ヤフオク! - 万年筆【JINHAO/ジンハオ】100 ブラック モザイ... (yahoo.co.jp)
其の中國の万年筆は参年程前にJINHAO-金豪-の物に凝りました。
尤も廿~拾五年位前に凝って居たのはHERO-英雄-でした。
当時は英雄にも色々なタイプの万年筆がありましたがオープンニブのタイプの金ペン先は非常に良い物でした。
其れでもって私は今でも廿本近くの英雄の金ペン先付きの万年筆を使って居る。
但し当時の英雄の万年筆の軸は良いものではありませんでした。
ハッキリ申して当時の伊太利亜と中國の万年筆の軸は壊れ易い物が多かったやうに思う。
但し其れには個性があります。
また其れは米英の万年筆とはまた違う強烈な個性です。
ちなみに私の場合は元々米英第一主義ではありませんのでそんな個性的な万年筆が特に好きだったのだと思います。
当時の英雄の万年筆の金ペン先は、欧米のメーカーの金ペン先とは異なり謂わば筆的な感触が何処かに残るものでした。
其れは超柔軟だと云うことでは無いのだが柔軟性も有して居ました。
但し日本人は共産主義中國のことが大抵は嫌いなので米英第一主義、洋物至上主義の愛好家は其れこそ中國の万年筆をハナから馬鹿にして使わぬ訳です。
ですが私はむしろ仮名だの漢字だのが最も書き易いのは英雄の金ペン先だとさうも思って居ました。
日本の筆記文化はそも其のやうに米英や欧州とはまるで異なるものです。
ところが日本の愛好家のみんなが好きなのは独逸の万年筆だの米國英國の万年筆だのばかりなのでした。
独逸の万年筆だの米國英國の万年筆だのには勿論良い物があります。
なのではあれ其れは絶対の価値だとは言い難い訳だ。
其れは文化的伝統が異なると云うところへと最終的には集約されて来るだらう問題です。
尚私は筆文化、所謂書の世界が好きです。
元々文人墨客の世界と申しますかかの明窓浄机の世界に憧れて居りまた思想の面でも所謂老荘思想には参拾代の頃に特に親しみました。
で、ふと気付きますとかの荀子とほぼ同じやうな社會性悪説を自分でもって考え出して仕舞って居た訳であります。
そんな訳で東洋の思想、東洋の文化にも縁が深かった私はストレートに欧米の文物に対し其れを崇拝して居た訳ではありません。
だからと言って欧米の文物を否定して居る訳でも無く他方ではむしろ其れにもドップリ浸かって仕舞って居た訳だ。
ですがさうしてチャンネルが多いこと、要するに見詰める方向性が大抵は弐極を同時に眺める私は一つの方向性だけで其れに満足すると云うことはむしろ出来ぬ訳だ。
また其れは物であれ思想であれ常にさうなのだ。
其れは私が一方向だけから見て何かを判断しないと云うことを指し示して居ます。
一方向だけから見て何かを判断すると大抵は独善に陥る訳でだから日本萬歳!だとか或は其の逆に共産主義萬歳!などとは考えて居らず逆に其の壱方向性に拘る奴等は馬鹿の特徴を色濃く備えて居る、などとも實は考えて居ります。
逆に申せば理性とは其の矛盾に挑み続ける何かであると云うことでつまりは其処でもってどうにもならんものをどうにもならん侭に悩んで居る事こそが理性であることの証明なのだ。
其れを大抵は其の矛盾に耐え切れなくなりそんな矛盾苦に苛まれる理性であること、悩む知性であることを放棄して仕舞うのですがまずはソコんとここそが誤りなのだ。
ですから知性とは悩むことなのです。
悩まぬ奴は馬鹿でだからこそ悩まぬのです、いや悩めぬのだ。
私がかうしていつも知性的なのはさうして私が常に悩んで生きて来たからのことだ。
「人間とは悩む葦である。」
だから悩まなくなったら人間はお仕舞いです。
イザ悩まなくなったら人間は獣以下の生命と成り果てませう。
つまりは悩む奴は相当に人間的な奴だと云うことです。
さうして人間は観念的に苦しんでナンボの者である筈です。
左様に知性とは多方向から物事を捉え其の矛盾に苦しめられること其のものだ。
だから信ずるに値するものはコレだけだと思って居るうちは君は其の眞の知性へはまるで達して居らぬ訳だ。
で、九拾年代の英雄の金ペン先はまた日本の筆の軸だの印度の万年筆の軸だのに何故かピタリと合います。
要するに当時の英雄の軸の出来は良く無いので軸を変えてやるとペン先が其の本領を発揮する訳です。
尚上でもってWANCHERのOさんが書かれて居ますが、
ーこのブランドの面白さは、精度が高いこともそうですが、なにより、
中華民族の悠久の歴史ときらきら光る伝統の文化・伝統芸術の造旨を探求し、
金豪万年筆の中に、独自の技術として織り込んでいくことを目標としている点です。ーヤフオク! - 万年筆【JINHAO/ジンハオ】100 ブラック モザイ... (yahoo.co.jp)より
とのことです。
ひとつにはたとえ安物でも決して作りは悪くないと云う点です。
かっての英雄とは異なり軸も悪くは無いのです。
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私は此のペンを四年前に弐本求めましたが現在でも充分に使えて居ります。
但し此れは充分に重いペンです。
然し携帯し何処かで落とすとデカい音がする為ソコが實は大変便利です。
また落として無くなるにせよ余り苦しまなくて良いところなども至極気に入って居ります。
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しかもかうして色とりどりのペンであり安くてしかも綺麗なのです。
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其の中華万年筆趣味は最終的に此のゴテゴテの龍、鳳凰装飾物趣味へと陥って行った。
此の種の物を五本も求めしかも其れを携帯などもしても居りました。
此の種のペンは軸の装飾部が鋳鉄製なのか頗る重く一番重いタイプのJinhaoで117グラムもあるのです。
要するに明らかに所謂文鎮万年筆です。
文鎮の代わりにもしかとなる奴だと云うことです。
なのですが其の個性たるやまさに半端では無い。
バカバカしいものも此処まで行くと逆に見事であり其処に何やら感銘さえ受けて仕舞うものです。
また其の鋳鉄?の意匠は決してチープではありません。
あくまで重厚でもって精密に鋳造されて居りまるで悪くは無い仕上がりなのです。
但し全体としてはつまりはクソ重いと云う個性が強過ぎるペンなのだ。
かうした極端な万年筆が意外と私は好きです。
要するに其処に主張が強くあるが故に好きなのでせう。
さてクソ暑いにも関わらず日々私は掃除に精を出して居ります。
兎に角拾年振りの大掃除なので出て来るものが沢山ありむしろ其れを愉しみつつやって居る訳だ。
最も大変なのが筆記具の整理と服の整理です。
尤も大事な萬年筆に関しましては私も一応此処までの蒐集家ですので杜撰な管理はして居らず其れは全て専用の桐の小箪笥の中にしかと保存されて居る訳です。
萬年筆だけでは無く大事な銘木ボールペンの方も其処に確かに保存されて居る。
尤も其れ等は基本的に使いません。
私はさうした保存の価値、使用しない価値を筆記具に認めて居ります。
逆に使うペンは机上のペン立て及び机上横に設えた収納ケースー数十年かけようやく探し出した書類収納ケースーに参百本程入れ其れ等を意図的に日々使って居ります。
今回あれこれと整理して居たところ弐本面白いペンが出て来て、壱本はかって萬佳さんより求めた銀色をした長い軸の龍物でありいまひとつはモンテグラッパのシガーでした。
但し此の弐本のペン先はかって改造に使用して居りすでにありません。
其処でフィードーペン芯ーを替えスチールニブを組み合わせ其れ等に付けましたらところ素晴らしい付けペンーDip Penーが出来ました。
但し其の細身の龍物の軸はボールペンに改造してみても面白いのかもしれません。
ボールペンは細身で長い軸が向いて居り且つ重い軸の方が書き心地の方は良く感じられるものです。
シガーの方には金星のスチールニブを付けてみましたが此れは此れでなかなか良い。
但し其のDip Penと云うのは万年筆のことではありません。
其れ即ち万年筆以前でのペン筆記に用いられて居たアノインク瓶に直接ペン先を浸し書く書き方のことです。
拾年程前から古典的な筆記のあり方を追及した私はやがて此のDip Penの世界にも深く関わることとなりました。
Dip Penの世界とは明らかに西洋骨董趣味即ちアンティークの世界のものなのですが其のペン先をインク壺に付けて書くと云う原始性、非合理性の部分が一種書道などにも繋がる価値観を形成しさえもするのです。
其のDip Penの世界まで遡る筆記の愛好家は現代では極稀なことかと存じます。
ですが私はかうして西洋の書道即ち硬筆習字の世界にも大きく関心を抱いて居た訳だ。
其処をより分かり易く申せば所謂カリグラフィーの世界のことです。
欧米にも書道はありまさに其れが硬筆習字なのです。
ですが私に其のカリグラフィーの心得があると云う訳では無く其れを良く知る訳でもありません。
只私には中國発祥の筆を扱う最小限のテクニックだけはあると云うことなのです。
ですので、文字を書き記すことの上での表現としての其のかっての美しい筆跡の世界に憧れても居た訳だ。
洋を違えるとは言え万年筆の愛好家が好む柔軟なペン先とは本来ならばむしろ其のことの為に存在して居た筈です。
なのですから現代の筆記の愛好家が「書き味」を求める為だけに柔軟なペン先を求めるのは本質としての線描を忘れた本末転倒の解釈である、と云うやうなことさえをも述べて居りました。
私はかうしてストレートに何かー特に組織や風潮だのーを批判することが大得意なのだ。
故に私は今でも其のDip Penの世界を愛して居ります。
机上にはいつも重厚な六角の大きなインク壺を置いて居り其処にペン先を浸しつつ其の原初的な形でのペンの筆記を愉しむ訳だ。
インクの色はパイロットのブラック一色です。
かっては逆に数拾種類にも及ぶカラーインクを用い万年筆にて色とりどりの筆跡を書き描いて居りましたが拾年程前から妙に偏屈となり何とカラーインクを全否定して仕舞ったのでした。
華美なカラーインクを使うやうではまだまだ筆記と云うものがまるで分かっては居らぬ。
などと勝手に考え始め兎に角偏屈でもって融通の利かぬまるで古の西洋の文人の如くに其の厄介な筆記世界へとのめり込んで行ったのでした。
いや西洋に限らず東洋でも文人は皆気難しい人が多く其れは元々庶民のレヴェルのものではありません。
其のDip Pen化すると云うことはむしろ過去を見詰め其処にあえてさう限定して居る訳です。
とりあえずは進歩の埒外に逃れることで価値を過去側に振りむしろ其処に「求め無い価値」、「求め過ぎぬ」価値を+として体感すると云うことなのだらう。
例えば常に忙しい現代人は一日海で泳いだり山へ籠ったりするとむしろ精神的に其処で解放される筈だ。
要するに其処には常に忙しくは無い部分での価値がしかと拡がって居る訳です。
また筆記の世界にせよ其のことはあり、情報として個を規定せんが為の諸の書類への記入もあればそんなゆったりとした気分での趣味的な筆記の追求の世界もまた他方にはある。
筆記すること自体を愛好する我我筆記具愛好家は勿論後者での価値を重んじて居る訳だ。
ですが筆記具はまた進歩するものです。
要するに筆記具には社會性が組み込まれて居る。
なので筆記具は社會のあり方の変化と共に其れ自体が変わって行くものです。
ですので社會がスピードアップされた今、価値がより抽象化され観念化ー幻想化ーされた今其処で求められて居るのはボールペンによるより合理化された筆記である。
なんですが、實はボールペンでも愉しめると云うことを私は述べて来たのです。
ですがかうしてキーボードを叩くことで「書き味の良さ」を愉しむことなどは決して出来ません。
其れは情報機器に関するものが須らく合理化されたものであると云うことを指し示して居る。
だがさうして合理化され数的還元処理されし価値に果たして人間の實感としての愉しみが生じ得るのか?
文明の進歩により圧迫されて行くのはむしろさうした實感を伴う部分での感覚的な歓びのやうなものなのではないか。
實感を伴う部分での肉体的感覚的な満足が次第次第に圧迫されそんなストレスフルな状況へと追い込まれて行く訳です。
其のストレスフルな状況から筆記具愛好家はまさに筆記することで逃れやうとします。
其れは筆記すること自体に肉体的感覚的な要素が多分に組み込まれて居るからなのだ。
筆記はまた観念とも多分に結び付いて居る。
筆記即観念であり観念即筆記なのでもまたある。
「人間は考える葦である」
考えぬ人間はどんな動植物よりもタチが悪いと云うことを述べて居るのだと私は思う。
故に人間は理性をフル回転させ常に正しい選択を行えるやう其の都度意思決定して行かねばならぬ。
動植物達に筆記具が要らぬのは其れは考えぬ生き物だからであることに他ならない。
動植物はさうして本も読まず筆記具も使わず毎日が日曜日で何やら樂さうで良い。
だが筆記具に嵌る歓びの世界を彼等は知らぬ。
思考三昧して苦悩し絶望する其の素晴らしい理性の悩みの世界を彼等はついぞ知ることが無い。
だがイザ人間と生まれたからには徹底して考えてみよ!
其れももう徹夜でもってして考え其の考えをノートに纏めて提出しなさい。
「人間は考える葦である」からこそ筆記具が大事なんだ。
恋愛よりも何よりもまずは筆記具が大事だ。
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個人的には私は今コレが欲しい。
此の白く穢れ無きペンでもって是非宗教を讃美する詩でも書いてみたいところだ。
もしやコレをまたボールペン化することを考えていませんか?
まるで考えては居ません。
考えては居ませんが、他の改造は考えて居ます。
丁度本日もつい先程古いプラチナのリヴィエールが弐本出て来たのでまずは壱本をボールペン化したところです。
此れと同じ物ですが銀無垢軸では無く銀張り軸だと思われます。
私が若い頃に好きだった万年筆ですが弐本ともすでに可成に黑変して居ます。ー銀の硫化によるものー
細身の金属軸ですのでボールペンの軸には向いて居る。
其処にJS芯を組み込み安物ボールペンの金属性の首軸を付ける。
すると何とも言い難いやうなまろやかで且つ滑らかな書き心地がする。
JS芯は其のまろやかさを選ぶなら0.7ミリ芯で筆跡の美しさを選ぶのであれば0.5ミリ芯の方でせう。
尚先日ボールペンの芯が切れまたイオンへ出向きましたところ、JS芯の横にパイロットのアクロボールの芯が売られて居たので其れも求めて来ました。
組み込む軸の方の形状によりJS芯が入らぬことがむしろ多くそんな時に此のアクロボールの芯は重宝しさうです。
筆記具愛好家はこんな具合にふと気付くと毎日筆記具のことばかりをやって居たりもまたするものです。
だからまさに其処が馬鹿なのですが、馬鹿は馬鹿なりにさうして筆記浪漫の世界に生きて居るのですから是非馬鹿にしないで頂きたい。
同じ馬鹿でも👩や酒、其れにギャンブルなど危険なものに凝りますともうとんでも無いこととなりませう。
ですが筆記具愛好家は、かうして独り静かに、
「カリカリカリ」とDip Penにて硬筆の御習字をして居るだけのことなのです。
平和、さう、何より平和だ、おおまさに其の戦闘機だの爆弾だの特攻だのと云った世界とは対極の価値だ。
夜中に机上で「カリカリカリ」とな。
然し暗い趣味だな。
さうでは無い。
其の暗いのはな、いや暗く見えるのはな、其れは理性の特徴なのだ。
理性とはな、さうして暗いのだ。
さうして暗いから、考えられる。
暗く無い奴はそも何も考えぬ。
だが其れは極めて危険な兆候だ。
人間は何でも出来る、さうだ、やったれー、不可能への挑戦だー。
でも其の思想はオカシイ、間違ってる。
と云うことが其の「カリカリカリ」から分かって来るのだ。
だから筆記具とは、
「考える葦である人間の為の必須のアイテム」なのさ。
さうだった。
腕時計もまた二つ程出て来まして、また其れが不思議なことに動くのです。
ですから壊れて動かぬから捨て置いて居た筈のセイコー5スポーツオートマティックが何と生き返ったのであります。
實は二年程前に生き返らせやうとして居たものでしたが結局途中で動かなくなるのです。
ですが今回は本当に生き返ったやうだ。
腕時計の其の「コチコチコチ」と云う針の音、此れなどもまた乙なものです。
ですが本質的にはペンの方がより理性的な物でせう。
何故ならペンは何かを書かぬとまるで意味を成さぬ物だ。
腕時計はさうして見て触って音を聞くだけのものですので受け身での物でもある。
ですが共にまさに🐈にとっての小判のやうなものだ。
其れは意味不明な反自然物でありまさに人間の営為ー観念的なまた時間的なーを満足させる為に用意される物だ。
即ち自然には決して手の届かぬまさに癖のある人間の為の観念に対し付属する物だ。
であるからこそ愛好家は其れを愛して止まぬ。
人間は決して考えー観念ーを抜きにして語ることの出来ぬ生命なのだ。
であるからこそ人間は観念のあり方を常に正し其れを磨き続けて行く必要がある。
其の道具としての筆記具はまさに観念の代弁者であり同時に其れの忠実な記録者である。
筆記具を愛することとは最終的に其の観念を愛することなのだとさうも言えやう。