目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

夏休みとしての七月を樂しく過ごす法

安倍前首相「反日的な人が五輪開催に強く反対」 月刊誌の対談に

 

かうしたことを言うしか無い安倍氏は何せ頭の出来が悪いのでむしろ可哀想である。

是非同情申し上げておきます。

 

其の反日と云うのは儲け主義にかまけて日本の自然を壊す奴等を反日と云うのであり🗾社會を正しく革命へと導き自然を守り良い國にしやうと云うマルクス主義者の考えなどは如何にも愛國者であらう。

だから安倍氏は兎に角頭が悪く、そればかりかアノ🐊麻生氏などはもっと頭が悪く、さらに其れに加えかの小泉の如きタワケの血が入るともう信じられぬ位の阿呆のオンパレードとなって仕舞い其れでは政治の意味其れ自体が無くなって仕舞うではないか。

 

どだい官僚なども頭が良いとされて居るのだが最近は國のことを想わず自己利益にばかり群がるやうな輩が出て要するに頭だけは良いのだが心の方がなって居ないのではないか。

 

其れは多分自民党の政治が腐って来たことの何よりの証拠だらう。

さらに言えば其れは江戸幕藩体制がもはや通用せぬと云うことをも指し示して居る。

 

 

だからどう考えても此の際マルクス主義の重要性を是非學ばねばならぬのではないか。

 

 

NHKオンデマンド | こころの時代~宗教・人生~ 「あなたを知ってしまったから」

昨日此の番組をEテレにて視聴し日本社會と云うか資本主義が抱える暗部の部分を痛感させられた次第である。

問題は其の安価な労働力として高度経済成長を支えた東北からの出稼ぎの方々が高齢となり且つ社會の不安定さもありホームレス化しかうして大都市圏でホームレスとして野垂れ死んで行くと云う其の事實であらう。

 

NHKオンデマンド | 福島モノローグ

次に此の番組を視たが、視るなり即感動した。

此の人は都市部の土方仕事にかって従事した福島人であり年齢は私と同じ61歳である。

 

で震災以降🐂や🐕や🐈を救う為に避難勧告を無視し地元に残り其処で自給自足の生活を続ける独り者の方である。

此の方は私と違い可成に爺に見えるのだが兎に角畑を耕し🐂の世話をし頑張って居られる。

 

逆に言うとかように土地さえあればホームレスにならずには済むのである。

其れでも生活は苦しいのだと云う。

 

 

然し少なくとも其れが人間的な生き方に見え逆に彼が輝いても見えたのだった。

我我還暦世代が知って居ることとはかっての其の高度経済成長の様である。

 

さうして当時はさほど疑問には思わなかったのだが結局其のホームレスの問題もまた福島の原発事故の問題も結局大都會と云う合理化システムが自然に強いる収奪であり搾取の問題へと帰するのだ。

 

大都會とはさうした偽善だの欺瞞だの兎に角其の価値観が腐ったものであることがかうした番組からしかと分るではないか。

要するに都合の良い部分でやりたい放題に収奪と搾取とを重ね、イザさうして天災だの人災だので都合が悪くなると容赦なく弱い者ー田舎の出稼ぎの奴等ーを切り捨てて行くのだ。

 

 

保守派の抱える問題点とはひとえに其の体制としての腐敗、劣化の部分にこそある。

であるからこそ政治家や官僚は常に理性的に自らのあり方を反省して置かねばならない。

 

ところが其の理性が働かなくなることこそが其の腐敗であり劣化なのだ。

 

行政に限らず立法、司法の面でも其れに携わる者は常に理性的に自らのあり方を反省して置かねばならない。

だが其れが諸矛盾によりやがて崩れ始めて来る。

 

なので其れを批判し正常な状態へと復帰させるのが作家の発言やジャーナリズムなどの文の力なのだ。

かの三島先生が為されたことも結局は其の文による批判であり且つ戒めであった。

 

また立花 隆氏などは臆せず強大な権力と闘い文としての眞實を全うされたのだらう。

 

 

だが個人的にはもはや社會のことなど論じて居たくは無い。

かやうに私はすでに一種の世捨て人なので社會のことなど論じて残り少ない生を終えたくは無い訳だ。

 

だから此の七月のことを是非考えてみたい。

 

私は62年前の梅雨明けの頃に生まれた。

だから此の七月の始めの頃は、私が此の世に生まれる直前の頃で全く不可思議な時節なのである。

 

良いか悪いかで言えば何故か私には良い、さうして優しい季節なのだ。

 

ところが決まって大雨が降る頃で、自然災害などもまた起き易い時節である。

だが一方では七夕や月面着陸のことなども其の七月のことで何故か其のやうに宇宙と関連した時節でもまたあるのだ。

 

 

六月の終わり頃から七月の始めにかけての其の梅雨の晴れ間の陽射しや空程美しいものは此の世には無い。

其れは夏のエネルギーが溜まっては居るがまだ爆発しては居ない自然の様其のもの。

 

イザ其れが爆発すれば猛暑となり植物達も皆其のカンカン照りにやられ決まって元気を失って仕舞う。

だが此の七月の緑はまだ元気でしかも色鮮やかなのだ。

 

だから私は此の季節をこそ愛す。

芽吹く春の歓びよりも色とりどりの秋の訪れよりも何よりも此の不可思議な時節を好む。

 

 

學生の頃には皆夏休みと云うものがある。

此の夏休みと云うものこそが實は大事である。

 

ところが大人になると夏休みも何も無くなって仕舞う。

其の経済成長の為に夏も働く訳なので、日本人は普通三日間だけの盆休みを貰いさうして東北や北海道などから出稼ぎに来て居る人などが帰省する訳だ。

東北や北海道の素晴らしい自然から離れてあえて地獄の如きかの東京で日銭を稼ぐのは如何にも辛からう。

 

いや別に東京だけでは無く関西でも中部でも其れは同じことなのだけれども。

 

要するに金が無いので其れをやるしか無い訳だ。

左様に此の度の官僚の不祥事の問題も其の地方の搾取の問題も全ては其の金の問題へと帰結するのである。

 

 

だが東海地方ー静岡をも含めーは比較的裕福なのだ。

庶民レヴェルでは金が無いと言っても其れは田舎程無い訳では無く事實としてかのTOYOTAやかのイチローなどはむしろ世界壱の金持ちなのだ。

 

だから私もまた貧乏なのであるがすぐに死んじゃう程に困って居る訳でもまた無いのである。

 

 

嗚呼、夏休みが早く来ないものか。

あ、さうでは無かった。

 

さう言えばすでに毎日が夏休みであった。

只其の夏休みも金と体力が無いとジュラシック大恐竜展 | テレビ愛知 だのToyota Municipal Museum of Art 豊田市美術館だのさうしたものを訪れることは難しい訳でだから身近な部分で夏休みをやると云うこととならう。

 

 

サア、其れでは文房具の世界に埋没して行かう。

即ち現實逃避である。

 

其の現實逃避には、金、👩、酒の面で逃避することがむしろ一般的なのだ。

 

だから官僚も金を騙し取り豪遊などをする訳だ。

また👩に惹きつけられることをガマン出来る人などはまず居ない。

 

また酒、此れは仕事中にも関わらず必ずや飲みたくなるものだ。

私の父は其の酒飲みの地方公務員だったが良く飲酒運転でもって警察に捕まりさうになったのだけれど現行犯では無かったので結局新聞沙汰にならずには済んだのだった。

 

で、私の場合は何故か其の三つとはまるで縁が無いと来てる。

 

では何を愉しみに生きて居るかと云うに、其れはまず三島先生だの五木先生だのまた芥川 龍之介先生の文の世界に交わることである。

 

 

要するに読書である、読書。

しかも其れが相当にマニアックな域にも達して居り例えば今読んで居るのは印度哲學の本である。『インド哲学10講』|感想・レビュー - 読書メーター

 

かうして印度の哲學を學ぶことこそが實は今我我現代人に取り一番大事なことなのではなからうか。

でも其れをみんなは決してやらぬ。

 

だからこそみんなはダメなのだ。

 

 

つい先ほども鑑定団の再放送を視つつ飯を食ったが棟方 志功と百隠禅師の絵の本物を私はズバリと当てた。

 

尤もマチスリトグラフでは誤って仕舞った。

但しかうして私は高率でもって絵画に於ける真贋を見極めることが出来る。

 

其れは私が藝術に対する心眼をまさに有して居るからなのだ。

 

 

で、私はかうして日々雨が降る中を一心不乱に印度哲學を研究して居る。

尤も印度哲學を体系的に勉強したことなどは此れ迄壱度も無かった。

 

要するに私の頭の中其のものがほぼ其の印度哲學的なものなのであえて其れを學ぶ必要は無かった訳だ。

 

私の二元論、其の限定的二元論は私が自分の頭でもって考え出したものであり謂わば生きた知識である直観其のものなのだ。

其の点に於いて私の頭の中は決して大衆的なものでは無くむしろさうした先哲による観念的闘争の世界のものなのでもある。

 

私は其れを威張って居るのでは無くどうにもかうにも、兎に角自然とさうした領域へと結び付けられて仕舞う自らの頭の中身が自分でも不思議で仕方が無いのでありまたそんな不思議さは此の七月と云う不可思議な夏の季節と無関係では無いのではないかとも思うのである。

 

要するに私自身が其の七の化身のやうなものなのではあるまいか。

ちなみに私は所謂共感覚者であり数字に色が感じられるのだが其の感覚によれば七月は深いブルーの色をして居る。

 

其の「印度哲學拾講」を読みまず思ったのは自分の思考はほぼ印度哲學による二元論の内容と重なると云う部分であった。

 

いずれにせよ私は文人なのではあってもさうして極めて特殊な方へ頭や感覚が働くタイプである訳でであるからこそ其の部分を世間的なバカバカしいものに振り回されたくは無く要するに邪魔されたくは無いのである。

では「印度哲學拾講」を読んで居て樂しいのか?

 

 

大変樂しい。

つまり君達とは価値観が違うのだらう。

 

ボクにとってみんなが樂しいものはむしろ苦しいもので、逆にみんなが苦しいとさう思うものこそが僕にとっての至福の時其のものなのさ。

 

 

此のカルト詩人めが。

他にもまだ何か隠して居ることがあるだらう?

 

何かをかうコソコソとやりさうして独りで愉しんで居るのではなかったか!

まさに其の通りで御座ります。

 

即ち読書と文房具、此れ等こそがかうして僕を熱中させるものなのです。

では一体お前は今何をやって居るのだ?

 

 

はい、中國の万年筆でもって愉しんで居ります。

 

其れを改造しプラチナのペンの首軸を付けたりパイロットのブラックのインクで軸を染めたりして物凄く満足して居ます。

其の木軸の英雄万年筆は昔ヤフオクでもって何本も得たものですが現在は結局零円です。

 

其れも五年近く放ってあったのでしたが、ふと気付くと木製の軸は今最高に価値のあるものです。

 

科学的に合成された素材よりも何よりも銘木だの金銀だのさうした自然由来での素材こそが眞に価値のあるものなのです。

今私は左手に其の軸を握って居りますが其れは鉄刀木の軸のものだ。

 

此の種の唐木の価値は常に高くある。

然し概ね唐木製の軸は高価となる。

 

 

所謂文明としての価値観、製品としての価値ヒエラルキーに組み入れて仕舞えばまさにさうなる訳だ。

ですが廿年近く前に此れ等を入手した時には壱本弐、参千円だったのです。

 

当時中国製の安価な万年筆はまさにそんなものだった。

然し其の素材が良い=自然が良いから今でも大きな価値を蔵して居る訳だ。

 

 

当時拾萬程も出して買った欧米の万年筆の其の多くは壊れたり売ったりして次第に減って来ても居ます。

 

もしやおまえは親中派なのではないか?

いやさうでは無く欧米の物、また社會制度の全てが上質な価値であるとさう思い込むことは愚かだと云うことを申して居るのです。

 

其の哲學にせよ、印度の哲學は流石に何処までも行って居るものです。

印度にせよ中國にせよ、さうして東洋の文化文物と云うものは欧米の文化文物に匹敵するやうな価値をかっては備えて居ました。

 

で、私が文房具の世界でやって居ることとはまさに其の東洋と西洋との融合なのです。

 

 

例えば分かり易いのは、日本の筆の軸に万年筆の首軸だのボールペンの芯だのを組み込む訳だ。

 

すると筆万年筆だの筆ボールペンだのが組み上がる訳だ。

私はさうした自製の筆記具をこよなく愛する者です。

 

其の筆の軸はかってダイソーでもって大量に買い込んで来た百円筆の軸なのだ。

ですが此れも自然素材なので其れが壱級品にも化ける訳です。

 

確かに自然にも価値ヒエラルキーが生じて居り良い木は良くまた良い石は良く逆に悪いものは悪いのだ。

ですが其れは人間界に於ける価値ヒエラルキーのやうに金銭的な価値還元を受けて居る訳では無い。

 

 

なる程、すると七月詩人はさうした俗的且つ低級なる価値ヒエラルキーを離れて哲學だのペンの世界で自由に飛翔することを樂しんで居るのだな。

まあさう云うことです。

 

此の世界は純粋に私だけの世界ですので其れは社會の馬鹿に邪魔されるやうなものには非ず。

しかも金もかからず労力も要らぬ訳だ。

 

 

でも「印度哲學拾講」を買うのに金を使っただらう?

弐年前には。

 

さう此の弐年間はほとんど精神的な余裕が無く読めずに居た本なのだ。

 

さうして豊かさとはひとつには時間なのでもある。

社會は其の時間をも掠め取り我我個から思考を奪おうとして居る。

 

また其れは私のやうに「思考」を中心に生きる人間でさえなかなか達することの無い精神的余裕なのだ。

 

我我は兎に角いつも忙しい。

其の忙しいこと其れ自体が近現代人の病気なのだ。

 

 

かくして中國の万年筆を左手で握りつつ右手でもってキーボードを叩きまた「印度哲學拾講」のページを捲るのだ。

 

嗚呼、其れから蒸し暑い夏に向いて居る筆記具の軸と云うものがある。

其れはまず先に述べたところでの涼し気な竹の軸である。

 

もうひとつあり、其れはブナの○材である。

 

ブナは白く美しく手触りが優れて居り如何にも優しい。

例えば其れを筆にしたり万年筆やボールペン等に改造することが可能だ。

 

兎に角ブナは優しく涼しくこんな夏にはまたとない材なのである。

しかも其れもカインズでもって弐百円で買えるものなのだ。

 

つまるところ理性的な生活とは、其の理性の働きが欲するところでの精神の領域とはむしろ荒い金使いとは無縁の領域にこそあらう。

だからそんな精神的に高踏的な生き方こそが眞の意味での此の世での愉しみなのだ。

 

其れは権力にしがみつくことでもまた不正をして豪遊することでも無い。

むしろ理性はさうした荒い生き方を何より好まぬ筈だ。