画像詩1 西八幡社の楠の「巨樹」と名市大の「薬草園」とーそんな「植物の季節」の到來に就いてー
個を具象化する「場の論理」こそが幸せを齎すことーかって「薬草園」にて感ぜられたニンゲンが生きる上での「幸せ」とは?ー
【渾身インタビュー】森永卓郎の ″魂の叫び″「まだ死ねません!日本株はすぐに暴落します!!」 (msn.com)
基本的に其の経済だの何だのの話はまさに「物」を観て居ないし「抽象的理念」のやうなものにしがみ付くであらうほぼ「倒錯」でのものの見方でせう。
要するに「資本主義」其れ自體がむしろ「倒錯的理念」其のものなのだ。
ですが「資本主義」以前での「物」とニンゲンの関係がダメだったのだとはまさか言えないことだらう。
「物」とニンゲンの関係をブチ壊しにかかったのがむしろ「資本主義」に代表される近代以降の唯物的抽象主義です。
其の唯物的抽象主義には具體性がそも無いのでニンゲンの価値やニンゲンの幸福が壱律に抽象化されて仕舞う。
ですが本來ならばニンゲンの価値やニンゲンの幸福はまさに具象的且つ具體的に其の「場」でこそ語られて行くものだらう。
其の「場」での實存的価値は「資本の論理」が其の価値を奪い取れるやうなものにはそも非ずして。
いずれにせよ此の文明に於ける「社會的要求」こそがほぼ間違って居ます。
また其のことはあくまで我我の「生活」が間違いなのでは無くそんな「社會の理念」の方こそが間違いなのだらう。
其れもま、株だらうが何だらうがそんなものは所詮長続きせぬものでせうから文明が崩壊し🗾が沈没する前に手放し止めることの方がおそらくは得策でせう。
よって、
唯物的抽象主義→精神的具象主義
へとシフトすることこそがより望ましい。
但し其の森永氏とは年齢的にも近いので「御病気に對し是非頑張られて下さい」とさう申す他はありません。
だが寿命を縮めるやうなややこしい社會をやって居るべきではないことでせう。ーおそらく平均寿命は今後大幅に縮まることであらうー
さて家の庭でもまた曹洞宗寶蔵寺の庭でもこんな「利休梅」が咲いて居りますが結局其れが🌸では壱番美しい。
わたくしは所謂大衆的な「桜」の🌸よりもむしろ「木蓮」や「利休梅」などの白い🌸を好む。
だが折角なので拾五年程前の山崎川の桜の画像を此処に貼り付けて置きませう。
また我は百合の🌸が好きである。
さらに白蓮華の🌸なども好きだ。
ーコレがまさに「名古屋市が伐った」かっての木蓮並木の壱本だ!ー
其れと靑い🌸などがまた好きでつまりは靑い薔薇やヒマラヤの靑芥子などが好みである。
ヒマラヤの青いケシってどんな花?家で育てられる?特徴もご紹介 | BOTANICA (botanica-media.jp)
大池高原 ヒマラヤの青いケシ・長野県内の青いケシが見られる場所 – とっておき信州 (shinshu.net)
幻の花“ヒマラヤの青いケシ Blue Poppy ” 2013.6 長野県大鹿村 (youtube.com)
何せ我が家は華道をする家なので元元「🌸」とは縁が深く其れこそ花はイヤと云う程に観て來た。
だが花は野に咲くやうなものが結局最も美しい。
画像作品『叢の小宇宙』ー家の近くの畑に叢が生じ其の様が如何にも美しく写眞に撮ったものー
例えば上で「皿ヶ嶺」と云う山中に咲く靑い芥子なんぞは第壱級にカルトな🌸なのであらう。
🌸は美しく其のことはひとまず良いが其れは「生命」なのでやがて「失われゆく」部分が辛く哀しい。
故に其れに大きく興味は無い。
興味が有るのは「石」と「🐈」の方だ。
尤も「🐈」の方は罪深い生物なのでやるべきではなかった。
だが妻子が居ないのでつい飼って仕舞った。
また🐱は何故か作家御用達なのでこんな詩人ともまた實に相性が良い。
對して「石」は永遠に「静謐」なのが何より良い。
さて其の「靑芥子」を観に行くのと日本海で翡翠を拾うのとどちらかを選びなさいと美の女神様に言われたならば僕は常に後者をこそ選ぶ。
つまりは生きては居ないモノの方が自分よりは長生きだからなのか何故か好きである。
では🌸よりも寿命が長い木などはどうかと云うと矢張りと言うべきか其の短命な🌸以上に好きなのだ。
つまりは巨樹、巨木の類の世界が大好きなのだ。
だが本日は其の巨樹、巨木の類の世界を語る訳なのでは無い。
本日はあくまで「地元瑞穂区」を語る為に出て來たからなのだ。
さう言いつつあえて西八幡社の楠の巨樹の画像を貼らう。
さて此の場こそが我が子供の頃より親しんだ巨樹の杜となる。
されど画像は拾年程前のものだから現在はもう少し樹が大きくなるのやもしれん。
兎に角こんな美しい楠の杜となる。
子供の頃は此処に良く「ウバタマムシ - Wikipedia」を捕りに行ったものだった。
此の杜には其の「ウバタマムシ」が何故か多い。
だが其れこそ美しい「タマムシ - Wikipedia」などもまた出ない訳では無く数年に壱度程は其れが出る。
尚今の若い人達には分からないのかもしれないのだがニンゲンの経験の上で最も価値が高くあるものは此の種の「自然體験」なのである。
其れは豪邸に住んだりスーパーカーを所有し其れを乗り回すことなどよりも余程に上等な體験なのだと言える。
故に其れが著しく制限された現在は当時ー昭和40年代ーよりも遥かに「貧しい」のだともまた言えやう。
まずは其のやうな認識に置いて文明による「洗脳」を解いて行く他は無いことだらう。
自分などは兎に角還暦以降思い出すことは其の「ウバタマムシ」ともっと以前に寶蔵寺ー西八幡社の横のーの大木で父と捕った「カブトムシ」の思い出ばかりである。
還暦以降思い出すことはさう「バブル」でも「👩」でも「🚙」でも無くまさにそんな「自然體験」ばかりなのだった。
でもって最終的にニンゲンは「👩」や「🚙」には縁が切れまた酒にも煙草にもギャンブルにも縁が切れ「死の世界」へと飛び込んで行かざるを得ぬ。
だが其れは煩い社會から縁が切れることでもあるので案外惡くはないことなのではないか。
我がまだ小学生の低学年の頃夏休みの朝五時位に父と寶蔵寺の大木へ出向くと大木の上の方に何か大きなものがブーンブーンと飛んで居るのである。
だからまさに其れが「カブトムシ」の群れなんだ。
また夏休みに自宅より西へ百五拾米のところにある小さな池へと良く遊びに行ったものだ。
其の池の中にはヤゴやらオタマジャクシやらが澤山居たのだった。
さうしたところから「ギンヤンマ」やら「オニヤンマ」が生まれ出で其れが我が家の前の道を行ったり來たりもする。
嗚呼其のギンヤンマやオニヤンマの美しさと言ったら!!
そんな訳で其の「眞」の意味で美しいものとは「自然」以外には無い。
例えば「万年筆」其れも「蒔繪万年筆」などは極めて美しいが其れは「加工物」として美しいとのことのみ。
「加工物」として美しい物は還暦迄はむしろ其れが良いのだがイザ高齢者ともなるとさうしてより「自然體験」の方での価値比率が高まって來る。
さて西八幡社は我が家から東へ百五拾米程のところで其処ではかって中根銅鐸が発掘された。中根遺跡 | 名古屋遺跡マップ (iseki.nagoya)
中根学区地内で発見された「中根銅鐸」について | 「洋ちゃん」のひとりごと (ameblo.jp)
尤も其の「中根銅鐸」は辰馬考古資料館 - Wikipediaに売り払われて居り現在社殿で年始に飾られるのは「レプリカ」となる。
そんな訳で家の近辺は遺跡や遺構が出るところなのだ。
また其れが庭を掘ると出て來る。
故に新築しやうとして地面を掘ると其処に遺跡が出て工事が中断されることなどが多いとも聞く。
さらに庭を掘ると「石英」などもまた出る。
其れが💎級の物である可能性などもまた常に有る。
ですからワザワザ観光地へ出向かずとも庭でもってさう遊んで居られるのである。
さう利休梅を愛でつつ庭でもって🍙でも食えばもはや其れでもって立派な観光體験が成立する。
だがもうギンヤンマやオニヤンマの池は消えて仕舞った。
また寶蔵寺の大木にカブトムシは居ない。
だがであるからこそ其れが「永遠化」される體験でもあり得やう。
其のやうに常に實存は「永遠化」される體験の所有者なのだ。
つまりは其の個に於ける體験を他で置き換えることが出來ぬ。
ならば其れは唯壱の個性的體験である。
本日哲學詩人が述べて居るのはまさに其の「唯壱の個性的體験」の様のことである。
さてこちらは瑞穂プールーパロマ瑞穂屋内プール(温水) | パロマ瑞穂スポーツパーク公式PAGEー横の御花畑である。
こんなしょぼい御花畑であるが決して侮れぬ。
何故なら此の奥は林となって居り其処には様様な🌸が咲き實が成ったりもまたする。
また例えば秋にはキンモクセイが満開となる。
さらに良く分からん實などが兎に角落ちて來る。
御花畑にはラベンダーなどのハーブ類が多く植えられて居る。
故に此処でコンビニ🍱を食うとまるで観光地で遊んで居るやうな気にもなる。
だが此の辺りは周りが高級住宅地なのでそんなルンペンみたくココで🍱を食うのが可成に恥ずかしい。
尚ハーブ類は必ず「しごく」ことにして居る。
すると色んな香りが混ざり最終的には何が何だか分からぬ良い香りとなる。
また此の辺は至って清潔でありだから汚い身なりをしたボロの中華🚲に乗るオッサンが其処に居ること自體が何だか景観にそぐわない。
だが我は「人の目」を気にしない方なので時折此処にて休むことにして居る。
さうサイクリングをしつつ休む訳だ。
ナゴヤグランパスのかっての本拠地の横は林となって居たが其れがスタジアムの建て替え工事により伐られて仕舞う。
此れ等の画像は其れ以前の様を写したまさに貴重なものとなる。
また此の林は小学生の頃自分が「カブスカウト」にて活躍して居た処となる。
まさに此処にて名古屋31団の集會が行われ自分は當時組長として其れに参加して居た。
だが中学生となり「文學」に目覚めし我は「ボーイスカウト」にはならず主に太宰や芥川の研究に勤しんで行くこととなる。
「カブスカウト」や「ボーイスカウト」の良いところとはまさに其の「自然」と親しむところにこそある。
「自然」はさう親しむことが無ければ本質的に分からないものとなる。
「自然」とさう親しむことが無い還暦世代以降の世代のことを正直自分はほぼ分からない。
でも「カブスカウト」や「ボーイスカウト」をやって居たりまた💎ハンターの方方などは別に還暦世代以降なのであれなかなか立派な人が多いものだとさう感じたりもする。
瑞穂プールにほど近い山崎川は桜の名所であり丁度今頃は混み合って居ることだらう。
幼い頃はもっと大きな桜の木が植えられて居たが山崎川の護岸工事の折りに部分的に其れが伐られまた其の後廿年程が経ちようやく木が大きくなった感じである。
當時は多くの露店や「お化け屋敷」が其の🌸見の頃に出て其れに入ってとても怖かった覚えなどがいまだある。
そんな「お化け屋敷」が何故消えたかと言えば高級住宅街の人人が「ウルサイ!」と怒って止めになったのだった。
さて其の山崎川のサイクリングコースー以前は🚙の通行も可だったが現在は歩行者と🚲専用道となったーの際には名古屋市立大學の薬學部がある。
また名古屋市立大學の厩舎もあり其処で馬を眺めることもまた可能である。名古屋市立大学馬術部(@meishidai_uma)さん / X (twitter.com)
此れ迄に弐度程サイクリング中に道を🐎が歩いて居たのに出くわしたことがあった。
其の🐎はカッポカッポと蹄鉄の音を響かせつつ山崎川のサイクリングコースを移動して居たのだった。
尚🐎は上流階級の人が何故か好きで例えば名古屋の出の舘 ひろしー医者壱族ーなどはまさに其の🐎が大好きなのだ。
尚自分の趣味の壱つに「薬草園の観賞」と云うものが有る。
つまりは其の名古屋市立大學の薬學部の薬草園が山崎川のサイクリングコースの際に有る。
まさにソコを参度程訪れて居る。
但し応募して当選しないと其の「薬草園巡り」は出來ない。
しかも其れはちゃんと名古屋市立大學の薬學部での「講義」付きである。
其れも準教授位の人が大ホールにて壱時間程だったか講義して下さる。
個人的にはそんな薬學の世界には縁が深くかっては製薬會社でもって薬の配達や営業をして居たことが都合参年程はあった。
だが此処にて講義される其の内容はむしろ漢方系のつまりは植物由來での薬のこととなる。
コロナ禍以降は其の「薬草園巡り」も途絶えて居たが現在は復活して居るやうで昨年の秋サイクリング中に其の模様を観た覚えなどがある。
また名古屋市立大學の薬學部の学食は壱般にも開放されて居り其処にて何かを食うことが常に可能となる。
また其処にて例えばカツカレーライスなどを食って居ると自分がまた学生に戻ったかのやうな錯覚が味わえるものだ。
名古屋市立大学大学院薬学研究科薬草園案内 (nagoya-cu.ac.jp)
名古屋市立大学大学院薬学研究科薬草園案内 (nagoya-cu.ac.jp)
山椒ー29.jpg (6131×8678) (nagoya-cu.ac.jp)
薄荷ー40.jpg (1750×2480) (nagoya-cu.ac.jp)
個人的にどちらも好きな芳香のものとなる。
ドクダミー37.jpg (2188×3099) (nagoya-cu.ac.jp)
ヨモギー51.jpg (1120×1587) (nagoya-cu.ac.jp)
こちらの香りなどもまた好きである。
其のドクダミは家の庭にまたヨモギは天白川の土手などに澤山生えて居る。
當帰ー35.jpg (2777×3761) (nagoya-cu.ac.jp)
こちらは五年程前に薬草園で匂いを嗅いでみたが確か相当に臭かった覚えがある。
柚木ー50.jpg (1097×1562) (nagoya-cu.ac.jp)
また柑橘系の香りが實は壱番好きだ。
さて其の「香り」を樂しむことは洋の東西を問わずして「上級」の趣味と言えることとなる。
わたくしは何せ感覚の方が鋭敏なので所謂「エッセンシャル・オイル」などの類のものが好きである。
ところが案外本人はむしろ歯が惡いしまた水虫の方も有りつまりは「臭い」方なのでまあ分裂して居ると云えば確かに分裂して居ります。
ですが香りの「本質」とはつまりはさうしたことなのだ。
惡臭⇔芳香
「匂い」とは結局そんな弐元分離でのこととなる。
またつまりは両方有るのが此の世界での「實相」となる。
またドラッグストアにある「ハッカ油 - Wikipedia」などもまた御勧めです。
ミントオイルとは?成分や効果から使い方(活用方法)まで紹介! | BOTANICA (botanica-media.jp)
其れも色んな物があらうがややこしくは無い「ハッカ油」こそが壱番良い。
我は気温が上がるとまずはコレを求め主に其の香りを嗅ぐことで心を落ち着かせたりもして居る。
尚此の4~5月はやりたいことをせんが為に週壱程のペースにて「画像詩」のみの投稿を行う予定です。
とは言え現状ではほぼ大掃除をやらねばならん可能性が高くある。
其れに梅雨前迄に其の大掃除をやらんとまた計画がグズグズになって仕舞う。
無論のこと新緑の季節には是非東山や相生山へも出向かねばならず兎に角忙しい限りである。
だがそんな忙しい日常の中にもまた必ずや「美」の世界が有る。
さう其れは無いのでは無くあくまで有る。
其の「美」を見続けんとさう欲するニンゲンの心向きこそが「愛」なのだ。
「愛」はさうして普遍的に此の世を覆っても居やう。
また其のことは抽象的に成立するのではむしろ無くして常に具象的に作用するものなのだ。
即ちたった今我我ニンゲンが感受する其の内容こそが「美」の秩序をこそ指し示すものなのだ。
さう其れが、
「美しい」
とさう感じられる今を生きることの大事さのことなのだ。
けれど其の「美しい」今は心のあり方が濁って居るとついぞ見られぬこととなって仕舞う。
さう穢れた社會的欲望を離れ「美」其のものと対峙する時ニンゲンは眞の意味での幸福感を其処に味わうことであらう。
さうしてたった今僕は「過去の自然體験」と自らの「観念的道程」に對し心より感謝を捧げて居る。
何せ心理的な屈折度がまた高くあるが故にまあ憎たらしいことも確かに言いますがソレだけは言って置かなイカンとさう思いつつ本日此の作文を書いて居りましたのです。