人類の認識の誤り(文明社會の認識の誤り)より引き起こされる食料及び人口爆発の問題ー自然農法と『沈黙の春』ー
「迷惑老人」になってしまう人に共通している特徴。予防に効果的なのは“捨てる”こと (msn.com)
こちらのテストでは11箇所が該当でまさに「迷惑老人完全體」との結果がたった今出た。
さうか、自分はやはりすでに「迷惑老人」其のものだった。
だがそんな「迷惑老人」の壱體何処が惡い?
そんな「迷惑老人」は昭和の時代にも澤山居たぞ!
よって「迷惑老人」であることを許容出來ぬ現代社會の方にこそ問題があるのではにゃーか。
NHKオンデマンド | ハコモノガタリ~なぜそこに博物館が!?~ (nhk-ondemand.jp)
自分は其の休みの日にこそ是非「御勉強」をしたい。
兎に角自分はそんな「博物館」なるものが好き♡である。
其れも出來得れば其処にて生活したい位だわい。
どだい「博物館」には「貧困苦」だの「闘争だの戦争」だの「エロ」だのの要素がそも少ないと來てる。
従って其れはとても「平和」な場のことである。
ーJA農協は農家戸数や農業従事者の減少を食い止めるに組織的な利益があるのだ。逆に農家戸数が減少すると政治力が減少する、農家、特に兼業農家が減少するとJAバンクの預金額が減少するというデメリットがある。JA農協は、これをなんとか食い止めたいと考えているのではないか。
NHKスペシャルに出演したJA農協関係者の発言とは異なり、JA農協は懸命になって減反=コメの生産減少の音頭をとってきた。そのJAの利益を守る農林水産省は「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」とする日本国憲法に違反している。減反の問題を指摘できない公共放送も同じなのだろう。しかし、われわれはJAの利益を守るために受信料を払っているのだろうか?ー
「農家の高齢化で、日本人に餓死の危機」はウソである…専門家が「むしろ農家はもっと減らすべき」と説くワケ (msn.com)より
此の方の仰ることは良く分かります。
其の減反政策及びJA批判の部分もまさに其の通りでのことなのだらう。
但し農家戸数や農業従事者が減り続けて行き🗾が食料自給からさらにほど遠くなるだらう事實だけは今後残る。
まず自分が此の🗾の食料自給に就き考えることとは、
1.産業のヒエラルキー化
2.都市化と過疎化
とのことです。
此処🗾は「高度経済成長」によりすでに文明に洗脳されて居り即ち、
第壱次産業<第弐次産業、第参次産業
とのこととなって居る。
だから其のヒエラルキーの順序がそも違います。
第弐次産業、第参次産業<第壱次産業
こそが無論のこと正解なのだ。
故にほんたうは農家が壱番金持ちとならねばならんのです。
又は漁師が壱番金持ちとならねばならんのです。
まあ確かに壱部に金持ちの百姓や金持ちの漁師もまた居るには居る。
ですが農家や漁師をやり逆に物価高騰のあおりを受け借金がかさんでいくやうなそんな状況も現在多発して居ります。
でもって最終的にイザ農家や漁師が居なくなったら🗾國は百パーセント食料を輸入する國と化す。
ところが気候変動や戦争、紛争の頻発する如くに世界情勢が不安定ですので食糧資源の安定した供給には程遠いのです。
だったらもはや我我は飢える他は無し。
其処では🐈も🐕も皆食われて居なくなる。
さらに下手をして居ると人間のヘマな奴などもまた食われる。
だから道端や野っ原などで寝て居たりすると食料と勘違いされ其の侭に「飢えたる大衆」に襲われバリバリと食われる。
結局「食」とは常にさう云うことなのだ。
左様に「食」とは人間に取り止めやうの無い最大の本能である。
またそんな「食」こそが生命體に取り最後の本能としての砦である。
とのことであくまで自分の意見としては此処🗾國は「飢餓」に最も近くある國である。
どだい此処🗾ではもはや第弐次産業、第参次産業による「経済成長」がすでに望めぬ訳だ。
そんなそも「経済成長」出來ぬ國なのに金融資本ばかりが増大するのだから金持ちと貧乏人とに分かれて行くのは当然です。
でもって其の「社會構造による格差」の部分はまずは貧乏人や農家や漁師などの弱い立場の人人を直撃する。
なのに其の困難な様を横目に眺めつつ大企業や國會議員や官僚やNHKやJAは金を貯めることのみに熱中する。
此のクソ野郎共が此処🗾國を何と「飢餓國」として仕舞う。
だから偉い人達はより金を儲け貧乏人が皆バタバタと「飢え死に」をして行くのです。
つまり其の「金儲けでの強欲」こそがかけがえのない實存としての個の命を奪うのだ。
嗚呼恐ろしい。
こんな🗾社會に誰がした?
いいですか、「金」はそも半分具象物であり半分抽象物です。
だから其れは無限には膨らまず常に額の上で限定されて居る。
其の限定された金額の牌を奪い合うのが「資本主義経済」としてのやり方なのだ。
故に過剰に儲ける者は必ずや此の世に不足を齎すこととなる。
但しより現實的な話をすれば個人的に米を食べる機會がこのところめっきり減って居る。
要するに🗾人の「食」はすでに半分位は欧米化、國際化して來て居る。
故に其の「主食なる米」との概念其れ自體が過去のものともなりつつもある。
いや然し何を食おうが構わんのですが其れを兎に角國内でもって賄うべきです。
其れと「金融資本」の部分とエッセンシャル産業の部分とは是非切り分けて置くべきだらう。
エッセンシャル産業とは公的産業のことであり其れは文明社會が最低限保証すべき「生存権」を成り立たせんが為の必須の要件のことだ。
言わば「生存権」を保証することも出來ずに文明國も何も無いのである。
まさに其の「生存権」を保証するからこそ曲りなりにも其れは「文明國」なのであり「現存在の現存在による現存在の為の社會」なのだ。
さらに言えば現存在の「生存権」を保証出來ぬ社會は所詮「失格社會」であらう。
たった今「生存権」を保証出來ぬ「失格社會」は結構多いから此処🗾の御國などもまた気を付けて置く方が宜しい。
いやズバリ「失格社會」だわいな、かの🗾國の社會こそが…。
報恩講:締めくくりの「坂東曲(ばんどうぶし)」 京都・東本願寺 - YouTube
こんな如何にも變な行事です。
さて最近わたくしはかって心酔して居た福岡正信 - Wikipedia氏のことを再度調べ上げて居た。
福岡正信 自然と人間 1993年 NHK『こころの時代』より - YouTube
岡田茂吉の農法
1935年から世界救世教教祖の岡田茂吉は「土壌に不純物を入れず清浄に保てば、土壌本来の性能を十分に発揮し作物が栽培できる」という考えのもとで、無農薬・無肥料の栽培を始めた[4]。1936年から東京都世田谷区上野毛の邸宅にて実験的に作物を作り始め、1942年からは水稲にも取り組んだ。[要出典]1950年(昭和25年)に「無肥料栽培」から「自然農法」へと改称し[5]、1953年に「自然農法普及会」を発足させた[5]。
岡田茂吉の理念は⾃然農法国際研究開発センター、MOA⾃然農法⽂化事業団などに受け継がれている[4]。
福岡正信の農法
1947年、「無から有を生めるのは自然のみで、農家は自然の営みを手伝うだけ」と考えた福岡正信は「不耕起」「無肥料」「無農薬」「無除草」を原則とする自然農法を始めた[4]。具体的な農法として、植物の種子と粘土と混合した粘土団子がある[要出典]。ー自然農法 - Wikipediaより
まず基本的に現行での文明に於ける食料生産の體制は「持続可能性」をむしろ持たぬものだらう。
文明に於ける食料生産とは基本的に「自然よりの略取」の形を取らざるを得ぬものだ。
「自然よりの略取」がそも良いものである筈は無くよって其の試みには何時か綻びが生じることであらう。
尤も此処数千年に亘り何とか其のシステムが保たれたのはかっては人類の人口が限られて居たからのことである。
ー18世紀の産業革命以降に世界人口の増加ペースが速くなり、1800年には10億人程度に達した[3]。そして、20世紀に人類は人口爆発と呼ばれる人類史上最大の人口増加を経験した。国連の推定では19世紀末の1900年におよそ16億人だった世界人口は20世紀半ばの1950年におよそ25億人となり、20世紀末の1998年にはおよそ60億人にまで急増した。特に第二次世界大戦後の増加が著しい。
現在の人口は、過去6000年間に存在した全ての人口のおおよそ5分の1にあたる。米国PRB(Population Reference Bureau)の研究によれば、人類史上これまで約20万年間に存在した総人口の7%近くを現在(2022年)の世界人口が占めている[4]。ー世界人口 - Wikipediaより
左様に1800年にはたった拾億人だった人間が2023年には八拾四億人に迄増えた。
此の増え方はどう見てもまずは異常だ。
どう見ても異常ですが其れを「異常」と言えば逆に「異常者」扱いされかねぬのが現代社會である。
まあ「異常者」でもエエんでほんたうのことを言ったれ。
てな心理こそがわたくしの抱えるであらう本音としての部分です。
まあ其れをワザと述べみんなが意気消沈するのをかうして樂しみつつ眺めて居る訳だ。
さて此の人口爆発 - Wikipediaこそが現行文明が抱える最大のさうして究極としての問題です。
さらに此の大問題とセットにて存在するのが所謂自然破壊 - Wikipediaの問題だ。
では文明はそも何でそんなところへと自らを追い込んだのかと云う話となる。
其れもまあ意識が高い系の方方に取りさう問題として捉えられるのであり大多数の洗脳人間に取り其れが即大問題として認識される訳には非ず。
つまり此のセットでの大問題に就き考え込んで居るダケまだしも人間の認識として正しい方向性を向いて居るとのことなのだ。
でも大方はこんな大問題よりも家事のことや労働のことや孫のことや父母の葬式のことやそんなものにかかり切りですのでこんなもんはまさか考えて居られず。
また嫁の不細工やら子の学力が無いことやらにかかり切りですのでこんなもんはまさか考えて居られず。
故に教師や學者であるとか宗教家であるとか其れとも藝術家だとかなどに限られる訳です、其れへの問題意識其れ自體が。
ー環境保護論者が指摘しているところでは、産業革命に加わった大半の国がキリスト教国であったことから堀川教・キリスト教的伝統が自然破壊に関する議論をする上での拠り所になっているのではないかという。『旧約聖書』には神の言葉として人間に「子を生んで多くなり、地に満ちて、それを従わせよ。そして、海の魚と天の飛ぶ生き物と地の上のあらゆる生き物を服従させよ(『創世記』1節28章)」という記述があり、自然を支配するという西洋人の曲解に影響を与えていると、リン・ホワイトはレイチェル・カーソン『沈黙の春』出版の5年後の1967年に主張した。フレデリック・ターナーはさらに、ユダヤ教やキリスト教の発祥地であるパレスチナの荒野の荒々しさとの対立から「人類はまさにその地において自然の世界を支配しようとする夢を設定した」とし、それが『旧約聖書』に反映されたのだという。この傍証としては半乾燥地域での牧畜が人間の管理色の強い面が挙げられる。
これらの指摘には一面の真実はあるかもしれない。だが、事実関係としてはキリスト教の教義よりも利潤追求資本主義の膨張が大きな役割を果たしたというのが正しいであろう[2]ー自然破壊 - Wikipediaより
其の資本主義による所謂「利潤の追求」のことこそが矢張りと申すべきか元凶なのだらう。
尚高校時代に英語のリーダーの授業にて其の『沈黙の春』なる本の内容が出て來其れにまさに驚愕し早速に本を買い読んだ覚えなどが御座ります。
其のカーソン女史による『沈黙の春』こそが環境問題 - Wikipediaとしての走りでのものでした。
さて其の環境問題に関し70年代の文明世界は今程大きな関心を抱いては居なかった。
無論のこと公害 - Wikipediaと云う概念は当時からあったのだが其れはあくまで「文明推進の為には仕方の無い現象」である位に考えられて居たものだった。
つまるところは当時あくまで大事なのは「経済成長」でありまたつまりは父ちゃんの給料の倍増なのでありまた母ちゃんの化粧品代が出ることだったのだ。
さらに出來の惡い子を「塾」にも行かせねばならずそんな自然環境の保全も何も無く兎に角金が儲かればそいでもって良かった。
だがどうも其の認識には大きく落とし穴の部分があったやうに思えてならん。
ーその反面、地球にはまだ多くの自然が残されているとし、多少の破壊は人間の利益追求・経済活動のためにはやむを得ないと主張する者もいる。
ただし、環境破壊がそれ自体による景観破壊や、その行為による想定外の災害や公害が人間の利益を損ね、結果的に一部の人々の利益の為に無関係な人々が損害を被るといった外部性をもたらす可能性を考慮すれば、それは経済活動に対してもマイナスに働き、前述の主張が如何なる場合も免罪符になるとはいえない。
このように、個々の自然破壊に対するへの意識は高まってきてはいるものの、人間活動そのものに関わる問題であり、一筋縄には行かないのが現状で、現在も自然破壊は進み続けている。ー自然破壊 - Wikipedia
即ち「人間活動」其のものに問題が有り其れを是非變えて行くべきだとさう諭すのが主に宗教的な且つ哲學的な意味での課題です。
他方で「人間活動」其のものに問題は無いとさう捉えるのが所謂「近代合理主義」的な世界観なのだと思われる。
またつまりは其の両者に於ける社會認識には大きく隔たりがある。
よって個人的には其の破壊自體が止まることは無いとさう考えて居る。
但し其処にて變えられるものがあり其は結局「認識のあり方」である。
さうは言え「認識のあり方」がなかなか變えられぬのは多くの人間は「社會と連動するところでの認識」しか出來ぬからなのだ。
だけれども現代社會はそも變えやうが無いことであらう。
何故なら現代社會は常に「正しい認識」のもとに営まれて居るのであるから。
まあ其れぞまさに妄想の類ながらそんな妄想の類を止めて認識を正すことは極めて難しいことなのです。
どの位に難しいと申せばアノ「ジャンボ寶籤」を当てる程に難しいものだ。
其の「ジャンボ寶籤」を此処五年程買うのを止めて居ますね?
…だってまるで当たらんもん。
では現行文明は結果として其の「認識の誤り」により地球を破壊し尽くすのですね?
まあさうですが實は元元人類の認識のあり方は誤って居ります。
其れ即ち✖であり零点なのだ。
では果たして何が正しい認識なので?
「人間活動」其のものに問題が有るとさう見ること其のものが所謂正教に於ける認識だらう。
レイチェル・カーソンの本『沈黙の春』――環境問題について考えよう | 春花の読書ミュージアム (haruka-books.com)
出版物の紹介:『沈黙の春』(レイチェル・カーソン著)│コラム・レポート│FSI海洋プラスチック研究 (u-tokyo.ac.jp)
まあたまにはこんなものなどを読み是非勉強して置くべきだらう。
尚環境問題のほぼ全てが「原生人類ホモ・サピエンス」に於ける認識の問題であるとさう個人的に捉えて來て居る。
其れ即ち「認識がそも誤って居る」が故にこんなんなって居るとさう見ておる訳だ。
元より其の謝った認識は是非正すべきである。
でもってわたくしは其の人類の認識の間違いの部分と常に闘う文人なのだ。
自然農法とは | (公財)自然農法センター (infrc.or.jp)
なる程至極勉強になります。
さて現行文明に對する意見としては、
1.さらなる「幸福」の為に無理を通す
2.兎に角何かと頑張り過ぎ
3.要らんものが多くゴチャゴチャ
との感じがいつも個人的には致して居ります。
要するにわたくしは現行の文明を良いものであるとはまさか思って居らず逆に「害毒を垂れ流す惡の化身」位にしか観て居りません。
對して「自然」とはもっと「自然體」なものでせう。
「自然體」とは幸福でも無く進歩壱本槍なのでも無くより具象的に其処にのみ規定されるものである。
其処にのみ規定されるのだから無論のこと過去もまた未來も観ては居ない。
具象的に唯壱の現在を其処に生きる者こそが自然の内なる生命體である。
生命體は其の自然の流れに抗うこと無く此の地球上に「今」を憩う。
其の意味では生の上での闘争もまた老病死も憩いである。
だが此の文明世界に限ればそんな「憩い」などは許されるものでは無い。
其のやうな「デリカシーに欠ける」認識こそがむしろ自分に取り決して許されぬものなのだが。