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マルサスの「人口論」に就いてーⅠ. 聖ヒエロニムスの👩嫌いー

マルサスの「人口論」に就いてーⅠ. 聖ヒエロニムスの👩嫌いー

 

 

 

 

「岸田内閣の支持率上がらないのはふしぎ」経団連会長の発言にネット猛反発「心底腹が立つ」「世間の声が分からない」 (msn.com)

 

かうして人間は「経済ーカネー寄り」=「功利的合理性」の側に立つと感情乃至は感性がブチ壊れて次第に👿のやうな者となるものと相場が決まって居る。

其れ即ち「経済」、「経済」と言って居るかの國の支配層に「聖者」が居るべくも無くむしろ「👿共」が其れを牛耳って御座る訳だ。

 

でもって壱つだけ朗報を伝えれば「👿共」は死んでから「地獄」へしか行けない。

即ち極樂世界や天國へはまず絶對に入れぬ訳だ。

 

さうか、結局世の中とは良く出來たものよ。

其れも此の世にて金にまみれた不浄の者共は死んでから皆「地獄」へ落ちるものである。

 

ああー、良かったー。

スッカリ気分が☀たわい。

 

ではキシダもまた「地獄」行きなので?

いえキシダは結局助かります。

 

何でかと申せば此の腐り切った経済體制に對し少なくとも「新しい資本主義」をやらうとしたことだけは確かである。

ところが🐊をはじめまた経団連だの何だのと強欲資本主義の側に無言の圧力をかけられ其れでもってキャンキャーンと鳴いてならば息子を偉い人にしやうとしたが其れにてスッカリ顰蹙を買っちゃった。

 

即ち地獄へ堕ちるべきなのはむしろ其の🐊の方だ!

いずれにせよかうして此の社會はダメです。

 

まさに其れが僕の意見ですね。

つまりはホモ・サピエンスには社會的に大きく問題がある。

 

其れ即ち「そも社會が惡い」ので其処で何をやったって良くなりはしない。

つまりは社會=惡です。

 

だからこんな社會はもう自ら捨て去りませう。

 

 

「人の本性は悪」ではない!「性悪説」の正しい意味 荀子の真意は「人間にはルールと恩賞が必要」 (msn.com)

 

何かチョット違うやうな気もまた致しますが仰りたいことは良く分かります。

尚「悲観主義」又は「悲観論」は必ずしも「否定主義」なのでは無くむしろ「前向き」の思想=「肯定主義」と成り得ることが往往にしてあるものだ。

 

宗教で言えば例えばクリスト教こそがさうです。

ですが御釈迦様の思想の場合には最終的に「肯定主義」とは成り得ない。

 

クリスト教はさうして「悲観主義」ですが其れも最終的には至極「樂観主義」であり人間の生に對して「前向き」な思想です。

對して人間の生に對して「後ろ向き」な思想なのが所謂印度からの「解脱思想」でせう。

 

さて其の「性善説」と「性惡説」の問題ですが此れもまた其れに就き考えれば考える程に分からなくなります。

尤も「解脱思想」やショーペンハウアーのやうな考え方はあくまで「性惡説」の側からの捉え方でせう。

 

但し其処で「何に對して」の「性惡説」なのかと云う問題があるのだと思う。

例えば「解脱思想」やショーペンハウアーのやうな考え方は「理性」に對しての「性惡説」なのではないか。

 

また自分の考えではあくまで「社會が惡い」のですからつまりはそも「社會に理性など無い」との結論となる。

さうしてあくまで「社會が惡い」のですから社會を捨てることでこそ己が「理性」を是非回復すべきである。

 

そんな實に「前向き」な思想を展開して居りますのです。

 

 

さらに言えばクリスト教なども明らかに「社會が惡い」とさう捉える思想です。

即ちあくまで「神」が惡いのでは無く人間社會の意思決定こそが惡いのです。

 

對して「解脱思想」やショーペンハウアーのやうな考え方はむしろ「自分が惡い」とさう捉える思想でせう。

でもって僕の場合にも其れは半分認めますが後の半分は兎に角「社會」が惡いのです。

 

最終的に人類のまた文明の滅亡は其の「社會が惡い」せいでさうなりませう。

實際にこんな社會にしたのは全てが「近代社會」のせいです。

 

だからそんな解脱よりもまずはやることがあり其は「社會を否定してかかる」ことです。

云わば社會全否定派、てなものでせうか。

 

そんな社會にはそも理性が無いからこんな「惡の巣窟」になるのです。

 

では君は所謂「革命主義者」なのか?

いえ最近は其の「革命以前」でのことなどをむしろ良く考える。

 

例えば「マルサス人口論」に於ける眞意とは何か?と云うことなどを現在思考中である。

じゃあ其の「マルサス人口論」に於ける眞意とは何か?

 

結局其れは「物理的な限界」に就き述べるものだらう。

結局其れは「自然の限界」に就き述べるものだらう。

 

さうそも「自然」には常に限度が突き付けられて居る。

故に「自然」には問題が生じにくい。

 

ところが近代人は其の「完璧なシステム」である自然を捏ね繰り回して來た。

また其のことは人類にのみ許された「特権」であるかのやうに見詰められて來た。

 

だが果たしてさうなのだらうか?

何ぞとんでもネエ間違いを俺等人類はすでにやっちまってネエか?

 

ついやっちまった!

つい出來心でもってやってはイカンことまでやってまった!!

 

だからやってはイカンだらう、ソレ。

でもやっちまったものはもう元には戻らんわい。

 

そも何をやったんだ、君は?

例えばエロいことなどもまたやりましたのです。

 

いいか、そんなエロいことはな、其れも第壱級の罪だぞよ。

エッ?でも世間では普通にやられて居ることですが…。

 

 

エエか、クリスト教には大昔にヒエロニムス - Wikipediaなる聖者が居ってな、其の彼は余りに厳格なクリスト者でありよってとんでもない「👩嫌い」だったのだ。

 

ーヒエロニムスは、人間は生まれながらにして罪人であるという『原罪』の概念を非常に重要視し、自分自身が赦されざる一番の罪人であることを自認してさえいました。『キリスト教の獅子』と呼ばれるような強靭で排他的な精神力によって、キリスト教の正統教義を確立していったヒエロニムスは『罪に対して赦す事の無かった人』として知られ、『禁欲・節制・勤勉』などの徳目の実践にこだわりました。ヒエロニムスは性的興奮や好ましからぬ欲望を引き起こす『女性の身体性』『原罪の根源』として認識しており、女性との身体的な接触を病的なまでに嫌っていました。この辺は、若い頃には女性と放蕩三昧を尽くして肉の喜びを知っていた聖アウグスティヌスとは対照的なのですが、ヒエロニムスは徹底した『禁欲の聖職者』であり、エロスの喜びは精神的堕落の最大の原因と見なしていたのです。

 こういったヒエロニムスの女性恐怖や身体的快楽の蔑視は、『男尊女卑的な中世的偏見』を助長する好ましくない影響をもたらしましたが、禁欲の人であったヒエロニムスはベツレヘムで男性用と女性用の二つの修道院を建設したことでも知られます。ヒエロニムスはローマ滞在時に、元老院議員トソキウスの未亡人パウラとその娘エウストキウムと宗教的な交流を持ち、経済的に裕福であったパウラの資金援助を受けてベツレヘム修道院を建設したのでした。ヒエロニムスは若い娘のエウストキウムにも徹底した禁欲とエロスからの脱却を勧めるのですが、ヒエロニムスを尊敬していたエウストキウムは『ヒエロニムスの教義』にあまりに忠実であったため、断食・倹約・節制が行き過ぎて死んでしまいました。ー厳格無比の神学者ヒエロニムス(347-420) (esdiscovery.jp)より

 

其れ即ち👩=👿、との考えです。

もしやアナタもまた其れと同じやうに御考えなので?

 

いえ自分の場合は👩=半分👿、との考えです。

では残りの半分は果たして何?

 

残りの半分はむしろ聖母様でせう。

特にパトロンになって下さる聖母様が是非欲しい。

 

しっかしそんな断食や倹約や節制故に死んでは何にもならんではないか。

いえさうでは無く宗教とはたとえ死んでも其れをやらんことにはならん教えなのでもまたある。

 

實際殉教したクリスト者は歴史上結構多いことだらう。

さらに佛教の方でも昔の大乗佛教の坊主は迫害されたりして結構死んでも居ることでせう。

 

 

ーヒエロニムスは卓越した聖書研究者であり優れた人格を持つ聖職者でしたが、彼の問題点は何事も徹底的に突き詰めなければ気が済まない『強迫的な完全主義』でした。極端な禁欲主義の実践を唱導したヒエロニムスは、『女性が性的なことを空想するだけで罪である・処女性を失った女性は深い罪を犯している』と語り、一度『性的な罪悪』を犯した女性は決して完全な免罪を得ることは出来ないとしました。このエロスを罪悪とする極端な考え方は、『暗黒の中世』を象徴する男尊女卑(女性差別)を強化する作用をもたらし、女性の性的逸脱(エロスの過剰)に対する私的制裁を正当化するような野蛮な帰結へと至ります。男性の心を惑わした魅力的な女性を魔女(悪魔)だと独断的に認定して処刑するような『魔女狩り』も、こういった女性の身体性やエロスを忌避する信仰の延長戦上にあったと考えられます。とはいえ、ヒエロニムスも男性である以上、性的な欲求や想像とは無縁でいることはできず、シリアの砂漠の中で裸体の女の幻覚を見たこともあります。その時にヒエロニムスは、愚劣な想像を生じさせた自己の精神の堕落に激しく怒り、自分自身を厳しく鞭で打ち据えて神に懺悔しました。

 知識人や神学者として超一級であったヒエロニムスですが、その人格は攻撃的かつ排他的であり、自分が正統と信じる考え方に反する人間を決して赦そうとはしない激烈さを持っていました。一切の贅沢と快適を否定する禁欲のために、ボロボロの身なりをして周囲に悪臭を撒き散らしていたため、鉄の十字架像を引きずって歩くヒエロニムスに敢えて近づこうとする者は殆どいなかったとも言われる奇人としての側面も持っていました。その為、聖書のラテン語訳という歴史的な功績を考えるとローマ教皇に選出されてもおかしくないヒエロニムスでしたが、周囲の高位聖職者の支持を得ることができず教皇にはなれませんでした。

 しかし、ヒエロニムスはそういった世俗的な栄光や名声への欲求は全くなく、禁欲と節制を貫徹して神にすべてを捧げる人生にこそヒエロニムスの考える『生きる意味』があったのです。自己にも他者にも一切の妥協や堕落を赦さない厳格無比の神学者、それが聖ヒエロニムスを表現するのに最も相応しい言葉だと思えます。ヒエロニムスは人間に好意や尊敬を寄せられることに関心はなく、神の定めた規律と倫理にのっとって生きられるか否かにしか関心がなかったのでしょう。ー

厳格無比の神学者ヒエロニムス(347-420(esdiscovery.jp)より

 

尚其のエロースを否定的に扱うのはクリスト教に限らず所謂解脱宗教でも同じことです。

例えば御釈迦様御自身は出家されて以降可成に👩嫌いの度が酷くなって居られたやうだ。

 

「とはいえ、ヒエロニムスも男性である以上、性的な欲求や想像とは無縁でいることはできず、シリアの砂漠の中で裸体の女の幻覚を見たこともあります。その時にヒエロニムスは、愚劣な想像を生じさせた自己の精神の堕落に激しく怒り、自分自身を厳しく鞭で打ち据えて神に懺悔しました。」以上より

 

でもやり過ぎだらう、ソレ。

 

「知識人や神学者として超一級であったヒエロニムスですが、その人格は攻撃的かつ排他的であり、自分が正統と信じる考え方に反する人間を決して赦そうとはしない激烈さを持っていました。一切の贅沢と快適を否定する禁欲のために、ボロボロの身なりをして周囲に悪臭を撒き散らしていたため、鉄の十字架像を引きずって歩くヒエロニムスに敢えて近づこうとする者は殆どいなかったとも言われる奇人としての側面も持っていました。」以上より

 

まるで普通じゃないよ、ソレ。

 

うーん、でも此の種の人から見れば自分などはまだまだ可愛いもんです。

要するに人類の中にはとてつもない人が居るとの御話です。

 

尚今回の作文は「マルサス人口論」を論じる積もりでしたが聖ヒエロニムスと云う強烈な個性の持ち主が登場しつい「思考」がぶっ飛んで仕舞いました。

まあ其の聖ヒエロニムスとショーペンハウアーの👩嫌いの度は双璧なのだとさうも言えさうです。

 

もしやアナタもそんな👩嫌いなので?

まあ確かに嫌いは嫌いです。

 

ですが其れもまた場合によりけりです。

場合により女性の「生命力」に圧倒されることなどが實際に度度ある。

 

ズバリ申して特に理性的な男性はそんな👩嫌いになることが多いやうに思われる。

つまりは其処にてまずは「理性」を信奉して仕舞うので女性の動物的な本能力の部分に嫌惡感を覚えたりもまたする訳だ。

 

 

そんな訳で本日は何故か作文の内容が「マルサス人口論」から離れて行ったやうに壱見見える。

しかしながらむしろ今回の其の「エロース」の論議こそが「人口論」に於ける本質的な問題の筈でせう。

 

「エロース」の度がより強く見受けられるのがまさに自然界です。

どんな生命だらうが兎に角其の「エロース」の度が物凄いです。

 

例えば🐱なんぞは其の侭にして置けば弐、参年で壱匹が弐、参拾匹に増えます。

其の「エロース」の度の凄さを見詰めて居るだけでもはやこちらはヘトヘトとなる。

 

ですが人間の場合は「自然」と「理性」の混交物であり🐱其のもののやうにはなかなかなり得ぬものだ。

其れでも近代が進むとかうして80億迄人口が増えて仕舞う。

 

と云うことは矢張りかってのマルサスの主張のやうに「人間の性欲が減退することは無い」訳です。

さらにマルサスは「豊かになっても富が下の民へ配分されることは無い」とさう喝破して居りましたのです。

 

 

マルサスの主張は主にマルクス主義唯物論者からこっぴどく批判されて居ります。

共産主義と云うのは結局進歩主義の急先鋒ですのでマルサスの主張の如くに「人口爆発」位で食うものが無く飢え死にするやうでは金輪際イカンのです。

 

ですが個人的にマルサスの主張は「正しい」ものであるやうに考えるに至った。

其のことはどうのかうのでは無く「8,000,000,000」人を突破した其の人類の性欲はほぼ🐱並みであるとさう認めざるを得ぬのです。

 

ところでそんな「8,000,000,000」人も人間が居てまた良く孫の頭などを撫でて居られるものだ。

僕なんぞは自分壱名だけでもむしろ多過ぎると思って居て其れこそ聖ヒエロニムスの如くに🏔の中で👩の裸の幻覚を見たりボロボロの身なりでもって周囲に惡臭を撒き散らすところなどが何処か似て居るやうにも感ぜられるのです。

 

聖人様か。

ウソの聖人様か。

 

アナタはそも其のどちらなのですか?

 

ズバリ後者です。

其の「本能」と「理性」の對立の問題こそが「マルサス人口論」の根底に横たわるものであるやうにたった今個人的に思われてならない。