目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

そんな「奇跡」の「糸魚川産ピンク翡翠」に就いてー+とある💎ハンター氏の人格にこそ感動すー

そんな「奇跡」の「糸魚川産ピンク翡翠」に就いてー+とある💎ハンター氏の人格にこそ感動すー

 

 

 

 

さて此の世に何か良いモノが有るかどうかと云うこととなれば其れは本質的にはむしろ「無く」あくまで妄想的に其れが「有り」其の妄想の本質部とは「美」であるとさうも言い得ることだらう。

何故其のことが「妄想」となるのかと言えばモノは劣化することが免れ得ぬからなのだ。

 

故に物を前提とし構築される諸価値はむしろ「破壊」へと傾いて行き易い。

そんな美としてのモノが「劣化」するが為に躍起となり「構築」しやうとニンゲンは試みるがむしろ其の行為によりモノの「劣化」以上に「破壊」を促進することとなる。

 

とまああくまで哲學的な意味での所謂本質的論議からは左様な人為による「破壊論」もまた幾らでも組み上がるが故にさう云う認識に生きる限り人生は苦しくもなる。

だがそんなことまでイチイチ考えて居ると此の人生が回っていかないのでソコを反故にしワイワイ、ガヤガヤとした喧騒の中にみんなで生きて行くのが「眞理」とはまるで無関係な人の世の営みとなる。

 

でも中には其の事がすでに分かって居る人もまた居てさう云うタイプでの「意識の高過ぎる」人などは世間の認識とは距離を取り其れこそ「天才」やら「變態」やら「ゲージツ家」などをしかとして居られることであらう。

 

またわたくしの述べることもまた常に人とは違いますがタダ壱言述べて置くとワタシの場合は常に「両極ニンゲン」なので其のドチラをも立場的に分かる、とのことである。

其れこそ感覚的には「両極の境界」にこそ立って居るやうな気持ちであらうか。

 

だからまさにソコから「言葉」を紡いで行けばまたほんたうに「詩人」にもなれ其れも賞位は取れさうな連作詩位は幾らでも浮かんで來るのですが其れをしても余り面白くはないのであえて面白く何かに就き語りたくも思いますのです。

 

其の「何か」とはまさに「美」のこととなる。

「美」とは其れこそ本質的には「妄想」の類のものであらうが其の「妄想」ソレ自體を切り取り此の世に示すことは可能であらう。

 

またつまりは其れが所謂「創造的次元」での「美」への近接のことである。

尤も「創造的次元」での「美」とはむしろ「個による美的構築」の世界のもので常に其れは「美其れ自體」なのでは無い。

 

最終的に「藝術」を超越する次元に於いて初めて「美其れ自體」は開陳される筈なのであり其のことはむしろ「藝術」以前での無垢なる目でもって「藝術」として捉えられる世界を「美」として見詰めることなのではないか。

 

 

とまた「訳の分からぬ」ことを言い始めたのでもう放って置いた方が良いことだらう。

何せ此の人は常に思考が深くしてつまりはまともでは無いのだから故に。

 

また要するに感覚として捉えられる世界に拘泥するのがむしろ「美の世界」での原則となる。

 

感覚⇔論理ー理性ー

具象性⇔抽象性

 

其の弐項對立に於ける「両極」をこそしかと認めやう。

其の對立の様がむしろ「等価」であり「優劣」では決して無いことをしかと考えやう。

 

要するに認識論的に「眞理」レヴェルへ近づくと価値對立がまさに「等価」となり且つ「美」として其の對立自體が輝き始める。

まさに其のことは「認識」が變わることなのであり外部がどうかうする訳なのでは無い。

 

「美の世界」は其れでも分別世界としての「妄想性」を離れて居る訳では無い。

分別世界はさう「妄想」しつつ「美」に惑う世界なのであるが故に。

 

さう其のやうに「幻惑」されるのだ。

さう「幻惑」されつつ我我ニンゲンは木を🏢を空を地面を眺めまた其れを「美しい」とさう思い込み生きて居る。

 

だが常に其れは「ほんたうに美しいもの」なのではあり得ず要するに本質的には「美しい」とさう妄想されるものであるに過ぎぬ。

即ち「美しい」とさう妄想されるものに限り我我ニンゲンは認識上飛び付いて居るのである。

 

だから我が妻は常に美しい。

でもソレはむしろ「幻想」である可能性が高い。

 

ほんたうは「不細工」である可能性の方がむしろ高い。

 

だから文明は常に美しい。

でもソレはむしろ「幻想」である可能性が高い。

 

ほんたうは「不細工」である可能性の方がむしろ高い。

 

だからモノは常に美しい。

でもソレはむしろ「幻想」である可能性が高い。

 

ほんたうは「不細工」である可能性の方がむしろ高い。

 

美しい⇔不細工ー醜さー

 

まさに「美」と「醜」は紙壱重でありソレをあえて「美しきもの」であり「良きもの、好ましきもの」とさう見るのは我我ニンゲンの認識自體がむしろ破壊的に壱方通行であるからに他ならぬ。

なので常に「両義的」にモノを見詰めて置きたい。

 

するとソコに新たな「認識上の地平」が生み出されることとならう。

まさに其れが「創造的な次元」による認識でありつまりは「ブッ飛んだ認識」其のものとならう。ーさうTAROさんのやうにぶっ飛び且つ爆発するのだ!ー

 

 

カシミールサファイアとは?特徴と稀少性について【簡単に分かる】 | ダイヤモンドジュエリーが好きな私のブログ (rarakuma.org)

 

其の印度産のカシミールサファイアとはまさに「幻の💎」のことです。

💎にはそんな「幻の💎」とされるものが屡有り其の種の石は例えば「ダイヤモンド」などよりも高価で取り引きされることが多いやうだ。

 

「ダイヤモンド」にせよ所謂ファンシーカラー(色石)の場合は概して高値にて取引されて居たりもする。

「ダイヤモンド」の場合でも其の色付きでの石はある意味で「究極の💎」となり得る。

 

カシミールサファイアは幻の宝石?一度見たら忘れられない、その美しさとは | カラッツ Gem Magazine (karatz.jp)

 

こちらでの五番目の写眞に所謂「コーンフラワーブルー」でのカシミールサファイアが出て参ります。

要するに「靑みが強く黑っぽくない」サファイアのこととなる。

 

其れも最高品質の物ともなればさうまさに「靑く輝かんばかり」でのモノとなる。

 

カシミールサファイア | ユアエメラルド (your-emerald.com)ー其の産出と歴史ー

 

そんな「カシミールサファイア」は基本的に得難いであらう「幻の石」となる。

 

1.すでに採掘が終わった石

2.高所に産し採掘が困難

3.産出量が限られて居り大層高価

 

La Legende | ラ・レジョン | La Legende | ラ・レジョン

コーンフラワーブルーとカシミールサファイア | La Legende ラ・レジョン | La Legende | ラ・レジョンコーンフラワーブルーとカシミールサファイア

 

ちなみに下の方でカシミール産とスリランカ産のコーンフラワーブルー・サファイアの比較が出て参ります。

どう違うかと言えばカシミール産は空色っぽくスリランカ産は海の色のやうな感じですか。

 

要するにカシミール産は靑味が強くあり藍色では無く靑色の石となるやうだ。ーまさにヒマラヤ山脈の上に輝く靑き空のやうな色ー

 

カシミール産のサファイアの原石が安く手に入るやうなことはなかなか考えられぬことでせう。

ですので今回ワタシが手に入れたサファイアの原石なども基本的に胡散臭いのではありますが實際其の色合いが可成に靑いので或はカシミールに近いところで採掘された石である可能性だけは可成にあります。

 

其の後はもはや信じ込むこと=信仰のみ。

「信仰」すれば其れはホンモノでありしかもアナタは救われやう。

 

信じよ!

されば救われん。

 

ハイ、是非ワタシは其れを信じます。

 

曰く、

「鰯の頭も信心から」

 

 

サファイアの原石は以前手に入れた小さな石がゴチャゴチャとあるが其の色味は「藍」に「黑」が混ざったやうな物です。

サファイアやルビーの其れも大きな原石はなかなか得難く有ったにせよ普通其の価格が萬単位となる。

 

其処からしても此の原石はますます怪しい。

なんでコレが四千円と少しなんだ?

 

もしや騙されてる?

いいやさうでは無い。

 

此の色合いは明らかに「藍」では無く「靑」だ。

だからまさにコレがカシミール産のサファイアの原石なのだ。

 

そもこんな石は世界中で何処にも無い。

其れも嗚呼我が机上にしかないではないか!

 

 

カシミール産のサファイアの原石


ちなみに此れ迄にカシミール産のサファイアの原石が売られて居るのを見たことは無かった。

今回得た石が最初で最後の物となる可能性が66パーセント位はある。

 

 

では次に糸魚川産の奇跡の翡翠の御話をさせて頂きます。

 

此の翡翠がウソつまりニセモノだと今皆様はさう思われたことだらうが明らかに其れは間違いです。

さう残念ながらコレは本物の糸魚川翡翠の其れも上物なのです。

 

先日ヤフオクをして居たところ變な翡翠原石が出て居て其れがどうも胡散臭く応札する気は無かったのです。

ところが其処に「本物であることは保証します」とさう書かれて居り他の出品物もどうも全てが本物のやうだった。

 

でもって届いたのがこちらの石となる。

 

 

極上品!糸魚川翡翠 天然石1

 

まずは其れが「💎質」の翡翠であることに驚いた。

其れも翡翠の結晶が細かく石全體に出て居りつまりは本物となる。

 

また其の色合いは、

 

4.基本的には白い

5.内部がラベンダー色

 

であるので基本的に「ラベンダー翡翠」となる。

其のラベンダー色が白い翡翠の中に薄く拡がって居るやうなそんな石となる。

 

ところが、

 

6.透過が素晴らしく良い

7.ピンク色に透ける

 

のであった。

 

此の翡翠は壱方向から懐中電灯にて照らすだけで光が全透する。

しかも其の色合いや赤紫を通り越し桃色=ピンクなのだ!

 

尚言うまでも無くピンクの翡翠などは普通出ては來ない。

だが此の石に限り「ピンク翡翠」とさう申しても良いことだらうレアーなタイプの石であった。

 

極上品!糸魚川翡翠 天然石2

 

かうして見たところは「白っぽいラベンダー系の翡翠」であり物凄い石には見えぬ。

ところが石の質が良くライトの光でさう全透するのである。

 

極上品!糸魚川翡翠 天然石3

 

おおっ!何だ此のピンク色は!

こんなものが有る訳が無くコレはウソの翡翠なのだろ?

 

いいえ違います。

まさにコレが「糸魚川産のピンク翡翠」なのだ。

 

ウソだウソだウソだウソだ!!

マジだマジだマジだマジだ!!

 

 

さて糸魚川産の翡翠原石でもって得難いのが、

 

8.黄翡翠と赤翡翠

9.ロウカン質の緑翡翠

10.ロウカン質の靑翡翠

 

となることかと思う。

また黑翡翠なども良い質の物は得難くもならう。

 

だがむしろ壱番得難いのは「黄翡翠と赤翡翠」である。

また糸魚川産の「黄翡翠と赤翡翠」は無いものとさうされて居るのであった。

 

11.糸魚川周辺の専門店をもれなく回り其れに近い売り物を探す

12.ヤフオクなどネット上で大金をかけ其れに近い物を得る

13.其れに近い物を8.~10.として信じ込む

 

が、其れはむしろ「有る」ものとして見ておくべきものだらう。

 

14.糸魚川周辺の山を掘れば多分翡翠は幾らでも出て來るぞ

15.でも捕まれば即刑務所行きとなる

 

尚9.及び10.はヤフオクでも入手可能です。

但し常にカネが要ります。

 

また今後もずっと入手可能となることだらう。

 

但し此処🗾国は大災害國ですので何時どうなるかはまさに分かりません。

例えば南海トラフ地震などで中部圏や関西圏が壊滅しついでに富士山が大噴火しますれば関東圏などもまた火山灰の下のものとならう。

 

そんな時に石を愛で遊んで居られるのはいち早く田舎に逃げた「意識の高い馬鹿」のみとなるのです。

 

いずれにせよ其の意識のあり方ー認識のあり方ーがどうあらうと物として糸魚川産の「黄翡翠と赤翡翠」は「有る」のです。

いや「無い」のだがさう信じ込むことでむしろわたくしのやうにそんな胡散臭い石が何故か自然と手に入るのです。

 

 

こちらが其の黄ーレモンー翡翠

 

糸魚川産の黄翡翠

 

こちらが其のピンク翡翠

 

糸魚川産のピンク翡翠

 

アア、何だかやり切ったと云う感じですか、其れにしてもとても疲れた。

いや現金採集の方は意外と疲れるものなのだ。

 

個人的には鉱山跡での鉱物採取よりもむしろ疲れる感じが致します。

尚今年が始まった時点でまさか「レモン翡翠」と「ピンク翡翠」を得られるとはまるで思っても居なかったものでした。

 

されど「レモン翡翠」と「ピンク翡翠」は今机上の同じ瓶の中でかうして光輝く。

しかも其れ等はほぼ同じ値段でもって壱万円以下となる。

 

どちらも質の良い石で細かく結晶が煌めきライトの光でほぼ全透する。ー「ピンク翡翠」の方がより光が通るー

 

其れと特に此の「ピンク翡翠」を得てから気付くことがありました。

 

16.「標本」レヴェルの翡翠であれ光を通すことがまずは大事

 

質の良い糸魚川翡翠原石は付加価値を付けるが為に「加工」され逆に高価なものと化す。

個人的には其の人為的「加工」を嫌うのでそも「加工物」には興味が無い。

 

でもって問題は「加工」に適さぬ翡翠原石が「標本」として回って來るのだとしたら其のことがまずは頭に來るとのことである。

ワタシは石は石でニンゲンでもまた文明でもないとさう考えて居りどだい石とはまさに「詩」の世界の産物でありニンゲンが手を加えてどうなると云うやうなものには非ずして。

 

つまりは石コ賢さんと呼ばれたかの宮澤 賢治の如き「詩人級」の認識の所持者ですのでごくたまに瓶へ石を入れんが為に石を割ることなどはあっても金輪際其れを割ったり磨いたりしてはならんのだ!!!

またワタシは別に「資本主義」が好きなのでは無く只石が好きでたまらないので仕方が無く其の「資本主義」にて石を集めて居るのです。

 

 

いずれにせよかうしてようやく曲りなりにも糸魚川産の「黄翡翠と赤翡翠」と言えるやうな翡翠原石をついぞ今年得られたった今わたくしは可成に満足だ。

うーん、どう此の気持ちを形容すれば良いのか?

 

さうだおお、まさに極上の美女を我が手に抱く感じであらうか?

いいやさうでは無くそんなにカネがかかって無いから其の辺の美女に飛び付いたばかりなのであらうよ、わーはっはっはっはっはのはー。

 

尚「ピンク翡翠」の方には面に軽く磨きがかけられて居る。

白っぽい石なので其の白っぽいのを取る為に日日洗いに勤しむ最中だ。

 

ーかうして翡翠は洗うと白っぽいのが取れることが多い。概ねソコにより緑や他の色が出たりもするものだ。實際に此の「ピンク翡翠」の場合もさうなりつつある。但し「ラベンダー」系の翡翠は強い光に当て過ぎると「退色」するとのことであるから其の点は是非注意した方が良い。ー

 

 

【翡翠】市振のヒスイ市に行ってお宝をたくさん見せてもらいました (youtube.com)

 

例えばこんなヒスイ市へ出向けば御寶翡翠を得られる可能性がまた出て参りませう。

ですがもうヘロヘロでもってまさかソコまでの気力が出ない。

 

いやだが其れもまた壱つの「夢」のやうなものなのだ。

おそらく其れは叶わぬ「夢」なのやもしれぬがかうして今は「現金採集」にて「夢」を追う自分ですので兎に角ヤフオクを中心にして鉱物展などでコレゾと云う「翡翠」との出合いを待つ他は無い。

 

但しこのところ独走し疲れたので暫くは森歩きなどをし充電期間を是非つくりたいところです。

 

 

 

尚こちらの翡翠も今年になり得た糸魚川産の翡翠原石ですが形が派手なので置物に向いて居る。

握り石の方では以前に新潟の人より得た黑と緑が混ざる🍙型の翡翠原石などが最も向いて居る。

ー「翡翠」が國石に指定される前の拾年程前はそんな大きな翡翠原石が弐、参千円でもって多く売られて居たものだった。其の折に幾つもそんな大きな翡翠原石を得て居る。大きい石は「観賞石」としてまた「握り石」として樂しめなかなか良い。ー

 

尚此の石の場合も毎日洗って居たところ白い地色の部分が灰色系に變化して來た。

 

【翡翠】海色の宝石!博物館レベルのヒスイを見つけました。【おまけ付き】 (youtube.com)

 

其れにつけても此の💎ハンターさんは所謂「引きが強い」人です。

異様に石の引きが強い人でもって障碍者の人ー大阪の人ーをかって知り共に石の採取をして居りました。ー洞戸鉱山や田口鉱山にてー

 

そんな彼は金持ちでもってBMWか何かに乗って居た。

其れも妙に石の「引きが強い」人は「自閉症」である可能性などもまた無いでは無い。

 

ちなみに自分の場合は特に石の引きが強い訳ではないが最近は特に「自閉症」の度が酷くなったのか可成に引きが強くもなってる。

いやさうでは無く「現金採集」での引きの方がまた物凄く強くもなりつつある。

 

【翡翠】こんな緑は初めて!!!ある意味激レアな石を発見しました。 (youtube.com)

 

うわああー、コレは所謂「緑の石英」です。

ですから其れをタダの「石英」だと言ってバカにしてはならない。

 

石英」つまり濁った水晶。

其の「石英」こそがむしろ石の基本中の基本でせう。

 

此の最高に美しい緑の石英ですがまさに💎級であり普通の翡翠や屑翡翠よりもずっと価値があります。

其れとそんな「緑の石英」は愛知、岐阜辺りでは採れません。

 

特にナゴヤでは黄色とピンク色の石英が採れるのだ。

ありゃ?黄色とピンク色だって?

 

 

【日本初】これまで発見してきた宝石の今後についてお話します (youtube.com)

【宝石】自分で拾った石を高く販売できるか挑戦してみた!!! (youtube.com)

 

さて先日ヤフオクで此の方の石が出品されて居るのを発見致して居ます。

また其の石が売れたこと、さらに其の売り上げ金が地震の被災地に寄付されたことも後に知りました。

 

此の方は「人格者」なのだと正直思う。

我は「欲張り」ですので何でも飛び付き得て其れでもって「自己満足」の世界に浸り其れでもって終わりですが此の方に限りさうでは無く非常に「意識が高く」おありのやうだ。

 

17.「物」は「自分」のものには非ず

18.寄付の精神ー社會への貢献ー

 

ニンゲンは「死ぬ時」に石を持って行けないと彼は仰る。

だからと言って小さな石は人に配るとさう仰る此の方は基本的に「無欲」な人だらう。

 

でもそんな「無欲」な人でもまた石は採りたいのか?

また「社會への貢献」とはむしろ社會を罵倒し無視することでも可能なのやもしれぬのですが…。

 

いずれにせよ此の方の考え方にまさに感じ入り教えられた部分こそが今回は石を得たこと以上に大きかった。

其れと此の方は若い頃の弟に何故か顔や体形がソックリなのです。

 

どうもありがたう、💎ハンターのホーリーさん。

でもアンタどうやって生活して居るの?其れもまだ若いのに。

 

 

ニンゲンは「死ぬ時」に石を持って行けないが「死ぬ時」迄石と連れ添うこともまた可能です。

要するに其れは妻や子と同じ話ででも石は生ものでは無くさう生きて居ない分毎日静かです。

 

他方では緑を身に纏う「植物」などもまた良いものですが其れもまた石よりは世話がかかるし結構何かとウルサイものです。

すると矢張りと云うべきか石が壱番なのか?

 

まあ冷たい石には所謂「温かみ」は無いが其の癖ピンクやレモン色の石ですとたまに其れが感ぜられぬ訳でもありませんのです。

 

極上品!糸魚川翡翠 天然石4

印度の山奥より來しサファイア原石ー常に夢見て居たカシミール・サファイアとの出合いー

印度の山奥より來しサファイア原石ー常に夢見て居たカシミールサファイアとの出合いー

 

 

 

 

「人間は2000年以上生きていますけど、何か罰を与えて世の中が良くなったことはまだ1度もない」

「日本人って世の中に引っ張られるように、ほとんど奴隷のように生きていて――」

Fuck you heroes Fuck you capitalism》

「47歳でこの発言は恥ずかしい」伊勢谷友介、俳優復帰後の“イキリ”言動連発に賛否 (msn.com)より

 

伊勢谷友介 - Wikipedia

 

其の伊勢谷氏は東京芸大出の人で其のクラスともなると「認識が人とは違う」可能性が高くありませう。

其の発言の内容は所謂「常識外れ」でのものですがわたくしに限りまずは其れを言うことの出來る勇気に感服致します。

 

山本寛斎 - Wikipedia

 

尚其の伊勢谷氏に取り山本 寛斎氏は異母兄となるやうだ。

山本 寛斎氏は「岐阜」の人ですが名古屋の北部ー一宮市などを含めーには所謂「洒落者」が多くつまりは身なりを気に掛ける傾向が強くある。

 

尤も自分は其の逆で身なりなどは何でも良い方です。

されど服や帽子にブローチなどを兎に角付けたがる。

 

つまりは意外と「漢」なんですがまたさう常に女女しくもある。

 

クローズド・ノート - Wikipedia

 

此の「クローズド・ノート」なる映画が2007年当時🖋愛好家の間で話題となった。

何故なら文房具店の御話であり其処に「万年筆」が出て來る訳です。

 

ところが主演の沢尻エリカ ♯騒動・不祥事- Wikipedia氏が世の中に對する態度が惡く其の後も色色とあり最終的には違法薬物をやり捕まった。

また伊勢谷氏も同様に違法なクスリをやり捕まった。

 

尚クスリは「意識が高い系」の人には案外縁が深いものとなるが案外知られて居ないのがPL粉末が催眠剤の代わりとなることです。

PL粉末は完全に合法のしかもタダの風邪薬ですが神経が過敏な人などには案外役に立つものとなる。

 

但し薬局にて其の侭買えば頗る高価です。

 

とどのつまりは此の弐名の方の何処かに「反抗心」があるが其れはまさかボク程には洗練されては居ないとのことでせう。

 

 

ありがとう、吉幾三 5年で50億の二階俊博に「ばかやろう」という怒りを私たちは諦めてはいけない 北原みのり (msn.com)

 

其の吉 幾三氏もまたそんな「反抗心」のカタマリのやうな老人なのか?

でも偉いですね、そんな年寄りになっても「バカ野郎!」とさう言えるのは。

 

いやむしろ高齢者ともなると「アホンダラ!」とさう言えるのです。

要するにすでに半分死んで居るので此の世がどうならうがまるで構いません。

 

特に妻及び子並びに孫が居ないとまるで僕みたくに「言いたい放題」でせう。

またつまりは其れが彼に取っての「ほんたうのよろこびであり幸せ♡」なのだから。

 

其の政治の世界に限らずたった今🗾國の特に精神的な秩序がオカシいですがまずは世の趨勢とは逆のことが言えるかどうかと云うところにこそそんな「洗脳」を解く鍵はあると個人的にはさう感じて居ります。

 

 

さて今回は「カシミールサファイア」の御話をさせて頂きます。

 

でもって何故そんなモノの話ばかりをするのかと云うことがまずはありませう。

壱言で言って其れは「観念の不毛性」により個人的にさうシフトして來ざるを得なかった部分をこそ語って居るのだ。

 

要するに其の「観念の不毛性」がある限り眞の意味での「建設的」な場を築くことは出來ぬ。

しかしながら「物」は常に「建設的」な場を築くことの可能性を蔵しつつもタダソコに有る。

 

つまりはむしろ其れが語り継ぐであらう内容の方がより「眞實」に近いのではないか。

 

例えば此の世では権力者がさうして其の力を惡用し私腹を肥やしたりまた戦争を始めたりもする。

また文學者を始め多くの學者や藝術家が此の世の様を嘆いたりもするが何時迄経っても此の世は直りゃあせぬ。

 

其のことは「観念の不毛性」と云う「言葉」としての自己矛盾領域より齎されることなのではないか。

要するに其処にて抽象的概念を弄ぶことのみに終始し其れを解決へと導く契機を失うこととなる。

 

だったらまだしも「物に就き語る」方がマシと言うものだ。

何故なら具象物はあくまでソコに「有る」ものなのだから故に。

 

 

有⇔無

 

但し「本質的」な意味で「物」が其処に「有る」訳なのではむしろない。

あくまで其の分離される認識上の癖の上から言えば其れが「有り」且つ其れが所謂質量や色彩を帯びさらに元素としての性質を帯びるのだから。

 

どだい「有る」モノを「無い」と云うのはヒネクレタ「哲學的認識」だけである。

また「宗教的認識」の方もまたヒネクレテ居て釈迦は「解脱せよ」とさう仰りクリストは「神と共に生きるのだ」とさう仰るがそんなものは我我低級なケモノニンゲン共に分かる筈もない至極高級な認識論であるに過ぎぬ。

 

だがどう見てもたった今アナタの目の前には其の「モノ」が有る。

 

また無論のこと其れは「宗教」をやらずにタダ黙ってソコに有る。

また無論のこと其れは「認識論」を語らずタダ黙ってソコに有る。

 

だからさう云うのこそが「観念」を離れたところでの「具象的限定」の様なのだ。

つまりは其れが「考えない」力のことであり「考えない」価値としてのことなのだらう。

 

 

「さう感ずるが侭に其れを見よ」

 

もしや其れは印度の山奥の聖者様の御言葉なので?

さうですね、自分には其の印度の山奥の聖者様にどこか憧れて居る部分が確かに御座る。

 

♪印度の山奥でーしゅーぎょおをしーてー♪

 

もしや其れは究極の變身番組「愛の戦士レインボーマン - Wikipedia」の主題歌なのですか!

 

Amazon.co.jp: 愛の戦士レインボーマン 全巻セット 2YE3X : おもちゃ

 

さうです、ですが其の「レインボーマン」はとてもカラフルな御話となる点が如何にもわたくし向きです。

ところが内容がカルト過ぎるのか再放送されずだからもう半世紀程も其れを視られずに居ります。

 

レインボーマン 主題歌 (youtube.com)

愛の戦士レインボーマン:七つの化身の超能力 - YouTube

 

♪印度の山奥でーしゅーぎょおをしーてー♪

 

昭和時代に人気あったが、再放送できないレインボーマン - YouTube

【ゆっくり解説】再放送できない理由 昭和の名作「愛の戦士レインボーマン」がすごかった (youtube.com)

【ゆっくり解説】ヤバい!放送禁止作品⁉「愛の戦士レインボーマン」ヒロインは善悪ともにハイレベルな美貌の持ち主⁉美人幹部多数タイプは誰?最終回も解説 (youtube.com)

 

なる程。

さう「再放送」が無い故に余計に懐かしく且つミステリアスでもってカルトな作品となるのだらう。

 

 

さて此の番組の歌詞にも登場する「デーヴァダッタ」はそも「惡人」だったのか?

 

ー釈迦は提婆達多が自分の元で出家した場合、一時は地獄に落ちるものの最終的に苦しみから脱すると知り、あえて出家を許したとする[18]提婆達多は死ぬ前に前述の詩を述べて釈迦に帰依したため、地獄を脱したのちにアッティッサラ(Aṭṭhissara)という名前の「独覚」になるという[17]。ー提婆達多 - Wikipediaより

ー「法華経提婆達多品第十二では、提婆達多天王如来 (devarāja) という名前の仏となるという未来成仏が説かれている。これは、のちの日本仏教、特に鎌倉以後の諸宗に大きな影響を与え、この期以後の禅、念仏、日蓮の各宗は、この悪人の成仏を主張している。ー提婆達多 - Wikipediaより

 

「デーヴァダッタ」は「地獄」に堕ちたとも言われますがかうしてむしろ大乗各派に於いて其の成佛が認められて居る。

 

ー「五事の戒律」を提案するも受け入れられなかったので、分派して新しい教団をつくったという。彼が釈迦に提唱した「五事の戒律」は以下の通り。

  1. 人里離れた森林に住すべきであり、村邑に入れば罪となす。
  2. 乞食(托鉢)をする場合に、家人から招待されて家に入れば罪となす。
  3. ボロボロの糞掃衣(ふんぞうえ)を着るべきであり、俗人の着物を着れば罪となす。
  4. 樹下に座して瞑想すべきであり、屋内に入れば罪となす。
  5. 魚肉、乳酪、塩を食さず。もし食したら罪となす。ー提婆達多 - Wikipediaより

 

 

此処から見る限り彼「デーヴァダッタ」はむしろ大變眞面目な人です。

そんな根が眞面目な人に限り「融通が利かぬ」面が強くあるが故におそらくは誤解された面などがまたあったことだらう。

 

いずれにせよ「宗教」が何故「ニンゲンの欲求」とはあえて逆方向を向き歩むのかと云う部分だけは考えて置く方が良いことだらう。

例えば「資本主義」や「近代科学」はむしろ「ニンゲンの欲求」に忠實な観念的価値の流れであるがむしろ其れが宗教的に希求されるだらう精神世界とは逆方向の流れを生み出すことにも及ぶ訳だ。

 

さらに個人的には其の「デーヴァダッタ」が惡人だったかどうかに就き大きく興味がある訳ではない。

 

善⇔惡

 

佛教はそも壱神教とは異なるだらう「相對的価値観」での産物なので其れこそ大乗各派に於ける見解のやうに「デーヴァダッタ」が「成佛」するにせよ其れは不思議なことでも何でもない。

 

相對的価値=相對性の賜物

絶對的価値=絶對性の賜物

 

絶對的善⇔相對的善

絶對的惡⇔相對的惡

 

其の「絶對的善」もまた「相對的善」と相互作用するものであり故にあくまで「縁起」関係に於ける枠内では其の「絶對性」が担保されない。

其の「絶對的惡」もまた「相對的惡」と相互作用するものであり故にあくまで「縁起」関係に於ける枠内では其の「絶對性」が担保されない。

 

とのことで實は「論理」的に「善惡規定」を為すこと自體が不可能となる。

其れは要するに「論理」的に「善」が「善」であり「惡」が「惡」であることを決定し得無くなるとのことである。

 

つまりは正命題と反命題が共に成立し得ることともまたなり所謂「弐律背反」の状態へと至ることとならう。

でも本日はそんな哲學の御話でしたっけ?

 

確かにさうではありませんでした。

つい先程迄東京から出張買取に來た業者の対応をして居てそれどころではなかったのです。

 

ええっ?

またまた其処にて失敗して弐束参文でもって大事なモノを売って居ませんか?

 

はい、腕時計を弐つ売り🖋を四本売りましたところです。

ソコには確かに大事なタグホイヤー機械式腕時計ー限定生産品ーなどもまた含まれて居ました。

 

でもアンタ何をやって居るの?

はい、何せ今年は石を買って居ますので其の支払いに追われて…。

 

ですが別に高い石を買って居るのでは無い。

では何を買ったのか?

 

其れがまずはコレです。

コレこそが念願のカシミールサファイアの原石なのだ。

 

 

カシミール産天然サファイアコランダム 400ctラフカット原石 鑑別書付き-1

 

尚其の東京の業者にも言って居たのだったが「モノ」はニンゲンより長生きし其の価値を此の世に留め続ける。

但し其の「モノ」の価値が暴落することは有り得またカネの価値が失われることなどもまた有り得る。

 

「モノ」はさうして其の価値が失われる迄の「旅」を続け言わば「流転」し続けて行く。

「モノ」は常にさう何処かに固着する物なのでは無くさうして移ろって行く。

 

また其の意味では此の「地球」などもまさにさうである。

 

但し石に限れば其れは元元地球の骨格を成すものとなる。

「惑星地球」は元元其のやうに星屑より生まれし「石の惑星」なのだ。

 

おおたった今まさに其の石と戯れることこそが我が生涯に於ける筆頭での目標となりつつある。

 

 

カシミール産天然サファイアコランダム 400ctラフカット原石 鑑別書付き-2

 

かうして何よりも其れは靑い。

さうして「静けさ」にこそ充ちている。

 

そんな「静けさ」の中で「太古」よりの「☆の呟き」が封印される形で保存される。

さうして石は余りにも寡黙でしかも饒舌なのだった。

 

カシミール産天然サファイアコランダム 400ctラフカット原石 鑑別書付き-3

 

其れが印度産の石であることは匂いでもってすぐに其れと分かる。

さう其れには「香」が焚きしめられて居り兎に角「臭い」のである。

 

其の「臭い」のは例えば印度製の🖋などもまさにさう臭い。

其の印度人は果たして何をやってるの?

 

うん、何だか知らんが兎に角何にでも其の臭い「香料」を擦り付けたがるのさ。

だが其れ故におおまさに此の石が「印度の山奥」より來し石であることがしかと分かる。

 

♪印度の山奥でーしゅーぎょおをしーてー♪

 

するとコレがもしや其のレインボー・サファイアなのですね?

いやレインボー・サファイアなるものは此の世には無いのです。

 

ですがまるでレインボーマンのやうな色を其れが纏って居ることだけはまた確かなことでせう。

尚其の臭いカシミール産のサファイア原石を参日間程オレンジ香料入りの界面活性剤に浸け込み其の臭みを和らげたものでした。

 

すると何と着色した其の染料が染み出て來其の洗剤水が眞っ靑に染まりましたのです。

 

すわそんなインチキの石か?

いいえさうでは無くつまりは「エンハンスメント」が為された石なのだ。

 

ですがさう何せやり方が稚拙ですのでまた脱色の方なども容易であった。

でもって石は確かに「コランダム」でありまたそんな香臭いサファイアなのであればまず「カシミール産」とのことで間違い無い。

 

 

嗚呼わたくしは此れ迄にどれ程其の美しい靑い石を夢見て來たことか。

いつかは「カシミール産」のサファイアを得ること。

 

其れだけが望みの全てであり嗚呼まさにわたくしが此の世に生きる目的だった。

…また其れは如何にも大袈裟過ぎる。

 

いやだから其の大袈裟なのが「文學」としての常套手段なのだ。

文學はあくまで大袈裟に語るからこそさう文學足り得るのさ。

 

また其れを懐中電灯の光に翳すとまさに「此の世のものでは無い」やうな輝き方をする。

其の美しさや尋常のものにはまるで非ずして…。

 

さう其れは海の底ともまた蒼穹ともつかぬ靑き骨格を顕わとなす。

兎に角光でもって照らし出し此れ程に美しい石を我は他に知らぬ。

 

カシミール産天然サファイアコランダム 400ctラフカット原石 鑑別書付き-4

でも色付きなのでせう?

いいえ染色の方はほぼ抜きました。ーさう色を抜いても全體の印象はほとんど變化せずー

 

また臭みの方も抜いて居ますがでもまだ何だか臭い。

 

うーん、さうか、もしやソレはアナタの印度趣味に於ける総決算としての石なのでは?

はい、其れもおそらくはさうなりませう。

 

だから印度の山奥でもって出來得れば修行をしたいのと印度的なわちゃわちゃへの愛とカレーへの愛、さらに「カシミール産」のサファイアへの憧れの部分などが微妙に混じり合いかうして此の原石が我が手元へと引き寄せられて來たのだらう。

 

まさに物は情熱ー欲望ーにこそ引き寄せられむしろ向こうからやって來る。

つまりは熱望されるところにこそ寄り沿って來る。

 

カシミール産天然サファイアコランダム 400ctラフカット原石 鑑別書付き-5

 

でもって此の石は五千円以下です。

されど此の石はデカく所謂「握り石」となる大きさを持つ。

 

でもソレは胡散臭い!!!

ですから、前前より御話をして居るやうに石の世界は筆記具の世界程理性的なものではむしろ無くつまりは實に「胡散臭い世界」でのものです。

 

ところが「胡散臭い世界」の石が全部胡散臭いかと言えば其れは必ずしもさうでは無くむしろ半分は「やったー!」と言える程の石ともなる。

事實として今年は其の絶好調なのが続いて居りつまりは昨年末から毎月のやうに四連続にて「引きの強い」ところを見せて居ります。

 

でもってとりあえず其処でのNo.1かNo.2の座を争うのがまさに此の「カシミール産」のサファイアの原石となる。

因みに其の「石灯篭」をした場合に最も美しく光輝くのが此の「カシミール産」のサファイアの原石となる。

 

何せサファイアコランダムであり翡翠などよりもより硬質で透明度が高くある感じでせうか。

故に壱方向から光を通すだけでほぼ八割方光を通す。

 

故に鉱物標本としてはまさに自分に取り壱級品の物となる。

そんな訳で今回はそんな印度の山奥より届いた「最高の靑い石」の話をさせて頂きました。

 

さらに次回予定分はまた其れにも劣らぬことだらう「奇跡の糸魚川産ピンク翡翠」の御話をさせて頂く積もりで居ります。

「有無」判断に於ける哲學的随想ー宗教論を交えたところでの壱つの現象論ー

「有無」判断に於ける哲學的随想ー宗教論を交えたところでの壱つの現象論ー

 

 

 

 

松田聖子が中大法学部の通信課程を卒業…愛娘の急逝経てアラカンで“学び直し”の深謀遠慮 (msn.com)

 

かうして此の人は實は頗る頭が良かったのだった。

 

 

さてつい先程3時間程かけて書き込んだ「哲學的内容」の作文が全部消えて仕舞いました。

其れも非常に良い作文だったのですが残念ながら皆様は其れを読むことが出來ぬ。

 

でもとりあえず自分は読んで居ますので其の内容をカンタンに御浚いすること位は出來る。

 

まずは高IQ者は🐈が好きだとのことがとある記事に書かれて居た。

さらに「不安症」にもなり易いのださうだ。

 

また他者を理解する能力に長け夜更かしをするとのことである。

要するに「気付く力」が並みでは無い。

 

ワタシは正直ほとんどの項目で其れに該当して居ました。

でもワタシの持ち味はむしろ高いIQでは無く「思考力」の方でせう。

 

其れも宗教論などを交えつつ「哲學する」ことが得意ですので其れこそそちらの分野でならば僧侶や司祭様などと法論を戦わせることなども可能なのだらう。

ですので其の部分を絡めつつ所謂哲學上の課題に就きまた長長と論じて居りましたのです。

 

でも其れが突如全部消えましたのです。

 

 

0.此の世は現實か否か

1.「死後」の世界の有無

2.「神」の有無

3.「自由意志」の有無

4.ニンゲンと動物の違い

 

と其処迄書いたところで其の記事をも含めて全部が消えました。

其の消えると云うことは余りにも情けない話です。

 

さて其の「有無」の問題ですが、ワタシの場合は全てを「弐元論」並びに「對極主義」にて考えることにして居る。

まさに其のことが自分に取っての哲學的帰結であり哲學的方法論なのです。

 

つまるところニンゲンに取っての此の世とはそんな「弐項對立」として妄想されるー認識上さう構築されるー世界なのだから。

でもって「有無」の問題は其の全てが、

 

有⇔無

 

の命題へと帰する。

 

ところが「有」と「無」は其れ等単独では「現象」することが無い。

言ってみれば両極があってこそからうじて現象しまた「有」と「無」とに分離される訳だ。

 

故に「有其のもの」と「無其のもの」はそも此の世に無い。

では何が此の世に有るのかと言えば其れは其の分離して捉えるだらうニンゲンの認識上の癖のみだ。

 

ですので0.より3.迄は全て其の論理にて説明することが可能となる。

 

たとえば1.は、

 

生⇔死

 

とのことですがさうして分離し認識する限りは「死」もまた有りませう。

でも「ほんたうの死」が何であるのかはニンゲンの認識にまず捉えられない。

 

「ほんたうの死」やまた「ほんたうの生」やさうしたより本質的な認識領域ではニンゲンの認識はまるで役に立たぬ可能性が高くあるが故に。

其のことをかって哲學者のカントが「物自體」とさう述べて居る。

 

但し佛法ー釈迦自身や禅宗の捉えるところでのーでは其の相對分別認識自體を否定的に扱うが故に「生も死も無い」とのこととならざるを得ない。

要するに其の概念による「区別」をむしろ消し去る訳ですので、

 

5.生も死も無く

6.貴賤も何も無く

7.本來無壱物でもって平等

 

となるのですが其の「平等」とはニンゲンはバカさ加減がむしろ平等との御話のことですね。

ですので釈迦自身や禅宗の場合には「死後」も無く「神」も無く「自由意志」もまた無い。

 

 

と申しますかそも其のやうに分けては考えぬ。

ところがクリスト教やイスラーム教などでは間違い無く「死後」は有る。

 

何故なら其のやうに教義が組んであるからなのだ。

なのでみんなが教會やモスクへと出向き其処にてまさに御釈迦様のやうなことを述べると邪教徒としてまずはソコから追い出されることであらう。

 

まあでもボクならやらんでも無いことなのですが…。

教會やモスクへ御経を持って乗り込み法論をば挑む。

 

あれ何やら恰好が良い。

 

其れと重要なことがあり「浄土教」はむしろ「死後の世界」をほぼ絶對化して居る部分です。

其のことは「浄土教」が純粋な佛法では無くむしろ壱神教に近いものであることを論理的に明らかにして居る。

 

また日蓮宗なども明らかに壱神教的な排他性を根強く持ち合わせて居る。

さらに密教に至ればほぼヒンドゥー教化して居りまあほとんど佛法とは言えぬことなのでせう。

 

ですが自分は不純な佛法をむしろ否定しません。

 

正教⇔邪教

上座部佛教⇔大乗佛教各派

 

何故なら其れ等もまたさう「分離」されて居りますが故に。

まさにソコには「相剋」し且つ「相即」する関係性がしかと認められますが故に。

 

「相互依存関係」

まずは其のことをこそ知って置いて頂きたい。

 

其のことが佛法で説かれるところの「縁起」に於ける極同士の関係性のことなのだ。

例えば、

 

漢⇔👩

 

コレなどは全然違うやうに見えて元は「同じ」である。

其れが分化して🚹と🚺とに分かれる。

 

さう「縁起」するものは其れ自體で完結しない言わば中途半端な不良品ー瑕疵品ーのやうなものであるに過ぎん。

つまりは其れ自體で「完結」することが出來ず「自立」すら出來ぬものとさう相場は決まって居る。

 

「自立」すら出來ぬのだからソコには「自己」も何も無い。

但し其処へ認識上の「眞我」を設定することだけは或は可能なのやもしれぬ。

 

 

神⇔佛

自由意志⇔決定論

 

此れ等の命題もまた同様。

 

「神」も「佛」もまた「絶對」の存在では無いとあくまで自分は考える。

考えるが其れは「信仰」とはまた違う。

 

「信仰」=絶對的⇔「思考」=相對的

 

とならざるを得ぬが故に。

即ち「信仰」と「疑い=観念」の對立もまた此の関係性にこそ帰結する。

 

絶對的価値⇔相對的価値

 

此の価値對立ですらかうして弐元分離する。

故に「絶對的価値」其のものや「相對的価値」其のものはむしろ此の世に存在し得ない。

 

言わば事の「本質」方面での価値對立はかうして自然と「両義的」な方向へと向かわざるを得なくなる。

 

4.ニンゲンと動物の違い

 

ニンゲンとドーブツは果たして本質的に異なるや否や?

 

ニンゲン⇔ドーブツ

 

ニンゲン=本能+理性

ドーブツ=本能

 

だからまずは違う。

 

違うのですが、あくまで多分にニンゲンはドーブツなのでもまたある。

逆に申せばニンゲンはまたすぐにドーブツへと落ちて行く。

 

「酒池肉林」

 

たとえばココへは實に堕ち易い。

またギャンブル、其れも億単位での金を賭けた遊びなどが。

 

だから🗾の希望の星であるアノ大谷君がもしもダメにでもなったらどうするの?

其れも此れも結果として其の賭博が招いた「惡」のことなのではないの?

 

だから漢は普通👩か酒かギャンブルでもって大抵の場合は身を持ち崩すものとさう相場は決まって居るの。

 

兎に角ニンゲンは純粋な「理性體」では無く半分はむしろドーブツなの。

其れも🐈にも🐕にもさらに🐼や🐊や🐍などにもすぐになれるのです。

 

じゃあ👽などにもまたなれるのですか?

残念ながら其れはなれません。

 

ワタシなども實は何遍か本気になり👾化しやうとしたが其のことばかりは流石に無理でした。

 

「ニンゲンもまた所詮はケモノ」

 

まずはさう思って置く方が無難なことであらう。

 

 

0.此の世は現實か否か

 

かう云う部分こそが映画の『マトリックス』などでも描かれる部分なのですが、其のこともまた「弐元論」並びに「對極主義」にて其れに就き考えることが可能となる。

 

現實世界⇔仮想現實世界

 

まずは其れがどちらの極であるかと云うことはむしろ「問題」だとは捉えられぬことです。

つまりどちらにせよ同じやうに「破壊」は生じ其の「破壊」を食い止めるが為には「他方を認める」=「認識上の『愛』に目覚める」以外のことではあり得ない。

 

「破壊」を食い止めるが為にはさう『愛』を重視して行くより他は無し。

例えば「北斗の拳」などでも始終其の『愛』と云う言葉が出て來ますのですが…。

 

其の『愛』とわたくしの語る『愛』とはまた別物となる。

つまるところ『愛』とは其の分離である。

 

さう引き裂かれた認識としてのニンゲンに對する「慈悲」の思いこそが其の『愛』としての核心部なのだ。

またうまいこと佛法とクリスト教の教義とをくっつけて…。

 

あれ見破られましたか?

もう其れを無理やりにくっつけて置いて早く逃げやうとさう思って居たのだがついに正體を見破られたのか!

 

でもってそもドッチなのだ?

此の世はバーチャル世界なのか其れとも非バーチャルの世界なのか?

 

だから其れはドチラでもエエ御話なのだ。

またどちらとも決めかねぬ話と必然としてなる。

 

何故ならそんな極としての要素が自立して居ないのだから。

此の世の全てー現象界の全てーは其のやうにむしろおしなべて非自律的且つ自立的なまるで浮草の如き事象ー現象ーである。

 

つまりは移り變わり行く其の場其の場での刹那の記録ー記憶ーのやうなものであるに過ぎずよってソコには實體は無くまた意味も無く本質的にはまさに「空」なる「無壱物」であるに過ぎん。

また上手いこと「空性」やら「禅」の思想やらとくっつけて。

 

あれヤッパリ其れもまた見透かされて居たの?

じゃあ君に見えないことを言うには果たしてどうしたら良いの?

 

でもそりゃあ無理だぜ。

何せ君は僕で僕は君なんだもの。

 

さうか、さうだったのか。

御前はヤッパリワシの惡の片割れなのだな!!

 

…では無く、むしろ君が僕の片割れでありしかもまさしく「惡」の片割れなのです。

うーん、なんだか何が何だか分からんわい。

 

 

もう御前もろとも滝の上から飛び降りてやらうか。

おいおい、ちょっと待った。

 

何故ならたった今ココに綺麗な石が有る。

ええっ?其れは果たしてどんな石で?

 

コレは遠い印度より我が國に輸入された物凄い石の壱つなのよ。

さても印度の何処から届いたのでせう?

 

そんな遠くの印度のカシミール地方だな。

印度のカシミール地方だって?

 

するとまさか其れは「カシミールサファイア」のことなので?

さうだ、まさに其の「カシミールサファイア」がたった今机上に有る。

 

其れは無いのでは無くちゃんとかうしてたった今ココに有る。

もしや其れもまた「空」なる「無壱物」の壱つなので?

 

まあ本質的にはまさにさうであらう。

だが「本質」と「現象」とはまた常に違う。

 

本質⇔現象

 

其れは互いに無関係では無いがかうして「極」として成り立つだらう何かである。

其の「極」として成り立つだらう何かは「美しいもの」である可能性が半分位は常に有る。

 

美⇔醜

 

まさに其処にて「美」は「醜」と對になることでこそ光輝く。

「醜」はまた「美」により磨かれさらに醜くもならう。

 

「有」とは畢竟さうしたことよ。

其の時初めて「有」は「無」の軛から放たれ己が體に光を纏う。

 

「光あれ」

あら今度は旧約聖書の方ですか?

 

尚クリスト教によれば光とは「神」其のものなんださうです。

であるとすればアノ「大日如來」などもヤッパリ神の化身なのか?

 

とのことで本日壱回目の作文以上に色色と考えを書き込んでみました。

「両義的」に見詰めたところでの『北斗の拳』評ーTVアニメ『北斗の拳1』に於ける「右の思想」より是非學ぶべきことー

「両義的」に見詰めたところでの『北斗の拳』評ーTVアニメ『北斗の拳1』に於ける「右の思想」より是非學ぶべきことー

 

 

 

 

さて本日是非語りたいのがTVアニメの『北斗の拳』のことである。

自分はマンガやアニメの論評もまた好きなので是非其れに就き語りたい。

 

但しマンガやアニメはそれが即「藝術表現」足り得るかと云えば其れはさうでは無く基本的に「藝術作品」よりもよりフィクション性が強いものとならう。

であるからこそかって音樂や繪画などの藝術は学校の教科となってもマンガやアニメはさうならなかったのである。

 

但しすでに時代は移り變わりよってマンガやアニメーションなどの専門の学校や教科などがすでに存在することだらう。

 

でもって現在わたくしはTVアニメの『北斗の拳1』の方をほぼ見終わる頃にさしかかって居る。北斗の拳 (テレビアニメ) - Wikipedia

そも何でさうなったのかと言えば、

 

1.『仮面の忍者「赤影」』を視たく東映ヴィデオチャンネルに入るつもりで居て間違えて東映アニメチャンネルの方に入って仕舞った

2.ところが東映アニメチャンネルの方にも評価は低いが「赤影」シリーズがある

3.其れを視て居た処『北斗の拳』の方も視られることに気付く

4.『北斗の拳』は1の方ダケで100話以上もあるので其れを東映アニメチャンネルに入らずに視ることはほぼ不可能だ

5.丁度良いので急遽『北斗の拳』の方に切り替えて視聴中

6.わたくしがまだ廿代の頃にTVに流れていたアニメとなる

7.当時は其れをヴィデオに録画し塾の方が終わってから視て居た覚えがある

8.当時『北斗の拳』からは案外精神的な意味での影響を受けて居る

 

其れも『ガンダム機動戦士ガンダム - Wikipedia』とはまた違う意味で大きく影響を受けた。

 

9.「右の論理」であり価値観の話

10.世紀末的な「乱世」を統壱へと導く英雄であり豪傑の御話

11.非合理的な誇張が多く要するに「力の論理」での御話

 

故におそらくはPTAや左翼の人人には評判の惡いTVアニメだったことだらう。

 

12.所謂體育會系での価値ヒエラルキーにより雑兵の人権や力の無い庶民の人権はほぼ無視される

13.だが英雄であり且つ豪傑である将達はそもニンゲンの出來が違うので無論のこと優遇されまた場合により「神」や「王」とも崇められる

14.英雄であり且つ豪傑は常に雄雄しくしてさらに👩に優しいー男尊女卑ながら左様に👩に優しくするのがまさに「漢の世界の論理」となるー

 

逆に言えば其れはヘナヘナしたまさに👨👩の如き所謂「中性的」な生き様であってはならずソレ即ち常に「生きること其のもの」に立ち向かいしかも其れを気力及び胆力とさらに「たとえ死んでも👪や組織を守り抜く」とのそんな美しい漢としての生き様でなくてはならないのだ。

 

まあやうするに「右の馬鹿」が嵌まり込んで行き易いそんな「美學」の世界にこそ其れは刺し貫かれても居らう。

 

だが案外其の「ケモノ」的で非理性的な世界がまた面白い。

ソコにはゲージツも何も無く要するに「食うコト」と「👩を奪うコト」さらに「権力を握るコト」の此の単純な闘争世界が展開するのですがさうかと言って其処にデリカシーの如きものが皆無なのでは無くまさに其んな葛藤や逡巡の部分が諸将の苦悩として様様な形にて描かれて行くのだった。

 

 

武論尊 - Wikipedia自衛隊の出身者とのことー

原哲夫 - Wikipedia

 

おそらくは原作者と作画家共に「右の思想」の持ち主なのだらう。

 

15.漢が「困難」に立ち向かうことの重要性

16.漢は「強く」あってこそ「優しく」もなれる点

17.👩は強く優しい漢にこそ惹き付けられる点

 

特に此の参点にいたく感じ入った。

 

 

尚個人的には自分は「中性者」でありそんな『北斗の拳』とは對極の世界を生きる者であらう。

ですが自分は變わって居て實は「両方」がやれるタイプなのだ。

 

なので「自然」を心より愛する平和主義の理性的ニンゲンである反面特に若い頃は意外に喧嘩っ早く實は殴り合いの喧嘩迄生涯に弐度程経験しても居る。

だが其れはグレたりヤクザなのでは無く学校はちゃんと進学校だったのだしなんでさうなって仕舞うのかまるで分からぬ経験だったのだった。

 

其れに意外とパワーがあり昔は兎に角速く強い🚙などが好きだった。

 

ランボルギーニ・カウンタックのデザイナー死去…愛車はスズキの軽自動車「外出するときはこれしか乗らない」の素顔 (msn.com)

 

2003y HUMMER H2! フルカスタム・ハマー!

 

H2(ハマー)の歴代モデル・グレード別カタログ情報|中古車なら【グーネット】 (goo-net.com)

HUMMER JAPAN INC.

 

其の「ハマー」と云うのを最近とある家で實物を観てコレなどが良いかなとさう思いはじめて居る。ー其れもまた所謂「男らしい」🚙だらうー

 

 

18.「性」や「姓ー氏素性ー」が確立されるからこそ良い世界を築ける

19.傑出した将に「力」があってこそ良い世界が築ける

20.さういてこましたれ!

 

結局のところ「右の論理」とはまさにさうした部分より醸成される「世界観」のことだらう。

また其の事は我が國ではかの「戦國時代」での世界観のことなのでもあった。

 

結果『北斗の拳』とはまさにそんな「核戦争」後の「乱世」の様を描き出す未來に於ける戦國時代劇なのである。

故に其れは常に「暴力」や「奪取と搾取」とに彩られるだらうまさに「修羅」の世界を描くものとなる。

 

ところが「資本主義社會」にもまた少し違う意味でのだが本質的には其れとほとんど變わらぬであらう「圧力」や「奪取と搾取」が常に生じて居るものなのだ。

従って此のTVアニメを視るにつけ次第に「身につまされる」気にもまたなるものなのだ。

 

特に90年代以降の我が國に於ける民への圧政や経済的な意味での「奪取と搾取」の様の酷さを観るにつけまるで此の物語が現實の様のやうに感ぜられるが故に「嗤い飛ばして」視るやうなものではまさか無くむしろ「ほんたうの話」として次第に我には感ぜられて來たのだった。

其れは其れは怖ろしい話で…。

 

いや確かに怖ろしい話なのだ。

 

でもって此のTVアニメでは「愛と平和」なるものがまた枢要な作品のテーマともなる。

ところが其の「愛と平和」は例えば左翼のやうに「ヒエラルキーの解體」では實現されぬものともなる。

 

例えば「聖帝サウザー」なるまるでナポレオンかヒトラー並みに強い西洋の拳法家が結果そんな國粋主義のケンシロウに倒される。

「聖帝サウザー」は「愛」を信じないと言うが實は心優しきまた師匠を敬うであらう拳法家なのだった。

 

其のケンシロウは「愛」こそが大事だと言う。

だが其の「愛」はおそらく「👪愛」であり「祖國愛」であり要するに「右の愛」なのだ。

 

逆に「環境への愛」や「地球への愛」を説くのが普通左翼なのであらう。

「聖帝サウザー」はそんな「愛の自己矛盾」のことを知って居るので自己を信じまるで信長公ばりに自力での天下壱統を目指す。

 

或はむしろキリスト教で言う「アガペー」の方を目指したのか?

 

だが「聖帝サウザー」はケンシロウにやっつけられる。

だから此れは「大日本帝國」が未來に於いて復活し地球を征服せんが為の御話なのだらう。

 

 

で、「大日本帝國男児であるならば無論のこと常に雄雄しく敵に體当たりをして👩子供や祖國を守らんが為に散華して行かねばなるまい。

即ち漢は「命を懸け」た上で其れ等の美しき価値を何処までも守って行かねばならぬ。

 

兎に角其処にて語られるのはまさに命を懸けた漢の力にて地球を統壱せんとする其の権力闘争の様其のもののことだ。

が其の闘争の本質的な意義とは「ケモノ性」である。

 

何故なら其の「愛」が「アガペー」に迄昇華されることが決して無いからなのだ。

また「力の論理」による「平和」がほんたうの「平和」に繋がるかどうかに就いてもまた疑問である。

 

例えばかの「大日本帝國」や「ヤクザ」やまた「暴走族」などの方方は普通自らを強くして其の力にて國や組織やまた👩を守るとのことである。

また政治家で言えばかの岸 信介や其の孫のアベなどがまさにそんな考え方であらう。

 

さらに言えば三島 由紀夫氏などが確かにさうなのだらう。

だから三島 由紀夫氏はヘナヘナ左翼の太宰 治などを酷く嫌っても居た。

 

ところが三島 由紀夫氏も元元はヘナヘナ人間でもって虚弱體質ですらあったのだった。

なので彼三島氏はむしろ「ケンシロウ」のやうにならうとしたのだった。

 

さう三島 由紀夫氏が自決したのは「天下」を取らんが為のものであり國を良くせんが為の闘争に負けて死んだ訳なのではまさか無い。

ヘナヘナ左翼はアノ大宰のやうに👩に溺れ且つ其れに頼り仕舞いにはどうにもならんやうになり共に死んで貰うこととなる。

 

其の武士の死と単なる情死はしかしながらおそろしく対照的である。

 

だが「愛」とはそも何であるか?

其の三島 由紀夫氏や「ケンシロウ」の「愛」と例えばジョン・レノンとヨーコ・オノが「愛と平和」を説いた其の「愛」は同じものなのか?

 

わたくしには其の「愛」は違うものなのだとさう感じられてならん。

またわたくしの説く「愛」とはジョン・レノンとヨーコ・オノが「愛と平和」を説いた其の「愛」と似ているのではなからうか。

 

何故ならジョン・レノンとヨーコ・オノが「愛と平和」を説いた其の「愛」とはむしろ精神的な意味での「革命」のことでありよって其れは「祖國愛」でも「力の論理」でも無く要はソコに資本主義による「資本の論理」やまた「神」による「愛の秩序」が認められるものでは無いのである。

 

左様にジョン・レノンとヨーコ・オノは「信仰」を持って居なかった可能性が高くある。

がわたくしの場合は其の「信仰」をも半分は認めるので本質的には其れともまた違う「愛と平和」だと云うこととなる。

 

わたくしにとっての「愛」とは本質的に「ヒエラルキー秩序」の解體のことであるが例えば佛教は明らかに其の「ヒエラルキー秩序」を解體して居りさらにクリスト教もまた原理的に捉える限りはむしろ「ヒエラルキー秩序」の解體をこそ行って居る。

 

但しイエス・クリストの後にむしろ其の「ヒエラルキー秩序」が堅固に築かれて行ったことは皮肉な話となるのだが。

 

 

「愛と平和」

 

でもソレは佛陀の教説とはまるで関係の無い概念ですね?

さうですね。

 

そも愛とは、

 

愛⇔憎しみ

愛⇔戦争ー闘争ー

 

との弐元的對立世界に於ける相剋し且つ相即するだらう関係性のことなのだから。

 

つまりは純粋な愛=愛其のものや純粋な平和=平和其のものと云う概念がそも成立し難い。

故に佛陀の教説の場合は其の「分離としての概念」其のものを放棄して行く訳だ。

 

また其のことをクリスト教の教義としてよりカンタンに述べれば「敵」ー對立概念ーをあえて愛さないと「神なる認識」は實現されぬとのこととなる。

 

でもケンシロウは其のどちらもして居ないことでせう。

じゃあヤッパリケンシロウはあくまで右翼大日本帝國型での要するにアベ型での「救世主」となるのですね?

 

どだい🗾人のケンシロウがまたなんでイエス様のやうに「救世主」になどなれますか?

さうだなあ、確かに其の点はオカシイ。

 

いやマンガとかアニメなんて所詮はそんなもんですよ。

要するに其れは原作者や作画者の「思想」が色濃く反映されるものですので余りソコにベッタリと貼り付くべきではありません。

 

じゃあ「ガンダム」が命でもって「ボクは今行きまーす!」などと考えて居る還暦世代は皆バカだと云うことなのですか?

だって「行きまーす!」と言っても果たしてドコへ行くのですか?

 

まさか「ガンダム」のやうに宇宙戦を展開する訳では無くあくまで此の地球上でイクのでせう。

さうした意味ではアノ「グレタさん」の方が遥かに大人でせう。

 

じゃあ「ケンシロウ」も「アムロ」ももうアホ其のものではないですか!

いや其処迄は流石のわたくしも言っては居ませんのです。

 

まあマンガなんて元元アホですから、アノ「マジンガーZ」にせよ「宇宙戦艦ヤマト」にせよ皆さうだらう。

でもアナタ、よりによりそんなイヤらしい見方でもって其の『北斗の拳1』を通して視たのですか?

 

だって自分は曲りなりにも文人ですもの。

だから其のものの見方がみんなとは違うのはむしろ当たり前のことですよ。

 

あー「ヒエラルキー」をさうして創った。

いやことゲージツに関しては其の「ヒエラルキー」が其れもしかと有る。

 

 

尚わたくしが今感ずる『北斗の拳』での良いところとは、

 

21.漢の頑張りー踏ん張りー

22.生きんが為の本能的充實

23.諄いばかりでの性欲

 

ズバリ此の参点です。

 

では何故👨は頑張らねばならぬのか?

其れは生物学的に男性は女性よりも弱く要するに死に易くも出來て居る。

 

逆に殺しても死なんのが此の世に溢れる👩共です。

 

でもってむしろほぼ全ての👩共の方が生命力が強いこととなる。

だから元元生命力に乏しい👨はむしろなるべく雄雄しく生きた方が良いこととなる。

 

要するに其の生命としての本質的な強弱の部分が男性と女性とではまるで異なる。

ですので其の部分に限り「右の思想」が語る部分には整合性が取れて居るのだと言える。

 

じゃあ「男尊女卑」の方が良い、また「良妻賢母」である方がより良いのですか?

まあ其の通りです。

 

其の意味では所謂左翼的な「男女同権、男女平等」での思想はまさに其の点を鑑みぬバランスの惡い考え方だらう。

ですので所謂「イデオロギー」に固執すればする程にまたそんな間違いのやうな部分が生じて仕舞うことだらう。

 

 

ではアナタもまた頑張るのか?

文明から「逃げたい」ばかりのそんなアナタが…。

 

いえ元來男性型の生命には壱つの「使命」であり「宿命」があり其れは己が命を充實させて生きんが為に常に「頑張る」ことだ。

エエッ?

 

よりによりそんな「ヤル気無し」のアナタがそんなことを言う?

いやどうのかうのでは無く男性型の生命は常に「ヤルしか無い」のです。

 

何故なら「ヤラ無い」と落ちるダケなのですから…。

 

例えば作品中にケンシロウの属す北斗勢と對になる南斗勢の将としての「ジュウザ」なる人物が描かれる。

彼は美男でもって👩たらしの享樂主義者であり基本的に「仕事」には興味が無くいつも草笛を吹きつつ雲を眺める。

 

まさに彼は「詩人」であり「戦闘には向かぬゲージツ者であり且つ隠者」なのだ。

だが同時に彼は「運命」としての南斗の役目を担っても居る。

 

故に拳法の上での鍛錬は欠かさずよってそんな彼は「弱い」👨なのでは無い。

最終的に彼は北斗最強の将である「ラオウ」と戦うこととなり其処にて命を落とす。

 

其のことはまさに「ヤルしかないのが漢だ」とのことを物語る部分でなくて何であらう?

 

そんな「戦うこと」こそが漢の甲斐性なのか。

まさにそんなことを言って居るやうで居て此の21世紀での感覚からすれば其れが「粗暴」ですらある。

 

ところが何の為に戦うのかと言えば其れは「己の命を救うが為に」戦うとの我が発想とはまた異なりあくまで南斗の最後の将である「ユリア」と云う👩の為に戦うのだ。

だからまずはソコが完全に「右派としての防衛の思想」其のものとなる。

 

右派は兎に角👩や子供を守りついでに天皇制や諸諸の組織やらを死守しやうとしたがる。

あくまで理屈の上ではさうなるのだが實は其の考えには基本的に矛盾が潜む。

 

だが右派はまずソレ以上のことは普通考えない。

 

即ちたとえ「特攻」してでも其れ等を守らうとするのである。

だから其れはワタシの考えとは基本的に違うがワタシの場合もまた個としての自分を救わんが為に同様に「ラオウ」と戦うであらうとさう結論せざるを得ぬ。

 

もしやそんなアナタと「ラオウ」が戦う?

さうだ、我にもまた秘儀がある。

 

其れは秘儀「観念捻じ込み」と云う技でとどのつまりは「次から次へと哲學上の難題をふっかける」との精神技のことです。

もしや其れでもってアノ「ラオウ」に勝つ?

 

さう勝つ。

またたとえケンシロウであれ決して負けやせん。

 

そんな訳でマンガやアニメとはそもフィクション性の強いものであり其れに浸り切ることはむしろ御勧め出來ないが事實上ソコにはむしろ「藝術表現」にはやれぬことであらう現實的な意味での「教訓」の如きものが含まれて居るやうに思えてならない。

 

また左翼の人人は此の『北斗の拳』に相当な違和感を抱くことでせう。

何故なら「暴力」や「奴隷制」や「女、子供に對する差別意識」が満載の此の御話には我慢がならなくなることだらうから。

 

でも個人的に我は両方イケるのでさほどソレが気にならない。

 

 

また面白いのが此の物語には例えば「村の長老」として良くジジイが出て來て其のジジイが惡漢である兵隊達に決まって何か文句を言うのです。

すると何せ足腰の弱った耄碌ジジイですのでほとんど壱撃でもって彼等ジジイは殺されて仕舞います。

 

其れも今なら物凄い問題となる話でせう。

また其のこともババアはやらんでも良いのですがジジイには其の村の長としての役割があるので「やらないかん」こととなるのです。

 

故に個人的には其の耄碌ジジイ達が壱番可哀想に思えましたものです。

かうして男性に對しては「やらないかん」ことが多い右の思想ですがまあ確かに「ヒエラルキー秩序」ダケはキッチリ守られて行くのやもしれん。

 

逆に申せば近代人権思想を振り翳す左翼思想にはむしろ其の「ヒエラルキー秩序」を解體して行くであらう役割こそがある。

だが其れはどちらが正しいと云う観点にては見詰められぬものともならう。

 

さて「思想」の全てはさう壱義的に「正義」とはならぬ性質を抱えて居ざるを得ない。

故に常に「両義的」に其れを見詰め且つどちらからでも學べるやうにして置かねばなりません。

ー極論を言えば「両義的」な価値判断がやれぬ故に概念對立へと陥り「平和」であることが壊れやがては「戦争」や「紛争」に至るものと文明に於ける相場はさう決まって居る。ー

宮澤 賢治の宗教観及び藝術観とまた自分の食欲とー其の「銀河を包む透明な意志」とは?ー

宮澤 賢治の宗教観及び藝術観とまた自分の食欲とー其の「銀河を包む透明な意志」とは?ー

 

 

 

 

 

寒い。

さうして「うどん」や「そば」が兎に角美味い。

 

明星 すうどんでっせ | 明星食品 (myojofoods.co.jp)

明星 かけそばでっせ | 明星食品 (myojofoods.co.jp)

 

安い。ースギ薬局では共に98円となるー

さうしてツユの方も兎に角美味い。

 

だがソコに是非「小松菜」を入れてみやう。

「小松菜」弐束を料理挟にて切り刻み其れを具として其の侭にぶちまける。

 

ソコへ熱湯を注ぐ。

五分程待つ間に小便と🐈のエサやりとを済まして置く。

 

そろそろ頃合いか?

おおとても良く出來ておる。

 

だがインスタント物は兎に角壱度湯がくべし。

 

さうすると丁度美味い具合に小松菜が茹で上がりやわらかくなる。

 

では食してみやう。

うまい!!

 

うまいうまいうまいうまいうまい!!!

 

無論のこと「七味唐辛子」もすでにかけてある。

 

兎に角寒いので突如本を読む。

其れも丁度先日の続きで「宮澤 賢治」のところを読んでみた。

 

其の「宮澤 賢治」は矢張りと云うべきかまた相当な「自閉症スペクトラム障害」者であらう。

だが無論のこと農学校の先生なので頗る頭が良い。

 

其の彼「宮澤 賢治」のことはかって参拾代の頃に熱心に研究した。

其れもほぼ學者並みに作品を読み込み兎に角あらゆる論評などもまた読んでみた。

 

其の結果彼が相当な變わり者であったことが明白となった。

だが其の「變」なのは常識的な尺度からすればさうならざるを得ぬとのことでしかない。

 

「宮澤 賢治」は所謂「自閉症スペクトラム障害」者の中でもまた自分のタイプに近いのではないかとさう感じられても居る。

自閉症スペクトラム障害」者には「性的な放逸さ」と「性的な潔癖さ」の部分が同居するのださうですが賢治や我はあくまで後者のタイプである。

 

だが我は「中性的」な人間であるつまりは両性具有的だとさう述べて居るのですが賢治の場合は必ずしもさうではなかったのやもしれぬ。

 

其れと彼賢治にはあり他方で自分には無い経験となるのが所謂「幻視や幻聴」の類のことだ。

兎に角ワタシは別に變なモノは見ないしまた金輪際聞こえても來ぬ。

 

變なモノを見てたった今宇宙人に攫われ人體實験にかけられたなどとさう云うことを思うことはあってもまず其れが無い。

また宝籤はほぼ絶對に当たらぬことなども良く良く分かって居る。

 

ワタシは案外「現實派」なのであり別に「妄想」の中を常に生きて居るタイプのニンゲンには非ず。

だが現實として彼賢治にはさうしたものが常に見えて居たのださうだ。

 

またつまりは其処が彼の「天才」としての証拠の部分だったことだらう。

ワタシはむしろ其の部分が弱いから其の「天才性」の部分もまた弱くしか出せずつまりは其れが半分位しかないのであらう。

 

さて本を読んで居て可成に気になる部分がまたあった。

其れは「宮澤 賢治」が「理想」=「思想」に生きた人であった部分である。

 

さう彼「宮澤 賢治」はむしろ大層「思想的」なニンゲンだった。

特に「宗教的自我」の部分や「社會主義思想」などにも大きく影響を受けた人である。

 

彼はかって「羅須地人協會羅須地人協会 - Wikipedia」なるものを設立し其処にて「農民」としての樂園を築かうとしたがすぐに其の試みは頓挫した。

其れも教師を辞めてからそちらの方向へと進んで行くのである。

 

其れは教師を続けて居ても「此の世の中が根本的には何も變わらぬ」ことにおそらくは嫌気がさしむしろ行動の方へと走ったからのことではなかったか。

此の「社會」こそがむしろ壱番厄介で要するに其の侭にして置けば「搾取」にて腐って行くのであるしさりとて「革命」するにしても此処🗾では其の實はずっと「封建體制」なので「革命」も何も無く「革命」其のものがまるで犯罪のことでもあるかのやうに扱われる始末である。

 

まあ確かにかっての極左テロリズムなどは怖かった。

其れも何時何処で爆弾が炸裂するものか分からぬので其れは怖いでせう。

 

「絶望」

うん、確かにそんな「絶望」的状況にも陥る。

 

もう滝の上からでも飛び降りたい。

おい待て、ココに美味しい素うどんが有るよ。

 

えっ?

今なんと仰りましたか?

 

だから小松菜入りの美味い饂飩が有るよ。

さうかでは其れを食ってから飛び降りやう。

 

ところが饂飩を食った後には食後のデザートなどもまた是非食いたくなるものなのだ。

左様にニンゲンに取り自決を踏み止めさせるものとは畢竟其の「欲望」のことなのだ。

 

其のデザートとは何か?

スギ薬局のチョコバナナロール。

 

うわあまた贅沢な…。

 

まさに其れが半年に壱度位しか買わぬモノだ。

はい、コレが其のチョコバナナロールだ。

 

では早速其れを食ってみやう。

うん、美味かったが最近はもう何でも良くなって來たぞ。

 

例えばローソンのレジの横に置いてある「どら焼き」やファミリーマートのレジの横に置いてある「ヨモギ饅頭」でもう充分ともなりつつもある。

さうか甘味はもう何でも良くなったんだ、其れはまた目出度い話ですな。

 

 

さうして彼「宮沢賢治 - Wikipedia」は「国柱会 - Wikipedia」に入り右翼的な「純正日蓮主義」の活動家となる。

つまりは其れが法華系での原理主義団體であり故に賢治の作品に込められるのがまず其の「法華的世界観」の成就でありまたつまりは其れの「広宣流布」のことであった。

 

尚本の方にはまるでそんなことは書かれて居ない。

左様にまずは彼「宮澤 賢治」がむしろ非常に「宗教的」なニンゲンであったことこそが彼の文學を根本より解く鍵となる。

 

ところが文藝評論家や大學の先生は壱般に其の「宗教」のことには疎くよってわたくしはむしろ其の点からこそ「宮澤 賢治」の文學世界を語って行きたいのである。ー何せかうして宗教には元元強いのでー

さて「宮澤 賢治」の家の方はあくまで「浄土眞宗」の家で彼賢治もまたそちらの方での壱佛教徒であった訳である。

 

宮沢賢治(みやざわけんじ) | 田中智学先生に影響を受けた人々 | 宗教法人 国柱会 (kokuchukai.or.jp)

賢治と仏教|花巻市 (city.hanamaki.iwate.jp)

 

ところが其の「田中 智学」なる人物の宗教思想に心酔し其の日蓮系の原理主義団體の方に入ることとなる。

また實はわたくしもまたさうなのである。

 

わたくしもかっては宗教団體は違えど其の「法華経」をこそ信じて居たのであった。

だが今はどちらかと言えば「法華経」はヤバいとさう考えつつもある。

 

また左翼の部分がぶり返し「法華経」どころか「革命」だ、其れも何革命でも良いから兎に角今此の國に壱番大事なのはむしろ「自立的反抗」だとさう思い込むに及ぶのだった。

さう賢治さんと似たやうなもので「思想」の方が案外過激だ。

 

だが別に日蓮系の原理主義団體を「否定」する訳なのでは無い。

何故ならワタシはたとえ「邪教」でもニンゲンが幸せとなれる可能性は常に有るとさう考える故に。

 

邪教」と言えば其れこそ厳密に言えば釈迦の直接の教え以外はみな「外道」であり同時に「邪教」となる。

但し「禅宗」ダケは御釈迦様の教えを重視するので「邪教」とはなりにくい。

 

でも「邪教」となる可能性がまた無いでも無い。

宗教なんぞそもまあそんなもんだ。

 

ところが、である。

ところが彼賢治は同時に「社會主義的」な世界観の持ち主でもまたあった訳です。

 

ジョン・ラスキン - Wikipedia

ウィリアム・モリス - Wikipedia

 

ソレ即ち此れ等の社會主義者に大きく影響を受けて居たやうだ。

またわたくしなども特に其のモリスの方が大好き♡です。

 

其のモリスの美的センスが此の世界を覆えばニンゲンのケモノ性の部分が放逐され其れこそゲージツ的な価値観が其処に醸成され少なくともより上品で且つ平和な世界が實現する筈だ、などとも此処拾年ばかりはまた時折思う。

 

では其の賢治に於ける「右」と「左」の思想の分裂とは壱體何なのか?との御話とならう。

またわたくしの場合などもかうして「愛」を説きますのに「佛教徒です」とさう申して憚らぬ訳だ。

 

だから何ですか、そも其の概念に於ける分裂は。

でもって其の答えは「宮澤 賢治」もまた「わたくし」も基本的に「分裂気質者」だとのことではないか。

 

さて「宮澤 賢治」の場合病跡学の方では「躁鬱気質」だなどともされて居りますが其の變なモノが見える部分やさうした意味での思想的な意味での整合性の無さと云う観点から鑑みれば彼は明らかに「分裂気質者」でせう。

 

 

でありますので其れは多分頭が良過ぎてさうなるのでせう。

いや心の底より困ったな、またそんなに頭が良く生まれて仕舞い。

 

「天才とキチ外は紙壱重」

ソコに其の紙を是非挟んで置きたいものです。

 

また出來得れば紙を弐重にして挟み込む。

そんなキチ外の方へとまさか心が落ちて行かないやうに。

 

 

ところで今日は気候がまさに其のキチ外の如くに荒れ狂って居る。

つまりは暴風が吹きすさぶそんな壱日である。

 

尚彼「宮澤 賢治」は大天才ですのでたったの37歳で死んで居ります。

自分はどんなに良く見積もっても半天才ですのでもうすぐ65歳にもなる。

 

そんな長生きのゲージツ家はそも居ないことでせう。

だから自分には「ウソゲージツ」をやる位がむしろ見合って居るのです。

 

また宗教の方にせよワタシが説く説はなんかウソっぽい。

ですが其の「食い気」ばかりは本物です。

 

つまりは「思想」よりもまた「宗教」よりもより「具體的」な話なのです。

其れもまた全てがさう。

 

 

彼「宮澤 賢治」には「教師」であることが合って居たものと思われます。

「教師」として生きれば彼はおそらくもっとずっと長生きが出來たことでせう。

 

多分還暦位まではイケたのではなかったか。

ですが🗾の封建的な「農村社會」に絶望した彼はさう法華的な世界観の方をこそ選んだ。

 

なのではあれまさに其のことにより「宮澤 賢治」の文學世界は🌸開いたのです。

ところで晩年病を得て其れと闘った彼はむしろ其れ迄の生き方を悔いて居ましたものです。

 

つまりは「教師」以降でのそんな生き方を悔いて居たのだった。

 

まあワタシも「コレクター」をやったのは果たしてどうだったか?とさう思わないでもありません。

そんな「コレクター」などやらずにもっとマジメに「塾の先生」をやって居れば今頃は有名講師としてTVにも出てガッポリと稼いで居たのではないか。ー其れもアノ林みたいになってー

 

でも其の御陰で石とペンの「コレクション」がかうして曲りなりにも完成致しましたのです。

 

さて参拾代の頃自分は新修版の「宮澤 賢治全集」を手に入れ其れを読み込むと共に主に其の文語詩編の方を独自に研究して居りましたものでした。

 

宮沢賢治 農民芸術概論綱要 (aozora.gr.jp)

 

ですが何故か最近はこちらの方ばかりを繰り返し読むやうになった。

 

 

農民芸術の産者

……われらのなかで芸術家とはどういふことを意味するか……

 

職業芸術家は一度亡びねばならぬ
誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である
創作自ら湧き起り止むなきときは行為は自づと集中される
そのとき恐らく人々はその生活を保証するだらう
創作止めば彼はふたたび土に起つ
ここには多くの解放された天才がある
個性の異る幾億の天才も併び立つべく斯て地面も天となる

 

 

宮沢賢治 農民芸術概論綱要 (aozora.gr.jp)より

 

若き日の賢治は「農民」の生活と「藝術」とを融合させたかったことでせう。

ところが現實の農民は「藝術」どころでは無く米の不作や東北の寒冷な気候との現實的な闘いの場にこそ立って居た。

 

そんな水吞み百姓に「藝術」をやる余裕などはそも無い。

また結局賢治の實家は裕福ですので結果として賢治は教師として得た給料をレコードや浮世絵などのコレクションに充てて居たとされる。ーつまりはそんなコレクターだったらしいー

 

でありますから兎に角彼は「恵まれた立場」に立つ御坊っちゃんでしか無かった。

坊っちゃんだからそんな「コレクター」がまたやれるのであり其のことはむしろ「社會主義思想」とは矛盾することでもまたある。

 

其の「御坊っちゃん」の戯言がまさに其の「農民藝術概要」ですが其れを読むと其処には物凄い「理想論」としての痕跡こそが読み解ける。

其の「灰色の勞働」から農民を開放したいとのそんな利他の精神の航跡が其処にこそありありと見える。

 

例え其の「理想論」が「教師」としての自分の延長線上のものであるにせよさうして彼賢治は其れを語って憚らぬ。

其の「若さゆえの改革のエネルギーの奔流」の如きものをたった今自分は此処に読み込まずには居られない。

 

また「幾億の天才」も併び立てとさう述べて居ります。

まあ今ならさしずめ「自閉症スペクトラム障害者」としての「天才」よ並び立て!とのことでせうか。

 

はい、さう仰る通りに立ちまーす。

 

しっかし此の世の中は變わらないものでせう?

其の大正~昭和初期の時代の苦しみがたった今どんだけ良くなったのか?

 

相變わらず政治は汚ねえのですしつまりはそんな惡代官が壱杯でしかもソイツらの首を切ることが極めて難しいことと來てる。

 

 

農民芸術の綜合

……おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか……

 

まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう
しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きてゐる
ここは銀河の空間の太陽日本 陸中国の野原である
青い松並 萱の花 古いみちのくの断片を保て
『つめくさ灯ともす宵のひろば たがひのラルゴをうたひかはし
雲をもどよもし夜風にわすれて とりいれまぢかに歳よ熟れぬ』
詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画
われらに理解ある観衆があり われらにひとりの恋人がある
巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす
おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう

 

 

宮沢賢治 農民芸術概論綱要 (aozora.gr.jp)より

 

おお友よジミントーを早う潰して其のゲージツをこそたった今やらうではないか!

 

いやまずは其の前にエッセンシャル・ワークに於ける賃上げこそが必要なのだ。

嗚呼まさしく此処は銀河の太陽🗾、陸続きでの野原である。

 

其の美しい國土に潜む惡の組織ジミントー。

 

まずもろともに輝く宇宙の微塵となりて無方の空に散らばるのだ!

でもってまずはみんながさうして此の地球上に散らばるのだ!

 

するとソコに我等に理解ある観衆が有り我等に壱人の戀人が有る。

故に巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の藝術を為す。

 

 

結論

……われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である……

 

われらの前途は輝きながら嶮峻である
嶮峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加へる
詩人は苦痛をも享楽する
永久の未完成これ完成である

理解を了へばわれらは斯る論をも棄つる
畢竟ここには宮沢賢治一九二六年のその考があるのみである

 

 

宮沢賢治 農民芸術概論綱要 (aozora.gr.jp)より

 

確かに我等の前途はキビシい。

我等の前途はすでに眞っ暗暗の暗だ。

 

其れもまたジミントーが築き上げし暗ーい未來の様となる。

だが詩人は「苦痛」をも「享樂」する。

 

なんだソレもしや變態か?

いえおそらくは「両面」をイケるとのことでせう。

 

永久の未完成コレ完成でアル。

うわああー、また凄い御言葉で…。

 

 

……われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である……

 

宮沢賢治 農民芸術概論綱要 (aozora.gr.jp)より

 

…なる程。

嗚呼まさにそんな巨きな力と熱、なのか。

 

確かにさうだ、我我🗾國民はアノジミントーの御陰で不幸のドン底に居ざるを得ぬ。

其のジミントーを粉砕したった今我我をしてゲージツへと導くのは誰あらう、おおまさに其の「銀河を包む透明な意志」でなくて何であらう?

マルキシズム及びアナキズムに於ける「愛」の結晶化に就いて

「資本」による「洗脳」に就いてー「資本主義」を其れに對置されるだらう「マルクス主義」より読み解く 弐ー
マルキシズム及びアナキズムに於ける「愛」の結晶化に就いてー

 

 

そもそも未開社会では、これらの二つの領域が資本主義社会のようにするどく区別されません。モノの生産だけが生産であり、人間の生産は生産を支える活動であるとはみなさないのです。たとえば、未開社会では人間の形成に寄与した活動に貨幣が付与されることもあります。つまり、未開社会では、あるいは非資本主義社会では、人間の生産が重視されることもあるのです。これを、人間が手段ではなく目的そのものになるといった表現をします。

マルクスは、そのキャリアの初期から『資本論』を執筆する後期にいたる中間のあたりで、エンゲルスとともに『ドイツ・イデオロギー』というテキストを書いています(生前は公刊されなかった草稿です)。そこでマルクスは、生産のうちに物質財の生産のみならず、「人間存在自身」の生産、そして社会的諸関係の生産もふくめています。

もう少しあとのテキストですが、『経済学批判要綱』という『資本論』のために書かれた膨大なノートのなかの有名な「資本主義的生産に先行する諸形態」では、古代ギリシアが例にあげられ、たとえ「経済」が問題になっていても、つねにそこでは富が生産の目的ではなく、人間の生産、すなわち、人間の陶冶が目的となっていると強調されています。

 

そして、お金のために人間が道具のようになっている近代より、古代ギリシアのほうが高尚なのではないか、と問います。「そこで、いかに偏狭な民族的、宗教的、政治的規定を受けていようとも、人間がつねに生産の目的として現われている古代の考え方は、生産が人間の目的として現われ、富が生産の目的として現われている近代世界に対比すれば、はるかに高尚なものであるように思われるのである」

むずかしいことをいってそうですが、古代ギリシアでは、生産は富の獲得やその増大、蓄積を目的にするのではなく、あくまで人間の形成を目的とするのであって、富はその手段にすぎなかった、ということがいわれています。

資本主義社会では「人は『こっくりさん』をやっているようなもの」という考え方の正体 (msn.com)より

 

其の「未開社會」では「人間」が「手段」では無く「目的」となる。

ですので喩え「文明社會」から観て其れがあくまで「貧しく」ともあくまで「人間を高めんが為」の経済活動となる訳ですのでニンゲンは「勞働」に疎外されること無くまた同時に激しい経済的な格差を生じさせることなども無くある意味では其の「人間形成」の部分に関しては「平等」となる。

 

さらに「古代希臘」などでも「富」はあくまで「人間形成」の為の手段であるに過ぎなかった訳です。

ところが「資本の論理」に於いて明らかに其の「富の蓄積」をこそ人間活動の「目的」と見做して行く。

 

とのことは「人間」が手段化されに及び「富の蓄積」こそが其のニンゲンの価値を推し測る尺度と化すのです。

同時に其処では「人間」が商品化されるに及び其の商品としての価値の有無、大小によりニンゲン其のものが「ヒエラルキー化」されるに及ぶ。

 

そんな訳で「資本の論理」とはむしろ経済力による堅固な封建體制を築くものと必然的になる。

またつまりは其のことが企業での役職に応じて労働の對価が決められ其のことは「良い仕事」をしたか否かとはほぼ無関係なものとなるのです。

 

いや確かに「良い仕事」をした人の給料は概して良いものですが逆にたとえ「惡い仕事」をして居たにせよ其の「肩書き」がものを言い其の給料が五拾萬にも百萬にもなり得るのです。

 

 

コミュニズム社会のより高度の段階で、すなわち諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神労働と肉体労働との対立もなくなったのち、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求になったのち、個人の全面的な発展にともなって、またその生産諸力も増大し、協同的富のあらゆる泉がいっそう豊かに湧きでるようになったのち──そのときはじめてブルジョア的権利の狭い限界を完全に踏みこえることができ、社会はその旗の上にこう書くことができる。各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!

マルクスは、資本主義社会のもとでは、人は「こっくりさん」をやっているようなものだと考えていました。つまり、わたしたちは、なにをどう製造しているのか、どこでどう売られているのか、どこまで利潤が生まれているのか、どのようにじぶんに分配されているのか、みずからの生産物が社会的にどのような意味をもっているのか、なぜこの商品はこの価格なのか、ほとんどなにも知らないまま、みずからの労働力を商品化し、貨幣というかたちでの報酬に動かされて生きています(余剰の取得が「経済内強制」によっておこなわれているからです)。

資本主義社会では「人は『こっくりさん』をやっているようなもの」という考え方の正体 (msn.com)より

 

さう「資本主義社會」では確かに思い切りに価値が分かれて行きます。

 

例えば、

 

資本家⇔勞働者

精神勞動⇔肉體勞動

高所得者低所得者

 

と言うやうに。

 

イザさうなれば其処での極と極のバランスが極めて取りにくくもなる。

要するに常に其れが「弐項對立」化するので實は「どちらに取っても」良いシステムとはならない。

 

哲學的にはあくまで其の「弐項對立」をバランス化しないと最終的には其れが「破壊的對立」を引き起こします。

また其のことは、

 

代議士⇔主権者たる國民

國王⇔國民

CEO⇔平社員

 

などと實は何に於いてもさうなのです。

其れもまた、

 

大人⇔子供

若者⇔老人

男性⇔女性

 

文明⇔自然

🐈⇔🐕

利口⇔馬鹿

 

などと實は何に於いてもさうなのです。

 

「破壊的對立」はさうして弐元的価値のあらゆる領域に於いて生ずるものとなる。

故に其の場に於いてより上位に立つ「価値ヒエラルキー者」=「力の保有者」はむしろ遜り低位者を助けねばなりません。

 

また、

 

善⇔惡

神⇔佛

ゲージツ家⇔凡人

 

などと云う對立に於いても互いは互いに無関係ではあり得ませんのです。

要するにソコには常に「相剋」し且つ「相即」するであらう「縁起関係」が認められまた逆方向での向きこそがむしろ自分を自分たらしめて居る価値の正體なのでむしろ其れをあえて「愛す」必要が生ずる。

 

敵ー反對者ーを愛す?

其はクリスト教の教えですね?

 

いえ必ずしもさうでは無くまさに其れは「大乗佛教」の教えなのでもまたありませう。

へえさうですかねえ?

 

なら日蓮宗とクリスト教は同じものなので?

広宣流布」と云う意味では全く同じだらう。

 

じゃあ浄土教とクリスト教は同じものなので?

はい、どちらにも「天國」=「極樂浄土」が出て來るでせう?

 

じゃあ何故密教とクリスト教が同じとなるのだ?

だって所謂「梵我壱如」での宗教思想でせう?

 

では禅宗とクリスト教はまるで違うのかい。

まるで違ってほぼ全的に對立致す。

 

禅宗⇔クリスト教

 

此の對立がな、實は厄介なのだ。

厄介ながら個人的にはむしろどちらもやりたい。

 

もしや君はそんな「どちらもやる」教祖なのでは?

いえわたくしはそんな新興教の教祖なのでは無くあくまで壱社會科詩人です。

 

 

さう社會科詩人ならまた何で話が「マルクス主義」から「愛」の御話へと飛ぶのだ?

さて何ででせう。

 

さう「資本の論理」はむしろさうして何でも「商品化」致します。

例えば「自然」の諸価値に留まらず「人間」其れ自體もまた「商品化」され其の抽象的な価値に従い「優劣」が決められることとなる。

 

また無論のこと「國家」の価値やまたたとえ「宗教」的な価値ですら「商品化」されるものと考えられやう。

ところが其の「商品」其れ自體に「価値」が生ずるのでは無く其の「商品」がより劣った「商品」を搾取することで得られる余剰の価値を生み出しまたソレを資本家などの上位ヒエラルキー者が略取することでより儲けより肥え太ることこそがおおまさに其の「資本の論理」の目的と化すのだった。

 

 

では其の「資本の論理」こそが「惡の論理」其のものなのですね?

まあさうでせう。

 

其の「惡」にはそも「愛」が無い。

だから平気で木を伐り倒し其れにて巨額の儲けを生み且つ其れを自らの懐へ入れるのです。

 

ー昨日3月18日に瑞穂郵便局へ行った帰りに瑞穂グラウンド横のモクレンの並木を観に行った。ところがもはや何処にも其のモクレンの並木が無い。つまりはまたナゴヤ市が切っちまった。また其の横にカサのよりデカいスタジアム(以前の1.5倍程の)が建設中であった。おい文明、ソレをやる限りもはや君等は生き残れやせん。ズバリあと五拾年も持たんことだらう。ガッカリしたわたくしは其の近くの「あゆちの水」の林を訪れた。ソコにはモクレンの大木が壱本のみ有り其れがまさに満開となって居り其の「文明による自然破壊」の様とは好対照での景観を呈して居た。ー

 

なんだソレ、まるで「惡代官」のやうな奴等ではないか!

ですから最初から「惡代官」だとさう述べて居るのですよ。

 

だから君はこのところずっと🗾共産党を支持するのですね?

いや別に「支持」などはしては居ない。

 

タダ頑張って下さいとさう応援して居るダケのことです。

 

 

このような社会は、わたしたちが協働することで動いているし、わたしたちがそれにどのようにどの程度貢献しているのかはみえるようになっています。でも、それはまだ価値法則に支配されている、つまり、わたしたちの具体的な活動が抽象化され一般化される仕組みのもとにおかれているのです。要するに、じぶんが対価としてうるものは、じぶんが労働として与えた分量に等しいとされるのです。これはせんじつめると、貨幣によって抽象化された市場的交換の論理に支配されているわけです。

それに対して、この「ブルジョア的権利の狭い限界を完全に踏みこえる」ことができたとき、「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」という、本来の(高次の)コミュニズムの論理によってはじめて社会は支配されるのです。そこでは人はみずからの能力に応じて、ということは、人はみずからの裁量によって、つまり能力のおもむくままに働くのですが、その対価は、その働きとは無関係となる。ここでは等価の原理そのものが作動していません。これがコミュニズム、というより、コミュニズムの社会のなかで可能になる原理なのです。

なにかとんでもないことをいっているようにみえるかもしれません。しかし、たとえば限界だらけだとしても、現代の健康保険の考えにはこのような発想が影響していることはあきらかです。

資本主義社会では「人は『こっくりさん』をやっているようなもの」という考え方の正体 (msn.com)より

 

 

4.「資本の論理」なる経済的奴隷制

5.さう抽象化されるであらう生活及び価値観

6.其の結果としての不幸

 

マルクスが説くところでの「共産制社會」こそが理想の體制なのか其れとも「無政府主義社會」の方がより望ましい未來社會としての秩序として機能するものであるのか、其のことは我我庶民にはまず分かりませんことです。

但し相變わらずカネへの壱方的な奴隷體制を強いる「資本主義社會」に問題があることは多少知能レヴェルが有れば誰しも分かることでせう。

 

でもって現實的に現代社會をまさに「破壊者」として駆動して來たのは紛れも無く其の「資本主義経済體制」です。

ところがむしろ其のこと故に我我ニンゲンは豊かとなれつまりは「良い」生活が営めるやうになった。

 

ですが其の「良い」はさう絶對的に「良い」のでは無くかってよりは少し「樂に」なったかと云うやうなものでもまたありませう。

また實は大量消費によりモノが溢れる状態が本質的に「良い」状態かと言えばむしろさうでは無く逆に「惡い」状態なのだとも言える。

 

つまり資本主義社會が齎した便益の部分と其れが仕出かした環境破壊やカネへの奴隷制だのまた勞働の差別や経済的な格差などの負の要素を天秤にかければむしろ「惡」の方へと傾いて仕舞うのです。

ですのでむしろソコでは何をやっても「良い」のでは無く「惡い」状態となって行かざるを得ぬ。

 

何故さうなるのかと言えば壱部のニンゲンが肥え太るとの経済的な意味での封建體制がまさしく其処に成立するからなのだ。

ですので其の「資本主義経済體制」なるものはむしろ前近代的な「身分ヒエラルキー」の論理を始めから内包することだらうまさに「奴隷制」の如きものなのではないか。

 

故にそんなもんがそも「理性的」なものである筈が無くつまりはケモノ的な強欲の論理が其の根底に巣食うであらうむしろ「原始的な體制」であるとさう考えざるを得ない。

 

ところが本來経済はカネ其のものの膨張ー蓄財ーが目的なのでは無く其れがあくまで人間形成の為の手段として捉えられて居た訳です。

其れが何時からかカネ其れ自體が究極の目的であるかのやうに考えられるに至る。

 

また経済學は其の究極の目的であるカネを社會でもって如何に回し且つ太らせドコに蓄財するかとの御話でせうが全くのところ其れは馬鹿げて居ます。

自分などは大學生の頃其の経済学が壱番嫌いな学科で元より法学部でしたので其れをやらんでも単位が足りた訳でしたのです。

ー経済学にはまた数式なども出て來る。尚自分は其の数式が大嫌いである。ー

 

 

そこでは、労働するだけの能力のある者が働いて、病気で働けない者は必要なものを受け取るといった考えがあることがわかるでしょう。あるいは、労働組合がどのように機能しているかを考えてみてもよいでしょう。ある職場で、その職務に適合する尺度によって「有能」な人とそうでない「無能」な人の区別はかならず生まれます。そのような「能力」の差異、すなわち労働者間の「生産への寄与」によってヒエラルキーが設定されることを阻止することに労働組合の重大な機能があります。アナキストクロポトキンの言葉を用いれば、いわば「相互扶助」的次元です。

それでも、ここに問題があるとしたらなんでしょうか。

まず、このマルクスコミュニズムが「未来像」であることです。生産諸関係の桎梏から解放された生産力の増大が稀少性の論理を克服してはじめて拓かれる、ゆたかな社会を前提としていること、そして、その条件のもとではじめて「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」という論理が作動するといった展望であることです。

資本主義社会では「人は『こっくりさん』をやっているようなもの」という考え方の正体 (msn.com)より

 

此処での「ヒエラルキー形成」の阻止の部分はまた大事です。

ニンゲンにはまず能力差があるが其の優劣により大きく賃金に格差が生ずるのであれば其れは無能力者に「死ね」と言って居るやうなものだ。

 

其の能力差をむしろ相對化しヒエラルキー序列のやうなものにはしないと云うことこそが「勞働」に於ける平等性の担保のことです。

またアナキズムによる「相互扶助」にせよ何でも良いから「資本の論理」に對する「歯止め」の部分を是非儲けて置くべきだ。

 

其の「資本の論理」によるヒエラルキー形成を許して仕舞えば結果まさに現在の🗾社會の如くに派遣社員ダラケとされて仕舞い國の未來も何ももはやありません。

 

つまりは其の派遣社員の取り分を資本家並びに経団連などの強欲組織が奪って行った訳でありむしろ其の故に🗾國の将來は破壊され子は産まれずまた壱般に👩は余計に生意気となり最終的には政治もなにも無くひょっとしたら「市民革命」などがドオーンと其処に起こるのやもしれません。ーさらに言えば「公的搾取」の部分などが其処に生ずるに及ぶ。即ち國會議員による「脱税」や「責任逃れ」などが横行するに及ぶ。ー

 

また資本家や投資家などの強欲は常に「たった今」の利益にしがみつくものであり其れは🗾社會の将來だのまた地球の未來だのと云う先の見通しを立ててから考えられるものでは金輪際無いのであります。

故に資本家や投資家などの強欲こそがまた経団連を始めとするカネに群がる組織こそがおおまさに🗾社會の将來や地球の未來を奪って居るのです。

 

であるからこそ其れはもはや👿の仕業であり「宇宙で最も罪深き」行為其のものとなる。

 

尚時を経れば経る程に富裕層がより力を得て行く経済システムこそが「資本主義経済體制」です。

尤も其の場合に余剰としての利益はまさに其の富裕層の蓄財分として膨らんで行く。

 

 

ところが其の蓄財分の部分にこそ「環境破壊」により得た利益なりさらに庶民の生活をあえて破滅に追い込む形での儲けなりがしかと含まれて居ります。

つまりはさうして「自然の営為」や「庶民の生活」を破壊しさらにあえて其処から搾り取ることでこそ其の金満世界が築かれて行くのだ。

 

また時を経れば経る程に貧乏人がより力を失って行く経済システムこそがまさに其の「資本主義経済體制」です。

すると最終的には其の金満野郎共の為にビンボー人はやがて「餓死」へと追い込まれやう。

 

 

生活に不可欠な仕事ほど「給料が低く」「劣悪な労働環境」に置かれてしまう「構造的理由」 (msn.com)

 

「資本主義社會」に於いては勞働に對する「ヒエラルキー形成」がかうして顕著となる。

故に本質的に「資本主義経済體制」は近代的原理の範疇にはむしろ無くズバリ申せば封建的な秩序體制の枠内のことであるに過ぎぬ。

 

また勞働其れ自體に「身分制」が生じるが故に水吞み百姓である其のエッセンシャル・ワーカーは主に「水吞み百姓」としての給金しか貰えぬこととなりつまりは月給がたったの拾五萬だ。

 

バカヤロウ!そんな拾五萬でもってどう毎月暮らすのだ!!

其れも此れも兎に角ソコには酷い社會的搾取の様が嗚呼間違い無く有らう。

 

但し。

但し個人的に看護師及び医師はむしろカネを貰い過ぎて居るのだとさう思う。

 

だから本質的に彼等は潤って居り特に看護師の其れも古株ともなればデカい💎をジャラジャラと持って居たりもしまたそんなババアをよりにより病院長が妾にして居たりもまたする訳でありそんなもんはまー腐っとる、其れも腐り切った世界なのだとさう言われたにせよもはや彼等は反論が出來ぬ。

 

いずれにせよ「資本主義経済體制」では、

 

7.基本的に其れが「格差」を前提とする経済體制であること

8.且つ「搾取」を前提とする経済體制であること

9.カネの無い奴は死んだも同じであること

 

とのこととなる。

 

要するに立場の弱い者からぶんどる経済システムのことですので所謂「近代的原理」に刺し貫かれるものでは無くむしろ封建秩序的な「身分制體制」のことなのだ。

故に其の封建秩序的な身分制體制である「資本主義経済體制」を「近代的」に続ければ続ける程に様様なものが破壊されるに及ぶことだらう。

 

また其のことが「人権の蹂躙」即ち「生存権の剥奪」に迄をも及ぶ可能性すらもがまた高く有らう。

逆に申せば「國民皆保険」などと云う平等主義的な社會主義政策を採る我が國などは稀有な存在でありところが其のバランスの取れたー資本主義⇔社會主義に於けるーやり方での社會をあえてジミントーの新自由主義者共がブチ壊しにかかって行った訳なのでした。

 

10.すわ「革命」か?

 

イザ「革命」が起きると今迄イイ思いをして來た奴等に限りヤバいことはまず申すまでも無い。

イザ「革命」が起きると其れこそ國王や其の王妃の首は飛ぶわ、さらに王族は皆処刑されるわ、また金持ちはビンボー人に押し入られ蔵は荒らされるわ御殿は放火されるわまた美人妻は連れ去られるわ。

 

 

では学校や塾の先生はどうなるので?

学校や塾の先生は元元左の人が多いのでは?

 

だから学校や塾でもってむしろ大っぴらに「革命」のやり方を指導することが可能となりませう。

もしやアンタもまた其れをやるの?

 

いえ個人的にはすでにかう「社會的」に引退しておる。

さらにそんな「革命」などよりもむしろ「愛」の世界にこそ生きて居たい。

 

但し其の「愛」とは「恋愛」なのでも無く且つ「👪愛」のことなのでも無い。

其の「愛」とは本質的に己の価値観とは「反對」の価値を有するものにむしろ擦り寄ることなのだ。

 

自分の価値観を否定する部分に對しむしろ理解を示すことなのだ。

 

ではイヤなこともまた認めるつまりは環境破壊もまた認めるのですか?

だからソレはダメ、またジミントーの惡どい政治ももう御仕舞い。

 

其れは何故かと言うと其れが「惡」其のものなのだから故に。

ではいっそのことイスラーム原理主義者となり米國流の強欲金融資本主義とこそ闘うのか?

 

いえ其れはやりません、そも其れがやれないので…。

 

ところでビートルズの曲に「愛こそは全て」と云う曲が有るがまさにソレをこそやるのですね?

またジョン・レノンには「ラヴ」と云う曲が有るがソレをこそやるのですね?

 

いえ其れ等とはまた無関係でせう。

でもまあドチラも良い曲です。

 

さらにビートルズには「リアル・ラヴ」と云う曲などがまたありますがもしや其れとも無関係なのですか?

さうほぼ無関係です。

 

 

其の「愛」とはズバリかの「イエス・クリスト」による教えの内容のことなのでは?

いいえ「佛陀」による教えの方ではないでせうか。

 

でもそんなことを佛陀はまるで言って居られない。

佛陀は「愛」とは所詮執着の元でありそんなものは「渇愛」のことだから全部捨て去れとさう申されて居た筈ですが。

 

さうか、ではわたくしは結果として佛弟子では無くクリスチャンだったのだ。

あれ良いんですか、そんなことまで言って。

 

でもそんなことを言ったらもう御寺巡りは出來なくなるのだぞ。

いや別に「観念」と「御寺巡り」とは別物です。

 

また「観念」と「教會巡り」などもまた別物です。

 

「愛こそは全て」

でも資本主義批判に於ける結論がまさか此処へと到達しやうとは!

 

故に資本家は勞働者を「愛」さねばならず且つ勞働者もまた資本家を受け容れねばならぬ。

さらにクリスト教はイスラーム教をイスラーム教はクリスト教を是非認めなければならん。

 

また佛教徒は是非教會へも行くべきだらう。

さらに言えば露西亜ウクライナを是非愛さう。

 

あくまで愛した上で是非「属國」にしやう。

 

では🗾が中國の「属國」にされても「愛」だとか言いつつ其の暴挙を認めるのか!

むしろ其の中國は偉大な國ですよ。

 

其の中國は「共産党壱党支配」の國だからこそ偉大なのだと?

いえ単に「中華料理」が其れも頗る美味いダケの御話です。

 

うーん、さう言えばそんな「共産党壱党支配」の「中華料理」が最近まるで食えて居ません。

だから「愛」では無くむしろ「食い気」の方でもってソレに擦り寄りたくさう存ずる。

 

例えばたった今何を食いたいですか?

炒飯とか。

 

また🥟などを。

さらに黑酢の酢豚などを。

 

 

さうかさう言えばさう云うのはむしろ「イデオロギー」とはまるで無関係なものですね。

確かにさうなんです。

 

だから「イデオロギー」とはまるで無関係な「現象」こそが眞の意味での「具體性」であり「實存的価値」となる。

では「食い気」は其の「愛」をも超越して行くので?

 

いえ「食い気」ソレ自體は単なる動物的で且つ具體的な欲望のことだらう。

じゃあヤッパリ「愛」の方が上なのか?

 

いやだから其の上下、左右、貴賤、貧富などの価値設定ソレ自體を否定的に見詰めるのが「マルクス主義」であり「アナキズム」の上での政治原理なのだ。

うーん、何だか分かったやうなまるで分からぬやうな…。

 

でもとりあえずは「資本」による「破壊」を阻止しないと此の「文明」の未來は無いことだらう。

また其れは「中華料理の美味さ」とはまるで関係の無いことだらう「惡の履行」に於ける命題です。

 

つまり「文明」は今以上に「環境破壊」を推し進めてはならない。

故に「イデオロギー」には関わり無く「環境破壊」と云う「惡」をやり続けるべきではない。

 

なる程、其れが「愛」のことなのか。

さうまさに其れこそが「愛」なのだ。

 

だから佛教にせよイスラーム教にせよまたジャイナ教にせよヒンドゥー教にせよまさにそんな「愛」としての結晶化のことでせう。

さうだったのか、だからこそ宗教の別やイデオロギーには左右されずに「愛こそは全て」なんだ。

 

さう「愛の結晶」化、もはや其れ以外には人類が辿る得る途は無いことじゃらう。

「資本」による「洗脳」に就いてー「資本主義」を其れに對置されるだらう「マルクス主義」より読み解くー

「資本」による「洗脳」に就いてー「資本主義」を其れに對置されるだらう「マルクス主義」より読み解く 壱ー

 

 

 

 

 

百田尚樹氏ら「安倍応援団」が自民党批判に転じた理由は? 「日本保守党」国政選の初陣へ 衆院東京15区補選 (msn.com)

 

個人的に其の「日本保守党」には是非頑張って頂きたいとさう考えて居ます。

ではワタシは「右派」かと云えば其れは必ずしもさうでは無い。

 

但しアメリカの言いなりとなることや中國の属國化することが良いことだとは決して思わない。

要するに國家としての自立性をまずは保つことこそが此処🗾國の重要な目標となる。

 

國家としての自立性を持つのであればたとえ此処🗾が社會主義化するにせよ其れは其れで良いことです。

其の逆に右傾化するにせよまた其れは其れで良いことです。

 

が、わたくしが言いたいこととは其のイデオロギーをむしろ捨て去り「閉じ籠り國家」とした方がむしろ🗾のみんなは幸福となれる、とのことなのです。

つまりは「幕藩鎖國體制」の復活がむしろ最良の選択となるのではなからうか。

 

でもってさうしてイザ「閉じ籠る」のであれば「限定」された枠の中で思うやうに生きられるやうになる。

逆にアメリカの言いなりでは🗾の體制とのギャップがドンドン大きくなり様様なものが壊れませう。

 

また中国の属國となったにせよ🗾の體制とのギャップがドンドン大きくなり様様なものが壊れませう。

だがどちらかと言えば後者の方がまだマシなのかもしれません。

 

🗾の體制はそもさうして「特殊」なもので要するに「閉じ籠り」とは極めて相性の良いものとなる。

またイザ閉じ籠っても頭は良い=利口なのが🗾の民人なのですからまさかバカにはならないのです。

 

「徳川幕藩鎖國體制」の復活

 

兎に角其れが良いことだらう。

また首都は「浜松」か「岡崎」に置きませう。

 

つまりは其の「家康公」の御力にて再び🗾を統壱に導きますのです。

其の為にはまず「河村名古屋市長」を総理大臣に据えねばならなくなる。

 

でもって大村愛知県知事を追い出し百田氏に愛知県知事をして貰います。

だがもしも「河村名古屋市長」が総理大臣にでもなれば🗾國は相当に価値観が狂います。

 

まずはソコこそが狙い目でせう。

でもって「河村名古屋市長」は衆議院及び参議院による國政其れ自體をそも廃止するに及ぶことでせう。

 

また官僚なども居なくなるのやもしれません。

するとみんなが困るのであとはもう「新たな幕府」を開くしか手がなくなるのです。

 

ですがより「本質的」な意味での文明の問題点とは實は「政治」や「行政」の部分には無く「経済システム」の問題へと帰着致します。

つまりは其れが「資本主義社會」の履行の部分にこそ大きく問題が生じて居るのである。



「結婚を避け、子供をもたない」ほうが人生のコスパが良い…現代の日本人に起きている"憂慮すべき変化" (msn.com)

 

實は「資本主義」=「資本の論理」との現代社會に於ける本質部のことをよくよく考えてみませんと現代社會が齎す「闇」=「矛盾」及び「破壊」の理由を其の根本より明らかにすることは出來ません。

 

でもって壱つには「資本主義」のヤバさと云うことがまずは大問題となるのです。

其処にて「資本主義」=「合理主義」=数的還元値への「崇拝」其のものであることをまずは知って置く必要がある。

 

さう「資本主義」とはまずは何よりも「信仰」なのだ。

でもってソレが「邪教」である確率が現在ほぼ80パーセント程にも高まって來て居る。

 

とは言え我我無學な庶民は其の主義主張とは関係無くタダタダ毎日腹が減るばかりです。

腹が減れば無論のこと何かを食わねばならずそう云うのはほぼ全てが動植物の死體ですが其れにも関わらず其れをあえて食いませんと樂しくは生活などしていけません。

 

またわたくしなどは公園で配布される無料の🍱を食うことを夢みつつかうして部屋に閉じ籠りつつコカ・コーラーをストーヴにて温め其れを好んで飲んだりまた最近嵌まった埼玉の川島屋の創価でないさう草加🍘、兎に角コレなどをバリバリ、ボリボリとあれ今日はもう六枚程は食ったか、だが其れは幾らなんでも食い過ぎとちゃうか、でもまあ其れを飯の代わりに食ったのでとりあえずはエエか。

 

などと云う乱れた食生活をするタダの壱ジジイながらでも現代社會の事ダケは気になると申しますか正直「ヤバい」とさう思いますのです。

 

「かう腹が減るからさう資本に洗脳される」

 

まさに至言であります。

ところが問題は其の草加🍘ダケではすぐに物足りなくなりやがては肉汁の滴るあさくまのハンバーグ🍱やさらにステーキガストの🥩🍱に迄手を出し挙句の果てにより高級な江戸前の寿司や鰻🍜などをどうしても食いたくなって仕舞う。

 

要するに「欲望」に歯止めが効かなくなる。

また其のことと同じ論理にて百万を持ってる人は壱千萬を欲しがりさらに壱千萬を持つ人は壱億円を欲しがり壱億円を持つ人は拾億円、さらに百億円と要するに其の持つ金の額をほぼ無制限に上げて行くのです。

 

ところが其れは根本的に歯止めの効かぬ「欲望」ですので何処まで数字ー抽象的価値ヒエラルキーーを上げても満足されると云うことが基本的に無い。

と云うことは其の「資本の論理」其のものに予め「ケモノ性」の如きものが組み込まれて居ることとなる。

 

要するに其れは決して「理性的」な判断の場とはならずむしろ「弱肉強食」での熾烈な利潤競争へと企業を駆り立てて行くこととならざるを得ぬ。

またさうして「個」及び「社會」の次元にてまさに其の利潤競争だの「強欲」だの「😣出来ぬ感じ」が刷り込まれて行くこととなる。

 

つまりはさうした惡どい商法乃至は見境無く追及して止まぬ抽象的な数的還元値其れ自體がむしろ我我ニンゲンの本來あるべき認識を崩し去りまさに「洗脳」へと導いて行くことだらう。

 

でもって上の記事にて語られる「コスパ」の問題等も全ては「合理性による打算」が齎す弊害のことなのでありませう。

尚「資本による人間の家畜化」とはまさに其の通りのことで但し自分の場合は「資本の奴隷化」との言葉の方がよりイヤらしくて良いかとさう思います。

 

つまりはニンゲンが「資本の論理」によりすでに奴隷化され故にか主に「デカいこと」ばかりに興味が向けられる訳だ。

すると大衆はよりデカいカネを稼ぐスタアである大谷君や藤井君を羨ましく思いつまりはつましい飯を食いつつ大谷君や藤井君にやれることであらう「酒池肉林」の様を夢見つつもある始末です。

 

だがワタシに言わせればよりデカいカネを稼ぐスタア程「地獄へと堕ちる」ものです。

其の逆に「貧しき者」は幸いなり。

 

汝貧しき者は逆に天の扉を開かん。

 

 

「腹が減っては戦は出來ぬ」

でもセンセー、腹が減ってはもう壱歩も動けません!

 

…確かにさうだ。

實際かう腹が減っては「御勉強」も何も無い。

 

「御勉強」以前にまずは「腹ごしらえ」こそが大事なことだ。

「腹ごしらえ」をするにはまず現金が必要だ。

 

現金が無いともうどんな🍱も買えぬ。

現金が無いともうどんな石も万年筆も買えぬ。

 

じゃあ拾って來れば?

おお良いことを聞いた。

 

實際に我は良くモノを拾って來る。

例えば道端の硝子片ー其れも銀化せし硝子片ーだとか捨てられたラジカセだとかまた🏔の石だとかを。

 

さうか、では其の「拾い」の人生に於いてすでに「資本の論理」は超越され無意味なものと成り果てておる。

つまりは其処に「売買」が為されず本質的に其れはさう「盗んで來しモノ」となる。

 

いやでもソレをイチイチ犯罪だとさう喚く法律家などもおそらくは居ないことだらう。

即ち其れは消費財なのですら無いのだから。

 

 

さうか、じゃあお空でもって雲や虹と戯れたりまた海の中でお魚や貝と戯れたりさらに🏔の中で野宿したりすることにはまさに其のカネが壱切かからんではないか。

うーむ確かにさうだ、だから「仙人」と化しあえて進んで其れをやれば基本的には「0円生活」をすることとなり其の惡としての「資本の論理」に「洗脳」されずとも済むことだらう。

 

アンタでも其れでは至極腹が減りますよ。

…ヤッパリさうだらうね。

 

と云うことはむしろ世間の人人は進んで「自己家畜化」または「自己奴隷化」して行くとのこととならう。

 

 

そして進化生物学は、私たち人間自身に起こった自己家畜化も論じています。考古学、生物学、心理学などから多角的に検討すると、この自己家畜化が私たちの先祖にも起こってきたというのです。自己家畜化にともなう生物学的な変化によってセロトニンが増大し不安や攻撃性が抑えられ、より人懐こく、協力しあえる性質が人間にもたらされました。

進化生物学の研究者たちも述べるように、自己家畜化は今日の文化や社会環境を築くうえで非常に重要だったはずで、この変化がなければ都市に集まって暮らす今日のライフスタイルは成立不可能だったでしょう。

「結婚を避け、子供をもたない」ほうが人生のコスパが良い…現代の日本人に起きている"憂慮すべき変化" (msn.com)より

 

其の「自己家畜化」または「自己奴隷化」と云うのは言わば「経済體制」に於ける「合理化」での命題です。

今日世界では「資本の論理」が蔓延しむしろ其のことにより金のある國に限りたらふく食うことが可能となった。

 

逆に申せば今日でもなお金の無い國ではたらふく食うことは出來ぬこととなる。

 

ところがたらふくは食えずとも第壱次産業が成り立って居れば民人の多くが飢え死にしなくても良いこととなる。

ですので其の「資本の論理」を國是として全面的にはあえて取り入れぬ國家としてのあり方などもまた有り得る。ーたとえば「ブータン #経済- Wikipedia」のやうにー

 

またむしろさうした國の方が「資本の論理」による「破壊」を免れて居るのだともまた言えやう。

 

 

ところが最近、その生物学的な自己家畜化の進展よりずっと早い速度で文化や社会環境が変わっています。生物学的な自己家畜化の歩みと文化の歩みの速度にギャップが生まれ、リードする文化の側が「人間よ、文化の進歩にあわせてもっと自己家畜化しなさい」「資本主義などの思想にみあった家畜人になりなさい」と人間を引っ張っています。

その結果、文化や社会環境が人間の動物性をますます漂白していく現況を精神科医としての私は憂慮しています。

自己家畜化が進んだとはいえ、人間は、ホモ・エコノミクスである以前に動物としてのホモ・サピエンスでもあります。遺伝子を継承し、子々孫々の繁栄を求める動物の観点からみれば、最もコスパが良いとは、最も効率的に子孫や血縁者を残せることを指すはずです。

「結婚を避け、子供をもたない」ほうが人生のコスパが良い…現代の日本人に起きている"憂慮すべき変化" (msn.com)より

 

さう「文化」もまたニンゲンを追い詰めて行く可能性が高くある。

「文化」は普通良いものであり「文化人」などは皆偉く勲章すらもが出たりもまた致しますが逆にソコにはほんたうの意味でのゲージツ家は少ないことでせう。

 

要するに極めてバランスの惡い文化であり文明を近現代と云う時代が築いて参りました。

其れの何処が惡いかと言えば、

 

合理化⇔非合理領域=新たな脳⇔古い脳

 

に於ける其の認識上でのバランスこそが取れて居ないのです。

でもってあえてソコへ経済體制を捻じ込んでみますと、

 

資本主義⇔社會主義

 

となるがまた其の部分でのバランスが惡いが故に現代社會は失敗致しました。

より正しくは其れが拮抗する位のバランスでないと地球を救うことは元より無理でしたのです。

 

また其のことは資本の強欲のみならず共産党壱党支配による独裁的な権力構造がブチ壊したバランスなのでもまたありましたのです。

 

 

進化生物学者リチャード・ドーキンスは『利己的な遺伝子』(紀伊國屋書店)のなかで、「人間も含めた生物は、遺伝子からみれば(遺伝子を運ぶ)乗り物である」と比喩しましたが、今日の人間はまるで自己増殖する資本の乗り物のようです。

社会の隅々にまで資本主義の思想が浸透し、それを内面化した私たちにとって、資本主義の思想(ミーム)は生物学的な遺伝子(ミーム)よりも強い行動原理になっていて、子孫を残すのにふさわしい暮らしは、資本主義にふさわしい暮らしに上書きされています。

「結婚を避け、子供をもたない」ほうが人生のコスパが良い…現代の日本人に起きている"憂慮すべき変化" (msn.com)より

 

「資本の乗り物」=「資本の奴隷」

 

個人的に廿代の頃は其の「資本の奴隷」であることが何よりも生理的にイヤでした。

だから普通の企業には入らずあえて家庭教師→塾講師となって行ったのでした。

 

ですが「資本の論理」が本質的にオカシイ、まさに其れが「惡」だとさう気付きましたのがむしろ五拾歳位の頃でした。

三拾代~四拾代の頃はモノコレクターをやりますことに夢中ーまた其れが為に金を稼ぐことに夢中ーで且つ🗾共産党を強く批判してさえ居たのです。

 

故にまさに其の様や「資本の奴隷」状態にあった訳です。

ですが其のボーナスの分を得ませんとまさか高い🖋は買えやしない。

 

資本主義はかうして「逃れられぬ」論理にて我我庶民を縛り続け其の癖まさに理不尽な迄の搾取をこそ押し通すのです。

例えば其の五拾歳の頃に自分は研究所でもってとある現場の副責任者をして居りましたがソコへ製鉄會社ー大企業ーから出向社員が來て立場は自分の方が上ですのに同じ仕事をやるにも関わらず彼等のボーナスの額が倍、又は参倍もの額であることには心底打ちのめされた。

 

資本主義によるヒエラルキーとはまあそんなもんです。

むしろ其れがさうして「格差」により駆動される経済システムであることを知って置く方が良いことだらう。

 

また「文化人」などはまた其れ以上に「ヒエラルキー地獄」の住人ともならう。

つまりは無名のゲージツ家などはまさに食えませんのですし最終的にはゲージツを放棄せざるを得なくもならう。

 

 

こうなってしまった以上、最終的には、配偶や子育ては個人のものから社会のものになるしかないのではないでしょうか。

そもそも、世代再生産を個人のインセンティブに頼っているから少子化が進むのです。資本主義が浸透し、誰もが家族や子育てにまつわるリスクを合理的に考えるようになれば、ホモ・エコノミクスとしての私たちが子育てを躊躇し、配偶すらリスクとして回避するのは当然でしょう。なぜならそれらは投資事業としてはあまりに長期的でベネフィットが不確かだからです。

「結婚を避け、子供をもたない」ほうが人生のコスパが良い…現代の日本人に起きている"憂慮すべき変化" (msn.com)より

 

さうかうなって仕舞った以上は妻も子も要らんのです。

だから其れは資本による搾取が酷過ぎるからこそさうなったのです。

 

だから例えば廿萬の給料が倍にもなれば妻も子もドンドコ増える。

でもソレをアホの資本家共がやらんから世の中が滅びる。

 

尤も今凄い賃上げブームなのださうです。

但し輸出関連の大企業に限れば。

 

そりゃさうだ、國が彼等をしこたま儲けさせて來たのだから故に。

ですが🗾の中小企業は此の侭ではあと五年も持ちません。

 

さう中小企業はみな潰れるとして果たして大企業ダケが生き残れるのだらうか?

故に其のものズバリ資本主義社會の問題点とは、

 

1.搾取が酷

2.みんなが奴隷化

3.金持ちがバカ

 

との御話となります。

もうこんな腐った強欲體制は壱刻も早う止めるべきだらう!

 

でもまた他方では「資本主義地獄」の御陰にてかうしてモノ其のものが樂しめることともなる。

さうモノ其のものへの「愛」をこそ育むのが其の「惡」としての「資本主義體制」其のものなのか。