目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

宇宙一の困ったちゃん=文明

ガラパゴスという言葉は、何事もグローバル化が正しいという潮流の中で、「井の中の蛙」のような否定的意味を持つようになってしまった。

確かに、「世界を広げる」ことは重要であるし、私も海外での経験や海外とのビジネスで非常に多くのことを学んだ。

しかし、ガラパゴスという名前の基になったガラパゴス島では、グローバル化の影響で固有の種が絶滅の危機に瀕し、生態系も大いに乱れている。

 

感染症外来生物と移民を含む人間の移動を同列に論じることは絶対にできないが、1国の経済・社会も結局は「1つの生態系」なのである。

まず、多様な生態系が重要であり、その多様な生態系を守るためには砦が必要なのだ。

その点において、EUが推進しようとしている、「人間の自由な往来」は誤ったものだといえる。

必要があるから国境が存在するのである。日本の国境管理の甘さが今回の武漢肺炎でも明らかになったが、「1つの生態系と他の生態系」との間には、明確な区別を設けるべきなのだ。ー

 

ー自然界と同じく人類の生態系(経済・社会)も努力なしには維持できないのである。

多様な生態系を維持していれば、1つの生態系を失っても、人類全体としては生き残れるのだ。

しかし、グローバル化が進んで世界が1つになってしまえば、そのたった1つを失うことは「人類滅亡」を意味する。ー新型コロナが突きつけた「グローバル化は人類のリスクか」という問いより

 

 

其処で優れた考へ方をして居られ多分に感銘を受けた記事である。

国際投資アナリスト/人間経済科学研究所・執行パートナー大原 浩

大原 浩

 

尚大原氏はわたくしとは同年代の方である。

 

 

 

徳川家康「 人の一生は重荷を背負うて遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもえば不足なし」と述べているが、人生はただ面白可笑しいだけではない。重荷も背負っているのだ。その意味で「死」は、重荷から解放してくれる朗報とも言える。

 

タレントの明石家さんま氏の「生きてるだけでまるもうけ」

 

それと同時に、「生きていることの価値」は、「人間は必ず死ぬ」=「ゲームには必ず終わりがある」ということから生まれるのを示唆する。

武士道については、そのものずばりの世界的ベストセラー「武士道」(新渡戸稲造著、筆者書評)を参照いただきたいが、山本常朝の「葉隠」の「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という言葉はあまりにも有名だ。

この言葉は色々な解釈があるが、「人間は必ず死ぬのだから、それを恐れずに、命のありがたさをかみしめつつ、充実した武士ライフをおくらなければならない」と解釈すべきである。

 

「無間地獄」という言葉がある。どのようなことでも延々と繰り返せば苦痛になる。人生も「有限である」からこそ、生きることに喜びを感じると言える、その意味で、「死」こそが、人生を充実させる最大要因といえるのででは無いだろうか。

私は「人生とは何か?」と問われたら「死ぬまで生きること」と答える。ーコロナで人生の終末を意識するようになった人に贈る「完全燃焼の心得」より

 

 

其のさんま氏のやうに生きてることが愉しひと思ふのは佛法で云ふ四顛倒のひとつでもって凡夫に於ける認識上の誤りである。

ー四つの道理に背く見解。すなわち、凡夫が無常・苦・無我・不浄のこの世を常・楽・我・浄と思い誤ること。これを有為(うい)の四顛倒という。また、声聞縁覚がさとりの世界が常・楽・我・浄であることを知らないので無常・苦・無我・不浄であると思い誤ること。これを無為(むい)の四顛倒という。ー四顛倒より

 

即ち佛法上は生其れ自体を楽しひこと、喜ばしひことだなどと思って居たりしてはならなひ訳だ。

逆に往往にしてインテリが陥り易ひ認識が其の無為の四顛倒だ。

 

即ち無常・苦・無我・不浄と云ふ認識に固定化されて仕舞ってもイケナヒ。

其れでも猶インテリは悲観論に傾ひて行き易ひ。

 

だがほんたうは悲観論もまた凡夫に於ける認識上の誤りである。

 

 

確かに人生も延々と続けば只苦痛となるだけのことだらう。

人間の限定とは人間にとっての究極的な救ひであらう。

 

キリスト教で云ふ永遠の生が究極的な救ひと呼べるかどうかに就ひては其れはとても難しい命題でありよってすぐには答へが出なひー

 

家康公の考へ方は可成に秀才型で生の価値をマイナスから入って行くと云ふ点に於ひてある種悲観的なのだが兎に角用意周到でもって現實的には大変優れた生き方なのだと思はれる。

かって此処愛知には信長型、秀吉型、さうして家康型と三種の考へ方が存して居た訳だが結局より望ましひ日本の國の統治の為の思想として大成したのは家康公の考へ方である。

 

実際に家康公は読書を兎に角好む相当なインテリ爺さんであったらしひ。

名古屋城は信長公が普請したのではなく信長公亡き後に家康公が普請されたのだった。

 

 

ー1970年(昭和45年)11月25日に、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件(三島事件)当時、私は小学生であったが、世の中が騒然としていたことだけは強く印象に残っている。

政治的な意思表示だとされるが、実のところは三島由紀夫の「死の美学」=「生の美学」の「遺作」であったのではないかと思う。

なぜかといえば、三島由紀夫は「東大 VS. 全共闘」(「討論三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争 (1969))のような政治的発言・行動も多かったが、基本的に芸術家(小説家)であり、「美の追求」に人生を捧げたからである。

 

彼は40歳くらいの若さで志と共に散った英雄をたびたび賛美していた。「男の美しい生き方」であるというわけだ。実際、彼が事件を起こしたのは45歳の時である。

 

しかし、「40歳までに死ぬんだから、それまでにやりたいことをやるんだ!」と考えていたことは、人生の内容を「濃くする」ことに役立ったと思う。要するに「太く短く」である。

そうなると、読者は「大原はなぜいまだに生きていて記事を書くのか?」と思うであろう。

至極当然な疑問である。

実は、40歳を迎えたあたりに人生を振り返り「やりたいと思っていたことを概ねやりつくしたこと(結果は別である)」を確認した後、もし今自分が死んだらどうなるかということを考えてみた。

すると、まず三島由紀夫ゲバラのような「死ぬための大義」を持っていないことに気がついた。「葉隠」では「武士道とは死ぬことと見つけたりと言うが、大義を持たない死は「犬死」として嫌悪する。

 

幸か不幸か、「死ぬための大義が無いから生きよう」と思ったのだ。そうなると残りの人生をどのように充実させるかという問題が生じる。

 

私は現在、第2サイクルのど真ん中だから、いかにも物事が分かっているようなことを書いているが、第1サイクルでは試行錯誤の連続であったし、思い返したくもないひどい失敗もたくさんある。

そして、「自分のことで精いっぱいで他人のことなどかまっていられなかった」いうのが本当のところだ。

もちろん生まれつき思いやりが深くて若い時から他人に配慮できる人も存在するが、少なくとも私はそうではなかった。

40歳までは社会から多くのものを奪ってきたと感じる。だから、第2サイクルでは、奪ったものを少しずつ社会に還元していきたいと思っている。そして、幸運にも第3サイクルまで生きながらえることができたら、奪ったものよりもはるかに大きなものを社会に還元できればと望んでいる。

人生には始まりがあって、かならず終わりがある。だから、スタート直後とゴール直前では、行うべきことも異なる。

 

第1サイクルでは、吸収できることはすべて吸収して、第2サイクルから社会に還元していくというのが「人間の生と死」を基礎に成り立っている人間社会で行うべきことではないであろうか?ーコロナで人生の終末を意識するようになった人に贈る「完全燃焼の心得」より

 

 

 

ー「人間は必ず死ぬのだから、それを恐れずに、命のありがたさをかみしめつつ、充実した武士ライフをおくらなければならない」ー

 

其の充實に就ひては、わたくしの場合は主に趣味の領域を充實させて来たのだと言へる。

即ち家庭を持たぬ分思ふ存分に其の趣味をやり切り其れなりに形となして来ても居た。

 

其れは筆記具コレクターとしてある程度は世に立ったことでやり切ったのだと思ふ。

だが文學や哲學、また藝術や宗教の領域はまるでやり切ってなど居なかった。

 

本来ならば其れを本職としてほんたうの作家か詩人となり是非書ひて行かねばならぬことだった。

但し其れは愉しみなどでは無くまさに悩みであり苦しみなのだ。

 

だが人間にとっての悩みであり苦しみであることこそが實はほんたうのことなのだ。

ほんたうのこととは左様にまるで楽しくは無くむしろ辛くて苦しくて逃げ出したくなること其のものなのだった。

 

わたくしにとっての充實とはむしろ其の悩み苦しみをもうヘロヘロになりつつかうして書ひておる今のことなのだ。

 

 

其の社会に還元すると云ふことは以前にわたくしも此処にて述べた。

ちゃんと勉強した大卒は馬鹿ではダメで社会に対し其の知性を御返しして行かねばならんのだ。

 

わたくしは投資の世界なんぞ大嫌ひなのだけれど此の大原氏の御意見に対しては大ひに賛同し得る。

 

 

ー人生には始まりがあって、かならず終わりがある。だから、スタート直後とゴール直前では、行うべきことも異なる。ー

 

いつの間にか我我還暦世代も其のゴールへと近づいて居るやうだ。

周りには還暦でもって死んだまるで武士のやうな奴も居るのだし昔付き合って居た👩などもいつしか婆となりしかも其の割に元気で結局女は馬鹿だから殺しても死なぬのかなあ、などと正直言ってさう思ったりもする。

 

だが詩人が還暦ではもはやほんたうに恰好がつかぬ。

詩人は四十までに皆死なねばならぬと云ふのに何故かかようにしぶとく生きのびしかもあと五年位はまだまだ生きてもおりさうだ。

要するに其れはほんたうの詩人では無ひと云ふことなのやもしれぬ。

 

 

尚三島 由紀夫先生につき忘れてならぬことが一つあり其れは先生が法學部の出身者だったことだ。

わたくしもまた其の法科の出身者なのだが、法學部には文學など實は無く其処にあるのは此の社会のことばかりなのである。

 

法學部は昔は人気があり其れこそ所謂ツブシが効くとも言はれ就職活動などには極めて有利だったのだった。

だが法學部は人間の社会を勉強する場なので懸命に其処で勉学を重ねれば重ねる程に其処に社会の矛盾が炙り出されて来もはや如何ともし難くなるものなのだ。

 

要するに法學部では余り余分に考へずに人間の社会の仕組みだけを御勉強すべきなのであり、社会の歴史や思想のことは深くは考へずタダ法律の条文を暗記しておく。

さすれば有能且つ役に立つ弁護士や官僚となれ間違っても三島先生や此の胡散臭ひ自称詩人のやうなことにはならずおおまさに社会にとっての役立つ人其のものとなれやうぞ。

 

何で今法科がダメなのかソコが良く分りませんのですが、いずれにせよ法學部は其れも歴史や思想が入った上での法科での御勉強は可成に危険です。

 

三島先生の場合も其処に思想が入って居るから兎に角危険なのです。

文學の方がおそらくはもっと人間の内面の方を見詰めて行くことでせうが法科出身の作家は結構過激にて最終的に大抵は思想的に決着を図るのです。

 

わたくしが日頃言って居ることなども自然と其の思想的展開へと導かれて仕舞ふことだらう。

確かに三島先生には藝術的に捉へられし死の美學と云ふものがあった訳なのですがどうも其れは思想的な死でもあったとわたくしは思ふのです。

 

事實として其の晩年には政治的発言・行動が目立ったと申しますかむしろ其ればかりになって行った訳です。

まさに此れは法科出身者としてのイデオロギー的な思想闘争の様なのだ。

 

社会を學んだ側からすれば兎に角社会が悪ひので世界はいつまで経っても良くはなりませぬ。

さうして社会が悪ひので歴史も良くはならず其ればかりか大昔より個が圧迫され続けて居るのであります。

 

なので其れを怒ったインテリ学生達が馬鹿野郎、もはや革命だ!

 

とかってやったのでした。

でも私共還暦世代は其の頃はまだ小学生だったのです。

 

 

其の頃の世界的な革命運動はやがて鎮圧され我我が学生の頃は思想などには決して与しなひノンポリ学生ばかりになって居りました。

三島先生の場合其の思想は明らかに右の立場でしたが、他方で先生は全共闘の社会に対する真面目さを評価されても居たようです。

 

革命思想は勿論正反対でもって認められぬにせよ彼等は真面目に社会に対し闘争して居るとさう捉へられて居たフシがあります。

八十年代となり脱思想化した社会はズバリ言へばおバカ化して行ったのだと申す他御座りません。

 

思想だけでは無く哲學的な思考、難しひ話などが其の頃より妙に嫌はれ始めさうした難しひ話をする奴は馬鹿だとさう決めつけられても行ったのです。

 

ですが、そりゃあ、反対でせう。

難しひ話が出来る奴の方こそが眞剣に學んで居り難しひ話を嫌ふ奴の方にこそ其のおバカ化へのループが用意されて居たのでした。

 

 

つまりは社会には反抗しなひことこそが当時のトレンデーなつまりはお洒落で恰好良ひ流れのことなのでした。

其処ではファッチョン雑誌などが兎に角流行し社会はより質の高ひ消費を實現する為の場へと化して行きました。

 

其の八十年代以降の社会のおバカ化はつひ最近まで我我には見へて来ませんでしたが此の度のコロナ禍により其れはやっぱりバカの流れだったのじゃなひかとさう認識されるに至っております。

 

逆に三島先生のことを馬鹿だと仰る知識人の方々も屡居られませうが個人的にはどう見ても真剣だったのだと思ひます。

つまりは法科出身者として社会と闘争し死んで行かれたのだと思ひます。

 

たとへ法科出身者でも眞剣に御勉強をして居なかった人には分からぬことかと思はれますがわたくしの場合は其れなりにやりましたので其の事だけは良く分かります。

其の藝術としての美しき死の美學であること以上に社会の矛盾が許せずある種潔癖に其れに立ち向かって行かれたのだとさう思ふ。

 

ところで其の精神の上での構図とは實はグレタさんの場合でも同じなのです。

 

 

グレタへの強烈な賛否が映す世代闘争に潜む罠

かようにグレタさんの顔はいつも怖ひでせう?

まさに其れは眞剣だからなんですね。

 

眞剣じゃ無ひ奴の顔つきや話振りには此の種の怖さが實は欠けております。

あくまで個人的に此の種の眞剣な怖ひ顔は好きです。

 

眞剣じゃ無ひ文明の価値観と云ふか時代の精神と云ふかさうしたとんでもなさが八十年代以降社会に蓄積されて行ったやうに思ふ。

 

今回の政府の対応に関してもまさにさうです。

政権乃至は國家と云ふものはまさに國民の労働からピンハネしつつ成り立って居るものなのだからこそ危機の時にはまさに身を挺して國民を守らねばなりません。

 

其の重要な近代國家としての権利義務関係での定義をこともあらうに現政権が全く分かって居なかったと云ふ其の思想の上でのお粗末さ。

だから政府がそんなおバカ化して居てはもはや何ともならぬ國となって仕舞ふことでせう。

 

逆に政府がお利口化して行かねばならぬと云ふのにいつまで経っても安倍政権はテータイムばかりをやってます。

 

ズバリ申しませう。

三島先生は将来そんな米國の🐶になり下がった日本國の情けなひ姿を予測されて居たが故に切腹されたのだった。

 

 

 

ー人生には始まりがあって、かならず終わりがある。だから、スタート直後とゴール直前では、行うべきことも異なる。ー

 

矢張りと言ふべきか、年代によりやるべきことは違ふのだとわたくしもさう思ひます。

我我還暦世代はすでにやることをひとまず為し終へ老人になる為の準備期間とでも言ふかそんな曖昧な時間を今生きて居るのだと思ふ。

 

でもわたくしの場合は少し違って居て、まさに今社会と闘争中なのだと自らさう判断して居るのです。

普通はもう孫の頭でも撫でながら茶でも啜りつつまた妻の尻に敷かれ楽隠居の態にて愉しくやって行けるのやもしれませぬがわたくしの場合は全然違ひました。

 

全くもって此の毎日こそが社会との格闘技でありおおまさに生きるか死ぬか、まさに食ふか喰はれるかの大闘争の真っ只中なのです。

逆に三十代の頃よりも余程に精神的なエネルギーを消費して来て居ります。

 

或は倍程も使って居るのやもしれませぬ。

 

 

嗚呼、疲れた。

もう闘争を止めて早う楽隠居したひ。

 

然しもう楽に隠居したひとさう思ふ時に限りまさに色んなことが起こりより社会制度が脆弱化して行くのです。

此の社会との切っても切れぬ腐れ縁、どんなに足蹴にしても擦り寄って来る其の社会の足音。

 

わたくしがすでに社会を全否定して居ると云ふのに何やかやと纏はり付ひて来る其の社会の根性の悪さ。

 

 

ー海洋生物学者レイチェル・カーソンが著した『沈黙の春』(1962)が先鞭をつけたことが有名だ。「すべては、人間が自らまねいた禍いだった」という言葉が印象を残す書き出しから始まるこの本は、農薬などの化学物質による深刻な環境汚染に警鐘を鳴らしたものだった。

1960年代のアメリカでは、第2次世界大戦後に生まれた「ベビーブーマー」の若者たちが「親世代」に反抗する形で、公民権運動やベトナム反戦運動、女性解放運動などを牽引し、日の目を見ていなかった環境保護運動も前面に押し出した。

高度経済成長期の日本でも同様の反発が湧き起こり、学生運動をはじめ数多の社会運動の呼び水になった。そこには、閉塞した時代状況とそれによる生きづらさに根差した「親世代の価値観に対する不満や反発」があった。ー

グレタへの強烈な賛否が映す世代闘争に潜む罠より

 

 

其の『沈黙の春』(1962)の一部が中学か高校の頃に英語の教科書に引用され確か載って居た覚へがある。

逆に言へば50年代までは環境問題は何処の國でもまるで問題とされては居なかったのだ。

 

確かに環境保護運動をも含めた反体制運動にはー閉塞した時代状況とそれによる生きづらさに根差した「親世代の価値観に対する不満や反発」があったーのだらう。

だが其の頃環境問題は現在のやうに切迫した状況にはまるで至っては居なかった。

 

 

ー世界的なデモを「低成長や格差拡大の時代」のツケを背負わされた若者たちや子どもたち、「儲け優先の経済システム」によって「汚しに汚された地球環境」を押し付けられる不条理――といった世代的な現実という冷めた視点で眺めてみれば、「地球温暖化」は、おのずと「(下の世代にツケを回した)上の世代を排撃するのに適したツール」であるとの考え方もできるだろう。

彼らはまさに以前の世代のように、家や車などの「物質を消費しない」傾向を「異端視」されてきたからだ。今回のような価値の転換が本格化すれば、「物質を消費する」傾向がむしろ「異端視」される逆転現象が起きる。

ここで懸念されるのが社会問題の「優先順位の崩壊」と、社会運動の「世代間闘争化」だ。ーグレタへの強烈な賛否が映す世代闘争に潜む罠より

 

 

だが現在の環境問題への立ち位置ー認識ーは、社会問題の「優先順位の崩壊」や社会運動の「世代間闘争化」を懸念するレヴェルのものでは無ひとわたくしは捉へる。

またグレタ氏を始めとする環境保護活動が単なる「(下の世代にツケを回した)上の世代を排撃するのに適したツール」なのだとも思って居なひ。

 

環境問題とは人類の存続をまさに問ふものであり人間存在の意義を根底から問ひ直す問場其のものなのでもある。

其れは世代間の断裂や右派左派の区別による思想的断裂、又は金持ちと貧乏人により差が生じるやうな話などでは金輪際無ひ。

 

環境問題こそがホモ・サピエンスが成り立たせた社会=文明社会の存続の可否を握るものでありまさに人類にとっての究極の課題である。

 

其れは最終的には宗教ですら太刀打ち出来ぬ大問題なのだ。

宗教と言ったって、生態系が崩壊し文明社会が葬り去られれば宗教も何も無ひのではなからうか。

 

其処で結局一人勝ちするのはキリスト教だけなのかもね。

キリスト教では人類滅亡はむしろOKなので地球がどうあらうが神を信じた人間だけが神様に救はれて神の王国にて永遠にみんなが愉しく生きて行けるのだそうだ。

 

 

さても御坊様方は此の事實を一体どう判断されて居られるのだらうか?

佛教は元より人類滅亡など望んでは居なひ。

 

佛教の目的とはみんなが佛となり此の世から解脱することにこそある。

で、人類が滅亡すると其の成佛が不可能となる。

 

だから最終的には佛教は世界の存続を或は文明の存続を望む筈だ。

或は其処こそがキリスト教とは違ふ部分なのやもしれぬ。

 

いずれにせよ宗教もまた此の困った社会を救ふのが兎に角難儀だと見へる。

全く困った野郎だ。

まさに困ったちゃんだ。

 

人間の社会程困った奴は他に無ひ。

おおまさに宇宙一の困ったちゃんだな。