目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

五木 寛之『背進の思想』を読んでー弐 「背進の思想」とは結局認識上の転換のことであるー

78.五木 寛之『背進の思想』を読んでー弐 「背進の思想」とは結局認識上の転換のことである

 

 

 

 

仕事を始めて20年、働くことに「本当に疲れた」。子育ても仕事も「成果」が出ない… (msn.com)

 

其の人生とはほんに疲れる所で特に今はこんな悪い世の中ですので余計に困ったものとなって居ます。

 

よって人生には期待してはダメでむしろなるべく緒価値を放棄しつつ生きて行くべきです。

其れと認識上の間違いは人と自分の人生をそも比べることです。

 

實存的価値とはそもさうしたものでは無く唯壱の場なのであり価値なのですから比較などそも意味がありません。

其れと自分の無知に気付くと少なくとも其の分だけ頭が良くなれます。

 

外側の評価にばかり拘るとむしろドンドン頭は悪くなって行く。

其れに子供や孫などは要らんと云うことにまずは気付いて下され。

 

其れどころか人類はまさにこれからが大変です。

おそらくは種として生きるか死ぬかの闘いを今後経験して行くことになるであらう。

 

 

竹中平蔵教授の「反日」経済学 (truthofjapan.jp)

 

さてアノ経営科学出版からこんな本をまた買いましたがコレがたったの百円です。

 

其の竹中 平蔵の思想とは兎に角國賊の域にあるものだ。

此の竹中 平蔵と小泉 純一郎が日本をブチ壊したのだとさう申せることでせう。

 

要するに奴等が日本の経済環境を自由化した訳ですが自由化してはイカンところまでをも自由化したので、

 

1.商店街は潰れ

2.派遣社員ばかりとなった

3.米國の🐶の度がより酷くなった

 

のである。

 

日本を幸せな状態に戻す為にはあえて戦前の方向を向き右傾化するか、

其れとも逆に中國の属國となり共産党支配の國へと変えて仕舞うかでせう。

 

其れもまた過激な弐極化であるがわたくし自身は其れはどちらでも良いとさう考えて居ます。

だが此の竹中 平蔵と云う👨はそも頭がオカシイ奴なのでこんな奴を大學教授に据えたりTVに出したりなどしては金輪際ダメだ。

 

 

試し読み | 五木寛之 『背進の思想』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)

 

さてこんなものまであります。

此処で「『背進』という適応方式」と云う本の抜粋部が読める。

 

まず五木先生の御考えでは「人間の文化は何千年、何万年の記憶の集積の上に成り立って」居り其れは謂わばゴミの山に埋もれて居るやうなものでまさに其れが今の時代なのだとさう仰る。ー『背進の思想』P.12よりー

わたくしもまた以前より人間の文化領域はむしろ過去にこそ拡がって居るとさう言い続けて来た訳だ。

 

其の過去を振り返る精神的な余裕が無いこと其れ自體が現代文明が陥った病ー誤謬=間違いーの正體である。

さうして文明が進めば進む程に其の精神がむしろ空洞化して来る訳である。

 

だからもはやみんなが空っぽの心の持ち主である可能性が高いのだがまさに其れを言うては社會はお仕舞いなのでとりあえずはわたくしだけがさう申して居るのです。

兎に角其の過去に拘る点は今むしろ最も先鋭的で且つ正しい方向性を向いた考えである。

 

 

其れと五木先生は「所有」と云うことの無意味さを述べて居られる。ー『背進の思想』P.12よりー

其のことは無論のこと佛教の教義の要諦としての考え方である。

 

此の世ではそも其の所有が出来ないので苦が生ずるのだ。

物もまた人もさらに自分でさえ所有などは出来ぬのだ。

 

其の所有の不可能性を佛陀もまたキリストもとくと分かっておいでだった。

だから佛陀はつい所有したくなる人間のケモノの部分を放棄されて行かれたのだ。

またキリストは人間のケモノの部分を全部神に託し結果的にケモノの部分を放棄されて行かれたのだ。

 

なんですがおバカな我我は持って無いと愉しめないとさう思って仕舞う。

さうして實際に何かを持ってると様様な使い途が出て来てケモノにとっては頗る面白いのである。

 

だから聖なる世界と我我凡夫の世界とはまるで違うのである。

タダわたくしがまたチョット違うのは社會的な意味での欲望を最小限に抑えよとさう述べて居る点で其れは結局文人としてのわたくしの意見である。

 

 

其の所有の無意味さは然して恐るべき問題をまた提示するものである。

其れは文明が所有を前提として進めば其の方向性の選択の誤りから必ずやしっぺ返しを食らうと云うことを意味するのだ。

 

故に現代文明が今何かと騒騒しく感ぜられるのは必然としての其の報復の過程を歩み始めたと云うことなのだ。

まさに其れは眞理領域からの報復なのだと言っても良いことだらう。

 

 

五木先生はさらに「私は自分が育った昭和という時代の記憶を忘れたくない」とも述べられる。ー『背進の思想』P.12よりー

即ち記憶としての過去を忘れてはならないのである。

 

何故なら現在はまさに其の過去の記憶が成り立たせて居るものだからなのだ。

其の過去の記憶を切り捨てれば其処に残るのはまさに刹那的な今と云う幻想ばかりとなって仕舞う。

 

だから現代人は其の幻想だの妄想だのの類に踊らされて居るばかりなのだ。

なので摩天楼も超高いタワーもさらに火星への移住も超情報化社會も全部が其の妄想の産物であるに過ぎぬ。

 

 

適応するということは前へ進むことだけはなく時には反時代的な生き方を選ぶことでもあると五木先生は述べられる。

また其れも適応の壱方式でありまさに其れを『背進』と呼ぶのだと。ー『背進の思想』P.11よりー

 

即ち後ろを向きつつ前へ進むのが其の『背進』なのだと。

 

ですが此の思想、何だか我が思想と瓜弐つなんですね。

此の世に所有が許されぬ限りは其れに固執する限り精神の幸福ー精神の安樂ーへと至ることは不可能となる。

 

故に所有は悉く捨て去らねばならぬ。

佛陀の如くに自力にて捨て去るか、其れともキリストや浄土信仰の如くに他力にて捨て去るかのどちらかである。

 

ですがカルト詩人さん、アナタは色色と持って居て其れにて常に愉しんで居ますよね?

 

 

其れも持つ物と愉しむものを限定してでのことですね。

元来は其れも無い方が良いのですがかうして生は哀しみの集積ですから其れを忘れる為には愉しみもまた大事です。

 

但し我の場合は本とペンと石だけなので實は物凄く限定されて居る話です。

他の生ものには特に人間にはなるべく手を出さぬことですね。

 

其れは人間には手を出さずに済むのであれば其れに越したことはないと云う意味なのですけれども。

 

其の『背進』と云うことは逆向きに進むと云うことだらう。

逆を向いて居る限りはさうして常に洗脳から逃げ切れて居る筈です。

 

ところが現代社會の言う事ばかりを聞いて居れば自然と洗脳が其処に成り立つ訳だ。

所有どころか個としての我もまた本質的には無いにも関わらず現代社會は個に対し其れを強いる訳だ。

 

 

じゃあ現代の社會こそが壱番の悪者なので?

 

本質的にはあくまでさうですが我我が人間である限り其れを全否定することは不可能です。

但し自力救済の途としての脱社會化ー本質的脱社會ーと及び他力救済としての脱社會化ー現象的脱社會ーは常に可能である。

 

要するに其れは社會の価値観にはイチイチ逆らって生きよと云うことなのですね?

まあさう云うことです。

但し手を出してはならない。

 

あくまで精神的に其れに対し抗せよと云うことである。

 

うわあ、何だか怖い話のやうに思えて来ました。

 

いや其の認識上のシフトが怖いのでは無くむしろ今後展開されるに及ぶことだらうしっぺ返しの方こそが怖いのです。

ですので此処まで作家や詩人に言われたなら何となく皆様にも分かって来るのでせう?

 

要するに価値観の持ち方、其の文明の価値構築のあり方其のものに誤謬があるのでそも此の世は良くはなりませんと云った類での御話です。

逆に今後世界は自己矛盾領域の拡大によりまさに地獄化して行くことだらう。

 

 

さうした意味では高齢となられたにも関わらずかうして世の常識的観念、世の趨勢である価値観のあり方と眞正面からぶつかり闘われて居る五木先生の御姿にはまさに頭が下がる思いが致します。

五木先生の御両親は教師であったとのことで要するに血筋としてインテリ壱家なのだらうが其れでもかうして九拾歳となられても世の中に対し正論を吐いて行かれる御姿は思わず拝んで仕舞う程のものです。

 

 

尚此の本の後半部では「奇妙な一体感の喪失」と題された部分の御話が興味深かった。

其れが何と「マスク」の話なのである。

 

其の「マスク」には何より壱體感、連帯感があるとの仰せである。

また其れは戦時中に「老いも若きも」壱體となって御國の為に貢献した時代と似て居るとさうも言われるのである。

 

またコロナ禍以降の時代は「夜明け」の時代では無くむしろ大衆のルサンチマンが暴発しかねない対立が露呈化する時代となるとも仰られて居る。ー『背進の思想』P.183よりー

つまるところは其の「マスク」の連帯感がイザ消え去ればまた何が起こるか分からぬとさう述べられて居るのである。

 

 

尚かって坂口 安吾が「個人的には戦争中はむしろ心理的に安定して居られた」と云うやうなことを作品中に述べて居たものである。

其れは逆に藝術家としての心の不安定さを示す言葉なのであり同時に社會のあり方の不安定さを示す言葉なのでもまたある。

 

要するに何かをそんな風に皆でやること自體にある種の「居心地の良さ」がある訳だ。

だけれども其れが戦争だの疫病だのでは實はマズいのである。

 

なんだけれども人間と云うものは半分はケモノなのでとりあえずはさうして目的がどうあらうが皆でやって居ると云うこと自體にすでに酔って居るんである。

だが我に限ればさう云うのは決して許さない。

 

僕は人間に対しては常に手厳しい文人なので兎に角そんなケモノ共をまさか認めてはあげない。

そんな憎たらしい壱文人でこそ生涯あり続けたい。

 

 

次の「予測できない時代の不安」と云う部分でもまた其のマスクの御話が出て来る。

マスクは人の自由を圧迫するものでは無くむしろ個を共通の運命の下で人を自由にする、などとも仰って居る。ー『背進の思想』P.189よりー

 

故にコロナ禍以降の世界のことを想像するとたじろぎを覚える程に時代は予測出来ず不安であるとさう仰られて居るのである。

あくまで個人的な意見としては其れは「社會のあり方としての問題」なのだとさう思うのです。

 

此の文明社會はもはや可成にヘタって来て居り次第次第にヤバいところへと入り込みつつあるのではないか?

其れも昔風にヤバいのでは無く今風につまりは本質的な意味で緒課題が突き付けられた形にてヤバいのである。

 

なのでもう其れは捨てて山奥にて暮らすと云うのも明らかに壱つの選択であり個として幸せに生き抜かんが為の勇気ある行為だ。

 

壱週間程前TVを視て居たら学生の頃より文明のあり方に疑問を持ち、尚且つ文明は悪い方向へと向かって居るとさう述べる青年がそんな山奥にて晴耕雨読の生活を行うところを紹介して居たがまさにさうしたところである。

でもって其の思想に共鳴した嫁などもまた貰ったのださうだ。

まあ🚺でもさう云う思想家みたいな人が居るのだな。

 

いずれにせよ『背進の思想』はかうして我に取り至極面白い内容の本だった。

 

 

其の五木先生は孤独だったと云う少年時代に翻訳された詩を読み其の孤独な心持ちを癒されて居たのださうだ。

ところが九州では其れは女女しい行為となることなのでこっそり隠れて其れ等を読まれて居たのだと云う。ー『背進の思想』P.202よりー

 

よって当時の「鬱」の特効薬こそが詩であったさうである。

さらに続いて英語の授業で教わったと云うロバート・ブラウニングの詩を挙げて居られる。

 

日は朝 朝は七時

片岡に露みちて

揚雲雀名のり出で

蝸牛 枝に這い

神 空にしろしめす

すべて世は 事もなし

 

『背進の思想』P.203よりー

 

「春の朝」  ロバート・ブラウニング(海潮音 上田敏)

時は春、日は朝、朝は七時、
片岡に露みちて、
揚雲雀なのりいで、
蝸牛枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。

 

五木先生は神を信ずる訳では無いが理窟を超えたものが存在することは感じるなどとも述べられて居る。

其のことは確かに我もまたさうである。

 

されど此の世には常に何かが引き起こされる。ー社會としての問題や個に取っての苦痛が常に引き起こされるー

 

所詮其れはケモノの仕業によるものであると今わたくしは考える訳だ。

また其れが人類滅亡だとかそんなことでは無いことを只祈るばかりなのだけれども。

地中都市の建設こそが急務である

1.地中都市の建設こそが急務である

 

 

 

Amazon.co.jp: 人類滅亡の日~世界が終わる10のシナリオ~ シーズン1(吹替版)を観る | Prime Video

 

こちらは科学的に描かれた小惑星衝突の場合の地球の状況及び人類の生存率を描くドキュメンタリー作品とのことですがまさに嘘のやうに怖い内容のものでした。

個人的にはあくまで文明は此の辺りの危険、リスクをも想定し歩んで置かねばならぬものだと考えて居ます。

 

従って其処では最悪の事態を考えて置かねばならぬと云うことです。

 

1.最悪の事態を考えて置くことで人類の生存率はおそらく上がること

2.最悪の事態を考えて置くことで現行の言わば下らぬ儲け主義の文明のあり方から精神的に脱却出来ること

3.デカい主義主張の対立ーイデオロギー対立ーより生じる不利益を回避し得る可能性が高まること

 

 

要するに人間が死ぬか生きるかの段になれば現行の文明に於ける緒価値はほぼ白紙化されることでせう。

逆に申せば現行の文明は「死の先駆性」=欲望の理性的放棄どころか「生の先駆性」=欲望の虜となって仕舞って居るのです。

 

其の最悪の事態の想定、現實世界に於いて悪い方向を見詰められると云うことこそが理性の働きです。

よって現行の文明は其の種の理性の働きを発動させられずに居る訳です。

 

 

また其れを壱言で申せば「馬鹿文明」だと云うこととならざるを得ない。

 

なので人類規模の問題、また文明規模での課題と云うのはむしろホモ・サピエンスが眞の意味で利口となれるのかと云う点にこそ掛かって居ります。

其の利口の反対即ち馬鹿の侭ですともう其処に人類は全部滅びませう。

 

 

滅んでも良いやうにもまた思いますのですが滅ばぬやうにする為には文明レヴェルでの「死の先駆性」=欲望の理性的放棄を成し遂げて行くより他に方法は無いのです。

そんなことはすでに戦前にかのハイデガーが述べて居たことなのですから其れが何時まで経っても分からぬのでは所詮ホモ・サピエンスは馬鹿だったと云うことにしかなりません。

 

でもそもそんな馬鹿でもって終わって良いのですか?

そもホモ・サピエンスは🐵よりマヌケなのですか?

 

所詮ホモ・サピエンスは🐈や🐕と壱緒なのか?

どうもわたくしには其のホモ・サピエンスが利口者であるとはまるで思えずほとんど🐒並にしか見えぬのです。

 

 

 

🐵!

ほい何で御座りませうか、ノブナガ様。

 

🐵!!

だから何ですか?トウキチロウは此処に居りますが…。

 

おお🐵よ、今から人類を救う為の働きをせよ。

其れは人類を無明の淵より救い出し知恵を授ける役である。

 

其の知恵とはもしや🐵知恵で御座りまするか?

 

さうだ、其の🐵知恵で良い。

其れを早うキシダに伝えるのだ!

 

またクロダにも早速伝えよ。

 

其れにあんな失言をしたクロダはもう犯罪者だ。

奴を早う牢にぶち込みキシダに地球を守らんが為の🐵知恵を授けよ。

 

でも其れはどんな🐵知恵で?

 

馬鹿者!

だから其れを今からお前が考え此のノブナガの策としてキシダに伝えずしてどうする?

 

 

うーん、何だか気が進まないなあ。

 

すると結局成功すればトウキチロウはより偉くなり失敗すればトウキチロウは失脚することとなる。

 

あったりマエダのクラッカー。

 

要するにノブナガ様だけはいつもさうして高みの見物ですか?

 

あったりマエダのクラッカー。

 

 

 

🐶!

 

🐶!!

 

さても其の🐕とはトシイエのことですか?

 

トシイエはマツと共に北陸旅行中で今此処には居ません。

 

🐶!!!

 

ほい、わたくしめが其の🐕です。

ほんたうは🐵ですが🐶もまた同時にやってみます。

 

おお🐶よ、例えば君は人類絶滅をどう救うのだ?

 

地下に穴を掘り其処に地中都市を築きます。

 

偉い!良くぞ正解が分かったな。

 

 

其れも其の地中都市を今のうちに築いて置かねばならぬ。

🐵又は🐶よ、参日のうちに其れを築くのじゃ。

 

幾らノブナガ様でも其れはオカシイです。

何故ならそんな地中都市の建設は最低参年はかかる。

 

ですが参百日頂ければキシダとクロダを奴隷としてコキ使い必ずややり遂げてみせます!

 

さうか、やって呉れるか、ではお前を今日から侍大将にでもしてやらう!

 

うわあー、嬉しいなあ、また出世しちゃったあ…。

 

だが其れはあくまで其れをやってからの話だよ。

だからやらずには何も貰えはせぬぞ。

 

 

其れではコレよりやってみまーす。

其れでは、トウキチロウ、イキまーーす。

 

あの馬鹿🐵め。

まんまとワシの計略に引っ掛かりおって。

 

なまじお前がデキる奴だからもうブチ壊れるまで働かせ殺してやらうと云うそんな話だよ。

 

 

参百日後…。

 

デキましたー、こんな地中都市がもう全部デキたのだー。

 

うわっ。

まさかこんなものがちゃんと出来るとはまるで思ってもみなんだ。

 

流石に豊臣政権は出来が違うな。

 

其れでもって奴婢のキシダとクロダはどうなった。

 

實は牢内で生死の境をさまよって居られます。

 

じゃあ助けてやれよ。

さうして助ければようやく目覚めて本気で地中都市の建設に邁進するのかもしれないぞ。

 

 

だからキシダとクロダが今後やるべきこととは只壱つ。

まさに其れが日本の大都市圏の地下に地中都市をしかと築くことだ。

 

 

但し地中都市で生き延びることは實際に可成に難しいことでせう。

ですが其れこそ限定的には其れが可能となることなのやもしれません。

 

其れに地中都市を築くことは其れこそ火星に人類を移住させることよりは實現の可能性が常に高くあることだ。

 

そんな風に今の繁栄に胡坐をかくこと無く最悪の事態に備え國策を運営して行くことこそが政府や日銀が果たすべき眞の意味での役割だらう。

五木 寛之『背進の思想』を読んでー壱 マイナスの側を見詰める考え方は常に正しいー

77.五木 寛之『背進の思想』を読んでー壱 マイナスの側を見詰める考え方は常に正しいー

 

 

 

 

さて雨降りだった月曜日には用事の帰りに七五書店へも寄り本を弐冊買って来た。

 

其の壱冊は五木寛之 『背進の思想』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)である。

 

しかしながら「背進の思想」とは相変らず本の題の付け方が上手い。

流石は五木先生である。

 

尚昔地元の中日新聞に五木先生の講演会のチケット応募の広告が載って居たので其れに応募したところ当選し親子参人にて其の講演会へと出向いたことがあった。

後にも先にも作家の講演会へと出向いたのは其の時ばかりでのことであった。

 

其れはおそらく西暦弐千年前後のことではなかったかと思う。

五木先生が壇上で熱弁をふるわれて居る其の御姿を今でもハッキリと思い出すことが出来る。

 

即ちすでに其の御姿が目又は脳に焼き付いて仕舞って居るのである。

2004年に亡くなった父にはまさに其れが何よりの冥途の手土産となったことだらう。

 

そんな経緯にて中日新聞には感謝して置かねばならぬとさう素直に思う。

其の中日新聞は此処拾年ばかりは取るのを止めて居たのだけれど年老いた母親が新聞を読みたいと云うのでまた夕刊だけ取り始めた。

 

夕刊は特に文化面が充實して居り時折我が読んでも頗る面白い。

 

 

尤も自分が文化人であるかどうかと云う段になるとどうもわたくしは文化人と云うよりは其れこそ唯我独尊での孤高の文人のタイプなのでそんな文化人云云と云うこと自體にすでに興味が無いのである。

所詮自分はかうして変わり者なので「我こそが文化人ですよー。」などと馬鹿面を下げて世間にヘコヘコして居るウソ文化人をみるとうわあもう虫唾が走るわい。

 

だからな、ほんたうの文化人と云う者はな、かうして世間にも肩書きにもまたどんな賞や権威にもヘコヘコしない奴のことをこそ言うのだ。

 

なんだけれどもかうして僕はいつも文化人的なことをやって居ます。

其れも本を読みかうして自分なりに考えるだけのことなのですけれども。

 

唯壱不満なのが其処には壱銭も金が入って来ないことですね。

何かかうおおさうだ、其の現金が何故か壱銭も入って来ないことですね。

 

 

でもって其の母が老人会だの何だのの集まりで今でも其の五木 寛之先生の講演会へ行ったことを屡周りに話すのださうな。

ところが其処で多くの人から五木 ひろしの歌謡ショーへ行ったと云うことと勘違いされて居たらしいのです。

 

まあ世間の教養と云うものは實際そんなものです。

所詮大衆と云うことは馬鹿の代名詞なのであり要するに其れ以上は考えられぬのでせうから其れに高望みをするのはある意味で可哀想でせう。

 

尤も家の近所の人が皆そんなでは無いのだがまあ世間の人人は半分はほぼ馬鹿だ位に思って置けばほぼ其れが当たっても居ることでせう。

 

さて其の御高齢となられた五木 寛之先生ですが、個人的にはアノ『大河の一滴 - Wikipedia』の頃より大ファンとなりよって以降は網羅的に先生の新刊書を読ませて頂いて居ります。

さらに古本などで其れ以前にお書きになられた作品なども屡読ませて頂いて居る。

 

其処にいつも勉強させて頂く内容であることが多く何度も繰り返し読む本なども矢張り五木先生の作品であることが多い。

と申しますのも五木先生は生の哀しみ、又は人間の哀しみのやうなものにもう早くからお気付きになられて居たやうにお見受け致します。

 

さう五木 寛之は純文學作家ではない筈であるのに其の生の哀しみに就きすでに直観なされて来て居るのです。

であるがゆえに佛教を論じられる御立場にも立たれて行かれたことでせう。

 

 

さて其の講演会では五木先生は兎に角日本の自殺者が多いことを様様な角度より論じられて居たやうに覚えて居る。

其れも如何にも作家的に偏向した見方なのだらうが然し個人的には五木先生の直観の部分は常に正しい筈だとさう思いつつ其の御言葉をしかと聴いて居りました。

 

ですが其れから弐拾年後にドーンとコロナ禍が来て五木先生の其の暗めの観念の部分が逆に世間にも浮上して来たかの如くです。

 

 

ーある媒体の記事で、コロナ後は、分散・拡散・逃散という「三散」の時代がやってくると話しました。権力の分散、情報の拡散、人やお金の逃散など、いずれもコロナ前から言われてきたことではあるけれど、コロナがきっかけになって、さまざまなことが同時的にガラガラと変わっていく。ー五木寛之「コロナ禍の大転換を"他力の風"に変えた私の技法」 「大河の一滴」にみる激変期の生き方 (4ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)より

 

其の「参散」なのですが、まさに鋭いものの見方なのだと思います。

但し近代は基本的に中央集権の価値ヒエラルキー社會ですので體制其のものを変えずに封建的、前近代的な意味での分散や拡散や逃散が可能かと言えばなかなか難しく逆に社會崩壊、文明崩壊の方向へと向かわざるを得ないのだと個人的には思います。

 

事實としてすでに様様な意味での制度的崩壊、又は精神的崩壊の面があらゆる面に及んで居ます。

其の逃散に関しては我がまた述べるところでもあるのですが其れはあくまで自己防衛としての認識を述べた迄のことで勿論皆が此の近代社會から逃散すれば近代社會はやがて立ち行かなくなります。

 

あくまで個人的には近代的価値と云うものは収奪乃至は搾取よりまるで幻の如くに成り立たせて居たところでの謂わば夢幻の如き価値なのであり其の本性の部分が21世紀に至り問われて居ると見るべきなのでせう。

其の近代的価値の幻想性ー抽象性ーに対し具象的限定がかうして突き付けられて居る訳でありよって其の「参散」なるある意味での自由な選択が果たしてどの程度まで許容されるのかと云うことに関しては元來未知数である部分が大きく存する。

要するに社會と個がかうして連動し歩むものである以上今後は共倒れとなって行く可能性は高いとわたくしは見て居ります。

 

 

ー僕は『孤独のすすめ』という本を書いたときに、「Together and Alone」という言葉を引いたんですね。これは、カラオケやツアーに行く、あるいは市民運動に参加するというふうに、いろいろな形でみんなと一緒にいながら、個人でいることを守るという考え方です。『論語』にある「和して同ぜず」ということですね。


これからはフィジカルな密着ではなく、内省的な、精神的な共感を共有し合う連帯が主流になっていくのでしょう。昔はデモンストレーションをしたり、一緒にシュプレヒコールを上げたり、集団で行動するのが連帯の証でした。これからは個々の人間が孤立しながら連帯していくという時代に入っていくんだろうと思います。ー

五木寛之「心が萎えた人にこそ、前向きに生きなくていいと伝えたい」 なぜ今『大河の一滴』が響くのか | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)より

 

其の「和して同ぜず」と云うのもまた凄い言葉だと思う。

精神的な共感は然し矢張り分かる人には分かるがまた半分は分からぬ人でもあると云う部分が人間の理性を考える上での壱つの弱点となることです。

 

要するに其のフィジカルな密着しか出来ない人がむしろ人間には多く居るのだと思う。

作家や詩人のやうな理性的な立場に立てぬやうな人が人間にはむしろ多く居る。

 

わたくしの場合はむしろ其の部分こそが気にかかる訳です。

即ち大衆的意思決定に於いては其の孤立的連帯はむしろ難しいのではなからうか。

 

大衆的意思決定から離れると云う意味では其れこそナチスハイデガーが述べて居たことがむしろ正解であった可能性もまたあり、さらに所謂大東亜共栄圏構想にせよ全部が間違って居たとは思えぬことだ。

其の内省力にせよ共感力にせよ大衆レヴェルでの其れは常に低レヴェルなものでしか無い。

 

然しそんな全体主義を許せば個は否定されますので個を救わんが為に常に全体主義は是非否定されねばならない。

なのですが個が自由となればなる程に社會はむしろバラバラに壊れて行く訳です。

 

其のやうに個と社會の関係にはそも矛盾律が居据わるのでもう話がとてもややこしくなります。

 

 


五木寛之さん「捨てない生き方」を語る|NHK

 

こちらもまた面白い御意見なのですが、矢張り物は捨てないと溜まりに溜まりゴミ屋敷化致します。

 

ちなみに家の母は五木先生と同い年ですが、矢張り物が捨てられずにドンドン溜まって行く訳です。ー昭和ヒトケタ世代はさうしてモノが捨てられぬ訳だー

すると其の物の山に大事なカードなどがまた落ちたりも致します。ーさうして高齢となると動きが鈍り物が良く落ちたりするものですー

 

で、其の度に大騒ぎで實は月曜日も其の対応に追われ右往左往して居りましたのですが其の手続きをしてからよーく探すと其の物の山の中にまさに其れが落ちて居たのでありました。

そんな訳で年を取ると其の物の管理が次第にいい加減になって来る訳ですがあくまで個人的には要らぬものは全部捨てて置くべきだとさう思います。

 

 

何故なら禅宗は五木先生が論じられて居る浄土信仰とは違いまた壱種潔癖なのであり我もまた元来はさうなので此の「掃除をなるべくやりたく無い病」と闘い兎に角普通に綺麗にして置きたいとさう思うばかりなので御座ります。

ですが今台所がゴミ屋敷化して居り例えば床壱面にペットボトルが散らかったりもして居りますが其れは此のところ作家業の方が忙しく適当に飲んで捨てておった其の報いがちゃーんと其処に来て居るのです。

 

さらに念願の大掃除もまだ全然進んで居りません。

其れもこれも全ては此処の読者に責任があります。

 

要するに頑張って書きませんと読む人が減るのでかうして頑張って書く訳なのだが。

 

其れと五木先生はちゃんと風呂に入り頭を洗って居られますか?ーたまにしか入らぬさうであるー

アノ野坂 昭如氏などは歯も磨かなかったさうですがそんなバッチイ作家の大先生方ではもうどんなに立派なことを仰られても世間には通用致しませんよ。

 

 

でもってようやく其の『背進の思想』 の書評をさせて頂きたい。

 

まず五木先生の筆致は至極穏やかで思想染みた発言はほとんど無くまるで生活エッセイ集のやうな作品で非常に読み易く且つ面白い。

其の面白いと云うのは知的好奇心を擽る意味で面白いのでは無く普通に面白い文なのである。

 

其れと共に文學性のやうなものを其処に強く感じさせられた。

文學とはかうして思想や哲學の類では無くかうして淡淡と日常の細細とした出来事を描きつつ其れでも其処に何らかの思いのやうなものを伝えると云う或はそんなものであるのやもしれぬ。

 

だから例えば養老先生の著作には感じられないさうした文學性のやうなものが此の本にはしかとあるとさう思わせられた。

其れと五木先生は其れこそ優しいと云うか世の文物やまた人に対する対立的な見方をすでに離れられて居るやうだ。

 

まあ其れは愛と言っても良いのやもしれぬ。ー或は其れぞ浄土愛なのか?ー

しかしながら全体を通して読めば或は其処に其の「背進」としてのメッセージが込められて居るのやもしれぬ。

 

其れと原稿用紙や万年筆を使われて居る旨のことをお書きになられて居りまさに其の部分は個人的に大層興味深い記述であった。

ですので思想や哲學もまた大事なのではあれ其れはまた別の領域の専門家が居られる筈なのですから我は今回の五木先生がお書きになられたものの方が息抜きになると申しますか何だか知らぬがふっと気が抜けて逆に心地良くも感ぜられました。

 

 

七五書店で買った他の本は、『現代思想入門』(千葉 雅也):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)と云う其れこそ御勉強の為の本ですので御勉強モードにて読まねばならずさう簡単には読めぬ本です。

 

確かに文學の方もまた御勉強なのではあれ文學と思想はチョット違うと云うのが實情でせう。

 

 

ーいまの様子は、平安末期から鎌倉期にかけて起きた混乱の時代と非常に似ているんです。にもかかわらず、どこからも宗教家の声が聞こえてこない。これを言うと角が立つけども、コロナの流行で多くのお寺は拝観を停止したでしょう。道にコロナで倒れている人がいたら、お寺や教会はすすんで受け入れるべきじゃないでしょうか。それが宗教というものだと思うんです。ー五木寛之「心が萎えた人にこそ、前向きに生きなくていいと伝えたい」 なぜ今『大河の一滴』が響くのか (2ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)より

 

御尤もな御意見です。

宗教家は今こそ何かを言わねばならぬのにおそらくは自己保身に掛かり切りで人助けどころでは無いのでせう。

 

だから宗教は組織維持の為の途では無くまさに眞理へと至る道である筈なのに結局は守るものが多い程宗教もまた矛盾化して行くのではないでせうか。

宗教はだから努めて小さくして行くべきです。

 

組織も御布施の額もドンドン小さくして行くべきだがでも其れでは事實上寺や教會の維持は難しくなるのでせう。

まさにソコが生きると云うこと自體の自己矛盾性を表す部分なのだと思う。


 

【五木】宗教は、そういう人の不安を癒すためにあるものじゃないですか。ブッダは、不安な世界にどう生きるかという安心の道を語ったわけです。そういうふうに考えると、本当は今こそ宗教家の出番ですよね。でもなかなかその動きは見えません。これは本当に、コロナの時代の七不思議の一つです。五木寛之「心が萎えた人にこそ、前向きに生きなくていいと伝えたい」 なぜ今『大河の一滴』が響くのか (3ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)より

 

佛陀はかって確かに眞理を説かれましたが問題は其れを眞の意味で理解する知性が此れ迄に果たして何人居たかと云うことです。

おそらくは百人位しか居なかったのではないでせうか。

 

我もまた其の中には多分入って居ないのだと思う。

なんだけれどもかうしてあれこれとやって居るー考え込んで居るーこと自體がまず珍しいことでせう。

 

要するにとてもレアーな人間であり知性のあり方です。

つまりはそんな伊太利亜の万年筆並に変わって居るのがわたくしだ。

 

 

其の佛陀が語ったところでの安樂への途とは世間で考えられて居るやうな安樂のあり方とはむしろ逆方向での謂わば脱構築でのやり方なのではなからうか。

と云うことはむしろ其の世間に於ける認識が何故其れを欲しまさに其処に落ち着いて仕舞うのかと云うことをこそ問うて行かねばなりません。

 

ですのでわたくしの場合眞理の探究とは釈尊の説法の内容を丹念に調べることでは無くむしろ世間ー俗世界ーの認識をまずは観察して行くこととなるのです。

勿論自分の中にも其の俗的認識が半分はありますのですが、幸か不幸かかうして認識其れ自體が可成にズレても居りますのでとりあえずは其処で其れとは違う認識をすることが可能です。

 

其の自分に取り可能である部分より世間に対し疑問を投げかける場こそが此処であり、我が目的の全てです。

 

さて理論的に其の佛陀の智慧を書き連ねて行くこともまた今の我には可能ですがさう云うのはまた藝術的では無く自分の場合はむしろ藝術と佛陀の智慧をゴタ混ぜにしたやうな形でやって行きたいと今はさう思う。

 


【五木】この本が刊行されたときの帯の文句は「もう覚悟をきめるしかない。」でした。僕は世の中のことに、すごくネガティブなんです。人間の世界というのは、間違ったことしか通らない。「善き者は逝く」という言葉が常に頭に残り続けているんですが、善良で誠実な人たちは先に逝ってしまう。生き残るのはしぶとい人間だけだ。世の中はそういう矛盾したことに満ちているわけです。五木寛之「心が萎えた人にこそ、前向きに生きなくていいと伝えたい」 なぜ今『大河の一滴』が響くのか (3ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)より

 

五木先生の其のネガティヴ體質の部分は明らかに正しいです。

ネガティヴな考えこそがむしろほんたうのことです。

 

で、文明は逆にポジティヴ思考を全體主義として展開して居りますが勿論其れは完全なる誤りです。

また善良で誠実つまり正しい人間はさうして皆早う死にます。

 

要するに生き残るのは👿だけです。

自分も其の👿とは無関係ではないですが自分と話の出来る👿はまだしも善良な👿でありほんたうの👿はむしろ世間にて善良なフリをしつつ内心ではモロ👿であると云う人間で凡そ人間の半分が實はさうなのです。

 

またコロナ禍以降自分等の保身にばかり熱心で人助けをしたり世の中の姿勢を批判したりしない宗教家はウソの宗教家であり邪教の教祖でありまさに其の👿其のものだ。

 

 

【五木】人生は矛盾だらけですから。たとえば、努力したって報われないことは山ほどあります。それを覚悟したうえで努力をすれば、報われなくても落ち込みません。

五木寛之「心が萎えた人にこそ、前向きに生きなくていいと伝えたい」 なぜ今『大河の一滴』が響くのか (3ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)より

 

まさに世の中には多くを期待しないと云うことでせう。

但し餓死すると困りますので🍱と飲み物だけは配って下さい。

 

其の努力ですが本質的には今後努力の向きが変わるのだとさう思います。

新たな価値観とは地球を守り人間ー文明ーが出しゃばらぬやうに生きることを目指すことだ。

 

ですがすでに破壊の度が酷く進んで居るので其れを食い止めんが為の努力を最大限にして行く必要がある。

其のガブリエル氏の仰る倫理資本主義にせよまた斎藤先生の仰るマルクス主義の再評価にせよ重要なこととは其れ等が単に學問領域の問題では無く實質的、具體的に文明のあり方に対し発せられた課題であると云うことです。

 

但し文明の方向性は変わらぬ、いえ変われぬと見て置く方がより現實的でせう。

其のことを學問的に説明することもまた可能です。

 

 

可能ではあれ其れを論じてもかうして壱向に変われぬのでそんな社會はもう捨てたれと云うのもまた壱つの方向性ではある。

但し捨てたが最後余計に勉學に打ち込まねばならなくなる。

 

何故なら捨てると云うことがまさに精神を自立させて保つと云うことなのだから。

だから申し訳無いのですが戦前の教育が目指した「努力し頭を良くしまた軍隊を強くしやがては世界を征服する」との努力はすでに此の世界では努力では無く逆にプータロ―となったり或は橋の下で暮らすやうになったり又は詩人の如くに兎に角山の中へと逃げて行きたい。

 

との其の-の努力こそが評価される時がもう目前に迫って居るのやもしれません。

 

つまり、

「努力するとは理性的に生きてみる」

ことである。

 

まあですから、プータロ―又はルンペン生活或は仙人化、此れ等と地球温暖化と闘う為の科学技術の推進とはほぼ等しいことだらう理性的な努力です。

逆に物を余計に売りつけたり火星へ行く計画を練ったりさらに何かと壱等賞を目指したりするのはもはや其の全部がケモノの仕業です。

 

そも文明の持続と云うのは其の理性的努力が出来るか如何に掛かって居ます。

だから理性的努力が出来なければ後はもう滅亡の時を待って居るだけの人類と必然としてならざるを得ない。

 

 

ーついでにいうと、生まれつき努力が好きな人っているんですね。生まれつきというのは、本当に格差の元凶です。いいところに生まれて、本当に苦労のくの字も知らずに、楽々と一生を送る人もいれば、右を見たら転ぶ、左を見ても打たれるという運の悪い人もいる。だから、世の中が矛盾していることは覚悟し、その中で少しでも努力が報われたり、ラッキーなことがあったりしたら心から喜べばいいんです。ー五木寛之「心が萎えた人にこそ、前向きに生きなくていいと伝えたい」 なぜ今『大河の一滴』が響くのか (4ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)より

 

其の生まれつきに努力が好きな人人が此の近代世界を構築して行ったことでせう。

但し其れが壱方向性の努力であったが為に元來此の世の實相としてある両義性の部分を完全に見失いました。

 

人間はイザ其の両義性を見失うと後はもう破壊者となるばかりでのものです。

五木先生が仰るやうに矛盾を覚悟して生きること、謂わば「矛盾の先駆性」のやうなものを精神に取り込むことは大事ですが其れこそハイデガーが述べたところでの「死の先駆性」ですら取り込んで行けぬのが大衆的心理としての實情なのでせう。

 

だからむしろ最近わたくしは政治や思想の問題よりも其の大衆社會に於ける大衆的な認識とは何か?と云うこと、其の大衆的認識こそが世を滅ぼす元凶ではないかとの判断に至って来て居ります訳です。

但し五木先生の場合はあくまでお優しいのでそんな酷えことはまさか申されずでも石原 慎太郎先生が亡くなられたのは可成におこたえになられたやうで何故かと申せば同年、同月生まれだったのださうです、そも五木先生と石原先生は…。

 


尤も五木先生はまだしも人間らしく生きられて居てほんたうに羨ましい思いで壱杯です。

我なんぞはもう生きてるのだか其れとも死んでるのだか、また頭が良いのか単なる馬鹿なのかが自分でもまるで分からず兎に角かうして人間界と思想界、また世俗と出家、との間に板挟みにて詩人をやらせて頂いて居るがもうほんたうにこんなもん辞めて早う山へと逃げて行きたいばかりでのことなのです。

Filcao万年筆のサイコーの筆記感!ーFilcaoの万年筆にJinhao 9056のニブユニットを付けてみたー

Filcao万年筆のサイコーの筆記感!ーFilcaoの万年筆にJinhao 9056のニブユニットを付けてみたー

 

 

 

 

其のFilcaoの万年筆には問題もまた御座ります。

其れはキャップを尻軸に嵌めてもスカスカであり固定出来ぬと云うことです。

 

勿論1910~20年代の古典的萬年筆にはさうしたことが無くむしろキャップを胴軸に挿した状態で使うのが基本だった訳だ。

ところが特に戦後は欧米圏で長い筆記具の軸を嫌う傾向が出て来たやうで、其れでもって万年筆の場合にはキャップを胴軸に被せず胴軸のみで書くと云う筆記スタイルが壱部に確立致しました。

 

ですが其れは筆記の上での合理化の壱環として考えられ得ることです。

要するに現代人の筆記スタイルはより樂をする方向へとまさに大衆的に変化して行ったのだと思う。

 

ですが其の筆記具の長い軸こそが好きであり大衆的感覚が大嫌いな我などは勿論さう云う形での何でも安易な方へと堕する流れには与せぬ訳です。

要するに我はまた貴族的感覚、其れも精神的にそんな貴族精神を生きる者ですので其のやうな下賤な動きにはもはやガマンがならず其れでもってかうして常にプリプリと怒って居ます。

 

ま、さう云う独善的な世界観は今ではまるで流行らぬバンカラスタイルな訳で、其処は皆様にもなかなか御理解頂けることかとさう存ずるのですが其れでもかうして文筆壱つで生きて行くこと、何ぞ世の中のお役になることを書き皆様に喜んで頂くこと、もはや其ればかりを祈念しつつかうして日日筆を取りますことを嗚呼どうかどうか御理解頂きたい。

 

そんな訳にて、其のFilcaoの万年筆は、

 

1.キャップが尻に嵌らない

2.軸色の塗装は赤では無く朱色

3.兎に角巨大なる万年筆

 

だと云うことです。

また、

 

4.フィリグリー部はおそらく鉄又はステンレス素材に銀メッキを施したもの

 

です。

 

 

尚銀メッキと銀張りは違い当然のことながら銀張りの場合はまず剝げにくくなります。

されど此の万年筆の銀鍍金はむしろ良い出来のやうに見受けられる。

 

其れでもって頻繁に使用しもし剝げた場合にはむしろ鍍金の全部を剥がして仕舞うと云う手なども御座りませう。

 

いずれにせよ筆記具で面白いのはかうして色色と手を加え状態を変えても行けると云うことなのです。

またボールペンなどでも芯の方を他社の違う形状のものに改造し入れ替えることなども可能です。

 

つまるところ腕時計などは素人ではメンテナンスや改造はまさか無理と云うものですが筆記具は意外と簡単に自分好みのものへと仕立て直すことが常に可能なのだ。

 

 

5.ニブユニットー首軸+ペン先+ペン芯ーを昨夜のうちにまた交換致しました。ー中國金星のニブユニット→中國ジンハオのニブユニットー

中國金星のニブユニットですと固定が悪いので金属テープなどを巻き胴軸にねじ込む訳だが其れでもどうも固定の仕方が悪い。

 

其れでもってJinhao 9056のニブユニットを付けてみたところ何と其れがピタリと固定出来ました。jinhao 9056: Search Result | eBay

ノーマルの侭で嵌ったと云うことですが、但し胴軸の内部に剝がれた金属テープもまた貼り付いて居ますのでたまたま上手く行ったと云うことに過ぎぬことだらう。

 

ですがペン趣味もまた円熟期を迎えますと何故か其の「たまたま上手く行く」ことが多くなる訳だ。

全く不思議なことなのですが何時の間にか其のpen趣味への愛♡の如きものに導かれ何でか知らぬが元元別別の部品が上手く嵌ったり入れたいと思って居る正規では無いボールペンの芯が何とか軸におさまったりもまたするものです。

 

かう云うのは「壱念」と云うか「念力」と云うか實はそんなものにも近い感じが感覚としてはあくまで致します。

されど物質的にはあくまで物理現象ですので要するにサイズが合えば合い合わなければ合わぬだけのことです。

 

 

で、胴軸にキャップを嵌めるのは簡単で要するにセロテープを弐枚重ねて尻軸の部分に巻くだけのことです。

其れもまあみっともないのではあるが見栄えよりも筆記感を重視する我は其れもまた時折使う手です。

 

要するに此のデカいー長大なーフィリグリー装飾付きの万年筆であることこそがサイコーなのです。

 

其れでは此の自分に取り使える状態となった伊太利亜製のカルトな万年筆の全長を測ってみませう。

197mmありました。

 

此の大きさはまさに並のものではありません。

かうして万年筆も大きい物は数が少ないのだと言える。

 

 

尤も大きな万年筆は戦前の巨大な萬年筆を復刻した巨大なモデルがNAMIKIから幾らでも出て居ります。URUSHI|Maki-e fountain pen|Namiki (pilot-namiki.com)

其のNAMIKIとは並木製作所であり要するにパイロットの戦前での社名です。

 

わたくしもまた其の大型漆モデルの朱軸の物を日頃愛用して居りますのですが其れは以前PILOTで販売されて居たものでより古くある意味では貴重なモデルです。

其の巨大な金ペン先は20号でありおそらくは世界壱大きなペン先であることでせう。

 

当時から高価な万年筆ではあったがわたくしの場合は問屋から直買いするコネを持って居たので当時大抵の万年筆は四割引き程で購入して居りました。

其のPILOTの大型漆の長さを測ると、其の筆記状態で、

218mmです。

 

此れだけデカいと普通の人は持ち切れぬことかと思われますがわたくしに限り筆記に於いては兎に角器用ですので何でも持てるのであるし普通に使えちゃいます。

 

 

EMPEROR|Maki-e fountain pen|Namiki (pilot-namiki.com)

並木の万年筆群は今や世界最高峰の物であるとさえ言い切れることでせう。

 

但し御値段の方もまた世界最高峰の物だと言って良いことだらう。

尤も此れ等の作品はほぼ美術工藝品の域にも達して居る訳だ。

 

また大きさの方もまさに巨大な万年筆群ですので此れを實用に供すると云うよりは観賞用であり愛玩用となるかと思われる。

尚此の種の美術工藝万年筆やまた例えば戦前のダンヒル・ナミキの如き所謂名品としての萬年筆はわたくしの場合持って居りません。

 

其の代わりに實用し得る先の大型漆壱本のみをまさに日日使って居る訳だ。

但し戦前の蒔絵萬年筆はプラチナの物をかって五、六本を集めました。

 

其の五、六本を集めるだけでもまさに大変でした。

何せ壱本壱本が元元高価な物ですので…。

 

 

ですが實は拾年程前までは其れが限定万年筆よりも高いと云うことは無かったのです。

要するに現代の限定万年筆が壱番高価であり要するに其れは其の實力以上に現代の各メーカーが価格を設定するが故にさうならざるを得ない。

 

つまりはさうして儲けて居るのです、何だか知らぬが其の現代的な価値ヒエラルキーの中でさう儲ける値が常に設定されて行くのである。

なんですが實は戦前のボロ萬年筆壱本の方が軸及びペン先共に本質的性質が優れたものとなって居ることがまた多い。

 

ですが其れももはや大昔の物ですので壊れたりもまたしよって絶対に其れが良いともまた言えぬ訳なのである。

なのだが概ね現代の万年筆はダメで戦前の萬年筆の方がむしろ良いとさう見て置くべきでせう。

 

要するに其れは戦後の人間がダメで戦前の人間の方が骨がありこと精神的には良いと云うやうなこととまるで同じやうなことです。

其の限定万年筆にも中には良い物があるが高過ぎたり入手が難しかったりで従って全體的に其れが良いと云う訳ではありません。

 

むしろさうした現代的な価値ヒエラルキーのやうなものを個的に崩す部分から万年筆としての本質を問う旅が始まる訳でよってさうした領域を順を追いやって来たわたくしの万年筆観は今むしろ限りなく自由なものとなって居ます。

かうして趣味の世界だのまた読書だの藝術の領域では明らかに今の我は自由となりつつある。

 

 

YUKARI|Maki-e fountain pen|Namiki (pilot-namiki.com)

尚ユカリコレクションはそんな大型万年筆では無く普通サイズの物でまだしも現實的な現代の蒔絵万年筆で、かって私も総螺鈿軸の物ーパイロット・ブランドーを保管して居ましたのですが重過ぎるのが気になりイーベイにて何処ぞの欧羅巴人に売り払いました。

其の何処ぞの欧羅巴人はどうやら大層喜んで居たやうでした。

 

さうして兎に角其の蒔絵万年筆なるものは万年筆としては最高峰の分野として位置されるものです。

 

さて廿年程前に文具屋の知り合いのNさんに時折喫茶店へ誘われた我は「兎に角蒔絵万年筆を海外へ売ることだけが壱番儲かる」ことを其処にて力説して居たものでした。

ですが今や日本の蒔絵万年筆はかうして幾らでも海外市場へ向けて売られて居ります。namiki in Collectible Fountain Pens: Search Result | eBay

 

DUNHILL-NAMIKI SAKURA ROSE LE MAKI-E MASTERPIECE by KYUSAI YOSHIDA #15/25 | eBay

 

おい然し壱體何だ、此の値段は!

即ち四千五百九拾七万円也。

 

壱體何処の馬鹿がコレを購うと云うのだらう?

さうか、でも世界にはクソみたいな大金持ちが沢山居るからこんなもんは屁でも無いのだな。

 

然し問題は其の四千五百九拾七万円のうちのどの程度が儲けになって居るかと云うことでせう。

おそらくは四千五百万位が儲けとなって居ることだらう。

 

いやだから資本主義は確かにコレクターに取っては常に愉しい。

資本主義だからこそかうして伊太利亜からカルトなペンを取り寄せ其れでもって愉しく遊んだりもまた出来る。

 

だがどう考えても其の四千五百万位の儲けはやり過ぎでせう。

つまるところ資本主義は万事に対しやり過ぎ歯止めが効かぬ訳です。

 

 

VERY RARE 2005 DUNHILL NAMIKI MAKI-E SAKURA ROSE FOUNTAIN PEN NEW BOXED | eBay

こちらが約参千弐百八拾参万円ですね。

コレ然し頭がオカシクありませんですか、どう見ても。

 

ほんたうにこんなものを買わされて居る石油成金だの馬鹿なCEOなどが世界には居るのでせうか?

だがもう怖くて評価の履歴の部分さえ視られません。

ほんたうにこんなものを買う奴がもし居るとしたらもはや其れは恐怖でしか無い。

 

Namiki Emperor Urushi Collection Fountain Pen - Black - Medium Point NEW in box | eBay

こんな普通の物でも弐拾六万もして居るのだ。

 

まあ兎に角壱種恐ろしい世界が其の現代の蒔絵万年筆の世界であることだけは良く分かった。

 

 

wancher in Collectible Fountain Pens: Search Result | eBay

 

尚大分の萬佳さんの方もかうして頑張って蒔絵万年筆を売られて居ます。

つまりは外人から金を毟り取る為にはもはや蒔絵万年筆しか無い、と云うのがどうやら日本の實情のやうです。

 

でもって蒔絵万年筆、其れもベーシックな蒔絵万年筆は實際に物が良いことがほとんどです。

其のわたくしが使うパイロットの大型漆は、

 

1.インク止め式ながら軸からのインクの漏れが無い点

2.弐拾号の巨大なる拾四金ペン先が意外としなやかである点

3.軸の精度や作りがほぼ満点に近い点

 

との点からほぼ世界最強の大型万年筆でせう。

 

 

日本にはかうして物を作る折に発揮される高い技術力や職人技が元元ある。

だから出来上がる物は常に最上級まで上り詰めることが可能である。

 

ところが、庶民に対し日本の給料は上がらず實質的にはむしろ下がって居りまたコロナ禍以降はむしろ格差が加速しつつ開きつつある。

何故かと申せば壱部の業種や企業だけがしこたま儲け逆に廃業や首括りに追い込まれる業種などもまたありつまりは不平等極まり無い社會を形成する他は無い訳だ。

 

だから其れは此の異常なるヒエラルキー価値の形成よりまずは引き起こされて居ることです。

だけれども其の価値ヒエラルキー其れ自體は結局変わることが無い。

 

得たものが多ければより肥え太り得られずば死すと云うのが此の世界を刺し貫く闘争の原理である。

と云うことは結局は此の社會自體が何か狂ったものであると云うことでせう。

 

 

なので其処を見詰めて居ては自身の幸福など得られやう筈が無い。

よってあえて其れー価値ヒエラルキーーを放逐して見詰め直す、其処でむしろ己の価値観に従いあえて此の世にて極樂世界を形成して行くより他は無い。

 

そんな訳でわたくしのペン趣味とは要するに其の己の価値観に従い此の世にて極樂世界を形成して行く試み其のものなのだ。

勿論其のFilcaoの巨大な万年筆もまた極樂世界の形成に是非必要な壱ピースとして機能する物です。

 

尚中國ジンハオのニブユニットには違うペン先をすでに組み込んで居ります。

其れは凡そ百年前のL.E.Watermanの六号金ペン先です。

 

しかも其れは「金直書き」仕様としてあります。

 

「金直書き」仕様…ペンポイントからイリジューム合金を取り去った物

 

即ち金ペン先での直書き仕様です。

またつまりは金合金其れ自體で紙に字を書く仕様だと云うことです。

 

 

尤も其れは非常識なことなので普通万年筆が「分かった」方方はまさか其れは致しません。

ですがわたくしはかうして其れ以上に分かったむしろ万年筆の仙人ですのでかうして童子の如くに兎に角やりたいことをやり、其れでもって此れ迄に何度も此の仕様のペン先を創りましたのですが其の全てに成功しかうして使えるやうになりましたのです。

 

またつまりは其れが万年筆の非真面目をあえてやると云うことです。

 

其の筆記感たるやまさに毛筆の如しです。

但し筆圧をかける書き方ですと金合金の摩耗が早く進行し或は壱年程で寿命が尽きるのやもしれません。

 

ですが我は此の「金直書き」仕様としてのL.E.Watermanの六号金ペン先をすでに弐年程使用して来て居りますがむしろより書き易くなった位でさうして兎に角まともに使えて居る。

 

其れでは早速書いてみませう。

 

 

くわあー、壱體何だい此の毛筆感は!!

 

金の直書きでもってして其れが此の長い軸と相俟ってこんな恐ろしい程の毛筆感が…。

うわあー、ほんたうにスゴい、其れももう何遍書いてもスゴいんですぅ。

 

そんな訳でわたくしはかうして人知れず己が信じた道を行き万年筆道の奥義を極めつつあるのだと申せませう。

 

尚予備にもう壱本買うかもしれぬのでいい気になり其のFilcaoの巨大な万年筆を落としなどしては決してイケません。

其れはアナタには難し過ぎるつまりは手に余るペンだからです。

 

ですがわたくしにはかうして自在に操れるペンとなるのです。

つまりはpenに対する力量を問われるpenなので所詮アナタに其れは無理です。

 

だからタダ黙ってわたくしの御話を聞いて居れば其れだけで良いのです。

またさらに其処から壱歩進んでわたくしの思想の信者になることこそがアナタ方にとってのサイコーの幸せでもまたあることでせう。

其のまさにカルトな伊太利亜の万年筆ー劇的にレアーな万年筆にてこんな梅雨空を吹き飛ばす!ー

其のまさにカルトな伊太利亜の万年筆ー劇的にレアーな万年筆にてこんな梅雨空を吹き飛ばす!ー

 

 

 

「サイコパス」はどういう人なのか? 魅力的に見え、特定の職業で活躍も - NewSphere - Page 3 | NewSphere -3ページ

もしや我はサイコパスなのか?

とさう思いテストをしてみたところ1、2、項目しか当てはまらず結果まるでサイコパスでは無かった。

 

世界の研究が証明、IQが高い人の20の共通点 あなたは幾つ当てはまる? - NewSphere - Page 7 | NewSphere -7ページ

ひょっとして我は高IQ者なのか?

とさう思いテストをしてみたところ其の孤独を好む点ー社交嫌いーと単独での思考を好む点、及びパートナーは壱人に限定すると云う点、心配性である点などで其の通りでした。

ですが他の部分が違うので我は結局高IQ者なのでは無い。

 

では果たして我は誰でせう?

ですが皆様にはすでに此の癖の強い我がパーソナリティーのほぼほとんどが見え見えでせう。

 

さうしてあえて裸になり何やら汚いものばかりをお見せして来たのですでに其れをアナタ方は見たのです!

いや見せられたのです。

 

さうしてわたくしの露出趣味にまんまと引っ掛かり其の汚い何かをかうして見せつけられた!

 

さて我は本日忙しくして居りとても疲れました。

だが相変らず哀しみの淵に沈み込みつつ今はpenにて遊んで居ます。

 

 

其のpenは本日伊太利亜より届きました。

無論のことわたくしがあえて伊太利亜より取り寄せるpenは並の品では御座りません。

 

わたくしは90年代から2005年頃まで伊太利亜の万年筆のコレクターをして居りました。

尤もより正確には世界各國の限定万年筆のコレクターをして居たのです。

 

だから当時は随分と散財して仕舞ったので現金には實は恵まれて居りません。

が、現物の方はかって沢山持って居りましたのですが其れも伊太利亜物の多くは使い倒すか又は売って仕舞い手元には拾本程しかもはや残っては居ない。

 

 

さて其の伊太利亜の万年筆の魅力は、

 

1.世界で壱番壊れ易いpenである

2.デザインが個性的でしかも美しい

と云うことに尽きて居ります。

 

尚万年筆の場合はボールペンよりも壊れ易くまた個体差などもより大きく出易いものです。

 

3、伊太利亜の限定万年筆はまず軸から壊れて行く

 

まさにコレが結論です。

ところが、眞面目にキッチリと作られた独逸の万年筆であれ古い物に限れば壊れ易いものもまたある。

 

壱番壊れないのはむしろ日本の万年筆です。

ですが日本の万年筆は現在総じて高価な物となって仕舞いました。

ー弐拾年程前は現在の半値程の価格設定でした。ところが当時の給料よりむしろ今の給料の方が低いので要するに当時の感覚からすれば倍以上の高価な品となって居る訳だ。ー

 

 

他方で中國の特に廉価な万年筆の品質が上がり所謂コスト・パフォーマンスで楽に日本の万年筆を凌ぐ万年筆がすでに現在沢山作られ売られて居ます。

さらに印度の万年筆も廉価な万年筆の方がまた素晴らしく、よって壱万円以下の予算で万年筆を選ぶのであればそちらの方を選んだ方が遊べるのであるし選択肢などもまた拡がる訳だ。

 

尚其の印度及び中國の万年筆は此処拾年ばかりは主に其ればかりをやって来た我ですのですでに可成に詳しくもなって居る訳だ。

 

ですが今回得た御品はまた其れ等とは別物での言わばカルトな万年筆です。

元元我はカルトな万年筆贔屓なのだが其れも何せ愛好歴が半世紀で、またコレクター歴も四拾年弱となった今では余計にカルトな万年筆が好きになって仕舞い其れは要するに普通の万年筆はもう要らないと云うことなのだ。

 

では其のカルトな伊太利亜物とは何か?

 

 

ANONYMOUS Italian Fountain Pen-FILCAO Prod.-FILIGREE On ORANGE LACQUER-90's-NEW | eBay

 

ズバリ其れがコレです。

 

Extremely ELEGANT & ULTRA RARE!

At the Start of 90's there was  a collection of unbranded Italian Pens inspired by the most imortant historical pens with a fusion with a modern style,

These pens was sold by the most important Italian pen's shop,
Filcao is an Extremely Rare Italian Crafted Production,
FILCAO Was an Italian Brand, Famous for the innovative pens created by Franco Grisolia,
he Founded FILCAO in 1963 in Settimo Torinese ( Near Turin ), remain in Production until 2014,

Unfortunately, Mr Franco Grisolia dead in 2015.
Mr Grisolia was a great pen's inventor and a great Italian Collector.


 The Pen has been never used, i think was inkede for test, It's in excellent conditions, Have some very minor Micro sign due time, Have the original CONVERTER, IT'S READY TO USE

 

非常にエレガントで超レア! 90年代の初めに、現代的なスタイルと融合した最も不朽の歴史的なペンに触発されたブランドのないイタリアのペンのコレクションがありました。 これらのペンは、最も重要なイタリアのペンショップによって販売されました。 Filcaoは非常に珍しいイタリアの工芸品であり、 FILCAOは、FrancoGrisoliaによって作成された革新的なペンで有名なイタリアのブランドでした。 彼は1963年にセッティモトリネーゼトリノ近郊)でFILCAOを設立し、2014年まで生産を続けています。 残念ながら、フランコ・グリソリア氏は2015年に亡くなりました。 グリソリア氏は素晴らしいペンの発明者であり、素晴らしいイタリア人コレクターでした。 ペンは使用されたことがない、私はテストのためにインクを塗られたと思う、それは素晴らしい状態にある、いくつかの非常にマイナーなマイクロサインの期限がある、元のコンバーターを持っている、それは使用する準備ができている。

 

 

尚以上のオークションは私が落札後にまた同じ物が出されたものです。

で、以上の文は自動翻訳によるものですが滅茶苦茶に面白い、即ちまさにDeepな伊太利亜の現代の万年筆としての歴史を伝えるものです。

 

勿論私は其のFilcaoなるブランドのことなどまるで知りませんでした。

其れも日本人としては伊太利亜のペンには強い筈のわたくしにせよまるで知らなんだのです。

 

結局世界と云うことの奥深さとはさうしたことなのだらう。

此の世界には常に不可思議な領域、なかなか踏み込めぬことだらうまさにカルトな段階のやうなものがかうしてしかと拡がって居ます。

 

個人的には其れが常に好奇心の対象として成立する世界なのだ。

ですがコレクションだの何だのと云う物欲は所詮は下劣なものです。

 

 

ですので個として大元に高い精神性を有して居ない限り其れは御勧めすることが出来ません。

なのではあれわたくしの場合はかうして常に両方をやり切ります。

 

さう云うのが忙しいので妻や子や孫を持ってる余裕など何処にも御座りません。

 

さうして両方をやるからこそやっても良い、いややらねばならぬのです。

要するに此のペンは其のフランコ・グリソリア氏により設立されたブランドFilcaoの万年筆でおそらくは90年代から2014年位までの間に伊太利亜のショップにて売られて居たものでせう。

 

ですが兎に角こんな物は初めて見ました。

其れもたまたまイーベイの方で面白さうなペンを探して居たらまさにコレが出て参ったのです。

 

まさにウルトラ・レアーな御品なのだと申す他御座りません。

 

 

 

伊太利亜のカルトな万年筆

 

 

1.おそらくは1910~1920年代のParkerの大型万年筆のデザインを模したものでせう。

2.あくまで現代の万年筆でおそらくは限定生産的なモデルでせう。

3.素材が真鍮にラッカー塗り+フィリグリー装飾ですので重いのが心配だったが思ったよりは軽めで意外と実用的です。

4.高額な品では無く本體は壱万円以下の万年筆です。

 

但し首軸が金属製で重くニブーペン先ーも貧弱です。

其処でとりあえずは中國の金星の首軸及びペン先に交換し使用中です。

 

尚まさに不思議なことなのだが、其の伊太利亜と中國、又は印度と中國の万年筆は部分的に交換し合うことが何故か可能です。

但し其処で色色と細工は必要となります。

 

尚、日本の万年筆にも中國の万年筆の部品を組み込むことは部分的に可能でせうが其処は基本的には相性が悪いものと見て置くべきものと思う。

 

 

ちなみにわたくしは五年程前よりかうして世界各國のペンの部品を交換し合いオリジナルの仕様にして其れ等を日日愛用して居ります。

またさらに時代を超越させ現代の万年筆に百年前の金ペン先を付けてみたり逆に古典の萬年筆に現代の万年筆の部品を組み込んだりともうやりたい放題をやって居ります。

 

但しわたくしは手が動く方では無いので其の仕上がり具合はまさに推して知るべきでせう。

其れでも八拾点以上はイケるものが結構ありますのです。

 

さてわたくしは半世紀もの間万年筆と付き合いましたのですが、拾年程前に到達した境地が所謂フィリグリー装飾の付いた万年筆への傾倒となった訳だった。

即ち其れが我がpen趣味に於ける到達点でした。

 

 

フィリグリー装飾の付いた万年筆はかっての萬年筆としての黄金時代、即ち1920年代~1930年代よりももう壱つ古い時代での花形萬年筆の数数に多く見られたものです。

要するに其れはまさに萬年筆の貴族のやうなものなのだ。

 

其の頃の萬年筆壱部の富裕層やインテリの為のまさに庶民に取っては手の届かぬ高嶺の花のやうなものだった。

勿論当時の日本であれば余計に手の届かぬ高嶺の花のやうなものだった訳だ。

 

だけれども当時萬年筆は高級品ではあったが其れもピンからキリまで有り兎に角数自體は多く流通して居たことでせう。

何故なら当時はボールペンやサインペンなど無くむしろ筆記具の主流の座を萬年筆が担って居た訳だ。ー其れもあくまで此処日本では毛筆が主流でしたがー

 

わたくしは拾年程前に米國英國製の其の美しいフィリグリー装飾の付いた萬年筆を多く集めました。

其れをずっと實用もして居りましたのですが現在はかうして現代の万年筆に色色と手を加えつつ使って居ります。

 

其れも安価な中國と印度の万年筆をかうして好んで使って来たが厄介なことにまた伊太利亜物への執着が出て来て其れでもって何か他にもと探して居りましたところすげえペンがまた出て来てまたぞろ驚く羽目ともなりましたのです。ー其の件に就いてはまた後日述べさせて頂くー

 

 

かうして物欲の世界は平和で且つ愉しいものです。

ですが物欲の世界で遊ぶにはまずは高い見識とさらに物に対する深い知識及び限定的態度が必要となる。

 

物欲の世界もまたさうして常に理性的に営んで行きませんと最終的には其れは魔道へと堕ちて行くものなのだらう。

具体的に申しますとわたくしは今高額な万年筆にはほぼ手を出して居りません。ー其れも壱万円以上の御品はすでに高額との基準でもってー

 

居りませんのですが、今年の場合は兎に角五年振り位にやりたい放題をやりましたので其の最新ヴァージョンとして今回は此の超レアなフィリグリー装飾の伊太利亜の万年筆のことを御話させて頂きました。

欲望の相対化と視野の拡張に就いて ー+読者を牢に入れてみましたー

76.欲望の相対化と視野の拡張に就いて ー+読者を牢に入れてみましたー

 

 

 

 

さて其の所謂凡俗の認識の正體とは、

1.固定(絶対)概念ー固定観念ーに捉われ価値ヒエラルキーを堅固に設定し其処からものを考える

2.固定(絶対)感度ー固定感性ーに捉われ価値ヒエラルキーを堅固に設定し其処からものを考える

 

とのあり方であり、普通人間はまさに其れに従い価値観を決め行動して居ります。

 

ところが其の人間の中でも例えば聖人と凡夫の中間に位置する認識の保持者が居て其れが所謂声聞、縁覚つまりは独覚の類であり其れを世間の言葉に翻訳すれば人文インテリや理系インテリとなるのであります。

人文インテリや理系インテリの力は強力ですが主に彼等は、

 

3.固定概念と相対概念の間を常に行ったり来たりして居る

 

ものなのです。

ですのでまだまだ其処では認識としての眞理へ至って居る訳では無くおおまさにあーだかうだと眞理と俗の認識との間を行ったり来たりして居る訳だ。

さうしてとどのつまりはわたくし自身がそんな人間なのです。

 

そんなわたくしには其の眞理らしき認識の世界がまた仄見えては居りますが、さりとてかうして世間を捨てられずに居るので「生活」の方に圧迫され其処へと飛び込むことは事實上不可能である。

ですがほぼ大多数の方方がおそらくは其の眞理としての認識の上での端緒にもまた付いて居ないと云うのがおそらくは實情なのだらう。

 

故にわたくしは其の自分をも含めたインテリの認識と凡なる認識を為して居る人人に対し共に憐みの心を持つに至りました。

さう云うのは所謂菩薩(梵名ボーディ・サットヴァ)と云うことですが、わたくしは菩薩を欲して菩薩の心を持ったのでは無く逆に菩薩ではあり得ぬー👿の御友達ーが故に結果的に菩薩的な人間となりましたのです。

 

故に生命または地球の営為に対し大慈悲心をすでに有して居り従ってどんな生命に対しても常に合掌しつつ相対して居りますが其れでも歩けば🐜を踏み潰しまた夜中に蚊が襲い来れば其れをフマキラーにて撃退致します。

其のやうにまずは人間は心のあり方こそが根本義として問われる部分なのです。

 

 

但し其れを狂わせて行くのが常に社會的関係です。

であるとすればむしろ其の社會的に規定される欲望のあり方、即ち認識のあり方をこそ正さねばならない。

 

ところが其の社會其れ自體が此れ迄に理想的に運営されることなどはむしろ無かった訳だ。

故に個は其の社會に対し常に脆弱な立場しか持ち得ない。

 

要するに其の社會が進める矛盾的な文明の推進に対し個は常に無力でしかあり得ぬ訳だ。

其の無力さは今後より壱層高まって来ることだらう。

 

何故なら此の世はそも平等でも眞理でも無い利己的な欲望成就の場であり其の理想だの眞理だのに寄り添うことだらう「正しい」認識を旨とする世界では無いからだ。

よってまずは其の世界の性悪性即ちタチの悪さ、其処にほぼ絶対に齎されて居ることだらう絶望的な状況に気付かねばならぬ訳ですがおそらくは其れを認識出来るのは全人類の壱割にも満たぬ人人ばかりです。

 

尚わたくしは勿論其の壱割以下の人間の中の壱人ですが其の中での気付き度と申しますか心のインテリ度を設定致しますればおそらくわたくしの場合は上、中、下の区別の中でもおそらくは高気付き度を持ってる人間なのだとさう思われます。

なので此のレヴェルの方方ー作家や詩人の先生方をも含めてーは兎に角世間に対し色々とものを言いますが我の場合はかうして無冠のしかも自称の詩人ではあれむしろお前等よりは言ってることが常に過激だらう。

 

 

でもってしてでは我我のやうな気付きのある人間が何を認識して行くべきなのかと云うことに就き壱言申し上げて置きたい。

 

1.欲望の相対化

2.視野の拡張ー俯瞰視し得る視座を確保するー

3.今此処にある幸福に気付くー實存への感謝と學ぶことへの幸福を學ぶことー

 

1.に就いて

欲望は社會的自我に組み入れられた時点で即👿化致します。

まずは其のことが人類の九割方の人人に取りまるで分からぬことです。

 

ところが欲望は個の意志により相対化することが可能です。

つまりは其の欲望を相対化し「みんながやって居る今の幸せ」から離れて行くこともまた可能である。

但し其の場合には其処に強靭なる理性の力が常に必要とされる。

 

つまるところは頭が良いだけでは其れが無理でもう壱段上の批判的自我、批判的理性にて其のやうにあえて世間的価値を放棄するだけの精神的プロセスを歩んで置かねばならない。

さうして欲望其れ自體の消去は我我には無理だが其の欲望の対象を意志的に転換、変更して行くことは常に可能です。

 

でもって其れを具體化して述べれば「デカい欲望には与せずあえて小欲の世界でもって生きる」とのことです。

 

✈か又は🚢にて海外旅行へ行きたい→むしろ家の近所などを探検してみる

デカい會社でもって良い給料を貰う→むしろ中小企業、零細企業でもってヘロヘロになりつつ頑張るが其れでも給料は安い

豪邸に住まうセレブ→あばら屋に住まう貧乏人

 

 

ですが、其処でもって壱つよーく考えてみやう。

其の「あばら屋に住まう貧乏人」であれ橋の下のホームレスさんよりははるかに恵まれて居ます。

 

また豪邸に住まうセレブは色色と問題を起こし幸せどころか人間らしい暮らしなどまるで出来て居ない人がむしろ多く居るやうだ。

其のやうに欲望とは常に相対的にしか規定し得ぬものなのだ。

 

だからたとえどんな状態であれ其処から幸福となる心の芽を生じさせることが出来る。

但し其れは自分でもって築く価値ヒエラルキーに沿って現成するだらう幸福の形です。

 

そんなものは幸福などでは無い、オレは大金持ちとなり豪邸に住み美人妻を得るのだ。

との考え其れ自體が不幸の源であり且つ👿の認識なのだ。

 

また學歴ヒエラルキーにて勝利せんが為に高偏差値大學ばかりへ皆行きたがりますが實は大學は何処であれ自立的に御勉強することは可能です。

ですが大學へ行きませんと高等思考に於ける基礎的訓練がなかなか出来ませんのでどんな大學であれ行って兎に角知性の力に目覚めて欲しい。

 

 

2.に就いて

 

其の俯瞰視と云う形での認識は作家や哲學者などが好んで行うものでせう。

また科学者であるにせよ壱級の知性ならば主に此の俯瞰的解釈を取り入れまた直観的な認識ですらすでに身に付けて居るものです。

 

ものを考える時には此の認識上の俯瞰性の有無が實は非常に大事です。

 

ですが其の俯瞰的なものの見方は統合的知性のみが齎す認識ですので此れもまた其の壱割の人間の中のおそらくはまた壱割位の人に可能となる認識の形式なのではなからうか。

無論のことわたくしは日頃からむしろ其の俯瞰視をこそ常態化し自分の考えの方を述べて来て居ります。

 

俯瞰視は普遍視のことでもまたありよって其処では細細とした日常に於ける制約を外す形で物事を普遍化し且つ非限定的に見詰められることとなるのです。

 

 

3.に就いて

 

物事に就き考えると云うことは逆に其のやうに肉體的、物質的具象性の制約を受けぬと云うことだ。

ですが当たり前のことですが考え込んでばかり居ると其の反対面での肉體的、物質的具象性に与えられる生の喜び、其の實感のやうなものが疎外されるに及びます。

 

故に其の理性的に齎される思考の過程其のものをも相対化し謂わば「原始退行」させる必要が生じて来るのです。

其れを原始退行させる限りは理性的な枠組みをむしろ取っ払うが如き荒療治が實は必要で、主に其れは自然に親しみ且つ其処から學ぶことで可能で、と申しますか兎に角其の自然界の摂理に常に触れて居りますとまさに自然と脱概念化、脱観念化されて参りますものです。

 

では自然が全部正解で人間は全部間違いかと申せば其れはさうでは無くさう思い込むこと其れ自體が誤りなのだ。

何故なら此の世に正解など無いと気付くことが實は正解なのです。

 

対して近代科学にせよ政治體制にせよ文明は常に正解を求め続けるものだが其れを求め続ける限りむしろ正答は得られません。

でもって其の種の社會的認識の誤謬に対し唯壱効力を持つのが「自力にて認識」することです。

 

 

其のやうな他力による誤った認識を離れ「自力認識」へと至れば其の価値構築の上でのヒエラルキーの逆転が其処にようやく可能となり其処に「眞我」の如きものが形成されて参る。

其の「眞我」による認識を旨として生きることこそが人間に取っての正しい生き方を形作る訳だ。

 

其の「眞我」による俯瞰的で且つ相対化されし認識よりようやく眞の幸福への道筋がまた見えて来やう。

個に取っての眞の幸福への道筋とは其の価値ヒエラルキーに毒されし認識なのでは無くまさに己自身の認識にて己と周囲とを見渡すことだ。

 

すると初めて其処に「今此処に生じて居る己が認識」に対する幸福感が生じて来る。

だから其れにまず頭を下げ感謝する。

 

さらに其の「今此処に生じて居る己が認識」を成り立たせて居るのはむしろ世間なのだと云うことさえもが分かって来る。

故に其れにもまずは頭を下げ感謝して置く。

 

大體のところを述べれば其のやうにして個としての認識の完成へと近づいて行くのです。

 

 

ですが先に述べた如くにむしろ多くの認識はバイアスがかけられて居る即ち洗脳されるに等しい限定性の中でこそ営まれて居るものなのです。

其のやうに個としての価値認識が著しく洗脳されたものであれば其れは其処で本質的な意味での幸福の成就が不可能となることをこそ指し示して居る。

 

従って、さうして

「みんなで渡る赤信号」とは其処に個としての認識の死、個としての本質的不幸=精神的不幸を呼び招くものでしか無い訳だ。

 

さうでは無く兎に角精神として自分を保つものであることにだけ留意して是非自らの考えを進めて行くべきです。

精神の世界はさうして壱種孤独の度を深める面が常にあるが故にむしろ多くの人人は其の精神の自立が齎すことだらう孤独と絶望感に対し打ち克てず自ら頽落し社會ー世間ーの奴隷と化して行かざるを得ぬ。

 

わたくしは其の様がまずは哀しいとさう申して居りますのです。

対する眞我による認識の方もまた壱種哀しくはあるのですが其れが人間の理性領域として完成されたものである以上自信と自負にだけは満ち溢れて居る。ー故にかさうして眞の認識はむしろ世間との齟齬や軋轢を引き起こすものだー

 

さて、眞の意味での自己による認識、其の世間の価値観から脱し新たな認識の枠組みを形成するか又は認識の枠組みを取り戻す為の手順に関しましては以上にてすでに述べ切って来て居ります。

ですが言うは易く行うは難しで其れは世間の多くの人人の為にわたくしが述べたことでは無くむしろ壱握りのインテリ層乃至は感度の良い人人の為に其れを述べたのです。

 

 

でもってもっと普通ににくたらしいことを言えば此の世は負の過程であり文明はまさに其の罠に引っ掛かりもはやにっちもさっちもゆかぬところにすでに追い込まれて居ると云うことです。

従ってすでに全ての価値が負のエネルギーにさえ捉えられて来て居る。

 

勿論其れでも自然はかうして輝きを忘れず我我の心を癒し続けて居て呉れる。

其の自然界に展開される美が其処に根こそぎ奪われる訳には非ずだ。

 

ところが其れも注意深くよーく観察致しますればすでに自然界其のものが人類により浸食され且つ崩壊への兆候を見せ始めて来て居る。

其のやうな状況で猶も己が邪なる欲望を垂れ流しまた其処に死と生に関する深い洞察を持つことなくして只現在と云う欲望の成就の機会にのみ安住し続ける人間共の醜さったらもうありません。

 

逆に👿の方がまだしもまともなのやもしれません。

ま、かうして人間を批判することだけは得意な観念詩人はもうやれと申されれば何処までも其れも永遠に其の人間共の醜さに対し逐壱述べ立てても参りますが勿論其れはわたくしの本意では無くわたくしがやりたいこととはむしろ美に就いて語り切ることなのだ。

 

つまりはこんな社會批判では無く其の社會とは無関係に美を此の場に成立させたいだけのことなのです。

従って暫くは其の美に対して是非述べさせて頂きたい。

 

 

但し社會に対しまた馬鹿野郎!と思いましたらまたネチネチと其れを何処までも攻撃致す所存です。

 

尚其の1.及び2.及び3.の認識其れ以前に「みんなでもってかうして歩む人間界はずっと続く」と云う変な確信のやうなものが御座りますのです。

でも其の価値の前提としての信心のやうなものがまずはイキナリ間違って居る訳です。

 

正しくは「みんなでもってかうして歩む人間界はすぐに終わる」です。

其の人間界は近代以降は特に欲望を絶対化し今では本気にて火星へ移住したいとさえ思って居ます。

 

何でかと申せばかうしてやりたい放題をやり地球を壊すに及んだので其の火星へと逃げて行かうとして居るのです。

 

しっかし其れではどんな奴等でせうか?

さう云うのはたとえ👿でもやらんのでは無いでせうか?

 

即ち現存在程厄介な奴等は他に居らず其れはもう立派な宇宙壱の馬鹿野郎でありクソたれ野郎でせう。

だからウンコを垂れるなとあれほど言うて居ると云うになーぜ其れが分からぬのだ?

 

 

汝等、其のウンコ垂れ族としてのホモ・サピエンスよ。

かうして君等はどうもウンコ臭い。

 

だからまずは其の尻の始末を、即ち尻拭いの方を其れも必死コイてやらずしてどうする?

だから其れは株式會社の論理でもまた政府の日銀の論理でも無くまさにお前等壱人壱人の論理でもって動きやらねばならぬことだ。

 

だから何故其れが分からないのですかとさう先生はしかとお尋ねして居ます。

ですが…。

 

其の「ですが…」は要りません!

教室や地球上でウンコを垂れるやうな悪い子はもうかうしてお尻ペンペンだ!!

 

 

先生、其の暴力は今禁止されて居るので其れをやった先生はむしろ犯罪者でありこれから警察の護送車が来ますので其れに乗り早速牢屋の方へ入って下さい。

はい、分かりました。

 

其れではわたくしめは此れから其の牢屋に入り是非「獄中記」でも書かせて頂きます。

 

だが先生はかうして體も弱くまた精神の方も至って不安定で其れでもって果たして牢にて生きて行けるのか、其の点がとても心配なので身代りにあなたが牢に入って下さい。

ところでアナタは誰ですか?

 

僕は単なる此処の読者の壱人だが。

やったー。

 

では君はわたくしの信者だな?

まるで信者では無い。

 

 

でも君は此処を読みたくて読んだ筈だ。

まあ、確かに其れは…。

 

じゃあ君は信者だ。

 

ピーポーピーポー。

どうもどうもお騒がせ致しまして、此のわたくしめの信者としての壱読者がかうして子供の尻を叩いたので御座ります。

 

しっかしひっでえ扱いだな。

何処のブログでもこんな読者を牢屋に入れるトコなどまるで聞いたことが無いわ。

 

だからな、其れはな、あくまで詩人の大先生のな、身代りを引き受け生涯感謝されると云うことなのだ♡。

世の中とはな、そんな持ちつ持たれつでな、うまーーく回るやうにさうつくってあるのだよ。

 

さうか、では僕が犠牲になれば先生は今後を生き抜いて行けるのですね?

いえ其れは常に難しいです。

でも君が牢に入って呉れること自體が我にとっては最高に嬉しいことです。

 

サイコーですか?

今アナタはサイコーですか?

もうサイコーですっ!!

 

 

ピーポーピーポー。

 

アア、また尊い犠牲者をかうして壱人生んで仕舞った。

罪深や、罪深や、ナンマンダブ、ナンマンダブ。

さうだ、何か美味い物でも買って来て彼に差し入れしてあげやう!ーそんな風に常に優しい我ー

 

尚次回からは此の変なギャグ部を書かないやうに是非したいものです。

そんな破壊者としての資本主義の代わりになる認識ーマルクス・ガブリエル氏による倫理的な資本主義構想ー

75.そんな破壊者としての資本主義の代わりになる認識ーマルクス・ガブリエル氏による倫理的な資本主義構想ー

 

 

 

 

其れ即ち此の世での文明による価値構築其のものがむしろ根本的に誤って居る虞すらもがまたある訳です。

 

例えば大阪市立大学の斎藤 幸平先生などは地球温暖化は資本主義が招いたものだとされて居るが其の点はわたくしもまた同感です。

尚わたくしは其の斎藤 幸平先生がお書きになった『人新世の「資本論」– 集英社新書 (shueisha.co.jp)』を昨年の夏に日本共産党の人に贈りましたが果たして其れを読んで呉れる人が居たかどうかは不明です。

 

其のやうに學問や思考と云うことは壱般の社會に於いては常に生活の外側にむしろ追いやられて居るものです。

ですがネットを視て居りますと矢張り勉強をされて居る方は其れなりに御勉強し且つ考えられて居り、でも正直申せば個人的にはほとんど其の内容を参考にさせて頂くことなどは無い。

 

要するにわたくしは唯我独尊型の思考者でありでも人文の書の類だけはかうしてなるべく漏れなくチェックして来て居ると云うところだらうか。

そんな訳でわたくしは自分の思考力にはまずはかうして自信のやうなものを常に持って居ます。

 

でもってして常に認識上の其の地点から現象界を眺めて居る訳ですので其れこそバカだとかアホだとかウンコたれてるよ、などと遥かに下の方に滞る現世でのケモノ共の所業に就き糾弾することをこそ生業と為して来て居る。

即ち其の神の視座又は佛の認識より捉えられる其の現象界でのドタバタ劇の様。

そんなケモノ臭い認識をかうしてケラケラと見下しつつおお其処にて我は神と佛の認識をのみかうして伝えて行かう。

 

ところが、其のことが理解出来る人がまず周囲には居ないんですね。

周囲に居るのはむしろケモノ界のケモノばかりで要するに飲んだ、食った、屁をコイた、家建てた、子が孫が出来た、墓も出来た。

 

飲んだ、食った、ウンコした、また其の手で妻を触った、さらに會社でも其の手でもって書類を作った。

まあ其の位の人間しか事實上此の世には居やしない。

 

 

哀しいことですが其れが現實です。

 

要するに其の認識がそも貧しいと申すか確り洗脳されて居ると申すか兎に角精神に自立性が無いのでほぼ彼等はケモノと同じです。

ですが其んなケモノのみんなが連なりかうして此の世は回って居るのです。

 

多くの日本人は其の斎藤先生の御薦めであるマルクスの本をじっくりと読む暇等は無くむしろさうして食欲、性欲、金銭欲などの嗚呼まさに現世利益的な欲望の虜と化して居りだからほとんどの人間は論文でも書けと言われても其れ以前に本さえまともに読めずに居る訳だらう。

 

嗚呼何だか其れも悲しい話です。

ですので、わたくしの場合はあくまで其れとは違います。

 

わたくしの場合はむしろ御勉強を積み重ねることだけが生の目的と化して来ても居る。

なので飯を食ったり綺麗なものを観たりどうかうしたりするのはあくまで弐義的なものでありよって御勉強をして居る其の瞬間こそが我に取りおおまさに自己實現が出来て居るまるで夢のやうな時間なのだ。

 

すると究極的には詩人さんは此の世でもって御勉強をする為にだけ生まれて来て居るのですか?

まさに其れだけの為にかうして此の世に生を受けて来て居る。

 

嗚呼御勉強!

其の御勉強こそが我が人生の全内容だ。

 

 

其の御勉強と食欲や性欲や金銭欲は確かに両立致しません。

だから食欲や性欲や金銭欲が充たされるとむしろ御勉強からは遠ざかることとなり要するにおバカ化するものと相場は決まって居る。

 

要するに清貧、おおまさに此れこそが學究の徒への第壱歩だ。

其れも常に清貧でもってして且つ👩っ気がもう何処にも無い。

 

其のやうな環境でこそ學びの眞理への門は開かれやう!

 

ではケモノ共は眞理への門を潜ることなどは決して無いのだと?

さうじゃ、ケモノ共は大脳新皮質を使う前にケモノとしての其の生を終えて仕舞う。

 

其処がまさに怖ろしいところよ。

だがほとんどの人は其の自らのケモノに気付かず逆にああ振り返れば良い人生だったな、などと其処で自己満足すらして居る始末である。

 

 

本日郵便局へと寄りクソ高い固定資産税を払いスギヤマにて様々な生活必需品を買い揃え家へと帰る。

尤も其の前にソロバンの先生と丁度ソロバンの先生の家の前で出くわして仕舞った。

 

相変らず食い物の話とすぐになる。

 

其れも先生はあちこちへのスーパーなどにまめに出掛け安売りの品などを纏めて買って来ることが上手なやうだ。

さらに先生の家の場合ー七拾弐歳独身ーも常にエンゲル係数は高くまた固定資産税なども家の場合と同じ程度に高い。

 

コノミヤでは時折魚の何だかが安くなるさうだ。

ですが私はほぼ魚を食わない。

 

また先生は矢張り酒を飲む余裕などは無いとさう仰る。

だが其の酒よりも煙草が今は酷く値上がりして仕舞った。

 

 

先生の父親は壱杯飲み屋へ行くのが趣味だったのださうだ。

我が父もまさに其の外でもって飲み歩くのが趣味だったのだ。

 

昔はさうして何だか知らぬが酒に逃避するオヤジ共が兎に角多かった。

 

だが御勉強壱筋体質の人、又はコレクターなどは其れはやらずに家に引き籠もることが多い。

先生はまたドン・キホーテには色色と食い物があるなどとも話されて居た。

 

ドン・キホーテのアノ雑多な感じが嫌いな我は此れ迄兎に角其れを避けて来たのである。

いずれにせよ食生活の方が何故か良く似て居る我等である。

 

ちなみにソロバンの先生の主食は主にレトルトカレーうどんであり我も其れはまるで同じことである。

 

 

さてもかうして其の人類の生活が総じてケモノ臭いのは果たして何故なのだらうか?

文明とは其のケモノ臭い人間の生の限定性をそも解放せんが為の行いだった。

 

また主に其れは衣食住の分野に関する限定性の解放だった。

其れ即ち衣食住の分野に於いて余裕を成り立たせること、所謂獣共の如くに奪い合い殺し殺され合う其の余裕の無さ、さらに寒からうが暑からうが其処に居るしか無い其の余裕の無さ、若しくは服を着込む余裕の無い其の毛皮自體の持つ限定性。

まさにそんなものに対し反逆し人間らしく生きられるやうにしたかっただけだ。

 

さても其れの壱體何処が悪いのだ?

 

確かに🐈を観察して居ると彼等にはそんな精神的な余裕などは何処にも無い。

其れもほぼ毎日が本能に駆り立てられたものであり故に彼等によるあらゆる認識が本能的で且つ限定的なものと化して居ざるを得ぬ。

 

また衣食住のみでは無く病との闘いや子供の生存率の向上と云ったことが文明にとってのまずは壱義的な課題であった筈だ。

故に其の常に限定的に存する自身への自然への挑戦と云うことこそが文明に於ける本質的要素である。

 

またつまりは其の挑戦に於ける意義とは「人間としての生からの限定性の放逐」である。

 

人間はさうして兎に角獣であることから少しでも遠ざからうとして来た。

さても其れの壱體何処が悪いのだ?

 

 

さて近頃我は其の「限定性の放逐」の部分に関しては理解をし始めて来て居る。

何故なら理性的であると云うこと其れ自體が其の「人間の生からの限定性の放逐」なのである。

 

其れは無論のこと我が奉ずる人文理性の範囲でもむしろ其の侭に成立することである。

但し人文理性はかうして屈折する部分が多いが故にのべつまくなしに理性的欲望を垂れ流しにする訳には非ず。

 

人文理性はさうして常に逆方向をも視野に入れた上で人間を歩んで行く。

或は常に過去を見詰めつつ現在を歩んで居る。

 

近代科学の発展に於ける最大の誤りの部分が其の過去を振り向けぬことであり同時に-の価値を認められないことだ。

近代科学にせよ資本主義経済にせよ其の壱義的ー壱律ーに構築した価値ヒエラルキーに己の全身を浸して居り故に其れ等自身が其の価値ヒエラルキーの奴隷となって行かざるを得ない。

 

即ち「進歩」や「人間の幸福」と云う概念的ー観念的ー価値が其処に目的化されるのであるがむしろ其れは過ちであり何故ならあくまで其れ等は手段としてさう捉えられて居なければならない。

だから「進歩」や「人間の幸福」と云う概念的ー観念的ー価値が人間自身よりも偉いと云う論理はもう誰がどう考えてもオカシイ訳だ。

 

むしろ「進歩」や「人間の幸福」と云う概念的ー観念的ー価値など無い方がむしろ人間は眞の意味での幸せとなれるのではなからうか?

まあわたくしの考え方はかうして無い無い尽くしにて「有る」よりは「無い」方をむしろ重んじるので或は皆様には分かりにくいかとは思われるのだけれどまさに其れは人文學としての屈折度の大きさをまた示して居る部分なのでもまたあらう。

 

 

さうかうするうちにまた『つながり過ぎた世界の先に | マルクス・ガブリエル 著/大野和基 インタビュー・編/髙田亜樹 訳 | 書籍 | PHP研究所』の前半部の方を再読して居たら其処にはまさに御尤もなことが書かれて居り感じ入ることが多かった。

 

マルクス・ガブリエル氏もまた多くの人文知性のあり方と同じくして理想論者である。

かってかのカントやヘーゲルがまた理想論者であったやうに現代の天才哲學者としてのガブリエル氏もまた理想論者なのだ。

 

氏は「ネイチャー・ポジティヴ」な経済體制こそが人間の感謝の気持ちに溢れた、倫理的、哲學的洞察を齎す世界だとさう仰る。ーP.75より要約ー

また其れは消費する世界では無く洞察が主導する世界だとさうも申される。ーP.75より要約ー

 

さらに、自分は物事に関する知識を消費するのが好きで「洞察」こそが壱番好きな消費物でありよって新しい物を買い揃えるよりも其の新たな「洞察」を得ることの方がより面白いとさう仰る。ーP.76より要約ー

此処からもまさしく氏と我はほとんど同類であることでせう。

 

 

其れと印象的だったのが倫理的に人間が行動する為には所謂ベーシック・インカムの制度を導入した方がより倫理的で且つ持続的な経済體制を築けるとされて居る点である。-P.79及びP.80の纏め-

其の最低所得が保障されて居る場合でも創造的なことを為しコミュニティに参加する姿勢が失せる訳では無く逆に増すことだらう。-わたくしの考え-

 

また其れは共産主義では無く環境に優しく、また持続可能な資本主義の姿だとさうも仰る。-P.80より要約-

 

個人的には資本主義は大幅に修正しない限りやがて壊れて行くとさう考えざるを得ません。

ところが資本主義が滅びないのは其れが人間の欲望にすでに火を点けて居てもはや其の火を鎮火することなどは不可能だからなのだ。

 

ズバリ申しますが其の資本主義、其れも廿世紀及び廿壱世紀の資本主義が其の侭に地球を破壊し続けて来たのである。

また本質的には其れが人間の欲望其のものがさうして地球を破壊し続けて来たと云うことなのだ。

 

 

だから其の欲望のあり方こそがまずは過ちであり同時に完全なる失敗である。

ところが世間の奴等はむしろヘラヘラとした薄笑いを浮かべつつ逆に威張ったりして居るのだな。

 

ヘッ、此の貧乏詩人めが!

お前なんぞは兎に角目障りだから早う肥溜めにでも落ちよ。

 

くっそおー、此の馬鹿資本家と馬鹿投資家共めが!

今に見とれ、お前等なんぞもう全員が強制収容所行きだ!!

 

尤も我は共産主義に拘って居る訳では無い。

但し資本主義を延命させて行くことはおそらく可成に難しいことなのではないか。

 

と云うことは其の資本主義経済體制に依存し切って居る現代文明自體が持続不可能なものとならざるを得ぬと云うことだ。

だから其れを目的としてはむしろ考えぬ方が得策である。

體制とは所詮は其の文明にとっての手段でしか無いのである。

 

 

でもプーチン氏が…。

かのプーチン氏はあくまで露西亜がもう全部正しいとさう御考えの筈ですが。

 

だから其のプーチンの家来となりにイザこれから露西亜へと旅立つのではないか。

エエッ、ではアノプーチンの裸にそんなに飛びつきたいの?

 

 

イヤ。

へっ?

イヤ。

其れもまた金輪際イヤ。

 

我は馬鹿政治家共には飛びつかずあくまでより理性的な理想論へと飛び付きたい。

例えば共産主義にもまた色色とあり日本共産党が述べて居る段階的革命論なるものもまた現實を見据えた革命思想であるのやもしれぬ。

 

他方でかうした哲學者による洞察を主体とする資本主義としての理想論は魅力的で且つ我が考えに近いものではあるのだけれどむしろ其れは共産主義化したにせよ可能となることなのだらう。

 

また別の視点から捉えると例えば宗教とイデオロギーとの癒着のやうなものが廿壱世紀に於いてはより顕在化して来る可能性が出て来ても居る。

超大國米國キリスト教國家でもあるやうに露西亜もまた宗教國家に返り咲き其処からしても宗教が何時まで経っても曖昧な日本と云う國はむしろ今後は精神の拠り所を失う可能性すらもがある。

 

廿壱世紀と云う時代の本質はむしろかうして破壊であり崩壊なのだ。

其れも今のところは何とか持ち堪えて居るだけのことでありだが参拾年後のことなどはもはやまるで分かりはしない。

 

但し其れは良くなるのでは無くむしろ悪くなって行くことだらう文明としての劣化過程である。

だから2050年辺りには其れこそキリスト教圏では神の祈りばかりが日日続けられて居るのやもしれぬ。

 

 

ですが、此処日本の宗教に限りいい加減なので果たして何を信じて良いのかも分からずに右往左往しているうちにドドーンと東南海大地震と富士山の噴火が続いて引き起こされおおいやだ、其の悲惨なる暗ーい暗ーい時代へとかの日本國は突入して行くのでありました。

また其の頃すでに我は死んで居りました。

 

だから實際其れはどーでは良い話なのだ。

だがわたくしの場合はまた地球に戻るつもりです。

 

壱體何の為に?

 

其の「愛」でもって日本を救わんが為に!!

そんな「愛染眞理教」の教祖として必ずや此処にまた戻る。

 

やります、やりましょう、我はさうしてやるでせう。

ところでみんなはたった今サイコーにやってますか?

 

僕はもう今サイコーにやれていますよ。

其れもかうして何だか知らぬが毎日出て来て何かを吠え続けて居るでせう?