さて知識としての文系と理系はいつかは交わり現代的に提起される諸問題に対し解決の糸口を見つけて行かねばらぬことだらう。
其の理系は世に進歩を齎すが其れが必ずしも人類の幸福に資するものでは無いこともまた確かな事實である。
逆に文系は進歩に対してはまるで役立たずなのだが文明に対する反省や宗教的資質と言った面では明らかに理系よりも優れた精神的性質を帯びて居る。
但し文系は其れも文系の高度な領域では悲観の面が進み過ぎ其処でもって自決や特攻、さらに太宰の如き👩遊びとアル中また安吾の如きクスリ中毒へと進み易い点などが最も警戒を要する点であらう。
即ちこと心の面では明らかに文系の方が優れて居る。
対する理系はあくまで現實的成果主義ー現世利益主義ーなので其処に屈折した感情、生としての暗黑の面などを俎上に乗せることが出来ぬ訳だ。
其の現實的成果主義ー現世利益主義ーは子宮思考の権化でもまたあらう。
つまるところ其の現實感覚こそが實は科学技術と結び付いておる。
であるからこそ其処にて自然破壊を引き起こす訳だ。
逆に申せばもっと浪漫チストで良いのである。
其れも空想だの詩だの何だのでもって観念の王子様で居る方が白馬に跨る王子様よりはずっと望ましい訳だ。
目に見える世界は幻想か? 物理学の思考法 (光文社新書) | 松原 隆彦 |本 | 通販 | Amazon
さて本日は此の本を読み返しました。
今回で都合四度目となります。
何度読んでも面白いのですが、何度読んでもイマイチ理解が進みません。
尚理系が抱える問題が文系の抱える問題よりもより大きく深いと云うことはありません。
文系には哲學的要素や宗教的要素が必然的に入るが為に其れはどちらがどうと云うことでは無くどちらも大きく深い問題を抱えて居ります。
なのでまず理系の方が役に立つと云う幻想は捨て去るべきでせう。ー同時に理系の方が儲かると云う幻想もまた捨て去るべきだー
ちなみにかうして私は若い頃より文系の人も読める科学的啓蒙書を読むのが大好きです。
ですから知識としては科学的な知識にもむしろ長けて居ます。-但し数式だの化学式が出て来ない論理としての科学上の知識に於いて-
ところで科学的な思考は明らかに浪漫を追う思考其のものでせう。
サイエンティストは皆そんなロマンティストなのだともまた言えることだらう。
ですが其の浪漫を其れこそストレートに科学技術として現實化することには抵抗感を覚えて仕舞う。
其れは私が持つ特殊な自然的感覚によるものなのだらうか、兎に角其の技術的改変化に対し生理的な嫌悪感を覚えて仕舞う訳だ。
たとえば🐈などは洗濯機や掃除機などの大きく音がして動く人工物に対し警戒感を抱くものですが丁度そんな感覚なのやもしれません。
私は感覚的には原始退行した部分が多分にあるが故に所謂共感覚者なのです。
つまりはひょっとすれば人間離れした感覚の持ち主なのやもしれません。
さうして私には数字に色を感じる性質が昔よりあります。
其れも壱は白でしか無く弐は赤でしか無く参は黄でしか無く四は黑でしかあり得ませんがさても皆様にはさうした感覚が多分おありにならぬことかと思う。
尚1、2、3、4の方でも其れは同じことです。
で、私はそんなどーぶつ的感覚のー未分化な感覚のー所有者なのだが他方で至極論理的なーつまりは理窟っぽいー人間なのだ。
ですのでかうして本を読むのが大好きなのだがまさか🐈は本など読みませんね。
つまるところわたくしはどーぶつ人間要するに😻人間でありだからみゃーおみゃーおといつも独りでもってかうして鳴いて居るのです。
さて本の内容に就いてですが物理学の進歩をまずは概説的に捉えると次第に現實離れしたものとなって行って居るとまずは言えることだらう。
現實と云うものを素朴なる實在性に基づく感覚とでも言い表すならばまさに其処からは次第に遠ざかりつつあり要するに物質を対象とする客観的成果である筈の物理学がむしろ次第に哲學的であり且つ神秘主義ですらある領域へと突入して行って居る訳だ。
どだいアノ相対性理論にせよ素朴なる實在性に基づく感覚からはまるで理解出来ぬものである。
時空間が曲がったりブラックホールが形成されたりでそんなものは勿論此の地球上には無いものばかりです。
ところが實は哲學の世界でも観念論以降素朴なる實在性に基づく感覚世界は實は否定されても居ります。
要するに學問の世界ではさうした前近代的な認識はすでにしないこととなって居ります。
要するに其れは「目にて見た儘の世界」の否定です。
ところが素朴なる實在性に基づく感覚世界を基に生活を営むことは勿論可能です。
いやむしろ相対論だ、観念論だ、などと云って居る観念野郎の方こそが生活を営むことに関しては苦手である。
ですが、其の「目にて見た儘の世界」の否定は實はお釈迦様の時代からむしろさう言われて来たことなのであり何も自然科学的思考によるものでは無く且つ近代哲學のみによるものなのでも無い。
さて其の素朴なる實在性に基づく感覚世界を否定し物理学の新たな領域が拓かれましたがまさに其れが極大の物理領域としての宇宙と極微の物理領域としての素粒子の世界です。
だから要するに其の両極の物理を考える為に地球上での発想は捨て去らねばなりません。
要するに極大の領域にもまた極微の領域にもまるでお化けのやうな仕組みが多々出て来る訳ですので要するに所謂我我の常識からはかけ離れて行く訳だ。
第壱ブラックホールだなんて誰がどう地球上で考えたにせよ分かるやうなものではまるでありません。
原理的にはあくまで其れは重力崩壊と云うことですが重力崩壊よりも何よりも我我が怖いのは病気になることでありまた事故や事件に巻き込まれることだ。
だからソッチの方が余程に運命崩壊ではありませんか。
なんですが、物理学と云うか自然科学はあくまでモノの理を厳密に何処までをも調べて行くものですので我我の遭遇する運命崩壊などまさにどーでも良いことなのです。
つまり自然科学にとっては物理法則だのDNAの配列だのそんなものばかりが大事な訳です。
ですがまさに其処に落とし穴がありませんですか?
物理学と云うか自然科学はいま少し視野を拡げて人間の心の面も學んでみるべきなのではないだらうか。
實際に廿世紀の物理学が切り開いた量子力学、量子論の世界ほど不可思議なものは無い。
ー「はい。でも、それだけでは説明がつかないようです。未だに良く分かっていません。ただし、観測するということは見るために『触る』必要があります。これは『手で触る』ということではなく、例えば、目で見る時も光がその物質に触れてないと見えませんよね? その『触る』という影響が災いして量子は、『あ、今見られている』って気付いてしまうということです」
「なので、量子力学では、観測しないでおけば、Aのスリットを通った状態と、Bのスリットを通った状態の2つの状態がそのまま重なり合って存在できたのに、それが観測された瞬間に『僕は粒だよ』ってアピールして、片方に収束するというような考え方をします」ー
ー「この双子は察しが良くて、片方が見られたらもう片方も必ず『見られた』ということに気付くんです。で、その双子のペアは距離に左右されることがない、つまりはどれだけ遠い場所にあってもお互い素性がバレたことには気付くんですよ」
「片方が地球にあって、もう片方が太陽系のはるか先の星にあったとしても気付くんです。しかも、一切のタイムラグが無く、完全に同時に」ー【誰でも分かる】「量子力学」ってなんなの? 詳しい人に聞いてきた【入門編】 | i:Engineer(アイエンジニア)|パーソルテクノロジースタッフのエンジニア派遣 (persol-tech-s.co.jp)より
此処で哲學的にはひとつの考え方として、独我論と云う立場がたとえば思い起こされます。
ー独我論は、私の認識とは無関係な事物の存在を否定する。リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)。全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない。また、他人の存在、他我も説明できない。ー独我論 - Wikipediaより
廿代後半か其れとも参拾代前半の頃でしたがふと私はかう考えてみたことがあった。
其れは私が認識するから世界は生じ、私が認識しないところに世界は生じて居ないのではないかとふとさう思った訳だ。
すると世界とは其のーそれぞれのー人の認識とは無関係なものでは無くむしろ其れー現象ーを決定付けて居ることである。
かうして量子としての振る舞いの世界にもどうも其の認識論の問題が生じて居るやうなのだ。
また其れは神秘的と言えば神秘的な現象なのだが他方で至極論理的な現象なのでもまたあることだらう。
但しかうして量子力学と哲學はどうも相性が悪いもののやうです。
ーノイマンは、「解釈」の問題に過ぎないが(ノイマンによる量子力学の形式化は「解釈」とは独立である)「収束」は人間の「意識」と関連しているという主張をした。ユージン・ウィグナーはこれに関連し、後述するパラドックスを述べた。他に、ロジャー・ペンローズも意識や心と量子力学を関連させて論じている(量子脳理論)[16]。ウィグナーは「ウィグナーの友人のパラドックス」[17]によって示している。これは、シュレーディンガーの猫の変形で、毒ガス発生機をランプに置き換え、猫の代わりにウィグナーの友人を箱に入れる。猫の場合には、「箱をあけて外の人間が観測するまでの間は猫は生きているのでも死んでいるのでもない、あるいはどちらでもあるのか?」とされたが、人間の場合には、「箱の外の人間が観測する時点で観測が行われたとすべきか、箱の中の友人が既に観測を行っているとすべきか?」という、量子現象の相互作用の対象が「意識」を持つ人間や猫など生物であるか無生物であるかによって現象が区別されることへの議論が加わっている。波束の収束を、観測されるミクロな対象とマクロな観測装置の両方を含めて、物理的に説明しようとする試みも進められている。ー量子力学#量子力学と意識 - Wikipediaより
其の意識や心と自然科学との理論の融合と云うか近似値と云うか兎に角そんなところにこそ個人的に興味を持って居ります。
其れはそも認識には現象との相互作用があるとの観念論的な展開を私自身が認めて居るからです。
さうしてとどのつまりは純粋なる意味での客体世界と云うものは此の世には現象して居ない可能性が高くある。
客体と主体はさうして相即ししかも相剋する関係に於いてこそ現象するのではないか。
逆に申せば人間が認識されるまさに其のやうに事實としての世界が形作られて行く可能性がまた高くある。
従ってまずは人間としての認識を正さずば正しくある世界の構築もまたままならぬ訳だ。
尚量子力学には多世界解釈と云うものがあり其の部分に就いても此の本では勿論言及されて居ります。
多世界解釈とはSF的な発想に見えて實はあり得ない話では無い。
第壱人間の心其れ自体がまさに千変万化することだらう壱種予測不可能なものです。
勿論本質部分は変わらぬにせよ表面的にはさうしてさざ波ばかりが立って居るものなのだ。
また此の多世界解釈の部分にもおそらくは意識の問題が関わって居るのでせう。
すると結局其の「意識」とは壱體何なのだと云う問いが必然的に生じて来る。
今私は意識とは時間だとさう考えて居て時間とは結局分離なので其の分離の継続こそが意識の流れだとさう結論付けて居るところです。
意識の流れは或は時の流れをも超越して絶対領域へ食い込んで居さえする可能性もまたある。
要するに其の「生きやうとする意志」こそがほぼ絶対的なものでもまたある訳だ。
生命には其の「盲目的な生への意志」しか元々無いのやもしれません。
然し其れがどうも気に食わぬので理性はかうして抵抗しー反抗しー自分のやりたいやうな世界へと改変して行く訳だ。
ですがやりたいやうにやったらさうしてどうもお化けばかりが出て来てしかもコロナまで蔓延して仕舞いましたと云うのが正直なところなのだらう。
だから我我はむしろやりたいやうにはやらぬ世界観でもって認識して置く方が良いのやもしれぬ。
あえてマイナスの価値をも見詰め「やりたい放題」では無い認識を形作る契機に迫られて居るのではないか。
兎に角今の人間にとり最も難しいことは其の「抑制」であり欲望の「消去」です。
其のやるよりはやらぬ方がより良いとはまさにさうした認識であり価値のことを述べて居るのです。
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地元名古屋大學の先生が書かれた本ですのですし文系の者にも分かり易く語って居られますので是非御勧めします。
尚私はとりあえず此の本を読みたいと思います。