仏法即ち真理による認識によれば、此の世の実在性はとりあえずは否定される訳です。
此の世界自体がそうした虚妄のものなのですから、其処で子孫の存続だの、社会の繁栄だの、または家系の興隆だの、はたまた美味い物を食いたいだの餓死したくないだの、孤独は嫌で孤独死などしたいくないだの、良い車に乗りたいだの、キレイな母ちゃんが欲しいだの、実はブチョーに是非なりたい、兎に角金が欲しい、いや幸せが欲しい。それにいつかJKに触りたい。
だがそういうのに限って其の幸せの定義が間違って居る。
そんなものは悉く虚の追求であるのに、むしろ其処だけに捉えられ生きていく。
だから死んだ後もロクなことにはならない。
そうした俗な価値観の元で生きて居るので大層苦労する。
其れも未来永劫に亘り苦労する。
なのでかって釈迦は我我盆暗共に真理を指し示した。
まばゆいばかりに輝く法を我我の腐った脳髄に叩き込んだ。
筈であった。
筈であったのに、以降二千五百年を経ても我我の頭の中は腐ったままでしかも盲目である。
いや、盲目だけではなくほんたうは節穴から女の裸をつひ覗いて仕舞うが如くにエロでありふしだらであり莫迦である。
先に述べたが如き臭い欲望に深く捉えられし我我の目は節穴だ。
アナがあいて居るとつひ見たくなるそんな我我の心の根の方が物凄くエロい。
兎に角ふしだらだ。
さらに莫迦だ。
実際何度言ってもそうなる。
もうそうとしか言えぬ。
そうしたものに捉われて居る限りアナタの中に真理の光は飛び込んで来ない。
ならばまずは女を捨てよ。
そして飲酒を止めよ。
即ち社会を否定せよ。
なんとなれば此の世の価値はとりあえず全てが無価値である。
のみならず不可知であり其れは見えず聞こえず語られることもない。
どだい人間の正体が何であるかだなんて、実は誰も云ったことはない。
だがあえて云おう。
人間とは、欲である。
欲のカタマリである。
其のカタマリの欲が、其のJKに触りたいといふ欲が根源的な罪の欲であり地獄へ通ずる門を、嗚呼、其の門を今まさに開くに至る煩悩の根本原因だ。
よってまずはエロを止めよ。
エロを止め自らを中性化し菩薩となれ。
すると、限りなく人間が嫌になりもう今すぐにでも植物にでもなりたくなって来ようが其処を我慢してアナタだけは人間を続けなさい。
即ち其処で我慢出来ないことを我慢して、仏様乃至は救世主様に全てを委ね生きていくのである。
もうそれしか無い。
人間共に残されし道はもうそれしか無いのだ。
そしていずれは唯物論の暴走つまるところは合理精神による自己矛盾により全てを破壊し尽くした人間の社会は木っ端みじんに爆破される。
其れは小天体の衝突とかそうした類での偶然のことではなく破壊としての必然の過程である。
あくまでそういう破壊を自分でやって仕舞うといふことである。
なのでわたくしはもう長きに亘り其のふしだらなのを改めよと言って来たというのに君等人間は此の詩人の魂の叫びに耳を傾けようともせずたとへば景気のことや自分の子供の出来が悪いこと、はたまた奥さんが浮気をしたこと、等とそうした実に下品かつ低次元なことばかりにかまけて其の真実の叫びに耳を傾けようとはしなかった。
だからわたくしはもう怒った、いや、匙を投げた。
もうどうでも良いので、社会のことなぞどうでも良いのでわたくしはわたくしだけの道をゆく。
それではわたくしだけの思考の世界に早速入らせて頂きます。
まずは、客観的実在性と主観的実在性の無さこそが此の世に於ける問題なのでありところが其れは概念的区別=論理の枠組みによる問題なので謂わば其れこそが人間が自ら生み出して仕舞って居る問題なのである。
其の世界に客観的実在性及び主観的実在性の無いことは、実は自然界に於いては即問題となることではなく彼等は其の訳の分からない、つまりはまさにいい加減ー偶然の産物ーで建設することの出来ない世界をむしろそのままに生きー生を謳歌しーしかも自らが美しく光り輝くかのやうに生きて居る。
ところが観念といふ二次的な分解を受けた人間の精神即ち理性ー言葉による論理ーにはもう其の生き方が理解されないのである。
だから其れが人間の持つ癖ー本性ーなのだ。
なので其の理性、こそがほんたうのほんたうは一番の曲者であり謂わば悪魔でもあることだろう何かである。
なんとなれば理性とは客観的実在性と主観的実在性を共に此の世界に実現せしめるべく活動を行う何らかのものなのだ。
だから自然にとっては意味不明の、まさにどうでも良いような価値である家系だとか、墓だとか、社会だとか、文明だとかいう其のどうでも良いやうなことだけがむしろ人間にとっての大事な価値を生むのである。
でも其れは理解不能である。
自然界ならびに自称詩人にとっては。
ちなみに自称詩人は兎に角変わって居るのでつひ先ほどもコンビニで店員に文句をたらたら述べて来たところである。
でも其の話はもう良い、其れは社会性に欠けるといふわたくしが持って生まれし恥を晒すことになるだけなのだから。
其の論理的な思考の構造に於ける癖が、今では無論のこと此の近代世界を覆い尽くすに至って居る。
即ち、
金が無いよりは金があることの方が偉い。
女にモテないことよりもモテることの方が偉い。
貴族または国王、或は大統領は庶民よりも偉い。
社長は平社員よりもずっと偉い。
東大出は三流大出よりもずっと偉い。
このやうにどうも此の論理の道筋はヒエラルキーを形作りがちだ。
さらに、
一流ホテルの料理は当然ながら連れ込み宿の飯などよりも美味い。
新車のランボルギーニは中古の自転車よりも偉い。
発展途上の国に於ける電気も無く便所も無く金も無い様よりは先進国に於ける豊かで速くて金まみれの様の方がはるかに望ましい。
ともう幾らでも、何とでも言える価値のヒエラルキーが形作られて居る。
然し人間にとっては、コレがコレこそが至上の価値観であり至高のヒエラルキーなのではある。
なので、もう誰も此の価値観からは脱け出せない。
人間である限りは脱け出せやしないのだ。
ただ、宗教に於ける価値観のみが、此の論理的ヒエラルキーの世界に待ったをかける。
宗教のみがこうした唯物主義的ヒエラルキーに疑義を呈するのだ。
そして論理的な思考は、客観的実在性と主観的実在性を共に此の世界に実現せしめるべく活動を行う。
すると、必然として其処で真理との間に距離が生じて仕舞うこととなる。
あくまで真理として客観的実在性と主観的実在性が共に無いこと、コレが此の世の実相なのである。
ところが自らが汚いー何せ二重に分解されて居るゆえに汚い心ー煩悩にまみれた、または悪魔に唆されし心ーしか持ち得ない人間は其の真理をむしろネジ曲げることで生きて来たのだ。
いや、ネジ曲げて生きることこそが人間の生の実存的展開なのである。
ネジ曲げない生は、自然そのものでありつまるところ其れは自然のみで沢山だと云うことなのである。
だから人間といふのは、そんなまるでバカでキチ○×のやうな、そんな異常なそして特異な、要するにふしだらかつ背徳の極みであろう存在、いや、そればかりか、破壊者そのもので、しかももうこれはとんでもなく破壊者で、一体其処で何を破壊するのかと云えば、近代までは自然の表面を破壊し続けて来、さらに近代以降は自然の内側を破壊し続けて来、なおも今は人間の内側即ち心の領域を破壊し続けて居るといふ、もうまるで欲望の権化、まるで欲望に手足が付いてそこいらを歩き回って居るやうな、そんなふしだらなネジ曲げを、ネジ曲げの為の捻じ曲げを行う者のことを云う。
問題は、其処で客観的実在性と主観的実在性が共に無いと云う真理を反古にして歩む人間の行く末のことである。
其の嫌らしい唯物主義的ヒエラルキーに寄りかかり、あくまで金が欲しいだの女が欲しいだの長生きがしたいだのと、さうした虚の価値観、虚の客観的実在性と主観的実在性とに寄りかかり、対して環境や先祖への感謝、清貧かつ貞淑であることへの希求、存在としての自らの罪の自覚、さうした諸の善の規定に背を向け背徳の限りを尽くすことだろう文明の価値観の虚無性、ギャンブル性、即ち無軌道な無計画性。
そんな訳で、一体何が悪いかと云えば人間であること其れ自体が悪い。
ですので是非人間を辞めるべきであるといふ釈迦の思想はまず何よりも正しい。
さらに其の悪い人間を神の領域で浄化すべきだと考える一神教に於ける価値観も認められないものではない。
で、問題は文明である。
特に近代以降の文明はむしろ其の人間を巨大化ししかもより顕在化させて来たのである。
だからなのか今の文明世界はまことに癖が強い。
尤もわたくしが若かった頃はもう少し普通だったのだが現文明に於いて唯物主義的ヒエラルキーはより強固に形成されしかも客観的実在性と主観的実在性が共に無いという真理に対し甚だしく乖離して仕舞って居る。
それではどうしたら良いのか。
どうしたら人類は助かるのだろう。
いや、其れはもう無理だ。
無理なものはもう無理だ。
でもほんたうのほんたうに問われて居るのは、社会のアホさ、バカさ加減のことなのではなく君自身の心の内容だけなのである。
だからバカはバカで突き進んでいくのであろうが、其れと君自身のお利口さとはまた別の話なのである。
いや、本当は君がお利口になれれば社会も変わるのである。
君が女とギャンブルとを捨て去れば社会も女とギャンブルを捨て去るのである。
君が客観的実在性と主観的実在性を共に否定すればつまり空を観ずれば、其の嫌らしい唯物主義的ヒエラルキーは崩壊し清い、嗚呼、実に清い一輪の蓮の花、其の白き汚れなき花のやうにさえなれるんだ。
尚、人間の本性は左様に醜い。
わたくしは其処をこそ俎上に載せ議論を展開する。
其の意味ではわたくしは宗教ー現世利益的なーを超える宗教性を自らの中に抱えて居る。
其の宗教性こそがわたくしの核である。
其れは持って生まれしものなのだ。
これまでは其の重荷に耐え切れないことが度々あった。
だが世界はそんなわたくしの言葉をこそ待って居ることだろう。
こんな風に自称詩人は世界と格闘し日々言葉を紡ぐ。
其れはわたくしに与えられしひとつの運命である。
尤もそんな運命はもう御免なので、
ほんたうのほんたうは、もう山奥で人知れず咲く名も無き草花の一輪にでもなりたい。
此の分らず屋で癖の強い人間界を離れ、まさに唯我独尊でもって哀しく咲いていたいのよう。