78.五木 寛之『背進の思想』を読んでー弐 「背進の思想」とは結局認識上の転換のことであるー
仕事を始めて20年、働くことに「本当に疲れた」。子育ても仕事も「成果」が出ない… (msn.com)
其の人生とはほんに疲れる所で特に今はこんな悪い世の中ですので余計に困ったものとなって居ます。
よって人生には期待してはダメでむしろなるべく緒価値を放棄しつつ生きて行くべきです。
其れと認識上の間違いは人と自分の人生をそも比べることです。
實存的価値とはそもさうしたものでは無く唯壱の場なのであり価値なのですから比較などそも意味がありません。
其れと自分の無知に気付くと少なくとも其の分だけ頭が良くなれます。
外側の評価にばかり拘るとむしろドンドン頭は悪くなって行く。
其れに子供や孫などは要らんと云うことにまずは気付いて下され。
其れどころか人類はまさにこれからが大変です。
おそらくは種として生きるか死ぬかの闘いを今後経験して行くことになるであらう。
竹中平蔵教授の「反日」経済学 (truthofjapan.jp)
さてアノ経営科学出版からこんな本をまた買いましたがコレがたったの百円です。
其の竹中 平蔵の思想とは兎に角國賊の域にあるものだ。
此の竹中 平蔵と小泉 純一郎が日本をブチ壊したのだとさう申せることでせう。
要するに奴等が日本の経済環境を自由化した訳ですが自由化してはイカンところまでをも自由化したので、
1.商店街は潰れ
2.派遣社員ばかりとなった
3.米國の🐶の度がより酷くなった
のである。
日本を幸せな状態に戻す為にはあえて戦前の方向を向き右傾化するか、
其れとも逆に中國の属國となり共産党支配の國へと変えて仕舞うかでせう。
其れもまた過激な弐極化であるがわたくし自身は其れはどちらでも良いとさう考えて居ます。
だが此の竹中 平蔵と云う👨はそも頭がオカシイ奴なのでこんな奴を大學教授に据えたりTVに出したりなどしては金輪際ダメだ。
試し読み | 五木寛之 『背進の思想』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)
さてこんなものまであります。
此処で「『背進』という適応方式」と云う本の抜粋部が読める。
まず五木先生の御考えでは「人間の文化は何千年、何万年の記憶の集積の上に成り立って」居り其れは謂わばゴミの山に埋もれて居るやうなものでまさに其れが今の時代なのだとさう仰る。ー『背進の思想』P.12よりー
わたくしもまた以前より人間の文化領域はむしろ過去にこそ拡がって居るとさう言い続けて来た訳だ。
其の過去を振り返る精神的な余裕が無いこと其れ自體が現代文明が陥った病ー誤謬=間違いーの正體である。
さうして文明が進めば進む程に其の精神がむしろ空洞化して来る訳である。
だからもはやみんなが空っぽの心の持ち主である可能性が高いのだがまさに其れを言うては社會はお仕舞いなのでとりあえずはわたくしだけがさう申して居るのです。
兎に角其の過去に拘る点は今むしろ最も先鋭的で且つ正しい方向性を向いた考えである。
其れと五木先生は「所有」と云うことの無意味さを述べて居られる。ー『背進の思想』P.12よりー
其のことは無論のこと佛教の教義の要諦としての考え方である。
此の世ではそも其の所有が出来ないので苦が生ずるのだ。
物もまた人もさらに自分でさえ所有などは出来ぬのだ。
其の所有の不可能性を佛陀もまたキリストもとくと分かっておいでだった。
だから佛陀はつい所有したくなる人間のケモノの部分を放棄されて行かれたのだ。
またキリストは人間のケモノの部分を全部神に託し結果的にケモノの部分を放棄されて行かれたのだ。
なんですがおバカな我我は持って無いと愉しめないとさう思って仕舞う。
さうして實際に何かを持ってると様様な使い途が出て来てケモノにとっては頗る面白いのである。
だから聖なる世界と我我凡夫の世界とはまるで違うのである。
タダわたくしがまたチョット違うのは社會的な意味での欲望を最小限に抑えよとさう述べて居る点で其れは結局文人としてのわたくしの意見である。
其の所有の無意味さは然して恐るべき問題をまた提示するものである。
其れは文明が所有を前提として進めば其の方向性の選択の誤りから必ずやしっぺ返しを食らうと云うことを意味するのだ。
故に現代文明が今何かと騒騒しく感ぜられるのは必然としての其の報復の過程を歩み始めたと云うことなのだ。
まさに其れは眞理領域からの報復なのだと言っても良いことだらう。
五木先生はさらに「私は自分が育った昭和という時代の記憶を忘れたくない」とも述べられる。ー『背進の思想』P.12よりー
即ち記憶としての過去を忘れてはならないのである。
何故なら現在はまさに其の過去の記憶が成り立たせて居るものだからなのだ。
其の過去の記憶を切り捨てれば其処に残るのはまさに刹那的な今と云う幻想ばかりとなって仕舞う。
だから現代人は其の幻想だの妄想だのの類に踊らされて居るばかりなのだ。
なので摩天楼も超高いタワーもさらに火星への移住も超情報化社會も全部が其の妄想の産物であるに過ぎぬ。
適応するということは前へ進むことだけはなく時には反時代的な生き方を選ぶことでもあると五木先生は述べられる。
また其れも適応の壱方式でありまさに其れを『背進』と呼ぶのだと。ー『背進の思想』P.11よりー
即ち後ろを向きつつ前へ進むのが其の『背進』なのだと。
ですが此の思想、何だか我が思想と瓜弐つなんですね。
此の世に所有が許されぬ限りは其れに固執する限り精神の幸福ー精神の安樂ーへと至ることは不可能となる。
故に所有は悉く捨て去らねばならぬ。
佛陀の如くに自力にて捨て去るか、其れともキリストや浄土信仰の如くに他力にて捨て去るかのどちらかである。
ですがカルト詩人さん、アナタは色色と持って居て其れにて常に愉しんで居ますよね?
其れも持つ物と愉しむものを限定してでのことですね。
元来は其れも無い方が良いのですがかうして生は哀しみの集積ですから其れを忘れる為には愉しみもまた大事です。
但し我の場合は本とペンと石だけなので實は物凄く限定されて居る話です。
他の生ものには特に人間にはなるべく手を出さぬことですね。
其れは人間には手を出さずに済むのであれば其れに越したことはないと云う意味なのですけれども。
其の『背進』と云うことは逆向きに進むと云うことだらう。
逆を向いて居る限りはさうして常に洗脳から逃げ切れて居る筈です。
ところが現代社會の言う事ばかりを聞いて居れば自然と洗脳が其処に成り立つ訳だ。
所有どころか個としての我もまた本質的には無いにも関わらず現代社會は個に対し其れを強いる訳だ。
じゃあ現代の社會こそが壱番の悪者なので?
本質的にはあくまでさうですが我我が人間である限り其れを全否定することは不可能です。
但し自力救済の途としての脱社會化ー本質的脱社會ーと及び他力救済としての脱社會化ー現象的脱社會ーは常に可能である。
要するに其れは社會の価値観にはイチイチ逆らって生きよと云うことなのですね?
まあさう云うことです。
但し手を出してはならない。
あくまで精神的に其れに対し抗せよと云うことである。
うわあ、何だか怖い話のやうに思えて来ました。
いや其の認識上のシフトが怖いのでは無くむしろ今後展開されるに及ぶことだらうしっぺ返しの方こそが怖いのです。
ですので此処まで作家や詩人に言われたなら何となく皆様にも分かって来るのでせう?
要するに価値観の持ち方、其の文明の価値構築のあり方其のものに誤謬があるのでそも此の世は良くはなりませんと云った類での御話です。
逆に今後世界は自己矛盾領域の拡大によりまさに地獄化して行くことだらう。
さうした意味では高齢となられたにも関わらずかうして世の常識的観念、世の趨勢である価値観のあり方と眞正面からぶつかり闘われて居る五木先生の御姿にはまさに頭が下がる思いが致します。
五木先生の御両親は教師であったとのことで要するに血筋としてインテリ壱家なのだらうが其れでもかうして九拾歳となられても世の中に対し正論を吐いて行かれる御姿は思わず拝んで仕舞う程のものです。
尚此の本の後半部では「奇妙な一体感の喪失」と題された部分の御話が興味深かった。
其れが何と「マスク」の話なのである。
其の「マスク」には何より壱體感、連帯感があるとの仰せである。
また其れは戦時中に「老いも若きも」壱體となって御國の為に貢献した時代と似て居るとさうも言われるのである。
またコロナ禍以降の時代は「夜明け」の時代では無くむしろ大衆のルサンチマンが暴発しかねない対立が露呈化する時代となるとも仰られて居る。ー『背進の思想』P.183よりー
つまるところは其の「マスク」の連帯感がイザ消え去ればまた何が起こるか分からぬとさう述べられて居るのである。
尚かって坂口 安吾が「個人的には戦争中はむしろ心理的に安定して居られた」と云うやうなことを作品中に述べて居たものである。
其れは逆に藝術家としての心の不安定さを示す言葉なのであり同時に社會のあり方の不安定さを示す言葉なのでもまたある。
要するに何かをそんな風に皆でやること自體にある種の「居心地の良さ」がある訳だ。
だけれども其れが戦争だの疫病だのでは實はマズいのである。
なんだけれども人間と云うものは半分はケモノなのでとりあえずはさうして目的がどうあらうが皆でやって居ると云うこと自體にすでに酔って居るんである。
だが我に限ればさう云うのは決して許さない。
僕は人間に対しては常に手厳しい文人なので兎に角そんなケモノ共をまさか認めてはあげない。
そんな憎たらしい壱文人でこそ生涯あり続けたい。
次の「予測できない時代の不安」と云う部分でもまた其のマスクの御話が出て来る。
マスクは人の自由を圧迫するものでは無くむしろ個を共通の運命の下で人を自由にする、などとも仰って居る。ー『背進の思想』P.189よりー
故にコロナ禍以降の世界のことを想像するとたじろぎを覚える程に時代は予測出来ず不安であるとさう仰られて居るのである。
あくまで個人的な意見としては其れは「社會のあり方としての問題」なのだとさう思うのです。
此の文明社會はもはや可成にヘタって来て居り次第次第にヤバいところへと入り込みつつあるのではないか?
其れも昔風にヤバいのでは無く今風につまりは本質的な意味で緒課題が突き付けられた形にてヤバいのである。
なのでもう其れは捨てて山奥にて暮らすと云うのも明らかに壱つの選択であり個として幸せに生き抜かんが為の勇気ある行為だ。
壱週間程前TVを視て居たら学生の頃より文明のあり方に疑問を持ち、尚且つ文明は悪い方向へと向かって居るとさう述べる青年がそんな山奥にて晴耕雨読の生活を行うところを紹介して居たがまさにさうしたところである。
でもって其の思想に共鳴した嫁などもまた貰ったのださうだ。
まあ🚺でもさう云う思想家みたいな人が居るのだな。
いずれにせよ『背進の思想』はかうして我に取り至極面白い内容の本だった。
其の五木先生は孤独だったと云う少年時代に翻訳された詩を読み其の孤独な心持ちを癒されて居たのださうだ。
ところが九州では其れは女女しい行為となることなのでこっそり隠れて其れ等を読まれて居たのだと云う。ー『背進の思想』P.202よりー
よって当時の「鬱」の特効薬こそが詩であったさうである。
さらに続いて英語の授業で教わったと云うロバート・ブラウニングの詩を挙げて居られる。
日は朝 朝は七時
片岡に露みちて
揚雲雀名のり出で
蝸牛 枝に這い
神 空にしろしめす
すべて世は 事もなし
ー『背進の思想』P.203よりー
「春の朝」 ロバート・ブラウニング(海潮音 上田敏)
時は春、日は朝、朝は七時、
片岡に露みちて、
揚雲雀なのりいで、
蝸牛枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。
五木先生は神を信ずる訳では無いが理窟を超えたものが存在することは感じるなどとも述べられて居る。
其のことは確かに我もまたさうである。
されど此の世には常に何かが引き起こされる。ー社會としての問題や個に取っての苦痛が常に引き起こされるー
所詮其れはケモノの仕業によるものであると今わたくしは考える訳だ。
また其れが人類滅亡だとかそんなことでは無いことを只祈るばかりなのだけれども。