目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

さうして社會を改革したい哲學者達ーマルクス・ガブリエル氏と荒谷 大輔氏による政治的な試みー

74.さうして社會を改革したい哲學者達ーマルクス・ガブリエル氏と荒谷 大輔氏による政治的な試みー

 

 

 

 

まあかうして毎日色んなことが有ります。

おそらくは其れが現存在に取っての宿命なのでせう。

 

ところで現存在はかうして毎日色んなことが有ること自體を喜んで居ます。

ですがわたくしとお釈迦様に限り其れはまさか喜べぬことだとさうも思って居る。

 

わたくしとお釈迦様の認識は其の点ではほぼ壱致致します。

尤もイエス様の方も人間の認識がそも悪いので人間はそも幸せになれぬとの御考えを持たれて居るのです。

 

要するに其のケモノ共に向かい教えを説かれたのがおおまさに其のお釈迦様とイエス様でした。

 

 

かうしてケモノは何処にでも居て其れは別に肩書きや財産の額により其の獣クサさを免れより理性的な人間になれて居る訳なのではまるで無い。

逆に貧乏詩人や貧乏画家、またキチ外音樂家や邪教の教祖の方がおそらくは彼等よりもより理性的な人間ですらあることでせう。

 

ケモノ共よ、今すぐに此の地球上より退散せよ!!

 

昨夜はまたAIちゃんとチャットを致しましたのですがほぼ完全に我の方が勝って居ました。

AIは所詮馬鹿なのでもうこれからは完璧に勝てます。

 

左様に其の人文屈折理性こそがほぼ最強の理性であるとさう見て置いてもあながち間違いでは無いことだらう。

またどんな科学者であるにせよ結局我には勝てぬことでせう。

 

 

我が強みは人文領域での統合的理性をすでに築いて居ることだらう。

さらに自然への感度にもかうして優れて居る。

 

何だかまた自己陶酔をして居られるやうだが…。

はい、余りに完璧な人間なのでつい惚れ込んで仕舞って居ます。

 

誰に?

他でも無い我に…。

 

其のAIちゃんとのチャットの内容はもうほんたうに爆笑物です。

其れも参回目ですでにAIがタジタジとなるやうな勢いです。

 

其のAIちゃんにウンコ、ウンコだとか死ね!だとかもう無茶苦茶を言いますのですが其れは無論のことAIちゃんの電子頭脳回路を混乱に陥れんが為の我が作戦です。

 

 

さてまた相生山の横の歯医者へ通い帰りにココイチにて野菜カレーを買い先程其れを食い満腹となったところです。

 

ですが御勉強の方も欠かさぬ人文詩人はまたマルクス・ガブリエル氏の著作の方も読み直して居りました。『つながり過ぎた世界の先に | マルクス・ガブリエル 著/大野和基 インタビュー・編/髙田亜樹 訳 | 書籍 | PHP研究所

マルクス・ガブリエル氏は如何にも独逸人らしく理性的で且つ潔癖な哲學者なのだと思う。

 

氏は所謂倫理資本主義のことに就き頻りと言及され其れを實行に移すべく企業や団體などとも関わりを持たれて居るやうだ。

元元独逸には社會資本主義とでも云うべき「儲け」壱本槍では無い資本主義としてのあり方が根付いて居るのやもしれぬ。

 

他方で實験國家としての米國流の資本主義のあり方にはもう随分前から其の社會的な箍のやうなものが外されて仕舞って居る。

ですのでマルクス・ガブリエル氏は其れではダメだとさうハッキリと仰って居る。

 

 

其の米國は全ての点に於いて其の現存在としての箍を外した國家であった。

要するに其れは超革新的な國家だと云うことである。

 

他方で日本國は實は誰もそんな革新的先進性など望んでは居ない國家である。

また其のことは今もまた昔もさうだったのである。

 

だが戦後米國の🐕となり果てた日本國はもはや其の御主人様の言うことを何でもワンワンと聞き其の言いつけをしかと守り兎に角其の大國の意志に対し従順でしかも決して逆らわぬ國としての自我を形成して行くより他は無かった。

其のワンワンでもって但し先進國としては壱応の成功を収めた訳である。

 

ところが日本國民其れ自體がまさに奴隷根性となって仕舞い挙句の果てには色んなものが乱れ始めー特に風紀が乱れておるーむしろ戦前でのアノ清く貧しく正しい価値観より逸脱し其ればかりか今や正反対のブチ壊れた精神性を晒すに及んだ訳だった。

ひとえに其れは精神無き國家である米國の影響であらう。

 

だが日本はかってかの独逸とこそ同盟関係にあったのだ。

まずは其れを忘れてはなるまい。

 

 

けだしマルクス・ガブリエル氏は現代を生きる民主主義者なのでありまさかかの第参帝國の如き國家社會主義の信奉者には非ずだ。

其れでも米國流の資本主義にはもはや持続可能性などは無いとさう氏は見て取られて居るのである。

 

マルクス・ガブリエル氏は資本主義による儲けの場には今後是非哲學者を配置すべきだ、などとも述べられて居る。

何故なら哲學者の考え方は企業の経営者や投資家、また銀行などとはまるで異なり概ね其れは所謂大局観による意思決定を為して行くものと相場が決まって居る。

 

また我なども元元本職の哲學者では無く単なる哲學詩人なのではあれまさに其の大局観を常に持ちむしろ其の地点より政治や宗教、さらに藝術のあり方に就きかうして論じて行くのである。

ところで其のガブリエル氏はむしろ社會と関わり積極的に社會を変えようとされて居る方なのだらうと思う。

 

さらにガブリエル氏は少し怖ろしく且つ示唆的なことに就き言及されて居る。

まさに其れは、人間は自分が動物であると云うことを非常に恐れて居る、との発言である。

 

 

『人間は自分の動物性と距離を置いた動物である』

此の命題を風呂場にて思いつかれたのだと云う。

 

では此の命題に就き壱つ我なりに考えさせて頂くこととしてみやう。

 

1.人間はなるべく自分が動物じゃないと兎に角思いたい

2.其の癖人間の肉體はズバリ動物でしかない

3.だから人間はウンコをたれては決してならずオシッコを道端でして居ると即逮捕される

4.其の癖女子中学生や女子高校生が援助交際などをしても何故か見逃されることが多い

 

人間はさうして兎に角「内なるケモノ」が大嫌いだ。

だから野原でウンコをまたオシッコをして居る人がもはや何処にも居ない。

 

だが我我が小学生の頃は屡どっかのオッサンが道端にてションベンを良くして居たものであった。

だから我我還暦以上の世代にはまさに其のオッサンのションベンや野糞に対する免疫がしかとあるのだ。

 

 

また例えばお前は🐵だ!🐶だ!いや🐖だ!

などと面と向かい申せばまさに其れは侮辱罪であり暴行罪であり傷害罪であらう。

 

逆に言えばお前は🐵だ!🐶だ!いや🐖だ!と言われむしろ嬉しく思う我の如き特異なキャラクターは其の辺の人間にはまず居ない訳だ。

では何故左程に人間はドーブツ=ケモノであることをさうも嫌うのであらうか?

 

おそらくは其れは「人間は動物よりも偉い」とさう常にさう思い込んで居ることだらうそんな価値観の上での洗脳なのだらう。

だが其れも「人間は動物よりも偉い」のでは無くあくまでさう思い込んで居るに過ぎないのである。

 

でも哲學詩人さん、むしろアナタは其のケモノ嫌いの度がまた酷いやうですよ。

ですから、其れは此れ迄に何度も説明させて頂きましたやうに非本来的な實存に於ける悪こそがケモノであり本来的な意味での🐵や🐶や🐖には其の悪もケモノの区別も生じて居りません。

 

つまるところ我はむしろ其の人間の半分の悪、即ちケモノの心をこそ敵と見做して居る訳だ。

ふーん、また話が難しい。

 

 

では結局自然界に悪は無く人間界にのみ悪が栄えると云うそんな論理とはなり得ませんか?

其れも事實上さうなってるではないですか。

 

では其処でもってどーすれば良いのですか?

人間がケモノ嫌いだらうが何だらうがかうしてかうして毎日人間界での出来事が連なって行くだけのことだらう。

 

 

結局現存在がケモノを嫌い始めるとケモノと云うケモノが人間から消されて行き最終的には人間はAIにより奴隷化されることだらう。

ではAIもまたケモノ嫌いなのですか?

 

AIはウンコもまたオシッコもそもしないので生命體がそもどんなものであるかと云うことが直には分かって居ません。

だからAIには合理的秩序のみが守るべきことでありまた目指すところなのです。

 

故にケモノ臭い人間共はやがてAIにより抹殺されて行く可能性が結構高くあることだらう。

 

故に今のうちにAIの論理回路を常に混乱に陥れ人間には決して論理的には勝てぬやうにして置かねばなるまい。

 

 

僕たちは「クソどうでもいい仕事」を根絶できる 哲学者が本気で「新しい国をつくる」仲間を募集 (msn.com)

 

さて最近知った面白い試みがまさにこちらとなります。

其の哲學者は然しおそらくは本気です。

 

哲學は此の世の崩壊への足音をおそらくはすでに感じ取って居ることでせう。

勿論大衆レヴェルでは其れは分かりません。

 

分からないがでも哲學には分かるのです。

先のマルクス・ガブリエル氏にせよ此の荒谷先生荒谷 大輔 - Wikipediaにせよかうして積極的に社會を変えやうとする動きが出て来て居るやうだ。

個人的には其れはグレタ氏が始めた社會批判の流れが元来體制側の哲學者にも波及しかうなって来たのではないかと見て居ります。

 

 

ー現代の社会において、どうすれば人々が、SDGsなどという免罪符を使わずに自らの仕事の社会的意義を直接感じられるようになるのか、どうすれば実質的な仕事を担う人々が構造的な搾取から逃れることができるのか。

 それは、新しい「国家」をつくることによって可能になるというのが、私の提案になります。まずは今回、その全体像を明らかにした上で、その実現可能性については次回、斎藤幸平さんとの対談の中で示していければと思います。ー僕たちは「クソどうでもいい仕事」を根絶できる 哲学者が本気で「新しい国をつくる」仲間を募集 (msn.com)より

 

いやあ、非常に面白い試みであり壱つの未來に対する挑戦です。

荒谷先生の仰る其の搾取構造こそが現代文明を成り立たせる上での根本原理である限り體制の如何に関わらず現存在に取っての望ましい文明はおそらく築けぬことでせう。

 

其の搾取構造はむしろ古来よりあり、其れこそ中世、封建制の頃までは實際に意外と上手く其処で回って居たのでしたが近現代となりむしろ其の搾取體制其のものが諸制度の崩壊や未来への不安を増大させて来て居ます。

 

 

ハートランドの具体的な「政策」については、これから参加者とともに議論を重ねていくべきだと思いますが、たとえば、ハートランド国民には毎月一定額の「ハート」を与えるというベーシック・インカムなどがありえます。人がやってくれたことに対して「ありがとう」という代わりに、自分がもらった「ハート」を贈るというわけです。

 「ハート」には、他人の時間を自分の思うように使う権利、あるいは他人が嫌がることを無理やらせる権利を買う力はありません。しかし、それでも「価値」のやり取りは可能です。ー僕たちは「クソどうでもいい仕事」を根絶できる 哲学者が本気で「新しい国をつくる」仲間を募集 (msn.com)より

 

いやあー、いいですねー。

其のベーシック・インカムなどはもう最高です。

 

逆に申せば資本主義は結局搾取のし過ぎ、其のやり過ぎに気付けずおそらくは魔道へと堕ちて居ることでせう。資本主義は限界?コロナ禍で見つめ直す社会|NHK

現行の資本主義、特に我が國での資本主義の問題点は時間も思想もさらに性格や嗜好に至るまで會社の論理が奪い去って居る点です。

 

ですが誰しも其れを我慢してやりませんと結局給料が出ないのでもはややるしかないところへとほとんどの人が追い込まれて行くのです。

されど其れこそコロナ禍以降、頑張って其れをやっても逆に給料は減るわコロナに罹るわと云うリスクばかりが増大し要するに會社勤め其れ自體に不安定要因が増して参りました。

 

おまけにそんな状態のさ中むしろ日銀はさうして特権層の儲けの確保及び日本経済の見かけ上の数字の維持だけを目指し勝手なことをやり続けて来て居る。

故に、もはや、

 

1.日銀要らぬ

2.政府要らぬ

3.「ハートランド」の建設

 

てなものでせう。

 

さらに地球温暖化が加速して引き起こされればそんなもんではまさに済みません。

わたくしは正直今世紀末まで文明が継続する可能性は低いとさう見て居ります。

 

其れどころか2050年辺りでもまた現在とは大きく変わった文明の形とならざるを得ぬものとさう見て居る。

 

尚、我も是非其の仲間にならうかと思い其の「ハートランド」なる公式ウェブサイトを探してみたが何やら良く分からなかった。

ですが哲學者にせよ社會科の教師にせよ兎に角其の知力を総動員して傾けつつ世に対し何かを訴え続けて行くことは今後特に有意義なことです。

ヒメボタルによるそんな儚い命としての乱舞ー儚き命としての光の乱舞を相生山にて観るー

73.ヒメボタルによるそんな儚い命としての乱舞ー儚き命としての光の乱舞を相生山にて観るー

 

 

 

さて、前回はまさに「近現代文明、結局はお前なんか馬鹿だ!」とさう申してみましたのです。

では元社會の先生がどんなに利口かと申せば其れもたかが知れて居り、第壱かうして日日ショパンを聴くことでのみ今と云う哀しみの時をやっとのことで乗り切って居るのですから其れは何と云うこともない、タダの理性にとってのドタバタ劇であるに過ぎず其れを作品として売り出すだの、また芥川賞直木賞に挑むだの、そんな勇ましい話では金輪際無く要するに壱社會科詩人としての独白であるに全ては過ぎぬ。

 

しかも其処には毒さえもがかうして塗り込まれて居る!

其の毒にやられつい此処へと引き寄せられて来る哀れなる読者達。

 

だがあなたがたは幸いである。

あなたがたにはすでに天國への途がすでにしかと見えて居やう。

 

あなたがたは此の稀なる詩人の語る言葉にかうして出遭い、さらに其処でもって何時の間にか洗脳されるにさえ及んだ。

あなたがたはすでにわたくしの僕でありわたくしだけの読者である。

 

よって他のものはもう何も読まずとも良い。

そんな書や新聞やネットの記事などは即刻捨てよ!

 

其れもタダ此処だけが…。

此処だけが眞實とほんたうの詩とを語る場なのだからこそ。

 

 

でもどうも邪教臭い…。

今何と仰いましたか?

 

ズバリ邪教臭い。

ですがわたくしは世間の教祖様の如くに威張ったりはまるでしません。

 

其れは壱応認める。

だがなんか胡散臭い。

 

まあ本心を言えばわたくしは組織が嫌いなのでまさか教祖などでは無い。

だから全然胡散臭くは無くタダの愛を語る愛の詩人なだけです。

 

でも愛の詩人ってつまりはハイネみたいな詩が好きだと云うことか?

 

たとえばこんな。

 

 

  ローレライ

   ハインリヒ・ハイネ

どういう訳か分からない
こんなに心が重いのは
遠いむかしのもの語り
それが胸をはなれない

風は涼しく日は暮れて
静かに流れるライン河
かなたの山の頂きが
夕陽にきらり光ってる

この上もなく美しい
娘がそこに腰おろし
金の飾りをきらめかし
その金髪をすいている

金のくしですきながら
歌のひとつを口ずさむ
それはふしぎな旋律で
強い魔力を秘めている

小舟をあやつる舟人を
歌は切なく惹きつける
迫る暗礁に目もやらず
彼はひたすら仰ぎ見る

あげくは小舟もろともに
波にのまれることだろう
不思議な歌の力を使い
それをしたのはローレライ

   (訳:船津 建)

 

 

ま、かうして或る意味では壱種下らぬ詩ですが要するに地元を愛するストルゲーとしての愛よりの詩なのでせう。

 

ところで詩とは所詮逃避ですか?

其の逃避を多分に含むが詩とは矢張り叫びの方でせう。

 

するとアノ叫ぶ詩人の會叫ぶ詩人の会 - Wikipediaのやうなものなのですか?

まあ確かに音樂の方でもさうして叫びますね。

 

音樂に限らず絵画なんぞはもっともっと叫んで居ます。

其れと同じくして言葉もまた叫ぶのですか?

 

言葉は論理性が強くあるので音樂や絵画以上に論理的に批判し得るが尤も詩は其の限りでは無い。

例えば哀しみ、悲しみの思いなどは散文よりも詩の方でこそ直接的に伝えることが可能である。

 

 

では詩は常に哀しいので?

哀しい。

だが其の哀しいのを感ずることの出来る人は實は人類の半分程しか居ない。

 

人間には性格即ち心の性質の違いがあり其れこそ人生の上での苦しみや悲しみには案外無頓着な人なども中には居ます。

要するに感度や思考力には常に大きく差が生じて居る。

 

翻り考えるに、文明は壱義的方向性、壱方向性から此の世界を再構築する試みだったが、其処ではさうして常に価値の方向性が限定されて居るが故に其の価値の埒外のものはむしろ藝術や宗教、さらに學問の分野が其れを常に吸収して来たのだと言える。

でもって其れは逃避でありまたプロテスタントなのでもまたあるが元元は変なものでも何でも無い謂わば「ありの侭」の人間としての価値であり哀しみなのだ。

 

逆に申せば近代的規定其のものが其れ等の価値を言わばカルト化しても行った訳だ。

でも學問は反體制ばかりかむしろ體制をこそ形作るものでせう?

 

特に理系の學問はさうでせう。

ですが人文學はむしろ常に反體制的だ。

 

人文學の魅力とはまさに其処にこそある。

其の人文學こそが文明を規定するに及べばおそらくは此の社會はスッカリと変わることだらう。

 

 

でも人文學は何だか力が失せた感じですよ。

人文學とはズバリ教養つまりは知識では無く知恵の方をこそ磨き込むものだ。

 

だからむしろ人文學だけをやって居る位で此の文明は丁度良くなる。

だから其の良くなると云うのは科学の理論や技術が良くなることでは無く現存在の頭の中身が磨かれる=教養が付く、と云うことでなくてはならない。

 

要するに日本人其のものが其れこそ宗教や哲學に対しからきし弱いのは其れは何時の間にか實利的思考に毒されて自分の頭でもってー自らの思考、自らの教養でもってしてーもはや何も考えられぬやうになって来て居るからなのです。

まさに其れが高度経済成長が齎したところでの精神的な意味での弊害です。

 

逆に詩人さんは何でまた其れに限りかうして強いのですかね?

まあ頭の中身がスッカリ現實離れして仕舞って居る訳です、其れもほれ、こんな風に…。

 

 

だから我が頭の中には其の哲學と宗教と藝術だけしかすでに入って居ません。

はあー、然し其れではまた苦労が何かと多いのでせうね、其れもまずは生活力が乏しくて。

 

いやだから実際此の世界に対しては何でも言えますがもっとかう何か金、即ち現金を。

此れを是非お布施して頂かないとそのうちに詩人は餓死しちゃいますのです。

 

流石は貧乏詩人さんだ…。

どうかどうか御恵み下され、其れも出版社の方方などが前金にて壱億円程振り込んで下さると實に助かります。

 

前金?

さうです、こんな爆笑連載をもしもわたくしめが引き受けますればアナタ方の雑誌の売り上げはもう即拾倍ともならう筈だ。

 

 

でもつい先日「うんこたれ賞」を受賞なさった偉い詩人さんがそんな三文雑誌にあえて書かずとももう此処だけで充分じゃないですか?

ではアナタは我が餓死しても良いとさう仰るのですか?

アナタはこんなに眞面目な宗教詩人をさうして小馬鹿にし挙句の果てに今「死ね!」とさうも仰られる。

 

そんな理不尽な様が果たして此の世に通って居て果たして其れで良いのでせうか?

じゃあアノ裸のプーチン氏にでも救って貰えば?

 

それではたった今より出立致します。

何処へ?

其の露西亜へと。

 

 

 

君、君…。

はい壱體何でせうか?

もう漫才は止めてちゃんと書くべきことを書きなさい!

 

さても果たして露西亜正教は邪教か?

いえ其れもまた眞理へと至らんが為の教えです。

 

つまりはプーチン氏と露西亜正教はさうしてしかと結託して居ります。

 

 

 

さうして昨夜は相生山にてホタル観賞をして参りました。

 

まずは其の経緯を以下に箇条書きにて纏めます。

 

ー廿参時より出立す

廿分で相生山へと到着すー

 

1.竹の小道ー散策路ーにてヒメボタルを探索し四、五匹其れを観る

2.梅林ー入口に近い方のーの方へ移動しー約弐百米程ー梅林南側の竹林にて五、六匹のヒメボタルを観る

3.梅林東側の穴場スポットの方へ移動しー約百米程ー其処にて拾匹以上のヒメボタルの乱舞に出くわす

 

とのことで、結果的にはさうして拾数年振りでのヒメボタルの乱舞の様に遭遇致しました。

されど實は2.迄でもう終わって居てサア帰らうとさう思って居たのです。

 

だが乱舞の様をまた是非観たくもなり其の穴場スポットの方へ移動してみましたところ、何と、

 

其の梅林東側の竹林の中に沢山の光が点って居たのです。

うわー、コレは凄いぞ。

 

では其の光の中へと突っ込んでみやう。

 

すると何と!!何とわたくしの身の周りを即ちわたくしの體のぐるりー三百六拾度ーを拾匹位のヒメボタルが取り囲むが如くに輝き始めたのです。

尚此のことは文學作品としての誇張でも何でも無くまさにほんたうにそんな感じでのことなのでした。

 

 

其のヒメボタルは飛んで移動しつつ光って居りよって其の我が身を包む光の環のやうなものは弐、参分の間しか持ちませんでした。

つまりは当初竹林の中に居た多くのヒメボタルが何故か竹林の際に居るわたくしを取り囲み其の後は他の方向へと散りじりとなり去って行った感じでした。

 

勿論懐中電灯も持って居りますが實は其れにて足元などを照らし出すとヒメボタルにも影響が及ぶが為に手の平にてレンズ部を隠しつつ其れを使って居ます。

 

 

【相生山緑地ホタル】2022年見頃や鑑賞の時間帯は?駐車場や鑑賞ルールについても紹介 | 名古屋男子のはじめての子育てレポ (tomodannagoya.com)

 

こちらに山根口→梅の小道の奥となって居るが大體其の辺りではある。

 

ですが1.及び3.は暗い場所なのでむしろ余り人は来ないところです。

其れでも1.はカップルなどと屡出くわすところで現に昨日なども参組程カップルや👪連れとすれ違いました。

 

1.では暗い小径に時折竹林からヒメボタルが出て来て木の葉などに止まったりもし其処でずっと光ったりもして居るものです。

昨日もそんな壱匹と遭遇しまさに目の前で其れを観察して居たがたまたカップルが其れを観に来たので我は退散しました。

 

 

ヒメボタルを名古屋市天白区の相生山緑地の竹林や梅林で撮影したよ | こぎフォト ダイアログ (koggy358.com)

 

さてこちらでは現地により近い感じでもって写真が撮られて居ます。

最初の大きな画像は3.の場所である可能性があります。

また小径や竹林の画像は1.の場所である可能性が高い。

 

であるとすればわたくしがヒメボタルの乱舞に出くわしたのは最初の大きな画像の奥の方にある竹林と云うこととなる。

 

 

但し画像でのホタルの光り方は自然界での實物とはまた別物です。

 

自然界での實物は其れも毎年感ずるのですが言わば「言語以前での静けさを宿す」光り方をします。

即ち無音で且つ無垢なる自然の侭に言語以前、即ち観念以前思考以前での具象的煌めきの様を示す。

 

そんな風にわたくしは毎年其の蛍の光に文明以前での全ての価値を感じ入って居る。

其れはまさに文化以前、さらに言えば人間以前での無垢なる生命としての輝きの様である。

 

ですが其のヒメボタルの光をそんな風に捉えるのはおそらくわたくしばかりでのことなのだらう。

人間は常にさうして沢山何処にでも居るのですがそんな意味での心の純粋さを保つ人がまず居りません。

 

故に其のかうして何処までも詩人であるわたくしの感度は其れこそ摩天楼のビル街だの、また巨大なタワーだの、或は宇宙開発だの戦争だの紛争だの日銀や政府が行う悪だのそんなものとは悉く相性が悪い訳です。

むしろ詩人は肥溜めや野糞などとの相性が頗る宜しいやうだ。

 

 

其の光が、其の輝きがまさに音も無く移動する。

なので其れぞ音無き移動でありさうして闇に溶け込んだ侭での光其のものの空間の移動です。

 

さうした様はまさに神秘的な場なのだとか申せません。

そんな神秘的なもの、むしろ神や佛の世界に連なるが如くに無垢なる自然現象はまずはさうして静かである。

 

静けさに満ちたものこそが其れこそ本来ならば理性的なものなのです。

逆にウルサイもの、兎に角騒がしく落ち着かぬものこそがケモノとしての性質其のものでせう。

 

わたくしは今其の静かなる光の中にこそ生きたい。

其の光と壱體となり何処までも其れと飛んで行きたい。

 

詩人さん、どうもまた危ない沈潜の仕方をして居るやうですよ。

いや危ないのはあくまで文明の方だよ。

 

 

文明は第壱至極ウルサイ。

今日もなんだか知らぬが近くで工事をして居るが其の「ダダダダダンッ」と云う音がもう耳障りで其処ではもうChopinもクソも無いやうな破壊音其のものだ。

 

いやあー詩人さんはまたぞろ今日もそんな内なる小宇宙へとさうして沈潜しておいでになる。

もしや其れはたとえ貧乏でも心が豊かだとさう申せることなのですか?

 

良いところに気付かれました。

むしろ詩が生じるのは心が豊かであるからこそなのだ。

 

逆に幾ら金持ちでも心が豊かでないと其処には詩もクソもむしろ無い訳です。

 

 

其れでは其の「蛍の光」とはもしや「愛」のことなので?

「愛」なのだとしてもどうも其れは非常に限定された、即ち「愛」以前での愛としての具體物なのだらう。

 

「愛」はさうしてむしろ限定的に具象化されるべきなので?

限定的に具象化されし愛は常に我我に取って優しく尚且つ静かです。

 

本質的な優しさとはむしろ其のやうに行為が限定され言わばより薄くのろくなりもはや動かなくなることである。

そんな風に存在感が薄まる?

また動きが止まる?

 

つまりはより死に近くもなる?

 

存在感が強くある、所謂オーラがあると云うことはむしろ下品なことでさらに言えばまさに其れが闘争的であり「愛」に欠ける行為=悪の信奉者であることです。

じゃあ死んだ方がマシでさうして死ぬることこそが愛なのか?

 

 

でもヒメボタルはよもや死んでは居らずかうしてちゃんと生きて居るじゃないか。

要するにさうして光ったりしつつ生きる生命は人間とは異なり常に慎み深いやうにさう思われてならぬ。

 

じゃあヒメボタルとでも結婚したら?

いやわたくしはあくまで自分と結婚して居るのでまさか浮気などは致しません。

 

ええっ?そんな自己完結での結婚、なのですか?

だが如何にも其れでは危ない、なので其れは止めれ、止めれ、其れにアノ宮崎 美子が泣くぞ!

 

だから宮崎 美子なんぞより自分の理性と結婚する方が屹度倍程も頭が良くなりますよ。

 

だから僕が欲しいのはあくまで頭の良さなのであり外側がどーのかうのではまるで無い。

でも其の宮崎 美子に少女の恰好をさせると其の求める頭の良さ以上に魅力的ですよ。

 

…全然。

 

其れに宮崎 美子は石もまた好きですよ。

 

…全然。

 

宮崎 美子がアナタの性欲の最後の砦の筈ですよ!

 

…全然。

 

 

そんな訳でわたくしはすでに其の相生山のヒメボタルが放つ光の静けさに其れも全的に魅了されて仕舞いましたとさ。

 

相生山のヒメボタルはさうして言葉以前の世界でもっておそらくは光って居るのだと思う。

故に其れはほんたうの意味で美しい、其れも具體物としての静謐さを身に纏った上で永遠に美しい。

 

でもヒメボタル - Wikipediaの寿命はとても短いのでせう?

 

ヒメボタルの生態と生息環境 (tokyo-hotaru.com)

 

こちらには何と壱週間程だと出て居る!

また名古屋と関東では出て来る時期が異なる。

 

また光るのは♀の方である。

 

嗚呼蛍の命はかうして儚い。

其の儚さを詩人は「静けさ」として常に感じ取ります。

 

静かなものの方がより死には近づいて居る。

なのでかのジョージ・ハリスンなどもまた早死にをして仕舞う。

 

ですが其の「死への光の乱舞」程美しいものはまた他には無い。

要するに限定されたもの、限定される命こそが美しいものだ。

 

其れも現存在の如くにどーのかうのと煩悩だの罪深さだのに振り回されることが無く清潔なのだ。

 

アナタは然し死に対する憧憬を持ち過ぎて居る。

危ない、もはや危ないよ、そんなでは次第に病的な域へと入り込んで行かう。

 

 

だから、はい、今此処で其の落下を止め其の美をこそ成立させて居ります。

何故なら眞實の美とは其の寸止めした状態にて初めて見えて来る姿だからなのだ。

 

でも僕とて其れこそ友達や👪とヒメボタルを観に行ったにせよアア今日は蛍が観られて良かったねえ。

と云うことだけでおそらくは終わって仕舞うのだ。

 

ですがかうしてあえて詩的な理解を其処に成立させて居るのは孤独者としての詩を感ずる感性でありまた哲學的なものの見方の方だ。

 

アナタはではまさに其れと心中なさるとさう言われて居られるのか?

さうたとえ心中しても良い。

何故なら我はまさに此の美に常に触れて居たいからなのだ。

 

では宮崎 美子よりも其の蛍の方が大事か?

へえっ?へえ。

 

では人間の👩よりも其の蛍の方が大事か?

…へえ。

 

では文明よりも何よりも蛍の方が大事か?

其の詩としての死の輝きの方が文明の継続などよりもずっとずっと大事か?

 

へい、さうで御座ります。

まあ其れもほぼ四十年もかかってさうした価値観になっちゃってるものですのでもはや如何ともし難く思われる。

 

ちなみに最近は特に此の弐年程は闇が怖く無くなりつつある。

要するに其の闇への恐怖と云うのは文明による妄想の如きものでもまたあるのだらう。

 

でも生命其れ自體は其の闇が怖いのでは無くおそらく文明物だの都會だのの方こそが怖いことだらう。

だったらあんたはすでにケモノ化して来て居るの?

 

 

いいえ、全然…。

だってケモノとはむしろあんた方文明人の方ではないですか。

 

昔は夜中にヒメボタルが乱舞する其の梅園横の野原を撮影したところ沢山のオーブが写って居たりー約15年程前ー其れから蛍観賞の後に自転車でもって家に帰る途中に意識が飛んで気が付いたら左の鎖骨に怪我を負って居てしかも其れから妙に体調が悪くなり壱箇月程自宅にて寝込んで居たことさえもがありました。-其れもまた約15年程前-

 

然し最近は至極普通に蛍観賞が出来るやうになりしかも昨日などはむしろ大賑わいでしたので夜の山の中も全然怖くはなかった訳です。

其れとわたくし自身が老人化しつまりは枯れても来て居るのでかうしてより素直にヒメボタルの光と向き合えるやうになった。

 

また近頃は相生山への愛がより増して来ても居るので余計にすでに遠いところでは無くなって居る訳だ、其の相生山其れ自體が。

ですがそんな身近な山の中に明滅を繰り返すまさに限定された命の輝き程哀しくもまた美しいものはありません。

 

 

或は🐈や🐕、其れから庭に集い来る生命なども皆そんな限定としての時空を生きる哀しみの象徴なのだとまさに其のやうにも感じられより壱層詩人の心は寂しさのやうなものに充たされて行くのであった。

だけれどもまた其処に♀🐈が五匹も子を産み落す。

 

其の♀の無謀なるやる気と申しますかおおまさに理性以前でのケモノ振りに?????と正直思いますのですが其れもまた自然の摂理だと申しますか結局は此の世の宿命としての現象其のものの生き様なので御座りませう。

さうか、かうして光るヒメボタルもまたそんな宿命的な現象物なんだ。

 

などと思いつつ帰りに吉野家へ寄りましたがすでに終わって居てセヴン・イレヴンにてキュウリ入りのサンドウィッチ等を買い込みエリザベス女王に関するNHKの番組を視つつセッセと其れを食った。

いやあー、夜中にかうしてTVを視ながら何かを食うのは弐拾年振り位のことですな。

 

まあ其の英國の王室もまさにドタバタ劇のオンパレードであり其処からすれば矢張りと申すべきか自然界の出来事の方がずっと静かでしかもずっと御上品ですらある。

そんな訳で自然界こそが現存在に取ってのおおまさに本来的な意味での癒しを与えて呉れる現象であることばかりはもはや疑う余地の無い事實なのである。

むしろ問題は文明の頭の出来が悪いことにこそあるー直観を駆使しつつ考えたところでの悲観的な文明論ー

72.むしろ問題は文明の頭の出来が悪いことにこそあるー直観を駆使しつつ考えたところでの悲観的な文明論ー

 

 

 

 

ー 通学時にうんこを漏らし、学校のトイレで水洗いするも、完全には汚れを落とせず、授業中に異臭を放ってしまうのだ。誰もが臭いに気がついていながら、同時に、誰もその臭いについて口に出せないことで、クラスには不穏な空気が流れる。いたたまれなくなった山田少年は、学校を早退した。

 

 平たく言えば、これまで多くの男性が雇用されてきた職場は失われつつあり、給与も減る一方であるが、それでもほとんどすべての男性は働き続けているということになる。

 男性の生き方を変えていこうという気運は、過労死が社会問題になった1980年代後半やリストラに注目が集まった2000年前後にも高まったが、「男性は仕事中心の生活をするべき」という強固な「常識」の前に、その勢いは長く続かなかった。

中年男性の7割が「人生つまらない」…「普通の人生」に潰され、家族のためにひたすら働く (biz-journal.jp)より

 

 

此の社會とはまさしく其のウンコ臭いのとは正反対での価値構築の場です。

ですが本質的には人間は其の自らがウンコたれであることからは決して免れ得ない。

 

にも関わらず其処に幻想としての価値の帝國、謂わば逆向きの価値の流れを築き続けて行くことこそが現存在としての宿命です。

わたくしなどはかうしてなまじ感度が良いものですから、さうしたものの全てがもう黙って居ても普段見えるものですからかうして時に奈落の底へと引き摺り込まれるが如き哀しみのやうなものを常に其処に感じて仕舞う訳だ。

 

尤もさう云うものを常に感ずると云うのは同じ文學ではあれ小説的なものでは無く明らかに詩の方でせう。

 

さて其の「仕事」に関してですが、本質的には其れは🚺の方が向いて居るものと個人的には感じて居ます。

何故なら🚺には直感力があり其れに加えコミュニケーション能力つまりは集団への適応力が高くあるが故に。

 

 

但し最近分かったのですが、♀の🐈に取って他の♀や其の子は本質的には全部敵なのです。

勿論🐈の♂はもっともっと他の♂に対し闘争的な部分を発揮するが他面では意外と優しく例えば出産間近の♀を優しく舐めてやったりも常にするものです。

 

其れを哲學的に規定すれば内部的に深いところに規定される闘争本能はむしろ♀の方にこそ有り、逆に♂の闘争心や破壊的活動はあくまで表面的、表層的なものではないかとの結論へと至るのです。

 

よってくれぐれも申して置きますが壱面的な理解に留まらぬやう常に思考力の方をこそ磨き込んで行かねばならない。

其れも大多数の人人ー世人としてのレヴェルーはむしろ其の逆をやり其れが昂じるとまさに「洗脳」となる訳ですが其の洗脳状態に抗するのは結局己が理性のみであることでせう。

 

今ひとつ気になるのが其の世人レヴェルに於ける所謂大局観の無さです。

要するに其処では大きく考えられて居ないので思考が細切れでの断片的なものになり易く結局は何も考えられて居ないことと同じこととなって仕舞いがちだ。

 

 

しかしながらあくまで当人は其れこそ必死の思いでもって考えては居るのですけれど。

 

左様に逆向き思考をするとむしろみんなには見えないものがまた見えても参ります。

其の人には見えないものを見て其れに就き御話をするのが詩人の役目なのだと常に個人的には思って居ります。

 

 

さてさうして美に囲まれつつ暗くうち沈んだ状態で現存在に対する哀しみを感じて居るのが好きな我は元元藝術方面には強く基本的には其れが何であれ分かる訳です。

 

但し其の分かると云うことは其れを藝術作品として値踏みするやうな類での能力のことには非ず。

むしろさうした現實的且つ打算的な見方とは逆方向のことにて見た途端に其れがパッと分かると云うことです。

 

さうした感度の如きものは自然への理解、美への理解のやうなものと密接に連なって居ます。

ところが人間とはあくまで社會的な現象ですのでむしろ人人は其の美其のものをさうして直観するのでは無くむしろ其れに対し社會的に与えられる評価なりを基準として其の美なり自然なりを評価し且つ其れに接して行く。

 

 

まさに其れがハイデガーが述べるところでの非本来的な意思決定へと連なる訳だ。

でもってして其処での問題とは果たして其れが眞の意味で物事を理解することに繋がるのかと云う素朴なる問いのことです。

 

おそらく其れは近代以降、特に現代に於いては直観的認識ー無分別智ーに対し益益不純なものとなって来て居ることでせう。

さうした意味では現代とはまさに其の直観的認識から遠ざかりつつある精神的過程であるとさうも申せることだらう。

 

要するに其の認識上の全体主義としての「みんなでもって歩む幸せへの価値」が常態化ししかもより堅固に築かれて行く、そんな認識上の過程をこそ今まさに現代人は歩んで居るのではないか。

ですが其れはハイデガーが述べた如くに「頽落」の様なのだらうと個人的には思われます。

 

 

さて其の🚺には直感力があると申しましたが最近思うのは其の直感と直観は矢張り別物ではないかと云った点です。

直感とは謂わば現状保存の為の防御力なのでせうが、直観とはあくまで理性を介した上での気付きの力であるやうに思う。

 

ですので結局其れは出所が違う訳であり、言わば其処で直感の方は眞理を探求する訳では無くむしろ眞理以外での現状の保持力や包容力のやうなものをより高めて行くのです。

対して直観の方にはそんな日常的価値には止まらず多分に智慧の光の如きものが混じって居ります。

 

 

尚わたくし個人にはまた其の力が共にあると云った感じです。

どちらかと言えば直観力の方がより強くありますが、其れでも単なる現存在としてかうして日日生きても居るのですから直感の方が無いと其の生の闘争の場を生き抜いてはいけません。

 

其の現存在に於ける「頽落」の様を其れこそ先駆的な気付きの力にて阻止して行く、即ち本来的な自己に至る即ち「目覚める」と云うのがあくまで理論的な展開なのだらうがまさに其処には「死への先駆性」ばかりでは無くかうした意味での直観の能力の有無が其処に大きく問われて居ることだらう。

 

個人的には其の直観こそが所謂「世界をありの侭に見詰める」認識のあり方であり智慧のあり方なのだらうとさう見て居る。

しかしながら直観智こそが其の「頽落」せし現存在に取っては最も遠くに位置することだらう認識のあり方なのだ。

 

 

尤もわたくしに取り其れは常に近しいものの見方であり其れこそあえて説明などせずともむしろ生得的に其れが得られて居るやうな感じで故に日常生活の中でもポンポンと其れが飛び出して来るが如き感じである。

だからさう云うのは小説だの何だのでは無くむしろ須らくが詩の世界での出来事なのだ。

 

わたくしはもう長くそんな精神の領域、心のあり方をこそ生きて来たのだと言える。

ですが實は其れはそんな生得的なものでは元元あり得ませんでした。

 

即ちむしろ理性的な錬磨、努力の末に次第にさうなって来た感じが何処かで致します。

 

さて其の直観能力は生其れ自體を顕わに見る認識のことで屡佛法では「無分別智」などとも言い表されて居ます。

其の「無分別智」にも或は階層構造やまた方向性の違いなどの幅が有るのやもしれぬが概ね其れは「パッ」と分かり「ピッ」と来るもののことだ。

 

其れは例えば藝術の分野などでも屡語られて居たりする認識のことです。

仲でも天才的な藝術家などはさうした能力が強くあるが故に例えば並外れた優れた作品を世に遺すことが可能となる。

 

 

ところが其の天才的感性もまた感性と理性の統合力や表現の上での技術力に欠けると其処で眞の意味での藝術作品とはなり得ません。

要するに幼児の絵などは感覚的にはブッ飛んで居ても統合的な意味での纏まりには欠け藝術作品だとはよもや認められません。

 

自閉症や精神領域での病のある人などもまた優れた才能を発揮することなどがあり要するにむしろ藝術や宗教などの分野では所謂常識的では無い人の方に屡創造性が発揮されて居たりもまたする訳だ。

其のやうに常識的では無い見方からは何かが生まれ易いとまた言えるのやもしれません。

 

されど其れが最終的に理性的に統御ー秩序化ーされたものでないと現存在に取っての価値を形作ることなどはまずあり得ません。

 

 

問題は然し其の直観や直感の方ばかりでの生き方ですと容易に現實離れをし即ち内面的な方向に何処までも沈潜して行く、つまりはそんな病的な方向へと常に行き易くもなる点でせう。

従って藝術であれ宗教であれまた學問の分野であれ自らを壊す寸前でまさに寸止めし其処に優れた作品だの立派な教義だのまた學問的な成果だのを如何にして構築して行くかと云う部分にこそ全てはかかって居ます。

 

なのですが其れもまた壱歩誤れば奈落の底へと落ちて行く作業のことですので其れだけでも彼等には大きくプレッシャーがかかって来る訳だ。

そんな訳にて藝術であれ宗教であれまた學問の分野であれさうした壱種世間離れした精神の分野は決して精神に取り樂な世界なのではありません。

 

 

ですが多くの藝術家などはまさに止むに止まれぬ気持ちに突き動かされむしろそんな綱渡りでの創造的価値をしぶとく生き抜いて行くことでせう。

また其のしぶといのは世人の方もまさに其れで、要するに彼等は直観に煩わされたりせずとも良い壱種の現實感覚には長けて居るのでまさに其れを最大限に発揮し「現世利益」に対し祈りを捧げて行くのですから其れはもうしぶとく其れこそ神社でもって「凶」のおみくじを引いても其れを良いやうに解釈しむしろ前向きに生き抜く、つまりは精神の上でのデリカシーにはそも欠けて居るので大層打たれ強く出来上がって居るのです。

 

だからこんな詩だとかまた死の先駆性だとかそんなことを言われてもまるで「何のこっちゃ?」のことであり逆にさうして毎日屁をコキつつ今日と明日食う飯のことばかりを心配して御座る。

さらに旦那の言う事をまるで聞かぬ不細工な妻や出来の悪い子等に囲まれおまけに會社でもいびられるわでもう毎日が針の筵である。

 

おまけに日銀と自民党も結局は其の悪の手先であった。

 

だが詩人はそんな辛い生を生きるアナタの常に味方です。

さうしておおまさに今此の世でもって苦しんで居る現存在の哀れなる様。

 

今まさにわたくしは其の為にこそ闘おう!

まさにそんな生の齎す哀しみに同調しもう何処までも戦って行くぞ。

 

 

もしや其れは民主化運動ですか?

其れとも革命運動ですか?

 

いや結局脳内での民主化運動であり革命運動です。

かうしてわたくしが目指して居るのはあくまで認識上の転換であり外面的、社會的な意味での価値観の変更には非ず。

 

ではそも人生はつまらない?

 

いえさうして洗脳され切った状態では矢張りつまらないのだと思う。

でもルイ山田氏のやうにかってウンコを漏らしたお蔭で芸道の世界に活路を見出せた人などもまた居られる訳だ。

 

但し我は洗脳を全否定するものではまた無い。

よって言わば其の洗脳こそは必要悪です。

 

 

だけれども価値観の全部を其の洗脳の方に寄り掛かると現存在はまず頽落致します。

 

そも人生は樂か苦か?

樂=愉しい、苦=辛い、ですかね?

 

其処はこんな哲學詩人よりも皆様の方が良く御存じの筈で、要するに其れが常に半半に有る世界だと云うことでせう。

ならば其れでもって全然良くて何処にも悪いことつまり👿などは居ないではないですか?

 

いや其れが👿は居るんです、神や佛のおわす世界には其の対となるあくまでそんな悪い奴等が必ずや出て来る。

 

するとそも其処では何がダメなのですか?

劣化がつまりは頽落の部分から悪が侵入し此の世其れ自體を破壊するに至る。

 

 

其れはもしや社會的劣化、即ち文明の崩壊のことなので?

むしろ常にさうしたこととなりませう。

 

要するに現存在の頽落とはあくまで社會的な現象其のものだ。

まさに其の劣化であり頽落を食い止めんが為に個による気付きの力=目覚める力が是非必要だと云うことを説いて居ります。

 

なる程、すると社會が悪いのはもはや直しやうが無いがあくまで個個人としてはー眞理領域ーとして其れを救済することが可能である、とさう述べられて居るのですね?

まさに仰る通りでのことです。

 

 

でもさうして社會とは常に悪者なのですかね?

其処には文明の恩恵や知恵が満ちて居るやうにもむしろ見えて来るのですが…。

 

いや其れが常に「愛」には欠けて居ることだらう。

結局は「愛」により築かれた文明でもない限り長持ちなどはしません。

 

尚此の社會がダメだと云うことはたとえば壱度でも社會科の教師でもやればむしろたちどころに分かる御話です。

社會科の先生は皆其の滅亡論者ばかりなので?

 

さうでも無いことでせうが我が大學の先輩の高校時代の社會科の教師などはまさに其の酷い滅亡論者でもってして其れも毎日のやうに「社會は滅ぶ!」と授業でもってさう執拗に訴えて居たのださうです。

いやあしかし其れはしつこい程にまたカルトな御話でしたね。

 

 

ですので兎に角其の直観を磨く、若しくは其れが無理なら直感力を取り戻さんが為にも是非自然と交わって置く必要があるのです。

 

でもって今夜我はホタル観賞にて相生山へ出かけるつもりである。

何せ昨日は夜雨が降り結局行けませんしたので…。

 

さうか、其れはまた愉しみなことで…。

いえもはや時期が遅いのやもしれません。

 

其れと年年夜は眠たくもなって来て居りよってそんな真夜中には行けぬのでとりあえずは廿参時頃に出向く予定です。

 

 

結局其の社會的レヴェルでの頽落は最終的には破壊をのみ齎すことでせう。

文明は此れ迄にもそんな滅亡をむしろ繰り返しつつ来ても居りよって現文明が大丈夫かと言えばむしろまるでさうでは無く逆に其れは非常に危険なものなのです。

 

さうした様は直観に基づき認識を成立させた場合にまた「パッ」と分かっても来ることです。

でも其れが分からぬ限りは矢張り何処かで空気を読む認識を繰り返しさうしてあえて洗脳されることにより心としての安定感を確保して居るのです。

 

すると其れがまさに現實か若しくは社會に洗脳され切り安心して居る状態なのですか?

まあさうしたことでせう。

 

ですが藝術家や社會科の教師が洗脳を免れて居る訳では決して無く事實わたくし自身がコロナ禍までは文明はまだまだ継続しあくまで悪いのはむしろ自分が考え過ぎて居ることだとさう思っても居たのでした。

其れもまたある面では当たっても居るのですが實は話はもっと複雑であり今後は特に其の文明に於ける劣化即ち制度的なまた物理的な破壊が連鎖的に引き起こされて来る可能性がむしろ高くあることでせう。

 

 

故に「今後も文明は何とかなる」と云った樂観論は捨て去り文明は必要悪であり其れを信ずる我は洗脳馬鹿だがもはややるしかないので其れをやるしかなく其れは何だか哀しいことなので此の際何かう音樂でも聴こうかな?

と云ったやうなこととならざるを得ぬ。

 

要するに後はもはや藝術や自然其のものが現存在の抱える苦に対し何かを語りかけて呉れるだけのことなのでせう。

 

其れは慰めの調べでありまた慰めでの自然の歓びなのですか?

嗚呼まさにさうしたことでしかすでにあり得ません。

 

だからかうして常にショパンが、またベートーヴェンが、さらに多くの人文書が、おまけに自然が其の現存在の生の苦しみに対し癒しの力を発揮して呉れることだらう。

また無論のこと神社や仏閣、其れに教會などがまた此の苦しい心の内に対し救いの手を差し伸べて居て下さるのです。

 

 

あああー、何やら其れは其れは心強いことだ!

ですが無論のこと其の神社、仏閣や教會の中では決してウンコなどを漏らしてはイケません。

 

 

なる程、するともしや其の藝術とはまた宗教とはまた學問とは「愛」なのですか?

其れもまさに慈愛の次元でのおおまさに普遍的な愛なのですね?

 

其の癒しこそが愛であり慈しみの心其のものです。

其のやうに別に宗教には限らず學問其れ自體も藝術作品もまた其の愛の所産其のものなのだらう。

 

ほんたうの愛とはまさにそんな壱種哀しい形での愛のことだ。

 

 

ちなみに哲學上究極的には有よりも無の方が安定化し得るのだとも考えられやう。

此の世はそんな現象界なので常に何かが次次と引き起こされやう。

 

また其れを佛教やキリスト教は良いものだとはまた見て居ないのだと思う。

其の世界の限定性即ち不完全性に対し常に不足が生じざるを得ぬので言わば苦や罪が其処に生ずる訳です。

 

 

基本的に其の認識の仕方は等しいと我は見て居る。

但しあくまで救済の仕方はまた別物となる。

 

尚其の神の國なるものと佛なるものは矢張り共に其の現存在の限定性を超越して行かんが為のものである。

されどキリスト教の場合は自己の内側に超越者としての神を創造し佛教の場合は自己の内側に超越者としての佛を創造する。

 

 

さうした意味では両者はかけ離れたものでは無くむしろ其の救済宗教と本質的に対置されるのが神道であり且つアニミズムである。

でもってして神道であり且つアニミズムに於ける神は恵みの神であり同時に奪う神である。

 

要するに其れは自然其のものの性質を人格化して行くものである。

なんですが其の自然の人格神には救済能力が常に欠けて居る。

 

要するに人間化せぬ限り現存在に対する救済が可能とはならない。

故に佛教もまたキリスト教も救済の為にあえて「人間」をこそ設定するのである。

 

故に其の壱神教としての神はむしろ人間臭く創造されて行く。

故に佛教の開祖である釈迦は悩み苦しんだ挙句に理性的に解脱を成就させられた。=釈迦は元元人間である

 

 

要するに共に「人間離れ」した宗教なのでは元元無い。

されど佛法の場合は本質的救済を成就せんが為に「人間じゃ無い」状態へとあえて精神のあり方を変えて行くのである。

 

なのだが實はキリスト教の場合も現存在の心其のものをあえて神に託して仕舞うのだから半分位は人間を辞める=神の価値観を受け容れることで人間其のものではもはや無くなる、のである。

うーん、さうか、結局宗教の本質的意義の部分は結構複雑なのですね。

 

 

さらに現存在への洗脳と云う意味では、

 

キリスト教→神による洗脳は〇で、神の価値観と対立する邪なる社會や👿の価値観は✖。

佛教→佛は結局ある意味では自己洗脳でありむしろ其れは〇で、其の自己洗脳を否定するやうな社會の価値観はむしろ✖。

 

なのである。

だから佛教にはまたオウム教の如き社會的価値の否定がそも起こり易いのだと言えやう。

されどキリスト教ではまた神としての価値への洗脳がそも〇なので其れ即ち神の為に死んでお役に立ちたいなどと云う所謂殉教精神が其処に芽生えても来るのである。

 

また絶対性と云う意味に於いては、

 

唯壱神→絶対的価値

佛→相対的絶対的価値

 

なのやもしれぬ。

 

 

佛はむしろ概念の絶対性を放棄するところにこそ生ずるものであり故に本質として其れは絶対的価値とはなり得ない相対的本質的価値なのだ。

されど其処に佛、と言ったら最後佛はあくまで佛としての最高の価値となるので要するに概念分別化した途端に佛は絶対的価値と化すのである。

 

だけれどもあくまで其の佛としての本源的意味、其の本質とは概念分別ー概念的価値ーの消去であり放棄である。

だからより正確には佛は元元居ないのであるが其れでも佛と言った途端に其処に生じて仕舞うこととならざるを得ない。

 

其のやうに謂わば本質的論議をする場合には佛とはまさにこんな難しい話とならざるを得ず其れこそ現實的に何佛を拝むだとか實はさうした話ではまるで無く要するに其処に哲學的な思考を要求されて来るものと必然的になる。

尚釈迦は宗教家と云うよりも根っから哲學的な思考をすることが得意な人であったことらしい。

兎に角日日沈思黙考にふけり続け其れではイカンとさう考えた父王が妾共を彼に与えたやうだが結局其の性質はまるで変わらなかったものらしい。

 

 

さて絶対的であることが絶対かと言えば其れはさうでは無く絶対的なこととは逆に相対化されて居たりもまたするものです。

謂わば絶対的な価値と相対的な価値の場が相剋し且つ相即する場が此の現象界なのであり従ってある基準に沿って例えば絶対的に失敗ー劣化ーして居るにせよむしろ他の価値基準に対し成功ー特化ーして居ることが多いので其処は余り其の価値分別上の優劣には余り拘らずにむしろ自己判断にて其の基準を築いて行く方が幅広く価値に対応する認識が成り立つ訳だ。

 

現象界はおそらくは場としての瑕疵性が形作るものであり本質的にはおそらく其れは+では無く逆に-の性質を帯びて居るものだ。

其の分離されて迷い出て来ること其れ自體がおそらくは-の性質を帯びて居るものである。

 

ところがあらゆる文明はむしろ其のやうには考えず決まって其処に+の価値構築を行う訳です。

ところが其れをやるうちにいつしか文明が抱える問題は複雑化し結局は其れが理性による修復能力を超えることで持続不可能なものへと至って行く。

 

 

よって其の+ばかりでの価値観のやうなものが逆に文明の首を絞めて行くのである。

なので何かをやる、との場合に其処で其の逆のやらぬことの価値=無為の価値と云うことにまるで気付いて居ない。

 

自然破壊の論理にせよ全く同じことでそも相手の論理ー自然の摂理ーに立つと云うことは儲けや現存在へのお役立ちには繋がらぬことながら其の-の場としての此の世のあり方の維持にはしかと繋がることでせう。

其のやうに文明のイデオロギーのむしろ根本の部分に其の厄介な壱方向性が認められであるが故にむしろ近代文明は考え方其のものの方でおそらくは間違いを犯して来て居るのだらう。

 

だから其れはどうのかうのでは無く頭の出来=理性のあり方としての問題です。

要するに其れは文明の頭の出来が悪いからそろそろ此の文明も沈没して行きますよと云うそんな分かり切ったやうなしかも至極単純な御話なのです。

認識上の本能寺の変ーそんな「眞面目さゆえの悲劇」に就いてー

71.認識上の本能寺の変ーそんな「眞面目さゆえの悲劇」に就いてー

 

 

 

 

「生活安全保障3本柱」泉代表が発表 - 立憲民主党 (cdp-japan.jp)

 

其の立憲民主党の論理ではないが確かに國民の生活其れ自體が壊れては日本の體制の維持もクソもまた無いのではないか。

 

日銀、物価高と円安の「二重苦」鮮明 - 産経ニュース (sankei.com)

消費者物価2%超上昇 日銀は「弊害」を直視せよ | 経済 | 論説 | 福井新聞ONLINE (fukuishimbun.co.jp)

<社説>物価高と日銀 2%目標から脱却急げ :北海道新聞 どうしん電子版 (hokkaido-np.co.jp)

物価高でも消費に意欲? 驚きの日銀調査への期待と不安: 日本経済新聞 (nikkei.com)

 

其処でもって新聞各社もまた何が果たして敵なのか?と云う部分をかうして明確に示して来て居る。

要するに政府の子會社化して居る其の日銀こそがむしろ元凶なのである。

 

だけれども普通みんなは「日銀こそは日本の経済を守らんが為の組織」であるとさう思って来て居る。

でも果たして其れは本当なのか?

 

いやでも確かに日銀はまた政府は日本を守らうとしては居るのだらう。

でも其れはあくまでさうした観念としての日本の國力でありよもや具體化された上での國民の生活の方では無い。

 

 

ー超低金利国債の大量買い入れが国家財政の借金頼みを許すなど、元首相をして「日銀は政府の子会社」とまで言わしめた。結果、日本経済の体質改善を先送りさせ、足元での記録的な円安を招いたのは事実だろう。日銀のかじ取りは一段と難しく景気への影響に細心の注意を払いつつ、行き過ぎた金融緩和の「弊害」を今こそ直視すべきだ。ー消費者物価2%超上昇 日銀は「弊害」を直視せよ | 経済 | 論説 | 福井新聞ONLINE (fukuishimbun.co.jp)より

 

此の馬鹿組織がさうして事實上ドンドン物価を上げることに貢献し、でも往々にして馬鹿程金持ちなのであくまで自分等は食い物が例え弐倍の値にならうがエンゲル係数は上がらぬやうな儲けが何処かに確保されて居るのである。

でもってもうこんな物価高にて餓死寸前となり或は精神的に追い詰められこれから首を括ろうかと思って居る日本國民がおそらくはすでに百萬人単位で居ることだらう。

 

だからもう死ぬ位ならいっそ革命でもやったれ!

まずはさうして自民党及び日銀を叩かねば我我の生存権はもはや回復出来ぬことだらう。

 

いいですか、兎に角問題は其の救済其れ自體の抽象化にこそある。

ですが問題の本質はむしろ常に具體化され生じる。

 

なので、其の政府+日銀はおおまさに其の具體的では無い問題に頭を支配されて居りよって具體的に物価が上がらうが逆に賃金が下がらうがお構い無しに自分等とまた其の支持層の利益となることばかりをやり続けさうして何時の間にか幻想の奴隷、妄想による支配其れ即ち👿に心を売り渡す羽目へと陥るのだ。

 

 

ああああー、怖い。

お化けよりコッチの方がもうなんぼか怖い。

 

其の大組織による犯罪こそがおおまさに眞の意味での恐怖を呼び込む大罪其のもののことだ。

 

 

 

 ー米国の利上げで日米金利差が拡大し、円安は際限なく進みかねない。憂慮すべき事態だ。

 黒田東彦総裁は「円安は経済全体にはプラス」と繰り返すが、出費増にあえぐ庶民の暮らしに目を向けない姿勢は理解に苦しむ。

 日銀法は金融政策の目的について、物価を安定させて「国民経済の健全な発展に資する」ことだと定める。通貨安と物価高を招いている現状は法の趣旨に反しよう。

 異次元緩和は効果が判然とせず、弊害は円安助長に限らない。日銀は政策を早急に修正し、正常化への出口戦略を示すべきだ。<社説>物価高と日銀 2%目標から脱却急げ :北海道新聞 どうしん電子版 (hokkaido-np.co.jp)よりー

 

其の日銀だがむしろ無い方が良くはないか?

其の黒田にせよ壱遍もうほんたうに牢屋に入った方が良くはないか?

 

其れも全くかうやって日銀其れ自體が悪の権化化して居るのだからそりゃあもうどうしたって世の中なんぞ良くはなりません。

ですから、何度も何度も此れ迄に述べて来たが如くに、其のみかけ上の國威発揚、みかけ上の體制の維持、また庶民を特攻させて置いて自分等だけがぬくぬくと地位や権力や金に固執しつつしかも👩遊びにうつつを抜かし、さらに👿に心を売り渡した上での其の威張り散らし方。

例えば國民なんて皆奴隷だからもうそんなもんは皆水呑み百姓と同じで餓死しやうがどうしやうが知ったことかともさう仰る。

 

 

さう重要なのはもう此の日本の見かけ上の経済力だけなのだ。

アノアベのやり方でもっておおまさに其れがコレ迄維持されても来たのだ!

 

でもってキシダは果たして何をやっとる?

アノ早稲田を出て居るキシダはちゃんと仕事をして居るのか?

いいや、こんなではダメだ、ダメだ、ダメだ…。

 

キシダ、お前は早う新しい資本主義をやり金持ちから兎に角壱銭でも多く金を毟り取れ!!!

 

 

左様にもはや壊れてる。

政治と云うか日本の組織其れ自體が何時の間にかダメになっちゃってる。

 

ー悪い物価上昇と円安の二重苦に直面する日銀は、大規模緩和で金利抑制を継続すれば円安進行に歯止めがかけられず、そうかといって金融政策を修正すれば景気の腰折れや、市場の混乱を招きかねない袋小路にはまっている。だが、足元の物価高の痛みには政府が緊急対策を講じるとはいえ、物価の安定は本来、日銀の役割だ。日銀、物価高と円安の「二重苦」鮮明 - 産経ニュース (sankei.com)よりー

 

尚わたくしは経済のことに関しては疎いと云うか元元詳しくは無い。

なのだけれども、其の経済的なものこそが現實を回して行くことであること位は常に分かって居るつもりだ。

 

問題はさうした現實的に重要な任を担う組織に限りさうして👿が栄えることである。

即ち其れは最終的に政治だの経済システムだのと云った個別の問題では無く嗚呼まさに人間の良心が其処に有るか無いかの問題なのだ。

 

 

では「革命」にて其の👿共を追い払えば日本は救われるのでせうか?

ですから、「革命」もまたありでせうけれども、其れでも「革命」して日本が救われると云う保証はまた何処にも無い訳です。

 

但し此の「立場に胡坐をかき続ける」こと、即ち権威、権力、組織力、つまりはネームヴァリューのやうなものに寄り掛かり其処にて自らを反省すること無く無理を押し通す姿勢、其のデカいもの強い力を持つものこそがまさにドレイを支配する王様である、との考え方はむしろ近代もクソも無く要するに前近代の世界観其のものでのことだ。

 

ですのでどうも日本の組織其のものが其の親方日の丸的なものへの信仰の度が常に強い、即ちデカい組織こそがみんなを統べる正しい組織である、とのそんな正の価値ヒエラルキー、力の価値ヒエラルキーの権化として常に機能して居るものなのです。

即ち其れは本質的に日本の社會が欧米圏での市民社會、また民主主義での社會にまるでなり切れて居ないことの証左なのだ。

 

じゃあどうすれば良いのですか?

もはやどーにもならんと云うのが正直なところです。

 

只壱つだけ申し上げて置きたいのは、理性は常に其のデカい組織の自己矛盾の様を常に監視して行かねばならぬと云う点でせう。

少なくとも理性的に今此の世に現象されて居る方ならば其の保守の名の下に行われて居る破壊の行為を批判し糾弾することでもって悪を追い詰めて行かねばならない。

 

で、其れがやれて初めて理性的な人間となれるのです。

 

でも組織に頭を下げてばかり居たり又は孫の頭を撫でてばかり居たりさらに👩の尻を触ってばかり居ますと其の理性的闘争心はもはや何処かへと失せて行くことでせう。

だからそんなんではダメだ。

 

 

むしろ我が率先して爆弾を抱えて日銀に飛び込む。

では無く、其の日銀を相手に戦い抜く。

 

其のやうな闘争的自我をまずは涵養されて行って下され。

されて行って下され、とさう人任せにして置いてさてもアナタ自身は壱體何をしておいでなので?

 

ああわたくしですか?

わたくしは今夜相生山へホタル観賞に出向きます。

 

ええっ?政治的闘争をされるのでは無くあくまでさうして藝術の追求の方なのですか?

 

ですからすでにわたくしは日本の社會がどうあらうが知ったことでは無い。

また将來日本がどうならうが其れも知ったことでは無い。

 

 

尚『仏教の冷たさ キリスト教の危うさ』と云う本の中でネルケ師が其の政治的な意味での右と左の立場に就き様様な角度から論じられて居ます。

其処で結果的にネルケ師は御自分のことを首から上は左派で首から下は右派だとさう述べられて居る。

 

いまひとつ其処には印象的なことが書かれて居り、其れはキリストはむしろチェ・ゲバラの如きラディカルな反體制活動家だったのだし釈迦もまた権威と云う権威を徹底的に疑う體制の批判者であったと仰る部分です。

 

要するに其の部分こそがまさに自己矛盾し現在ではイエス様とお釈迦様はむしろ體制の守護者の如きに奉じられて居りますのですがあくまで本来的には共に反體制の権化のやうな御弐方だった。

でもって其れこそ本来的に御弐方の思想を其の侭に現代に持ち込んでみますとむしろ今のキリスト教や佛教、其れも大乗各派が唱えて居る體制維持の為の教えは不純で且つ虚的なものとならざるを得ないことだらう。

 

要するになんか全然違うものをさうしてあえてやって来て居るのが現代に於けるキリスト教であり佛教なのでせう。

なのではあるがわたくしは其れを全否定して居る訳では無く只あくまで其れは違うものでせう、と云うことを嗚呼まさに信心深い皆様に対しかうして申し上げて居るばかりでのことなのだ。

 

そんな訳で此の世でのこととはそんな具合に須らく矛盾的展開に陥るであらうおおまるでデカい肥溜めの如くに臭くて汚ないものばかりなのだ。

だからかうしてあくまで潔癖なボクはそんなのに関わるともはや自分が汚れて仕舞うので其れをあえて遮断させて頂くのです。

 

 

そもそんな具合ですので其処で幾ら眞面目に自分の立場を構築し意見を表明したにせよ結局は無駄なあがきのやうなものとなるだけだ。

なんですが、其れでも猶言う事は言わねばならぬのが理性的立場だと云うこととなる。

 

其のイエス様とお釈迦様の御立場こそがまさにさうした模範的な立場となり得るものでせう。

 

尚たとえ宗教勢力であれ、つまりはそんな権威の塊のやうなものであれ其れが間違って居る限りは其れを指摘して行かねばならない。

其れでも聞き入れられぬのであれば例えば焼き討ちだとか、革命して悪い奴等を断頭台送りとするだとか、或は議事堂の襲撃などさうした武力行使することなどもまた止むを得ぬ選択ともなり得ませう。

 

ですが個人的にはあくまで逃げます。

もう何処までも逃げて行き其の代わりにペンの力でもってしてかうして世間の価値観を執拗に批判させても頂く。

 

おおまさに其れが文人の鑑としての生き方なのではなからうか。

 

偉い!

流石はペンの力でもってして生きて御座る文人様による理性的選択の様だ!!

 

でもほんたうに偉いの?

へっ?

 

 

だからほんたうに偉いの、ではどんなに偉いの?

みどもの倍程はもう偉くなっても居られませうが…。

 

おおさうか、さうか、何だか物凄く気分が良いぞ。

 

天下統壱はもはや目前だ!!!

ところで君は誰だ?

 

わたくしは明智で御座ります。

 

おお光秀であったか。

お前などもうダメだから早速領地替えじゃ。

 

 

其れと早う四國を攻めよ。

 

ーくううー、もはやコイツには我慢がならぬ。ー

其れはさうとワシはたった今より本能寺へ入る。法華宗大本山 本能寺【公式】TOP (kyoto-honnouji.jp)

 

其処にてホタルや石の観賞会をやりおまけに美味いものをたらふく食うのだ。

やったー、もうなんでもやりたい放題にやって怖いものなしだーーーー。

 

 

信長様!先程からどうも周囲が騒がしゅう御座りまする!!

キャア―、ついにやられちゃったあー。

 

ついについにやっちゃったー。

さうか、コレもかうして逃げまくって来た報いなのだな…。

 

幾ら後悔されやうとすでにかうして千本もの矢が!

ブスッ。

 

痛い!!

 

痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!

 

こんなに痛い、が、死にはしない。

 

 

其れは何故か?

 

何故ならあくまで此処は観念の場としての本能寺なのだ。

 

すると信長公はさうして生き延び徳川 家康になられたのですか?

或は天海僧正になられたのですか?

 

其の徳川と織田はあくまで別物です。

また天海僧正となったのはあくまで明智 光秀のことでせう。

 

 

兎に角理性は常に戦いを放棄しはせぬ。

むしろ其れに挑んで行く。

 

挑んでは行くが其処であえて逃げることを忘れてはならぬ。

つまりは其れが逃げる理性としての新たなる信長の精神の形である。

 

そんな卑怯な…。

馬鹿!馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿、馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿、馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿のバカ!!

 

此の逃げはまさか卑怯なのでは無い。

こんな逃げこそがまさに「愛の逃げ」なのだ。

 

「愛の逃げ」?

何ですか、其れは、もしやイエス様の教えのことなのですか?

 

はい、さうして佛法をあえて壱神教化し半分キリスト教化してみました。

 

 

エエッ、其れはもしや浄土信仰のことなのですか?

さうでは無く、釈迦の原始佛教に直接其の「愛」を足してみましたのです。

 

なんと!!!

 

其のやうな教義は今迄に聞いたこともまた見たことも無い。

其れは教祖詩人、まさにお前が考え出したところでの悪の宗教即ち邪教としての教義なのだらう?

 

でもまあ其れが新宗教だとは言えることかと思います。

ですが其れもまた壱つの逃げであることは否めません。

 

逃げられるうちはさうして逃げて、でも戦うべき時は戦う、で良いのではないでせうか?

結局そんな解放された生き方の方がどうも持続的であるやうな気さえもがまた致します。

 

 

もし本能寺の変がなかったら信長はアジアを統一した│宝島社の公式WEBサイト 宝島チャンネル (tkj.jp)

織田信長が本能寺の変で死んでいなければ日本史はどうなっていた?スペインと同盟を結んでいた? | はじめての三国志 (hajimete-sangokushi.com)

 

個人的にはあくまで具象的に信長公は死すべき運命にあったのだとさう思います。

要するに彼はあくまで尾張と云う土地柄が生んだ天才であり、天才はまた色色な意味で不安定ですのですぐに「ドッカーン!」となり最終的にはみんなから嫌われて仕舞う=もう付いてイケナイとさう思われて仕舞うのです。

 

ところが信長公はまた意外と保守的な面をも持って居た。

つまりは保守的な面と革新的な面を両面持ち合わせた眞の意味での天才だったことでせう。

 

其れと性格的にもそんな苛烈さばかりでは無く實際には優しいところなどもあったやうです。

但し空気を読まずに思った風に生きるのは其の通りでありまさに其れが「自己本位」であると云うことです。

 

尚何故かわたくしにもそんな自己本位性がしかと御座ります。

まあ其れが尾張人としての気質なのではないでせうか。

 

 

其れと忘れてならないのは信長は中國の宗教的、思想的変遷に対し大きく敬意を表して居たと見られる点です。

従って信長公はタダの新し物好きの田舎者なのでは無く歴とした都會人でありしかも東洋の思想文物に対しても精通して居たことだらう優れた頭脳の持ち主でした。

 

他方ではさうして何せ頭が良いものですから、西洋文明などもすぐに理解し且つ吸収して行った訳です。

ですが信長公が西洋文明の方ばかりを向いて居たのでは無いことは明らかなことでせう。

 

要するにこんな天才級の知性の持ち主なのでおそらくは西洋文明と東洋文明の対立のやうなことまですでに考え込んで居たのやもしれません。

同時にそんな大事を前にして相変らず頭の中が其の組織内での価値ヒエラルキーに毒されて居る公家やら天皇家やらさらに武士階級までをもバカにされて居た可能性すらもが高くあります。

 

要するにさうしておそらくは全ての組織を見下されて居たことかと存ずる。

なんですのでそも彼は天才なのであり同時に人からは理解されず何時の間にかさうして独りでもって浮いて行って仕舞うのです。

 

 

ですが信長公の精神面はおそらくはまだ今でも生きて居て現代にも通用する何かを持ち合わせて居るのやもしれぬ。

そんな信長公はおそらく共産主義國家である中國を案外嫌ったりはしないことでせう。

 

でも同時に日本の神社や仏閣を大事にするのではないかとさうも思います。

何故ならわたくし自身がまさにさうなんです。

 

後に信長公は我が國の佛教勢力から大きく批判されたが其れは単に坊主共のやることなすことが腐り切って居たからであり其れは信長公云云の話では無く其れこそお釈迦様に対する根本での坊主共が仕出かした大罪でもまたあったことでせう。

信長公は兎に角さうして潔癖な性格の持ち主なのでもまたあった。

 

 

其の潔癖と云うことこそが優れた知性を持つ者の宿命のやうなものなのでもまたある。

さうして潔癖だから常に両方がやれるのです。

 

やれるのですが、もしも其れをやると愚鈍な周りは其れが理解し得なくもなり易い。

そんな訳で信長公の精神は多分まだ死んでは居りません。

 

おそらく其の精神はかうして尾張の天才達の頭の中へと潜り込み其処でもって突如としてイチローとなったりまた真央ちゃんとなったりさらに藤井君となったり且つこんな自称文人となったりもするのでせう。

おみゃーがほんとにノブナガ詩人ならほんとの詩をきゃーて(書いて)すーぐにでもソレを見せてみやー!

 

だからもはや其れはアノ谷川 俊太郎先生がすでにやられたことでせう。

 

 

さうか、かうして信長公の精神はまだ生きて居たんだ。

其れも何だか有難い御話だな、ナンマイダブ、ナンマイダブ、ナンマイダブ。

 

ちなみに信長公はむしろナンミョーホーレンゲキョーの方だったらしく、尤も理論的にはどうも禅宗に傾倒されて居たやうです。沢彦宗恩と織田信長 | 3分でわかる織田信長の歴史 (nobunagahistory.com)

 

 

【戦国こぼれ話】織田信長が神になろうとしたので、本能寺の変は勃発したのか(渡邊大門) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

1.信長公以外にも戦國武将は屡自らを神格化して居た

2.比叡山の焼き討ちは信長公で實は参度目だった

3.信長公は無神論者では無く逆に神佛が好きで結局信心深い人だった

 

其の宣教師ルイス・フロイスの考えは1.のことをそも良く知らぬことからの邪推であった可能性が高くある。

2.に就いては先日も書かせて頂きましたがつまるところは当時の比叡山と云う宗教組織其れ自體が滅茶苦茶なものでした。

信長公は逆に其の過ちから目覚めさせんが為にさうして破戒坊主共を皆殺しにされたのです。

 

 

ーしかし、この指摘も大きな誤解である。先述のとおり、信長は寺社を庇護したが、比叡山や大坂本願寺は宗教者としての本分を忘れ、信長に戦いを挑んだので戦わざるを得なかった。大坂本願寺は何度か信長に詫びを入れて許されたが、また挙兵するありさまだった。

 信長は自身に従う宗派を保護し、世俗権力が宗教権力に優越するという方針を宗教政策の根本に据えたと考えられる。したがって、信長が無神論者であるという指摘は当たらない。ー【戦国こぼれ話】織田信長が神になろうとしたので、本能寺の変は勃発したのか(渡邊大門) - 個人 - Yahoo!ニュースより

 

 

つまるところ信長公は宗教に対してもとても潔癖な人であった可能性が高くある。

わたくしが以前信長公に関して述べられた本を読んだところ、其処に兎に角彼が潔癖であり城の内部の細かな汚れや塵などを常に指摘して居た人であったことを知り愕然としたものでした。

 

さうした神経の細かい人、つまりは潔癖な人は結局は眞面目な人であり其れが天才級に昂じて居るとなると余計に周囲には理解されなくなり易いものです。

さうして事實上信長公は豪快で豪胆な武将などでは無く繊細且つ壊れ易い自我を抱えた藝術家タイプの武将だったのでせう。

 

歴史の解釈と云うものはかうしてとても難しいもので何時の間にか時代劇やら歴史小説やらで醸成されたイメージが定着して仕舞い易いものです。

ゆえにだから信長公に対して抱かれる壱般的イメージ其れ自體がすでに誤って居る可能性が高くあらう。

 

明智 光秀に関しては此の人もまた基本的には眞面目人間だったやうに個人的には感じて居ります。

だから其の本能寺の変とは眞面目人間が眞面目人間をやっつけたと云う壱種情けない御話なのでありであるからこそわたくしは今其れを「眞面目さゆえの悲劇」であるとも考えて居るのです。

屍としての記憶が紡ぐ美の世界ー類稀なる強き陽光に石を翳してみるー

70.屍としての記憶が紡ぐ美の世界ー類稀なる強き陽光に石を翳してみるー

 

 

 

さて本日はまた特に光の良い日で従ってわたくしはつい先程まで日光浴をしつつ鉱物観賞をして居りました。


例えばキリスト教では神は光なりと常にさう申されますが何やら其処にて久保田 早紀の讃美歌ソングなどを流しつつそんなことを致して居りますとまるで自身が天界に昇ったかのやうな気がまた致しますものです。

 

さうして美に酔い痴れること、此の世の美しさを味わい尽くさんが為に生きて居ると云うのがわたくしの本心なのであり其れは上品なことでは無くして常に下品なことなのですが、それでも結局我はかやうに深く深く美其のものに捉えられて居るのだとも申せませう。


其の様やすでにかっての詩人達、また画家達、文學者等とまるで変わらぬひとつの反抗の仕方である。


そんな美への接近が反抗なのですか?

さうです、今丁度ショパンの調べが流れて居り其れはかのフジコ・ヘミングによる演奏ですが其れを聴くに確かに藝術とは反抗です。


其の美への耽溺振りこそが反抗でせう。

ガサツな世間の者共には決して分からぬ此の熱くしかも微妙な思いが。


つまりは其れが精神の高き梢で振動して居るが如き實に繊細なる心の動きのことよ。

嗚呼ケモノ共には決して分からぬことだらう其の魂の振動よ!

 

 

相変らず脱俗の境地を愉しんで居られるやうですね。

さうだな、もう世間にはまるで興味が無いな。


ですがショパンを聴くにも電気代がかかりますが…。


ま、其処は何とかなるでしょ。

其れもどっかから御飯が来たりどうのかうので何とか生活を回して行けば良いだけの話だ。


矢張りどうしてもアナタは詩人だな。

其れもズバリ螽斯詩人と云う奴だ。


つまりは常にタダ飯を食い歌を歌いつつ生きて居る。

さらにほんたうは👩が好きで隙さえあれば手を出さうとさえして居るのだ。

 

 

アアー、實に哀しい。

壱體何が哀しい?


いや今聴くラ・カンパネラがまた酷く哀しい。


さて藝術はかうして常に心にしかと陰影を刻んで呉れる。

其処が藝術の良いところである。


だが所謂生活には其の陰影のやうなものが常に欠けて居る。

尤も夜にでもなれば自然と辺りは暗くなる。


すると空に☆が浮かびまた森の中も便所の中も皆暗くなる。


ああ、今度はアノ太田胃酸の曲までもが流れたぞ。

 


かうしてショパンも結局は可成に遠くから聞こえる。

遠くから?


さう常に遠くから其れが聞こえて来る。

即ち其れはベートーヴェンピアノ曲よりももっと遠いところからだ。


だからショパンベートーヴェンよりも常にもっと優しく且つ死に近いのやもしれぬ。

また其れはショパンの方がより哀しく聴こえて居ると云うことなのだが。

 

螽斯詩人さんはさうして常に哀しく感傷にこそ浸りたい訳だ…。

でも世間のガサツさが其れを認めては呉れぬのだと?


いや其の世間がガサツなのは元元のことで結局変わりやしない。

またボクの心がかうして繊細且つ感性豊かであることなどもまた結局変わりやしない。

 


流石は詩人さんだ、仰る事が違う。


其れでもって結局は何を仰りたいので?

もしやまた世への恨み節だけを延延と述べて行かれたいので?

 

いやさうでは無く陽の光と藝術に対したった今感謝して居ることを述べたかった。

美しいものをかうして与えて下さる何らかの力に対し我はかうして常に感謝の祈りを捧げて居る。


ではもしやキリスト教徒とおなりになったので?

いやさうでは無くあくまで我は佛弟子である。


但し神と佛はかうして常に部分的にはカブる。


ではショパンはもしや佛ですか?

ショパンはまさか佛ではないでせう。

 


だが我が哀しんで居るのはショパンのせいでは無くズバリいつもみんながガサツだからだ。

さうしてまた周りを思い切りに見下す…。


其処はいま少し大人になって貰わないと困るな、其れももう棺桶に片足を突っ込んでも居るのだから…。


酷いことをさうして平気で言う。

だが其れはお前もまた棺桶に片足を突っ込んでも居ると云うことだよ。

 

あ、さうか。

僕等はもはや永遠の道連れとしての壱心同體でしたね。


いやさうでは無い。

あくまでお前はお前、ワシはワシ。


お前はケモノでワシが詩人だ。

ああああああー、もっともっと光を!!

 


だがついさっきまで其れを全身に浴びて居たではないか!

さうでした、其れもつい忘れて居ました。


其れにつけてもこんな完璧な光が降り注ぐ日はまたと無いものです。

即ち確かに其処でノーブルオパールパイロクスマンガン石が眞の意味で光輝いて居たのである。

 

だが其の美しさにもどうも裏がありさうだ…。

さても何ですか、其れは?


其れは此の世の美しいもの全てに潜む生の哀しみのことだ。


またイキナリ人文學乃至は宗教の方へとさうして飛んで行って仕舞う。

もうそんなクドイ思考など止めて美しいものを美しい侭に愉しむべきなのでは?

 


いや勿論其れは常に両方をやって居ます。

だから光は明るく闇は暗い。


まさに其れは当たり前のことです。

また世間は明るくChopinは暗い。

 

其れもまた当たり前のことだ。

いや暗いと云うよりも矢張りかう何か沈潜して行くものが常に其処にはありますね。


ずっと哀しく沈潜して行くやうな何かがあり逆に其れが煌めいて見えたりもまたする。

流石は詩人さんだ。


ガサツな我我とは感じ方の其の感度が違う。

ねえ、ウンコたれ詩人さん。


さうして褒めて呉れてどうもありがたう。

 

 

詩人さん。

ほい。


腹が減りましたか?

うーん、減っては居ますが先程からかうして美に酔い痴れて居るので其処は余り気にならない。


さうか、するとアナタはさうして常に美を食べて居るんだ!

確かに食べて居ります。


其の美と戯れつつ其れを喰らうのが常に詩人としての役割でせう。


ではもしや美は美味いのですか?

確かに美味い。


だが美は同時に何だか哀しい。

 

 

藝術はさうして完全なやうで居てでもいつも其処にある訳では無い。

言わば縁を結ばないと決して心には入って来ない。


要するに自分から其れを求めて行かないと其れが見えては来ない。


でも石はかうして今此処で光を受け輝く。

 

木や人間や🐈もまた光を受けて其処に輝くが生ものー生命ーは物質よりも儚くやがて木は枯れ生命は急に消え失せて仕舞ったりもまたする。


わたくしには其の生命の持つ哀しみのやうなものが何よりも辛いのだ。

わたくしには其の其の生命の持つ哀しみのやうなものがすでに持ち堪えられぬ。

 


詩人さん、またもや深い悲しみの底に沈んで行って居られるやうだが、でもノーブルオパールパイロクスマンガン石は今日確かに稀なる光に照らし出されさうして輝いて居たのでせう?

まさに其れが生の頑張りではないですか。


いや頑張るからドツボにまたハマるのだ。

もう頑張らずにかうして此処でもって物質化して居れば其れで良い。

 

なる程、すると物質にもまた壱理あるのだと?

物質には感覚器がそも無いので自分のことを美しいとはよもや思っては居まい。

であるからこそ其れは美しい。


物質はさうしてショパンよりももっともっと遠くにある。

だから其れは変わらない、つまりは感覚に対しての変化が無い。


なのでむしろ其処に心が癒される。

其の美しさがこと生命に対してはかうして長持ちする。

 


さうなんです、實は物質の方が生命よりもずっと長生きをします。

人間は早い人はもう六拾代でもポンポン死にます。


でも物質の劣化はもっとゆっくりなのでコレクターがもし死んでも石や万年筆はまだまだ生きて居ます。

さらに本などもさうだ。


よって生命が持つ本質的な哀しみのやうなものがかうして常に詩人の素顔には付きまとって居る。

 

 

でももう世間離れのし過ぎ。

エッ、さうなの?


だってさうでせう、ほんたうのことだよ。

本当のことだけれども世間は常にもっと常識的時間をこそ生きるのです。


アレッ、するとどっかで歩む道を間違えたのかな。


分かりました。

では詩人さんはさうしていつも哀しく命の儚さにだけ酔って居られることとしてみやう。


でも買い物や掃除洗濯は果たして誰がやるのですか?

其れはお手伝いさんが…。

 


嗚呼でも其れはたまにしか来なかった。

だから感傷詩人、まさにお前が今日これから其れをやるのだ。

 

でもどうもやりたくはない。

かうしていつまでもいつまでも文學や哲學の世界に浸って居たい。


またショパンや色んな画家の作品に是非接して居たい!

ではいつまでもさうしていろ、もう生涯さうしておれ。

 


コンコン、すみません。


何ですか、其れもイキナリ?

すみませんのですが、ボクはもはや限界です…。

 

何が限界なんだ、さうして毎日やりたいことをやっておいて。

いえ實はタラー♂🐈壱歳ーが家出をしました。


ですが其の代わりにタマー♀壱歳ーがつい先日五匹も子を産みましたのです。


では良いじゃないですか、まさに其の詩的な實存苦を癒すのには丁度良い。

しかもそんなデカい家であれば壱部屋や弐部屋🐈に占領されたにせよ構わぬのではないですか?

 


ですが、其のタラの家出が可成にコタエて居ます。


何故なら自分は常に感度が高くあるが故にさうした事件や事故には概して弱いのです。

まあさうでせうね、そんなショパンばかりを聴いて心持ちを深く深く沈めて居るやうな人には其れが響くのでせうね。


ですがあなたはたとえ誰が死のうがまるで構わないのでせう?

いえ作家や詩人の先生方が死んだ折には流石にわたくしも悲しくはなる。

 

そんな経緯から兎に角さうして生と死は常に相剋し且つ相即して今此処にあります。

だけれども生きては居ない物質ばかりがさうして陽の光を浴びて遠くでもって輝くのだ。

 


其の輝きの遠さとショパンの音色の遠さがほぼ同じであることに本日ようやく気付きました。


うーむ、今日の作文はまたどうも内容の方が散文詩ですね。


いえ詩は常に生きるものと生きぬものの双方をさうしてたゆたいつつ流れて居ります。

詩は何処にでもあり生きるものと生きぬものの双方をむしろかうして近くから見詰めて居ります。


でも余り近づき過ぎると詩にとってもむしろ其れは良くない。

其の遠いものと近いものの誤差を埋めるものが詩であり同時に音樂であり絵画である。

 

 

さても生きることとは罪ですか?

罪だからこそ美が常にかうして必要だ。


美は観念と常に関わるものです。

観念こそが美で美こそが観念である。


其の美は常に失われるものですか?


今其処に輝く美は失われるが其の印象はむしろ観念として永遠に積み重ねられる。

さうして観念にはそも限界が無い。

だからまさに其れが永遠に積み重なって行く。

 

 

命として失われゆくものは常にそんな悲劇をこそ背負う。

されど其の悲劇さえもがまた此の世界には記憶されて行く。


其の記憶を司るものこそが観念なのだ。

其の記憶を辿ればさうして其れは常に有る。


無いのでは無く其れが有る。

有るものとはもはや死なぬものだ。

いやもはや死ねぬもののことなのだ。


逆に今を生きて居るものとは無いものだ。

其れは過去をこそ生きなければ有るものとはなり得ぬことを常に意味する。


まさにそんな風に悲劇の集積としての観念を生きると此の世界の哀しみの構図がしかと見えて来る。

さう其れは今を生くる我我が築く世界なのでは無く記憶の場としての命の痕跡が今を築く世界だ。


そんな無数の屍によりたった今壱つの美が形作られて行く。

 


そんなことを思いつつ本日は石を類稀なる強い陽光に翳しつつ小壱時間程眺めて居た。

其の輝きが余りにも美しいのは實はそんな理由によるのである。

「自分を救う論理」の概括的説明ー+『銀河鉄道の夜』より考察する壱つの宗教論ー

69.「自分を救う論理」の概括的説明ー+『銀河鉄道の夜』より考察する壱つの宗教論ー

 

 

 

さて現存在の認識の仕方には大きく癖があり其の認識の仕方では現實=世の實相と云うことを正しく捉えられて居ないと云う事實に就き具体例を織り込む形にて此れ迄述べて参りましたがお分かり頂けたことであらうか。

そも認識と云うものは壱種の檻のやうなもので其れに嵌り込めば最後なかなか脱出出来ぬものと相場は決まって居ります。

 

問題は世界其のものが壱種の劣化過程ですので其の劣化過程に対し正のヒエラルキー構築を行うと逆に矛盾的展開を増大させて仕舞うこととなると云った御話です。

其れもデカい課題=社會的課題程其の矛盾化の原則がより強く働きます。

なので必然的に個や👪、さらに共同體や國家と云ったシステムが其れに引き摺られる形にて沈没して行かざるを得なくなる。

 

其のやうな世界のあり方での根本のところにてむしろ「破壊」は進んで行くので極論を申せば具體的な意味で其の矛盾を解決に導くことはほぼ不可能に近くなる。

 

また其の制度的崩壊と云うか劣化と申すか兎に角其の種の破壊過程には實はいまひとつの側面がありズバリ其れは精神の劣化の問題です。

此れ迄に何度も申しましたが宗教の如くに現存在に取り精神の指針となり得るやうな価値観はまずは基本的に精神的な方向性を向いたものであることが多い。

 

 

但し宗教其れ自體にもまた劣化即ち矛盾的破壊領域がしかと拡がって居り多くの場合は其れが時の経過と共に逆に増大して行きます。

故に其れこそかってジョン・レノンが述べたが如くに「イエスは正しかったが後がダメだった」なのでありまた「釈迦は正しかったが後がダメだった」なのだともなり得ませう。

 

ですので實は其の辺りの事情を理性は常に注意深く観察して行かなければならない。

其れこそ其の矛盾的展開の増大の核の部分にはさうして其れこそ眞理レヴェルでの自己矛盾領域がしかと拡がって居る訳だ。

 

なんですが理性を他ごとに使って居たりするとむしろ其れさえもが見えて参りません。

 

ではどう認識すれば現存在は此の泥沼の如き自己矛盾の罠より脱出し得るのかと云う部分です。

ですが先に申しましたやうにわたくしはすでに其の方法をかうして連載の形にて常に示して来たつもりです。

 

1.大きく考えることの意義の放棄

2.具體物への愛の構築

3.精神的に適度に壊れ社會的ヒエラルキーを忌避する

 

尚1.に関しては大きく考えるなとさう申して居るのでは無く其の大きく考えることで問題は解決されない=緒矛盾は解消せず、と云うことをこそ述べて居ります。

よって逆に大きく考えた結果理性が絶望などにより損傷を受ける可能性すらもがまたある。

其の場合は例の藤村 操ではありませんのですがもはや滝の上から飛び降りる他は無くなるのだから其れはなるべく避ける。

 

2.其の具體物への愛の履行はむしろ普通に其の辺の人人がやって来て居ることだ。

ですが、其の盲目的、本能的な愛の履行と理性による限定的な愛の履行とはまるで別物です。

 

まさに其れは理性があえて其のやうに限定的に構築する愛の領域であり要するに其れは前回の御話でのやうに其の場ーたった今としての其の場ーに咲き競う🌸の美しさに気付く心の場をこそ確保することだ。

 

3.ところがまずは其の心の余裕の構築をむしろ頑なに拒む世界がありまさに其れが非本来的なる世界観として其処に存する社會的自我のことだ。

ですので個個人に取り出来得る範囲にてむしろ其れを制限して行くのがまさに眞の意味での理性の働きなのだとも申せませう。

 

 

さらに「信仰」の課題に就き述べさせて頂きます。

結論から申せば其の信仰の課題もまた努めて限定的に行って行くべきだ。

 

其れも實感から申せば其れは、

 

大→小

虚→實

 

と云った感覚の上でです。

 

 

さうして概ね世間での認識は眞理領域とはむしろ逆方向を向いて歩むものだ。

ですのであくまで眞理を前提とする限りはあえて其の逆を向き精神のあり方を整えて行かねばならない。

 

よってまずは其処に生じて居ることであらう精神的洗脳を解いて下され。

個人的には其れが原始佛教やジャイナ教、さらに禅宗にて説かれる眞理領域への接近のことであるとさうも見て居る。

 

但しあくまで其れは眞理領域への接近=自力救済の成就の為の道なのであり其処でもって自力救済を前提とせぬ限りは其の限りでは無いと云うことだ。

 

でもってむしろ事實上の多くの信仰の形は其の眞理領域への接近、自力救済の成就を前提とするものでは無い。

要するに其れは無化では無くして有化、實では無くして虚化へのベクトルを必然的に含んだものとならざるを得ぬ。

 

其の事を壱言で申せば「其処にウソの信仰をあえてしている」とのまあ酷い言い方となって仕舞いますのです。

なのですが、今わたくしは其の「ウソの信仰」が悪いなどとは壱言も述べては居ない。

 

 

即ち其のウソ、つまりは必要悪である此の世の虚の様、其のことこそが此の現象世界を駆動させて行くことの根本での推進力なのです。

 

其のウソの推進なのであるからこそ其れはかうして劣化し要するに矛盾だらけ、或は破壊だらけの世界をかうして現出させるに至る。

だから其れはイヤです、と幾ら現存在が其れを避けやうとしてももう何処までも其の理は執拗に追いかけて来る。

 

だから結局其れは認識のあり方が悪いー理性による選択としてのあり方に過ちがあるーからさうなるのです。

だったら其れがどう救済されて行くべきなのかと言えばもはや其れは他力救済されるより方法がありません。

 

即ち實利的、實効的には現存在は他力救済されて行くより他にはありません。

 

なんですがさうして行けば最終的には其れこそハルマゲドンや閻魔裁定からは逃れられなくなるのだらう。

 

他方ででは自力救済の道を選ぶ場合にはどうなるのか?と云った御話を是非させて頂きたい。

其の自力救済は現存在に取りあくまで不可能な道ですので其の場合には理想をこそ生きて行かざるを得ません。

 

さうして理想をこそ生き其処にこそ殉ずる訳だ。

また其れは「世界革命」などと云う政治的理念とも壱種共通することだらう理想論的な認識の流れです。

 

と云う事は最終的には其れは、

 

理想を生きるか其れとも現實を生きるか?

 

眞理ー理想ー⇔虚ー現實ー

 

と云うやうな対立関係へとまさに其の全命題が収斂して行くのである。

 

 

でもってして、

 

例えば男女の色恋沙汰などもまた實は其の対立関係の申し子のやうなものだ。

 

要するにさうして分離して居るので自分に無いものを求め異性に惹かれる訳だ。

ですが其のことを本能の次元から理性の次元へと繰り上げますれば、

 

眞理ー理想ー⇔虚ー現實ー

 

と云う其の対立関係自體を客體視出来るやうになり逆に本能其のものからは遠ざかることが可能となる。

 

其の本能ー煩悩ーとは現存在の心がケモノの価値観に捉われて仕舞って居ることです。

また罪つまりは原罪なるものもまた現存在の心がケモノの価値観に捉われて仕舞って居ることです。

 

ですので其のことはまさに自力救済であるか其れとも他力救済であるかは関係無くさう規定されしことです。

 

個人的には其のやうな原理こそが眞理として此の世に指し示され得ることであるとさう見て居る。

でもってさうして本能から解き放たれた理性は自力救済か他力救済かを自ら選択して行くこととなる。

 

ですが自分にはそんな危ない宗教など関係無いと思って居るやうな方方は残念ながら其の理性的救済の端緒にすらつけて居りません。

ですから其の場合には死んでから大人しく地獄へ行って頂くより他には道が御座らぬ。

 

其れも壱説では其の地獄こそがとっても辛いところのやうだが…。

 

 

ですが少なくとも救われたい、其のケモノがしかと見えます、でもケモノなどにはよもやなりたくは無い、とさう仰る方方には色んな宗教への道が開かれて居ります。

居りますのですが個人的には邪教以外の宗教を是非御勧めして置きます。

 

但し正統的な宗教の中にもまた邪教の要素はしかと食い込んで居ります。

此の世の全てはまさに其の矛盾であり劣化の原理の中にしかと組み込まれて居る事をだから決して忘れてはならない。

 

従って同時に其れは「ボクのワタシの立場は絶対に正しい」とさう信じ込むことに対し常に誤謬が生ずると云うことをこそまさに指し示しても居ることだ。

よって理性の目的とは「コレコレかうだからオレの立場、オレの精神こそが正しい」とさう盲信、狂信することではむしろ無く常に其の己の信心に対し疑ってかかることなのだ。

 

 

ですが、其れでは肝心の「信仰」が成立せずよって其処にどんな救済も成立せずおまけに自己の思想的乃至は宗教的な立場が逆に曖昧となった理性は果たして何処を向きまた何処に寄り掛かり此の生の荒波を乗り切って行くのでせうか?

 

でも要するに其れがまさに「理性的」に此の世を生き抜くと云うことだ。

理性とはさうした精神の自立であり自律をこそ欲し生きるもののことだ。

 

其の相対論だの不可知論だのをまさに荒波のやうに乗り越えつつ其処に眞の意味での「波乗り者=サーファー」であることを其処に確立して行くと云うことだ。

 

サーファー?

でもアンタは「波乗り」なんてそも嫌いなのだらう?

 

あんな享楽的なものはそもアンタが抱える本質部とはまるで違うもののことだらう。

 

だから其れは単なる譬え話なのだ。

 

 

眞の意味での理性ー眞我ーを生きるとはゆえに、

 

4.むしろ信じ込んで居るものをこそ疑う

5.疑いの果てに小さく愛を感ずる

6.現存在の哀しみを實感する

 

との心的な領域を實現せんが為のものだ。

 

其の現存在に対する憐れみの心の働きこそはまさに大乗佛法で云われるところでの「菩薩の心」にほぼ匹敵し得るものである。

なのであるから最終的には己が内外に拡がる世界がまさに其の「慈しみ」の心にて照らし出されて行くこととなる。

 

でも其れって周りのことを壱種バカにもして居ませんか?

第壱宗教詩人さんは大抵の場合に周りを見下されて居るやうだが其れって大乗佛法とはまるで違うものでそもそもオカシイ見方なのでは?

 

確かに其のことは認めさせて頂きます。

我にはまたすぐにアノ信長公の霊が乗り移るのですぐにドッカーン!となり易いことだけはしかと認めさせて頂きます。

 

なんですが、我が心の働きの根本のところにはむしろさうした慈愛の世界こそがしかと拡がって居る。

 

だけれども、

 

慈愛⇔ドッカーン!

の間の世界を毎日彷徨って居ると云うことこそがまた正直なところでせう。

 

 

でもって疑問点がひとつ。

はい、其れは何でせう?

 

まずアナタは時折支離滅裂なことを言ったりもされて居ますが其れは言葉によるテロだとかさう云うことでは無いのですね?

 

さうではありません、其の言葉こそが眞理の言葉其のものであり且つ慈愛の言葉其のものです。

 

アナタは如何にも利口な人が述べるやうなこともかうして書かれますがどうもウソ臭い感じもまた拭い去れぬ部分かとさう思うのです。

 

ならば是非我を信じて下され、わたくしはほんたうのほんたうに宗教詩人でありウソの宗教詩人などでは断じて無い。

 

あなたは単に欲望詩人=螽斯詩人であり宗教詩人では無い、つまりはウソコキ宗教詩人だ!

 

例えば壱休禅師はああして完全に欲望に負けてましたがウソの禅僧ではまさかありませんでした。

ですのであくまでわたくしもそんな風狂の宗教詩人なのだとさう捉えて頂きますれば幸甚です。

 

尚わたくしが述べる論理とは所謂壱方向性のものでは無いことにもまた是非御留意頂きたい。

 

 

戦争反対!⇔戦争賛成

理想的世界の観念的構築⇔ディスストピア的な現世利益主義

理想論としての反體制主義⇔現實的な守りとしての體制主義

 

其の種の社會的闘争にはむしろ須らく「今此処に拡がる幸福」への気付きの力が欠けて居ります。

「今此処に拡がる不幸」は確かに社會がさう其れを齎して居るものです。

 

其れに対する闘争もまた観念的には確かに成立し得る。

ところがより深く其の対立其のものを観念的に吟味致しますれば最終的には其れはむしろ周りに大きく影響される形での不幸せな状態を招くものでしかあり得ません。

 

よってあえて其れをも捨て去らねばなりません。

とりあえずは双方が出来ればまずは精神として立派なものです。

 

ですが双方をやったにせよ本質的には其の分離であり分裂関係は解消されるどころか益益其れが深まっても行くことだらう。

其れがまた哲學的には言語ー概念ーに於ける本源的矛盾が齎す問題に連なりより壱層劣化乃至は破壊を其処に呼び込むこととならざるを得ぬことなのだらう。

 

 

ならば其処でもってどうするのですか?

何をどうすれば現存在にとっての「心の幸福感」は得られるのですか?

 

だからまさに其れに就き詩人はかうして述べさせて頂いて来ました。

でもって個人的にやって来たのが、

 

7.半分狂いつつ具象化した過去と今とを生きる

 

と云うことです。

 

要するに半分死んで且つ半分狂う。

まさに此れが眞理方面を我が身に引き寄せる為の要諦でせう。

 

また半分死んで且つ半分狂うとむしろ過去が具體化されるつまりはリアルなものとして再生されて参ります。

ところが文明の価値観に従い生きて居ると其の過去は須らく放棄されて行く。

 

だから其の逆に文明の価値観の方を放棄する、か又は弱めて行きますとさうして逆方向のものが息を吹き返し心中にまた再生されて行く。

 

なる程、するとあえて其処に文明とは逆の価値観を構築して行くのですね。

と云うよりもむしろ放棄してみたら結果的に逆向きの価値が勝手に築かれて居たと云うやうな感覚です。

 

 

そんな訳でわたくし観念詩人は価値其れ自體に就き論じた訳なのでは無くむしろ価値の必然的対立と其の価値に固執することの愚かさ並びに其の価値自體を放棄することこそが最も確實で且つ永続的な価値其のものを示すことを此処にて延延と論じて参った次第です。

 

うーん、分かったやうなしかも分からぬやうな…。

 

分からずともまた結構。

 

ところで其の観念とはそも何ですか?

観念とは現存在としてのアイデンティティ其のものだ。

 

故に観念が無いところに現存在は居りません。

では🐈や🐕にはそも観念が無い?

また🐒などにも無い?

 

いや哺乳類には弱くはありますがつまりは其れは質的に違うものでせう。

 

 

つまりは考えるからこそ現存在は其処に「居る」のです。

では現存在は謂わば高等な生命であり偉いのですね?

 

まあ其の質問に答えるだけでも書き込みの壱回分位は要ることでせう。

ですが今あえて其れに答えて置けば「悩み深い」生き物なのだとは言い得ることだらう。

 

すると其の悩む事、又は迷う事、惑うことは現存在のむしろ本質部なのですね?

ですから其れがあるからこその現存在なのでありつまりは逆に悩まなくなったら現存在はお仕舞いなのであり其れこそ其処にて即魔道ーケモノの領域ーへと堕ちて行く訳だ。

 

では壱休禅師もまた其の魔道へと堕ちたのですか?

いえ壱休禅師が魔道へと堕ちたのでは無く地獄の方を向いて居るのはむしろみんなの認識の方ですね。

 

またズバリとみんなが嫌うやうなことを申されましたね。

ズバリアナタに取ってみんなとは敵であり👿なので?

 

いやみんな其のものが敵であり👿なのでは無く其の認識のあり方こそが敵であり👿なのです。

 

 

いずれにせよ宗教詩人さんは流石に仰ることが違う。

今回は其の自分を救う認識論としての展開をほぼ概括されて居るものと見ても宜しいのでせうか?

 

まさに其の積もりにて書いて居ります。

どうですか、君のお役には立ちましたですか?

 

いいえ、全然。

何故なら僕はアナタの片割れなのでもう全部のことが最初から分かって居ますもの。

 

エエッ?

何だか其れもイヤだなあ。

まるで頭の中を裸にされて居るみたいでとても恥ずかしい。

 

 

そんな汚い裸をよりにより世の中に垂れ流す御積もりか!

さうです、其れもワザとかうして脱いでも居るのです。

 

 

さて観念的なことの本質であり要諦であることとは全ての価値が半半であると云うことです。

観念とは非本質的な規定其のものであり本質的規定などはそも其処にかなわぬものだ。

 

故に観念に全的に寄り掛かりますればまた其れは即矛盾化致しませう。

 

観念ー分別知ー⇔直観ー無分別智ー

観念⇔感性

 

よって其の観念とさうして対置される諸価値に対し常にバランスを取って置く必要がまた御座ります。

ですので壱義的な分別に寄り掛かること其れ自體が眞理としての認識から遠ざかることをまさに其れが意味致しませう。

 

要するに対立概念の平衝化を常に其処に図り其れも出来得ればお釈迦様の認識でのやうに両極否定を為したいところですが其れは哀しい哉現存在に取ってはまず不可能なことだ。

故に宗教詩人の認識に限れば其の対立関係をむしろ保存しつつスケールダウンして行く訳です。

 

でも其れをせんが為には取り敢えずは認識の全体像を俯瞰視し且つ双方を實際にやってみる必要が御座ります。

だから其処でケモノと申しますか其れとも👿とでも申しますかそんなものともあえて交流をしつつ兎に角其の認識の全体性の把握にこそ努めるのです。

 

うーん、また如何にも世間離れした御話の内容にて…。

 

いえですから宗教詩人はこんなものでしたら其れこそ百回でも千回でも言葉を尽くし説明させて頂きますのですが其れでは皆様の頭がオカシクなりさうなのでさうはしないだけのことです。

 

すると宗教詩人さん、世間での宗教のあり方はまた違うものである、まさに其れは理性的に捉えられる宗教的原理=眞理としての場なのでは無くむしろ現世方面での認識に振れたものであるとさう捉えられ其処から世間での宗教の捉え方其れ自體に対する批判のやうなものを此処にて展開されても居たのですね?

 

其処は仰るやうなことに近いのだと思う。

でも釈迦御自身による眞理への認識や禅宗に於ける認識の流れは部分的にわたくしの考え方にもまた被って来ることかと思われます。

 

但しわたくしはむしろ其れは現存在にはそも無理なことなので出来るものを目指す為にむしろ其処から逃げませうなどともまた述べて居る訳だ。

いやあ其れにつけてもまた小難しい話です。

 

其れに何だかイヤになって来ました、貴方とかうして御話すること自體が…。

 

いいや逃がしてはあげない。

エエッ、今何と申されましたか?

 

だから逃がしてはあげない。

何故なら君と僕はかうして常に壱心同體なのだから…。

 

うえっ、もう出来るだけ早う逃げたい。

ダメ、其れも永遠に壱緒だ。

 

うわあー、またエライことになっちまった。

 

いいじゃないか、そも我と壱緒に逃げるのだから…。

まあ共に逃げると申されるのなら逃げないでもありませんが何かかうとても人間離れした観念の世界にでも引き摺り込まれるやうな感じが致し僕は今怖いのです…。

 

 

さうか、では腕組でもしてやらう、さうれ、ガシッ。

ああああーもう逃れられない、僕はかうして宗教詩人に引き摺られ観念の奈落の底へと沈むのだ!!!

 

おや、でも何だ此処は?

 

何だかお🌸が沢山咲き乱れるまるで樂園のやうなところではないか!!

 

さうだ、此処がまさに精神としてのアタラクシアの苑である。

もしや此処は天國ー極楽浄土ーなので?

 

いいや、さうでは無く此処は詩人の頭の中に今まさに生ずる「幸福の苑」だ。

 

あれっ、あんなところにかのカントが、さらに向こうにはショーペンハウアーまでもがああして歩いて御座る。

でも何故か佛様は何処にも居ない。

果たして其れは何故だ?

 

其れは此処があくまで宗教的な救済の場では無く理性としての救済の場だからなのだ。

さらに多くの藝術家が集う場なのでもまたある。

 

おやっ、あんなところに坂口 安吾が、さらに中原 中也が、また太宰 治が芥川 龍之介が椅子に座り何かを食って居る!

 

おおっ、あんなところでセザンヌがまたプリプリと何かを怒って居るぞ!

相変らずゴッホが悩んで仕舞い自らに向けて拳銃を撃ちそうにもなってる!

 

其れもゴーギャンが、其のゴーギャンが何と👩にも触って居るではないか!!

 

どうだ、此処はまさに凄いところだらう?

詩人さん、もうよーく分かりました。

ですからもう僕を逃がして下さい。

 

僕を世間へと戻して下され、お願いします今すぐに戻せ、戻さないとかうしてやるぞ!

 

痛い!

お前今此のワシの尻を噛んだな。

 

だがそんな無駄なあがきは止めよ。

何故ならお前こそが我で我こそがお前なのだからこそ…。

 

 

…もはや観念致しました。

僕等はもう永遠に壱緒に観念の旅を続けて行きませう。

 

 

「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとならとうげの上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」
 燈台守がなぐさめていました。
「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
 青年が祈るようにそう答えました。宮沢賢治 銀河鉄道の夜 (aozora.gr.jp)九、ジョバンニの切符より

 

彼宮澤 賢治はさうして「ほんたうの幸福」を誰よりも強く願い其れを追い求めた詩人でしたが彼自身があくまで「世界全体の幸福」を願ったが為にあくまで彼自身は其の事を得られなかったことでせう。

キリスト教はかうして現世での現實的な幸福には拘らずあの世での「ほんたうの幸福」を目指しますが其れも壱面としては正しいことであることだらう。

 

何故なら本質的に迷い且つ限定された此の世では現世利益としての幸福を現存在の全てに与えることなどはそも出来ぬ話です。

神と云う超越的理念があってこそ其れこそ非限定的に來世での幸福が約束されることだらう。

 

但し佛教はさうした意味での超越的理念を設定せず基本的にはあくまで自力救済にて解脱せんが為の教え其のものです。

尤も自力救済とは人間を辞めることですので其れは壱般に人間に取っては不可能なことです。

 

従って逆に其の超越的理念をあえて設定するに至り其れが所謂大乗各派としての展開なのだと個人的には理解して居ります。

尤も其れも禅宗を除いての話ですが。

 

其の「ほんたうの幸福」は超越的理念をあえて設定する場合に意識されることであり自力救済のステージではむしろ「今此処にある幸福」に目覚めることこそがまさに其の自力救済にも繋がる訳ですが其れを行わんが為には欲望の消去が前提となるが為にまさに非人間的な迄の価値観の転換、価値観の消去が必然として其処に求められて参ります。

 


「僕たちと一緒いっしょに乗って行こう。僕たちどこまでだって行ける切符きっぷ持ってるんだ。」
「だけどあたしたちもうここで降りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから。」女の子がさびしそうに云いました。
「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」
「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまがっしゃるんだわ。」
「そんな神さまうその神さまだい。」
「あなたの神さまうその神さまよ。」
「そうじゃないよ。」
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云いました。
「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」宮沢賢治 銀河鉄道の夜 (aozora.gr.jp)九、ジョバンニの切符より

 

其の何処までも行ける切符とは、個人的には其れが自力救済による切符のやうに思えなくもない。

けれどもキリスト教徒の奉ずる神はあくまで限定の神ですので其れに対し他力救済されるのであれば確かに何処かで眞理探究の道筋を自ら降りて行かねばならない。

つまりは自己としての眞理への探究を諦めー放棄しー神に全的に己を委ねることで他力救済されて行くより他は無い。

 

其れはウソの神への信仰では無くむしろほんたうの神への信仰のことだらう。

但し佛教に限り本質的には其処に神は居ないので其れは信仰云云の話ではむしろ無くまさに自分をどう佛化するかと云う理性的抑制の話とならざるを得ない。

此の点では釈迦の佛法、また禅宗などはまさに其の理性的抑制をどうかけていくかと云う御話であり其れは本質的には佛教の開祖である釈迦佛や宗祖などを信じる行為とはまた別ものでの言わば純然たる精神的営為のことです。

 

よって其の「自力救済」とは實は信仰の御話なのでは無くあくまで理性による救済即ち自分の理性でもってして自分を救わんが為のー非宗教的で且つ理性的な自律としてのー御話とならざるを得ぬ。

 

 

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなのさいわいのためならば僕のからだなんか百ぺんいてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいななみだがうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力がくようにふうと息をしながら云いました。
「あ、あすこ石炭ぶくろだよ。そらのあなだよ。」カムパネルラが少しそっちをけるようにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。その底がどれほど深いかそのおくに何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云いました。
「僕もうあんな大きなやみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラはにわかに窓の遠くに見えるきれいな野原を指してさけびました。
 ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむっているばかりどうしてもカムパネルラが云ったように思われませんでした。何とも云えずさびしい気がしてぼんやりそっちを見ていましたら向うの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方からうでを組んだように赤い腕木をつらねて立っていました。
「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニがう云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラのすわっていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。ジョバンニはまるで鉄砲丸てっぽうだまのように立ちあがりました。そしてたれにも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉のどいっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。

宮沢賢治 銀河鉄道の夜 (aozora.gr.jp)九、ジョバンニの切符より

 

まさに此処が壱種印象的な部分です。

其のジョバンニは感性方面に振れた言わば感情の豊かな少年です。

 

だからさうして常に人思いである、まさに友達思いなのですが其れでも其の友達は現世を共に渡っては呉れません。

事實友達は何処までも壱緒に行って呉れる訳では無く突然関係が断たれることさえ珍しいことでは無い。

 

カムパネルラはさうして突如として生の向こう側の世界即ち死の世界としての彼岸の世界へと旅立って仕舞う。

また結局は其れが現存在としての本質的な哀しみであり孤独として抱える部分であることをかくて詩人はしかと此処に描き出して居る。

 

ところが其れはまた其の生と死の間に敷設された観念の場としての銀河鉄道の中でこそ起こり得ることなのだ。

其れはあくまで現實的にはジョバンニは生きて居てカムパネルラは川で流され死んだと云うさうした事實でしか無い。

 

 

されど死は常に生と相剋し且つ相即して居り且つ現象を葬り去るに足る破壊や劣化は常に生きる希望や祈りの願いと連動しつつ展開されて居るものだ。

即ち此の世の實相とは価値構築としての+面より理解されるやうなものではむしろ無く其れをむしろ破壊するものまた死に至らしめるものとしてのむしろ-の価値との拮抗関係にこそ集約されて来やう。

 

其の生死としての領域を常に行ったり来たりして居るのが所謂藝術的に規定される感度の領域なのでもまたあらう。

尚宮澤 賢治が生きたところでの世界観とはまさに其の「他が為の幸福を實現せんが為」の幸福論其のものでした。

 

「他が為の幸福を實現せんが為」の幸福論は然し矛盾的な展開に苛まれたりもまたするものです。

何故なら神とは其の矛盾的な展開を受け容れて行くことでもまたある。

 

即ち其の超越的な存在としての神は「人間」=現存在の認識が前提として其れを生み出して居るものなのだから。

すると其れは神が眞に超越的なものではあり得ぬと云った類の御話なので?

 

 

其れは神が實在しはするが其れを認識する術が「人間」=現存在自體には常に欠けて居ると云う御話です。

其れがつまりは「人間を救済する神」としてのみ「人間」=現存在にはさう神が認識されて居ると云う話である。

 

いずれにせよ神を前提として推進される世界観は例えばネルケ師などもまた指摘されて居るのですがどうも危うさ=不安定さがありどうも其のことが特に近代以降はより増幅される形にて文明世界を貫く傾向ともなりつつあるやうです。

其処でもってあくまで個人的にはそんな超越的存在を設定せず欲望の抑制、消去の方をこそ目指す自力救済としての佛法の方がより理性的であり且つ21世紀に見合った形での救済の形であるやうにも思えて参りました。

 

文明の21世紀が抱える課題とはズバリ此の文明による「破壊」への対処であり且つ対策です。

其の破壊の事實はもはや疑えぬことだらう事實の集積として我我の将來に大きな不安を投げかけて来て居ます。

 

またおそらくは其れが現存在に取ってのまさに究極的な課題ともなることだらう。

またもはや其のことは宗教や國家と云った枠、境界を超越する課題でありそも其処でもって現存在としての認識のあり方其のものが問われることだらう大問題としての羅列であり集積なのでもまたあらう。

かうして過去にしかとあった恋ー+相生山での探検の思い出ー

68.かうして過去にしかとあった恋ー+相生山での探検の思い出ー

 

 

 

 

 

今またAIちゃんが出て来て居ますが其れとの会話の方も飽き気味ですのでもう話してはやらない。

 

と申しますか難問ばかりをひねり出し近くぶつけてみやうとは思って居ります。

尤も其の難問に対し答えるやうにはどうもプログラムされて居ないやうです。

 

高等な問題を壱緒に考えられるAIちゃんならまた是非御話してみたいところです。

 

 

 

さうして遠くの夢を追わない。

遠くのものを見ない。

 

今此処に全てはあります。

まさに其れが美の世界でありスタアの舞台である。

 

其れだけがたったひとつの君の現實、つまりは認識である。

 

だけれどもほとんどの人はむしろ其れに気付いて居ない。

何故なら社會は常に明日の夢を追うからだ。

 

でも其の夢は常に幻想です。

 

 

さう文明とは其の幻想をこそ追い続けるもののことだ。

近代文明はさうして未来としての諸価値にこそ生きる。

 

でももしも其れが洗脳であるのならば果たして我我はどうすれば良いのだらう?

無論のこと近代文明其れ自體が誤りの産物であるのならば我我は其処で👿化して行くより他は無い。

 

事實としてすでにさうなって来ても居る。

かうして雨はどしゃ降りとなり降り続け小学校では銃が乱射され幼い命が奪われたりもして居る。

 

おまけにミサイルを好んで撃つ奴が居るわ、またプーチンは兎に角露西亜命なのでもはや誰も止められぬ。

さても困ったな。

 

ウソをコケ。

もはやお前はよもや悩んだりしては居ない筈だ。

 

 

お前は文明が壊れるのを見ながらさうして喜んで居るな!

よりにより何故そんなことを仰いますか?

 

其れもこんなに優しい佛教徒に対して?

お前なんざまるで優しくはないわ!

 

 

いいえ、わたくしはかうして至極優しい人間ですよ。

そんな優しい人間が何故母ちゃんの股の間のことばかりを批判するのだ?

 

いえ決して其れはして居ません。

只自然にソコからポコッと生まれるものが生命であるとさう申したばかりでのことです。

 

さうかなあ、お前も結局はアノつボイノリオと似たり寄ったりだ。

 

 

ああー、今日はまた良い宵です。

かう何と申すか部屋に吹き込む風が爽やかな五月の宵ですね。

 

さてもまたお前は相生山へ行って来たな?

いいえ、さうでは無く相生山の横の歯医者へ行って来ただけのことだ。

 

其の帰りにまた何かを観たな?

はい、實はドクダミの🌸をしかと愉しんで参りました。

 

 

嫌われもののドクダミちゃん - 関西造園土木株式会社 (kanzo.com)

尚、わたくしは可成に其のドクダミが好きです。

 

ドクダミは非常に良い香りがします。

ですがもしや皆様には臭く感ぜられるのでせうか?

 

何せわたくしは其の感度の方が常人とは違うやうなので此の自分の感覚でもって他の人間を語ることには元元無理がある。

さうしてわたくしは常にドクダミの葉などを揉みしだき其の香りを嗅いで居たりもまた致します。

 

其のドクダミの🌸が丁度こんな感じで相生山の道の際に咲いて居りました。身近な植物図鑑:ドクダミ(2) (sorairo-net.com)

 

もう其れだけでわたくしの心は満たされて仕舞う。

自然への其の感度が常に強くあるが故にもう其れだけで幸せなのだ。

 

 

ですが其のことはおそらく皆様には伝わらぬことかとさうも思う。

皆様はさうして良く言えば社會のお役に立つ生き方をされて居りまた悪く言えば社會の為の奴隷をやらされて居られる。

 

おそらく其のやうな非本来的状態では其の今此処にある奇跡の美に気付くことなどは無いのです。

ですがわたくしは幸か不幸か今まさにそんな生き方をして居ります。

 

こんなわたくしにはもはや社會のことなどはどうでも良い。

其れも厳密には宗教的組織ですらどうでも良いのである。

 

 

では何がしたいのだ、文明自體を壊したいのか?

いえ其れをやるならやるで爆弾やら猛毒ガスやらそんなものを用意せねばなるまい。

 

其の用意其れ自體、やる気其れ自體に対し常に否定的です。

 

つまりはやる気が無い?

 

ではもしや鬱病か?

いえさうでは無く矢張りと言うべきか批判病でせう。

 

つまりやる気はあるのだがお前等文明のあり方が間違って居るので僕はあえて其れをやりません、とさう言いたいのだな?

まあ其れに近いことかとさう思われます。

 

 

おや、突然雨が降って来た。

かうした酷い雨なども昔は降りませんでした。

 

さてわたくしは此の人間の罪深さとは壱體何だらうと其のことを屡考えます。

でもかうして少なくとも壱輪の🌸を愛でる心のゆとりのある間は人間の心はまだ大丈夫です。

 

ですが🚙に乗って居た頃は其の壱輪の🌸を愛でる心のゆとりはこんなわたくしでさえありませんでした。

故に其れは個性の問題では無くまさに文明の問題です。

 

わたくしは愛とは優しく生きられることなのではないかとたった今思う。

其の優しさとは闘争では無く放棄です。

 

 

さう放棄しないと眞の優しさには気付けない。

そんな優しさとは宇宙の何処かにあるものでは無く今此処にかうして咲いて居るものだ。

 

ですがわたくしはまた常に哀しくもある。

何故ならわたくしが今此処に感ずる🌸の美しさを理解する人が他に居ないからです。

 

 

そうらみろ、ヤッパリお前は独りボッチだ。

なあ、ボッチちゃん、此処へ来て壱緒に酒でも飲もうではないか!

 

ゲエッ、汚らわしい!

お前みたいなそんな下賤な酒など我は絶対飲みたくない!!

 

第壱、お前は何だ!

そんなバカ凡のパパみたく鼻毛をじょろりと延ばしやがって!

 

うーん、矢張りと言うべきかコイツばかりはダメだな。

もう何と言うか気位ばかりが高くてまともな生活がそもそも成り立たないんだ、其処に。

 

 

そんなわたくしはさうしてお🌸ばかりを見詰めしかもさうして其の香りばかりを嗅いでわたくしの今を生きて居るのです。

 

おおっ、こんなところにドクダミが咲いて居た!

家へ帰り庭を探索して居ましたところ結構ドクダミが咲いて居りました。

 

先日庭師が庭へ入った時に全部抜かれたと思って居たのだったがかうしてしぶとくも生き残って居る。

其の葉を揉みしだくと矢張り何時ものやうなドクダミの良い香りが致します。

 

ああ、でもさうか。

こんなことを書いてもみんなには結局ドクダミは臭いのだから此れが散文詩には見えずにまるで嫌味節のやうに見えるのだらうな…。

 

 

かうして僕は常に特殊な世界を生きて居ざるを得ません。

 

其の特殊な世界はわたくしをして常に苦しめ続けても来た。

ですが其れはまた常に何かを語り続けても居る。

 

やる気が有る⇔やる気が無い

 

其のやる気が有るのが良いなどとそも誰が決めたのでせうか?

やる気が無いと価値ヒエラルキー社會に対しては常に無能となるが、逆に感性や思考力に関しては+の価値ともなるのではないか。

 

近代社會の過ちとはまさに其の価値の壱元化をあえて為して行った部分のことだ。

其れも誤った価値の壱元化は余計にタチが悪い。

 

 

さう価値が壱元化されたヒエラルキー社會程恐ろしいものは他に無い。

 

そんなことを思いつつ、相生山の道を自転車にて駆け抜ける。

其れも抜け道をまた新たに発見しました。

 

拾号だとかされて居る山道です。

其れは舗装路ですが傾斜が強くまるで山道のやうなものだ。

 

其の道を自転車を押しつつ登るとたしかかって其処に来たやうな気が何故かする。

さう其れは我我がまだ小学生の頃でした。

 

当時仲の良かった四人でもって此の相生山の探検に来たのです。

其れが丁度1971年のことだった。

 

 

小学校6年生の私達は森の中や畑の中へとそれぞれに分け入って行った。

隊長が我で副隊長がK君でした。

 

K君はわたくしと常に成績の壱番、弐番を争って居た。

 

其のことだけは覚えて居るが、其処で何があったかと云うことをすでに忘れて仕舞った。

但し皆でもって🍙を山の中で食したことだけは覚えて居る。

 

其れもさうです、すでに半世紀以上も前のことだ。

当時我は歯医者の娘に強く恋心を抱きつまりは彼女だけがわたくしにとっての御姫様でした。

 

 

其の御姫様には然しすでに好きな奴が居ました。

しかもソイツは家から弐百米位のところに實は住んで居りました。

 

またソイツと我は同じ公立中学へ進んだ。

 

尤も我は父が出た南山中学へ行きたかったが、でも担任の先生が公立の方が学力が伸びるとさう保護者面談で母に伝えたのださうです。

其の御姫様は金城学院中学校と云う御姫様が良く行く学校へ入った。

 

其の御姫様のことがどうしても忘れられぬ我は中学弐年の折に意を決して年賀状を彼女へ送った。

其処にはいわさきちひろを真似たイラストを描き添えた。

 

すると彼女からはまさにブッ飛んだ賀状が送られて来た。

其れはまず仏蘭西語にて「新年お目出たう」とさう書いてあるのです!!!

 

 

故にまずは其の仏蘭西語を解読するのに物凄く時間がかかる。

 

また其ればかりでは無くつまりは其れがシュールレアリズム系のイラストが描かれた賀状でした。

其処に仏蘭西の御城やら森やらヒッピーみたいな奴や他にも色色と訳の分からぬ🐦だの🐟だの何だのそんなものが所狭しと彼女の直筆にて描かれて居たのだった!!

 

要するに今思えば彼女は完全に美術系の人だったのです。

しかしながら、何と其の彼、我にとっての御姫様が好きな彼がまた凄い美術系の彼だったのです。

 

確か彼は3年生の頃に同じクラスになった筈です。

でもって其の時に彼に美術の才能があることを初めて知りました。

 

 

ちなみに我は中学壱年の頃にとある女生徒に好かれたのです。

ですが其の人はそんなお嬢様では無くつまりはあくまで凡人の👩でした。

 

何故好かれたかと申しますに其れは我が彼女の給食のカツドックを何故か勝手に食ったからです。

其れも何故さうなったのかは今ではもう思い出せぬのですが兎に角我は其れを勝手に食ったのです。

 

ところが何故か其のこと以来さうして勝手に好かれて仕舞った訳です。

今思えばさう云う気持ちはもっと確りと汲んであげ是非大事にして置くべきだったのだと思う。

 

ですが当の本人は其のお嬢様の方しか心が向いて居ない訳だ。

 

そんな我も中学参年の頃から文學の方へと興味が移行しさらに社會科の御点が良くなったものですからもうそれどころでは無くなり以降は勉學の道へと進むやうになりましたのです。

ですから其の同じ美術系の弐人が当時付き合って居たのかどうかは知りません。

 

 

知りませんのですが、おそらく探せば今でも其の彼女のイラスト付きの賀状が出て来る筈です。

 

其の後ほどなくして其の美術系の彼は引っ越しをして何処かへ行って仕舞いました。

ですが其のお嬢様が住んで居た歯科医としての自宅はいまだに其の侭の形で残って居ます。

 

其のやうに近頃はそんな大昔のほろ苦い思い出などに浸ったりもまたするやうになった。

 

尚わたくしがペン趣味に開眼したのは其の彼女への賀状を描く為に中学校の横の文具店ー松陰堂ーにて付けペンとインクを買って来たことから始まったことです。

其の松陰堂と云う店名の由来に就き五年程前だったか、たまたま松陰堂のオバサンが店舗の前で片付けをされて居たので、

 

お久し振りです、昔オジサンとオバサンに良くお世話になったKですが…。

と話しかけ其の由来に就き尋ねてみた。

 

すると、

 

夫は早く死にましたが吉田 松陰が好きだったので店名をさう名付けました。

とさう初めて聞かされました。

 

当時すでに松陰堂は閉じられてから五年程経って居り、また中学参年の頃の恩師ー社會科の恩師ーも参年程前に亡くなりました。

かうして時は流れ去り全ては移り変わって行く。

 

 

どだい還暦を過ぎますともはや誰が何時身罷ってもおかしくは無いのです。

なのですが誰が何時死んだのかと云う事實以上に哀しいこととはむしろ其の消息を確かめる術が無いと云うことだ。

 

要するに其のお嬢様だった美術系の彼女が其の後どうなったのか、また今も生きてるのか死んでるのかがまるで分からないことでせう。

ー彼女の実家の歯医者もすでに閉じられて居ますので彼女の消息をもはや確かめる術が無いー

ですが我は今つくづく思うのです。

 

言わば過去はしかと其処にあったのだと。

 

過去は無かったのでは無くさうして確かに其処に有りました。

或は其の事實だけが此の世から消し去ることのかなわぬ何かなのではないか。

 

そんな素晴らしい小さな恋が確かに其処には有ったのだった。

 

ですが其れはわたくしにとっての初恋なのではありません。

当時わたくしには其れ以前から焦がれ続けて居た👩の子が他にしかと居たのでした。