目覚めよ!

文明批判と心の探求と

印度の万年筆への熱い思い

 

f:id:animist77:20210705231932j:plain

Click Ebonite Fountain Pen


大島康徳さん死去、70歳 中日で2度のリーグ優勝貢献 大腸がん闘病「余命1年」宣告から4年8カ月

 

いやだからこんな風に人間の寿命と云うものはまさに人により違い、其れこそ昔の藝術家のやうに僅か参拾歳で死ぬる人もあれば九拾までも生きる人も居る。

だが私はまずは還暦までは生きるべきだとさう考えて居たのである。

 

であるから還暦以降の生は其れは余分な生でありまさにオマケみたいなものだとさう考えて置くべきなのだ。

大体天才型の人間はさうは長生き出来ず凡人に限っていつまでもダラダラと生きて居るものなので私の場合はどう考えても前者の可能性の方が高く従って八拾のヨレヨレになってまで生きて居る我の姿などなかなか想像し難いものなのだ。

 

再選の木下富美子都議、無免許運転か 交差点で事故

 

いずれにせよ其の寿命の話とは別に権威や権力の上には胡坐をかかぬ方が良いことだらう。

自分は議員なので偉いだとか、また地位があるので威張っても良いだとかそんな風に社會的に胡坐をかいて居る奴程地獄へ堕ちる時の其の度合いが酷くなる。

 

地獄へ堕ちる奴とはそんな威張る奴のことなのだ。

 

どこやらのカルト詩人も他の面でまさに威張って居るやうだが…。

 

馬鹿者!

あくまで其れは文人としての矜持である。

 

文人はな、まさに遊びでは出来ない仕事だぞよ。

其れも命を懸けてな、やらねばならぬ事業だぞよ。

 

 

「三島喜美代 命がけで遊ぶ」 - 日曜美術館 - NHK

 

昨夜はこちらの番組を視感銘を受けた。

此のアーティストの婆さんは家の母と同年代なのだけれどもこんな高齢でも一級の藝術家として活躍して居られる。

 

さても藝術とは一体何なのだらう?

たとえ藝術は無くともかうして腹は減り飯を食う訳だがもしや心の飢えを充たす為に其れはあるのやもしれぬ。

 

藝術はまた観念は齢を取らぬ。

肉体はかうして劣化して行く訳だが藝術家や哲學者となるのはたとえ八拾歳であれ可能なのだ。

 

だから藝術とは純粋に人間的な営為である。

其れ即ち観念のなせる技なのだ。

 

 

時代が生んだ「情報の化石」。女性アーティスト・三島喜美代の作品が公開中

三島喜美代 今、世界が熱視線を送る作家 | 富裕層向け情報 現代アート投資 - ENRICH

 

藝術はまた金と結び付き易い。

金と結び付いた藝術は或は堕落するのやもしれぬ。

 

其れも体制と結び付いた藝術が墜落するのと同じで要するに不純なものとなり易いのがメジャー化された藝術なのだ。

 

だが藝術にもまた色々とある。

 

三島氏の藝術はまた即物的に現代の不安、近代社會に潜む危うさをストレートに表現して居る。

其の即物的になり過ぎた文明への批判や危機感が其処には込められて居るのやもしれぬ。

 

また其ればかりを一貫してやって居られる点こそが女性的な律義さなのだとも思う。

 

また藝術は麻薬のやうなものだとも仰って居る。

まさに其れからは逃れられぬのが藝術家なのだと。

 

 

我もまた感度の部分で表現したい部分が無いでは無い。

だが私の場合は絵や造形や音樂の方へは向かえなかった。

 

私の場合にはあくまで文の世界なのである。

其の文の世界は何かと七面倒臭くより間接的な表現の世界である。

 

 

さう云うのよりはもっともっと解放されたいと云う気が何処かにある。

もっともっとパッと分かる奴でしかも悩みの無いものの方が良い。

 

でもゲージツ家でしかも悩みが無いのだとするとひよっとして其れはマッド・サイエンティストの場合と左程変わらずつまりはとても危険な存在なのではなからうか?

特に其の思い込みが強いと云う点でまさにさうなのではないか。

 

要するにキチ○科学者とキチ✖藝術家はほとんど同類のやうに思えるのだが果たして其処はどうなのだらう?

 

まあ仰る通りでキチ○科学者の群れは地球を破壊ししかも其の大罪を省みぬ訳です。

またキチ✖藝術家の群れは俺らはゲージツ其のものだとか何だとか吹聴し訳の分からぬ駄作を羅列し其処に危険思想さえをもしかと込めて置くものだ。

 

でも貴方方はそんな魔道に堕ちること無くさうして日々生活に追われて居るのですから其れがむしろ幸せだとさう申して居るのです。

 

幸せ?

すると幸せとは何も知らずに生を終えることなのですか?

 

さうです。

むしろ何も知らぬ方が良い。

 

さうしてキチガイなどにはならぬ方が良い。

 

でも凡庸であることは哀しいことでもある。

知る者は常に苦しく其れは理系でも文系でも何系でもまさに苦しいことなのだから。

 

 

 

さてまさしく印度哲學中の我に合わせてか印度から万年筆が届き其れが如何にも印度らしい訳の分からぬペンでした。

印度のペンは左様に分かりにくいところこそがまさにサイコーです。

 

かうして印度人が其のエボナイト軸のペンを作る。

其れもかの印度のことですから🏭が其れを作るのでは無くまさに印度人の手が其れを作るのだ。

 

しかしながら其の印度人の手には印度哲學としての血統が脈々と受け継がれておる。

 

其れによりとどのつまりは欧米の価値観からはどうしても外れて仕舞う。

如何に英國の価値観が混じって居るにせよ印度人の其の哲學的本質は変わることが無い。

 

 

だから我我は其れを手に取った瞬間、???と必ずや思うことであらう。

なのだが印度ではむしろ其れは常識の範囲内でのことなのだ。

 

第一印度人の家には便所が無いと云うことを聞いたことさえもがある。

 

 

なぜインドのトイレ普及率は5割以下なのか | アジア諸国 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース

なる程、さうだったのか。

 

ヒンドゥー教では「浄と不浄」という観念が強く意識される。物理的な清潔、不潔とは異なるものだ。神聖視する牛のふんは不浄とみなされず、宗教儀式や日常の燃料として重宝される。一方で人の排泄物や汗などは不浄とされる。カーストも浄と不浄に基づき、最上層は浄とみなされ、下層の人は不浄とされる。古代インドの経典には「大小便に用いた水は家から離れた所で処理すべきである」と記されている。ー

「家から離せ」ヒンドゥーの教え トイレが遠いインド:朝日新聞デジタルより

 

ウンコやオシッコは必ずしも印度に於いて嫌われて居ないにも関わらずかうして「大小便に用いた水は家から離れた所で処理すべきである」なのである。

ところがかって日本でも便所は家の外にあった訳だ。


半世紀以上前の母の實家ー名古屋市南区星崎町ーで實際に私は其の家の外の便所を使用したものだった。

其れと我が家は五拾五年程前までまだ汲み取り式の便所であった。


従って私もまた其の便所を小学生の低学年の頃まで使って居たのである。


しかしながら其の便所はとても臭いのである。

しかも蛆が涌くのである。

便所の壁やら便器の周りに其の蛆共が自然に涌き出て来るのである。


故に我の實感として其の意味での不浄を放逐した近代文明の力は認めざるを得ない。

然し何故か近頃其のとんでもなく臭く汚かった便所のことばかりが思い出されてならぬ。


 

ー「水洗は便利なシステムかもしれませんが、聖なるものではありません。野外で用を足せば、太陽の暑さによって肥料になり、微生物が分解して姿を消します。水洗は乾燥できず、いつまでも汚いものとして残るのです」
 「彼ら(ダリット)が汚く、差別されて然るべき存在というわけではありません。社会がそのように区別していただけで、彼らも喜んでそうした仕事をしていたのです」ー

6億人がトイレのない生活をしている国 『13億人のトイレ』 | BOOKウォッチより

 

此のヒンドゥー教の高僧の発言によればむしろ野糞、立小便こそが大自然と一緒になり生きる術だと云うこととなる。

尤も其の高僧も自らの家に水洗トイレを完備して居たさうであるが思想としてはあくまで其のやうにウンコやオシッコが肥料となり自然消滅する方法の方がよりスマートな汚物処理としての方法である。

 

また一面では其の野糞、立小便こそはとても気持ちが良いものである。

實は我も昔は山の中で良くウンコを垂れたりションベンしたりしたものであったが兎に角其れはサイコーに気持ちが良かったのである。

 

逆に申せば其の野糞、立小便の愉しみを滅し合理化して仕舞ったからこそ都市生活は綺麗でスマートなのだけれども何かが物足りぬのだ。

其の綺麗だけれども何かが物足りぬのは欧米による近代合理主義文明の癖のやうなものなのではないか。

 

女性に危険が迫る「インドのトイレ事情」とは | ハフポスト

いやそちらの方面のことは良く分かりませぬがもしやアノ顔が黑めの印度人は性欲の方が強くあるのでせうかね?

 

要するに其の印度が欧米型の文明をやり近代を受け容れたと云うのにいまだかの國はウンコを垂れたりションベンしたりするのに至極困る國であると云うことなのだ。

 

其処からすると日本はまるで違うねえ。

特に最近都會は綺麗過ぎるのではなからうか?

 

さうかと言って何かと神経質な我は綺麗な便所でないと使えない訳なのですけれども。

 

嗚呼何せ我は感覚が細かいのでむしろ👩に生まれて居たらおそらく物凄い良妻賢母となって居たことであらう。

何より其処が少し惜しい。

 

 

ところで其の印度の万年筆は何処がどう良いのですか?

 

一言で申せば合理化されて居りません。

故に所謂アイ・ドロッパー(点眼式)の原始的なインク供給方式を採り筆記感をも含めてよりストレートであり其れが原初的に味わえるものだ。

 

然しそんな印度の万年筆も次第に合理化されつつある。

例えば両用式などのより近代的なインク供給方式とし現代社會ー都會ーに合った物へと変化させて居るところです。

 

ところが其れをすれば本来の印度の万年筆の魅力である素朴さや応用力の幅広さが減じて仕舞うことともなる。

要するにさうして全ての価値は変われば変わったで全的に其れが良くなるものでは無くむしろ破壊される面が生じて来る訳だ。

 

印度人の思想もまた其のやうにいつしか合理化されて行くのですか?

個人的には大きくは変わらない方が良いやうにも思います。

 

私は日本人の精神は大きく変わったとさう最近感じて居る。

其れは合理化されたと云うことに尽きるのではなからうか。

 

彼等は今合理化された価値による価値ヒエラルキーを築き其の内部でのみ価値を決めつつある。

 

だからこそ想定外の出来事には脆くも崩れ去りまた数的還元された価値には如何にも弱い。

また権威や権勢、権力に抗する反骨心さえをも失って仕舞った。

 

むしろ其れは視野狭窄によるものなのではないか。

 

其の昔ながらのエボナイトの軸のペンにせよ、かっての日本のペンはまさに其の古き良き素材にて作られて居た訳だ。

だが今や其れは稀少な高級材となり日本や欧米のエボナイトの軸のペンは高級万年筆となり兎に角皆其の価格自体が高いのである。

 

だけれども印度のペンはまた其れとは違うのである。

つまりは弐千円、参千円でもって其のペンが得られる訳だ。

 

 

そんなに安いのはモノが悪いのでは?

 

いや其れが決して悪くは無いのである。

何故なら其れは印度人の職人さん方が丹精込めて作った壱本の作品だからなのだ。

 

つまりは手作り品なので?

さう手作りの品なのだ。

 

 

此処五年程私はさうして印度の万年筆をあれこれと集めて来た訳だった。

rangahandmadepensと云うところのペンを主に集めて居たが、其れが今年に入りどうやら辞めて仕舞ったやうである。

 

或は印度型のコロナに感染したのやもしれぬ。

また米國でも有名な五つ星のアンティーク・ペン店があったのだけれど其れも今は世界オークションには出して居ないやうだ。

 

Vintage Fountain Pens  (fivestarpens.com)

うーむ、どうも店の方はやっては居るやうだ。

 

Ranga - Page 1 - Peyton Street Pens

あれ、さうか、此処にもあったのだな。

 

其の印度のRangaの手作り万年筆だが、矢張り五年程前からだらうか、此の米國のペン屋が其れに見惚れ自分の店用に改造して売ったりもして居る訳だ。

だから本家のRangaー父と息子でやっているーがたとえコロナにやられてもペイトン・ペン屋の方が復活したのでRangaの手作り万年筆の在庫があると云う話のオチである。

 

さう實は其のペイトン・ペン屋の方も米國で猛威をふるったコロナにやられたのか確か昨年は探しても出て来なかった筈なのでおそらくは生き返ったのであらう。

とのことで、こんなペンの世界のことでもコロナにより激動の時を迎えておったと云う話だった。

 

 

今回のペンは思ったよりも細く長い軸のタイプでまるで昔のオノトの如き姿をした一種マニアックなもので弐本で大体五千円弱である。

 

壱本は改造に回そうかとも考えて居るところである。

teal-blueと云う其の藍乃至は紺の軸色が素晴らしく、其れは以前求めたteal-blueの別のタイプの軸に感動し更に求めたものであった。

 

緑色の方は印度の万年筆に良くある色だが此れはリップルーさざ波模様ーがむしろ無い方が良いやうだ。

印度の万年筆の軸は和の感性からすれば柄が少しウルサイ感じもまたする。

 

日本人は何せ感性が細かいので其処は少しく彼等とは感覚が異なるのやもしれぬ。

だが印度の万年筆はコスト・パフォーマンスに優れる良いペンである。

 

壱番良い点が其処に手作りのペンのぬくもりのやうなものが感じられる点なのだらう。

だからRangaには早く復活して欲しいところであるが或は復活はもう無いのやもしれぬ。

 

物もまた人なども全ては一期一会での出遭いでのことであり、先のことはもはや誰にも分からない。

だが五年間に及ぶRangaペンとの付き合いはさうして丹精込めて彼等が作って呉れた万年筆は記憶として残り且つ物としてずっと残る。

 

人間にはいつかは何かとの別れの時がやって来る。

勿論其の場合にも、記憶や其の思いは失われたりはせずにずっと残るのだ。