目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

合法的支配に於ける官僚制の意義ー官僚はバカか其れとも利口かー

ー一般に、日本のキャリア官僚は、「優秀」で「勤勉」だと言われる。

憲法15条第2項には、「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と書かれているが、普通の官僚は、その原則を守る善人であるように思える。

さらに、官僚と言えば、「クソ真面目」で、羽目を外すことはないという安心感もある。

こうした官僚像は、間違いとは言えない。そういう官僚も現に存在する。

 

「優秀」どころか「バカ」ではないか。

 

経産省ではないが、国土交通省出身の官邸官僚、和泉洋人総理補佐官は、厚生労働省の女性審議官と出張の度に「コネクティングルーム」に宿泊という不倫疑惑。「不真面目」の象徴だ。

一方で、今は少数派となった真面目な官僚たちは「弱い人間」だ。国民のことよりも上に媚びたほうが得だとなれば、正しい道から外れてしまうことも多い。

 

しかし、残念ながら、官僚たちは、安倍総理が非常に不真面目で「えこひいき」な人間だと見抜き、出世のためにはそこに取り入るしかないと考えている。「バカで怠慢、えこひいきのチャラ男」官僚たちが羽目を外し、この国を滅ぼす。ー

古賀 茂明「官邸のえこひいきで堕落した官僚」 より

 

尚、公務員と云ふものは、そも其処で自ら考へて居たりしてはならぬのだ。

わたくしの父は地方公務員だったが、若ひ頃は兎角に考へる人だったので何かと苦労して居たやうであったが役職が付ひてからはむしろ何も考へなくなった。

 

で、次第に酒ー飲み屋ーとゴルフにうつつを抜かすやうになって行ったのであるがわたくしとは違ひ人からは結構好かれて居た。

わたくしの場合はそんなものを価値としては認めて居らぬ故公務員は何故おバカ化するのだらうかとむしろ其のことだけを考へ続けて来た。

 

尚、わたくしは公的なものの力を國家形成の要諦として最大限に重視して居る。

無論のこと理想論的には國家は無ひ方がより望ましひのだが其れがある限りは其の公的な社会の維持力こそが國民國家其のものを形成して行くのだ。

 

言ふまでも無く近代國家とはつまりは抽象度の高ひ社会形態であり其の抽象度の高ひリスクの部分を公的な機関が吸収し分散させねば基本的に近代國家の成立は難しひと見るべきなのではなひか。

 

 

ウェーバー理論において重要な地位を占めているのは,合理的官僚制の概念である。これは目的の実現に対し計算可能な機能をもつ構造と考えられた。したがってその特徴として,明確な規則による職務の配分,階統的構造,文書による職務の処理,公私の分離,専門の資格,貨幣による給与,昇進経路の明確化などをあげることができる。このような官僚制は技術的に最も卓越した組織形態であり,正確性,恒常性,規律,厳格性,信頼性をもっていた。ウェーバーは官僚支配 Beamtenherrschaftという用語を使ってドイツにおける官僚政治の問題を鋭く批判した。ー官僚制より

 

マックス=ヴェーバーは西欧近代を合理化の過程として捉へて居るが其の近代化を實現する装置とはかうして組織的に行ははれ得る合理的統治である。

元より其れは合理的な組織なので其の内容はまさに合理的に構成されて居る。

即ち正確に職務を遂行出来且つ信頼に足る組織其のものの筈だ。

 

ーこうした官僚制は、法による支配を的確に実現していく装置であるとされた。現代の国家は巨大な行政官僚制組織を有し、官僚制による問題の発見、政策の立案、実施を中心に運営されている。専門的知識と技術を備えた官僚制は、現代国家に不可欠であるが、これが発達すればするほど、政治によるコントロールが難しくなるという問題も抱えている。また、官僚制がウェーバーのいうように合理的性格を備えているとしても、しょせん「生身」の人間からなる組織であり、生理と病理を併せ持っている。したがって、組織原則に忠実であればあるほど、訓練された技能が現実への柔軟な対応を欠くことがある。さらには、法規万能や対応の横柄さといった問題を引き起こすことがある。こうした病理現象を官僚制の「逆機能」(dysfunction)という。ー 官僚制より

 

試験に通った利口な官僚は確かに馬鹿では無ひ。

勿論頭が良ひから試験に通るのである。

 

ところが官僚制がのさばるとまた逆の面が出て来る。

頭が良くて真面目な奴程實は頭が狂ひ易く一旦羽目を外すとまたとんでも無く外れて仕舞ひ易ひ。

 

と云ふのも、半分は其の父親の血を引くわたくしがまさにそんな感じだからまさに他人事では無ひのである。

物凄く緻密でもって丁寧なところがまさにじぶんにもあるのだが他面では何故か所謂慇懃無礼ともなって仕舞ふのだ。

要するに形式的に価値が硬直化し他の価値観を否定するやうなところが何やら生得的に備わって居るのだらう。

 

だが実際にはわたくしは公僕とはならなかった訳で、其の点からすればまさに公僕とは逆の価値所謂アウトサイダーとしての価値を何故か追求して来ざるを得なかった。

ところがアウトサイダーなのに何故か真面目なのだった。

 

真面目だけれども、わたくしの場合組織に対してはハナから懐疑的だ。

恰好良く言へば一匹🐺でもってして、また悪く言へば理解され難き村八分の人間なのである。

 

 

確かに公務員の対応は昔可成に悪く要するに対応が柔軟では無く且つ横柄な物言ひでもって屡こちらの気分が悪くもなったものだった。

行政官僚制組織であれ自治体であれ其れは統治側の論理で動くものだから個に対する尊敬心など其処に持ち合わせて居やう筈も無ひ。

 

但し個人的には公務員が往々にして威張るのは当然のことなのではなひかとむしろ思ふ。

威張るのだとしてもちゃんと仕事だけをして呉れるのであれば何の問題も無ひ。

事實父は屡公務員とは武士だとさう言って居た。

 

其れも江戸時代の武士、即ち統治者側なのだから確かに其れは百姓や町人などとはまた違ふことかとも思ふ。

 

 

ヴェーバーによれば、近代的官僚制は組織の合法的な支配形態であり、特定の個人のカリスマや家父長的権威ではなく、民主的な合意によって成り立つ。近代的官僚制の特色として、次のような原則が挙げられる。   ・権限の明確な階秩序   ・職務の機能的な専門分化   ・専門的職員の採用   ・規則に基づく職務の遂行   ・文書による事務処理 また、こうした原則の遵守が過度になり、自己目的化する傾向を官僚主義という。規則万能、事なかれ主義、なわばり根性、形式主義繁文縟礼などさまざまな弊害をもたらす。ー官僚制より

 

其の民主制と官僚支配、また民主制と天皇制とは元々可成に相性の悪ひものなのだらう。

 

ー官僚制ということばは多義的で,能率的な組織をさすこともあれば逆に組織の非能率をさすこともあり,また専門官吏による行政をさすこともあればこれら専門官吏が権力を掌握している状態をさすこともある。これは官僚制現象自体の動的な性格,構造によるもので,この点を理解すればその意味を整合的に説明することも困難ではない。ー 官僚制より

 

其の頭の良ひ官僚による意思決定即ち政策が何故酷ひ矛盾を含み非効率でさへあるのか、まさに其れが公務員の抱へる根本の問題にて其れは価値の硬直性ではなひかとわたくしは見て居る。

また官僚に限らず地方公務員も同じく其の気質を有して居りつまりは時に非効率であり矛盾的な意思決定をさへ生み出して仕舞ふ。

 

ー① bureaucracy 厳格な権限の委任と専門化された職務の体系をもち、合理的な規則に従って組織の目標を能率的に実現する管理運営の体系。行政機構をはじめ、企業・労働組合などの大規模な組織に見られる。

硬直した形式の重視、権威主義的な傾向をもつ制度や機構を批判的にいう語。ー官僚制より



キッチリして居る組織、キッチリして居る頭脳程實は壊れ易ひのだ。

昔からインテリ程打たれ弱ひと言はれて居て要するに其の狭ひ価値観の中でだけ高ひレヴェルを保ちつつ生きて居るので其処で少しでも何かあればガラス瓶の如くに割れて仕舞ふのである。

尚、わたくしもまた打たれ弱ひ。


が、妙にふてぶてしくもあり、其れは何でかと云ふに世間を醒めた目でもって眺めても居るからだ。

言はばじぶんの価値にて生きて居るので周りがどうあらうと特に最近は余り気にならなくもなって来た。



 

ーさしあたって現代の国家に限定していっても、その行政組織の官僚制化は、古典的意味での官僚制、つまり行政官僚による政治支配をふたたび惹起(じゃっき)しがちであるという意味で、民主主義の政治原理との関係で深刻な問題を提起している。のみならず、官僚制的行政に特有の逆機能、つまり、技術的にもっとも優秀と想定されている官僚制の作動がかならずしもそうではなく、そこに組み込まれている人間の意識や行動が通常「官僚主義」とよばれているさまざまな「病理」現象を示すことが注目されるようになってきた。したがって今日における官僚制は、
(1)行政官僚による政治の支配=「官僚政治」、
(2)分業と協業の原理によって合理的に組み立てられた組織形態=「階統制」、
(3)それらに付随しがちな意識や行動=「官僚主義
という三つの意味合いを含んでいるといえる。官僚制より


民主制と云ふのは、事實上すでに直接民主制が可能な段階へと至って居るのではなひか。

政党の支持とあらゆる政策上の支持などはすでにネットの存在にて事實上可能であらう。


だが民主制による意思決定は言ふまでも無く衆愚制へと傾き易ひ。

よって事實上は直接民主制にて政策を支持することは困難でありまた危険でもある。


ところが官僚主義」は事實として蔓延り何やら次第に腐って来たやうな気さへせぬものでもなひ。

第一コネクティングルームを行き来しつつ不倫を満喫するなどとそんな不真面目な奴等には公務員としての甘ひ汁を吸はせて居ひては断じてならぬ。



ウェーバーは、西欧のみに特有の「近代化」を「(目的)合理化」の過程とみ、その組織的表現形態を「官僚制(化)」としてとらえた。その官僚制論は彼の正統的支配の三類型のなかの合法的支配と結び付けられた理念型として展開されている。彼によれば、近代官僚制の特有の機能様式は、規則により体系化された権限の原則、階統制と審級制の原則、文書とスタッフに依拠する職務執行、行政幹部の公私の分離、専門的訓練を前提とする職務活動、職務の専任化、特殊な技術学(法律学行政学経営学)の習得などであり、このような官僚制機構は、理念的には、精確、迅速、明確、文書への精通、継続性、慎重性、統一性、厳格な服従関係、摩擦の防止、物的人的費用の節約などの点で、他のあらゆる行政形態と比べて純技術的に優れているとする。

ウェーバーの官僚制論でもう一つ注目すべき点がある。それは、官僚制を階級社会ないし資本主義に特有の現象とみなし、社会主義になれば官僚制は容易に人民の自己統治にとってかわられていき、さらに共産主義社会においては国家もしたがって官僚制も死滅するであろうとしていたマルクス主義者の楽観的展望とは対照的に、ウェーバーは逆に、社会主義になれば、資本主義においてみられるような国家官僚制と私的官僚制とのある程度の相互抑制も廃止されて、国家的官僚制が独裁的に威力を振るうであろうとする悲観的見通しを提示していたことである。この点については、またあとで触れる。官僚制より


伝統的支配は「日常的」かつ「個人的」な支配である。合法的支配は「日常的」かつ「非個人的」な支配である。カリスマ的支配は「非日常的」かつ「個人的」な支配である。「非日常的」かつ「非個人的」な支配類型の象限は空白になっている。ウェーバーは、このような支配は原理的にありえないと考えていたのであろうか。知りたいところである。ーウェーバーの支配三類型についてより


近代國家とは人間が支配され管理される社会を成立させることである。

無論のこと近代以前にも勿論人間は支配され管理されて居たのではあったが、概ね其れは現代よりも緩ひ支配のことだったのだらう。

但し自然は近代以前の方がより厳しかったとさう見ておくべきなのではなひか。


即ち疫病や飢饉の様が今とは比べ物にならぬ程蔓延して居た訳だ。

また戦争が頻発して居た。


要するに「苦」と云ふ観点からは人間は太古より常に苦しく今はむしろ抽象的に苦しひのだと言ひ得ることだらう。

が、問題は今後文明に突き付けられて行くであらう人間にとっての物理的な苦しみのことだ。

つまりは其の苦が二重苦になる可能性が今後高くある。


近代的な法治國家としての合法的支配は「日常的」かつ「非個人的」な支配であるのだから、無論のこと其れでは息が抜けなくなる我我は「日常的」かつ「個人的」な支配である伝統的支配や「非日常的」かつ「個人的」なカリスマ的支配を同時に受け容れて来て居る。

要するに常に法に雁字搦めでは息が抜けぬのでもっと個の方に寄った支配をこそ求めたひのだ。

 

実際に法律の条文ばかり眺めて居ると頭が痛くなるものだが伝統芸能やら伝統的行事のことを観たり参加したりするとまさに気が晴れるものなのだし宗教的なものに縁すれば場合によっては其処で心が救はれる思ひをしたりも出来る。

公僕としての意識に欠けて居るものとは其の近代的な法治國家としての合法的支配には基本的に欠けた人間味としての部分なのやもしれぬ。

 

 

「このような官僚制機構は、理念的には、精確、迅速、明確、文書への精通、継続性、慎重性、統一性、厳格な服従関係、摩擦の防止、物的人的費用の節約などの点で、他のあらゆる行政形態と比べて純技術的に優れているとする。」

其れでも其の純技術的に優れた仕事をして貰わなければ官僚としての意味が無ひ。

兎に角官僚は不真面目ではダメで、まさに國としての行政に殉ずる位の気構えでやって頂かねば我我も困る。



第二次世界大戦後の日本においては、天皇の官吏は国民の公僕に転換し、また代議制の統治機構が採用されたために、法形式的には官僚政治の余地はなくなったが、新しい行政国家の台頭に伴って、民主主義と官僚制との関係がふたたび問われ、また戦前からの遺産と新しい行政国家的状況のアマルガム(混合)による官僚制のセクショナリズム官僚主義の克服が課題となっている。官僚制より


但し官僚機構を無くすことは出来ぬにせよ縮小して行くべきだと個人的にはさう考へて居る。

行政の上での分権としての地方自治体の役割をより強化して行くべきことだらう。


事實として今回のコロナ禍は政府や官僚がもし無かったとしてもまあそれなりに何とかなって居た筈である。

結果としてはほとんど変はらなかったのではなかったか。


だからと言って公的な権力の行使を軽視して居る訳では無く近代國家、特に現代の國家に於ひて公的な社会維持の為の調整力は常に重要である。


重要なのだが合法的支配とは常に我我にとり煙たひか又は鬱陶しひ限りでの合理的支配なのだ。

だが最近は公的なサーヴィス其れ自体が規制緩和され、或は民営化され役所での対応などにも変化が出て来て居る。


さうなって居るのに安倍政権は全く理解不能な政策を為して来て居りコロナ禍にも實は何一つ出来て居なひ。

第一マスクの紐がユルユルで一度しか使へぬものを大金をはたいた上で國中のみんなに配りさうして貴方はみんなをコロナ特攻死させる御積もりか?


だから國を守ると同時に革新政策などしちゃもってのほかだぞよ。

其の矛盾が分からんと言ふておるのだ、其の矛盾が。


左様に安倍氏の頭がオカシヒから結局利口な筈の官僚も次第におバカ化しおおまさにコソコソと國民の目の届かぬところで悪ひことばかりを重ねてするやうになるのです。



ー絶対主義が崩壊し,議会政治と三権分立制が発達すると,官僚の実権は行政部門に限られ,単なる市民の公僕に変わっていった。官僚の任免も,政党首脳や有力党人に左右される傾向が発生する(イギリスの情実任命patronage,アメリカの猟官制spoils system)。しかし,近代国家の実質的運営はこれらの官僚を通じて進められた。特に20世紀にはいって独占資本主義の段階にある現代国家では,種々の経済立法が要求され,経済官僚が立法部門に実権をもつようになった。また,官僚と資本家との結合が極端になり,国民の利益が守られない状態が発生する危険も生じている。アジア,特に中国では,中央集権的な専制国家の形態が早くから整い,官僚機構も独特な姿で発達した。ヨーロッパ人にマンダリン(mandarin,官吏の意味)と呼ばれた官人身分がそれである。官人採用の方法としてはいわゆる科挙制が発達した。ー 官僚制より

 

「官僚制を階級社会ないし資本主義に特有の現象とみなし、社会主義になれば官僚制は容易に人民の自己統治にとってかわられていき、さらに共産主義社会においては国家もしたがって官僚制も死滅するであろうとしていたマルクス主義者の楽観的展望とは対照的に、ウェーバーは逆に、社会主義になれば、資本主義においてみられるような国家官僚制と私的官僚制とのある程度の相互抑制も廃止されて、国家的官僚制が独裁的に威力を振るうであろうとする悲観的見通しを提示していたことである。」

 

マックス=ヴェーバー社会主義國家に於ひて「国家的官僚制が独裁的に威力を振るうであろうこと」をかって見抜ひて居ました。

 

いずれにせよ國の制度や官僚制などに見られる大組織と云ふものは其の特権意識、権力の行使の過程に於ひて強権化、横暴化し個としての人間が対処し得る範囲を遥かに超へて仕舞ふものである。

其れは最終的には無くなる方が良ひのではあらうがさうかと言って事實上我我國民、県民の面倒を見て呉れて居るのは公的な制度なのだ。

 

でも公的な制度程一旦腐り始めるともう酷くならう訳で、だからこそ我我有権者が日々御勉強を重ね正しく選択せねばならぬと云ふのにまるで其れが出来ては居なひ。

 

つくづくみんなは幸せだなあ。

わたくしはむしろみんなのやうになりたひ。

 

 皆様のやうに俗世間を愉しく明るく生きて行けたらなあ。

 

「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」憲法15条第2項