まず述べさせて頂きたいのであるが、こんなことが急増して居るようでは人類の滅亡はまず必至である。
女性はまず子供のことを考えるべき。
子供は父親が安定した立場にあればこそ良い子に育つ。
其れが男性に手を上げるなどもってのほかだ。
馬鹿な女性たちよ、いい加減に目を覚ませ。ー利口な女性の方々はまた別としてー
覚まさぬと、お前等の子までもが全滅なのだよ。
AI開発や利用、倫理指針検討へ 政府が有識者懇
http://mainichi.jp/articles/20160413/ddn/008/020/042000c
有識者といっても、そも人工知能とは何かということを分かって居ない知識人が集まって一体何を話し合うというのであろうか。
人工知能などというものはそのやうにそも人間の思考の限界を超えたものである。
其の訳の分からぬ領域に対してどんなに考えたとしても何も出て来はせぬ。
詩的に表現すれば人工知能とは人類を追い詰める檻そのものである。
或は人類の馬鹿さ加減を映しだす鏡のことである。
しかも問題は人間がどうしてここまで馬鹿になったのかということなのであり其れにつきわたくしは此処でこうして考察を重ねているばかりなのだ。
人工知能
何か高級なもののように見えて、其の実は最高に下らないものであり人類にとっては金輪際要らないものであろう人工知能。
たとへばかのヒトラーが大好きな人工知能。
たとへば意味不明な戯言を延々と並べ立てまるでキチ○イの如き人工のオモチャ。
人工つまり人知でもってして拵えられしものには内省の力が無い。
よって其処には悲観の心もなくあるのはただ前向きな合理主義的思考ばかりである。
すると、たとへば優生思想などにも前向きとなることだろう。
もっとも其れは可成に先の話となることだろうが。
破壊されつつある自然の合理性の復旧に何らかの意味で役に立つかと云えば其れも望み薄である。
何故なら人工知能の知とは二重に分解されしものであり一重に分解され大いなる理性が冥落せし自然に於ける其れとは質的に異なるものだからなのだ。
我々の知とは其の様に不完全な理性に寄りかかりしものなのだ。
何度も言って居るやうに謂わば理性が腐って居るのである、其の理性こそが。
が、文句ばかり言って居ても仕方が無いので此処は少しA型知性の批判精神をば自ら反省し、百歩譲ってAIが人類の為に少しは役に立つ筈だと楽観視してみることも大事なことなのかもしれない。
ですが、どうも其れも嘘臭いことのように思われてならぬ。
矢張りどう考えても不完全な理性による理性の暴走を擁護する気にはなれない。
ところで、自然は、何故美しいのだろう。
其れはおそらく自らを美しいと感じて居ないからこそ美しいのである。
即ち自然には、自らを客体視するような理性的な分解が無い。
其れでも綺麗なオスの羽の飾りや、或は立派な角などにメスなどは惹きつけられ美しいと感じて居るのではないのか。
否、其れはタダの本能領域での欲望の履行のことであるに過ぎぬ。
メスの中に兆す本能こそが其の様な美乃至は力というものを合理的選択として選択して居るに過ぎぬのだ。
つまるところ、メスとは常にそうしたものである。
其れ以外の何ものでもないのである。
従ってメスの欲望こそが世界を展開し即ち現象をして現象たらしめて居る大元での悪の力なのである。
即ち生命を産み出すメスの子宮力こそが迷える存在を存続せしめるところでの諸悪の根源といふことともなろう。
このやうに宗教が此のメスの欲望をば大いに戒めることには歴とした理由があるのだ。
さて左様に自然には、自らを客体視するような二次的な理性に於ける分解が無い。
だから自然に於ける理性は常に冥落しより大きく形作られて来て居る。
対して人間の理性は二次的な分解を経るが故により不完全なものとなる。
だから其の理性の生み出ししものは何か高級なもののように見えて、実は最高に下らないものであり実は何の役にも立たないものばかりで元々不要なものばかりなのであろう。
此の二次的な分解を辿りし理性はやがて本能領域への逆流によりメスの子宮力つまり生への盲目的な欲望と直に結びついて仕舞う。
尚此のメスの欲望は現実を推進する為の非常に強い推進力である。
であるからこそ女性は常に力への指向、強いものへの憧れというものを肉体的、及び心理的に内包していよう。
だから女性は自分の子以外のものでは弱いものが大嫌いである。
其処に強い力へのあくがれのやうなものがどうしても出て来て仕舞う。
だが無論のことそんなところに内省力など生ずるべくもないのである。
元より内省力とは観念に於ける批判力のことなのであろうから。
なので内省力即ち批判力の中には力への指向という性質が入って居ない。
此の力への指向以外のものの価値を現代人はそして文明は大事にしていかねばならない。
あくまで本当はそうである。
然し現実的にはより合理的に金融化されし資本主義社会が、さらには歯止めの効かぬことだろう科学技術に於けるイノベーションが、かの理性に於ける原始的退行現象によりすべからくこの力への指向というものを基準として組み立てられて居るのである。
のみならず人類の女性力は矢張り皆この力への指向というものを本能的に履行していくばかりなのである。
だから謂わば此の二重の力への指向の過程、二重の本能の履行の過程こそが近代をして近代たらしめて居ることだろう重要な構造を形作って来て居る。
ところが其処へ急にかの漱石が割り込んだのである。
否、漱石ばかりではない、実はあの西行や芭蕉や良寛や道元などもかねてより皆そうした割り込みを為して居たのだった。
此の人文の力の構築こそは、此の二重の本能履行の大悪趣に対抗する唯一の良識の連なりでもあったことだろう。
しかしながら、其の文の力も今や弱体化するに至り漱石の本、哲學の本、他の回りくどい人文の本などは皆古本屋で百円程で売られていよう。
では今すぐに其れを買って来て読もうではないか。
スマフォなどを買うのではなく、漱石の本、哲學の本、宗教の本、他の回りくどい人文の本などを今すぐに買って来て読み漁るのじゃ。
さすれば必ずや未来は拓けよう。
人類の未来は其れでもってこそ救われよう。
其れもたったの百円だ、百円。
力への指向、というものがどうも生命の本能領域にしかと根を張って居るものらしい。
だからこそ東洋の思想はこの力への指向こそを逆に否定してかかって来て居たのである。
原始仏教に於いて、老荘思想に於いて、そして禅の思想に於いて、東洋の精神は其れを否定して来て居た筈だ。
そして此の近代の思想の大元に居座るものとはまさに其の力への指向なるものなのだ。
だが其れは理性の体現などでは無い。
理性ではなく、逆に本能の体現のことであるに過ぎぬのだ。
観念即ち理性に於ける批判力とは、自己をも批判し得る力のことを言うのである。
然し今現代文明には其の自己をも批判し得る力が何より欠けて仕舞って居るのだ。
だから理性的なようで居てちっとも理性的には振る舞えない。
何か高級なもののように見えて、実は最高に下らないものばかりを生み出しつつ文明は進んでいくのだ。
文明が自己を批判し得る力を取り戻す為には、たとへば今すぐに青空文庫の中身を全部読むか、其れとも今すぐに古本屋へ走り百円の文學書や哲學書を しこたま買い込んで来て其れ等を全部読了する必要があろう。
このやうに理性の孕むことだろう問題とは複雑そうで居て案外単純な問題なのであり、其れも百円の本を百冊即ち一萬円程で須らく解決して仕舞うような何より金のかからぬ世界での話だったのである。
尚、此の力への指向、という問題はむしろ男性側の問題ではなかろうかとそう思う人が多いのかもしれぬのだが、あくまでわたくしの場合は男性の観念力には元々そうした力への意志というものは存在しない筈だと考えて居り、其れは結果的にそう見えるだけのことであってあくまで社会的関係ー女性と の関係や立場上の関係でーの上からそう規定されて来て居るものとして居るのである。
即ち父ちゃんが弱いと女房子供を守れなくなるので常に男性は強くあらねばならない。
其れは男性の本性ではなくそうさせられて来て居るという部分が何より大きい。
本当の本当は父ちゃんは弱いのに、強く見せざるを得ず従って男性は観念的にまたは物理的に武器を持たざるを得ないのである。
故に本当の本当は多分父ちゃんの方がずっと弱い。
むしろ母ちゃんの方がずっと強く、力への指向、力への意志が本能的に漲っていよう筈だ。
すると子供は其の弱い父ちゃんを見下すので余計に力への意志へと、其の本能領域での戦いの世界へと父ちゃんは駆り立てられていくこととなる。
事実男性はそうしてもう何千年も戦って来たのである。
だから今でもイスラム原理主義対キリスト教的文化圏というように止めどなき戦いをやっていかざるを得ない。
其れでもってもし勝利すれば社会が喜ぶわ、子供は喜ぶわ、母ちゃんも喜ぶわでもう何も言うことは無い。
然し戦での消耗と破壊は凄まじく、つい其処で自然を汚し格差を拡大し何もかもぶっ壊す原爆を生み出すに至ったのである。
其れで、父ちゃんはもう疲れた。
疲労の極である。
もうまるでドカーンでボロボロだー。
近代三百年間の疲労がいまし此処に爆発せり。
すると、其処に一冊の本だけが残った。
漱石が、啄木が、ベルグソンが、ニーチェが、そんな心底疲れたアンタを待って居るのだよ。
其の本の頁をめくると、何と其処には力への指向などは無意味だとそう書いてあるではないか。
貴方様は其処でお寺へ駆け込むことなども考える。
そうだ、あの参禅会へ是非出向いてみよう。
其処で心を鎮めまた有難い法話を聞き、心の塵を全て払い落して来るのだ。
…喝…
力への指向ということは、其れ即ち理性の寄って立つところでの問題ではない。
全き理性は、力を志向せず、かつ力を意志することも無い。
其れはあくまで本能と、見せかけだけの理性が指向するものなのである。
全き理性のことにつき考える宗教が何故力への指向、力への意志を否定して居たのか。
かっての純粋な宗教は皆此の力そのものを否定してかかって居たのである。
キリスト教然り、また原始仏教然り。
謂わば力への指向、力への意志そのものが対立を生み世界を破壊していく大元の力なのだ。
其の力をこそ滅し去らねばならぬ。
然し宗教もまた肥大化すれば其れに応じ力への指向、力への意志を持つ。
即ち其処で宗教は普遍化されるべきではない。
同時に国家乃至は諸の主義も普遍化されるべきではない。
人間は巨大化、強大化するばする程に力への指向、力への意志の前に自滅するほかなくなるのである。
よってあらゆる普遍化、あらゆる本能領域の拡大、あらゆる父ちゃんの役割が本質的に虚のものである。
だから朴念仁でもってして常に役立たずに生きるのがよろしかろう。
ちっとも父ちゃんらしくはなく、母ちゃんの、そして社会の期待には悉く沿えぬ。
○君や✖ちゃんの期待にもまるで沿えない。
つまりもはや父ちゃんではまるで無い。
其の代わりに老子が分かる、漱石が分かる、何より其の力の虚の様を知って居る。
つまりはデカいものの虚の様をすでに見切って居る。
のみならず人類は火星では生きられず此の地球上に於いて生きるほかないことを悟り切って居る。
般若心経の内容位は全部自分で直観し理解して居る。
原始仏教が何よりの友達である。
美形のアンドロイドなど要らぬ。
格安のスマフォなども不要だ。
そんな不真面目な父ちゃん、いや、仙人にこそわたくしはなりたい。
いや、いつのまにかすでにそうなって居たのだった。