗からこそまさに普遍的な愛=博愛へと昇り詰めた彼の生き様こそが大藝術家のものではなくて一体何なのでせう。

 

 

即ち、

ー現實としてのー愛を得ることはー普遍的なー愛を失ふことであり、

其の逆にー普遍的なー愛を得ることこそがー現實としてのー愛を失ふことなのだ。

 

わたくしは其の愛と云ふことの意味をまさに今問うて来て居ます。

 

でもまずはソコがオカシヒ訳です。

何故ならまさに今みんなはまた利口な読者の方々のレヴェルであるにせよ、まさに今普通は今後のコロナの蔓延のことを何より心配しじぶんと👪がどうか今後を生き延びられますやうに、とさう願っているばかりなのでせう。

 

でもわたくしは普遍的な愛の死のことばかりを最近は考へて居りました。

其の普遍的な愛が死に絶へるー破壊されるーと人類はもうお仕舞ひでせう。

 

だからこそ普遍的な愛をこそ継続させて行かねばなるまひ。

 

さても其の普遍的な愛とは何か?

 

 

ズバリ申しますれば其れはジョン・レノンが歌った愛でありベートーヴェンが奏でた愛なのです。

 

おおまさに其れが其れこそが藝術が示したところでの究極としての愛だ!!

 

其れはイエス・キリストが説く愛とどう違ふのですか?

 

イエス・キリストが説く愛は神の愛です。

 

 

ですがジョン・レノンベートーヴェンが説く愛は謂はば「死としての愛」なのだ。

 

「死としての愛」?

 

さうだ、そんな死人の愛のことだよ。

 

宗教が説く愛はあくまで「生としての愛」であることだらう。

 

たとへ殉教したにせよ其れは宗教が生き残る為の愛なのだらう。

 

宗教にはいつしかそんな社会性が付与されて行ったことだったらう。

 

 

だがジョン・レノンベートーヴェンは社会の変革を望んだだけでしかも其れを個の命として最後まで叫び続けただけなのだ。

 

まさに其れは藝術としての個の魂の叫びであったことだらう。

 

では其れが宗教による救ひ其のものよりも尊ひ行ひだったとさう言ひたひのか?

 

さには非ず。

 

 

つまるところ其れは対概念なのだ。

 

「生としての愛」⇔「死としての愛」

 

との対概念なのだ。

 

でも共に愛を語り続ける何者かなのだ。

 

 

藝術家はさうして個を死に晒した上で永遠に愛を語り続ける。

対して宗教もまた人間をより良く生かすべく永遠に愛を語り続ける。

 

 

さてもベートーヴェンが👩にフラれ続け次第に孤高の立場に追ひやられさうしてボロボロになって死んだことをおまへは何処までも美化して居るのだな!

いや美化ではあり得ずまさに其れは事實だぞ。

 

ベートーヴェンがさうして難聴にクルシミまさに目を剥ひて死んだであらうこととジョン・レノンが四発もの銃弾を體に撃ち込まれ悶へ死んだこととは実際に良く似た結末だらう。

 

もしやおまへもそんな死をこそ望んで居るのか?

いやわたくしの場合はもう少し學者っぽひので必然として其処には若干の俗物性が混入しそんな藝術の大家の如くに美しひ死に方など出来やう筈が御座りません。

 

 

さてもおまへは何故よりによりこんな年末にさうして哲學することを樂しんで居るのだ?

いやずっと前から此の年末年始こそがわたくしにとり非日常としての体験の場であり即ち生の素顔に触れる貴重な時だったのです。

 

だからわたくしにとって其の非日常としての体験の場こそが現實なのであり世間が体験して来た現實的な現實などはもうほとんど顧みるだに値せぬ嘘ー虚ーの集積なのだ。

 

またイキナリさうして難しひ話をし始めたな。

ズバリ言って其の生眞面目でもって潔癖な性格其のものが精神の病気か何かだらう?

 

 

嗚呼、難しさ、其の気難しさよ。

まさに其れこそが「死としての愛」に繋がる藝術家としての気質でなくて何であらうか?

 

第壱かの信長もまた気難しかった筈だぞ。

気難しひ奴は必ずやさうして非業の死を遂げるのだ。

 

ではおまへもまたさうした非業の死を遂げるのか。

いへオヒラの場合はもっと可愛らしひ死を遂げることだらう。

 

可愛らしひ死?

そんなにおまへは可愛らしひ、愛らしひ人間だとでも云ふのか?

 

まあ実際可成に愛らしひ人間ですよ。

第一顔が丸くて平べったひのでまるで興福寺の阿修羅像の如くに可愛らしひのです。

 

まあわたくしの場合は何よりかうして書くものの内容が特殊な作家であり特殊な詩人ですので通常の尺度では評価などし切れぬものですよ。

 

 

今回のコロナ禍にて突き付けられて居るのはもしや其の「愛」の不毛としての現實であるのやもしれぬ。

 

「生としての愛」⇔「死としての愛」

 

と云ふ対義的関係に於ひてまさに突き付けられて居るのは愛の實在である。

 

愛の實在⇔愛の不毛ー喪失ー

 

文明生活に於ひて我我はもう長く其の愛の不毛の領域に向き合って来なければならなかった。

 

近代と云ふ加工性が齎す功利性即ち合理化の領域とずっと文明は関はって来て居た訳だ。

 

合理化は其の「愛」すらをも功利化し破壊に至らしめて仕舞ふことだらう。

 

 

だがかのイエス・キリストが此の世に示された「愛」とは自らの死と引き替へにした赦しの愛である。

其の普遍的な愛の形には打算が無くよって利己主義からは遠く隔たって居やう。

 

また佛陀が此の世に示された「慈愛」とは明らめの愛である。

其の普遍的な愛の形には打算が無くよって利己主義からは遠く隔たって居やう。

 

だが現代文明は特に戦後只ひたすらに全てを功利化しさうして合理化の名の下に自然を切り刻んで来た。

よって其処には「愛」は無ひ。

 

「愛」は尊ひ命の犠牲により其処に導かれるものであると云ふのに戦後の大企業はまた文明人は只自己の打算にのみ走り要するに富と快適さの為偽善的に世界の破壊を企てて来たのだった。

 

そんな文明が滅ばずして果たしてどうするのだ?

 

よって全ての結果は必然のことである。

 

誰が悪ひのでも無く兎に角さうして自分ー人間自身ーが悪ひのだ。

 

 

ジョン・レノンベートーヴェンが今の文明の様を見たとしたら矢張りと云ふべきか嘆き悲しむことでせう。

 

いやジョン・レノンベートーヴェンは其の与へられし時を精一杯に生き共に「死としての愛」を成就させつつ冥途へと旅立ちました。

 

対して現代の文明の価値観に何より欠けて居るものとは其のマヒナスから生ずることだらう愛としての価値なのだ。

 

 

ベートーヴェン ロマンス 第2番 ヘ長調 作品50 Beethoven Romance No.2 in F Major Op.50

 

尚葉加瀬 太郎氏が一番好きなベートーヴェンの曲が此れなのださうだ。

此の曲を知っては居たがベートーヴェンの作曲だとは此れまでまるで知らなかった。

 

印象としては可成に高尚、高踏的でありまさにアカデミズムの世界の如くに如何にも知の上部構造と云った趣さへもがする。

要するに學者の連中が朝珈琲でも飲みながら聴ひて居るかのやうな高尚さがまさに感じられる曲だ。

 

尚此れはベートーヴェンが若ひ頃の曲ださうでさう言はれてみれば確かに其処にはまだ苦悩の世界が始まっては居らぬやうだ。

個人的には大変美しい旋律の曲で好きなのだが此れまで長ひ間此れがベートーヴェンの曲だとは知らなかったのでまだピンと来て居なひ感じである。

 

ベートーヴェン ロマンス 第1番 ト長調 作品40 Beethoven Romance for Violin and Orchestra No. 1 in G major, Op. 40

 

こんな曲もあった。

こちらの方がむしろベートーヴェンらしさが出て居るやうにも思はれる。

 

 

【高音質】 ベートーヴェン作曲 『トルコ行進曲』

また此の「トルコ行進曲」はベートーヴェンの作曲だったなんてもしや君等は知って居たのだらうか?

 

つひぞ我は知らなかった。

いや、昔学校の音楽の授業でもってさう教はって居た筈なのだがスッカリ忘れて仕舞って居た。

 

トルコ行進曲 / モーツァルト

 

で、番組ではこちらのモーツァルトによる「トルコ行進曲」とが比較される形で演奏されて居た。

さてどちらがベートーヴェンの作曲でせうか?

 

番組ではアノ林 修をも含めたゲストの全員がモーツァルトの方を選び全滅だった。

 

だがわたくしは即座にベートーヴェンの方を選び正解した。

知ると云ふことは實はさうしたことなのだ。

或は物事が分かる、分かって居ると云ふことはさうしたことなのだ。

 

但し其れも明らかに前者の方がベートーヴェンの音がして居るとさう感じられたまでのことなのだ。

 

ちなみにわたくしは💎の番組でもって即座にイミテーションの石を見破ったことがあった。

其れからとあるTV番組にてストラディヴァリウスの音を聴き当てたことなどもあったものだ。

 

要するに此の方面に関してだけは至極勘が良ひのである。

だがおそらくは社会的なものに関しては元々何かが弱ひのであらう。

 

そんな訳で藝術とは煎じ詰めれば畢竟其れは「死としての愛」のことだが其の個としての死が存するが故に其れは普遍性を獲得し其処にしかと「愛」をも生じさせると云ふお話を致しました。

 

其の「愛」は👩への愛でも無く👪愛なのでも無ひ。

何せ其れは「死としての愛」なのでキリストが説く絶対の神の愛にもほど近ひ犠牲的精神に刺し貫かれても居やう。

 

尤も其れはあくまで個の範囲を超へることの無ひ究極としての個の愛の形なのだ。

聖夜に感じるクルシミマスー愛を生きたジョン・レノンの死ー

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かうしていい加減な政治をやればやる程にみんなが不幸のドン底へと落ちて行かざるを得なくもならう。

かうして政治がバカらしくては全く意味が無ひ訳で強権即ち國家権力の発動の場たる政治こそがむしろ一番頑張って置かねばならぬのに全くに此れは一体どんなザマだ。

 

キリスト教の聖地も寂しいクリスマス きっと来年は…

 

おおまさに今こそ正しひキリスト教の教へが求められて居ることだらう。

 

 

”イマジン”は生きている

 

ある意味で正しひキリスト教の教へが必要なことを世に訴へたのがかのジョン・レノンであったことだらう。

昨夜わたくしは此の番組を視つつずっと感動し続けて居た。

 

ジョン・レノンは現代のキリストとしてさうして世の獣共と闘ひ若くして命を散らせた訳だった。

 

ジョン・レノンはあへて主夫をもする優しひ人だったが対して政治的発言もまた目立って居たものだ。

 

其処からも彼は「人間には社会を良くする義務がある」とさうも考へて居たことだったらう。

 

何故なら人間の社会が、其の社会こそが最も直し難ひものだからなのだ。

 

 

米國へ移住した彼はニクソン政権から新左翼と断定され國外退去をさへ求められた。

だがニクソン政権崩壊後は米國の永住権を得たともされて居る。

 

即ち反戦、平等、宗教に対する徹底した批判こそがまさに其の左翼的な革新思想其のものなのなのだらう。

 

だが彼はイエス・キリストは正しかったとさうも述べて居るのだ。

 

キリスト教は衰えていくだろうね。消えて縮小していく。議論の必要はないよ。僕は正しいし、そうだとわかるだろう。今では僕たちはキリストより人気がある。ロックンロールかキリスト教、どちらが先に消えるかは分からない。キリストは良かったけど、弟子は鈍くて平凡だった。僕にとっては、弟子が歪めてしまったせいでダメになったんだと思えるね。[4][5]キリスト発言より

 

あくまで此処でジョン・レノンは正しひことを述べて居る訳だがキリスト教を奉ずる社会にとってはまさにコレが大問題発言なのだ。

キリスト教の堕落、失墜がすでに始まって居るとさう彼は言ひたかったのではなからうか。

 

ジョン・レノンがかうして政治的発言をなし反戦や世界平和を世に訴へるやうになったのは果たして何故か?

おそらく其れは彼の心根が至極純粋で誤魔化しの効かぬものだったからではなかったか。

 

元より政治的発言は損であり現世の利益の為にはまるでならぬものなのだ。

 

まさに此の伏魔殿のやうな世間に対し何かを語りかけること自体が不利益なこと其のものなのだ。

盟友のポール・マッカート二ーからも政治的発言を避けるやうに度々諌められつつも彼はさうして眞實としての心の叫びを張り上げずには置けなかった。

 

 

「イギリスでのキリスト教衰退の事実を指摘しただけ。反宗教的な、不愉快なことを言うつもりなど全くなかった。キリストを人として、自分たちと比べたりもしていない。発言に他意は無かった。口にしてしまったことを申し訳なく思っている。発言が間違って解釈された。」 

「キリスト発言をしなかったら、今もまだ公演をしていただろう。僕は神に感謝する。」 キリスト発言より

 

ー1970年の曲「ゴッド」では、イエス・キリスト聖書仏陀、『バガヴァッド・ギーター』もビートルズも信じないと歌っている[19][3]。1971年の曲「イマジン」では、「想像してごらん、天国は存在しないんだと」という歌詞に批評家たちが焦点を当てた[20]。1980年12月8日、「僕たちはキリストより人気がある」という発言に刺激され、この発言を冒涜と呼んでいたマーク・チャップマンによって、レノンは殺害された[21]。チャップマンは、「ゴッド」と「イマジン」の曲にさらに憤慨したと述べ、「イマジン」の歌詞を「想像してごらん、ジョン・レノンが死んだように」と変えていた[22]。ー キリスト発言より

 

 

確かに左翼的合理思想にとり宗教は不要なのだらう。

また天國は無くとも良ひのであらう。

 

其の理想としての共産制が布かれたならば宗教を信じるよりも一党独裁を信じる方がずっと合理的に理想の社会が實現されやう。

 

だが現實には共産制はまさに合理的に全体主義を推し進めて行くこととなる。

なので逆にわたくしはむしろ天國こそが此の世になくてはならぬものだとさう考へて来て居る。

 

さう信じて居るのでは無くさう考へざるを得ぬところまで人間を見詰め続けて来たと云ったところだらうか。

 

天國にせよ涅槃にせよ其れは必ずやなくてはならぬものでむしろ其れがあるからこそ人間はしかと限定を受けまともな人間で常に居られるのである。

 

 

1.ジョン・レノンの伝記を読み、その金満生活に怒り狂った。

2.「僕たちはキリストより人気がある」という発言に刺激され、この発言を冒涜と思った。

3.「ゴッド」と「イマジン」の曲にさらに憤慨した。

 

マーク・チャップマンの犯行はかやうに思想的なものであった可能性が高ひことだらう。

 

何故なら1980年当時にはジョン・レノンはすでに米國の永住権を得世界一有名な反戦藝術家であり平和主義者であったからなのだ。

 

だがジョン・レノンは「悪ひ思想」を全世界に向け常に発信し続けて居る。

と彼チャップマンは考へたのではなかったか。

 

ジョン・レノンが神を否定的に捉へて居たのだとしても、其れでも「人間には理想の社会をつくる責務がある」とさう考へたジョン・レノンの頭の中身は飛び切りに潔癖だった。

ところが、チャップマン自身は神を信じて居たことだったらう。

 

なので其処に大きく火花がまた散るのだ。

 

要するにデカひ口を叩く奴はいつかやられてしまう。

 

ああ、くはばら、くはばら、我も明らかに言ひ過ぎて来て居るな。

 

 

其れに信長もかってやられて仕舞った。

 

でもジョン・レノンはずっと愛を語り続けて来ても居た。

 

ジョン・レノンの奉ずる愛とは其れはどんな愛だ?

 

其れはかの小野 洋子への愛ばかりでは無く人類愛、博愛の元に反戦と平和を訴へ続けて居た筈なのだ。

 

 

愛。

 

其れは愛。

 

はっ?

 

愛。

 

其れはキリストの愛。

 

 

愛とは平和であり平和とはキリスト様のことだ。

 

愛とは平和であり平和とはお釈迦様のことだ。

 

 

ヘッ?

 

結局キリスト様とお釈迦様が全てなのですか?

さうだ、キリスト様とお釈迦様こそが全てなのだ。

 

キリスト様とお釈迦様はもしや矛盾しませんか?

 

矛盾しなひ。

 

かうして共にクリスマスを祝っておる。

 

特に浄土眞宗はな、クリスマスケーキなどもたらふく食ふ。

 

あっ、食ったな、其のクリスマスケーキをしかもたらふく!

 

 

確かに食ひました。

 

でも悪ひことがありました。

 

ヤフオクの落札品にて誤配がありもうエラヒことになって居てケーキの味さへ良く分りませんでした。

 

 

ジョン・レノンは何故たったの四十で死なねばならなかったのか?

 

其れは彼がある意味でクソ眞面目だったからだ。

クソ眞面目即ちキリスト様やお釈迦様に近ひ人間だったからなのだ。

 

彼こそが聖なる藝術家だったのだと?

さうだ彼こそが聖なる藝術家だった。

 

どだひ主夫をやりたがる奴程眞面目な男性は居なひものだ。

 

そんなに主夫をやりたひので?

 

いや、まるでやりたくは無ひ。

 

何故なら主夫をやるともはや死期が間近となるからだ。

 

 

其の愛は世界を救ふのですか?

愛こそは全て、なのですか?

 

いやだがチャップマンの信心もまた神への愛の形ではなひか?

 

おそらくは愛の反対をも見詰めること即ち人間への不信をも深めた上で愛は語られねばならぬのだ。

 

実際愛の持続ほど難しひものは無ひ。

 

愛とは其れ即ち持続なのだ。

 

持続可能な文明を築き上げることなのだ。

 

だから其れがほんたうの意味でのキリスト教による人間の理解のことだ。

 

またほんたうの意味での佛教による人間の理解のことだ。

 

持続可能な文明を築き上げる為には「愛」が要る。

 

 

まさに其れはジョン・レノンの愛でありキリストの愛であらう。

 

愛とは赦しでありそんな赦されし博愛のことだ。

 

博愛とは壊さぬもののことで壊すもののことを愛だとはまさか言へぬものだ。

 

だから破壊、おお其れはまさに贋の愛だ。

 

 

贋の愛など其れはもはや要らぬ。

第一そんなやさしさなんてまるで愛じゃなひ。

 

そんなウソコキの愛、さうしてウソコキの自民党政治

ちゃんと罪を認めよ、自民党の安倍と🐵。

 

 

ところでおまへの食ったケーキはアノ真っ白でしかもイチゴが載ったタヒプの奴だな?

 

良く分かりましたね。

 

實は先日例のマツコの番組でもってチョコレートケーキの特集をやって居てほんたうはそちらの方を是非食ひたかったのです。

 

さう言へばおまへはまるで仏蘭西人並にチョコレートが好きだったな。

 

へひ、其のチョコレートにて歯や歯茎がすでにボロボロですね。

 

じゃあ次回はチョコレートケーキの特集でも組んでみるか。

 

いや、チョコレートケーキと聖なるジョン・レノンの曲の両方の特集です。

 

かくしてコロナ大危機だと云ふのにかくもバカバカしひ日常が延々と続ひて行くのであった。

 

愛、其れはかくもバカバカしひ日常を壊さぬことなのでもまたある。