目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

さう忙殺されし儀式、儀礼としての盆と其れを照らし出す壱つの夜景とー徳林寺の盆踊り大會と寶蔵寺を訪れてー

さう忙殺されし儀式、儀礼としての盆と其れを照らし出す壱つの夜景とー徳林寺の盆踊り大會と寶蔵寺を訪れてー

 

 

 

 

朝日川柳の選者西木空人の本名【画像】【経歴】過去にも下品と炎上 | tomo文章道場 (tomo3koko.com)

 

上辺だけの民主主義であることを隠れ蓑にして壱部の権力者がやりたい放題の政治をやれば國もまた國民の頭の中も同時に滅びへと至らざるを得ない。

よって今保守派を標榜する人人はまさに其の亡國への途のカラクリにこそ気付いて行かねばならぬ。

 

だが保守の馬鹿に強固に嵌り込んだ人人はかうして相も変わらず朝日新聞が悪いだのまた左翼が兎に角悪いだのとさう違う政治思想の人人を攻撃するばかりだ。

つまりは其のことをこそ右翼馬鹿と云うのである。

 

其の右翼馬鹿がかって日本國を滅亡の淵へと追い込んだことがあった。

其れ即ち右翼馬鹿では日本國を本質的に守ることなどは出来ぬ。

 

 

対して左翼もまた頗る莫迦なのだが奴等は少しは理性がある即ち盲信し易いタイプの右翼馬鹿などとは違う。

さうしてまあ僕からすれば結局両方共同時に馬鹿なのだが結局利口と云うのは其の両義的な政治的立場を同時に見詰め其処から最適解を導き出す知性としてのあり方のことなのだとさう感ぜられる。

 

尚此処に載せられて居る川柳はほぼ皆素晴らしい作品である、と正直さう思われる。

 

結局右翼馬鹿の精神の流れには知らぬ間に日本の社會をダメ化して行く癖の如きものがある。

よって正しくは弐階氏や石破氏の如き左派をも見据えた上での政治判断が是非必要なのであり逆にアベやアソーの如き頭の悪い保守派をのさばらせて居てはかの國の未來は閉ざされて仕舞う。

 

其処は少しは理性派のキシダがやれるかどうかはまるで分からぬところだがとりあえずはキシダがやるしかないのでありだからキシダはそんなキャンキャン鳴くのでは無くワーンワンと吠えてもみたれ!

ワーンワンと🐊に対し吠え同時に世界に対しさうして日本國民に対してもワーンワンだ。

 

 

ワアオーン~~~。

うわあー、まるで🐺の遠吠えのやうだな。

 

おお怖っ。

 

ワアオーン~~~~~~。

 

何時まで吠えとるのだ、此の馬鹿!

 

 

にゃおー。

ヘッ?

にゃおーん。

 

うーむ、どうも家中がネコのウンコ臭いと思ったら矢張り家の野良猫共の不始末だったのか。

 

 

さて昨夜は徳林寺の盆踊り大會を観に行って来た。

昼に家の墓の掃除及び🌸を供え其の🌸は無論のことわざわざコノミヤまで買いに行かねばならぬ。

 

おまけに仏壇用の🌸と墓用の🌸はまた異なるのである。

しかも其の🌸がまたクソ高いと来てる。

 

其の🌸束が壱番高い🍱などよりもむしろ値段が高い。

まずは其の生花を佛壇に若しくは墓に供える風習は止めた方が良い。

 

何故なら🌸もまた植物型生命である。

其の植物型生命の命を佛壇や墓に供える為に奪うと云う行為其れ自體がまさに倒錯としての価値観である。

 

 

ところが我が家の墓へ行くと造花が飾ってあった。ー従妹など若い者(四拾代)がさうして居たものだらうー

我は其れでも良いとさう思うのだが其れでも周りを見るとそんな造花などは無いのである。

 

結局さうして世間體を気にすることで悪い風習が続いて行くのである。

さて其処にてまずは他にして置くことがある。

 

其れは家の墓の西側にある大石さんのトコの墓の観察である。

其の墓が實はアメジスト墓なのだ。

 

Amethyst アメジスト | デザイン墓石カタログ|デザイン墓石.com (design-boseki.com)

 

其れもこんなものではまるで無く丁度こんなものが墓の上部のガラスケースの中に鎮座ましまして居る墓のことである。40.7Kg ブラジル産 アメジストドーム カルサイト共生 台座付き同梱不可[T611-8835] (crystal-seian.co.jp)

 

勿論セキュリティ付きの墓となって居る。

其れに暫し見惚れ後はサッサと家に帰る。

 

 

夕方まで石の整理を行い愈愈徳林寺の盆踊り大會へと出向く。

昨日もまた暑い日だったが夕刻より強い風が吹き其の分助かる。

 

其れと徳林寺は山の中の寺ー高台の寺ーなので住宅街よりは幾分か涼しくもある。

相生山へ入るとすでに弐キロ先の徳林寺からの太鼓の音がドンドンと響いて来て居る。

 

うーむ、何やら期待感の持てる音だな。

 

 

其の徳林寺には空き地ー原っぱーを利用した大駐車場があるが其処がすでに可成に埋まって居る。

自転車を其処に駐め本堂の方へと其の太鼓の音がする方へと引き寄せられて行く。

 

すれ違う人人はほぼ👪連ればかりである。

爺さんや婆さんなどはほぼ来ては居ない。

 

其れが皆浴衣などを着込み何やら樂しさうな風情である。

 

境内には露店が幾つも出て居てまたお化けの如き大きな💀が出て其れが寺の真ん中辺りで踊って居る。-其れも五米程もの身長の-

其れ等の全てがまるで夜店のやうなライトに照らし出されて居て幼い頃に経験したやうなワクワク感を醸し出して居た。

 

 

其の全貌を是非眺望したくなり鐘楼へと登る。

さすれば境内の全てを見下ろすことが出来るのだ。

 

そんな祭りの全てを見下ろすと其れが貴重な催しであることが實感された。

つまりは其の雰囲気が他ではなかなか出ないのである。

 

盆踊り大會は他にも色色とあるが其の静けさに囲まれた山の中でさうして壱種独特のスタイルにて行われるカルト性こそが他では決して得られぬ部分なのだ。

またカルト性ばかりでは無く懐かしさなどもまた感じた。

 

露店には子供向けのものばかりでは無く左翼系即ち意識が高い系の人人の為の自然素材の服の店だとかまたアクセサリーの店などがあったが最近はネットでしか物は買わぬので其れは見るだけでパスする。

鐘楼からは其の祭りとは関係無く緑区や天白区方面の夜景が見え、と云うことは夜此処に来れば常に其の夜景を樂しむことが出来る訳だ。

 

そんな訳で昼に訪れても大変面白い徳林寺であるがかうして夜に訪れても全く退屈しない恐るべき寺が其の徳林寺なのだった。

 

でもってまだ廿時程だったがサッサと家に帰る。

丁度満月が見えて居てまさに夢の如き夏の夜の様である。

 

 

天白川へ至ると川原で高校生か大學生が皆で花火をやって居る。

其れを観察して居るだけでも如何にも其処に夏を感ずることが出来る。

 

さて久し振りに夜サイクリングをしたが矢張り夜の世界は其の灯こそがまさに美しい。

 

昔研究所に勤めて居た頃に夜になると大きな球體をしたライトが構内に沢山灯ったものだったことを思い出す。

其のライトにはしかも色合いの違いがあり靑っぽいものがあればオレンジ色のものまでまたあるのだった。

 

其の花火もまた夜にやってこそ美しいものである。

さうして夜又は闇は昼又は光の世界とは異なる美しさを宿すものだ。

 

まさに其れは質的に違うものなのだが結果的には其れもまた美を演出し続けるマイナスの要素としての世界のことである。

 

 

ー多文化の色合いが強い徳林寺だが、その素地は先代の頃からあった。

「先代はクリスチャンでも墓に入れるようにしたんです。社会の平和のためにも、宗教で差別してはならないという考えだったんでしょうね」

しかし、当時25歳だった高岡さんは、社会への不安や疑問を感じ「寺は継がない」と言ってネパールへ。ところが、ネパールで仏教の先生について学んだり、本を読んだりしていくうちに仏教への理解が深まっていく。結局、ネパールで仏教文化保全活動などを行い、気づけば10年が経っていた。

「仏教とは、布教のために時代や人に合わせて柔軟に変わっていくものなんです。仏教の心を伝える方法は一つではなく、寺や住職の個性によって変わっていいもの。だから、日本では仏教と神道は相互に影響を与えながら進化してきましたよね。私はネパールと縁があったので、私なりの方法でやっているだけなんです」

帰国後、徳林寺を継いだ高岡さんは、自身のやり方で寺の運営を行い、タルチョを飾ったり、様々なイベントを行ったりしている。ーコロナ禍で帰国できないベトナム人180人を受け入れ 愛知の寺が動いたワケ | ほ・とせなNEWS (hotosena.com)より

 

 

個人的には余り杓子定規に宗教を捉えたりせずとも良いと考えて居り、なんとなれば現存在はかうして宗教以前の段階ですでに普遍的に追い詰められて来て居るからなのである。

要するに悩むところが違うと云った御話なのだ。

 

悩むところとは宗教の別だの世間體だのそんなことでは無しにもっと大きく捉えて現存在としての欲望がデカ過ぎることでありつまりは現存在自體が如何にも罪深過ぎることであらう。

 

 

ーそんな徳林寺の存在は次第に知られるようになり、2008年頃、クリスチャンの神父から「これからは難民を収容する施設が必要になるでしょう」という話があり、宿坊を作る計画が立ち上がった。そして約2年かけて宿坊が完成。ここに海外から来た難民や生活に困った人が暮らし、共同生活を営むようになった。コロナ禍で帰国できないベトナム人180人を受け入れ 愛知の寺が動いたワケ | ほ・とせなNEWS (hotosena.com)より

 

ほれ見よ、佛教だらうがキリスト教だらうが其の悩むところは正教ならば同じである。

但し邪教の場合は「教祖の威張り」がまずは最大限に重視されやう。

 

まただからこそ其れは邪教なのだ。

 

 

ー「菜食、禁酒、賭博の禁止です。多くの人が一緒に暮らすので、いろいろな問題もありました。しかし、このルールがあることで『ここで悪いことはできない』という一種の緊張感が生まれたのでしょう。ーコロナ禍で帰国できないベトナム人180人を受け入れ 愛知の寺が動いたワケ | ほ・とせなNEWS (hotosena.com)より

 

ほれ見よ、金にあかせての美食だの酒飲むことだの👩に手を出すだのまた博打をするだのまずは其れを禁じてこその正しき人の道ぞ。

即ち其のまさに酒池肉林こそが現存在に取っての御法度なのである。

 

 

ー「日本の仏教は葬式や法要をやっているだけでは、苦しくなるでしょう。多文化や平和、貧困などはみんなが抱えている問題。そういう社会にあるテーマに対して、お寺としてできることをやる。仏教の教え『仏法僧』の『僧』はお坊さんのことではなく、集団やコミュニティのこと。人間はコミュニティのなかで生きているから、みんなで一緒に助け合っていくことが大切です」ーコロナ禍で帰国できないベトナム人180人を受け入れ 愛知の寺が動いたワケ | ほ・とせなNEWS (hotosena.com)より

 

ほれ見よ、まさに其の「社會との対峙」こそが正教としての佛教のさうしてキリスト教としての役割なのじゃ。

さうして寺はまずは社會と対決せよ!

 

いや弱い立場の者を救え!!

壱番良いのはアベやアソーのやうな罰当たりめから金と権力とを毟り取り其れを弱い立場の人人にバラ撒くことだ。

 

また我にも其れを少しばかりちょーだい。

 

尚徳林寺の墓は宗旨を問わぬとのことで其処は随分気持ちの良い墓である。

なので最近徳林寺に我が墓をつくらうかとさうも思うのである。

 

永代供養・納骨 – 相生山徳林寺 (tokurinji.org)

 

だがより純粋には墓は要らぬので納骨及び永代供養のみで充分だ。

何せ我は此れだけの宗教詩人なので慣習、習俗としての墓になんぞはまさか入りたくは無く其処をこそまさに自分で決めて置かうとさう強く思うのである。

 

 

が、かうして俗物では無い我は本来的にはあくまで其の納骨云云に拘る訳では無いのである。

其れはあくまで體裁上、世間體の上でのことなのであり第壱まだ死ぬ積もりなどはまるで無いのである。

 

 

さて本日は我が家から百五拾米東の曹洞宗寶蔵寺へと出向き盆の供養料ー御布施ーを先代の御住職の御内儀に渡して来た。

其処でまた色色と世間話をしついでに徳林寺の盆踊り大會に出向いたことなども伝えて来た。

 

同じ曹洞宗でも矢張り其れ程密接な関係は無いやうだが同じ禅宗としての組織には属して居るとの御話だった。

 

其処にて秋になったらまた母と共に寺を訪れる約束をして来た。

とは言えまともには歩けぬ母故車椅子を押して出向かねばならぬ。

 

何故なら寺の庭を綺麗にされたとのことで、其の庭を観に行けば御茶などもまた出るさうである。

さて寶蔵寺へ出向くといつも思うのだが兎に角寺の内外が完璧に綺麗である。

 

まさにネコのウンコだらけ、雑草が生え放題の我が家の庭や汚い家の中とはまるで違い最高に綺麗である。

丁度寺の玄関には大輪の白い百合の🌸が参輪活けられて居た。

 

うーむ、完璧に綺麗な家の中ですね。

まあ私も🌸が好きですので御宅のやうに🌸の専門家では無いのですが。

 

いえ最近家の場合は雑草の🌸こそが専門です。

無論のこと🌸にも命があるので雑草とて全部を切る訳には行かず、でも其れを致しますとまたすぐに其れが道へと張り出し町内会に怒られるのですぐに刈り取らねばなりません。

 

 

いずれにせよ此の壱年余りの間に足の痛いのや歯の悪いのが何とか治まったのでまた是非本でも読みに来ます。

 

尚檀家となって居る浄土眞宗の西福寺の方にも盆の供養料ー御布施ーに手紙を添えて出して置いた。

 

そんな訳で其の盆の儀式、儀礼の部分に振り回された感のする此のところの我である。

されど何だかんだで意外と樂しく其れをこなしつつある我なのでもまたある。

 

 

ー人人が身を寄せる宿坊ーコロナ禍で帰国できないベトナム人180人を受け入れ 愛知の寺が動いたワケ | ほ・とせなNEWS (hotosena.com)より

と書かれた宿坊の画像がこちらには載って居り丁度昨夜我が自転車を駐めたのが其の宿坊の前の空き地である。

 

其の部屋には煌煌と明かりが灯り其のヴェトナム人なのか何なのかまるで知らぬ人ながらかうして現存在は何処に居ても生き抜いて行くより他は無い。

逆に申すと其の明かりこそが生の灯であり生きると云うことは其の命としての灯其のものなのだ。

 

だけれどもよもや其れは現存在にとってだけの灯なのでは無いのである。

よって現存在にとってだけの灯なのでは無い灯となるやうに文明の形を変えて行かねばならぬことは言うまでも無いことなのである。

岐阜平岩鉱山でのかっての蛍石の採集のことー石と心中でもしたい最近の詩人の心持ちー

岐阜平岩鉱山でのかっての蛍石の採集のことー石と心中でもしたい最近の詩人の心持ちー

 

 

 

 

「どんなに悩んでも、どんなに考えても…」大学の教授が教えてくれた、生きる上で大切な物事の解決方法とは? (msn.com)

 

其の御意見には大賛成、です。

ま、現存在には逃げるべき時と逃げられぬ時の両方がある訳なのですけれども。

 

ですが逃げられるうちは逃げて置く方がむしろ人生は豊かに彩られることだらう。

尤も我は逃げ過ぎであり要するに放蕩詩人みたいなところがあるので偉そうなことはまるで言えませんのですけれども…。


 

ー「人間には、どんな不確実な状況下でも、自分の力で物事を決断できる権利がある」ー【フランスの高校生が学ぶ】自信を持つためのシンプルな方法 (msn.com)より

 

以前に幸福であるかどうかを決めるのは他人では無くあくまで自分であるとさう述べさせて頂いた。

要するに其れはあくまで自分で決めることなのだ。

 

またさう云うのを近代的自我又は主體的意思決定の確立と云うのであらう。

ところが此処日本に於いても其の種の決断力がかって無かった訳では無いのだ。

 

要するにかって我我日本人はむしろ自信のカタマリのやうなものをも持つ民族だった。

で自信があるからこそ朝鮮へ出兵もし且つ鎖國することなどもまた出来たのだった。

 

要するに精神的にはむしろ自立して居たのである。

だが現在のやうに周りのことばかりをビクビクと気にかけ自分の意見を述べられなくなったのは其れはむしろ戦後民主主義を迎えてからのことだったのではないか。

 

つまりは豊かさをさうしてみんなでもって目指す體制が唯壱の幸福へと至る道だとさう信じて御座るが故に其れと外れたことが言えぬのである。

ところが其れをやって居たところ逆に自信喪失へと陥って仕舞ったのだった。

 

 

其れは何故か?

つまりは周りとは違う己としての価値観に誇りを持って居ないからなのだ。

 

だからイザ社會が悪くなると其れと共にむしろ沈没して行く。

だからさう云うのは損と申すかむしろ決して幸福には至れぬことだらう全體主義的な人格形成としての発露である。

 

 

尚以前より我には此の世の中の価値観に疑問があり、其れは世人がいつも正の価値ヒエラルキ―の上で人の幸不幸を判断しがちだと云うことだった。

だがむしろ其の正の価値ヒエラルキ―の上で人の幸不幸を判断すること自體が我に言わせれば不幸な価値観其のものである。

 

兎に角人の幸不幸を勝手に壱元化などされては困る。

どだい其の人の複雑な内面の歴史、其の實存的な心の歴史としての価値を其のヒエラルキー化による優劣などで判断されてはたまらない。

 

 

さて自分は日日🐈達より多くを學んで居る。

で🐈は其の人間の拵えた正の価値ヒエラルキ―からすればむしろ負の価値のカタマリのやうな生命である。

 

確かに彼等は可哀想なのだ。

何でかと申すと彼等に取り命を維持することは人間程簡単に出来ることでは無い。

 

事實突然弱い子猫が消えたりもまたする。

また成ネコとなっても壱年、弐年で去って行くことなどもまた多い。

 

去って行く其の🐈は死んだものか又は何処かで生きて居るものかまるで分かりはしない。

だが此処数年程そんな彼等の生き様を観察するうちにむしろ其れが彼等の生の眞實であり眞の意味での實存のあり方なのだとさう思うやうにもなった。

 

即ち其の生き様や死に様を須らく「不幸」などと云う価値観でもって括ったりしてはならないのである。

 

其れと彼等の生き様は少なくとも人間の生と対等である。

いや🐈ばかりでは無くどんな生命に取っての生も其のたった壱つきりでのかけがえ無き命の過程である。

 

よもや人間は其処にヒエラルキ―を築くべきでは無い。

其のヒエラルキーに寄り掛かる類での価値構築の流れがむしろ世の實相を見ることをさうして妨げる。

 

 

現存在は努めて自分が思うところでの価値観とは違うものを見詰めて行く方が良い。

結局現實とは其の価値認識の部分が全てなので其の部分をこそ兎に角より幅広く見詰めて置くことが大事である。

 

 

さて本日もまた夏らしく石の話をしてみたい。

何故なら其の石と万年筆だけが我が欲望の最後の砦なのだから。

 

 

平岩鉱山 (masutomi.or.jp)

 

岐阜の平岩鉱山を都合四度程訪れたのは2006、2007、2008年辺りのことだったかと思う。

当時は鉱物採集の小ブームが起こって居て其の鉱物採集に関する本を書店で買って来ては産地のことを調べ其処を實際に訪れてみる訳である。

 

 

岐阜県平岩鉱山の蛍石 (mineralhunters.jp)

 

中でも平岩鉱山は初心者向けで其れこそ小学生位から気樂に石が拾えるところなので当時採集者が多く訪れて居たものだった。

其れでも日によっては終始単独での採集となることなどもまたある。

 

石趣味とは結局そんなものなのであり所謂メジャーな趣味とはまた違うものなのだ。

 

画像にある林道を発見する迄が結構大変で、要するに岐阜はとりあえずは地元なのだが其れでも土地勘が無いので兎に角道に迷いながら行くしか無いのである。

空き地に車を駐め舗装された林道を500米程歩くと右手にズリ山が見えて来る。

 

其の鉱山ズリは広範囲にしかも大量にあった。

従って採集其れ自體は樂なのだが何せ人が多く来て居る分良い石がまず出ては来ない。

 

 

其れでも丹念に探すと蛍石の標本が何とか手に入る。

其のほとんどは薄緑色の蛍石で主に劈開片である。

 

つまりは自形結晶では無く其れが割れた形にて結晶の如くに見える物である。

また薄紫色の蛍石の劈開片もたまに拾える。

 

どちらも其の色合いが優しく美しくまさに女性に好まれさうな石である。

 

 

平岩の蛍石 - 楽!鉱物収集 (goo.ne.jp)

 

 

かうして石の色合いが淡くて壱種独特に美しい。

其の八面体に割れた劈開片はたまに非常に美しく大きさのある物があったが我の場合は白色の物しか採れなかった。

 

ー屡鉱物ショーなどで海外産の蛍石の八面体に割った劈開片が売られて居たりするー

 

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ーうわおー、其の深い靑の色味が!!!ー

 

かうして蛍石は美しい石でありまた標本としてもお手頃なものとなる。

但し特にマニアックな石なのでは無く其処は壱般向けだと言えなくもない。

だけれどもかうして高級版での標本もまたある訳なのだ。

 

 

また上には非常に大きな標本が写されて居るがこんなものをまた何処から掘り出したのだらう?

今手元には此れの半分位の自己採集品があるが其れには濃い紫色の結晶の如きものー結晶が割れたものーが7個程付いて居り其れが實に興味深い。

 

 

標本棚を整理① | 岐阜のじーさん (gifunoz3.com)

 

 

こちらにも見応えのある緑色の大きな標本が載って居る。

結局鉱物採集はまさに早い者勝ちなので昔から石を採取して居る人のところに良い石が残るのである。

 

尚平岩鉱山産の緑色の結晶?標本ー2センチ×2センチ×2センチの△錐ーを昔求め持って居るので確認してみたところ矢張り素晴らしい物だった。

さらに八面体に割れた白い劈開片ー採集品だが矢張りコレが壱番美しいーも結構見栄えがするものである。

 

また母岩付きの八面体の緑色の標本も出て来た。

他にも採集品で濃い紫色の劈開片などが出て来た。

 

 

個人的に蛍石の標本はありふれては居るが美しい物は兎に角並の💎以上に美しいとさう思って居る。

 

確か廿数年前に初めて外国産の鉱物標本を買った折に其れが英國産の青緑色のフローライトだったのだった。

ちなみに其の外国産の鉱物標本では廿代の頃に失敗をして居り、其れも新聞広告にて是非欲しくなりフランクリン・ミントでの通販の鉱物標本を買ってみたところ毎月送られて来る石がロクでも無いものばかりで頭に来て全部返品したことが確かあったのである。

ー其の後本格的に鉱物趣味を再開したのが四拾過ぎからのことであったー

 

其の後は特に蛍石の標本が好きなのでもないのですがつい先日標本箱の整理をして居たら自己採集の平岩産蛍石でもって薄緑色の結構良い劈開片が出て来て其れを机上に置き眺め且つ触って居たところ平岩鉱山での採集のことが懐かしく思い出されかうして其れを語る気になったのである。

 

 

★秘蔵鉱物標本 ☆平岩鉱山の蛍石 : 鉱物採集道楽 (exblog.jp)

 

で、こちらはかって石の上での知り合いだった大阪の人のブログですがこんなものまで此の人は採って居た訳です。

今回全くのところ驚かされました。

 

こんな濃い紫だのアクアマリンのやうなブルーだのと云った珍しい色合いの平岩の蛍石を此の人はかうしてチャッカリGETして居るのです。

まあ何回通ったものか知りませんのですが壱體何でこんなものが採れますかね?

 

尚彼は会話の方に支障がありよって常に筆談して意思疎通をしなければならなかった。

ですがそんなある種ピユアーな心としての何かを持つ彼だからこそかうして異常に引きが強いのやもしれません。

 

ちなみに我の場合は至って引きが弱く少し引きが強いとすれば万年筆の方位のもので石の場合は其れでも熱意だけはあるので並の引きと云ったところでせう。

 

 

まあ石の方はそんな石採り名人のやうな方方が全國各地に出没しかうして石を採りまくるものですから今ではほぼ採集禁止となって仕舞いました。

ー但し彼を批判して居るのでは無くむしろかうして素晴らしい標本を画像としてネット上に残せるのはまさに偉大なことですー

 

 

また我もまた地元人とは言えかうして石は採りまくりましたので其の責任を大きく感じて居ります。ーとのフリを壱応して置きますー

 

ですがこんなものが採れるのであれば人間の性としてどうしても物欲に火が点きまた何遍でも平岩鉱山へ行きたくなるものだ。

だけれども無論のこと此処もすでに採集禁止とのことです。

 

今思えば其の廿壱世紀初頭での鉱物採集こそが日本人に取っての最後の日本の鉱物産地での鉱物採集となった訳である。

ですが特に採集禁止とはなって居ない其の辺の山の中や未舗装道路の道端などから石を拾って来るのはとりあえず問題とはされぬ訳です。

 

 

ですからわたくしの場合はすでに五年程前よりソチラの方へと採集の場其れ自體を切り替えて来て居ります。

 

ちなみに拾弐、参年前だったか高校時代の親友と此の平岩鉱山にて共に採集したことがありました。

丁度彼ー我よりは明らかにお金持ちーがBMWの新車を買った時で其れに乗って採集に出向いたのでした。

 

其の折のことも部分的には良く覚えて居ます。

また特に彼に取っては面白い體験だったことかと思われます。

 

 

今思えば矢張り其のBMWよりも平岩鉱山と云う存在其れ自體が大きなものでした。

BMWは文明が続き金がある限りは何時でも誰でも手に入るがもう平岩鉱山にて蛍石を採集することは出来ませんー

 

其のやうに最終的には自然物の価値のみが次第に高騰して行くものと思われる。

其れも石どころか綺麗な水や清い大気と云ったさうした環境としての価値が其れこそ金やダイヤモンド並となって行くことだらう。

 

そんな地球及び地球人の未来を考えるだけで何やら空恐ろしくなるものです。

さて百年後位にホモ・サピエンスが自滅した後に平岩鉱山にて蛍石を採集するのは果たして誰か?

 

 

🐵か其れとも🐈か🐕か?

いや彼等は石なんぞには興味がまるで無いですからね。

 

🐵人間や🐈人間や🐕人間がもしも遠い将來に出て来たら其れは分かりませんのですがでもおそらくは其れは無いことでせう。

だがイザ人類が滅ぶとなると結局は🐵も🐈も🐕もまた滅ぶのだらう。

 

しっかしそんな百年後にも平岩鉱山のズリの中には凄い蛍石の標本があるのだとしたら何やらとても腹が立つことです。

何で其れが今此処には無いのでせうか?

 

もしや君に取り人類が滅亡することよりも平岩の壱級標本の方がより大事なのか?

其れも至極当たり前のことですよ。

 

要するにたった今日本の鉱山跡から出た凄い石ばかりに囲まれて生きて居たいだけなのですから。

困った御人だ…。

 

要するに石狂いであり物質的変態の様ですね。

うーん、其れはもはや治らんだらうなあ。

 

 

いや逆ですよ。

みんなの頭の中の方が治らんだけの御話でありわたくしはかうして至って普通であり正常な欲望の持ち主です。

 

なる程。

ではそのうちに石と心中でもするんですな。

 

あんた、壱體何を言っておいでか?

石と現存在はそも違いよって石はあくまで現存在に取っての心中の対象とはなり得ない。

 

またソコだけは急にまともになったりする。

いずれにせよ出来るものならほんに石と心中でもしたい位の気分でもある最近のわたくしです。

万年筆の世界には浪漫がありまさに夢のある愉しい場でのものー夏に涼しい竹軸の万年筆+兎に角欲しい中屋の拾角軸モデルー

万年筆の世界には浪漫がありまさに夢のある愉しい場でのものー夏に涼しい竹軸の万年筆+兎に角欲しい中屋の拾角軸モデルー

 

 

 

 

あくまで其れこそ哲學的には人間の興味が物質へ傾くと即物的な唯物思想のやうなものに毒されて仕舞い易い。

また同時に物質的な意味での価値ヒエラルキ―に深く捉えられて仕舞う。

 

あくまでさうなんですが其れは所謂社會的な意味での価値ヒエラルキ―に深く毒されて居るよりはまだしも罪が少ない訳だ。

よって我の場合はさうして欲望を努めて物質へと限定するやうに歩んで来た。

むしろ此の参拾年余りはずっとさうして来たのだと言っても良い。

 

生ものへの欲望⇔生存欲及び物欲

我の場合左様に欲望の質を分けて考えることにして居る。

 

 

所謂👪主義や文明の倒錯の価値観に対する接近などはあくまで其の「生ものへの欲望」の方だ。

対する最低限での生命維持の為の欲望などはむしろ本能により近くあるもので釈迦やキリストでさえ其れ迄放棄せよとさう仰った訳では無い。

 

まさに其の部分に物欲ー限定された物欲ーをも組み入れることと致してみた。

何故ならモノは断じて生ものではありませんのですから。

 

 

同じ欲望でも性欲ー血統の保存欲ーや社會的欲望ー地位や名誉や大金が欲しい欲ーなどは左側のデカい欲望となりませう。

ですが毎日蕎麦と🍛でも食って其れでもって兎に角御勉強ー読書及び検索等ーを為し其れでもって頭が疲れたので石や筆記具と戯れることが悪人の仕業なのだとはまさか思えません。

 

勿論宗教上厳密には其れもまた悪人の仕業となりますのですが其れは僧侶や神父様レヴェルでの精神のあり方の御話でありどだい心が汚れて居ると申しますか無明=眞理に対し何も分かって居ない凡人レヴェルではむしろ其れこそが清い生き方となる筈です。

 

まずは其の心の位置より此の程我は我が全物質趣味を再構成し見詰めてみることとしてみた。

 

其のやうに限定された物質趣味を是とすることで此の世界を有の場とあえて考えてみることとしてみた。

物質は本質的にはむしろ「無い」ものですが其れをあえて「有る」とさう視て居るのが現存在の認識なのであり勘違いの様ー顛倒の認識ーなのです。

 

で、其処まで考え抜いて物質趣味をやることにこそ實は意義があるのだ。

対して何も考えずに其れをやれば其れは単なるバカコレクターであり馬鹿愛好家に堕する訳だ。

 

 

「無い」⇔「有る」

即ち其れがどちらへ転んでもまた良いやうな気分でもって物質趣味をやることにこそ意義が生ずるのである。

 

だけれども堅固な所有欲はモノを失いたくない方向へと常に動かうとする。

なのではあるがコレクターは次第にモノが流動する場であることが分かってもまた来る。

 

つまりは壊れたり失くしたりまた売り払ったりするものであり其れをたまたま己が壱時的に保管して居るだけのモノなのだ。

 

だから持って居ることを自慢するやうなものではそも無いのである。

即ち眞理に対しては何処までも物質趣味は脆弱なのである。

 

其の「所有」にせよむしろ眞の意味でのモノコレクターであり物の愛好家は左様にある種達観して置かねばならぬのである。

また其の「所有」を所謂生臭ものに対し感じて居ることよりは何度もまた申しますがモノの次元で其れを感ずることの方が常に罪は少ないことだらう。

 

 

さて今我は使用するペンの整理整頓もまたして居り其れは先日ニトリにて良い収納ケースを発見したからなのであった。リバーシブル引き出し ブレッタ A4 3段通販 | ニトリネット【公式】 家具・インテリア通販 (nitori-net.jp)

 

此の参段ケースでもって大體百本程のペンを収納することが可能だ。ーブラウンの方ー

 

決して高級品では無いが多くのペンを持つ愛好家の方方には御勧めである。

即ち高価なコレクターケースなどよりも気樂に使える物である。

 

其のペンの整理整頓の際に如何にも夏向きのペンが色色と出て来る。

そんな夏向きのペンと言えば矢張りと云うべきか竹軸のペンである。

 

 

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例えばこちらなどは感動的に安いのだが實は充分に使え所謂安物では無いのである。

何故なら竹自體が天然素材なので其の素材が悪いと云うことは無いのである。

 

また製作精度の方も決して悪くは無い。

但しより本格的に万年筆として使用する場合には金ペン先化してみることが御勧めである。

 

幸い我はかって英雄の小型金ペン先の万年筆を弐拾本位は集めて居たので其の金ペン先を利用すれば良いのである。

英雄の小型金ペン先には14金の物と12金の物がありサイズなども四種類程がある。

 

 

さうして金ペン先化した竹万年筆は安くてしかも本格的な万年筆と化す訳だ。

尚英雄の小型金ペン先ー90年代から21世紀初頭にかけての物ーは秀逸である。

 

かってー弐、参拾年前にかけてのーの中國の金ペン先は特に英雄の物は素晴らしい。

要するに金ペン先が本質的に強く曲がったりはせず運筆圧をかけた場合に線に強弱を付けることが出来るのである。

 

尚我は欧米の万年筆にもまた強いのではあるがかうして東洋の万年筆をも馬鹿にしたりはせずにかってかうして集めて居たのである。

また其れが良質の素材として現在ペンの改造の方に大いに役立つ訳だ。

 

 

Amazon | Duke 万年筆 天然金の竹製 中細字 ペンケース付きのビジネス用万年筆の贈り物セット | 万年筆 | 文房具・オフィス用品

 

こちらのDukeの竹製万年筆は参年程前に初めて求め其の金糸竹にスッカリ魅せられて仕舞ったものである。

日本の竹や銘木を用いたメーカーの万年筆は概して高価であり勿論万単位での買い物となるがこちらはこんなものなのでまずは気樂に購入することが出来る。

 

で、先程も申したのだが其の自然素材自體はよもや低級な品では無いのである。

ところが問題が壱つあり其れはキャップが真鍮製でもって頗る重いことであった。

 

故にキャップの原型を留めぬ程に加工してみたが其れでもまだ重い。

尚我の場合万年筆の軸には必ず其のキャップを被せ使うのである。

 

 

まさに其れは欧米流では無い東洋人としての筆の使い方なのであらう。

でもって何か嵌るキャップを探すと90年代~21世紀初頭の頃のヴィスコンティのヴァン・ゴッホのキャップがピタリと嵌ることが判明し其れで今でも其れを付けて使用して居るのである。

 

其のキャップの重さを量るとオリジナルを加工した物とは4グラム違う。

たかが4グラムの差と思うこと勿れ。

 

万年筆の尻側が4グラム軽いと云うことは運筆上實は非常に大事なことなのだ。

またつまりは其の万年筆の後ろ側が重過ぎるやうではならないのである。

 

故にかっての西洋のDip Penなどは必ず軸の後ろ側が細く長く伸びて居てつまりはさうして軸の後ろ側の方が軽かったのである。

 

 

勿論此の金糸竹の万年筆も金ペン先化して来て居る。

其処で選んだのが同じDukeの細長い18金ペン先である。

 

此の18金ペン先こそは出色の出来の物である。

さう此れもまた90年代~21世紀初頭の頃にDukeの高級ラインの万年筆に付けられて居たものだ。

 

此の金ペン先こそがまさに此の金糸竹の万年筆には良く似合う。

 

かうして改造を済ませた金糸竹のDuke万年筆は、

1.全長197ミリ

2.重量37グラム

3.重心位置が6対4

 

出来れば参拾五グラム以下としたいところながら現状では其のことは難しい。

 

 

尚現代の万年筆はかうして重い物が増えて来て居るのである。

中國産はまた特に重いのだが欧米の万年筆などもまた重量化して来て居る。

 

其れは金属部品を多用して高級感を出さうとする為なのだらう。

金属部品でもアルミ合金やチタン合金などは軽い訳だがそんな高級な素材など使えるべくも無く大抵は真鍮やステンレス部品で其れをするので必然的にペンが重くなり易いのである。

 

 

Jinhao 8802 Fountain Pen , Nature Wood Office School Writing Gift Pen | eBay

 

ちなみにJINHAOにも此の種の筆的なモデルがあり、此れなどもまた安価なのが良い点である。

かってー弐拾年程前ー中國の万年筆はむしろ其の軸の方に難があり屡壊れたりもしたものだったが其れも今はそんなことは無い。

 

と申すかいまだに安く手に入るのが中國と印度の万年筆なのだと言えやう。

対する日本の万年筆や伊太利亜の万年筆などは何故か其の値段が高騰して仕舞って来て居る。

 

其れは大體倍程もの値と化して来て居るのである、其れも其の90年代から21世紀の初頭にかけてと比せば何故かさうなって居る。

 

だがかうして安価な中國と印度の万年筆を素材として用いてむしろ壱級の筆記上の愉樂を得ることが實は可能である。

其れはお高い万年筆ではむしろ出来ぬことなのであるがかうして安い万年筆なのであれば気樂に其れが行えることなのだ。

 

 

竹について(竹の種類)黑竹 | 虎斑竹専門店 竹虎 (taketora.co.jp)

竹について(竹の種類) 煤竹 | 虎斑竹専門店 竹虎 (taketora.co.jp)

 

其の煤竹を用いた長原 宣義氏作の万年筆がかってー廿~拾年前にー万年筆愛好家の間では非常に人気が高かった。

我も其れを90年代に丸善にて手に入れ長く未使用でもって保管して居たが結局は売って仕舞った。

 

SAILOR 万年筆 ペン先21K 1911 長原宣義氏作 煤竹万年筆 純金プレート 箱付(セーラー)|売買されたオークション情報、yahooの商品情報をアーカイブ公開 - オークファン(aucfan.com)

セーラー すす竹 長刀研ぎ 万年筆 - セーラー|Pen Cluster

 

いずれにせよ何処かでもってどうも自分が目指すところでの筆記とは違う物のやうに思えて居たのである。

むしろ此のDukeの金糸竹軸モデル改の方が如何にも東洋らしい竹万年筆なのだと今我は思う。

 

ちなみにセーラーの場合は軸の作りの精度はむしろ日本壱なのだが万年筆への思想の持ち方の点で少しく疑問がある。

特に其の21金のペン先を主力ラインアップと為して居る部分が可成に疑問である。

 

同じ日本のメーカーでも眞面目なーお堅い?ーパイロットなどは14金ペン先に拘り続けるやうな部分があるので其れには共感し得る。

ですが我はパイロットのペンには左程興味が無くあくまでプラチナ万年筆の愛好家なのである。

 

プラチナ萬年筆は個性的であり壱種ブッ飛んで行くやうな点が藝術的なのでもまたある。-例えば商品一覧・中屋万年筆 (nakaya.org)などがさうである-

正直今欲しいと思う國産万年筆は此の中屋の物ばかりなのであるがいずれも高価なので手が出せないのである。

 

 

エボナイト彫刻万年筆 夜光 | セーラー万年筆 (sailor.co.jp)

 

今回こんなものも見つけ此れは凄いなとさう思ったのだが如何せん此れは重過ぎるペンである。

あくまでエボナイト軸の万年筆としては重過ぎるのである。

 

重くとも参拾グラム台前半のところ迄に重さを是非抑えて置いて頂きたい。

何せわたくしは其の軸の重さ及び長さには超敏感なので。

 

でもって基本的にわたくしは長くて軽い軸を好むのである。

さう云うのを所謂万年筆に於ける「気障」と云うのやもしれぬのだが兎に角万年筆の愛好歴として半世紀もかかってかうなって居るのであるから其れはもはや変えられやせぬ部分である。

 

 

兎に角左様に現代の高級な万年筆は概して高価でしかも何故か重いものが多いのだ。

ところが百年以上前のアンティー萬年筆はたとえ金無垢軸、銀無垢軸ですら常識的に或は常識外れにむしろ軽い物が多い。

 

故に筆記上疲れぬのである。

つまりはさうした意味での万年筆としての基本的な要件がかっての萬年筆程高いレヴェルにて整って居る訳だ。

 

おそらくは其の部分、つまりは万年筆としての本質の部分が何かにより壊れて来て居るのである。

 

1.見栄えー見栄ーの追求

2.メーカーの儲けの追求

3.愛好家に媚びた仕様

 

であること等が複雑に絡み合い万年筆が壱種滅びへの道を歩んで居るやうにも思えてならない。

だけれども視野を拡げより万年筆を其の根っこの部分より見詰めあれこれすることでようやく其処でもって万年筆其れ自體を自己の側に引き入れることが可能となることだらう。

 

 

長刀研ぎエボナイト万年筆 緑響 | セーラー万年筆 (sailor.co.jp)

世界400本限定販売!美しく、書きやすい「長刀研ぎエボナイト万年筆 緑響」 | MADURO ONLINE(マデュロオンライン) (maduro-online.jp)

 

今回こんな物もまた見つけ我は其の緑色の万年筆が大好きなので視て居るだけで涎が垂れて来るがしかしながら幾ら何でも此れは値段が高過ぎるのではないか。

其の長刀研ぎに関しては特殊なイリジューム合金の研ぎ方であり且つ特殊な書き心地なのだと個人的には思う。

 

以前は其の長刀研ぎのセーラー万年筆だけで四本を持って居たが今や壱本のみとなった。

其れは以前とは少しく万年筆に対する思想が変わりむしろ「弄って無い」万年筆を好むやうになったからでのことである。

 

其れと五万円以上もする高いpenに対してはほぼ興味が無い。

 

 

だが此の中屋万年筆 拾角モデル(nakaya.org)だけはどうしても欲しい。

 

NAKAYA - 十角 - シガー 緑溜 (ST) [no.01051](価格: 93,500円)

 

万年筆を参、四本売り払い此れを是非注文したいところである。

とさう思いながらすでに拾年が経過して居る。

 

だがまさに其の間に此の本命としての緑漆のモデルが追加されたのだった。

 

 

NAKAYA - 螺鈿 -  青貝貼り 十角 [no.12003](価格: 451,000円)

 

ほんたうはこちらの方が是非欲しいのだが此れを得るには万年筆を参拾本は売らねばならぬことだらう。

それにしても以前ー拾年前ーより値上がりして居るやうな感じがどうしても致して居ります。

 

ようし、此の画像を今からデスクトップへ貼り付け万年筆を五拾本程売らう!

ヤフオクで売るんですか?

 

いやキングダムノートだとかEUROBOXだとかの方が手っ取り早い。

また高額となる限定品などはおそらくはイーベイの方が高く売れる。

 

そんな具合に万年筆の世界には何より浪漫がありまさに夢のある愉しい場でのものなのです。

此処での今年の夏の課題に就いてー+邪教とは果たしてどんな宗教のことか?ー

此処での今年の夏の課題に就いてー+邪教とは果たしてどんな宗教のことか?ー

 

 

 

 

ひろゆきが語る「テロのような社会への報復を生み出さないための、たった1つの考え」 (msn.com)

 

とりあえず日本社會はかうして先進國を名乗る以上は其れこそ近代的な頭の國家をつくりあげて行かぬ限りかうして迷走振りが続いて行くことだらう。

確かに封建制では上下関係がまたお盆や御墓参りが最重要な価値であった訳だがまさに其れ等の価値観が邪魔をして日本の意識決定の近代化其のものが妨げられて居る。

 

つまりはすでに其の上下関係だの儀礼習俗などに重きを置くのは少なくとも近代國家としてのあり方とは異なるものである。

また其れが政治の分野に於いてもまさにさうなのである。

 

勿論其のことをイザ鎖國した上ー保護貿易化した上ーで其れこそ上級國民が中間層以下の下層國民を統治して行く形で行うのであればまだしも辻褄が合って居る。

されど近代先進國家である癖に其の實はさうして封建體制を布くものだから謂わば下の方から崩れて行かざるを得ぬのである。

 

またつまりは其の體制こそが搾取の度を最大限に発揮する國のあり方とならざるを得ない訳だ。

其のやうな政治上の構造より現在の國としての日本のあり方が決められて居るのだ。

 

 

故に此処日本の社會のあり方其のものが悪いのである。

其のやうな社會へのあり方に疑問を抱き其れを批判すること自體はむしろ良いことである。

 

但し其の「社會が悪い」ことを理由に事件などを引き起こすのは其れは其の人の頭が悪い証拠となるものだ。

逆に頭の良い人はさうして手は出さぬが兎に角しつこく「社會が悪い」とズバリさう言うのである。

 

其の言うのとやるのとはまるで違うことでありほんに理性的な人はやるのは面倒臭く嫌いなので只しつこく「社會が悪い」とズバリさう言うのである。

 

 

其の悪い社會への報復を考えて居るうちは逆に申せば何らかのものを社會に期待して居る訳であるが其処を「そんな悪い社會には期待はしない」と云う心理に達すれば報復などと云うことを考えずともある意味で丸く納まるのである。

要するにそも相手になどして居ないので腹もまた立たぬと云う訳である、あくまで本質的な意味では。

 

さうして其の悪い社會などは金輪際相手にせず自分に取りやりたいことに専念してやって行けば其処にはもはや何処にも社會に対する怨念などは発生しない訳だ。

尚我はむしろ社會には日日感謝して居るが其れが余りに出来の悪い社會故に直した方が良いだらうに惜しいなとさう思うばかりでのことなのだ。ー左様に日本の社會もまた近代社會其のものも同時に其のあり方が悪いー

 

 

強引すぎる「国葬」裏事情 麻生副総裁の進言で「国民葬」から転換か (msn.com)

 

其の🐊爺アソーの壱言で理性派🐕キシダは「キャンキャン」となって仕舞いあんな馬鹿元総理をつい奉って仕舞った。

矢張りと言うべきか恐れて居たことが現實化した。

 

まさに其の🐊爺をこそ何とかせねばならぬ訳だ。

だがコヤツはなかなか死なぬ。

其れも何せ根っからの悪人なので。

 

残念なことに此の世では其の悪人こそがさうして生き延びるのである。

では🐵カンをキシダの子分にして🐶と🐵の連合軍をつくり其れでもって🐊をやっつけたら如何でせう?

 

さうか、確か桃太郎 - Wikipediaでは🐶と🐵とキジが桃太郎の家来となり鬼をやっつけるのでしたね。

でも其の雉とは壱體誰でせう?

 

まあ石破では無いことだらうな。

石破は何せ🐻なので。

 

だが🐻は自分の世界が強いのでつまりは自分本位で家来にはならないからなあ。

でも🐻ならば🐊爺を食うと云う手がまたあるのではないか?

 

 

つまりは🐊を🐻が食うと云う話である。

エエッ、でも普通其れは無いでせう。

 

だってどっちも強いので普通は其の戦いはあり得ないぞ。

 

 

本当の宗教とは「迷う力」を与えるもの…生きる苦しさから逃げる宗教はすべてニセモノである (msn.com)

 

尚こちらでの眞宗の僧侶の御発言に我は此の度心を打たれた。

結論から申すと此処での御発言の内容に全く同感である。

 

確かに其の「正しさへの依存」こそが邪教の条件なのであり洗脳としての具體例のことなのではないか。

 

尚何度も述べて居るやうに我はむしろ正しさとは自分でもって決めて行くことだとさう感じて居る。

またより正確には、

 

神佛ー教祖ーよりの御導き⇔實存としての精神の苦闘

 

其の両方が是非必要なのでありよって學的な修養の部分もまた其処で気付きへの重要な要件として認めて居る訳だ。

ところが宗教的な見地とは壱般に左側の部分をより重視するものである。

 

實存としての精神の苦闘<神佛ー教祖ーよりの御導き

つまりはかうなり易いものだ。

 

ましてや組織的な信仰ともなればより其の傾向に拍車がかかって行く。

 

實存としての精神の苦闘<教祖による御導き

 

結局はさうなって仕舞うものなのである。

 

 

ーそうやって「迷って生きていく自由」を放棄することで、人間は実に心地よく楽に生きることができるのだ。

問いを放棄させられ、「正しさ」によって宗教心が殺される、というのは、私の経験で言うと「会長先生の御心」という言葉でだいたい説明できる。

 

私は当初、「どうしたら自分が本当に救われるか」という思いを持って教団で求道したが、途中でそれが「どうしたら会長先生の御心に叶うことができるか」にすり替わっていることに気付いた。

それは救済の道程であり手段のはずだったのだが、教団の中で其れを言われ続けているうちに、いつの間にか教団や会長に服従することが自己目的化してしまうのである。

 

 

そして絶対的信順に生きるとき、それはどこまでも充実していて、迷いがないために楽で、自分の人生に一本の強い筋が通る。

「ブレない生き方」や「まっすぐな性格」に憧れるのもそうだ。しかし人間は「正しさ」を得てブレなくなってしまったときに、最も手に負えなくなる。それはナチスをはじめ、毛沢東ポルポトもそうであろうし、日本なら戦時中の帝国陸海軍や連合赤軍もそうだろう。私たちは生きる限り迷い続ける存在だが、迷うことの苦しさから、周囲から期待される「正しさ」という「にせの自己」を作り上げるのかもしれない。

 

フロムの言う「本来の自己」とは、迷い続ける自己だと私は考える。そしてニセモノの宗教に対して本当の宗教というものがもしあるとしたら、それはどこかに私が迷う余地を残し、迷う力を与えるもの。つまりは代置された「にせの自己」の中から、「本来の自己」を呼び覚ますものであるべきではないだろうか。ー本当の宗教とは「迷う力」を与えるもの…生きる苦しさから逃げる宗教はすべてニセモノである (msn.com)より

 

宗教やまた哲學などの人文領域での精神の格闘はまさに其の「悩み」より齎されしものだ。でもってさうした「悩み」の無い方が良いと思って居る人人が多いと思われるのだがむしろ其れは逆なのである。

 

つまるところ現存在はむしろ悩んでナンボなのである。

ましてや🐕や🐈でもあるまいしさうして人間なのだから悩むに決まって居るのである。

 

むしろ現存在とは其の「悩まんが為」に生まれ出ずる者のことだ。

つまりは其の悩む精神こそが現存在としての責務であり花道なのでもまたある訳だ。

ところで其の「悩む」ことは、正しい⇔正しくは無いとの弐項対立より精神的に悩むのである。

 

ところが其の弐項対立ばかりに掛かり切りになって居ると事が進まなくなるから、

 

正しく無い<正しい

 

と勝手に正義を何処かに築き上げつつ現存在は進んで行く訳だ。

 

其の正しいのがもしも釈迦やキリスト教の認識であれば勿論可成に其の価値観は正されることとなる。

ところが其処に邪教の教祖の考えが居据わるともはや目も当てられぬこととなるのである。

 

尚我が認識を示せば、

正しい≦正しく無い

 

大體こんな感じで要するに何故か人間其のものに対する反省力が強くあるので勿論邪教の教祖のことなどは信じやうが無いのである。

要するに人間などまるで信じて居ないのである。

 

ブレるつまりは迷い悩み苦しむと云うことであるが本来浄土眞宗は其の悩み苦しみに対し常に懐深く受け容れて下さるやうだ。

まさに其の部分こそが眞宗の説く愛の教えの部分であり故に両義的苦悩や迷いに寛容でありつまりは其の虚妄分別又は煩悩を否定すること無く生を悩み切る眞宗としての面目躍如たる部分なのではないか。

 

 

また上記にもあるが通りに社會が常に正しい訳なのでは無くむしろ社會は半分位の確率にて間違って居るものである。

だから其処にあえてみんなは基準を置くからこそ変に「洗脳」されて仕舞う訳なのだ。

 

確かに宗教による洗脳は時に最悪の結果を招くものだが實は社會的な洗脳の方がより頻繁に行われ怖いものなのだ。

其れと宗教による洗脳は主に教祖が行うことだが社會が行う洗脳はあくまで組織が行うことなのでアノ日本をブチ壊したコイズミやアベに全責任があるかと言えばさうでは無いところこそがより恐ろしい訳である。

 

でもって、おそらくは多くの在家の求道者が「幸福」や「迷い無き生」を望んで居ることかと思われるのだが其の意味での「絶対的幸福」は逆にほぼ洗脳状態が生み出すところでの精神的不幸のことを指して居ることが多い。

 

ナチスや軍國主義日本でもってブレずに鬼畜米英と戦った⇔壱匹の螽斯詩人がそんな社會に嫌気がさし山へと逃げた=非國民として

さて此れはどちらが精神のあり方として正しいと言えるのでせう?

 

地球を破壊する資本主義社會にドップリ浸かりかうして毎日會社へ行き頑張る⇔壱匹の螽斯詩人がそんな社會に嫌気がさし山へと逃げた=非國民として

さて此れはどちらが精神のあり方として正しいと言えるのでせう?

 

だから其れは牢に入れられさうになってる其の詩人の頭の中身の方がまだしもまともでせう?

では螽斯詩人、お前は「絶対的幸福」など無いとさう言いたげだがじゃあ其の幸福とはそも何なのだ?

 

現存在に取り幸福とは迷うことです、悩むことです、むしろ社會がイヤになる程にさうすることである。

此の眞宗の御住職が述べられる如くに眞の宗教とは現存在を洗脳しない宗教のことでありつまるところは精神を束縛することの無い「本來の自己」=「眞我」を呼び覚まさんが為の教えであるべきだ。

 

さて此の御住職はかって浄土真宗親鸞会 - Wikipediaに属されて居たのだったがどうやら自ら其の過ちに気付かれ其れを止められたやうである。

尚其の親鸞會に対する批判の部分は壱度此処でも以前に取り上げたことがあった。

 

いずれにせよ其の「狂信」による「洗脳」こそが精神の上での悲劇を生むのである。

また其の「狂信」による「洗脳」はむしろ此の世の中には満ち満ちて居ることでもまたある。

 

其れこそ學歴至上主義だの科学至上主義だの「金があれば偉い人だ」などと云うむしろ常識の中での誤った価値観がまた目立つものである。

 

尚我は學歴至上主義では無く學問至上主義なのでありたとえ中卒であれ學のある人には土下座して教えを乞う積もりでもっていつも居るのである。

また金のある奴からは是非金を毟り取るべきだとさういつも思って居る。

 

で、科学は壱種ヤバい世界のものであるが結局浪漫がありまたヤバいもの程視たくなるものなので實は我は科学番組をオンデマンドなりユーチューブにて視るのが大好きなのだ。

 

地球そして生命の誕生と進化 【最新版】 - YouTube

 

尚此処での紹介は弐度目となるがこちらは大変為になる動画である。

我も以前に此の動画を弐度程視て居るがまだ此の最新版の方は視られて居ない。

 

-本動画は丸山茂徳先生と冥王代生命学研究Gが文科省の新学術領域研究事業で行った研究の成果を元に地球と生命の誕生と進化を映像化したものです。 This is a documentary which portrays the birth of the Earth and evolution of life depicted through latest research activities. Executive producer: prof. Shigenori Maruyama. Supported by Hadean Bioscience Project.-

 

地球の中心"コア"への旅 - YouTube

 

こちらなどもまた良い。

 

Hayley Westenra - Once Upon A Time In The West 【HD】 - YouTube

 

「大量絶滅」巨大噴火が哺乳類を生んだ - YouTube

 

SCIENCE CHANNEL(JST) - YouTube

 

自然科学とは人間の心の働きとは対置される物理世界ー物質的な力学領域ーを対象とする知的営為のことである。

自然科学にて分かることもまたあるが例えば邪教のことなどはまさか分からぬ訳である。

 

 

人文科学としての宗教⇔自然科学なので、自己に出来得る範囲にて是非双方を學んで置くべきである。

 

特に最初の地球の全歴史としての動画はとても重要なものである。

また無論のことまさに其れが此処に置ける本年度の夏の課題である。

眞夏の萬年筆夜話ーコロナの憂さをこんな万年筆の画像にて吹き飛ばせ!ー

眞夏の萬年筆夜話ーコロナの憂さをこんな万年筆の画像にて吹き飛ばせ!ー

 

 

 

 

 

ロレンツォ・デ・メディチと星雲ー實写版ー

 

月刊ホンマもん裏トーク (38news.jp)

 

其の藤井 聡 - Wikipedia氏はかって其の著作『〈凡庸〉という悪魔 | 晶文社 (shobunsha.co.jp)』も読み大変勉強をさせて頂いて居るが最近は何を仰って居るのやらよう分からんやうになって来た。

 

ー「社会的ジレンマ」についての社会科学研究を踏まえて、過度な構造改革や自由化は社会的な厚生水準を大幅に低下させることを指摘し、小泉政権下で強力に進められ、現在に至るまで様々な領域で踏襲されている過度な構造改革や自由化あるいは地方分権を批判している[32]。ー藤井聡  #主張・批判- Wikipediaより

自由貿易を推進する者に対して、彼らにとって自由貿易は全体の利益に繋がる"道徳的"なものである一方、保護貿易は一国の利益にしかならない"不道徳"なものであるという思い込みがあり、そのため彼らは関税が存在することそのものを「悪」とし、その完全撤廃をもたらすことを「善」として信じて疑わないが、実際は過激な自由貿易は利己主義者ばかりの国を生み出し、あらゆる次元の正直者を駆逐して裏切り者をはびこらせることになるため、亡国どころか世界中の人々を不幸の淵に突き落とし、世界を亡ぼすリスクを高めてしまうものであると述べ、そのような自由貿易を「善」と考えること自体を不道徳なものである、と批判している[38][39]藤井聡  #主張・批判- Wikipediaより

 

全くのところ仰る通りです。

 

ーまた藤井は2021年9月に新型コロナウイルスワクチン接種を行ったことを明らかにした。このような手の平返しのため、独立行政法人日本原子力研究開発機構J‐PARCセンター物質・生命科学ディビジョン中性子源セクション研究副主幹の井田真人理学博士に「コロナが目の前にあったら飲み干せる」と豪語していた過去があるのにワクチン接種した藤井を「あなた方の言説に惑わされて変な方向に行ってしまった一般の人々に対しては、どのように責任をとるの?」と無責任を指摘している[44][46][47][48][49]。ー藤井聡  #主張・批判- Wikipediaより

 

だがワクチンなんてあえて打つな!何だコロナが怖いのか!!

 

ー2021年のインタビューにおいて、昨今の喫煙を巡る社会情勢について禁煙ファシズム論を唱えている。喫煙自体に非常に長い歴史を持つことを理由に挙げ、禁煙風潮で喫煙機会を抑圧していくことについて「文化保存の観点から、恐ろしい問題」「極めて非人間的」「ファシズム的な行い」と述べている。分煙の一定程度の導入には理解を示すものの、バーなど喫煙を楽しむとされる場所については文化の一つとして許容すべきであるし、居酒屋なども喫煙席と禁煙席を設けてしかるべきとしている[68]。ー藤井聡  #主張・批判- Wikipediaより

 

勿論其れには賛成致します。

 

其れにつけても何でまた岸田の政策がダメなんですか?

しかし藤井教授の話は兎に角面白い。

 

結局は話が面白いから彼が好きなんですがね。

いずれにせよ京大の先生は言われて居ること其れ自體が非眞面目であり極めて面白いです。

 

 

 

ヤフオク! - 送料無料 高田馬場・古屋万年筆店の漆塗ハンドメ... (yahoo.co.jp)

 

尚今回はあくまで万年筆の話をします。

かうしてヤフオクを視て居ると面白い万年筆が次から次へと出されて居ます。

 

其の古屋万年筆店は昔のムック本で紹介されて居てまさに魅力的な古くからの万年筆店だったと記憶して居る。

 

其れこそ昔ー参拾五年程前迄ーは此処名古屋にも万年筆の専門店があり例えば桜山には「金ペン堂」がありました。

「金ペン堂」へは其れが無くなる壱年程前に壱度だけ訪れ其処でプラチナのリヴィエールと云う銀張りの万年筆を買ったが其処はまたよりにより下らぬ物を買って仕舞ったものだった。

 

記憶によればショーケースの中には其のプラチナにせよもっともっと古い珍しい品が多く並べてあったものだった。ー古い漆塗りのモデルまでもあったー

 

但し其の折にまだ廿代後半だったわたくしは其の古い萬年筆の価値をまるで知らなんだのです。

其処には「金ペン堂」の爺さんが居ましたが今思うと其の東京高田馬場の古屋万年筆店の店主の爺さんと何処か良く似た感じの人であったものだった。

 

 

そんなわたくしも五拾過ぎから古典的な萬年筆のコレクターとなって行く。

ですので其の五拾過ぎの頭の中身の時点で当時の「金ペン堂」を訪れて居たらむしろ其処は寶の山の御店でもあった筈だ。

 

現存在ー人間ーと云う者は其のやうに認識壱つで価値観がまるで違ったものとなるものなのだ。

 

で、此のヤフオクでの万年筆ですが所謂酒井軸の物かと思われます。

其の軸はエボナイト製で鎌倉彫りと云う漆塗りが施されて居る。

 

つまるところは其の店主の古屋さんが作ったのでは無くあくまで酒井ー土田と云うかっての萬年筆の職人が共同製作して居たものだらう。

此の種の酒井軸の手作り万年筆は今還暦以上の万年筆コレクターに取り結構身近な作品でした。1980年代 酒井栄助作「晩栄」万年筆。兜木ニブ搭載 もう手に入らない品です。 (seforce.jp)

 

 

わたくしもまた参拾年程前に名古屋丸善にて参本程を求め拾五年程前にも壱本を求めて居る。ー其の鎌倉彫りの品もまた持って居るー

 

ところが当時すでに高齢であった萬年筆の職人は直に此の世を去って行く訳です。

また仙台の方にも植原 榮一さんと云う高名な萬年筆の職人さんが居られたがすでに亡くなられて仕舞った。匠の肖像 : テレビ東京 (tv-tokyo.co.jp)

 

 

其の後酒井軸の手作り万年筆は値が高騰し今では大體此のやうな価格となって居る。ヤフオク! -酒井(万年筆)の中古品・新品・未使用品一覧 (yahoo.co.jp)

尚参拾年程前は此れ等は大體弐、参万円程のものであった。ー特別な物を除けばー

 

其れが何故こんなに値上がりしたのかと言えば勿論もはや其れを作る人が居ないからだ。

 

實は拾五年程前に求めた壱本とは酒井ー土田での作品では無く其の後継者としての酒井さんの息子さんが製作された物であった。

此れもまた軸はエボナイト製で大変良い物ですが所謂金ペン先の方が別物です。

 

酒井ー土田軸には兜木 銀次郎と云う金ペン職人さんが鍛金された拾四金ペン先が奢られて居た。

 

其の金ペン先はさうして鍛造されて居る訳なので今の金ペン先と比し薄くてしなやかで要するに別物なのです。

ですが戦前から戦後暫くの間位までは日本でもまた世界でも其の鍛金された拾四金ペン先だったので概して筆記性能が良く所謂金ペン先としての格が高かったのである。

 

要するにペン先に魂が入って居るとでも言うのか、其れこそ強くてしなやかな拾四金ペン先であることがほとんどでした。

 

 

ですので、かっての万年筆は其の軸もまたペン先の方も手間暇をかけて作られし現行万年筆とはまるで別物だったのです。

またそんな手作り万年筆に限らずマスプロダクツの萬年筆にせよ戦前の物はまるで違って居ります。

 

つまりは当時の萬年筆こそがむしろ眞の意味での万年使える筆記具なのでした。

現行の万年筆はどちらかと言えば本質的性質の方には金をかけずに見た目の綺麗さばかりを大事にして居るやうな感じでせうか。

 

だけれども現行の万年筆が全部悪いとはそも言い切れぬ訳だ。

 

 

戦前の萬年筆⇔現行万年筆

 

万年筆趣味の度が深まれば自然と左側の方へと興味が傾くものだが現行万年筆の中にも「此れは欲しいな」とさう思わせる物は常にあるものです。

またむしろ万年筆への趣味性の度が深まって居ない場合には現行万年筆の方が扱い易く危険度が低いと云うことさえもが言えるのである。

 

では何が危険かと云うに實は色色と危険が其処にはある。

 

1.古いセルロイド製の軸か又は伊太利亜の万年筆のセルロイド製の軸が分解しつまりは腐ること

2.戦前の萬年筆の金ペン先先端のイリジューム合金が取れて落ちたりすること

3.インキ止め式の萬年筆の場合はインクの入れ方がそも難しくさらにインクが漏れ机上をインクで染めたりもまたすること

またレヴァーフィラーーてこ式ーの場合はゴムサックを定期的に交換することが求められることー其れもシリコンサック化すれば〇ながらー

 

 

では其のやうな手間が掛かる物であれ何故愛好家はより古い萬年筆を欲するのか?

何故なら古い萬年筆は概して万年筆としての基本性能に優れ且つ筆記に於ける愉しみを与えて呉れる可能性が高くあるが故にだ。

 

手作り万年筆 土田修一・兜木銀次郎・酒井栄助・高橋吉太郎 デッドストックだから娶ったわ♪ | 萬屋あっちゃん商店 レンズ・万年筆沼にようこそ♪ (ameblo.jp)ーこちらはマニアックな内容を含む記事ー

 

尚現代ではすでに万年筆趣味其れ自體が知識的に専門化し過ぎ其れと同時に所謂「書き味中心主義」に陥っても居ますのでかって我はまさに其のことを批判して居た訳である。

即ち万年筆趣味は元來もっと素朴な實用品としての側面を有して居た筈だ。

 

万年筆愛好家にはおそらくは高学歴者が多いが故にまさに個個人が色んなことを言うが我はむしろ其の現代人の万年筆の捉え方其のもののことを最終的には批判させて頂いた積もりである。

が、万年筆其れ自體は其れこそ知的な道具でありつまりは悪くは無い上品な趣味でもって且つ意外と自由度の高くある物なので余り其の理窟だの拘りだのに意地を張らずにまさに自分に取り樂しく付き合って行けば良い分野なのである。

 

 

 

ヤフオク! - ONOTO / self filling fountain pen / 万年筆 / ... (yahoo.co.jp)

 

さてこちらにも凄い御品が出されて居ります。

 

此のオノトのフィリグリー装飾軸の物が拾年程前だったか、東京銀座のEUROBOX-おそらくは日本壱の萬年筆ショップ-にて売られて居て其れを買おうとして居ましたが高価ー此れの倍程もの値ーでもって買い切れませんでした。

 

尚わたくしはEuro Box (euro-box.com)の藤井氏とはかって拾年程に亘り懇意にさせて頂いて居ました。ー勿論其の京大教授の藤井氏とはまた別の藤井氏ですー

 

尚此の御品は程度が余り宜しくは無い。

そんなものが何故14萬もするのだと御思いかもしれぬが何故なら我はヤフオク歴も長く廿年以上はして居るが此のオノトのフィリグリー装飾軸のタイプを今回初めて視た訳である。

 

と云うことは極めてレアーな御品だと云うことです。

 

製作年代の特定は難しいものだがおそらく1900~1920年代位の物であらう。

ー調べてみぬと確たることは言えぬー

 

オークションの画像を保存し且つ拡大して視てみましたが金製軸である刻印が確認されず金張りの可能性もまたある。

 

で、此の頃の萬年筆は其れこそ其の手作りのレトロな萬年筆である酒井軸などよりもより原初的なモデルとなります。

最終的には我もまた此の種のアンティー萬年筆の世界へと行き着き其処でもって主にL.E.WATERMANを集めた訳だった。

 

 

白木の箱に合わせたアンティー萬年筆



 

さてこちらは昔ー拾年程前か?ー撮った画像である。

左より参本目のL.E.Watermanがピンクゴールドでの金無垢装飾軸の御品である。

 

矢張り1910~1920年代位の物であらう。

ちなみに当時はピンクゴールドの軸も有ればまたグリーンゴールドなども稀に萬年筆の軸に使われて居り所謂イエローゴールドよりも其れ等の方が美しく感ぜられることなどもまた多い。

左より四本目はWahl-Eversharpの金無垢装飾軸とされる物でおそらくは相当にレアーな御品である。

 

 

尚我はかって万年筆の物語を長きに亘りー拾参年程に亘りー某有名万年筆掲示板にて書いて居たがつまりは其の頃の画像を今回また使ってみた訳である。

さらに其の万年筆の物語の初期の頃に「万年筆と鉱物」なる實写画像を貼り付けて居たことがあり其れをも以下に示す。

 

 

ロレンツォ・デ・メディチとヒマラヤ産の水晶

 

ロレンツォ・デ・メディチとヒマラヤ産の水晶

 

 

でもって筆の軸のペンの画像はとりあえずは以下の物が出て来た。

 

 

筆の軸とペンとの融合

 

 

ヤフオクの情報は参箇月程で消え去るから上記リンクでの画像なども保存して置かぬと其の侭に消え去るのみだ。

 

そんな訳でコレクターの世界はどんな分野でもまたさうなのだが兎に角マメに動いてあれこれやって居ないとならぬのである。

だから此処拾年余りは實は其れが出来なんだのである。

 

何故ならもうスッカリ文明のことを考え込んで居たので結局其れが出来て居ないのである。

其の考えの世界の方はまたしかしながら何処までも奥が深くある意味では其処に何か本質的な認識上の展開があることだらう。

 

 

ですが何かかういま少し即物的な美の世界の方に寄り沿って行きたい感じではある。

要するにパッと視て美しい物こそが我に取っての美の世界であり癒しの世界其のものなのだ。

 

どだい精神を語り過ぎると其れは偽善に陥るものでもまたあり、其れも夢幻の如き此の世に其の束の間の美の🌸が咲けばまさに其れこそが夢生し且つ夢死すること其のものとなり得ることなのやもしれぬ。

美とは其のやうに儚い領域でのものであり其れ即ち至極限定されしものなのだ。

 

限定するからこそさうして🌸は咲くのでありであるからして此処に語られるものとは全てが其の我が實存としての限定の産物なのである。

 

 

ペリカンM800と星雲ー實写版ー

 

モンテグラッパ・ヴィンテージと恒星ー實写版ー

 

シェーファーノスタルジアと宇宙ー實写版ー

 

オノトと宇宙ー實写版ー

 

尚此の宇宙と万年筆をコラボレーションした画像は其の我が万年筆物語の初期の頃にパソコンの上に万年筆を置いて撮ったものである。

 

此れ等の画像を今改めて見ると美しくまた如何にも我らしく感覚がブッ飛んで居る。

其れと何より色合いが凄い。

まあさう言うのが我が眞骨頂なのだ。

ーだからこんな画像が視られた皆様はまさに幸せ者であらうー

日本産鉱物の魅力を画像にて愉しむーパイロクスマンガン鉱の壱級標本の画像よりー

日本産鉱物の魅力を画像にて愉しむーパイロクスマンガン鉱の壱級標本の画像よりー

 

 

 

 

安倍元首相国葬に反対53% 内閣支持12ポイント急落51% (msn.com)

岸田内閣の支持率が急落! 国葬は「反対」が多数、決められない首相の「決断」が完全裏目(日刊ゲンダイDIGITAL) - Yahoo!ニュース

 

かうして岸田がついにやっちまった。

だから政治と感情は全く別物だとあれ程申したにも関わらずこんな體たらくだ。

 

 

ひろゆきが語る「カルト団体にダマされないための、たった1つの教え」 (msn.com)

 

尚我はそも自民党はカルト政党だとさう考えて居ります。

また現代文明もまた壱つのカルト文明だと正直さう考える。

 

また此のカルトな體制と申しますか組織はほぼ救い難いものだとさうも思って居る。

其の洗脳の問題は故に広範囲かつ複雑でしかも怪奇でありもはや人間の手には余るものだらう。

 

故に我は社會は救われ難いものだとさう正直思う。

ですのですでに其の社會を捨てることと致しました。

 

むしろ社會を捨てると新たな生き方が見えて来るので今は其れとのみ付き合って居ります。

でもって我が語ることとは如何にして其の社會的洗脳を解いて行くかと云うことのみだ。

 

 

つまりは邪教には限らず現存在其れ自體がむしろ洗脳人間だと云うこととなる。

現存在への諸の洗脳は兎に角酷いレヴェルなので其れだけは是非解いて行くべきだが事實上其れも極めて難しい訳だ。

 

また仏蘭西や独逸の方がこんな洗脳國家日本よりも良い國かと言えばむしろさうでも無い。

但し其処に所謂近代的自我だけは確立して居るとさう考えられやう。

 

日本人が其の精神の自立性に欠ける部分は宗教に限らずむしろあらゆる面に拡がって居ることだらう。

 

 

今後日本の生きる道は西洋文明のやうに近代的自我を確立し革命を起こすことでは無く土一揆 - Wikipediaを如何に合法的にしかも速やかに行えるかと云う部分にこそ掛かって居る。

即ち考えてみればかって逃散 - Wikipediaと云うことさえもが屡行われて居た訳である。

 

要するに封建時代の方が今よりもむしろ社會的な意味での自由度があったのだともまた言える。

左様に封建體制は洗脳體制だったとは言えずむしろほぼ洗脳化されたのが戦後民主主義としての現在なのだらう。

 

 

体感するファーブル昆虫展 NAGOYA | テレビ愛知 (tv-aichi.co.jp)

 

さてまたこんなん迄もがあった。

此の催しは地元のTV局の番組で少しくやって居たが此処では「ヘラクレスオオカブトムシ」に触れるさうである。

 

 

ヘラクレスオオカブトムシ (mushinavi.com)

ヘラクレスオオカブト - Wikipedia

 

いやあ實に夏休みらしい課題である。

しかしながら我は近頃少しお疲れ気味にてそんな子供のやうにはなかなか遊べぬのだ。

要するにすでに手壱杯なのである。

 

でも壱度で良いから「ヘラクレスオオカブトムシ」には触ってみたい。

 

 

ヤフオク! - memirin55さんの出品リスト (yahoo.co.jp)

 

さてかうして高名なコレクターの方方も標本の終活整理に入られて居るやうである。

 

鉱物図鑑|田邊コレクション (cpustudy.net)

 

岡山の此の方とは以前メールの上での交流があった。

 

我は単なる石の普通の愛好家=石の凡人なのだがかってー拾五、六年前ーは可成に石に対する熱意があったので何故かかうして高名なコレクターさん方とも交わって居たりしたのである。

勿論我は基本的には万年筆の方の愛好家であり石の方の専門知識には元より欠けて居る。

 

が、そりゃ石の素人さん方とはまた違う訳なので兎に角石の御勉強の方とコレクションだけは結構時間をかけやって居たものだった。

 

 

京都益富地學會の西田 勝一さんともまたメールの上での交流があった。

 

西田勝一自己紹介 - クリスタルポケット (eeyan.biz)

 

 

 

田口鉱山産 パイロクスマンガン鉱 西田標本

 

 

PYROXMANGITE パイロクスマンガン石 田口鉱山 001- クリスタルポケット (eeyan.biz)

PYROXMANGITE パイロクスマンガン石 田口鉱山 003- クリスタルポケット (eeyan.biz)

PYROXMANGITE パイロクスマンガン石 田口鉱山 004- クリスタルポケット (eeyan.biz)

PYROXMANGITE パイロクスマンガン石 田口鉱山 005- クリスタルポケット (eeyan.biz)

PYROXMANGITE パイロクスマンガン石 田口鉱山 006- クリスタルポケット (eeyan.biz)

PYROXMANGITE パイロクスマンガン石 田口鉱山 007- クリスタルポケット (eeyan.biz)

 

 

 

天川クリスタルよりの購入標本ー接写ー

 


西田氏は確か弐千年頃に田口鉱山の廃抗に突入し此れ等の標本を得たさうである。

其のことの是非にはまた賛否両論があるかと思われるが我に限れば賛成である。

 

何故ならかうして標本が残りまた画像も残るのであるからある意味では世間に対し夢を与えることが出来るではないか。

また以上での標本の数数はおそらく日本壱のレヴェルでの物であらう。

 

石もまた何より文化なので何らかの形にて残すこともまた必要なのだ。

 

尚西田氏は当時田口鉱山の緑マンガン鉱の標本が欲しいとさう仰って居た。

田口鉱山産の緑マンガン鉱は有るには有るが矢張り稀産であることには変わりは無い筈だ。

 

 

また此れ等の標本は所謂晶洞物である。

廃坑ー何号抗であったかは忘れたがーの斜面を下り切ったところの辺りで晶洞を開けたとさう仰って居た。

 

また来られる時には是非お伴をとさう述べて置いたがどうやら以降は来られて居ないものらしい。

 

尚西田氏より譲り受けたパイロクスマンガン鉱の標本が手元に壱つだけある。

但し残念ながら此れ等の標本には遠く及ばない。

 

其の折ー拾五年程前ーにネット上で多くのパイロクスマンガン鉱の標本を西田氏が売られて居たが其れ等を買い切れなかったのがまさに悔やまれる話である。

 

田口鉱山への行き方は弐通りがあり、其れも林道では無く県道の開きスペースに車を停め遠回りをしてズリまで至る行き方があった。

其の山道を歩いて居るだけで何か良い石が出さうな気配がするのであるが無論のこと其処には出ないのである。

 

何故ならあくまで石が出ると云うことは石を掘った後で捨てられた石が拾えると云う話なので掘って無い場に石などはまるで出ないのである。

でもって結局最も石が出易いのが其の廃坑内であった。

 

2006年当時に坑内より採取したパイロクスマンガン鉱標本

 

 

また田邊氏から譲り受けた標本も弐つ程ある。

 

矢張りパイロクスマンガン鉱の標本とレインボーガーネットの巨晶の標本だ。

田邊氏は私が田口鉱山でもって採取して来たパイマンとガーネットの共生標本にいたく興味を示され「此れは欲しいな」とさう言われて居たものだった。

 

だからあげれば良かったのだが其処をあげないのが意外と根性の悪い我である。

そんな訳で石の素人のやうな者なのにかってはかうしてあちこちへと顔を出し高名な愛好家などとも何故か交わって居た我である。

 

2004年に父が亡くなり丁度其の頃より鉱物熱が愈愈高まって来た。

2006年には何度も田口鉱山の廃坑へと突入して居る。

 

其のことの是非にはまた賛否両論があるかと思われるがあくまで自分に取り其れは大きな體験だった。

 

 

何故か大きいパイロクスマンガン鉱の画像ー西田標本を含むー

 

 

さて本日よりすでに家周りの大掃除をやり始めて居るところだ。

よって其の鉱物愛好と云うよりはまさに大掃除と盆と催事にて忙しい此の八月となりさうだ。

 

だがこんな忙しいうちがあくまで現存在に取り🌸である。

尚暫くしたらまた漱石のことで訪れる積もりで居ります。

 

天川クリスタルよりの購入標本

 

NHKオンデマンド | こころの時代~宗教・人生~ アーカイブ 「“ノアの箱舟”をつくる人」 (nhk-ondemand.jp)

 

ところでこちらは現存在のあり方の矛盾を學ぶが為に至極為になる話が語られる番組である。

此の方は所謂壱般的な意味での「意識が高い系」の方でありよって壱般人に取っては何かと為になる認識を披歴されても居るので其処がまさに良い番組である。

 

個人的にはかって此の番組を弐度視、今回で参度目の視聴となったが何故さうして此の番組を何度も視たかと云うに其処にヤーコプ・フォン・ユクスキュル - Wikipediaの環世界への言及があるが為である。

 

 

ユクスキュルの生物から見た世界とは。具体例で簡単に分かりやすく解説、要約する。 | コテンto名著 (kotento.com)

 

我もまた此処にて何度も述べたやうに人間の認識にはそも癖がありまた其れが余計な抽象性を帯びる場合には自ずと自然界に於ける認識とは乖離して行って仕舞うと云うことが此処にも述べられて居る。

 

結論的に我我現存在に於ける固有の認識はむしろ自然界からは切り離された妄想的自我である可能性が高くあるものと個人的には考える。

尤も地球の生物はまた皆違う認識世界を生きるが其れとはまた質的に違う認識世界を勝手に創り上げむしろ其処をのみ生きるのが現存在としてのあり方である。

 

また其の生の目的や意味、また平和だ愛だ救済だと云う概念的価値は壱見正しい認識のやうに見えてあくまで其れ等は抽象度の高い価値なのである。

抽象度の高い価値は例えば、

本能⇔理性

との弐項対立をもまた生み出して仕舞う訳だ。

 

其の本能こそがまさに自然界を規定する価値だが現存在には其れをのみ生きることは出来ない。

何故なら現存在は生物種の謂わばニュータイプであり其の本能と対置される理性をも常に生きねばならぬからなのだ。

 

では理性が悪いのかと言えば逆に現存在は理性的にこそ生きるべく運命を担わされし生物なのである。

但し其の理性の使い方を壱歩誤ると嗚呼まさに奈落の底へと落ちて行くことだらうそんな壱種の危うさをも抱えた存在なのだ。

 

 

ーみずからにこの事実をしっかり突きつけてみてはじめてわれわれは、われわれの世界にも一人一人を包みこんでいるシャボン玉があることを認識する。そうすると、わが隣人もみなシャボン玉に包まれているのが見えてくるだろう。それらのシャボン玉は主観的な知覚記号から作られているのだから、何の摩擦もなく接しあっている。主体から独立した空間というものはけっしてない。それにもかかわらず、すべてを包括する世界空間というフィクションにこだわるとすれば、それはただこの言い古された 譬え話を使ったほうが互いに話が通じやすいからにほかならない。ー客観的世界の崩落~ユクスキュル『生物から見た世界』|ばる|専業読書家(人文学)|noteより

 

元より其の認識は主體的主観的なものであるより他は無い。

但し客體的客観的領域は無いかと言えば我は以下の如くに考える。

 

主體ー主観ー⇔客體ー客観ー

つまりは其の弐元的相互作用なので其れ其れは別箇に規定し得ない。

但し人間の場合は新生物なので、


主體ー主観ー<客體ー客観ー

となり、

対して自然界の場合には逆に、


客體ー客観ー主體ー主観ー

となるのである。

 

またつまりは其の客體ー客観ー領域の拡大こそが人間の陥った認識上の過ちの部分=抽象領域の拡大なのである。

要するに其れは自然科学其のものが客体視に拘り過ぎて居ると云うことになる。

 

だが其れは哲學的に捉えるとさうならざるを得ぬと云うことであり故に自然科学を全否定するに至ると云う考え方なのでは無い。

其れはそも、

人文科学⇔自然科学

なのであり、


人文科学<自然科学

と今はなりつつあるのでむしろ、

自然科学<人文科学

となった方が間違い無く世の中は落ち着き其の進歩主義の暴走も止まるのである。

 

ところが、地球環境が今破壊されつつあるので、結局は

人文科学<自然科学

との形にてむしろ地球温暖化を抑えたり生物種の絶滅を防いだり或は所謂火星への移住などをやらざるを得ぬところに我我現存在は追い込まれて来て居る。

 

と云うこれまたややこしい現實に直面して居ると云うのが現存在と及びそいつらが築いた現行の文明の偽らざる姿なのだ。

だから何かしら誰しもが科学アレルギーのやうなものはあるにせよ現存在はむしろ科学的に其れを何とかして行くしか手が無いのである。

 

だからそんなもんは幾ら神やまた佛に願い奉ったところであくまで客観的にはまるで救われぬ物理的現實の様だ。

なんですが人文の徒は其れでも救われやうと頑張る訳で元より其の努力は間違ってなどは居ない訳だ。

 

だけれどもさうして現存在が心理的に宗教にて救われるのと廿壱世紀の今地球に突き付けられし大破壊の阻止の話とはまさに別次元での御話なのだ。

無論のこと壱番ヤバい話なのは其の物理的な破壊の方の話である。

何故なら宗教は眞理として個としての認識を救うものだが地球の物理的な破壊を止めるものでは畢竟無いのである。

じゃあ後は自然科学がやれるかどうかだけなのだがまた其れが厄介なことに自然科学には魂の気付きのやうなものが元元欠けて居るので今に至ってもさうして進歩主義壱本槍なのだ。

 

だから其の盲目的進歩を止めつまりは進歩の方向性を変え地球を守らんが為の自然科学であり科学技術へと変身しなければ少なくとも此の地球にさらに現行文明にもはや未来は無い。