自然と云ふものは究極の価値である、と云ふことにつき誤解乃至はまるで分かって居なひ現代人がおそらくは大半です。
即ち現代人が寄って立つところでの其の価値ヒエラルキーにつき誤解して仕舞って居る。
近現代の価値とはズバリ言へば須らく合理化されし価値であり謂わば逆価値である。
但し元々人間の価値とは其の逆価値なのですが、其の逆ヒエラルキーが徹底する形で世界にバラ撒かれた状態こそが今なのだと申せませう。
其の逆価値とは無価値なものを価値と見て逆に価値あるものを無価値と見る其の価値判断基準の倒錯でもまたあらう。
厳密に申しますと其のやうにあくまで文明が奉じ続けて来た価値とは無価値其のものです。
なんですが、其処で価値あるものにまみえぬとも限らぬのが人間の生の常です。
たとへば姿形や内面の様が美しひもの、さうしたものに強く惹かれるのであれば多分其れ等こそが価値あるものなのでせう。
其の価値とは本質的な価値とはなり得なひのですが其れが我我の心を打つ限り確かに其れは個としての一つの価値なのです。
対して文明の奉ずる価値は正直無価値であるものがほとんどですからむしろ余り真面目に向き合わずに適当に受け流しておく位で丁度良ひ。
今後文明はますます図に乗り徹底的に合理的目的へとひた走ることであらう。
だけれども、結局其の価値が正しひものであるのかどうかは歴史が証明すべきものであり其の判断は元より我我の任には非ず。
其れでも勘の良ひ人にはすでに分かって居ます。
其の価値観は酷く逆に構築されしものであり我我の肉体及び精神にとり必ずしも望ましひものでは無ひことを。
其れどころかまさに有害です。
其の有害な価値観も次第に常識化していきませうから次第次第に我我の感じ方は麻痺していって仕舞ふ。
車が猛スピードで走り去るのを、また飛行機がキーンと空を飛んでいくことをもはや誰も気に留めぬ。
が、いつしかさうした文明の価値の諸相がとても危険なものとして我の目には映ずるやうになった。
なのでむしろ確信犯として其の諸相の価値には背を向けていく他は無ひ。
ただし破壊者じゃありませぬ。
むしろ保守派ですよ。
どうか其処をお間違へなきやう。
出ました、JOYTECさんの其の新たな動画が。
とは言へすぐに終わる動画ゆえ早く続きが見たひところながら。
ちなみに4:58より巨大な落石による通行止めの話が出て来る。
かように山の中では常に落石はあります。
三河棚山へ登る道にも屡落石はあります。
無論のこと稀には巨石の崩落さへもがある。
勿論車が巨石に直撃されれば谷底へと落ちることでせう。
かくして自然は文明の法則性にはまるで従ってなど居なひ。
文明の齎す観念性のやうなものにはまるで従わぬ。
従わぬが逆に其れが自然の掟ー摂理ーだと云ふことだ。
🚙と云ふのは或いは✈と云ふのは其の社会的自我による観念性其のものでせう。
其れがいざ文明世界に居ると快適に動けるのですが山に行くと落石や道の崩落などで屡動けなくなる訳です。
だからそも社会的観念性=文明による価値と自然の摂理とが噛み合っては居らぬと云ふことですな。
ですから、山へ行けば其れもタダ行くだけで其の位のことはすぐに分かる。
分からぬのは、山へ行こうとして居ないからです。
山へ行って何になります?
金は無ひわ、食ひ物も無ひわ、女は居らぬわ、で。
だから行くんでせう。
山へ行くと自然に思想改造されて仕舞ふのだから。
価値ヒエラルキーが逆戻しされていき自然に宗教的な自我が目覚めて参ります。
釈迦がまず森でもって修行に勤しんだのもまずはそんな理由があらう筈。
尚自然は人間の感度の違ひにより其の見へ方が変わって参りませう。
おそらく我の場合元々其の感度は高い方であったことだらう。
ですがほんたうに自然に愛♡を感ずるやうになったのは此処十年程でのことです。
確かに昔から好きだったのだが、其の価値を神の如くに仰ぎ見るやうになったのはむしろ最近のことだ。
ところが自然に有るものはむしろ観念的な価値を離れた価値ばかり。
清ひ水の流れも鬱蒼とした木木もまた巨大な岩塊も全て金にはならずしかも食へず、のみならず色気など微塵も無し。
なのだが確かに其れも大きな価値なのだ。
いやむしろこちらの方こそが大きな価値だ。
左様に現代文明が奉ずる価値などまさに取るに足らぬものだ。
其れもつひ無価値と言って仕舞ひましたが。
無価値と云ふよりも対義的な価値である自然の懐のさ中では其が必要なものであるとは感じられなくなると云ふこと。
まあ、其処でも食ふこと、コレは結局大事ですので🍙なり🍱なりをコンビニで買っていく訳です。
然し🚺及び💲は其処で必要無くなる訳だ。
尤も自然の大好きなまさに岩窟の聖母様のやうな女性は其れは其れで立派だ。
だがファミリーレストランだとかでいつまでも御喋りして居るのが好きな都会的俗物女などは元々山にはまるで縁など無ひ。
元より其のやうな心理的内容ではとても成仏など出来ぬ。
少なくとも険しひ山を駆け巡りまさに死ぬか生きるか、千尋の谷底に落ちるか否か。
そんな山伏のやうな気持ちで修行せねばとてもじゃないが文明病は治らぬとさう言ふて居るのだ。
其の🍙なり🍱なりを空気の良ひ山の只中で美味しく頂く。
🍙はローソンのものが美味ひが其処は別に何でも良ひ。
🍱は何故か山の場合に限りのり弁が昔から好きだ。
間違っても両方を食わぬやうに。
食べ過ぎでもう動けなくなるぞよ。
また足を滑らせ滝壺に落ちたり滑落して大怪我をしたりして其のまま誰にも発見されずに死に至る可能性も高くあらう。
尚、今年の六月の初めに棚山にてオパールの採集をして来たが我の場合は山の頂上近くまで登りつつ石を探す。
ところが急斜面でもって往生したのである。
これまでも大変は大変だったのだがどうやって斜面を下りやうかと思ったのは初めてだった。
ひょっとして、ひょっとするともしや足腰が弱ったの?
そんな風に山は人間の価値観を正し何が大事で何が不要なものであるのかと云ふことを個々としての実存に問うて来る場所のことだ。
故に人間は出来るだけ山へ行くべきだ、勿論山に限らず海でも良ひ、川でも良ひ。
自然に直に触れてこそ其の神意を汲み取ることが出来やう。
こんなヒスイ峡のやうなところへ行けば我等もう喜び勇んで山へ登りさうしてつひでに山に貼り付き洞窟仙人にでもなって仕舞ふのやもしれぬ。
ちなみにかの宮澤 賢治は山に登るとかへって普段よりも元気になったのだそうな。
我もまた其の通りで山に居る方が鬱陶しひ都会のど真ん中でゴチャゴチャして居る時よりもまずは倍ほどもの元気が出る。
地味ながら如何にも楽しさうな夫婦によるヒスイ採集記。
矢張りと言うべきか石趣味はパートナーと共にやり愉しむのが最高なのだらう。
会津さとやま探検隊による動画は以下。
より詳しく会津さとやま探検隊の活動の記録を知る為には、
いずれにせよ石もまた地球の限られた資源なので採り尽くせば枯渇する。
だけれども、石が出て来る産地もまたあるのだ。
廃坑のズリー捨て石ーなどは確かにすぐに枯渇する。
ただし動画の数々よりも分かるやうにヒスイはカンタンには採れないのである。
観光のつひでに採集にもトライしてみる位で丁度良ひのではないだらうか。
棚山のオパールもまた風雨による浸食で土の中より顔を覗かせることであらう。
ただし棚山にも採集禁止の場所はあり。-其れもおそらくは守られては居ないことだらうがー
でも田口鉱山だけはすでに立ち入り禁止。
但し同時にパイマンを知らぬ若ひ人も増える故其の価値が著しく上がるとは言ひ切れぬことだらう。
いずにせよ石趣味は楽しひ。
自然の持つ奥深き意義を心身共に感じ取る為には是非トライしてみて頂きたひところながら實のところは余り大勢に産地に来られると困る。
其処からしても産地としての地元の人に常に採集の優先権があると云ふことをまずは弁へておくべきだ。