悲観の力とは其れ即ち内省の力のことだろうと思われます。
そしてかっての知識人には此の内省の力が目立って存在して居たのだと言える。
ところが今の知識人には此の力がまるで欠けて居るかのように思われてならない。
まるで文明の尺度に自らの頭の中身を調教されて仕舞ったかのようだ。
きっと文明の為の御用知識人が増えて仕舞ったからなのではないか。
とは云え実際には強烈な批判というものもまた一方には存在して居る。
ではあるのだが、矢張り一般に悲観力即ち内省力の減退は著しい。
物質主義は、そして合理主義は、其の様に悲観の心さえをも追い詰めていく。
悲観の心とは非合理な領域での心でもまたある。
其れは謂わば大いなる無駄の部分の心である。
無駄でありマイナスの領域での心の在り方だ。
ところが此の無駄こそが、人間をして人間たらしめて居ることだろう大いなる無駄でありマイナスの部分である。
其れを好んで削げば、次第に人間の心は追い詰められていく。
非合理な領域は人間の心にとっての余裕であろう筈なのに其の大事なところを好き好んで削り取っていくのである。
事実何だか知らないが現代人は皆毎日忙しく心に何のゆとりも持てない。
まるで秒殺地獄、刹那の地獄の連なりを体験するが如くに日々忙しい。
然しそういうのも、一面ではまた全部慣れと云う事にもなりましょう。
たとえばタバコが嫌いな人にとっては煙草の匂いが非常に気になるものなのですが、わたくしのような煙草のみにとっては何で其れがそんなに臭いものなのかとんと分からぬものである。
また自動車にいつも乗っていれば、其れが暴力的な移動手段であることなどとんと分からぬ。
つまりはすでに我々は文明に慣れ切って仕舞って来て居りましょう。
だからもはや相当な不感症になって居るものと考えざるを得ない。
近代の思想は我々にそんな不感症であることを強いて来て居るのである。
其れが怖いのは、大規模にかつ細部に至るまで合理化が図られていくことである。
すると、必然的に其の合理化は人間の心理的な余裕を奪う。
PCが、或は携帯端末が、或はAIが、やがては人間の心の余裕を奪い其れを破壊するに至ることだろう。
もっともそればかりをやっている限りは。
PC上でもたまには漱石でも読んで居れば精神の正常値を保てる筈だ。
だから古いものにも親しみ合理主義の病に罹らないようにしよう。
さて、古いものが良く見え、新しいものが何か悪いもののように見えるのは年寄りとしての心理の常である。
つまるところ、わたくしは五十代の年寄りなのである。
脳内推定年齢は大体九十歳程ですね。
それだけ頭を使い込んで来て居るので気が付くとすでに老成して仕舞って居たのだ。
ただ、現代の抱える問題はそうした年寄りのかたい頭よりの叱責ではもはや何ともならない位に肥大化して仕舞って居るのだ。
だからわたくしの文句はただの年寄りの回帰ー懐古ー趣味ではないのである。
現代の抱える問題は須らく其の様に大問題化していくのである。
我々は今本質的に余裕を持てないからこそそうならざるを得ないのである。
さて、今ここでわたくしのPCがぶっ壊れたとしてみよう。
すると実はこのPCがぶっ壊れたというマイナスが即大きな問題としてわたくしにのしかかって来て仕舞う。
何故ならわたくしはPCに弱く其れを直すことが出来ない、だからこうした作文もままならず、従ってこうしてブログへ投稿することなども能わずだ。
ところがもし手書きで原稿でも書いて居るのならば、其処で筆記具を変えるなどの簡単な作業にて書き続けていくことが可能である。
或は右手が腱鞘炎に罹り痛いのであれば、左手にて書けないこともない訳である。
つまるところ合理主義からの帰結により生み出されしものは不測の事態への柔軟な対応が効かないことが多い。
またたとえば昔のキャブ車は自分で色々と調整出来たものだったが、最近のPC車は調整もクソも無く壊れると其処ですぐに止まって仕舞う。
のみならず車のキーの無い車が多くて困る。
わたくしは時折レンタカーを借りるのであるが、キーが無いのでどうやってエンジンをかけるのか分からず人に尋ねたりすることが屡である。
三十年以上も車に乗って来たというのにね。
そのやうに合理主義からの帰結により生み出されしものは謂わば融通が利かない、即ち柔軟性に欠ける。
ダメとなると全部がダメになる。
だから合理主義文明ー都市空間ーの方もまたダメとなると全部がダメになる。
其れは何故か?
余裕が無いからである、余裕が。
ちなみに漱石など今読むと、冗長かつ回りくどい書き方なので嫌になることさえもがある。
五木先生の本でさえ何だか回りくどいなと思えることが屡である。
ところが、其れは多分漱石や五木先生がおかしいのではなくいつの間にか合理主義化されしわたくしの頭の中身の方こそが多分おかしいのであろう。
つまるところわたくしの頭の中身の方こそにそうした非合理領域を受け容れる余裕が無くなって来て居たのである。
以上のところを纏めると、
1.問題が問題を突き破り大問題化していくリスクを合理主義文明は常に抱えて居る。大問題は生身の人間即ち等身大の人間には解決不可能であり、そうした巨大なリスクのただ中に個々の人間は置き去りにされる。
2.現代に於ける最大のリスクは、自らの心を破壊していくかもしれぬ合理主義からの帰結により生み出されしものから逃れられない点にこそある。
3.悲観の力とは内省力であり反省力のことであり、元々其れには欠けていよう筈の合理主義文明は最終的には人間の破壊を齎すこととなろう。
そんな訳でわたくしが述べて居るのはただの懐古節、回帰節ではなくあくまで理論的にリスクが幾何級数的に増していくことだろう合理主義文明に於ける思想的誤謬に就いてである。
実際近代三百年間でおそらく人間は何度も巨大化されて来て居ることだろう。
其の巨人化された人間が、それぞれ何度も破壊を経験して来て居るのだ。
科学技術の発達は人間を外的かつ量的に破壊して来た。
其れに続く情報化社会は人間を内的かつ質的に破壊するのである。
またロボットやアンドロイドの登場は人間が今此処に生きて居る意味すらをも奪うことになるだろう。
さて、是が是こそが其の無駄の無い合理的思想の帰結としての気持ちの悪い何かである。
A very human-like robot invented by Japanese engineers
https://www.youtube.com/watch?v=MaTfzYDZG8c&nohtml5=False
キャー、気持ち悪い。しかも年々精巧に造られるようになって来て居るようだ。
人間かと思った! 日本企業が作った美少女アンドロイド「ASUNA」ちゃんがリアルすぎる
https://www.youtube.com/watch?v=T3fWhG-TM7A&nohtml5=False
キャー、確かにリアルだ。でもこんなものを造る金があるなら他にもっと有意義なことに金を使うべきである。
エリカは23歳 美しすぎるアンドロイド
https://www.youtube.com/watch?v=cb_tmGe3ga0&nohtml5=False
キャー、確かにアンドロイド妻ー子供位の歳ながらーとしては候補のひとつである。然しながら、人形は人形である。あくまで人間ではない。ゆめゆめ其処を間違えぬよう。
尚我に限ればこうした可愛い人形よりも年増の女の方が好みである。
多少不細工だろうが何だろうが生の女の方がなんぼかましと云うものよ。
其の前に何故こうしたものを科学者達が真面目に作って居るのかということがそも分からない。
こうしてロボットやアンドロイドを造って其れで本当の本当に人間が幸せになるとでも言うのだろうか。
本当の本当はそんなものが出来るお蔭で人間が逆に不幸せになっていくのではあるまいか。
こんなものを造る位なら大学を出れば即正社員として就職出来る世の中にして、かつ其の後も安定した生活が可能で二人位子供が居て爺ちゃん、婆ちゃんとも同居出来るようなまともな社会をつくり上げることこそが大事なのではなかろうか。
また病気になり医者へ罹っても自治体や国が費用を負担して呉れる社会をこそ皆様は望んで居られる筈である。
のみならずたまには漱石や五木先生の本位は十分に読めるだけの精神的な余裕を日本人に是非与えるべきなのである。
また平等などと称して余り女性を生意気にはせず、それこそ女性は日々を掃除洗濯家事育児に黙々として勤しむことだろう良妻賢母の育成をば是非実現させて頂きた いものだ。
今や離婚した揚句にあっけらかんとしてかえって前より元気な女などは不要であろう。
女性は女性の分をしかと弁え、また男性は男性の役割をしかと見据え、其処でくれぐれも浮気や博打などに精を出すことの無い様、また性は快楽の道具では非ずして神聖なる生殖の結果であることをしかと見据えた上で諸の行動をば決定すべし。
実際今こそ人間は此の濁世を清く正しく美しく生きていかねばならない。
このやうなロボットやアンドロイドが齎すインパクトについ騙されて居てはならぬ。
ロボットやアンドロイドは虚の合理主義文明が生み出しし虚のラヴドールであるに過ぎぬ。
そんな下品なものに心を捉えられる位ならもはや貴方はコリン星かどこかに生まれ変わった方がよい。
此の地球上ではこんなものは元々要らない。
あの手塚 治にしても鉄腕アトムなどではなくブッダの方を是非読むべきである。
でもラヴドールが欲しい。
否、決して要らぬ。
金輪際要らない。
もう決して女には手を出さぬ。
実際「どんな聖人も一皮むけば金と女と権力」と云われる世の中ながら我は違う。
金と権力には縁が無く、おまけにどんな女とも一切縁が無い。
かの宮澤賢治のやうに、聖人君子で朴念仁、でもってして必ずや我は往くことだろう。
ただただかの漱石を想い続け、其の悲観の力でもってして合理主義思想を葬り去ることだろう。