私たちについて:–万年筆革命 (glopalstore.com)
ちなみに私は中國や印度の万年筆に詳しい部分もまたあるのだけれど其れを幅広く集め
る訳では無く此れと決めたブランドに対し徹底的な蒐集を行う訳だ。
だから此の「万年筆革命」と云う組織乃至は現象が今まさに印度の万年筆業界で行われつつあると云うことをまるで知らなかった。
だが此のケビン氏のお話は實に良く分かる。
つまりは今先進國の万年筆はかってー弐、参拾年前ーよりも高価となりつつある。
其れも余分な付加価値を付けた形であの手この手で価格を吊り上げるものだから實は庶民が買うものではすでに無くなりつつあるのだらう。
まあ其れでも選択さえ誤らねば壱万円、弐万円でも良い万年筆が買える。
但し趣味性の高いタイプは五万、拾万と金を出さねば普通得られはしない。
ところが其の五万、拾万と出し無理をしつつ買った現行万年筆の半分位が??と思うやうな代物である場合が往往にしてあることだらう。
其れは何故かと云うことに就き私は愛好家としての魂をかけてかって追求して居た訳だ。
何故現行の万年筆は値段ばかり高くなる割には此れと云うモノに出遭わぬのだらうか?
其の問いへの答えとは結局現行の万年筆が矛盾的に作られて居ると云うことをこそ意味して居た。
即ち、
進歩し良くなる=値段が上がる
と云うことでは必ずしも無く、
むしろ、
退化し悪くなる=値段が上がる
と云う場合さえもが實際には増えて来て居たのである。
但し其れ等は見た目は綺麗なので誰しも其れがむしろ退化して居ること、即ち其れがもはや万年筆の本質を欠くことなど見ぬけやせぬ訳だ。
愛好家の中でもごく一握りの者が其れに気付き「現行品」は良く無いとさう述べても居た訳だ。
また其れに気付いたにせよ、其れは現代の万年筆が本質的に堕して来てからだ、などと言う人はまず居らず普通はみんなで御遊戯するが如くにまたみんなでもって赤信号を渡るが如くにまさに和気あいあいでもって自分が選んだ万年筆を褒め称え其れでもって万事事が済んで仕舞う訳だ、
ところが、私は当時ー90年代当時ーむしろ限定万年筆のコレクターだったのである。
だから古いペンはほとんど使って居らず兎に角其の高価な限定万年筆だけをセッセと集めて居た訳だ。
ー筆記具業界に色々と知り合いが居て大抵は四割引きで其れ等を購入して居たものだった-
其の限定万年筆も90年代迄の物はまだしもモノが良かった。
但し其れでも其の限定万年筆に過去の万年筆並の實用性と作りの良さがあったとは考えにくい。
然し技術力のある独逸と日本の限定万年筆はまだまだ決して悪くは無かった。
だが其れ等は決まって値段が高かった。
つまりは五万、拾万、廿万もして居たのである。
ところが他方には古い萬年筆の世界があった。
が、其れも欧米ですら今程評価されては居なかった。
ましてや我が國では、其の古い萬年筆は汚いばかりの物だとさう見られて居たのである。
事實古い萬年筆は汚い場合もまた多い。
なので其の価値が皆にはまるで分からず、其の古くて汚く進歩して居ない代物は正当な値が付けられ取引されて居た訳では無かったのである。
其の九十年代の頃私はまだ参拾代であり其処は流石に若かったので兎に角綺麗なペンや綺麗な姉ちゃんの方にしか目が行かなんだのだった。
が、当時から山へ出向き其処でもって良く哲學的に考えたりもして居たものだった。
要するに事の本質を見抜く力を其の頃からすでに醸成して居たのだった。
だが万年筆は兎に角綺麗じゃなきゃいけなかったのだ。
其れは汲み取り便所のアノ強烈な臭さと汚さはもう金輪際イヤだと云うやうな感覚だったのではなからうか。
其の哲學的思考により次第に其の所謂進歩のウソ臭さ、其の虚的な正の価値構築の様に対し次第に懐疑的になりつつもあった我ではあったが其れでも猶ソコにこそ執着して仕舞って居た訳だ。
そんな訳で私自身はむしろ現代派、其れもバリバリの現行派のコレクターだったのである。
但し学生時代の頃の懐かしいプラチナやパイロットをすでに其の頃集めても居た。
当時はネットが今程普及して居らず、だから市内の文房具店をしらみつぶしに回り其処から売れ残りの品を発掘して来る訳だ。
其れが21世紀となりネットへドップリと浸かってからはむしろ余り万年筆は集めず万年筆ライターの方に専念して居たのである。
で、21世紀以降各メーカー共下らぬやうな限定品をこぞって出すやうになり流石の私も其れにはソッポを向き其の後拾年余りは90年代の限定品の良さに就き喧伝して居た訳である。
だが拾年程前から戦前の萬年筆への想いが強く激しく兆すやうになって行く。
でもって、万年筆の古典派へと転向します。
と掲示板でさう述べ古典的萬年筆の愛好家へとうって変わって行った訳だ。
其れも今思えば壱種の文明否定なのだが其れも文明の全否定なのでは無く現在を否定的に見詰め過去の価値を持ち上げると云う過去へ向く形での思想的転換だった。
さうして、
限定万年筆→古典的萬年筆
との其の流れをかって私はドキュメンタリーとして掲示板に逐一記録して居たのである。
万年筆のことでは有名だったと云うことである。
其処の主筆を何故か名古屋人の私がやって居たのである。
さうして結果的に私が万年筆の世界でやったものが其の万年筆としての本質への問いであり其の探究の道程を指し示すことであった。
其処は流石に哲學もする人なのでそも其のテーマが難しいと云うか何処か高尚なのではある。
其の探究の末の結論として、私は皆に煙たがられるのを承知の上で「万年筆は過去の物だ。」とさう述べた。
つまり過去のものなので過去のものの方がモノが良いとさう述べたのである。
逆に現在進歩の頂点にあるのが「ボールペン」であらう。
「ボールペン」は今や主流の筆記具として確固たる地位を築いて居る。
逆に万年筆はむしろ退歩し、しかもごく限られた狭い範囲で愛好家に深く愛されるに及んで居る。
だが多くの人はもはや万年筆など使わぬ場合が多い。
要するに其れは主流の筆記具からは外れたと云うことなのだ。
いや其ればかりでは無い。
今や何かを書くと云う行為はかうしてキーボードを叩くことで行われて居る訳だ。
書くことにせよ語ることにせよかうして文明は具象的な段階からまさに抽象的な場へと移行しつつある。
其のやうな変化の中で必然的に万年筆はアナログの懐古趣味としての要件を次第次第に増して行く訳だ。
さうつまりは其れは懐古趣味による癒しの場其のものなのだ。
都會人にとり自然が癒しの場であることと同じくして万年筆もまた石なども明らかに其の癒しの場なのだらう。
癒しの場のものは結局其れがドンドン値段が高くならうが買われる訳なのでー欲しい人は其れが高からうが買う訳でーたとえ数は出ずとも儲けは出るのであらう。
現在其の傾向はより進み万年筆は今一部の金持ちの道樂趣味の如くに成り果てて居るのであらう。
其のケビン氏のお話とはまさにさうした万年筆界の現状に失望させられたか又は疑問を抱いたと云うことなのだらう。
だが彼が凄いのはさうした金持ち優先主義が蔓延する万年筆の現況に対し闘いを挑んだところである。
即ち万年筆の世界を革命したるとの強い意志でもってして彼は立ち上がった。
其の革命と云うものにはそも根拠があるものと今の私は見て居る。
政治的な権力は腐敗し易く其れも保守の名の下に胡坐をかき続ける権力者はやがて一部の特権層のみが生きるに値する価値ある人間であるとさう見がちなのだ。
また天皇制などでも幾ら今上天皇が善人でもって山がお好きな良い方なのだとしても彼ー彼と私は同学年だーの娘は幾ら頭が良くてもまさか天皇にはなれぬのである。
そんな訳でいつしか保守体制の部分には矛盾が蓄積し制度的にグズグズとなって仕舞い易いものなのだ。
保守の立場に胡坐をかくとはそんな特権意識の部分に胡坐をかき既得権益を守り美味い汁を吸うだの、或は豪遊して酒池肉林だのそんなものにばかり群がりたがる悪い人間の巣窟をいつの間にか築き上げて仕舞うことだ。
さうか、では革命だ。
此の際間違いなく革命だ!
やうし、では早速万年筆を革命したったぞ。
印度の万年筆を是非とも民衆の手に。
労働にて汚れし其のゴツゴツとした汚い手に此の美しき清き万年筆をしかと握らせるのだ!
欧米による其の汚れた価値観。
収奪し搾取し人を人とも思わず奴隷化し生き血を啜る其の強欲さと無慈悲さ。
おおまさに今其れに対する怒りの声を上げよ。
とのことでケビン氏はまさにたった今其の革命を断行中なのだ。
The Story of Fountain Pen Revolution - YouTube
The FPR Collection by Fountain Pen Revolution - YouTube
かうしてズバリペン革命である。
航空便58SL万年筆–万年筆革命 (glopalstore.com)
此の万年筆はClickブランドでも販売されて居り其れを私が得たのは壱年程前のことだった。
大振りのペンで決してチープな物では無いのに値段は弐千円程。-私はイーベイの方で得たのだったが送料込みでも弐千円程だった-
まず此のペンに私は完全にしてやられて仕舞う。
値段が安いからと言って決して悪い物では無くむしろ良いと思わせられる物が世界にはあるものなのだ。
尤も此のペンは現在オリジナルの状態で使っては居らず特殊な仕様へと改造を施して居る。
だが数本は欲しいペンである。
イーベイの方にはすでに無くつい先日ようやく此処で発見した万年筆だ。
クリック竹万年筆–万年筆革命 (glopalstore.com)
其の半年後に此のタイプのClickに惚れ込み、此れよりも少し高級なエボナイト軸の物を求めた。
其れでも値段は確か弐、参千円だった筈。
軸は工作精度が高く出て居り全くもってチープな物では無い。
むしろずっと使えさうな良い作りのペンなのだ。
私は此の弐本にこそスッカリやられて仕舞い其れまで何処かに持ち続けて来た所謂常識としての「高級な万年筆観」の部分を根底から揺さぶられた気がしたものだった。
つまるところ其の高級さとは高級な品にあるばかりでは無くかうして廉価品にもしかとあるのである。
其れも其の筈で、値段が安くともユーザーが満足する万年筆を目指し此のClickのペンが元々立ち上げられて居た訳だ。
画像の物はアクリル系の材の物であらう。
現在印度の万年筆が使って居るアクリル材は品質が向上して居りしかも色彩の方も美しく申し分無い。
おまけに値段が安いのである。
ちなみに彼ケビン氏がさうして万年筆を「革命」しやうとして印度の弱小メーカーを束ねプロデュースされて居ることを今月初めて私は知った。
故に其の試みのことに就いてはまるで無知であった訳だがかうして何故か元々「関係」はして居た訳なのだった。
要するに私には長年の間に培った筆記具愛好家としての鋭い嗅覚、直感のやうなものが常に働いて居る訳だ。
其の直感が此の印度のペンを買えとさう命じるので誰に言われずとも其のペンをもれなく買うのである。
さて、印度の廉価万年筆のペン先はスチールペン先で概ねチープな物が付いて居る。
だから確かに其の侭ではなかなか愛好家が愉しめるところまでは達して居ない訳だ。
但し此の弐本には其の侭でもイケそうな良いスチールペン先が付いて居た。
事實私はエアーメイルのタイプの方をオリジナルの状態で壱年近くも使った。
と云うことはまさに其れでも不満は無かったと言うことなのだ。
なのだが實はどうしてもやりたいことがあって其のペン先を巨大な金ペン先へと今年変えて居る。
また竹タイプの方には九拾年代のプラチナの首軸及び金ペン先が嵌るので其れを付けて居る。ー元々私はプラチナ万年筆のコレクターでもまたあるー
要するに我我のやうなレヴェルですとついさうして色々とやって仕舞うのではあるが其の軸は一生物としてむしろ大事に扱って来ても居る。
FPRトリベニエボナイト–万年筆革命 (glopalstore.com)
こちらのタイプが先日私がイーベイで求めたオノトタイプの万年筆であらう。
此のオノトタイプには所謂フレキシブルなタイプのスチールニブが付いて居る。
其のニブも決して悪くは無い。
だが特に柔軟度が高い訳でも無い。
私は1920年代以前のフレキシブルニブ付きの古典的萬年筆を五拾本程も持って居るので此のオノトタイプにニブの柔軟性の高さを求めた訳では元々無いのだ。
1.フレキシブルなスチールニブの評価
2.エボナイトの軸の出来
との点を確認せんが為に此のペンを得たのである。
其のエボナイトの軸の出来は相変らず良かった。
其れは印度の職人がまさに手作りにて此のペンを作って居るが故になのだ。
ところが今日本でエボナイトの軸の万年筆を求めやうとすると最低弐、参万、普通で五、六万、高級品だと拾万以上出さぬと其れが手に入らぬ訳だ。
左様に万年筆に於ける「古き良き価値」もまたブランド化して仕舞う訳だ。
一度ブランド化した価値は値下がりなどすることは無くむしろより高価なものとなって行き易い。
だが先進國にはまだなれて居ない印度では其の価値をまさに廉価に得ることが可能なのだ。
で、むしろ壱番の問題は日本と云う先進國では人的合理化が過ぎたこととコロナ禍によりむしろ貧乏が蔓延する方向性にあり、其の貧乏ではまさか日本の其の高く値段設定されたエボ軸の万年筆など買う余裕が無いので必然的に其れを金持ちが買うのではあるが、今や筆記具の時代はボールペン時代へと突入して居りおまけに今の金満野郎共は今七拾、八拾歳に達して居りもういつ死ぬものやら分からぬと云う部分にこそあらう。
其の爺共が死ねばもはや我我六拾代ではそんな贅沢などまさか出来ぬので必然的に日本製の其のお高いエボ軸の万年筆の売り上げ額は近い将来に零円とならう。
故に今ほんたうに万年筆革命が必要なのはむしろかの國日本の万年筆業界なのだ。
そも日本の組織が馬鹿丸出しなのは、さうして価値ヒエラルキーを権威的に構築して仕舞い其の部分に安住して居ると實は大破壊が内部から噴出して来ると云う其の原理のことを考えやうともしない点にこそある。
要するにコレコレかうした理由で良いと決めた価値を未来永劫続けること、要するにいつまでもズルズルと其の侭にやらうとする部分こそが幕藩体制のまた封建的日本的秩序としての最悪の精神性の発露であるとあると云うのにまるで其のことに気付いては居らぬ。
だから幕藩体制ならもう江戸時代までにして置けよ。
今はもう少なくとも近代体制であり近代体制である限り其処には常に革命の嵐が吹き荒れるものだ。
するとアナタ以外の愛好家は皆其の幕府にヘイコラばかりして居る馬鹿の集まりだとさう仰りたいので?
まさか其処までは誰も言うてません。
では愛好家の皆に印度の万年筆をさうして熱っぽく語り買わせやうとして居なさるので?
いや其れは何でかと申せば印度に於ける其の万年筆革命がまさに今危機に瀕して居るからなのだ。
まさに其れが印度型のコロナウィルスの蔓延による危機である。
ランガモデル4エボナイト万年筆–万年筆革命 (glopalstore.com)
ランガモデル5アクリル万年筆–万年筆革命 (glopalstore.com)
ランガスプレンダーアクリル万年筆–万年筆革命 (glopalstore.com)
此のFPRの店では購入出来るのやもしれぬが實は此のRangaの万年筆が今イーベイには出されて居ない訳だ。
此の四月、五月位までは確か出て居た筈なのだがひょっとしたら職人がコロナに感染し販売を止めて仕舞った可能性すらもがある。
ちなみに私は其のRangaの万年筆の大ファンである。
現在拾本程を持って居る筈だ。
尚此のRangaの万年筆も参年程前まではエボナイトの軸のタイプばかりであった。
只現代の愛好家はより色彩の華やかな軸を好む為かかうしてアクリル系の軸のペンを販売し始めた訳だ。
現代人には概ね本質を見抜く感度が欠けて居り往往にして華やかなものに群がらうとするが其れは誤りである。
だからと言ってアクリル軸が悪いと云うことでは無いのだが。
現代人はさうして消費文化に日常的に飼い慣らされることにより物や人の眞贋を見抜く力を本質として失って行く。
だから其の折角の印度の万年筆革命が何やら怪しいものともなりつつある訳だ。
但し逆に此の革命が成功する可能性すらもがまたある。
何故なら何故かみんな金が無い。
其れでも金を持ってる奴等は相変らずブランド万年筆を買うのだらうがもはや其処には万年筆の本質は無くあるのは只ステイタスと自己満足のみ。
だが其のステイタスと自己満足とに執心する位ならまだしも印度の安万年筆にて満足する方が少なくともより理性的だらう。
此の文明が崩れるのは結局さうした価値ヒエラルキーに対する執着から引き起こされることであり其れを食い止めんが為には柔軟に要するに融通無碍に良い物は良いと認め其の良い物を皆の物とする為には革命することも辞さないと云う固い決意のやうなものが必要なのではないか。
其れを何時まで経ってもオリムピックだの其処でのブルーエンジェルスの祝賀飛行などに拘って居るやうではまるでダメだ、まるでなって居ないのだ。
さうして自民党政権は長く保守政治の舵取りを行う事でむしろ日本の将来をブチ壊して来ても居る訳だ。
今だけまた過去だけ良くても将来の無い國でそんなクソ高い万年筆など誰が買って居られませうや?
だから此の際愛好家のみんなでもって是非一緒に印度の万年筆革命を支持しやうではないか。
ついでに日本の万年筆業界も其の根っこから革命したれ、嗚呼其の革命こそが今日本の社會に求められて居るものではないのか。
で、其の先日購入したばかりのオノトタイプの万年筆だが事情があり實はすでにボールペンへと改造して仕舞って居る。
アンタまた一体何をやってるのだ?
かうして印度の万年筆革命を支持し印度の万年筆を愛するとさう宣言したばかりではないか!
いや其れがな、實は夜中に此のペンをじっと観察して居たところ、どうも此のペンは万年筆では無くボールペンになりたく思って居るやうな気がした為に即座に其れをやって仕舞ったのだった。
壱体何をしたのだ?
いや大したことはやって居らず首軸の内部のソケット部品を取り去り軸の内部にJS芯を組み込んだばかりでのことだ。
なのでまた万年筆にも戻せる訳だ。
其れは凄い!
私はかうした私の改造法を「カンタン改造」としてかって掲示板で詳しく述べて居たのである。
嗚呼其れからDude万年筆の方も實はボールペン化して仕舞った。
多分こちらもまた万年筆に戻せる。
Dude万年筆の軸は重めで長い多角軸で實は最初から万年筆の軸と云うよりもボールペンにこそ向いた軸である。
だから少し苦労させられたがJS芯を組み込みスッカリボールペン化したのである。
其のDude改JS芯ボールペンの書き味たるやまた物凄いものである。
此処からもボールペンの軸でもって最高の書き味を得るには細身で長い金属軸とせよと言い得ることであらう。
Clickのオノトタイプの万年筆の方も細身で長い軸だからこそボールペン化したのですね?
まさに其の通り。
實はボールペンと云うのはむしろ筆の運筆を可能とする筆記具であり常に筆記角度が高く保たれるのである。
其の点ではまさに万年筆でのやうな硬筆ペン字による書き方では無くむしろ書道的な運筆さえもが可能な筆記具なのだ。
だとすれば逆に筆記スタイルの点では或はボールペンの方が万年筆よりも東洋的なものなのか?
運筆の面ではあくまでさうなのだとも言える。
ちなみに私は若い頃とある書道教室で課長ーバイトのーをして居たことが壱年だけあったのだが当時からむしろ万年筆よりもボールペンの方が日本語は書き易いとさう思って居た。
故に低粘度油性芯にてまさにサラサラの筆記感となったJS芯でもって其れも其の細長い軸に仕込んだもので書いて居るとむしろ書道のことなどが思い出されてならぬ訳だ。
万年筆は軸を寝かせ水平に運筆するものなので其れは日本語本来の「上から書く」と云う書き方とは異なるものなのだ。
但し万年筆でも柔軟なペン先付きの場合には其の限りでは無く矢張り筆的な運筆が可能となる筈だ。
いずれにせよかうして個性的な廉価万年筆や印度の手作り万年筆程何かと役に立つものは無い。
であるからこそ是非印度の万年筆革命を支持したいのであるし且つ其れ等を求め続けて行きたい。
個人的に是非コロナに負けて欲しくは無いのはかうして無理矢理オリムピックをやる保守政党が思い描く日本としての未来のあるべき姿などでは無くまさに印度の万年筆革命としての輝ける未来である。
ーと云うことは此の日本でも矢張り政治的制度的な「革命」こそが求められて居る訳だー