目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

この際大乗仏教からも学ぼう


三月の初旬のことでしたが、、勉強が好きで比較的頭が良いと思われた上司が原始仏教を学びたいのだがどうだろうか?とお尋ねになりましたので即座に「其れは止めておいた方が宜しい。アナタがお利口なのは分かって居るのだが原始仏教程反常識的なものは無いので絶対にやるべきではない。即ち見ちゃ駄目、触れてもダメ、むしろ病気の奥様のことを大事にし今後を常識的に生き抜いていかれるべきである。兎に角そんな危険思想など金輪際指向すべきではない。」


と申し上げておきましたのです。

其れで上司は原始仏教の本を買うことを思いとどまったようです。


然し三月一杯で職場を去られたので其れからどうなったのか、ソコが実は心配でならない。

まさか原始仏教の本を買いでもして便所でコソコソと読んで居たりしたとすれば非常にマズい状況である。

そうではなく、是非女の尻にでも敷かれ老後を生きるべきなのだ。



どだい哲學や宗教などといふものは常識に背を向けつまりは腹を括った上でやるものなのである。

皆で仲良くより良く暮らしましょう、なんてものはまるでそんなのではなくたとへば自決することすら覚悟の上でやっていくものだ。

即ち公布を出来なければ自決せよ。



或いは其れでもって宗教団体は稀にテロのやうなことを起こして仕舞うのやもしれぬ。
腹を括った上で宗教をやるとなるとどうしてもそうした反社会性のやうなものが表に出て来て仕舞うのやもしれぬ。


だから腹を括った上でならば、無論のこと女になど絶対に触れてはならないのである。

元々仏教とはそうしたものだったのだ。

だが其れでは人間が滅びて仕舞う。

たとえ僧、或はサンガは滅びたとしてもだ、俗人共が皆滅びては佛の教えも伝わらなくなる。
いや、俗世間は何せこんなバカばかりなので滅びても構わないのかもしれないが、兎に角教えが滅びては仏教の方としては大層困る。



其れと其の根本の莫迦、即ち無明を何とかしなければ俗人共は決して救われはせぬ。


其れも未来永劫に亘り救われはせぬ。



何故か?


つまりは莫迦の病に罹って仕舞って居るからだ。



そう我我は、此の我我こそが、其の救われない莫迦の病人である。


バカでしかも病気だ。


しかも貧乏だ。


つまりは貧しい。



ただ我ですら共に其のバカでしかも病人である。

わたくしは決して自分だけがバカでは無くしかも健全であると言うて居るのではない。



むしろわたくしは俗人共よりも余計に罪深い。


其処に問われて居ることだろう罪の程度が甚だしいつまりは一級の犯罪者である。


ただし殺人者では無くあくまで思想犯なのですが。





だから兎に角もっと穏やかに生きて居た方が宜しい。

たとへば俺は宮澤 賢治だとか急に変なことを言い出して生涯修羅の道を歩むなんてのはそんなのは異常者の行うことである。


またそうした類の生き方では野たれ死ぬのがオチだ。

宮澤 賢治など若い頃に燃えるやうな恋愛を実は経験して居るのだが、其処で結局腹を括り修羅の道を歩んで仕舞うので其の女には全く触って居ないのである。



嗚呼、だから、女に触らない奴は真理に生きることを余儀なくされすぐに死んで仕舞うのである。

なので不純化すること、あえて汚れて生きること、文學、哲學、宗教とはもう縁を切り其の腐った女の尻に敷かれてヘイヘイ言いながら生きることこそが正しい。


いや正しくはない。


ただ長生きがしたい俗な莫迦ほどむしろそうして居ろといふ話なのである。



いいかい、真理といふものは生半可なものではないのだぞよ。

たとへばわたくしの価値観、今の此のわたくしの価値観、即ち文明は丸ごと否定して居るわ、会社勤めなどもう大嫌いなのだわ、そればかりかどんな女にもモテず、しかも小難しいことを言うのが得意なのでどんな人からもまず好かれない。

おまけに病気である。



そんな人間を創るのが真理の目的だとでも云うのか?

そんな反常識的で反社会的、しかも反文明的で文明の無いところへ行きたいと常々考えて居るやうなそんな野郎のところへ真理などまるで降りて来ちゃ居ないぞよ。



まあどうでも良い。

わたくしはもう疲れた。

いや、昔からずっと疲れて居たのだ。


ただ、わたくしは常に馬鹿野郎!と言いつつ疲れて居るのである。

周りに向かってそう叫ぶ癖がわたくしにはある。



勿論其れがわたくしの病気の本質である。

そういう類での、いかにも周りを信用して居ない様がわたくし自身の病気なのである。


対して聖人の方々は怒らない。

そんな風にギャーギャー喚かないのでとても静かである。



いや、でもほんたうはわたくしも静かである。

何せ今すぐにでも植物に生まれ変わりたいのである。

結局人間嫌いといふことなのかなあ。




さて、かのヴェーバーが述べたが如くに生とは病である。

してみると其の生の病気は、たとへばキリスト教でも捉え得るものであるらしい。



然し仏教はより根本的に其の病につき論じて居る。

即ち、我癡、我見、我慢、我愛といふ煩悩の様が其の病の正体である。

そう唯識などは説く。



唯識つまり大乗の教えはそう説く。

尚大乗は不純だけれども、女に触って長生きすることよりは良いのかもしれない。

まだマシなのかもしれぬ。



だから一体何処へ価値の基準を置いて居るのだ?
女に触って長生きすることが良いのか、其れとも宮澤某のやうに真理の道を突き進み早死にして仕舞うのが良いのか。

わたくしは今どちらも極端なやうな気がして居るのである。

だから少なくとも原始仏教を学ぶよりは大乗の教えに耳を傾けるべきである。

其れもアナタ方俗人は。



だがわたくしはむしろ女の膝枕、是を是非志向すべきなのである。

いやそう指向していかざるを得ない。


そうしないともう死んで仕舞う。

まさにヒイヒイ言いながら死んで仕舞うのだ。


こんな詩人が一人死ねば、もう世の中にとっては大変大きな損失である。

そうか、ではわたくしは生きよう。

常に女の膝に顔を埋めつつ生きるのだ。


嗚呼、それに団子が食いたい。

女の尻に敷かれつつ是非美味い団子も食いたい。

食欲と性欲こそが我を生かす道とそう思うが故に。




そんな訳で、大乗仏教とは人間といふ矛盾の存在と共に生きる仏教のことだ。

原始仏教即ち釈迦の仏法は純粋に解脱を目指すもので其れをする為には俗人を辞めなければならない程の厳しい教えのことである。

俗人であることを捨て、そればかりか人間であることも辞めて食欲、性欲、権力欲、金が欲しい欲に子煩悩であることへの欲、即ち自己保存欲、そうした諸の欲をもう綺麗サッパリ捨てるのであるからソイツはもう人間であるとは云い難い。



だから人間を辞めるのである。

無論のことそんなことが人間に出来る筈がない。



なのでわたくしはかって上司に向かい原始仏教を学ぶべきではないと諭したのである。

そうではなく今読んで居られる鈴木 大拙の本とかそんなものを適当に読んで居れば其れで宜しい。



どだい余り真剣に仏教など学ばない方が良い。

真剣に仏教を学ぶとこんなわたくしのやうになり、つまりはたった今死のうが何の悔いも無い、元々生とは錯誤から生じた病気なのであるからあらゆることが無価値である。パートナーもマイホームも子供も文明も皆無価値でしかも虚の現象である。そんなものに心を砕く位ならまさに山で野たれ死ぬ方がマシだ。第一言語といふもの自体が虚の親玉なのでわたくしはもう言葉など無い世界へ行きたい。


そして是非其処で光合成をして生きるのだ。

それでもって嫌らしい化学物質をどろどろと出し、自分の周りに雑草が生えないやうにする。

我はこんな高貴な植物ゆえ、周りに変な草など金輪際生えて来てはならない。


などと其処でつひ自我を形作って仕舞う。

何と植物になっても我は自己本位に生きるのだった。

しかも繁殖力が強いので辺り一面に増えて仕舞い辺りの環境を破壊し始めた!



もうコイツだけは引き抜いておくべきだ。

ほれっ、と神仏の御手により我は引き抜かれた。

そしてまた人間に生まれ変わる。



其の生まれ変わった人間こそが何を隠そう、今のわたくしなのだ。



唯識が説くのは、いや、原始仏教が説くのは、客観的実在と主観的実在が共に無いことである。

ゆえに身心はそのままでは真理と結合することがない。

謂わば身心を持つ、保つこと自体が大いなる錯誤なのである。


ゆえに真実の自己とは、我のことではない。

我は我我の生み出す幻である。

いや、我の生み出す幻のことだ。



だからアナタ方は居ないのであるし、かつわたくし自身も居ないのである。

居ない人が妄想するのでアナタ方は居て、さらにわたくし自身も居るのである。



末那識と阿頼耶識に於いて此の悪循環が繰り返され存在は存在として認識され得る。

其の認識こそは悪である。

此の悪こそが病気を生じさせ、老いを育み、死を用意する。



されどそういうのは、全て真理が説明することなので、我我凡人には無理に向かなくて良いことなのである。


第一無いと言ったって現に今此処に団子はあり、しかも女が現れ、我の周りに何やらフェロモンのやうなものを振り撒いて居るのであるし、よしんば団子と女を消し去ったにせよ、文學乃至は哲學、はたまた仏教を學ぶこと、本を読むこと、何か文字を書くこと、などからはほぼ逃れられず其の理由でお勉強の煩悩に深く捉えられし我は結局強固な我を形成し今此処にこうして現れ出て居るのである。



だから無論のこと我も凡人。

つまりは詩人の凡人。



凡なるものは凡のままの方が良い。

そしてコレがコレこそが大乗仏教の考え方なのだろう。

確かに原始仏教では大問題が発生して仕舞う虞が多分にある。



なんとなれば原始仏教に於いては文明または人間の存続などといふことは考えられて居ない。

要するに人類が皆解脱して此の世界から消え去るーもう戻って来ないーのが原始仏教の説く理想と云うか真理の体現である。

然し人間が皆居なくなると此の世界はケダモノと植物だけの世界となり文明も文化も何も無い、謂わば究極の脱人間中心主義の、いや、ハナから人間などは不要、要らないのは実は人間だけだったといふまことに冷たいと云うか情けないと云うか、もうまるで人間嫌いの世界観に陥って仕舞うところなのである。


とどのつまりは其処が原始仏教の弱点だったのだろうか。



ただし人間が総じて解脱するとなると仏の世界はもう人間で溢れかえる。

否、人間で溢れかえるのではない。

あくまで人間を辞めた人間、所謂聖なる人非人ばかりで溢れかえるのである。



でもギャー、アレが欲しいコレが欲しいとか、我先にと女を漁るとか、さういふはしたないことはもう其処で行われることがない。

其の代わりにいつも蓮の花が咲いて居る。

其の一輪の清い蓮の花が我を失くした人々の周りで微笑んで居るばかりなのだ。