血液型ゲノムー血液型性格相性診によるわたくしの診断結果
CHARACTER
性格
WORK
仕事
LOVE
恋愛
1.何事にも抜け目がなく、小さなミスがあってもすぐに修復する
修復出来るところもありますが、修復出来ないところもまたある。完全主義なので全部最初からやり直しとなる可能性もまたある。
2.ひねくれたところがあり基本的に人は疑ってる
天邪鬼なので常に常識や世論に対しては背を向けまるで作家のようなことを言うことが得意です。元々人間嫌いの詩人ですので。
3.向上心をもって常に伸びようとします。また自分の考えや行動に自信を持っており、自己中心的なところがあります。
自分の考えや行動には絶対的に自信がありますがむしろ其の故にこそ成仏出来ないだろうものと考えて来て居ります。
4.安定した職場での決まった仕事を求めます。休みのときにも仕事のことを心配したりして、やるべきことに集中できないときがあ ります。
決まったこと以外は何も出来ませぬ。何せ性格の根の方がまるでかのカントですので。
5.世の中は悪であると思っており、他人を心から信頼しません。
世の中は悪であると今も何度でも此処でそう言って来て居ります。他人ばかりではなく自分をも含め人間を信用しては居りませぬ。人間を信じると其の時点で宗教の世界に入って仕舞い詩人として世の役に立つことが出来ませぬ。
6.責任感が強く自分の信念があり、また論理的な結論を常に求めます。
全く仰せの通りで論理的な結論を常に求めます。また自分の世界の中に常に埋没しつつ生きて居ります。
7.ちょっと相手に甘えてしまいます。
女性には甘えます。だから女性からは嫌われます。
8.急に相手の女性が冷たい態度をとると、そればかり考えてしまうときがあります。
実は今そればかり考えて居ります。関係を修復する為の手紙を三度も書き直しました。
9.相手の女性を尊重します。お互い成長し合える関係を望みます。
尊重します。何故なら自分をも尊重するので。互いが菩薩となり人類の未来を構築することこそが我々の責務です。
という訳で95%位の確率でほぼ完璧に性格を言い当てられて居りました。
尚、血液型がA型の人の資質のひとつに悲観性というものがあるのではなかろうかとそう思うので御座います。
ただし其れにも幅が常にありますが、此の悲観性なるものがA型の人の典型的な資質であるとは無論のこと申せません。
然しA型人間は少なくとも楽観論者ではないこともまた事実なのであります。
ところが近代以降人間の社会ではむしろ此の悲観性をこそ限りなく滅していくことこそが是とされて来たのであります。
社会の思想の誤謬から招きし世界大戦や経済恐慌などの齎す人間の精神への多大なる圧迫、また戦後は戦後でバランスを欠いた豊かさや富への固執つまりは欲望の追求に対し素直即ち肯定的でなければ誰しも生き残れなかったのであります。
すると、人間は基本的に此の悲観性なるもの、即ち負としての感情、否定的感情を抑圧していかねばならなくなる。
或は本音と建前を使い分け本音では悲観的なのだが建前として近代が用意する欲望の追求に対して常に楽観的でなければならないので す。
この様にして近代の思想は人間の内面さえをも捻じ曲げていって居たのです。
より具体的には合理主義が其の様に人間の内面にまで入り込み人間の内面の在り方を革命していったのであります。
其処で本質即ち心の本性に対して常に誤魔化して生きて行くほか無くなったのです。
特にA型またはAB型の資質の人間にとっては其れはまるで拷問のようなものであったことだろう。
作家の血液型
夏目漱石 A型
志賀直哉 AB型
谷崎潤一郎 A型
芥川龍之介 A型
江戸川乱歩 O型
太宰治 AB型
坂口安吾 A型
川端康成 O型
三島由紀夫 A型
安部公房 AB型
石原慎太郎 AB型
大江健三郎 A型
吉本隆明 A型
遠藤周作 AB型
安岡章太郎 B型
吉行淳之介 B型
五木寛之 O型
野坂昭如 O型
村上春樹 A型
村上龍 O型
横溝正史 O型
小松左京 A型
筒井康隆 B型
星新一 O型
結論
1.近代に於ける作家の苦悩はA型とAB型の作家が築きし謂わば悲観の産物であった。
2.O型の作家も意外と多くわたくしにも理解出来る人が多い。特に五木先生の作品は良く読む。現在も「孤独の力」という本を読んで居ります。ただし村上龍に限れば好きではない。
3.然し、どう考えてもA型作家乃至はAB型作家は、其れも特に昔のA型作家は危ない人が多いように思えてならぬ。
4.B型の作家も他に色々居るのかもしれないのだが日本人作家の場合には何故かほとんど一流の作家には入って居ないようである。
5.だから其れがA型乃至はAB型の本質に対して融通の利かないー悲観性があるー様と論理構築力がある様を併せ持つA型と本能的で本質に対して融通の利 くー楽観性があるーB型との差異なのである。
6.O型の作家が特に楽観的であるとは思えないのですが其処は矢張り漱石や芥川、太宰や安吾のようには悲観的ではないことだろう。もっとも安吾が悲観的であるとは言い切れないのであろうが、然しあれだけヒロポン中毒に陥るところなどを考慮すれば彼もまた明らかに頭の方が壊れた作家である。もっとも当時の作家の頭の中身は皆壊れて居たのだったが。
7.A型作家は基本的に真面目なので本質に対して全然誤魔化しがきかない。だがO型の五木先生などは確か自分が暗くて悲観的だと いうようなことを述べられていた筈である。ここからしてもO型というのは良く分からないということである。
よって悲観とは、是即ち真実を見破る力のことである。
或は本質を捉え切る力のことである。
尚、是は決して学校では教えて貰えない力のことなのである。
特に近代以降の学校では教えて貰えない力のことなのだ。
其れはあくまで自らが創り上げし考える力のことだ。
乃至は生まれついて持ち合わせし考える力のことだ。
然し近代以降社会は此の力を思想的に排斥して来たのである。
其れに対し抗し得たのは、近代以降の作家であり藝術の分野、または宗教の分野の方々でもあった。
其の結果、近代的な合理主義思想は人間の頭の中身を須らく調教していったのである。
今や誰しも近代的なあらゆるものに対して疑問を抱かなくなって仕舞った。
ーいよいよ現実世界へ引きずり出された。汽車の見える所を現実世界と云う。汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う 人間を同じ箱へ詰めて 轟ごう と 通る。 情なさ け 容 赦ようしゃ はない。詰め込まれた人間は皆 同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に 蒸じょ うき の 恩沢おんたく に 浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を 軽 蔑けいべつ したものはない。文明はあらゆ る限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。 一人 前ひとりまえ 何坪何合かの地面を与えて、 この地面のうちでは寝るとも起きるとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。同時にこの何坪何合の周囲に 鉄柵てっ さく を設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと 威嚇お ど かすのが現今の文明である。何坪何合のうちで自由を 擅ほ しいまま にしたものが、この鉄柵外にも自由を擅にしたくなるのは自然の 勢い きおい である。 憐あ われ むべき文明の国民は日夜にこの鉄柵に 噛か み ついて 咆哮ほうこう してい る。文明は個人に自由を与えて 虎とら の ごとく 猛たけ からしめたる 後、これを 檻穽かんせい の内 に投げ込んで、天下の平和を維持しつつある。この平和は真の平和ではない。動物園の虎が見物人を 睨に ら めて、 寝転ねころ ん でいると同様な平和である。 檻おり の 鉄棒が一本でも抜けたら――世はめちゃめちゃになる。第二の 仏蘭西革命フラ ンスかくめい はこの時に起るのであろう。個人の革命は今すでに 日 夜にちや に起りつつある。北欧の偉人イブ センはこの革命の起るべき状態についてつぶさにその例証を 吾人ごじん に 与えた。余は汽車の猛烈に、 見界みさかい な く、すべての人を貨物同様に心得て走る 様さま を 見るたびに、客車のうちに 閉と じ 籠こ め られたる個人と、個人の個性に 寸毫すんごう の 注意をだに払わざるこの 鉄車てっしゃ と を比較して、――あぶない、あぶない。気をつけねばあぶないと思う。現代の文明はこのあぶないで鼻を 衝つ か れるくらい充満している。おさき 真闇まっくら に 盲 動もうどう する汽車はあぶない標本の一つ である。
停車場ステーション 前の茶 店に腰を下ろして、 蓬餅よもぎもち を 眺な が めながら汽車論を考えた。これは写生帖へかく訳にも行かず、人に話す必要もない から、だまって、餅を食いながら茶を飲む。
青空文庫ー草枕 夏目漱石より抜粋して引用
この汽車の描写こそはまさに炯眼での洞察である。
まるでこの時すでに近代合理主義の暴走を予見していたかのような文明論が此処に展開されて居ります。
其処では個人は客車即ち文明の利器に閉じ込められ、同時に文明自体からは個としての自分が無視されて居る訳だ。
だから是では危ない、危ない、気をつけねば人間は今後どうなって仕舞うものか分からない。
個が、乃至は家族が親族が、むしろそうした前近代に安定して存立して居た要素がバラバラに解体されていくことだろう危険をすでに此の時漱石はすでに危ぶんで居たのである。
即ち所謂文明の発達は人間を本質的に貶めていく。
ましてや汽車だけではない。
自動車が、飛行機が、PCが、AIが、やがては人間を本質的に貶めていくのである。
さて是が文學の力だと言わずして他の何が是に匹敵し得ると云うのだろうか。
ですのでまさに此の漱石の炯眼こそが文學即ち悲観的批判性からの賜物なのであります。
ちなみにわたくしは、もう四年程自動車に乗って居りません。
三十三年間車に乗りましたが、今は自転車と徒歩と公共交通機関でもって移動して居ります。
すると、色んな物が逆に良く見えるようになりました。
嗚呼、道端にあんなに綺麗な花が咲いて居たのか。
嗚呼、あんなところに猫の子が捨ててあるぞ。
嗚呼、あの家はどうも金がありそうだ、あの全自動式のガレージの中にフェラーリなどを三台も持って居るぞ。
てな訳で、其れと共にむしろ良く見えるようになったのです。
若い頃はいかにもA型らしくスピード狂でもって良く暴走していたものでしたが、其の頃はむしろ何ひとつ見えて居なかったことにようやく気付いたのです。
漱石の悲観性はまさにA型作家の中でも卓越したものです。
漱石は元々学者ですので、所謂學匠的な意味での批判力が何より其処には感じ取れます。
そして批判こそは反省です。
全体主義としての近代合理主義が抑圧して居るものとはまさに其の反省力のことです。
ですので我々はすでに合理主義的帰結として生み出されしものの数々に対し疑いの目を向けることに消極的です。
それでもこうしてかってのA型文豪が我々に示して下さって居るものがあるのです。
其れは文明への批判の目であり、反省力のことであり、其の反省力は悲観の心からこそ醸成されます。
近代の思想の根本的な過ちとは、此の文明への批判力、反省力即ち悲観の力を根こそぎシャットアウトしていったことこそにある。
謂わば近代の思想は人間をして自らに反省力の無い家畜の群れに変えていって仕舞った。
だから其れを止めた方がよろしかろうとわたくしはそう申して居りますのです。
其れを続けて居るよりは悲観的なA型の作家の親分である漱石の「草枕」を読む方がずっと為になることだろうとそう申して居るので御座います。