目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

個人的に最後の現代の万年筆となりさうな「Novelli Augusta」ー伊太利亜製の万年筆の尽きせぬ魅力と其の危うさとー

個人的に最後の現代の万年筆となりさうな「Novelli Augusta」ー伊太利亜製の万年筆の尽きせぬ魅力と其の危うさと 2ー

 

 

 

 

さて其の「Novelli Augusta」は壱本を拾年程使い挙句に軸が腐り壱本のみが残った。

其の最後の壱本を本日ー四月十一日ーより使い始めた。

 

10.筆記全長175mm、筆記重量41g、重心位置7對3ー高重心ー

11.軟らかい18金ペン先付きーBサイズー

12.眞空吸入によりカンタンにインクの補給が可

 

さうしてまずは大柄の🖊となりまずはソコが自分に合う。

但し自分には若干重い。

 

ペン先は新型の方のヴィスコンティ・ニブながら相變わらず「書き心地」の方は優れて居る。

例えば🗾の万年筆や独逸の🖋よりも筆記感がソフトである。

 

またオマス・ニブにもコアなファンの方方が其れも世界的に居られるが其のオマス・ニブの「書き心地」の方もまた優れて居る。

但し本質的には「戦前の鍛金ペン先」の方が其れもずっと優れて居るだらうことは否めない。

 

現代の万年筆の金ペン先はほぼ「牙を抜かれた紛い物」の如きものなので万年筆の上級レヴェルの方方には???ともまたなり易い。

だが自分に限り「両方」行くのでむしろ余り気にならない。

 

が、21世紀製の万年筆の書き心地はむしろ其の全てが嫌いなのだ。

其れに21世紀製の文明の方もまた其れと同様に嫌いなんだ!

 

そんなアナタはもしや「隠れ」伊太利亜人なのでは?

まさか、どだい最近はカレー饂飩ばかりを食ってますし其れもピッツアなどはもう半年位食えて居ない。ー何せ値段が高くなかなか買えぬー

 

ではスパゲッティは?

 

其のスパゲティは好きですが調理が面倒ですのでカレー饂飩の方がカンタンだし其れに腹持ちの方も良い。

でもカレースパゲッティなどが矢張りと言うべきかむしろ壱番好きである。

 

 

13.伊太利亜産の「セルロイド軸」は此処🗾の「高温で多湿」な環境に馴染まない

14.故に「セルロイド軸」の伊太利亜の🖋は基本的に避けるべき

15.だがさう言いつつもあえて我は其の伊太利亜製の「セルロイド軸」の万年筆を現在頻繁に使うー最も良く使うー

 

伊太利亜産の「セルロイド軸」は水分と反応し「分解」するのでやがては軸がボロボロと化す。

さらに腐食瓦斯を発生させ其れが他の金張りや銀張りの🖊をも腐食させるに至る。

 

故に細心の注意を払いつつ其れを使わなければならない。

ー通気の良い処に置き兎に角なるべく乾燥した状況にて使い且つ保存することー

 

高級さ⇔低級さ

藝術的価値⇔サイテーの価値

 

まずは其の価値上の弐元分裂のことを特に🗾人は知って置くべきことだらう。

我我🗾人の顔や考え方にはそも幅が無い。

 

要するに価値観が多様では無くむしろ同壱牲ー同質性ーの中にこそ生きて御座る。

對して欧米流の認識は明らかに両義的であり且つ弐項對立ー闘争ー的なのだ。

 

また其のことは欧米の生んだ所謂「藝術」の世界にもまた見られることではないか。

高校時代以降「マラルメ」に代表される象徴主義文學の世界に傾倒せし自分はむしろ其の「弐項對立」の世界を頭の中のみで泳ぎ切って來たのだと言える。

 

と申すのも伊太利亜にもまた仏蘭西や独逸にも行ったことなどは無い。

だが存外に其の欧羅巴の「精神」をかうして独自に理解して來ても居る。

 

 

よって伊太利亜の万年筆がブッ壊れるのは不思議でも何でも無くまさに「アア、さうか。」との感じである。

だから壊れれば壊れたでまた部品が取れるではないですか。

 

ちなみに多い時は参本も有った「Uffizi」はすでに全滅して居るが「Novelli Augusta」の壱本はかうして「未使用」の侭で生き残った。

尚其の後Viscontiからは八角軸の万年筆が其れも多く出て居るやうだ。

 

ビスコンティ メディチ ゴールドトリム 万年筆 Visconti Medici Radica Fountain Pen (ilduomo.jp)

ビスコンティ メディチ ルテニウムトリム 万年筆 Visconti Medici Radica Fountain Pen (ilduomo.jp)

 

其の角軸の「メディチ」と言えば普通はかのモンブランの「メディチ限定万年筆」のことながら實はかうしてヴィスコンティからも最近出て居るのです。

しかも「藝術的意匠」に凝りまくるアノヴィスコンティのことですので其の拘りの程がそも半端では無い。

 

かうして「メディチ限定万年筆」はむしろ現在のヴィスコンティ製の方が「其れらしく」も見えるとのこととなる。

また實はもう壱つ話のオチがあり其れは昔ー廿年程前ーに「ラグライム・メディチ」と云う素晴らしく藝術的な意匠のヴィスコンティ製の🖊が有ったのです。

 

無論のこと其れを自分は持って居りますがおそらくは其れこそが史上最高での小振りの限定万年筆です。

 

 

ビスコンティ 限定生産品 イル・マニフィコ エジプシャンマーブル 万年筆 Visconti Il Magnifico Egyptian Marble Fountainpen (ilduomo.jp)

 

コレなどもまた凄いねえ。

其れも何と「大理石」軸ではないか!!

 

ビスコンティ ディヴィーナ エレガンス ウェイヴ 万年筆 Visconti Divina Elegance Wave Fountain Pen (ilduomo.jp)

 

コレに五年程前につい引っ掛かりさうになったことがある。

つまりは半分位欲しいと思ったことがある。

 

ビスコンティ ミラージュ ミュトス アテナ ターコイズ 万年筆 Visconti Mythos Athena Fountain pen (ilduomo.jp)

 

コレなどもまた角軸か?

また「女神」様がさうして出て來る。

 

其れ即ち希臘の神神は西洋文明の基本とならう。

 

Visconti Medici Dynasty Edition Maxi Oversized Black Basilica Fountain Pen | eBay

 

此の黑の「メディチ」などにも實は興味がありました。

ところが現行の🖋は世界的に値上がりして居り其のドレもがバカバカしいやうな値段が付けられて居る。

 

ソコはむしろ九拾年代の方がまだしも「まとも」だった。

当時はかのモンブランの「メディチ限定万年筆」でさえ問屋で買えば此れ等より安く手に入ったものだった。

 

Visconti Medici Black Au-pl-trim O/S Fountain pen 23kt Med nib MIB | eBay

 

かう安くてもまだ高い。

万年筆は廿、参拾年前の方がむしろ価格的に安かった。

 

と云うことは「万年筆」其のものが壱部の富裕層の為の物となった感が強くする。

また日本人の手取り所得はむしろ90年代より額が下がって居る。

 

なのでまた余計にこんな万年筆の値段の高さが気になる訳だ。

いずれにせよ其の万年筆界の凋落振りとはまた別に伊太利亜ヴィスコンティ社の「美への拘り」振りダケは大したものです。

 

またヴィスコンティはむしろ昔からさうでしたのです。

ヴィスコンティは🗾や独逸のメーカーのやうに「實用」だの「確實」だのと云うことをそも考えては居ない。

 

だからまずは「美的価値」こそが第壱なのだ。

 

でもって個人的に此の参拾年余りに亘る🖋遍歴の結果とりあえずは現代の万年筆を捨て去りましたのですが逆に近年「伊太利亜物」としての「ヴィスコンティ」と「オマス」

が復活するに及び其のことはもはや明らかに「伊太利亜🖋の逆襲」とさう言い換えても良いやうに思うのだ。

 

ヴィスコンティ 日本公式サイト (europassion.co.jp)

 

先にも述べたやうに、「美」を基準とするか其れとも「實用性」や「確實性」を基準とするかで現れる物のあり方はまるで變わります。

特にヴィスコンティのやうな「万年筆のコレクター」が設立した會社は90年代當時其の「美」の追求に関し素晴らしかったが「万年筆を製作する能力」の点でむしろ劣っても居たのだらう。

 

ですがあくまで個人的に現在のヴィスコンティよりも90年代~21世紀初頭の頃の品の方が「夢」が感ぜられて良い。

さらに言えば其のヴィスコンティ製の「Novelli Augusta」のセルロイドカラーなどはヴィンテージ・ウォーターマンーパトリシアン・モデルーに於ける靑と茶のマーブル色を模したものである。

 

また「Novelli Augusta」の弐連キャップバンドは何と金製となる。

 

尚「スターリングシルバーにロジウムメッキ」の軸の「Novelli Augusta」ー4本限定ーと云うモデルのことは今回初めて知りましたのです。

伊太利亜の🖋はむしろ木製や銀軸の物が良い。

 

ですので其の銀製軸の「Novelli Augusta」が例えば自分に取り「史上最高の限定万年筆」となった可能性などもまた大いにあります。

うーん、ソレ、まだ有る?

 

まだ有るの?マルコさん。

でもうーん、どうもイカンな。

 

何が?

いや其の「銀製のNovelli Augusta」が。

 

もしやソレをアノ羅馬のマルコ氏に探させやうとして居ますね。

何故其れが分かりましたか。

 

 

そんな訳で伊太利亜物の🖋はほぼ「感性」の方でもって樂しむものなのです。

よって壊れやうが部品にならうがまさに其れが壱つの「個性」の範囲なんだ。

 

すると伊太利亜物の🖊の世界こそがもしや最もdeepな万年筆愛好の趣味となるのでは?

勿論其の通りでのこととなる。

 

だから伊太利亜物の🖊を金輪際バカになどして居てはならない。

いやあまた凄い「肚の座り方」でもって…。

 

ちなみにこちらは地元の伊太利亜物万年筆の専門店です。ー恵那市の店ー

 

Il Duomoについて Il Duomo イル・ドゥオモ | イタリア万年筆や高級筆記具の販売  

 

こちらはかうして現地伊太利亜にバイヤーを置くなどして明らかに「根性」が入って居ます。

まあわたくしも廿年前ならば此処などを利用したかもしれません。

 

伊太利亜物の🖊も今の物は自分が述べました程に壊れはしないと思われるが兎に角概して高価となる。

また概して面白みの方が薄くもなって居る。ー例えば「STELLA」みたいなゲージツ的🖊はもはや出やうが無いことでせうー

 

 

Visconti STELLA

 

タグ・ホイヤー24年新作、“スクエア型”の軽量防水腕時計「モナコ スプリットセコンド クロノグラフ」 (msn.com)

 

ありゃこんな物がまた出て…。

まあですがもう時計は要らんので自分は筆記具ダケで良いのです。

 

兎に角「Novelli Augusta」は美しく書き易い🖊です。

ですが部分的に交換するとすれば金ペン先とペン芯でせう。

 

其れを戦前の金ペン先とエボナイトペン芯にでもすれば「究極の八角軸」が或は誕生するのやもしれません。

個人的に最後の現代の万年筆となりさうな「Novelli Augusta」ー伊太利亜製の万年筆の尽きせぬ魅力と其の危うさとー

個人的に最後の現代の万年筆となりさうな「Novelli Augusta」ー伊太利亜製の万年筆の尽きせぬ魅力と其の危うさと 1ー

 

 

 

 

さて長期休暇に入る前に🖋のことを壱本だけ是非述べて置かう。

特に最近は「文明嫌い」なのがより酷くなり自分の中での所謂「加工品」に對する評価がまた壱段階位下がったので其の分石の話が多くもなって居る。

 

「Sirius氏に取っての最後の現代の万年筆」

 

其れはさう述べても良いことだらう御品となる。

 

彼Sirius氏はそんな「現代の万年筆」に於いてもありとあらゆることをすでにし尽くして來た。

彼はあらゆる限定🖋を此れ迄に手にしさうして使い込んでもまた來た。

 

特に九拾年代の限定万年筆に於いて豊富な知識と経験を持って御座る。

要するに九拾年代の限定万年筆に於いて彼の右に出る人はまず居ない。

 

そんなSirius氏は21世紀に入ると「筆記思想」を転向し右翼から左翼になった。

いやさうではなかった。

 

Sirius氏は21世紀に入ると「筆記思想」を転向しそんな「限定万年筆マニア」から「古典の萬年筆マニア」へと華麗なる転身を遂げたのだった。

つまりは戦前~廿世紀初頭位迄の所謂ヴィンテージやアンティークの萬年筆のマニアとなった。

 

 

まずは其のことが「普通の愛好家」にはやれぬことである。

「普通の愛好家」は其れ其れに皆泳ぐ「場」を持って居り其の範囲の中でコレだアレだとさう万年筆を批評するものなので其れ即ち了見が狭い。

 

でも彼Sirius氏に限りそも變わってる。

要するに常識的な人では無いので何をやるか分からぬ。

 

何をやるか分からぬので怖いのだとも言えやうが反面何でもやれるので観て居る方は頗る面白い。

でもって彼Sirius氏は結局万年筆を「哲學」した。

 

ソコはまあ彼のことだから最終的に🖋は彼の哲學的思考の俎上に乗せられソコにて何でも切り刻まれつまりは「裸」にされて仕舞う。

もしや彼はそんな「裸」フェチなので?

 

さうなの、さうして何でも彼に正體を見破られて仕舞うの。

だから何でも「お見通し」になって仕舞うの。

 

なので文明も万年筆も全部がスッ裸とされ彼の高度な理性の力の前に引き摺り出され最後には必ずやバカにされて仕舞う。

…全くイヤな奴だ。

 

まあさうですね、其のイヤな奴とのことこそがSirius氏が持つ本性の部分でせう。

 

 

さて「Sirius氏に取っての最後の現代の万年筆」とは何か?

其れはメディチ限定万年筆でも無くペリカンM1000でも無くまたPILOTの大型漆モデルでも無くまたプラチナ70やプラチナ80でも無い。

 

では其れは何ですか?

其れがズバリ「Novelli Augusta」です。

 

でもそんなもん誰も知りませんよ。

当然でせう。

 

其れは世界限定参百本の「特別な限定品」なのだから。

其れもおそらくは此処🗾に五本も無いことだらう。

 

いや🗾に有るのがコレ壱本である可能性が77パーセント程も有らう。

 

1.セルロイド製の八角

2.伊太利亜ROMAのショップNovelliの限定万年筆ーノヴェッリ・ペン&パイプの創業50周年記念万年筆ー

3.プランジャーフィラー

 

其れは美しいセルロイド軸の限定万年筆となる。

しかも八角軸の万年筆となる。

 

するとレアーな角軸モデルとのことなのですね?

さう筆記具の世界で最も得難いのが其の角軸の御品となる。

 

ところが鉛筆や芯ホルダーではむしろ其れが普通の意匠となる。

また事務用のボールペンなどもむしろ其れが普通の意匠となる。

 

だが万年筆や銘木ボールペンでは「面取り軸」である「角軸」が常に最もレアーなタイプとなる。

なる程、故にアナタは其の「角軸」を好んで集められて居た訳ですか。

 

いやより正確には徹底して其れを集める迄には至らなんだ。

特に万年筆や銘木ボールペンの「角軸」はまずモノが出ないのだし出たにせよいつも其れが得られるとは限らない。

 

要するに入手する機會其のものが少ない故に最も難しい蒐集分野なのだともまた言えやう。

昨年は其れでも何とか壱本だけ日本の古い八角萬年筆を得て居るが他の弐本は逃して居る。

 

また中屋萬年筆などにもそんな「角軸」が有る。商品一覧・中屋万年筆 (nakaya.org)

其れが「拾角」モデルだがすでに売られて居るかどうか分からない。

 

物は急に販売が打ち切られたりもまたする訳なので欲しいと思う時にすぐに動かないと得られぬこととなる。

まさに其の点では石でもまた筆記具でも同じであり得られるかどうかは「縁」次第となる。

 

 

Visconti Novelli Augusta 50 Anni for today! : r/fountainpens (reddit.com)

Visconti Limited Edition Augusta Novelli 50th Fountain Pen - Chatterley (chatterleyluxuries.com)

 

「Novelli Augusta」は極めてレアーな限定万年筆となるがいまだかうしてネット上に情報が出て來る。

其れは此の🖊に惹かれた人が當時壱定数居たからなのかもしれない。

 

當時Novelliショップの常連客だったわたくしもまた其の壱人である。

 

4.2005年迄に「Novelli Augusta」を弐本求めた

5.其れはある意味で「究極」の限定万年筆だった

6.但し其れはVisconti製となる

 

In 2000, Marco and his dad, Augusto, started the planning of a pen to celebrate the 50th anniversary of the thier store, Novelli Pen & Pipe.  The resulting pen, the Augusta had two main influences. Marco liked a pen Montegrappa had created, the Reminiscence, with a eight-side faceted body. Augusto liked a blue and bronze celluloid that was once used in one of the original Waterman Patrician pens released in the 1920s.

Together, they worked with the Italian pen manufacturer, Visconti, to create the Augusta fountain pen. Up to this point, Viscount had not produced an faceted pen, and this would be their first.

Karen and I first met Augusto in 1997. He wrote with a great offer: come to Rome and he would take Karen and I out to lunch. Why not! We enjoyed meeting him and he showed us the extensive collection of pens at the Novelli store. At that time, the store was actually located across the street from its present location. It was smaller, and I remember Augusto bringing tray after tray of pens from the back room. Of all the pens we say, we ended leaving the store with the Waterman Etoile Man 100 in sterling silver. We may have seen his son Marco, was working in the office upstairs accessed by a ladder from the store.

We returned to Rome in 2001 and received the sad news that Augusto had passed away. Marco, showed us many pens, including the Visconti Novelli Augusta pen. A Limited Edition, 300 fountain pens. I did not select the pen at that time, and I ways regretted that decision. Over the following years I would see one become available from time to time on e-bay, but I was never able to get the pen with the nib I wanted.

On our 2015 visit to Rome, Marco showed me a new release of the pen. Visconti had asked if he wanted to use of the remaining stock of celluloid they had. I quickly made the decision to acquire the Augusta pens. The pen produced in the original stunning celluloid was produced in two versions. One version had 24K gold trim. There were 300 pens produced. Some of this run were made available to pen stores outside of Italy. A second version was produced with sterling silver rhodium plated trim, and only four were created. Sterling silver and celluloid is a draw to me, and I have pen IV or IV.

How is the pen? Light to hold as the body and cap are made of celluloid. It is a large pen in size - 5 1/2 inches when capped and 6 3/4 inches when posted. It fills with a power piston filler mechanism and there is a clear ink view window to show the status of ink in the chamber. There is a double reserve ink chamber so ink can transfer to a second chamber for flights.

The pen has an incredibly smooth 23kt gold palladium nib. My pen has a Broad width, and it lays a solid line of ink on the paper.

Novelli Augusta - Glenn's Pens - Pens of Note (glennspens.com)より

2000年、マルコと父親のアウグストは、ノヴェッリ・ペン&パイプの創業50周年を記念してペンの企画を始めた。 その結果、アウグスタというペンが誕生した。マルコは、モンテグラッパが作った8面体のボディを持つペン、レミニセンスが好きだった。アウグストは、1920年代に発売されたウォーターマン・パトリシアンのオリジナル・ペンに使われていたブルーとブロンズのセルロイドが好きだった。
二人はイタリアのペンメーカー、ヴィスコンティと共同でアウグスタ万年筆を作り上げた。それまでビスコンティは切子の万年筆を製造しておらず、これが彼らの最初の万年筆となる。
カレンと私は1997年に初めてアウグストに会った。ローマに来れば、カレンと私をランチに誘ってくれるというのだ。どうして?私たちは彼に会うのを楽しみ、彼はノヴェッリの店にある豊富なペンのコレクションを見せてくれた。当時、ノヴェッリの店舗は現在の場所から通りを挟んだ向かい側にあった。その店はもっと小さくて、アウグストが奥の部屋からペンをトレイに次から次へと運んできたのを覚えている。私たちが言ったすべてのペンの中で、私たちはスターリングシルバーウォーターマンエトワールマン100を持って店を後にした。息子のマルコは、店から梯子で上がれる2階の事務所で働いていた。
私たちは2001年にローマに戻り、アウグストが亡くなったという悲しい知らせを受けた。マルコは、ヴィスコンティ・ノヴェッリ・アウグスタのペンを含む多くのペンを見せてくれた。限定300本の万年筆だ。その時、私はそのペンを選ばなかった。その後数年間、e-bayで時々入手できるのを見かけたが、私が欲しかったペン先のペンを手に入れることはできなかった。
2015年にローマを訪れた際、マルコはこのペンの新発売を私に見せてくれた。ヴィスコンティは、残っているセルロイドの在庫を使いたいかと尋ねてきたのだ。私はすぐにオーガスタのペンを手に入れる決断をした。オリジナルの見事なセルロイドで製造されたペンは、2つのバージョンで製造されました。1つのバージョンは24Kゴールドのトリムが付いていた。300本生産されました。そのうちのいくつかは、イタリア国外の筆記具店でも販売されました。もう1つのバージョンは、スターリングシルバーにロジウムメッキを施したもので、わずか4本しか作られなかった。スターリングシルバーセルロイドは私にとっては魅力的で、ペンIVかIVを持っています。
ペンはどうですか?ボディとキャップがセルロイドでできているので、軽い。サイズはキャップ時で5.5インチ、ポスト時で6.3/4インチと大きめです。インクの充填はパワーピストン式で、インクの残量が一目でわかるように、インクの残量表示窓が付いています。ダブル・リザーブ・インク・チャンバーがあり、フライト用にインクをセカンド・チャンバーに移すことができる。
ペン先は驚くほど滑らかな23金パラジウム。私のペンはブロード幅で、紙の上にしっかりとしたインクの線を描くことができる。

ーDeepL.com(無料版)で翻訳しました。

 

 

其のマルコ氏と當時自分は懇意になって居た。

のみならずNovelliショップから多くのペンを買い入れても居た。

 

特に凄かったのが「Uffizi」と云うViscontiの限定万年筆であり其れはまさに「夢のさ中」の如き御品であった。

「Uffizi」とはかのウフィツィ美術館 - WikipediaのことをモチーフにしたViscontiの限定万年筆作品だった。

 

さうして万年筆が「作品」化するのである。

「Uffizi」は90年代初頭の紛れも無きViscontiによる「工芸作品」なのだった。

 

伊太利亜の🖋メーカーは兎に角そんな「作品」化を万年筆に於いてしたがる。

つまりはさうして藝術的感度と言うか感性に優れる國なので何でもゲージツ方面へと持って行きたがるらしい。

 

だが本日はあくまで「Uffizi」では無く「Novelli Augusta」のことを述べるに留めて置きたし。

 

 

Novelli is one of the most important and well-renowed pen shops in Italy.

It is known and appreciated worldwide ever since its founder Augusto Novelli started to travel to attend the most important US and European pen shows.

Augusto Novelli and his wife were able to boost their family business far beyond the city of Rome. Their son Marco confirmed the family tradition as he was one of the first Italian shop owners to go online and have a great success at international level.

Over the years Novelli commissioned a number of limited editions to the major Italian pen makers and they all were widely appreciated by the public.

In 2001 Novelli celebrated it first 50 years of activity and they commissioned Visconti with the creation of a special pen, called Augusta, to honor Augusto Novelli's activity.

The pen was manufactured in one of the most precious and desirable celluloid colors: blue and bronze, to recreate the contrast typical of lapis lazuli stones.

The celluloid used for the Augusta is the same as the one Visconti used for the Titanic and the Didgeridoo.

https://www.tenpen.it/product/visconti-didgeridoo-prototype

This Novelli Augusta is unused and it is fitted with an M nib.

It is an assertive pen, equipped with the famous Visconti filling mechanism which guarantees a very large ink capacity.

The pen is pre-owned but in pristine condition.

NOVELLI AUGUSTA - LIMITED EDITION | Tenpen - By Letizia Iacopiniより

ノヴェッリは、イタリアで最も重要で定評のある筆記具店のひとつである。

創業者のアウグスト・ノヴェッリがアメリカやヨーロッパで開催される最も重要なペン・ショーに出席するために旅するようになって以来、ノヴェッリは世界的に知られ、高く評価されている。

アウグスト・ノヴェッリと彼の妻は、家業をローマ市内だけでなく、遠く離れた場所にも広げることができた。息子のマルコは、イタリアで初めてオンラインショップを立ち上げ、国際的に大成功を収めた。

長年にわたり、ノヴェッリはイタリアの主要な筆記具メーカーに数多くの限定版を依頼し、そのすべてが広く一般に評価された。

2001年、ノヴェッリは創業50周年を迎え、アウグスト・ノヴェッリの功績を称え、「アウグスタ」と呼ばれる特別なペンの製作をヴィスコンティに依頼した。

このペンは、ラピスラズリに見られるコントラストを再現するため、セルロイドの中でも最も貴重で望ましい色のひとつであるブルーとブロンズで製作されました。

アウグスタに使用されたセルロイドは、ヴィスコンティタイタニックディジュリドゥに使用したものと同じです。

https://www.tenpen.it/product/visconti-didgeridoo-prototype

このノヴェリ・アウグスタは未使用で、ペン先はM。

主張の強いペンで、非常に大きなインク容量を保証する有名なビスコンティの充填機構を備えています。

このペンは中古ですが、きれいな状態です。

DeepL.com(無料版)で翻訳しました。ー

 

 

7.伊太利亜の🖋は常にブッ飛んで居るーさう藝術的だー

8.さうして常に美しくも脆い物となる

9.伊太利亜と云う國其のものがむしろそんなものなので

 

さて言うまでも無く我が感性に伊太利亜の🖋が合うのはむしろ当然のことである。

即ちゲージツこそがむしろ日常であり逆に「常識」なんぞは見下しだとさう言って憚らぬ御仁がそんな伊太利亜の🖊に嵌まらぬ筈が無い。

 

が、常に認識上の両義者である我は當時独逸の🖊にも同様に嵌まって居りましたのです。

ですので實は其処にて理性の面が独逸の🖊をこそ追い求め同時に感性の面が伊太利亜の🖊をこそ追い求めてやまなんだのです。

 

でもって當時求めし伊太利亜の🖊の多くはほぼ死に絶えましたのです。

では独逸の🖊のみが残ったのか?

 

いえ独逸の🖊は結局東京の店にほぼ売り払い後は僅かな物を残すのみ。

ところが、です。

 

が、残った伊太利亜の🖊は売るのが難しい。

何故なら時間が経つとあれこれとありつまりは壊れるのだから。

 

すると結果的に伊太利亜の🖊がバラバラになりつつも部品として使われ生き残ることとなる。

なので現代の万年筆で使って居るのはむしろ伊太利亜のモノばっかりともなる。

 

其れもヴィスコンティ製の限定万年筆は壱番壊れ易い。

但し九拾年代物に限れば。

 

ところが其の九拾年代物のヴィスコンティ製の限定万年筆に限りまさに「藝術的にレヴェルが高く」有るのです。

 

 

藝術⇔實用

工芸品⇔実用品

 

つまり其処での對立項目が「平準化」されると實は對立其れ自體がうやむやとなり「常識的」なでも魅力の無い物と化して行きがちです。

例えば🗾製の🚙や筆記具はどちらかと言えば「穏やか」に過ぎデザイン的に面白くは無いとさう言われがちでしたものです。

 

其の中ではかってのセーラー万年筆やプラチナ萬年筆が結構個性的ではあったが今や其れもどうなのだらう?

また概して評価の高いパイロット製の万年筆にせよ何せ根が眞面目ですので其れは伊太利亜物のやうにはまさか成り得ない。

 

故にモノはまた「實用」壱本槍でも余り面白くは無い。

だから先の中屋万年筆や笑暮屋、さらに万年筆博士などの所謂手作り万年筆の世界が台頭して來るのである。

 

但し其の「手作り万年筆」の世界もまた価格が高騰し九拾年代迄の感覚ではおしはかれぬものとなって居やう。

 

藝術⇔實用

工芸品⇔実用品

 

其のことは結局のところ現行の万年筆の世界に於いて實現されることの無い對立的価値となる。

ならば其のことがむしろ高いレヴェルにて成し遂げられて居たのは百年以上前の萬年筆の世界でしか有り得ない。

 

とまあ「理想論」として万年筆を論ずればさうならざるを得ぬ。

 

ですがヴィスコンティ製の限定万年筆は壱番壊れ易いが壱種ブッ飛んで居りつまりは藝術的なのだ。

ヴィスコンティと双璧なのがOMAS社の🖋ですがココはすでに會社其のものが潰れて久しくよってオマスの🖊は現在最もカルトな🖊ともなりつつある。

 

個人的には好んで此のOMAS社のセルロイド軸の物を愛好して居る。

其れも現在使うだけでも拾本近く有る。ー銘木軸をも含めるとー

画像詩1 西八幡社の楠の「巨樹」と名市大の「薬草園」とーそんな「植物の季節」の到來に就いてー

画像詩1 西八幡社の楠の「巨樹」と名市大の「薬草園」とーそんな「植物の季節」の到來に就いてー

 

 

 

 

個を具象化する「場の論理」こそが幸せを齎すことーかって「薬草園」にて感ぜられたニンゲンが生きる上での「幸せ」とは?ー

 

 

 

【渾身インタビュー】森永卓郎の ″魂の叫び″「まだ死ねません!日本株はすぐに暴落します!!」 (msn.com)

 

基本的に其の経済だの何だのの話はまさに「物」を観て居ないし「抽象的理念」のやうなものにしがみ付くであらうほぼ「倒錯」でのものの見方でせう。

要するに「資本主義」其れ自體がむしろ「倒錯的理念」其のものなのだ。

 

ですが「資本主義」以前での「物」とニンゲンの関係がダメだったのだとはまさか言えないことだらう。

「物」とニンゲンの関係をブチ壊しにかかったのがむしろ「資本主義」に代表される近代以降の唯物的抽象主義です。

 

其の唯物的抽象主義には具體性がそも無いのでニンゲンの価値やニンゲンの幸福が壱律に抽象化されて仕舞う。

ですが本來ならばニンゲンの価値やニンゲンの幸福はまさに具象的且つ具體的に其の「場」でこそ語られて行くものだらう。

 

其の「場」での實存的価値は「資本の論理」が其の価値を奪い取れるやうなものにはそも非ずして。

いずれにせよ此の文明に於ける「社會的要求」こそがほぼ間違って居ます。

 

また其のことはあくまで我我の「生活」が間違いなのでは無くそんな「社會の理念」の方こそが間違いなのだらう。

其れもま、株だらうが何だらうがそんなものは所詮長続きせぬものでせうから文明が崩壊し🗾が沈没する前に手放し止めることの方がおそらくは得策でせう。

 

よって、

 

唯物的抽象主義→精神的具象主義

 

へとシフトすることこそがより望ましい。

 

但し其の森永氏とは年齢的にも近いので「御病気に對し是非頑張られて下さい」とさう申す他はありません。

だが寿命を縮めるやうなややこしい社會をやって居るべきではないことでせう。ーおそらく平均寿命は今後大幅に縮まることであらうー

 

我が家の庭の利休梅

利休梅 - 検索 画像 (bing.com)

 

さて家の庭でもまた曹洞宗寶蔵寺の庭でもこんな「利休梅」が咲いて居りますが結局其れが🌸では壱番美しい。

わたくしは所謂大衆的な「桜」の🌸よりもむしろ「木蓮」や「利休梅」などの白い🌸を好む。

 

我が家の庭の小手毬

我が家の庭の大葉ギボウシ

 

だが折角なので拾五年程前の山崎川の桜の画像を此処に貼り付けて置きませう。

 

山崎川のオオシマザクラ

山嵜川の桜

 

山崎川ー桜2009-1

山崎川ー桜2009-2

大根(おおね)池へ向かう街路のサクラ

 

また我は百合の🌸が好きである。

さらに白蓮華の🌸なども好きだ。

 

競技場横のモクレン

 

ーコレがまさに「名古屋市が伐った」かっての木蓮並木の壱本だ!ー

 

其れと靑い🌸などがまた好きでつまりは靑い薔薇やヒマラヤの靑芥子などが好みである。

 

ヒマラヤの青いケシってどんな花?家で育てられる?特徴もご紹介 | BOTANICA (botanica-media.jp)

大池高原 ヒマラヤの青いケシ・長野県内の青いケシが見られる場所 – とっておき信州 (shinshu.net)

 

幻の花“ヒマラヤの青いケシ Blue Poppy ” 2013.6 長野県大鹿村 (youtube.com)

皿ヶ嶺に咲くヒマラヤの青い芥子 (youtube.com)

 

何せ我が家は華道をする家なので元元「🌸」とは縁が深く其れこそ花はイヤと云う程に観て來た。

だが花は野に咲くやうなものが結局最も美しい。

 

画像作品『叢の小宇宙』

 

画像作品『叢の小宇宙』ー家の近くの畑に叢が生じ其の様が如何にも美しく写眞に撮ったものー

 

 

例えば上で「皿ヶ嶺」と云う山中に咲く靑い芥子なんぞは第壱級にカルトな🌸なのであらう。

 

庭に咲く夜のブルースター

 

🌸は美しく其のことはひとまず良いが其れは「生命」なのでやがて「失われゆく」部分が辛く哀しい。

故に其れに大きく興味は無い。

 

 

興味が有るのは「石」と「🐈」の方だ。

尤も「🐈」の方は罪深い生物なのでやるべきではなかった。

 

だが妻子が居ないのでつい飼って仕舞った。

また🐱は何故か作家御用達なのでこんな詩人ともまた實に相性が良い。

 

對して「石」は永遠に「静謐」なのが何より良い。

 

さて其の「靑芥子」を観に行くのと日本海翡翠を拾うのとどちらかを選びなさいと美の女神様に言われたならば僕は常に後者をこそ選ぶ。

つまりは生きては居ないモノの方が自分よりは長生きだからなのか何故か好きである。

 

では🌸よりも寿命が長い木などはどうかと云うと矢張りと言うべきか其の短命な🌸以上に好きなのだ。

つまりは巨樹、巨木の類の世界が大好きなのだ。

 

だが本日は其の巨樹、巨木の類の世界を語る訳なのでは無い。

本日はあくまで「地元瑞穂区」を語る為に出て來たからなのだ。

 

さう言いつつあえて西八幡社の楠の巨樹の画像を貼らう。

 

西八幡社の楠の緑

西八幡社の楠の凄い緑

西八幡社の思い出の楠

 

さて此の場こそが我が子供の頃より親しんだ巨樹の杜となる。

されど画像は拾年程前のものだから現在はもう少し樹が大きくなるのやもしれん。

 

兎に角こんな美しい楠の杜となる。

 

 

子供の頃は此処に良く「ウバタマムシ - Wikipedia」を捕りに行ったものだった。

此の杜には其の「ウバタマムシ」が何故か多い。

 

だが其れこそ美しい「タマムシ - Wikipedia」などもまた出ない訳では無く数年に壱度程は其れが出る。

 

尚今の若い人達には分からないのかもしれないのだがニンゲンの経験の上で最も価値が高くあるものは此の種の「自然體験」なのである。

其れは豪邸に住んだりスーパーカーを所有し其れを乗り回すことなどよりも余程に上等な體験なのだと言える。

 

故に其れが著しく制限された現在は当時ー昭和40年代ーよりも遥かに「貧しい」のだともまた言えやう。

まずは其のやうな認識に置いて文明による「洗脳」を解いて行く他は無いことだらう。

 

 

自分などは兎に角還暦以降思い出すことは其の「ウバタマムシ」ともっと以前に寶蔵寺ー西八幡社の横のーの大木で父と捕った「カブトムシ」の思い出ばかりである。

還暦以降思い出すことはさう「バブル」でも「👩」でも「🚙」でも無くまさにそんな「自然體験」ばかりなのだった。

 

でもって最終的にニンゲンは「👩」や「🚙」には縁が切れまた酒にも煙草にもギャンブルにも縁が切れ「死の世界」へと飛び込んで行かざるを得ぬ。

だが其れは煩い社會から縁が切れることでもあるので案外惡くはないことなのではないか。

 

我がまだ小学生の低学年の頃夏休みの朝五時位に父と寶蔵寺の大木へ出向くと大木の上の方に何か大きなものがブーンブーンと飛んで居るのである。

だからまさに其れが「カブトムシ」の群れなんだ。

 

また夏休みに自宅より西へ百五拾米のところにある小さな池へと良く遊びに行ったものだ。

其の池の中にはヤゴやらオタマジャクシやらが澤山居たのだった。

 

さうしたところから「ギンヤンマ」やら「オニヤンマ」が生まれ出で其れが我が家の前の道を行ったり來たりもする。

嗚呼其のギンヤンマやオニヤンマの美しさと言ったら!!

 

 

そんな訳で其の「眞」の意味で美しいものとは「自然」以外には無い。

例えば「万年筆」其れも「蒔繪万年筆」などは極めて美しいが其れは「加工物」として美しいとのことのみ。

 

「加工物」として美しい物は還暦迄はむしろ其れが良いのだがイザ高齢者ともなるとさうしてより「自然體験」の方での価値比率が高まって來る。

 

さて西八幡社は我が家から東へ百五拾米程のところで其処ではかって中根銅鐸が発掘された。中根遺跡 | 名古屋遺跡マップ (iseki.nagoya)

 

中根学区地内で発見された「中根銅鐸」について | 「洋ちゃん」のひとりごと (ameblo.jp)

 

尤も其の「中根銅鐸」は辰馬考古資料館 - Wikipediaに売り払われて居り現在社殿で年始に飾られるのは「レプリカ」となる。

 

そんな訳で家の近辺は遺跡や遺構が出るところなのだ。

また其れが庭を掘ると出て來る。

 

故に新築しやうとして地面を掘ると其処に遺跡が出て工事が中断されることなどが多いとも聞く。

さらに庭を掘ると「石英」などもまた出る。

 

其れが💎級の物である可能性などもまた常に有る。

ですからワザワザ観光地へ出向かずとも庭でもってさう遊んで居られるのである。

 

さう利休梅を愛でつつ庭でもって🍙でも食えばもはや其れでもって立派な観光體験が成立する。

だがもうギンヤンマやオニヤンマの池は消えて仕舞った。

 

 

また寶蔵寺の大木にカブトムシは居ない。

だがであるからこそ其れが「永遠化」される體験でもあり得やう。

 

其のやうに常に實存は「永遠化」される體験の所有者なのだ。

つまりは其の個に於ける體験を他で置き換えることが出來ぬ。

 

ならば其れは唯壱の個性的體験である。

本日哲學詩人が述べて居るのはまさに其の「唯壱の個性的體験」の様のことである。

 

 

瑞穂プール横のお花畑

 

さてこちらは瑞穂プールーパロマ瑞穂屋内プール(温水) | パロマ瑞穂スポーツパーク公式PAGEー横の御花畑である。

こんなしょぼい御花畑であるが決して侮れぬ。

 

何故なら此の奥は林となって居り其処には様様な🌸が咲き實が成ったりもまたする。

また例えば秋にはキンモクセイが満開となる。

 

さらに良く分からん實などが兎に角落ちて來る。

 

御花畑にはラベンダーなどのハーブ類が多く植えられて居る。

故に此処でコンビニ🍱を食うとまるで観光地で遊んで居るやうな気にもなる。

 

だが此の辺りは周りが高級住宅地なのでそんなルンペンみたくココで🍱を食うのが可成に恥ずかしい。

尚ハーブ類は必ず「しごく」ことにして居る。

 

すると色んな香りが混ざり最終的には何が何だか分からぬ良い香りとなる。

 

また此の辺は至って清潔でありだから汚い身なりをしたボロの中華🚲に乗るオッサンが其処に居ること自體が何だか景観にそぐわない。

だが我は「人の目」を気にしない方なので時折此処にて休むことにして居る。

 

さうサイクリングをしつつ休む訳だ。

 

 

瑞穂陸上競技場の裏手

瑞穂陸上競技場横の森の散策道

ゴヤグランパスのかっての本拠地の横は林となって居たが其れがスタジアムの建て替え工事により伐られて仕舞う。

此れ等の画像は其れ以前の様を写したまさに貴重なものとなる。

 

瑞穂陸上競技場横の森

 

また此の林は小学生の頃自分が「カブスカウト」にて活躍して居た処となる。

まさに此処にて名古屋31団の集會が行われ自分は當時組長として其れに参加して居た。

 

だが中学生となり「文學」に目覚めし我は「ボーイスカウト」にはならず主に太宰や芥川の研究に勤しんで行くこととなる。

カブスカウト」や「ボーイスカウト」の良いところとはまさに其の「自然」と親しむところにこそある。

 

「自然」はさう親しむことが無ければ本質的に分からないものとなる。

「自然」とさう親しむことが無い還暦世代以降の世代のことを正直自分はほぼ分からない。

 

でも「カブスカウト」や「ボーイスカウト」をやって居たりまた💎ハンターの方方などは別に還暦世代以降なのであれなかなか立派な人が多いものだとさう感じたりもする。

 

山崎川の桜並木

山崎川の散策道

 

瑞穂プールにほど近い山崎川は桜の名所であり丁度今頃は混み合って居ることだらう。

幼い頃はもっと大きな桜の木が植えられて居たが山崎川の護岸工事の折りに部分的に其れが伐られまた其の後廿年程が経ちようやく木が大きくなった感じである。

 

當時は多くの露店や「お化け屋敷」が其の🌸見の頃に出て其れに入ってとても怖かった覚えなどがいまだある。

そんな「お化け屋敷」が何故消えたかと言えば高級住宅街の人人が「ウルサイ!」と怒って止めになったのだった。

 

さて其の山崎川のサイクリングコースー以前は🚙の通行も可だったが現在は歩行者と🚲専用道となったーの際には名古屋市立大學の薬學部がある。

また名古屋市立大學の厩舎もあり其処で馬を眺めることもまた可能である。名古屋市立大学馬術部(@meishidai_uma)さん / X (twitter.com)

 

此れ迄に弐度程サイクリング中に道を🐎が歩いて居たのに出くわしたことがあった。

其の🐎はカッポカッポと蹄鉄の音を響かせつつ山崎川のサイクリングコースを移動して居たのだった。

 

尚🐎は上流階級の人が何故か好きで例えば名古屋の出の舘 ひろしー医者壱族ーなどはまさに其の🐎が大好きなのだ。

 

 

尚自分の趣味の壱つに「薬草園の観賞」と云うものが有る。

つまりは其の名古屋市立大學の薬學部の薬草園が山崎川のサイクリングコースの際に有る。

 

まさにソコを参度程訪れて居る。

 

薬用植物園市民公開1

薬用植物園市民公開2

 

但し応募して当選しないと其の「薬草園巡り」は出來ない。

しかも其れはちゃんと名古屋市立大學の薬學部での「講義」付きである。

 

其れも準教授位の人が大ホールにて壱時間程だったか講義して下さる。

個人的にはそんな薬學の世界には縁が深くかっては製薬會社でもって薬の配達や営業をして居たことが都合参年程はあった。

 

だが此処にて講義される其の内容はむしろ漢方系のつまりは植物由來での薬のこととなる。

 

コロナ禍以降は其の「薬草園巡り」も途絶えて居たが現在は復活して居るやうで昨年の秋サイクリング中に其の模様を観た覚えなどがある。

また名古屋市立大學の薬學部の学食は壱般にも開放されて居り其処にて何かを食うことが常に可能となる。

 

また其処にて例えばカツカレーライスなどを食って居ると自分がまた学生に戻ったかのやうな錯覚が味わえるものだ。

 

 

名古屋市立大学大学院薬学研究科薬草園案内 (nagoya-cu.ac.jp)

名古屋市立大学大学院薬学研究科薬草園案内 (nagoya-cu.ac.jp)

 

山椒ー29.jpg (6131×8678) (nagoya-cu.ac.jp)

薄荷ー40.jpg (1750×2480) (nagoya-cu.ac.jp)

 

個人的にどちらも好きな芳香のものとなる。

 

ドクダミー37.jpg (2188×3099) (nagoya-cu.ac.jp)

ヨモギー51.jpg (1120×1587) (nagoya-cu.ac.jp)

 

こちらの香りなどもまた好きである。

其のドクダミは家の庭にまたヨモギ天白川の土手などに澤山生えて居る。

 

我が家の庭のドクダミ

 

當帰ー35.jpg (2777×3761) (nagoya-cu.ac.jp)

 

こちらは五年程前に薬草園で匂いを嗅いでみたが確か相当に臭かった覚えがある。

 

柚木ー50.jpg (1097×1562) (nagoya-cu.ac.jp)

 

また柑橘系の香りが實は壱番好きだ。

 

さて其の「香り」を樂しむことは洋の東西を問わずして「上級」の趣味と言えることとなる。

わたくしは何せ感覚の方が鋭敏なので所謂「エッセンシャル・オイル」などの類のものが好きである。

 

ところが案外本人はむしろ歯が惡いしまた水虫の方も有りつまりは「臭い」方なのでまあ分裂して居ると云えば確かに分裂して居ります。

ですが香りの「本質」とはつまりはさうしたことなのだ。

 

惡臭⇔芳香

 

「匂い」とは結局そんな弐元分離でのこととなる。

またつまりは両方有るのが此の世界での「實相」となる。

 

またドラッグストアにある「ハッカ油 - Wikipedia」などもまた御勧めです。

 

ミントオイルとは?成分や効果から使い方(活用方法)まで紹介! | BOTANICA (botanica-media.jp)

 

其れも色んな物があらうがややこしくは無い「ハッカ油」こそが壱番良い。

我は気温が上がるとまずはコレを求め主に其の香りを嗅ぐことで心を落ち着かせたりもして居る。

 

尚此の4~5月はやりたいことをせんが為に週壱程のペースにて「画像詩」のみの投稿を行う予定です。

とは言え現状ではほぼ大掃除をやらねばならん可能性が高くある。

 

其れに梅雨前迄に其の大掃除をやらんとまた計画がグズグズになって仕舞う。

無論のこと新緑の季節には是非東山や相生山へも出向かねばならず兎に角忙しい限りである。

 

だがそんな忙しい日常の中にもまた必ずや「美」の世界が有る。

さう其れは無いのでは無くあくまで有る。

 

其の「美」を見続けんとさう欲するニンゲンの心向きこそが「愛」なのだ。

「愛」はさうして普遍的に此の世を覆っても居やう。

 

また其のことは抽象的に成立するのではむしろ無くして常に具象的に作用するものなのだ。

即ちたった今我我ニンゲンが感受する其の内容こそが「美」の秩序をこそ指し示すものなのだ。

 

さう其れが、

「美しい」

とさう感じられる今を生きることの大事さのことなのだ。

 

けれど其の「美しい」今は心のあり方が濁って居るとついぞ見られぬこととなって仕舞う。

さう穢れた社會的欲望を離れ「美」其のものと対峙する時ニンゲンは眞の意味での幸福感を其処に味わうことであらう。

 

さうしてたった今僕は「過去の自然體験」と自らの「観念的道程」に對し心より感謝を捧げて居る。

何せ心理的な屈折度がまた高くあるが故にまあ憎たらしいことも確かに言いますがソレだけは言って置かなイカンとさう思いつつ本日此の作文を書いて居りましたのです。

糸魚川翡翠としての「前向き」な価値ー本日さう「日光浴」しつつ「糸魚川翡翠原石」の数数と戯れて居た我ー

糸魚川翡翠としての「前向き」な価値ー本日さう「日光浴」しつつ「糸魚川翡翠原石」の数数と戯れて居た我ー

 

 

 

 

さて愛知県産の環境詩人は本日今年初となるバルコニーでの「日光浴」を慣行致しました。

其の「日光浴」こそがまさに我が趣味の筆頭のものでまた其の折には必ずや「鉱物」達が登場致します。

 

さうして「鉱物」を太陽光に翳しつつ眺め地球や文明の未來のことなどを全て忘れ言わば其の時のみの時間を過ごすことこそがまさに自分に取っての「癒しの時」となる。

また「筆記」の方でも癒されぬ訳では無いが「筆記」の方では「観念」が必然として入るが故に必然として「社會性」の如きものが其処には含まれ完全に解放される訳には行かぬ。

 

さて本日は光の具合が如何にも良く「鉱物」達がまさにキラキラと輝いて居る。

ところで何故世間の人人の多くは其の「キラキラ」に余り反応しないのだらう?

 

逆にみんなは「和」だの👪主義だのまたスタア性などに群がるものですがわたくしに限り其れ等にはほぼ興味が無いのでかうして我が部屋とベランダとに閉じ籠りつつそんな石の「美」をこそ愛で続けて居る。

またまさに其の「美」こそが我が生に於ける追求のテーマなのだ。

 

わたくしはすでに観念が齎す「虚構性」にもさらに社會が蔓延させる「資本の論理」にも飽き飽きして居る。

さうした意味での常識的な「幸福」の様からはあえて離れ自分にとっての「ほんたうの幸福」の時をかうしてしかと見詰めつつも半分泣いて居るのだ。

 

謂わば泣きながら其の「虚」としての感覚的現在をさうして生き続ける。

「破顔微笑」

 

其れもまさにそんな感じにて石の「美」に酔い痴れ独りほくそ笑む感じであらうか。

 

さて本日は主に「翡翠原石」を観賞した。

今年になり何故か其れが増えでもって過去に得た石をも引っ張り出し本日纏めて観てみたところ其のコレクションの域もすでに完成の域に近づいて居ることにまずは気付かされた。

 

兎に角石の数ばかりは多い。

其れが硝子製の大瓶でもって4つ程にもなるのでおそらく百以上は有るのだらう。

 

 

でもって昔得た大振りの糸魚川原石を眺めて居たところ、其の中に所謂「靑翡翠」と云っても良い物があることに気付いた。

尤も其れは231gある重い石でうっすらと黑も混じる透過せず余り質の良くない石である。

 

当初から「灰色翡翠」に見えるので適当に転がして居た翡翠ながら良く観るとコレは今値が高騰して居る「靑翡翠」と言ってもオカシクは無い。

此の「靑翡翠」はしかしながら光に翳しても其の色がハッキリする位のもので「結晶」は煌めかぬ。

 

でも翡翠なので「結晶」が無い訳でも無いが余り目立たないのである。

ところが今年得た参標本を光に翳すと特に弐標本が細かく「結晶」が煌めきまさに其れダケで💎級の石に見える。

 

つまりは「翡翠」の上質な標本は左様にまず「キラキラ」なのだ。

其の「キラキラ」な標本を何故か今年は立て続けに弐つ得て居る。

 

1.レモン翡翠

 

糸魚川 翡翠118 海焼け 86g-4

2.ピンク翡翠

 

極上品!糸魚川翡翠 天然石4

 

また此れ等は色合いの方もまたぶっ飛んだほぼ「奇跡の糸魚川翡翠」と言えるものなのだ。

 

3.緑の大振りの翡翠

 

 

糸魚川翡翠 139 鮮緑 245g-6

 

こちらは其の緑の部分に大振りの結晶がチカチカと輝く。

此の石は243g有り大きくなかなか見榮えの良い標本となる。

 

 

だが握り石として昔集めた標本には其の「結晶がキラキラのタイプ」が壱個しか無い。

其れは以前ー矢張り拾年程前かー新潟の其れも夫婦でたまに翡翠原石を出される人から得た物で結局其れも光の透過の方が良く上質の翡翠だと言えるが色の方は付いて居ない。ーさう摺り硝子のやうな感じの翡翠となるー

 

翡翠の結晶は細かくなり過ぎるとさうチカチカとは輝かぬさうですので其処は品質の見極めがまた極めて難しくもなる。

だが概ねヤフオクなどで売られる翡翠原石の場合はそんな「結晶がキラキラのタイプ」こそが最も品質の高いものと言えるのではないか。

 

どだい石の中でも「翡翠原石」は其の全てが「難しい」石なのだと言えることだらう。

自分もまた「翡翠原石」との付き合いは15年位にはなるのだらうが其れでもイマイチ良く理解出來ずに居る。

 

其の15年位の間に百位の標本を集めた訳であり實は其れ程金をかけて集めた訳でも無いのである。

大體高くても弐萬円程の物迄でより多いのが五千円以下の翡翠原石であり其れも拾年程前迄にヤフオクにて集めたものが多い。

 

だが近年は鉱物展の方で次次と糸魚川産の翡翠原石の標本を購入して來ても居るので決して惡くはない参万円位迄の石も含まれて居る。

其れでも其れ等は「結晶がキラキラのタイプ」なのでは無い。

 

だから「翡翠原石」はそも多様なのでありつまりは石として可成にややこしい物とならざるを得ない。

 

例えば全然光の透過度は無くとも凄い緑でもって極めて美しい石などもまたある。

故に「結晶がキラキラのタイプ」が絶對的に良い訳でもまた無いのであらう。

 

だから「翡翠原石」の蒐集はむしろ石の「上級者」向けの趣味とならざるを得ぬことだらう。

 

 

即ち、

 

1.石の質がそも多様で分かりにくい

2.良い石に限れば当然に値が張る

3.西洋人よりも東洋人が好む石

 

なのだ。

 

個人的に其れこそ15年程前はもっとハッキリと結晶化する鉱物標本の方が好きでしたが特に還暦を過ぎた辺りからほぼ「翡翠」が壱番手になりつつある。

でもって翡翠特に糸魚川翡翠は、

 

4.標本の形が多角形になり易い

5.基本的に緑や靑などの寒色系の石となる

 

ことがまずは自分に合って居る。

何故なら個人的に「丸い物」よりも「カドカドの物」の方が好きなのだ。

 

また「論」の方でも「丸い物」よりも「カドカドの物」の方が好きなのだ。

さうか、其の「カド」が好きか。

 

さうカドに頬を擦り付け喜ぶタイプの人なのか。

 

尚「翡翠原石」は國石指定をされて以降結構値上がりをして居るやうである。

だが並以下の質の石に限り案外さうでも無いやうだ。

 

翡翠原石」はまさにピンキリなので「結晶がキラキラのタイプ」でありしかも懐中電灯の光でもって全透するやうな質の石を得ることはかってもまた今でも難しいのだと言えやう。

またヤバい石などもまた有るには有る。

 

其れも昔は壱度現地の人が「透輝石」を「翡翠」だと言ってヤフオクにて売って居て其れをワタシが得てよーく見ると違う石であった。

また五年程前地元のSHIBATAさんが糸魚川産の「赤翡翠」だと言ってヤフオクにて売って居て其れをワタシが得てよーく見るとどうも違う石であるやうな気がしてならぬ。

ーしかも其れがまだ瓶に入ってるー

 

さらに大阪から六、七年前に落札したミャンマー産の緑翡翠原石は参割程騙されて居る。

でも此の石は可成に質が良くライトの光がスッと通る。

 

AAAAA級【★天然物★】【★原石販売★】翡翠原石146U3-166U258-6

 

だから全然ウソの石なのでは無く緑の部分ももっと画像よりは薄くなるがちゃんと緑色にはなってる。

だから此の石などは案外得難い翡翠原石なのだ。

 

AAAAA級【★天然物★】【★原石販売★】翡翠原石146U3-166U258-7

 

でも画像程緑色では無く其の緑色の部分が「ちっこい」のである。

 

AAAAA級【★天然物★】【★原石販売★】翡翠原石146U3-166U258-8

 

さらに拾年以上前にまた其れも関西圏だったか、ヤバい石を六萬も出して買いコレなどはほぼ七割方騙されて居る。

ソイツを知り合いの💎屋に磨かせたところほぼウソの石でほとんどが灰色~白ででも壱面だけ緑の石が其れも薄くへばり付いて居る。

 

なので其れもまた全部がウソだったとは言えぬものなのだ。

でも💎屋の感覚からすれば其れはあくまでニセモノ翡翠なのだ。

 

また此のヤバい石などもこと画像では百萬~弐百萬程の標本に見える。

でも其の画像を探し出すのはすでに億劫である。

 

 

そんな訳で「翡翠原石」の蒐集は其れも良質の「翡翠原石」の蒐集は相當に難しいものと見て置くべきである。

尤も「翡翠原石」を採取したことが無いわたくしはさう「現金採集」の範囲にて其れを追求する他は無くであるからこそそんな失敗談と申すか武勇伝と申すかそんなものを幾つも潜り抜けつつようやく現在の翡翠運の良さに至って居る訳だ。

 

ちなみに今年になり得た翡翠原石は弐つが神奈川県よりまた壱つが兵庫県より來て居る。

また最近はいつも御世話になって居る石川県のKAWAIさんなどもまた翡翠原石を出されて居るが彼からはほとんど赤瀬産のオパール標本を求めて居りよって其の翡翠原石を買う気には何故かなれぬ。

 

尚其のオパール標本にせよ翡翠原石にせよ数が増えると要らん石が次第に増えて來てむしろ其れ等を売り標本を整理したくもなって來るものだ。

だが此処五年程出品者の方はやって居ないのでもはや其のことも次第に面倒臭くなりつつある。

 

翡翠原石」の蒐集やまた「筆記具」の蒐集は基本的にそんな個の範囲での「思い入れ」の部分に拘ることであり其れは基本的に「高尚」なことでも何でも無くされど其れが「卑しい」ことかと言えば決してさうでは無いやうに個人的には思われてならない。

また石にもまた「ヒエラルキー序列」が常に生じるがむしろやれる範囲の中で其れに向き合いくれぐれも「上位ヒエラルキー」にのみ耽溺すること無きやうにして行かねばなるまい。

 

また上で述べた個人的な失敗などもまた其の「上位ヒエラルキー」に属する翡翠原石をまさに得んとした我が欲望に於ける失敗であり過失である。

さう兎に角何にでも「限定的」に向き合う位で事象の塩梅が丁度良くなるものとさう捉えて置かう。

 

 

【翡翠】春休みのヒスイ探し!あきらめかけているとまさかの結果に…【宝石】 (youtube.com)

 

いやあー、また如何にも「引きの強い」御方で…。

ですが結局デカ目の翡翠原石はもはや採れぬのか。

 

個人的には近年デカい翡翠原石に限り興味があり例えば庭石になりさうな位の物が欲しいともさう思われるが其のデカい翡翠原石に限り高価となるものと何故か相場が決まって居るやうです。

 

 

翡翠原石 (kiyoshop.jp)

 

例えばココでは時に面白い石が売られて居るやうだ。

 

糸魚川産 青翡翠 ヒスイのお店 Kiyo shop

糸魚川産 翡翠原石 青 ヒスイのお店 Kiyo shop

 

此れ等の靑翡翠などはまさに凄い。

 

翡翠製万年筆(ボールペン・シャープペン) (kiyoshop.jp)

 

また此の店にはこんな翡翠軸の筆記具迄ある。

尚軟玉翡翠ネフライト)製の軸ー軟玉翡翠貼りーの限定品などはかってカラン・ダッシュの物にもあった。

 

いや其れはもしやファーバー・カステルの方だったか?

いずれにせよ石は重いので基本的に筆記具には向かず翡翠を用いてもまず良い筆記具にはならないものです。

 

ですがもしもタダで呉れると云うのであればこちらなどが欲しい。

糸魚川産 高級 万年筆 ヒスイのお店 Kiyo shop

 

 

原石 | 糸魚川翡翠工房こたき (itoigawahisui.jp)

 

さてココは大きな翡翠原石が多いので最近注目しつつ視て居るが予算的にはまるで手が出ない。

 

【淡緑色・親不知産・1,230g】(高品質淡緑色ヒスイ)糸魚川天然翡翠原石 | 糸魚川翡翠工房こたき (itoigawahisui.jp)

 

先に述べた自分が七割方騙されて買ったミャンマー産の翡翠原石にソックリな石が何故か此処に有る。

其のミャンマー産の翡翠原石の場合は所謂皮付きとなり其れを知り合いの💎屋が磨いたところまさにこんな風になったのだった。

 

【プレミアム・机上用・市振産・上品淡緑・ロウカン有・450g】(プレミアム淡緑色ヒスイ)糸魚川天然翡翠原石 | 糸魚川翡翠工房こたき (itoigawahisui.jp)

【海石・親不知産・濃グリーン模様・透明感良し・582g】(高品質濃緑色ヒスイ)糸魚川天然翡翠原石 | 糸魚川翡翠工房こたき (itoigawahisui.jp)

 

個人的にはあくまで大きな石でもって緑の石が好みです。

 

【プレミアム・入コン沢・床の間用・至高の青・透明感良し・2.9kg】(プレミアム青色ヒスイ)糸魚川天然翡翠原石 | 糸魚川翡翠工房こたき (itoigawahisui.jp)

【プレミアム・床の間用・海石・親不知産・1.0kg】(プレミアム青色ヒスイ)糸魚川天然翡翠原石 | 糸魚川翡翠工房こたき (itoigawahisui.jp)

 

例えば此れ等は凄い。

こんな翡翠原石を視て居るだけで心が躍り面白い。

 

面白い、つまりは言わば建設的に時を過ごすことが可能となる。

いずれにせよ大きな翡翠原石も要らないと云えば要らないがこんなのを玄関や床の間などに置くと結構面白いのではなからうか。

 

かうして翡翠原石は岩石標本としてのみでは無く所謂「観賞石」の方面に迄興味がのびて行くからこそ多様で幅広い石の趣味なのだとも同時に言えやう。

 

 

國石 翡翠

 

嗚呼こんな翡翠原石が手に入らぬものか?ー特に緑の奴がー

ですが其のことはどうあがいても無理である。

 

でもこんな写眞を視て居るだけでも至極良い気分になれるではないか!

またであるからこその糸魚川翡翠としての価値なのだ。

文明ー人類ーの滅亡に就いて2ー+「たった今ココを生きんが為」のニンゲンの知恵のことー

文明ー人類ーの滅亡に就いて2ー+「たった今ココを生きんが為」のニンゲンの知恵のことー

 

 

 

 

そもそも「仕事ができる人」は学歴をひけらかさない…「高学歴なのに仕事ができない人」の残念な共通点 (msn.com)

 

其の高学歴であったり高知能者であったりすることは即仕事がやれる=現實的に成果を出せるとのこととは違って居る可能性が高くあらう。

尤も高学歴であっても馬鹿はまた居るものでまた普通に高卒であれ天才級の知性が此の世には確かに居られるものだ。

 

わたくしなどもかって志望大学に全部落ちて地元の樂に行ける大学しか出て居ませんのですが其処での成績は流石に頗る良かったものでした。

が、もしもアノ早稲田大学にでも受かって居ればもっともっと勉強はしたのかもしれません。

 

何せ周りのレヴェルが高いので其れに負けまいとして。

 

でも我が「御勉強」とは「世の中に役立つ」ことでは無くむしろ「世の中を貶さんが為」の「御勉強」なのでした。

そもそも所謂文哲方面ー人文科学方面ーの見識とはさうした意味での壱種社會の向きとは逆方向での言わば「屈折する」ものともまたなり易い。

 

ですが個人的にはまさにソコが人文科学方面の価値であり眞骨頂としての部分なのではないかと思う。

要するに世の中の向きと正反對のことをそも述べたがるので所謂「協調性」に欠け壱種「ウザい」奴等なのですがでもかのショーペンハウアーにせよまたニーチェにせよさらにレヴィ・ストロースにせよちゃんと變人哲学者として人文科学史に名が刻まれる天才達です。

 

また梅原 猛先生や岡本 太郎氏などもまた變人ですが大思想家であり大藝術家として世に立って居られやう。

おまけにかのマルクスエンゲルスなども相當な變人でせうが社會思想の上での壱つの極を形成する體制論を組み上げた天才でせう。

 

 

要するに所謂「高知能者」の方方はむしろソコにこそ其の知性力を発揮すべきなのではないか。

だから其れをあくまで「現世利益」的に使うのでは無くむしろ「非現世利益的」に使い其れも其れこそ死ぬる迄世の趨勢とは「逆」のことばかりを述べ続けた方が良くまさに其れが彼の「仕事」なのです。

 

さて其の「文明ー人類ー滅亡論」に関しては世界を代表する知性が様様なことを述べられて居ます。

 

「最悪の事態はまだ来ていない」エマニュエル・トッドが本当に恐れる未来とそうでない未来とは (msn.com)

ジャレド・ダイアモンドに聞く 「危機と人類」10の質問:日経ビジネス電子版 (nikkei.com)

ジャレド・ダイアモンドに聞く 「危機と人類」10の質問:日経ビジネス電子版 (nikkei.com)

J・ダイアモンドに聞く(8)世界が直面する最も深刻な危機は?:日経ビジネス電子版 (nikkei.com)

「日本の人口減少は喜ぶべき」少子高齢化の克服法をジャレド・ダイアモンドUCLA教授が語る | Business Insider Japan

 

ですが概ね其の未來予測は「悲観的」なものとならざるを得ない。

其れは壱つには所謂西洋型の知のあり方に「限界」が突き付けられて居るからなのだらう。

 

さう現代文明は其の大元の部分で誤って居る可能性がむしろ高くありでも其のことを西洋の知性が普通認められずよってどうのかうのと其の打開策としての「本質的論議」に至ることが無くむしろ堂堂巡りをして居るかの如くとなる。

其処であえて梅原 猛先生の本をたった今再読して居りますが其の梅原 猛先生って意外と敵が多くアノ人の論は「變」だと言われる割に至極スッキリする形でもって現代文明での問題点が明確化されるやうに個人的には思われた。

 

梅原 猛先生は半分愛知県人でありそりゃあ「變」だと云えば「變」で特にわたくしなども半分はナゴヤ人なのでまあ確かに「變」ですが其れもほんたうは「變」ばかりでも無いのである。

かうして多分「高知能」なのでもまたあるんだよ。

 

でもってネット上でも以下の「In Deep」さんなどは相當な悲観論を展開されておりまさにソコは此の意外と能天気なわたくしでさえ「絶望」させられるやうな素晴らしいところなのす。

 

「2040年頃に人類の文明は終焉する」 : 米マサチューセッツ工科大学のコンピュータが弾き出した人類文明の崩壊と終焉……そしてその状況を最も現実化しているのはおそらく「日本」 - In Deep

世界の「34億人」が脳卒中、認知症を含む神経疾患を持つか亡くなっている世界で「愛と正義と誠実によって悪を地球に広める人間たち」への対処を再び思う - In Deep

 

まあコレを書いて居られる方などもまたまさしく「天才的」な方なのだらう。

 

すでに私たちの文明は終わりを迎えている① 「偉大な文明や国家はなぜ忽然とその姿を消した理由」|Atlasマンツーマン英会話,札幌,横浜,名古屋,大阪 (peters.jp)

すでに私たちの文明は終わりを迎えている② 「自衛隊が宇宙防衛に乗り出す(NHKニュース)」|Atlasマンツーマン英会話,札幌,横浜,名古屋,大阪 (peters.jp)

 

また意外と好きなのがこちらでの滅亡論です。

かうしてガイジンの塾の先生が書かれて居るところです。

 

兎に角梅原先生の「文明論」はまた梅雨以降にでも連載の形にて逐次論じて行きたいテキストとなる。

 

「今の世界は簡単に滅亡する」学者が明かす怖すぎる理由【書籍オンライン編集部セレクション】 | 上流思考 | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)

21世紀中に文明が滅亡するリスクは6分の1:人類の未来研究所が問う自滅と存続のシナリオ | WIRED.jp

【文庫】文明崩壊(下) | 草思社 (soshisha.com)

『文明崩壊 下: 滅亡と存続の命運を分けるもの』|感想・レビュー - 読書メーター (bookmeter.com)

 

かうして此の種の論はまだまだ幾らでも出て來ます。

問題はまず此のやうに学者の方方がたった今考える文明の上でのリスクが大衆レヴェルではまず認識されては居ないことなのだらう。

 

つまるところ「御勉強」が嫌いであるか又はやりたく無い大衆レヴェルでの認識とかうして益益追い込まれて行きつつある知識人による考察との間に大きくギャップが生じて居ることなのだ。

ところが「大衆レヴェル」であれまた「知識層レヴェル」であれ意識のあり方には「高低」がありまさに其れが壱流大学を出て居ても「意識の低い」輩も居れば普通の人なんですが物凄く「意識の高い」人などもまた居られるのです。

 

其の「意識」や「見識」の高さは要するに自立的な「御勉強」をして「自己の認識世界」を高めて居るかどうかにかかって居るのでせう。

逆に投資だの蓄財だのに奔走するであらう「成功者層」はそんな「御勉強」に對しむしろマイナスですので結果「地獄」へ堕ちるより他は無い。

 

なので彼等には是非「寄付」を御勧めしたい。

其れも地元の空想詩人やエッセンシャル・ワーカーやまた貧乏寺や貧乏教會さらに貧乏モスクなどへの御寄付をこそどうかどうか御願いしたい。

 

 

さて當代壱の歴史学者であるハラリ氏の認識論へと是非立ち戻ってみませう。

ー※注意!以下のリンク先を開くとセキュリティ警告が出される場合がありますー

 

ーこの本の根幹をなすのは、「ホモ・サピエンスが、ネアンデルタール人などの他のヒトの仲間を差し置いて地上を支配するようになったのは、共通の『虚構』を信じる能力を有するから」という主張だ。宗教、国家、貨幣はすべて大勢の人間の協力と組織化を可能にした人類の虚構の産物なのだとハラリは言う。ー

『サピエンス全史』の著者に17の質問! | クーリエ・ジャポン (courrier.jp)

 

ハラリ氏の認識論での根幹部とは其の「虚構性に基づく進歩」を我我ホモ・サピエンスがずっと続けて來て居た、との部分でせう。

其の「虚構」=「抽象的価値」のことでありまたつまりは「文明」とは「虚構性に基づく価値の實現過程」のこととならう。

『サピエンス全史』著者ユヴァル・ノア・ハラリ「人類の繁栄とは“虚構”の上にあるのです」 | クーリエ・ジャポン (courrier.jp)

 

尚勘の良い方ならば或は御気付きかもしれぬが此の論理は養老 孟司先生が説かれる「唯脳論」での論理とほぼ同じものでせう。

其れは要するに我我人類ー文明ーが「抽象的な価値領域」をほぼ全面的に歩み始めたとのことなのです。

 

さう「抽象的な価値領域」としての「脳化」された世界なり世界観なりでもってしかもはや事象を認識し得ぬ状態へと至ったとのことです。

逆に申せば其処では其の「脳化」された世界なり世界観なりでもって認識し得る価値こそが「自然」が齎す価値などよりも常に上位となります。

 

自然<文明

まさにこんな状態です。

 

また其れは非常に簡単な御話です。

人類はすでにそんな状態にこそ「洗脳」され切って居る。ーわたくしの言い方で其のことを言えばまさにさうなるー

 

例えば企業であれ学校であれ共同體であれ何であれ現代人は其の「抽象的な発展」なるものを金科玉条の如くに信奉し且つ其れが成ることをこそ喜ぶ。

逆にそんなもんは屁みたいなもんでむしろ無い方が良くつまりは「自然」こそがサイコーの価値なのでむしろそちらの方をこそ優先せよとかの養老先生やまたグレタ氏や愛知県産の環境詩人が述べますが誰も其の「心の叫び」を聞いては居ない。

 

むしろあいつ等が居るから世の中が落ち着かんのだ。

むしろあいつ等が居るから「共産党壱党独裁政権」が蔓延したりもまたするのだ。

 

じゃああいつ等を縛り首にでもした方が良くはないか。

 

…涙。

は?なんだ其のウソ泣きは。

 

ウソ泣きなんかじゃないわ!

コレは御釈迦様とイイエス様が流された其の涙のことぞ!!

 

 

さて其の「宗教的価値」もまた「抽象的価値」=「虚構」としての価値なのだ。

「宗教的価値」も故に最終的には「価値對立」を引き起こし逆に「破壊」を生じさせる原因とも化すことがある。

 

但しイイエス様による「普遍的な愛」と御釈迦様による「放棄」の思想にはそも其の「破壊」を生じさせる原因其のものが放逐されても居やう。

 

さて以前にわたくしは其の「宗教」をも含めたところでの「抽象的価値」とは「社會的価値」であることを述べて居た筈である。

ホモ・サピエンスネアンデルタール人に種として勝ちかうして地球上で繁榮したのはまさに其の「社會的価値」を築くことに長けたホモ・サピエンスの性質=癖の部分なのだらう。

 

ところがまさに其の「社會的価値」こそが「自己矛盾」するに至るのである。

まさに怖ろしい話ではありますが其のことは眞實です。

 

社會的価値⇔個的価値

故に最終的に其の「個的な価値」=「實存的価値」の方をより重視すべきだと云うのがわたくしの哲學上の結論となる。

 

尤も🗾社會は伝統的にむしろ、

 

個的価値<社會的価値

とさうなるであらう所謂「和の社會」を築いて來て居る。

 

だがわたくしは其れを続ければ続ける程に「破壊」=「綻び」が生じて來るとさうも述べて居た筈だ。

さうしたらついにたった今ジミントーが組織として沈没しかかって居る。

 

故に逆に、

 

社會的価値<個的価値

 

とする位で丁度良くなんとなれば🗾人は「結局社會が壱番大事でもってみんなでもってなんでもやらう」的な人人なのであるが故に。

なので兎に角「宗教」は大事ですが其れもまた「個」を疎かにするやうな「邪教」の類のものであっては決してならない。

 

またさう云う結論こそがまさに「哲學的」に導き出されるものとなり所謂「信仰」の御話などではまるで無いのである。

 

 

尚虚構としての観念的価値の究極の目的とは其れこそ「SF」の世界ではないのですが「人間が神化すること」=「神人間化の過程」其のものとなる。

また其のことを主に外側に虚構化する形で成し遂げやうとして居る。

 

より具體的にはAI開発や宇宙開発などが其の「虚構化」の極としての例となる。

またニンゲンの「不老不死化」なども其の「虚構化」の極としての例となる。

 

だが其のいずれもが「自然」が許容するだらう「限定的な現在性」の部分をすでに無視して居る。

「限定的な現在性」を無視するからこそさうして「文明」を築けホモ・サピエンスの周りを「人工化」することが可能となる。

 

自然<文明

 

此の場合にもまた其の逆として、

 

文明<自然

位に認識して置く方がよりバランスの取れた認識となり同時に文明による価値上の「洗脳」を解くことが其処に可能とならう。

 

 

Q10 あなたは、『サピエンス全史』で家畜の飼育を始めたことが人類の最悪の罪だと言いました。それをやめるためには何をすべきだと思いますか?
ジェシー・リース、「ガーディアン」紙読者の投稿)

ハラリ 特定の細胞を培養することで農産物や肉を生産する、「細胞農業」や「培養肉」という技術があります。

ステーキが食べたければ、細胞からステーキを育てるだけです。雌牛を育てる必要はありません。

SFの世界の話のように聞こえるかもしれませんが、もうこの技術は現実のものになっています。3年前、細胞から初めてハンバーガーが作られました。30万ドルという巨額の費用がかかりましたが、それぐらいの出費は新技術にはつきものです。ー「人類は10年後には細胞肉を食べ、100年後には消えるでしょう」 | クーリエ・ジャポン (courrier.jp)より

 

其の「家畜」とは人類に取っての「奴隷」であり其の「奴隷」は食われても良い。

まさに其れが我我ホモ・サピエンスに取っての常識ながら實は其れこそがまずはオカシイ。

 

だから正しくはあくまでモスバーガービッグマックを好んで食う食欲詩人の認識はオカシイ。

オカシイが何せ僕は高知能者でもって常に體が弱めなのよ。

 

いや體は存外丈夫だが精神的にはあくまで脆い。

だからイヤでも其の精の付く「ビッグマック」を食わねばならんのよ。

 

ちなみに幼い頃自分はむしろ「生まれついてのヴィーガン」であり肉や卵の類は壱切食えませんでしたのです。

さう生まれつきに高貴なニンゲンですのでみんなと壱緒にして貰ってはまさに困るな。

 

 

ー脳内の何十億ものニューロンが特定のパターンの電荷を生じたとき、それがどのように、愛や怒り、痛み、喜びの精神的、もしくは主観的な経験を作り出すのでしょうか? 我々には、何もわからないのです。ラスコーやアルタミラの洞窟の壁画を描いた後期旧石器時代の人々は、今日の人間と同じ精神を持っていたと我々は想定しています。その一方で、ネアンデルタール人はいまの人類よりも大きな脳を持っていたにもかかわらず、別の種類の精神を持っていたと我々は考えています。しかし現時点では、真実は我々の理解をはるかに超えたところにあります。

 

アンドリュー・アンソニー(この記事の筆者、以下アンソニー 国家や貨幣、宗教といった「虚構」を作り出す能力を持っていたから、我々ホモ・サピエンスが他の種を差し置いて地上を支配しているのだとあなたは言いました。では、我々が宗教的な虚構を捨てるのと、イスラエルパレスチナ紛争が解決するのと、どちらが先だと思いますか?

ハラリ 現状からすると、イスラエルパレスチナに和平が訪れるよりも先に、ホモ・サピエンスがいなくなると思います。

いまのホモ・サピエンスは、おそらくあと1世紀ほどで消えると私は考えています。それは殺人ロボットなどに破壊されるという意味ではなく、遺伝子工学やAI(人工知能)によって、何か別のものに変化、もしくは進化するということです。時間的な尺度はたぶん1世紀くらいでしょう。パレスチナ人とイスラエル人の紛争は、それまでに解決しない可能性が高いと思います。ー「人類は10年後には細胞肉を食べ、100年後には消えるでしょう」 | クーリエ・ジャポン (courrier.jp)より

 

但しあくまで「宗教」が要らない訳なのでは無い。

「宗教」はむしろ「ニンゲンを如何に救済するか」とのことを「精神的な」尺度でもって見詰めるものである。

 

其れと壱つ考えて置かねばならぬことがあり其れは「科学による暴走」の部分はむしろ「虚構化」の極としての流れのものでありまさに「抽象的な価値」としての履行の最前線でさえあることなのです。

其の「科学による暴走」を齎すのは結果としてホモ・サピエンスとしての「社會化」すると云う認識上の癖のことなのです。

 

其の「ホモ・サピエンス」は進化を遂げて全てを「進歩」させた。

でも其の御陰でむしろ「自然」との関係をより惡くさせて居ます。

 

また「ホモ・サピエンス」は生物学上の進化を捨てやがて抽象的領域での「進歩」をニンゲンとしての「種」其れ自體に施して行くことだらう。

でも個人的にはおそらく其のことは間に合わず其れこそ大地震地球温暖化や種の絶滅に関連することだらう「大災害」にて彼等は滅ぶ可能性が高く有るとさう見て居ります。

 

が、現在わたくしが見詰め尚且つ考えるのは其の種の「滅亡」に関してでは無くニンゲンが如何にして此の不穏な時代を「自己實現」しつつ生き抜いて行けるのかと云うことに限られます。

要するに「滅亡」が避けられぬものを無理に避けることはむしろ至極難しいこととなる。

 

では後はどう「精神の健康」を保ちつつ此の間違った「近代世界」を生き抜くのか?との問いの部分のみが其処に残る。

其の問いへの壱つの回答として、

 

1.蜂起か又は放棄すること

2.職人技に生きること

3.創造的ー藝術的ー自我を生きること

 

との結論を導き出すに及んだ。

 

1.での其の社會的な意味での「蜂起」と「放棄」は社會への否定の弐側面です。

其のどちらでも良い。

 

ですが大多数のニンゲンはむしろ其のことをやれぬ訳です。

 

ならば3.はどうかと言えば其れがあくまで自分向きな気はしますのですが其れがやれたにせよ「自称」となることはまず否めません。

まあ其の「自称」であれ何であれ「社會の暴走」への距離の取り方として常に其れは理想的です。

 

ですが「藝術」には「感度」が要り其れは誰にでも備わるものではまた無い。

であれば2.の方がよりやり易くつまりは其れでもって生きて行き易いものとなる。

 

 

例えば本日わたくしは「探検ファクトリー」と云う番組をNHKの方でもって視て居た。

ソコにはカレンダーを作る工場での職人さん達の「技」が描き出されて居る。

 

またつまりは🗾の物作りがそんな工場での職人さん達の「技」により實質的に支えられて居る。

其れは大企業のさらなる儲けだの銀行の儲けだのそんなものでは無く庶民のでもなくてはならぬ「技」の集積としての価値なのだ。

 

何よりもさうした意味での「現實的」な「技」こそがココ🗾國には溢れて居ることだらう。

またパンを焼いたり米を作ったりさらに🐟を獲って來ることもまた🐄や🐖や🐔を育て上げることなども全てが其の「技」に支えられしことなのだ。

 

大企業や大銀行による所謂「資本としての利潤」でもってココ🗾はまた世界は成り立つのでは無くまさにそんな中小企業としての具象的な努力であり庶民としての技術的な努力によりニンゲンの生活は其の根本より支えられて居るのです。

 

故に日銀の職員や國會議員やさらに裁判官や官僚や大企業の社員は幾ら儲けるにせよ其れ等の働きが無くば飯が食えません。

だから御前等の其の高い給料を是非減らしてむしろソッチへと其れも半分以上は是非回すべきであらう。

 

さらにこんな素晴らしいことを述べて下さる愛知県産の革命詩人さんに是非壱社辺り拾萬円程で良いからカネを「寄付」すべきです。

ダンダン寄付の金額が下がって來てますね!

 

さうなんです、まあ余り強欲なこともさう言えぬので此の際ハードルを下げさせて頂きました。

ところで僕はたった今『タイガーマスク』を視聴中です。

 

でもって實は涙が出て仕方がありません。

どうも此の『タイガーマスク』にはクリスト教に於ける「寄付」の精神がしかと刻まれて居りよって金持ちのプロレスラーは常に孤児院などの恵まれぬ立場のニンゲンに「御布施」をしなければなりません。

 

まさに其の意味でも「社會の變革」の第壱歩とは「富める者が資材を擲ち行う寄付」でなくてはならぬ。

もしやアンタまた金持ちのTSUGEさんの家へ行きなんぞ貰って來ることなどを考えては居ませんか?

 

正直考えて居ります。

何故なら自分には「所有」の観念が余り無くつまりは「自分の物は人の物」であり「人の物は自分の物」でもまたあり得るのです。

 

ふーん、すると物質的に「強欲」なばかりでは無く同時に「気前」の方が案外良いんだ。

さうなんです。

 

だからついこないだ東京の惡徳業者に大事な腕時計を掠め取られたのであります。

でもソレは其れを弐束参文でもって売った君が惡い。

 

はい、其の通りです。

其れはわたくしに「自制心」と「計画性」とが欠けて居たが為にさうなりました。

 

とりあえずは其の「技」、其れも生活の上での「生きる上での技」のやうなものが實は「文明の滅亡」などよりもずっと大事なことなのだ。

また其の意味では「観念の上」での未來予測などはほぼ役に立たずそんな根本的な意味での「生活力」のやうなものこそが「たった今ココを生きんが為」の知恵と化すのである。

文明ー人類ーの滅亡に就いて1ー「ユヴァル・ノア・ハラリ」氏による歴史解釈及び「梅原 猛」先生による近代思想批判ー

文明ー人類ーの滅亡に就いて1ー「ユヴァル・ノア・ハラリ」氏による歴史解釈及び「梅原 猛」先生による近代思想批判ー

 

 

 

 

サイバートラックってどこまで防弾? 50口径弾を撃ってみた | ギズモード・ジャパン (gizmodo.jp)

 

 

【公式】アニメ『北斗の拳2』ED映像:TOM★CAT「LOVE SONG」/ Fist of the North Star (youtube.com)

Ken il guerriero 2 - Love Song (Sigla completa, 1988) (youtube.com)

【北斗の拳】オープニング & エンディング曲集(フルVer.) (youtube.com)

 

尚『北斗の拳2』でのエンディング曲が「LOVE SONG」となり其れが大層良い曲となる。

 

【北斗の拳2】 LOVE SONG/TOM★CAT(cover)Seina & Ikuya (youtube.com)

Love Song (Tom Cat) - Parimpampum cover (youtube.com)

 

こちらは其のカヴァーバージョンの歌。

 

 

天才ではない「ただのサラリーマン」が資産10兆円の富豪になれたワケ (msn.com)

 

逆に申せば天才や若しくは其れに準ずる知性は所謂「金儲け」のことになどほぼ関心が無いものだ。

特にEQが高い系での天才的知性はさう云うのをむしろ「嫌う」傾向がおそらくは高くあらう。

 

では何故さうなるのか?

「金儲け」とは所詮牌の奪い合いのことであり要するに「搾取」を前提となす思想のこととなるからなのです。

 

但し其れこそ「快適な隠遁生活」を営む為には其れこそ「壱億円」ばかりが有るとほぼ万全である。

故にわたくしの場合は「コノ腐った社會のあり方を無視し其れとはまるで別の人生を送らんが為に」其の「壱億円」をこそ欲する。

 

だから其れはTOYOTAかまたは愛知県人であるかのイチロー氏がアドヴァイス料として地元の詩人に是非払わねばならぬはした金のことぞ。

そんなもんくらいココの購読料としてはむしろ最低料金だらう。

 

また米國流の投機的蓄財の思想は此処🗾の経済感覚とは常に合って居ない。

どだいココ🗾では額に汗して働き其の賃金でもって古來より「暮らし」を成り立たせて來て居る。

 

だからむしろ其れで良い。

良いのですがわたくしに限りなにせ「螽斯詩人」ですので其の「壱億円」が要るのです。

 

尤も其れもまた半額程にまけても良い。

さういっそ御安くして置きますので皆様是非御寄付下され。

 

先にも述べたやうに金とはそも文明が自然を略取することで成り立たせる価値でありよって所謂大富豪などの大金持ちは「大犯罪者」とならざるを得ぬ。

故に奴等はまず「地獄」へ堕ちる。ーたとえ其れが正当に得る報酬であれあくまでさうなるー

 

また其のことは御釈迦様であれまたイエス様であれ同じことをおそらくは申される筈である。

 

 

さて文明をイビることをし忘れて居たので本日は眞面目にさう致します。

尚4~5月は我に取り地元の「自然」と戯れイノチの息吹を感ずるが為のなくてはならぬ「シーズン」となる。

 

よって此の時期はむしろ「休む」ことにして居る。

故に此処へも週壱位のペースでしか出て参りません。

 

それにしても奴はどうしたのだ?もしやビョーキなのか?

いいやさうでは無くむしろタップリ自然と遊んでおるのじゃ。

 

さうむしろ野山を駆け回り其処にて🌸の香りを嗅いだり石を拾ったりして御座る。

さうしてついでにお空でもって雲に乗りまた神秘の湖に潜水し怪物に遭遇したりもまたするのじゃよ。

 

 

人類に残された猶予はあと10年しかないってホント? →渡部雅浩 | 東京大学 (u-tokyo.ac.jp)

「今の世界は簡単に滅亡する」学者が明かす怖すぎる理由【書籍オンライン編集部セレクション】 | 上流思考 | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)

 

さて人類の絶滅 - Wikipediaはそも何故起き得るのだらう?

でも其のことも所謂「頭の良い」人人にはほぼ自明のことです。

 

そんな「頭の良い」人人が人類の中には壱定数居られ其の方方は其其に「文明」に對し警鐘を鳴らし続けて來た。

またわたくしなどもまた其の種の人人のうちの壱人でせう。

 

ですが個人的にはあくまで其の「頭の良い」ことで得をしたことはほぼありませんでした。

むしろ其のことで所謂「悩み深き人生」を此れ迄歩んで來ざるを得なんだのだと言える。

 

またつまりは其れが「文明」や「ニンゲン」との格闘の様のことだ。

さう云う意味での「格闘」なんぞは普通誰もがやらねばならんことでは決して無いのです。

 

だからそんな余計な負担を精神的に背負わねばならんと云うことが兎に角理不尽なことに思えて仕方が無かった。

だけれども最近分かりましたのは其れがまさに「高知能者」としての宿命であるとのことなのです。

 

なのでヤッパリコソコソと何時迄も隠しては置けないな。

むしろ自分は「高知能者」でありみんなとは違いますとさう宣言して置くべきだ。

 

でもソレを言えばすぐに「村八分」となるからむしろ「バカ凡」=「アホ」の方も是非入れて置かう。

實際に我は案外「アホ」でして要するに「天才的な頭のキレ」と「アホ」とが同時に発現し得る稀有なタイプなんだから。

 

 

今後20~40年以内に人類文明社会は90%の確率で崩壊する。理論物理学者が予測(英・チリ共同研究) (2020年7月31日) - エキサイトニュース (excite.co.jp)

東大名誉教授が警告「人類に残された時間は20年」―地球温暖化の猛威が現実化、急がれる対策(志葉玲) - エキスパート - Yahoo!ニュース

「人類の文明はあと30年で滅亡する」衝撃的な結果が報告される | Buzzap!

やっぱり人類は滅亡することがNASA出資の調査で判明。資源浪費と貧富二極化で | ギズモード・ジャパン (gizmodo.jp)

「2050年までに人類は滅亡する」オーストラリアが発表した文明崩壊のシナリオは防げるか - ナゾロジー (nazology.net)

 

まあかうして常に此の種の御話がネット上には出て参ります。

ですが此れ等の記事は参考程度に視て置き是非以下の部分でもって論じてみたいと思う。

 

『サピエンス全史』の著者に聞く「人類滅亡」の現実的シナリオ(ユヴァル・ノア・ハラリ) | 現代ビジネス | 講談社(1/5) (gendai.media)

 

其のハラリ氏は高名な歴史学者でありまさに世界的に活躍される知性の御壱人です。

また此の方は宗教の分野などにも御詳しく其処は自分の立場などともまた近いかとさう思われますのでまずはこちらを「人類滅亡」に関するテキストとして選ぶこととする。

 

ーたとえば中国では、歴代のどの王朝も、既知の領域を支配することに力を注いでいました。モンゴルの元朝は例外かもしれませんが、どの王朝も、古くから中国だった領地さえ支配できていれば満足しており、地平線の向こう側の土地の支配など、企てようとはしませんでした。ー『サピエンス全史』の著者に聞く「人類滅亡」の現実的シナリオ(ユヴァル・ノア・ハラリ) | 現代ビジネス | 講談社(1/5) (gendai.media)より

 

さて梅原猛 - Wikipedia氏の哲學的態度に以前我は心酔して居りー主に40代の頃ー其の梅原先生が名誉村長を務められる碧南市哲学たいけん村無我苑 - Wikipediaへと當時屡

通って居たものでした。

其処にて先生の講演を聴きまた碧南市の他所で開かれた先生の講演の催しなどにも参加して居りさらに其の「無我苑」の會員ー有料會員ーともなって居た。ー其れも當時はー

 

また當時地元の中日新聞に先生は「思うままに」と云う哲学的エッセイを連載されて居られ其の記事を逐壱くりぬきスクラップして居りましたのです。ー其れも読めなんだ記事は瑞穂図書館へ行き記事をコピーして來たものだったー

其の梅原先生の哲学的な視座とハラリ氏の視座とがまずは似て居るやうに個人的には思う。

 

と云うのもハラリ氏は非クリスト教及びイスラーム教徒でありむしろ佛教などの東洋思想にこそ通じて居られる訳です。

また梅原先生の場合にも佛教にはひとかたならぬ理解を御示しになって居た筈である。

 

故にまずは其処に「西洋文明」自體に對する懐疑の眼差しが存するやうだ。

例えば中國が共産國化されたのはつい最近の御話であり其のずっと以前から黄河文明圏としての進歩の歴史が有った訳なのです。

 

即ち此処にてハラリ氏は其の壱党独裁國家の中國よりも其れ以前での東洋文明としての中華文明のことをより重視し見詰められて居るかに見える。

また其のことは梅原先生の場合にも同様であったことかと思われます。

 

梅原先生は何よりも近現代文明への辛辣な批判者であり且つ近代哲學其のものへの批判者でもあられた。

最終的には「西洋起源の思想」なんぞ全部がダメだ、位に思われて居たことだらうフシが強くある。

 

 

梅原猛 #人類哲学- Wikipedia

 

尤も個人的に影響を受けましたのは其の「人類哲学」の方であり所謂「梅原日本学」の方はスルーして來て居ります。

 

尚梅原先生の本もまた近頃読んでは居りますのですが以下の本を是非読みたいとさう思ううちにすでに五年程が過ぎ去って居ます。

 

『老耄と哲学 思うままに』梅原猛 | 単行本 - 文藝春秋BOOKS (bunshun.jp)

 

さうしてニンゲンも所詮は「限定物」ですのでなかなか思うやうには事が運ばぬものです。

尤も自分の場合は酒と👩とギャンブルにはまず飛び付かぬ分所謂身軽ですので其のうちに此の本なども手に入れることでせう。

 

 

ーその信念は、間違っていませんでした。結局、ヨーロッパ諸国は、アメリカ大陸を征服して、そこで得た力と富をバネに、世界を支配する勢力になっていったのです。

もっともいまでは、「探検と征服」というこの精神構造は、ヨーロッパ人の専有物ではなくなり、世界の人々が共有しています。自然科学の研究者であれば、日本人も、中国人も、インド人も、みなこの精神構造を持っています。ー『サピエンス全史』の著者に聞く「人類滅亡」の現実的シナリオ(ユヴァル・ノア・ハラリ) | 現代ビジネス | 講談社(1/5) (gendai.media)より

 

歴史的過程としての近世~近代以降はそんな所謂「フロンティア・スピリッツ」と「資本主義」がさうして世界を「支配」して行くに及ぶ。

 

しかしながら其の「探検と征服」と云う言わば「支配の論理」は確かに珍しいものです。

其の「支配の論理」は所謂「クリスト教」に於ける壱神教的な意味での「普遍的支配」と言い換えることなどもまた出來ませう。

 

ではそんな「普遍的支配」が人類に何を齎したのか?

 

1.物質的な意味での豊かさ

2.抽象的価値への信仰

3.科学的探究心

 

其の3.は2.にもまた含まれる。

要するに「科学は無条件にて偉く信ずべきもの」であると近現代人は皆さう「信仰」するに及んで居やう。

 

ですが🏥へ行かずに病気を治したりワクチンを打たずにコロナにもまたインフルエンザにも罹らぬとのまるで我のやうな例もまた他方にはあります。

また養老 孟司先生などは医者なのに物凄く其の医者が御嫌いなやうです。

 

でもってわたくしは「抽象的価値」なんぞは其れもハナから信じて居りません。

でも確かに🚙や🚲には乗ります。

 

でもアナログの🚙や🚲にだけ努めて乗る。

だから今のPC🚙なんぞは乗りたく無い。

 

そもアナタは科学を信じますか?

半分しか信じませんが「現代」と云う時代の枠の中では其れが無いと不便なのでイヤイヤ其の成果を使っては居る。

 

但し1.に就きギモンがまた生じる。

何故なら、

 

4.ブータンみたいな國の方がむしろずっと「豊か」かもしれないこと

5.そもトーキョーなんて物価が高くして逆にビンボーなのではないかいな

6.其れに似たり寄ったりでオーサカやナゴヤも結局はビンボーなんだらう

 

つまりは「資本の論理」によりさらに近代と云う「支配の論理」に常に晒され続ける大都市圏は所詮皆ビンボーなんだ。

なんでそんなにビンボーとなるかと言えば「搾取」が酷く有るからだな。

 

そんなビンボーでも石が買えるだらう、其の石が!

いや石は大都會からは出ず「糸魚川」や「富山」や「奥秩父」や「奥三河」から出るものとさう相場は決まっとる。

 

さうした石を略取するのが結果大都會の石コレクターなのだった。

 

おいどうでも良いが余り話を膨らませ過ぎるなよ。

いやだから話が面白くなるのさ、へへへへへへのヘ。

 

 

其の「近代マインド」への「洗脳」の御話はけだし「眞實」となる御話でせう。

「近代マインド」は「虚」としての「快い価値」をさうして我我人類に對し常に刷り込もうとする。

 

因みにハラリ氏の「思想」としての根幹部はさうして「虚構」としての価値に踊らされ続ける近現代人の根本的不幸であり精神的不毛の部分を突き其れをまさに批判的に解釈して居る部分なのだと思われる。

つまりは「虚構」としての「文明」であり何より持続不可能な其の文明のあり方の様を其の根本の部分より否定的に見詰められて居るのだらう。

 

 

ー世の中には、「昔の人は、自然や動物と調和して生きていた。人類が自然の生態系を破壊するようになったのは、社会の近代化と工業化が進んでからだ」と考える人がいます。しかし、これは事実誤認です。

人類は、いつから生態系を破壊してきたのか。ー『サピエンス全史』の著者に聞く「人類滅亡」の現実的シナリオ(ユヴァル・ノア・ハラリ) | 現代ビジネス | 講談社(1/5) (gendai.media)より

 

さう人類が自然の生態系を破壊し其の価値を略取するに及んだのはあくまで本質的に言えば所謂農耕や牧畜の文明が始まった時にすでに行われて居たことです。

即ち「文明」其のものがむしろ最初からそんな「抽象的な価値」をこそ成就させんとするものであった。

 

ですが其の破壊の速度を其れこそ幾何級数的に増して行くのが近代以降の歴史過程であるとのことなのだ。

でもって何でワザワザそんなことをしたのかと申せばまさに其れは西洋人の思い込みのやうなもので此の西欧型の近代文明こそが「普遍的」に最上の価値を生み出すに至る唯壱の「神」の如き御業ぞ。

だから御前等遅れた未開人はワシらの足元にひれ伏さねばならずつまりは奴隷として売り買い自由なんだ。

 

また實際に日本人ってかって奴隷として売り買いされて居たのです。ーさうしてポルトガルの船に乗せられ現地で売り捌かれて居たー(其れも欧羅巴でか?)

うわああー、酷え話です。

 

しかも当時中國なんぞは世界壱の先進國家であり其のほぼ属國であるココ🗾は立派な文明國であり文化レヴェルなども相当に高かった訳だ。

ですが坊主が腐り切ってもまた居たのでかの信長公は比叡山を焼き討ちしさう破戒坊主共を焼き殺したのであります。

 

にも関わらず毛唐共は日本人をナメ切って居りよって多くの貧しい日本人が連れ去られさうドレイ生活を余儀なくされて居たのでした。

後に漱石は倫敦へと國費留学し「西欧近代」の酷い矛盾の様に直面することとなり要するに文學もクソも無く近代社會に對し心より絶望して仕舞います。

 

だから別に「漱石」が病気なのでは無くまさに其の「近代文明」の方こそがビョーキなのだ。

其の「近代文明」こそがビョーキであることを見抜く為にはそんな漱石ばりでの高い「見識」が其れこそ常に必要となる。

 

さて問題は農耕文明を営むかの🗾であれさうして常に自然から略取し封建時代を生き抜いて居たとのことなのです。

よって本質的には其処に、

 

文明⇔自然

との弐項對立がどうしても引き起こされて仕舞う。

 

ところが、です。

ところが🗾の農耕文明であれまた中華文明であれさらに西洋の前近代型での封建體制であれ其れ等はあくまで地球の「破壊」を促進するやうなものではあり得なんだ。

 

何故なら其の「破壊」の度が至極緩やかなものであり要するに大規模な環境汚染も無ければまた大規模な生態系の破壊に繋がることなどもまずは無かった。

だが近代以降の所謂「進歩主義」にて其の弐項對立に於ける極としてのバランス化が崩れ要するに、

 

自然<文明

と何時の間にかさうなるに及んだ。

 

でもって現在の21世紀は其の「自然」が弱り切りまさに「文明」に飲み込まれんとする其の末期の時を迎えてさえ居るやうだ。

ところが感度の惡いーハッキリ申せば頭も惡いー大衆は愈愈文明による「洗脳」をむしろ「信仰」するに及んで居り要するにもはや如何ともし難き状況へと我我人類は日日追い込まれつつある。

 

 

であるからこそ其れこそ頭の良い學者の方方やさらに感度の良い藝術家や宗教家の方方などが「コノ侭ではヤバい、是非にでも悔い改めよ。」とさう仰ったりもまたするのです。

尚ハラリ氏の場合は其れこそ「梅原 猛」先生型での思考のタイプなのではないかと個人的には思う。

 

其れ即ち世界の価値観は欧米による「普遍的近代原理」によるものばかりでは無く例えば亜細亜型もあれば中東型などもまたある。

また同じ欧米近代にせよ独逸と米國、また英吉利と米國では其の「進歩概念」に於ける捉え方が可成に異なる。

 

例えばかのマルクス・ガブリエル氏などは我が國の西田哲學の影響を大きく受け最終的には日独と其れから伊太利亜?をも含めての「参國同盟」の復活をこそ考えられて居るのではないか?

 

いやいずれにせよガブリエル氏はむしろ独逸観念論を復活させたいことであらう「哲學的國粋主義者」でもあることだらう。

其の独逸人も🗾人と同じで頭が良い割りに「洗脳」され易いとの國民性を有して居る。

 

だからネオナチみたいなものが膨らんで來てまたヒトラーみたいな人が出て來大衆を扇動すればむしろ容易に独逸國民は御國の為に働きませう。

と同時におおさうして此の🗾、此のジミントーが腐った其の🗾にとある大作家が突如現れ「眞理」をば説くのです。

 

正直申せば其れが誰あらうボクのことなのさ。

其処に彼が曰く、

 

「欲しがりません、勝つ迄は。」

 

すると矢張り第参次世界大戦は有り得るのだと?

まあ有り得ることでせう。

 

其れも中國と露西亜北朝鮮の問題國家が集まればもはやコレは侮れません。

中國と露西亜北朝鮮が核ミサイルを同時に千発位米國本土に撃ち込めば即亜米利加合衆國は崩壊致しませう。

 

いや其れマズいですよ、ココではまさか言わん方がエエ。

何せアノプーチンは本気で核でもなんでも撃ち込みますよ。

 

いやあー、考えてみればほんたうに怖い御話で…。

其の時についでに🗾へも撃っとけとあのデブが考えココ🗾の大都市はほぼ焦土と化すのだった。

 

さうか、だから今のうちに田舎へ逃げとくんだ。

さうなんだ、だからこれからの時代は田舎に居る方が明らかに生き延びるチャンスがより高くもなる。

 

するとドコが御勧めですか?

まあ白神山地の近くだとか北海道や九州また四國の僻地だとかまた奥三河だな。

 

但し自分はナゴヤと気候がより近い「奥三河」が壱番好きである。

また奥三河ならば「赤味噌」などもまた豊富にあるのだし。

 

其れにまさか其の「奥三河」の🏔の中にまで核ミサイルは撃ち込まれぬ。

何故ならソコへ撃ち込んでもドーショクブツが焼け死ぬダケで決して人は死なないから。

 

さて次回は「エマニュエル・トッド」氏や「ジャレド・ダイアモンド」氏の記事などを参考にして今後の文明世界の有様を思い描いてみたいとさう思って居ります。

「頭が良い」人の特徴と『北斗の拳』に就いてー「天才」級の知性の癖の部分と『北斗の拳』に於ける「愛」に就いてー

「頭が良い」人の特徴と『北斗の拳』に就いてー「天才」級の知性の癖の部分と『北斗の拳』に於ける「愛」に就いてー

 

 

 

 

高いIQを持っていることを示す驚くべき性格の特徴 (msn.com)

 

澤山読書をする

謙虚さ

言葉遣いが惡い

共感出來るーIQ(論理的知性)EQ(感情的知性)が共に働く

自制心ー計画、目標、予想

好奇心ー學習への情熱と壱致する

壱人でも快適ー孤独を樂しむ=社交嫌い

枠に捉われずに考えるー故にルールや常識的思考、伝統などに縛られず逆に其のことで最善の解決策を導き出す

散らかって居る

観察者

創造性ー想像力が常に豊か

夜型ニンゲン

限界を認識出來るー人や自らの限界を認識するからこそ分からないことは「分からない」と言える。

オープンマインドーあらゆる側面から物事を見其れ等を参考にして意思決定をするので時間がかかる

自己の判断を信じるーイザ意見が決まれば其れを信じ貫き通す

愛猫家ー内向的で且つ敏感

とっても面白いー特にブラックジョークに長けて居る

自分自身と對話するー其れは狂気なのではなく高知能者の兆候となる

寛大

心配症ー特に社會的状況に就き懸念が多い

長男長女

適応性

ー以上よりー

 

 

尚自分は上記22項目中19項目に就き◎で3項目のみが「どちらでもない」でした。

其の3項目とは、

 

1.自制心

2.寛大

3.適応性

 

としての部分です。

何故ならワタシは常に計画的なニンゲンのやうで居て時にモノについ飛び付いたりもまた致します。

 

また寛大と言えば寛大で普通人にはむしろ優しいのですが攻撃された場合には倍返しするやうな器量の狭さがまたある。

さらに「適応性」にはむしろ欠けて居り要するに「同じこと」を繰り返しすることは得意なのだがさうでない場合での臨機応変な行動の變更などがむしろ不得意である。ーまさに其れが「自閉症スペクトラム障碍者」の典型的な資質かー

 

ところが他の部分ではまさにこれでもかと言わんばかりに「大當たり」して居りましたものです。

特に、

 

4.澤山読書をする

5.好奇心有り

6.壱人でも快適だ

7.枠に捉われずに考える

8.創造性有り

9.限界を認識出來る

10.自己の判断を信じる

 

部分などは此処の読者の方方ならば其れがまさにワタシの資質であることが即お分かりになる筈です。

また、

 

11.愛猫家だ

12.とっても面白い

13.自分自身と對話する

14.心配症だ

 

とのことが全て当て嵌まることなどもまた此処の読者の方方ならばまさに「ピーンと來る」話でせう。

どだいワタシはいつも「Sirius α」と「Sirius β」とに分かれ此処にて「漫才」を展開して居るではあーりませんか。

 

だから話がいつも面白いのだしさうかと言ってタダの御笑い芸人なのでは無く其れとは逆に深刻な文明評をも展開することだらうこんな壱文化人類學者であり壱哲學者なのです。

またワタシは長男です。

 

とのことで余りにもズバズバとソコに嵌まり込んで居りますのでおそらくワタシは「高知能者」なんです。

いやあーさうだったのか、いえね、其れもウスウスさうは感じて居てひょっとしてアノキチ外の人人と紙壱重なのかなあ、とはむしろ五拾歳頃よりさう感じ始めて居りましたのです。

 

 

でもって其の「高知能者」なのであれば當然に其れなりのことを書いて來た筈ですのでもしやと思い読み返してみたらヤッパリ可成に普通じゃないことが多く書かれて居ました。

ああー良かったー。

 

ソコにもしもウソが書いてあったらイケませんでしたがちゃんと「本心」が述べられて居たので何だかホッと致しました。

ですがもしもわたくしが「高知能者」なのであれ「自己實現」する状態にはむしろ程遠いとさうも言えるのです。

 

何かかうもっとより「高尚」なことや「御笑いではない面白い話」を常に書きたいのですが別に作家ではないのだしココで何を述べても誰も壱銭も恵んで呉れずさうかうするうちに性格がより惡くなりつまりはいじけて参りむしろつまらんことに喜びを見出すやうに特に最近はさうなりつつもある。

 

ーIQ(論理的知性)及びEQ(感情的知性)が共に働くー

 

さて此の点はまた特に大事なこととなる。

其の論理的能力と感度が豊かに有る点が同時に働くことこそが眞の意味での「天才」の資質でせう。

 

其の意味では確かにワタシは「天才」其のものかどうかは分からねども少なくとも「天才的」な資質を持つニンゲンの壱人でせう。

でも當の本人は其れとは全然別のことで實は悩んで居る。

 

つまりはこんなことで彼の「老後」は大丈夫なのか?

とのことなのだ。

 

彼はさう「半天才」なのにどうも自活力には欠ける。

其れも大勢の🐱を引き連れ今後をどうやって暮らして行くのか?

 

其れもまあやるだけやるさ。

 

15.限界を認識出來る

 

また此のことなどもワタシの場合は特に其れが強く出て居る。

例えば、

 

「限定的認識論」

 

とでも言えそうな「限定論」をワタシはずっと此処にて展開して來て居り其れは独逸の哲學者である「ハイデガー」の影響などが或はあるのやもしれません。

尚ほんたうに頭の良い人は例えば「論」を張ることなどに長けて居る。

 

即ち「論理的」に物事の解決策を自ら提示することが常に可能となる。

ですので我もまた文明のあり方に就いての解決策なり改善策なりをトコトン考えた上で提案書なり論文なりとして示すことは常に可能となる。

 

尤も経済的余裕と心理的余裕さえあればの話です。

 

でもかう毎日「生活」に追われまた「物質の蒐集趣味」に浸り切りおまけに🐈共の世話や老いた母の世話とまるで現實世界に繋がれたかのやうな状態では其れは「無理」と云うものです。

だから👽が此の暮らしから救い出して下さればまた其のこともやります、さう御約束して置いても良い位なのだ。

 

ですが👽の方方は幾ら御待ちしてもまさかココへ來ては下さらない。

そんな👽の奴等は我が「知性」には至って無関心なのだった。

 

まあ兎に角「やるしかない」のさ。

さう「やるしかない」のはそんな我に限らず惑星地球の住人であればニンゲンであるかどうかに限らずむしろ全てがさうなのだから。

 

 

<独自>自民党青年局近畿ブロック会議後の会合で過激ダンスショー 口移しでチップ渡す姿も 費用は党が支出 - 産経ニュース (sankei.com)

自民過激ダンスショー、男性参加者が女性の尻2度たたく 動画で確認 歓声や笑い声も - 産経ニュース (sankei.com)

 

なんだ、コノ裸踊りは!!

ジミントーは即刻政治其れ自體を辞めよ!!!

 

静岡県・川勝知事の「牛の世話と違う」職員訓示に「職業差別」「資質欠く」 SNSで批判 (msn.com)

 

なんだ、此の第壱次産業への差別発言は!!

川勝氏は即刻静岡県知事を辞めよ!!!

 

より正確に申すと「高知能者」は逆に「第壱次産業こそが國家の根幹である」とさう言うのです。

例えばワタシは常にさう申して参りました。

 

 

さて「北斗の拳2」を視終わり要するに「北斗の拳」の全話に亘り視終えたのだった。

其処で語られる「愛」に就き暫し考えてみたのだが其の「愛」は基本的に👪愛と同胞愛のことに就き語って居るかに見える。

 

またそんな「右の思想」に於いて敵もまた戦いを交えた後には「朋」となるのである。

よって北斗神拳 - Wikipedia伝承者の「ケンシロウ」は戦いに勝つと共に同朋としての敵の力をも蓄えつまりはより大きく強くなって行くのだった。

 

まさに其の力にて「カイオウ」に勝つのかと思ったらさうではなく其の北斗神拳以前に榮えた北斗宗家 - Wikipediaに伝わる「愛の力」のやうなものがまた登場し最終的には

世紀末最強の漢としての「カイオウ」も朋の力をも得た「ケンシロウ」に敗北することとなる。

 

ところが「カイオウ」にもまた「ケンシロウ」にも其の北斗宗家の血が色濃く流れて居たとのまるで🗾の村社會さながらに實に血縁の濃いつまりは其の村の中での「愛と憎しみ」での御話となる。

左様に結局は「国際的」な舞台であるやうで居て實に🗾的な封建體制と云うかムラ社會と云うか兎に角そんな狭い範囲での「愛」の御話なのだ。

 

故に其の「愛」なるものはクリストの如きに「普遍の愛」を説くものでは無くむしろ大日本帝國に於ける「國及び郷土への愛」=「同朋愛」に近いものなのだらう。

 

ところがイザアニメ作品に没入して視る限り世紀末覇者としての「ラオウ」や其の兄の「カイオウ」に於ける「愛の不毛」の部分にはまたどうしても涙が流れる。

要するにそんな最強の漢達に限り「愛」に飢え特に「母の愛」には限りなく見放されて居る。

 

すると最終的にはそんな「愛」として實権を握るのは其の「生命を生み出す母」である👩達のことともなる。

其の辺りはまた流石に良くシナリオが練られて居る。

 

絶え間ない暴力や権力闘争の背後には實はそんな「愛の不毛」の世界こそが拡がるとのことをまさに此のアニメ作品はしかと描き出して居るではないか。

 

 

其れと「漢が戦う」ことの意義を此のアニメは同時に描き出して居る。

さう👨は常に闘わざるを得ない。

 

最終的に其れは外部との戦いから内部での闘いへと移行するがまずはさうなるものとまさに此の世での相場は決まっても居やう。

近年では其の闘争の世界からむしろ外れる如き価値観が所謂Z世代辺りより噴出するに及び最近の学校の先生や企業の経営者などは相當に困って居るのださうだ。

 

だが其れなどもまた「愛の不毛」の問題なのだとさう言い得るのやもしれぬ。

Z世代が可哀想なのは此の社會が本質的には「愛するに値せぬ社會」と化して仕舞って居ることだらう。

 

従ってZ世代に對し「愛」を守らんが為に戦え!とさう押し付けるのは流石に荷が重からう。

むしろ問題はそんな「愛するに値せぬ社會」と化して仕舞った還暦以降の世代の「先見の明」無き認識の部分にこそ存するのやもしれぬ。

 

いずれにせよ「北斗の拳」に於ける闘争の世界が個人的にはあくまで新鮮に感ぜられた。

若い頃をちょっと思い出したと言うかそんな気さえもがしてだからヤッパリワシもまだ戦わねばならんのかなあ。

 

 

アア嫌だけどまた「常にキビシイ現實」との闘争世界なのかなあとの諦めの心がまた生じよって👽などには頼らず👨は自身でもって道を切り拓く他は無い、などと云うまるで自衛隊員のやうな戦闘態勢の様が何時の間にか我にも突き付けられて居たのでした。

 

いや兎に角休みたいのですが何せ休んでは居られぬ世の中なのだ。

其のことが「暴力」としてキビシクもまた壱面では「愛」に包まれた如くに優しく語られるのがまさに此の物語なのです。

 

思えば昭和の頃のアニメ作品はさう主題がハッキリとして居り其れは「休ませる」やうなものでは無く兎に角常に「戦う」ものでした。

其の価値観自體が古いやうで居て實は昭和の時代以上に戦わねばならんのが此の21世紀であるやうにさう思えてならない。

 

其れ即ち「放棄する」ことや「平等」であることもまた確かに理想的なことではあれ此の世界が現實的な意味で常に「ヒエラルキー地獄」を築く世界である以上は其の「ヒエラルキー」の頂点を漢が目指すことで最終的には「愛に溢れる漢」が覇権を握ることでこそ此の世其れ自體を「愛の苑」と化すとの其の右の人の論理が分からぬでもないのであります。

ところで「ケンシロウ」は其の最強の「カイオウ」に勝ってからどうなるのですか?

 

ケンシロウ」はまた新たな「闘争世界」へと旅立つ。

其れ即ち其の「愛」をこそ守らんが為に「惡」と戦う道を選ぶ。

 

うわあー、漢らしい。

さうなんだ、さうあくまで漢は漢であり👩は👩である。

 

だからまさに其のことが右翼の人の論理です。

でも先生には左翼が多いですよ、其れも漢だか👩だかまるで分からぬやうな。

 

うん、だから其れこそが今の先生方の弱点だね。

だから先生はもっと暴力教師にでもなり其れも「あっちょー!」とか言いながら聞き分けの無い生徒を殴ってもイイのです。

 

うわあーでも怖い先生だなあ。

いや昭和の頃なんてドコの学校にもそんな暴力教師がまさに🏔と居たものでした。

 

我我還暦世代はなのでこそ躾けられたと云う部分もまた御座りますが故に。

正直言って個人的にはまたそんな先生に躾けられてみたくも思う今日此の頃です。

 

ねえ、體育のMIYOSI先生。

あれっ其れはダレですか?

 

ワタシが中学壱年の時の担任の教師です。

其の人は身長が180センチ程もありしかも投げ技が得意でもって惡いことをすると教室の後ろで皆が投げ飛ばされて居たものだった!!

 

そんな熱き教師にこそたった今是非投げられてみたい今の軟弱なわたくしなのだ。

尚當時良く巷で聞いた言葉ですがこんなものがあったものでした。

 

曰く、

「愛の鞭」。

 

昭和の頃学校の先生は其の「愛の鞭」をふるっても場合により問題とはされなかったものでした。

また当時の学生も普通に「殴り合い」の喧嘩などをして居たものでした。

 

あくまで「暴力」を賛美する訳では無いのですが普通に「殴り合う」位はむしろ當たり前の話だった。

逆に言えばさう小さく「暴力」が解放されることで眞の意味での大きく破壊的な暴力が抑えられて居たとさう言えなくもないことだらう。

ーまさに其のこともまた所謂「右の論理」ながらー