目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

『いま世界の哲学者が考えていること』よりー環境問題とは一体どんなことかー

「理性の機能不全こそが文明の自己崩壊を招く=文明を自己矛盾させ崩壊へと至らしめる」

 

尚私はそも文系インテリと云うものが一体何を問題として捉え且つ自ら考えることで今後の世界のあり方ー文明のあり方ーがどう規定されて行くべきなのかと云うことを此処にて論じて居る訳です。

勿論理系インテリはあくまで理系インテリで数式だの何だのを駆使しつつ其れはこうすべきだのアレは止めて置くべきだのと色々とやってる筈なのだ。

 

ですが理系の人々の考えることは抽象的に過ぎ具体性に欠ける部分があるのやもしれぬ。

逆に申せば文系の人間が考えることはまた非合理的で且つ感性の部分に流れ過ぎて居り普遍的な論としてなかなか其れが成り立たぬ部分さえもが御座ります。

 

なのだが例えば其れが哲學的次元で統一される場合にはそんな一種の感性論、感情論の域を離れ一応誰もが納得出来る論理構造を有することが可能なのだらう。

 

 

そんな意味からこそ私は哲學的考察をこそ重視して居る訳です。

尤も哲學は其の役目をすでに終えた、其のまさに役立たぬ思考から役立つものを紡ぎ出すことはほぼ不可能に近い。

 

などとも言われてすでに久しく要するに其れが役立たぬものの代表格のやうにさえ思われ疎んじられたりもして居るのやもしれません。

なのですが、文明其れ自体に問いが突き付けられる今だからこそ哲學的な思考の需要はむしろ大いに増して居り其れは何故かと申しますと所謂役立つ方の思考からかうした危機のあり方に対し大局での処方箋は紡ぎ出せぬからです。

 

まさに其れは逆方向を見詰めた価値観であるかどうかと云う事であり、且つ過去を見詰め且つ未来を前提とする大きな思考をして居るかどうかの違いなのでもある。

で、其の大きな思考をするとまずは役立たずの考えとなり易くなります。

 

即ち役立たずとは今の儲け、今の腹一杯には繋がらぬ観念力であるに過ぎぬと云うことだ。

 

 

ですが宗教などの場合などもまたさうなのですが、釈迦がまたキリストが今の儲け、今の腹一杯のことー現世利益ーを求めて居なかったことだけは確かなことでせう。

其の点からしても哲學はまた文學は現世利益では無い何らかの価値を追い求める為の精神的営為なのだともまた言い得る訳だ。

 

で、むしろ今は其の現世利益では無い何らかの価値を追い求める為の精神的営為にとっては決して悪い時では無い訳です。

其れこそむしろ其の精神的な価値を最大限に発揮し得る時なのだとも言えさうです。

 

 

尤も私は哲學者では無くあくまで自称の文人です。

ですが哲學的思考には強いと云うか兎に角其れが得意な方です。

 

と云うことは感性の感度の一方文系論理の方も一応は備えて居ると言えることでせう。

 

 

いま世界の哲学者が考えている「5つの問題」とは? | いま世界の哲学者が考えていること | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)

例えば今私が読み進めて居るのがこんな本です。

 

其れも福岡先生による生物学の本と同時に読み進めて居ます。

其れがどちらも素晴らしく面白い内容の本です。

 

此処拾年ばかり私は文學作品では無くかうして社會問題を論ずる一般教養のやうな内容の本ばかりを読んで居ます。

其の理由のひとつには21世紀に入り現實其のものが虚構化しつつありつまりは文明乃至は社會が何やら怪しいものとなって来て居ると云う事實があります。

 

其処からもどうも文學の役目こそが終わりつつあるのではないか、などとも屡思ったりも致します。

つまり文學と云う虚構の枠組みを飛び越えて現實其のものがドラマ化して居りますので其処にあえて虚構としての枠組みで挑む根拠に欠ける訳です。

 

 

其の文學と哲學と云う人文としての枠組みで言えば哲學の方が實はより現實的で此の世で生じて居る事實には即して居ります。

其れは文學には必然として入ることだらう作家としての感度の部分が哲學ではより抽象的に論理化されるが故より客観的な視野を有するからなのだと思う。

 

ちなみに此の本を読むのは此れで参度目です。

かうして私は気に入った本を何度でも読み返す訳です。

 

 

さて、今哲學者が考えて居ることとは、

 

1)「IT革命」は、私たちに何をもたらすか?
(2)「バイオテクノロジー」は、私たちをどこに導くか?
(3)「資本主義」という制度に、私たちはどう向き合えばいいか?
(4)「宗教」は、私たちの心や行動にどう影響をおよぼすか?
(5)私たちを取り巻く「地球環境」は、どうなっているか?

いま世界の哲学者が考えている「5つの問題」とは? | いま世界の哲学者が考えていること | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)より

 

と要するにそんなことであり要するに私の考えて居る事とまるで同じことばかりです。(笑)

 

どだい文明がもしも此の侭下り坂を転がり落ちて行くやうならば其れこそ文學も何も無い訳だ。

何故なら文學だの絵画だの音樂だのと云うものは所詮は其の文明の継続を前提として成立するものなのだから。

 

藝術とは所詮はさうした類での文明の産物其のものでせう。

つまるところ藝術は其の社會の崩壊に関してはあくまで無力なのやもしれません。

 

 

ー1970年代以来、地球環境問題が人類にとって重要な課題と認識され、国連をはじめ多くの国や組織で、繰り返し議論されてきました。たとえば、2015年末にフランスで開催されたCOP21でも、20世紀末の「京都議定書」に代わる新たな枠組みが提唱されたことは、ご存じのことでしょう。

こうした「地球環境問題」が語られるとき、いつのまにか「定番話」――世界の生態圏は人間によって破壊され、やがて地球は人間にとっても生存できない環境になる――が形作られるようになりました。そもそも、「定番話」が警告するように、はたして環境破壊によって、人類は滅亡するのでしょうか。

この問題を考えるためには、どうして20世紀後半に、「地球環境問題」がクローズアップされるようになったのか、理解する必要があります。というのも、「地球環境問題」が唱えられるようになったのは、近代社会の変化と密接にかかわっているからです。そして、この変化を捉えることによって、「定番話」とは異なる未来への展望も開かれるのではないでしょうか。

人間中心主義はそもそも「悪」なのか、道徳と切り離した形でプラグマティックに環境を考える態度の必要性など、この領域もまた様々な議論の余地が存在します。ーいま世界の哲学者が考えている「5つの問題」とは? | いま世界の哲学者が考えていること | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)より

 

 

で、私はまず其の地球環境問題から論じて行くこととしてみます。

 

尤も此の本の著者である玉川大學教授である岡本 祐一郎氏は以上の纏めの如くにむしろ至極冷静に此の地球環境問題に対されて居ます。

 

まず私が思いますことは、地球環境問題とはあくまで人間ー社會又は文明ーにとっての問題なのであり基本的には動植物にとっての問題では無いと云うことです。

ところが其の被害者として彼等は否応無く其れに巻き込まれて仕舞う訳だ。

 

要するに地球環境問題とは人間存在にとっての固有の問題なのですが其の問題がデカ過ぎるが故に他を破壊し始めても居る訳です。

であるならばむしろ其れがほんたうの意味での問題ともなることでせう。

 

例えば世界恐慌だの戦争だのさうした社會的に齎されて来た問題とは異質であり別次元での問題ともなり得るものだ。

よってまさに其処に人間存在のそもそもの意義又は意味、即ち其れが悪なのか其れとも善なのか、むしろ此の侭では明らかに悪の権化なのではないか、何故君等は其れに気付かぬのか、と云った所謂気付きの問題、宗教的な課題なのでもまたあると云うことである。

 

ところが他方では學者の中にも地球環境問題への懐疑論が屡見受けられる訳です。

 

 

ですが、

 

1.気候変動による災害の多発

2.食料危機へと連なる人口過剰の問題

3.温暖化による社會活動の制限

 

との点により其の懐疑論を取る根拠は次第に失われて行くことでせう。

 

究極的に言えば其れはたとえ宗教であるにせよ解決出来ぬことだらうまさに人類にとっての最後の難問なのです。

其の最後の難問がまさに今此の21世紀に於いて我我に突き付けられて居る訳だ。

 

尤も其れは急激な変化を齎すものでは無い。

であるからこそ分かりにくいものなのだとも言える。

 

 

つまりは感度の悪い人々にとっては分かりにくい訳です。

ですが感度が高くある人々はすでにとっくの昔にさう気付いて居る筈です。

 

私の場合は40代位から次第に其れが危機感として顕在化して来て居ます。

尤も其れ以前は朧な危機感であるに過ぎなかった。

 

 

さて其の「人間中心主義」は屡哲學者の梅原 猛先生が批判されて居た近代的要素であり価値です。

西洋文明による合理主義は所詮此の「人間中心主義」により成り立って居ます。

 

但し東洋の文明の価値観はむしろ其れとは異なる道を歩んで来たやうに見受けられる。

特に日本人は元々自然が好きだと申しますか少なくとも其れと寄り添って社會、文化を育んで来た筈だ。

 

其れは西洋流の文明が自然を搾取し其れを合理的に改変することとはまた異なるまさに自然との共生の思想の産物であらう。

 

ひとつには其れは日本の自然が特に豊かなものであったー世界的に見てーからなのだらう。

其のやうに豊かなる自然が日本人の繊細な感受性を育み其処に溶け込む文明、文物のあり方を生じて行った訳だ。

 

ですので其処にはむしろ問題は生じて居なかった訳です。

其のやうに文明を限定するが故にむしろ豊かな心の領域を保って居たのだと言える。

其れもかの幕藩体制の頃までは。

 

 

尚其の「人間中心主義」はキリスト教の教義から生まれたとの説もまたある訳です。

 

対して神道にせよ佛教にせよ自然とは仲が良く特に佛教などは「🐜を踏み殺さぬやうに注意して歩く」ことが僧侶としての心構えであるなどともされて居た訳だ。

だから私なども夏はまた歩くのが大変なのです。

 

兎に角家の庭には🐜の巣が多く其処から🐜共がまたウジャウジャと出て参ります。

其れを一匹も踏み殺さずに果たして歩けませうや?

 

なのではあるがとりあえずは兎に角一匹も踏み殺さずに歩かねばならぬのです、ー本来佛教徒であるのであれば其れは当然のことだがー

 

其れに印度の宗教には自然の形態を纏う神々が出て来たりも致します。

いや日本のアニミズムに於いては巨岩や山など自然其のものが神であり其れが即ち侵さざるべき領域のものなのだ。

 

 

其の「自然」に対する解釈其のものが即ち観念的な理解其のものが洋の東西でもって此のやうにほぼ百八十度異なって居る訳だ。

 

要するに西洋文明は自然を「利用」することに終始し其の度が過ぎた為に其れが「搾取」の域にまで高められて仕舞った訳だ。

逆に東洋文明は自然と協調する道をあえて歩んで来たがやがて近代化の圧力により其の路線を捨てざるを得なくなりかうして東洋の国々も経済成長なるものに邁進せざるを得なくなった。

 

と云うところがむしろ文明レヴェルでの眞相の部分なのだと思う。

 

西洋文明⇔東洋文明

との二項対立が本来的な文明のあり方での軸です。

 

ところが、いつしか、

東洋文明→西洋文明へと進歩することこそが求められる近代的普遍性が確立されて行くこととなる。

 

其の「今哲學者が問題として捉えて居る地球規模での課題」とは結局は其の全てが近代合理性が齎したバランスの欠如の問題なのであり其処でもって対自然との軸の中で合理化が過ぎたことによる各次元に於ける破壊の問題です。

 

自然⇔文明

個⇔社會

肉体⇔観念

 

と云うやうに価値は二元分裂します。

 

また先に述べたやうに、

 

東洋文明⇔西洋文明

 

でもまたある訳です。

 

 

近代以降の文明の価値は拡張主義となりますのでより人間の属す範囲をよりデカくして行く訳だ。

ところがデカくなればなる程に人間は社會の奴隷とされ近代と云う全体主義的な体制の中に押し込まれて行かざるを得なくなる。

 

たとえ社會主義を奉ずる國であれかくして現代人は「不自由」な社會の枠の中にさうして押し込まれて行く訳だ。

其れが窮屈だからイヤだ、などとはよもや言えぬ訳です。

 

何故なら我我個としての現代人を生かせて呉れて居るのはまさに其の近代による便利な生活のお陰である訳なのだから。

 

さう我我は核の軍拡競争を繰り広げ自然を壊しまくる「悪」としての社會の壱員であるより他に生きる道が無い訳です。

いや其処から逃れる方法が無いでは無い。

其れはドロップ・アウトするか其れとも狂信的サイエンティストとなり全人類を宇宙へ移住する計画を推し進めることです。

 

どちらもイヤなのであれば其れはもう其の全体主義の牢獄の中で「悪なる善人」としての役目を全うして行く他は無い。

 

社會との価値のことで我我個に取りむしろ一番恐ろしいことが其の全体主義による罪の履行のことです。

我我にはさうして知らず知らずのうちに悪を履行する性質を有する者なのです。

 

たとえ個の次元では冷静に理性を働かせるのだとしてもさうして全体の意見にはとても逆らえぬ訳だ。

其れに逆らうのは反体制派や文人やまたルンペンをやって居たい変わり者だけなのだ。

 

 

尤も文人は特に其の「やらされる」ことに対し我慢がならず其れでもってかの漱石などは兎に角物凄い癇癪持ちだった訳だ。

要するに反体制派か又は文人さん、ルンペンさんなどにならぬ限りは其の此の世での全体主義からは逃れられやせぬのです。

 

 

學者さんなどもまたどんなに頭の良い方でも其の社會的なしがらみによるバイアスが必ずやかかり其処で言いたいことを全部言える訳では無いのであります。

また作家さんでもどんなに高名な方でもまさに其れを言っちゃあ責任が生じて仕舞うのでむしろ言えぬことの方が多いのでは無いでせうか。

 

況や一般の人々は家庭だの家だのまた属する會社だの組織だのの手前何をどう考えやうがほんたうのことなんぞ言える筈が無いでは御座りませぬか。

 

要するにすでにみんなは雁字搦めですよ。

其の点では少なくとも私の方が自由ですよ、自由。

 

 

私が述べて居ることとは其の「自由」とは理性的に求めて行くべきことだと云う其の壱点に於いてです。

ではどう求めて行くべきなのかと云うこととなりませうが、

 

其れは、むしろ本質的に人間は限定者でしか無いと云う事實に就き理性的に受け入れて行くことでしか無い訳だ。

人間が不可能への挑戦を今後もやり続けるのでは無くむしろさうした立場を放棄し自ら抑制して行く部分にこそ理性はまた自由は存して居るとさう申して居るのである。

 

理性とはさうした反省であり抑制でこそあるべきであり、其れは帝國主義だのグローバル経済の推進だのと云った搾取体制の構築のことなどであってはならぬものなのである。

また理性とは宇宙へ進出し其れを植民地化することであってもならぬ訳だ。

 

また男女の性別をフリー化し所謂伝統的な価値観をないがしろにすることであってもならない。

要するに今の社會、其の合理的に推進されることだらう近代文明世界には理性と云う部分が何処にも無い、むしろ其れが壊されて仕舞って居る。

 

 

つまるところは、

 

「理性の機能不全こそが文明の自己崩壊を招く=文明を自己矛盾させ崩壊へと至らしめる」

 

とのことである。

 

で、問題は、

 

全ての二項対立は其の「理性の機能不全」こそが引き起こして居ることなのです。

 

自然⇔文明

個⇔社會

肉体⇔観念

東洋文明⇔西洋文明

 

いや二項対立は元々さう云うものでどうにもならぬものなのです。

ものなのですが、人間以外の動物達は此の種の二項対立に苦しめられて居る訳では無い。

 

何故なら彼等は文明など創って居らず其処に抽象的思考能力がある訳でも無い。

 

 

逆に申せば、文明をやって居るからむしろ其の二項対立矛盾ー社會的矛盾ーに苛まれることとなる。

しかも其の文明の枠組み、社會的枠組みとは西欧近代型による合理化文明と云うこととなる。

 

西欧近代型による合理化文明はむしろ其の合理化を徹底的に推し進める為の文明のあり方です。

ですが東洋には東洋の文明の価値観があり且つ文化伝統があり其れこそ禅だの空手だの剣道だの柔術だの法隆寺だの興福寺だの薬師寺だの高野山だのがまたある。

 

要するに其の西欧近代型による合理化に対し理性的に抗するには他方で別の価値の方を向いてやれば良い訳だ。

 

こと文明の進歩思想から言えば此れ等は全て二元的対立なのですが例えば其処からむしろ個として避難してみる。

さすれば其の二元対立がいつの間にか相剋し相即する関係性を取り戻す訳です。

 

其の二元的要素が相剋し相即する関係性が築かれて居る限りは所謂破壊は生じない訳だ。

但し其処に劣化は生じますが其れは諸行非常での範囲内での劣化でありあくまで破壊ではありません。

 

 

よって其の強靭なる個としての理性こそが今世界に求められて居るものです。

要するに目覚める人が多い程此の世界が救われる可能性もまた高くなりませう。

 

いやでもしかし、世界は結局救われはしないことでせう。

社會又は文明と云うものはさうしてあくまで救われぬものなのです。

 

よって釈迦は一度世俗とは縁を切り修行へ邁進する訳なのですしキリストは社會は間違って居ると声高に叫び正しい信仰への道を説いたのです。

だから最終的には個により救われるか否かであり個により其の理性的立場を選択出来るか否かです。

 

自らの理性的立場さえ正しく選び取れば此の種の二項対立に苦しめられて居る文明社會の様を相対化して見て居られるのでモロに其の悪と申しますか大矛盾と申しますかさうしたものから距離が取れるやうになり可成に気分的に樂になるものだ。

要するに文明か又は社會を斜に構えて眺めバカにする程に理性を磨いて置けば案外其れに就き悩まずとも良くなると云うことを述べさせて頂いた。

 

 

1)「IT革命」は、私たちに何をもたらすか?
(2)「バイオテクノロジー」は、私たちをどこに導くか?
(3)「資本主義」という制度に、私たちはどう向き合えばいいか?
(4)「宗教」は、私たちの心や行動にどう影響をおよぼすか?
(5)私たちを取り巻く「地球環境」は、どうなっているか?

 

じゃあアンタの理性の場合は此れ等の大問題を一体どう解決して行くつもりなの?

だからもう其のやり方のことは上でもってしかと説明したじゃないか。

 

其の宗教の問題と云うか宗教的課題の場合も相対化し個の内側に止めて置いた方が良い。

 

宗教⇔科学

 

宗教と科学はさうして結果的に相反するものだが實は関連し合っても居るものだ。

宗教の場合でも理性的選択を為す為に一度家や共同体でのしがらみのやうなものから脱し個として選択し直した方が合理化出来ることだらう。

 

要するに現代社會の価値観は西欧近代のものとして倒錯、顛倒して居り直しやうの無いものだとさう基本的には捉えられる。

なので後は其の科学技術を文明を終わらせる方向に使うことが出来るのみなのである。

 

だが東洋の此の自然豊かな島國に折角生まれてそんなことばかりを考え込んで居るのはまさに精神的に不毛であり時間の無駄だとも強く思うのだ。

 

だから折角与えられた其の一級の自然環境に触れ得ずしてどう哲學して行かうが其れではまるでもって意味が無い。

だからもうそんなことは忘れて其の自然の豊かさに触れることを目的として特に老後は生きて行くべきなのではなからうか。

 

 

問題への其の答え

1、ITは虚であり不要

2.バイオテクノロジーも虚であり不要

3.資本主義はもはや虚であり不要

4.宗教はアンタが個と云う理性として選ぶもののこと

5.文明の営為により結局地球は滅びませうがアナタの観念だけは生き残ります

 

要するに今後文明の齎す価値をまるで金科玉条の如くに大事にして居るとまさにトンデモナイ失望だの絶望だのに陥り易くもなることだらう。

だから最初から其れは虚的でもって不要の価値の集積でありさらに言えば其れこそが「悪」であることにでもして置けば余分なものに己が振り回されずとも良くなる訳だ。

 

まさに其れが個として理性的に築く文明との距離感のことだ。

イザ其のやうな距離が出来れば現代社會のバカバカしさに振り回されずとも良くなるので實は其の点で大いに心が救われるのであった。

 

つまるところ宗教以前の段階で、個が現代社會から洗脳を受けて居るまさに其の部分を理性的に粉砕して置くのである。

 

 

 

結局のところ、現代文明による一方通行的な価値観を廃してむしろ価値を相互に行き来する位の寛容さを是非取り戻して行くべきことだらう。

東洋の文明は元々其の種の相補性、対立軸の中でのバランスの取り方には長けて居てまた元々進歩主義などでは無い訳だ。

 

其のやうな価値をむしろ日本人の場合は大事にしつつ見詰めて行くべきなのだ。

然し多くの日本人は其の西欧近代への理解が一般に及ばず従って其れに対する批判精神も無い侭にさうして只みんなでもって近代化をやり流されて行くばかりなのだ。

 

 

じゃあ儒教文化だの武士道なだのを是非見詰めて行くべきなので?

 

つまりは東洋のもの、又は日本のものが壱番なのか?

 

個人的には日本の自然は壱級品だと思うのだし或は飯の美味さなども矢張り最高なのだらう。

また文化的にも大変洗練されて居り其処に伝承されるものもまた美しいものばかりである。

 

なのだが何故か日本人は自ら思考しやうとしない。

其の自ら考えることが不得意であるばかりにメダカもタガメもザリガニも絶滅に追い込まれるのでは如何にも其れは情けない。

 

 

だから逆に考えに考え逆に文明を切ってやる程に考えて置くべきだらう。

 

「理性の機能不全こそが文明の自己崩壊を招く=文明を自己矛盾させ崩壊へと至らしめる」

私が問題として捉えることとは最終的には認識としての理性の誤謬、選択の誤りの部分に帰結する。

 

誤った選択を為した理性が自らを追い込んで行くことこそが文明の自虐過程即ち自己崩壊への道なのだ。

誤った選択をせぬ為にはむしろ切ってやること、現代の価値を至上のものとして祀り上げずむしろ貶してやることこそが最も大事なことである。

 

環境問題等もまた其の理性的選択の上で初めて見えて来るものなのだと思う。

自己の頭で考えある程度文明の齎す価値を切らねば決して見えては来ぬ大問題なのだとさうも認識して居る訳だ。

 

 

ちなみに環境問題は人類全体にとっての死活問題であるばかりかまさに生態系にとっての死活問題となって居る点こそが重要な点である。

要するに其れは自分等のことだけでは済まぬ問題なのだ。

 

かくして問題をデカくしたがる癖のある西欧近代が必然として陥った大問題こそが其の地球環境問題なのだ。

 

近代文明は力の論理にて自然を屈服させ其れをやがて搾取するに至る人間中心での文明のあり方を営む。

其の文明のあり方にこそ問題があるのでたとえどう革命しどう体制を変えて行こうが本質的には其の人間中心主義であることからは免れ得ぬ訳だ。

宗教が必ず正しいとは限らない、だが正しいと思わせられる価値がまた其処にはある。ー「倫風」誌より思うことなどー

さてあくまで眞理方向での考え方とすればなるべく所謂生臭い方向性での頑張り乃至は幸福である状態を継続させてはむしろならない訳です。

何故なら其の誤った侭での価値観でもって突き進めばやがては世界を破壊して仕舞うことに即繋がるからです。

 

しかしながら其の誤った侭での価値観と云うものがほぼ大衆にとっては理解出来ません。

何故なら眞理とはむしろ逆方向での価値を内包するもの、むしろ其の逆方向での価値を基調として追求されるものだからなのです。

 

従って自分の考えが善でしかも正義であるなどともしも考えて居たのであれば其れは大変なこととなります。

勿論社會的な意味での公正さや誠実さ、また良い方向性での考えか又は善なる心と云うものが確かに此の世にはあるやうに見受けられます。

 

其れでも實は其の正義を証明する手立てなどは何処にもありません。

もしも証明するのであれば其れは宗教的な次元に於いてのみのことで、しかも其の宗教的な価値さえもが此の世では分裂して居り即ち自己矛盾を抱えては居らぬ宗教など此の世には無い訳だ。

 

其の種のまさにニヒリスティックな荒野をあえて歩まねばならぬのが理性の宿命であると云うやうなことを述べて居ります。

其処から逃げることもまたた易いことですがまさに其れでは我我人間が理性を持って此の世に生まれて来た甲斐が御座らぬと云うものだ。

 

社會的な価値のほとんどが其の種のカラクリにて相対矛盾を引き起こしますので其れをあえて捨て去って置く位である方が誤った方向へ行く危険から逃れる手立てともなりませう。

要するに所謂しがらみが利己的自我を拡大させ誰しもが其れを守る為には鬼にも👿にもなると云う其の事實のことを述べて居ります。

 

 

またほとんどの人が信じて居ることこそがまさに此の種の社會的に齎される愛であり価値なのです。

 

ですが例えば戦時中は其れが間違って居たことさえもがありました。

なのに現在の文明のあり方が間違って居ないと果たして言えることでせうか。

 

文學を始めとする藝術の分野はまさにさうした本質的価値、本質的な問題に就き考え且つ意見を表明して行くものです。

 

かっては多くの藝術家ー詩人や音楽家や画家ーが生其れ自体と闘い其のドキュメントとしての作品を遺して行ったものだった。

尤も現代に於いてはそんな本質的価値の追求は時代錯誤のものとなり要するに藝術家其れ自体がサラリーマン化ー現世利益化ーして行って居るのやもしれません。

 

其れでも尚藝術の世界は個としての観念的闘争の場であることは確かなことだ。

他方で宗教はあくまで社會的な闘争の場であることからは逃れられない。

 

私は其処にある種の危惧をまた感じても居ります。

何故なら組織即ち社會による意思決定は必然的に誤ったものになり易いからなのです。

 

 

エッ、逆ではないの?

いや確かに私もかってはさう考えて居た。

だが熟慮の末、社會的な価値観に対し盲目的に従うことはむしろ悪を増幅させると云う事に気付き且つ實人生の経験からもまさに其のことを學んだ訳だ。

 

要するに此の世は綺麗事ではカタが付きません。

良いと喧伝されて居る価値が實は悪であったりもまたする訳で、だから初めから疑ってかかり話半分位に社會のことを考えて置かぬとまさに其れに振り回されて仕舞いませう。

 

其のやうに私はまず宗教的自我を生きる者では無く謂わば理性的自我を生きる者なのだ。

其の理性的自我とは眞理に対して潔癖なことだとさう考えて居ります。

 

眞理と申しましても其れが科学的眞理なのか其れとも文學的に追求される文士としての眞なのか、また其れこそ宗教としての眞理であるのかと云う問題がまずは御座りませうが私に限れば其れは全体的統合的に規定される眞理のことです。

要するに自分でもって心の痛みを伴う理性的闘争をなし其処で得られるものこそが私にとっての眞理である訳で従って其れは純粋にはどんな社會的制約をも受けぬものです。

 

社會的に齎される愛であり価値には其れとは異なりしがらみによる偏向を多分に受けて居り多くは其れが正しいとされるだらう全体主義的な価値へと変成されて仕舞う訳だ。

よって宗教に於いてより注意深く気を付けて置かねばならぬものがまさに其の全体主義としての宗教的価値なのだ。

 

 

但し事實として私は大乗佛法としての価値をかってない程に重視するやうにもなった。

また二つの団体に対しても現在私は好意的に解釈して居る。

 

其れは創価学會及び實践倫理宏正會に対してのことです。

 

其の創価学會への疑問は多々あるにせよ与党の壱員として常に自民党とは違う視点から発言し政策の変更を迫る其の心意気はまさに宗教政党としての大した實力です。

個人的には學會が日蓮宗から離れたことは最大の汚点かとも思いますが、かってはあれだけ批判して居た筈の自民党とこともあらうに組んで政権の一翼を担ったことに関してはまさに脱帽と云うところです。

 

私個人にはさうした實行力には欠けかうして外野でもって理想論ばかりを滔々と述べ立てて居ること位が関の山なのですから其の部分に就きまさにおみそれ致しましたと云うところです。

 

 

また實践倫理宏正會ですが、其の會報としての「倫風」誌が何と壱年に亘り無料となって居る。

其れはみんなが苦しい時なのでむしろ組織としても其の苦しみに付き合いませうと云うことなのではなからうか。

 

いずれにせよ其の弱者への視点、弱き眞面目な人達を如何にして助けるかと云う視点こそが大事なのだ。

逆にアノ元法相は権力をカサに着てやりたい放題をやりしかも其の妻も一緒になりやって居た訳だった。

 

 

うわあ、コレぞ悪の夫婦だ。

其の夫婦と云う皆が認める絆をあえて悪用し自己利益、👪としての利益を何処までも追求せし其のおぞましき心根よ。

 

おまえらなどはもはや死んでも決して救われぬぞ。

 

其のやうに権威権勢、金や👩、富と壱族の繁栄と不老長寿等の価値。

おおまさに其れをこそ求め願う世俗としての心理こそがまさに其の悪の内容なのだ。

 

 

ではどう生きるべきなのですか?

欲など其の全てを捨てて死ねとさう仰るのか。

 

いやだから、頑張ることの方向性がそもオカシイ訳だ。

 

頑張るのは企業が大儲けして一番になることの為にでは無くまたスポーツ選手が一流になる為になどでは無く地球を壊さぬ為に、また🐻などを撃ち殺さずとも良いやうにバランスを取り生きることではないのか。

また生命を讃美することでは無く逆に文豪の先生方に殉じて特攻することでも無く間違って居る社會を間違って居るとして断じ悲観性を保った侭で兎に角申し訳無さそうにしつつ生きて行くことではないのか。

 

 

幸福⇔不幸

進歩⇔退化

 

より大きく幸福を得ようとすればともすれば不幸の方もまたデカくなる。

より進歩しやうとして躍起となればむしろ他の面でもって退化さえもが引き起こされる。

 

要するに其の社會的に妄想されて居る+の価値こそがむしろ-の集積を生み出して居るのだ。

 

さて其のニヒリスティックな生のあり方は壱個人が幾ら悩もうが悩むまいが元々どーにもならぬものなのだ。

さうして母ちゃんの腹からドロリと出て来る我我は其の点ではみんなが同じでよって何処かで線を引いて置かねば其のドロドロな様に浸り切っても仕舞いませう。

 

 

ひとつには確かに宗教的営為が其の獣であることから個を救う営為である訳ですが逆に其れに浸り切って仕舞えば其の団体の教義なり教祖様への服従なりと云った部分に洗脳されて仕舞い易い。

 

だから個人的にはもはやさうしたものとは距離を取ることを心がけて来て居ります。

ですが宗教的営為を實践的に行う方が救われる方々も確かに居られることでせう。

 

では此処でひとつ最近私が感心したことを述べさせて頂きます。

まさに其れが個別の宗教的営為の正邪を見極める基準に就いてのことです。

 

まず創価學會は現在間違っては居らず逆に世直しをしやうとして居る点に於いて大いに評価出来ます。

 

但し個人的には其れが佛教であるとは思って居りません。

結局佛教に近い何かを信じ団体生活ー社會性ーを重んじる団体なのだとさう思う。

 

で、結果的に其れが悪いなどとは思えぬ訳だ。

悪いのはむしろ自民党による非民主化への實践の方でせう。

 

また官僚や日銀の方でさえまさに其れとグルですね。

 

但し學會は宗教的にはもはや不純なる団体です。

是非其の事を忘れずに謙虚な気持ちで突き進んで下され。

 

 

次に実践倫理宏正会の會報である「倫風」誌に就き述べます。

 

「倫風」誌は現在私が定期的に購読して居る唯一の「宗教的」會報です。

 

ですが私が此の本を読むやうになったのは其処に好きな作家が連載をされて居るからなのです。

 

其の作家こそが林 望先生です。

まさに此の方の随筆が読みたくて「倫風」誌を読むやうになったのだと言えやう。

 

古臭い言い回しを好んで書かれる私よりも丁度拾歳上の學匠作家の方ですが世を見詰める其の眼差しは真っ直ぐな方です。好書好日

 

 

ーそもそも「実践倫理」とは、「明るく幸せな生活」を実現するための、誰にでもたどることができる最も確実な「すじ道」のこと。実践倫理宏正会の目的は「生活の改善、道義の昂揚および文化の発展を図るため、生活倫理を実践することを宏めると共に、これを各人の生活に融合せしめ、人生の苦悶を解脱し、人と争わず、家庭を明朗化し、各々の業務に精励せしめ、人類永遠の平和を目標に、祖国の再建に資する」こととされる。また理念の特徴として、日本固有の文化と伝統を重視し、親・祖先を重んじながらも宗教を説かず、むしろ宗教以前の人間にとって不可欠の問題として倫理を考える。したがって、宗教団体ではなく、社会教育団体であることを強調する。ー実践倫理宏正会より

 

今の私の生きる目的とは「明るく幸せな生活」を目指すものでは無く「人類永遠の平和を目標に、祖国の再建に資する」ことでも無い訳です。

私がやってるのは人類が抱く誤った価値観への批判其のものだ。


其れも徹底的に其れをやります訳ですので途中でみんなは次第について来られなくもなりませう。

ですがまあギリギリのところ位まではひとつやったらうかとさうも思って居ります。

其の理性的闘争とは並大抵のものでは無くまさに激しい周囲との軋轢、摩擦を生じさせて仕舞うものです。


逆に申せば周囲と仲良くやる考えにはどんな愛も込められて居ないものなのです。

愛と云うのは實はさうした鞭打ちのことで、であるからイエス様は「汝の敵をむしろ愛せ」と逆向きの価値に就いてかって述べて居られやう。



其の「明るく幸せな生活」をやる為には私の場合にはむしろ徹底的な社會批判がどうしても必要なのだ。

また「人類永遠の平和を目標に、祖国の再建に資する」為には悪を糾弾し根絶せしめて行く必要があり其の悪とは必ずしも悪人ばかりでもありません。


さうして私は今人間の所謂善なる欲望の中に大いなる悪を見詰めても居ます。

其の種の精神的闘争はタイプで言えば宗教的闘争と云うよりはまさに文人的闘争でせう。



結局私はソチラの方の人間ですので教祖様だの教義だのに従えば幸せになれるなどとはまるで思っては居ません。

私が嫌うのはむしろ其の種の自己放棄した上での精神的な「御勤め」が醸し出す面妖さです。


ですが、他方で私は其れに救われたいと願う方々の苦しみと申しますか心の痛みにはほぼ同調しても居ります。

またさうした団体に属した上での活動で自らの心が癒されるのであればまた其れもひとつの意義あることなのではなからうか。


何故なら至極現實的に世は悪いからなのです。

世は悪く全く不安もエエ処なのだ。



  • 今日一日 三つの恩を忘れず 喜んで進んではたらきます
  • 今日一日 人の悪をいわず 己の善を語りません
  • 今日一日 気付いたことは 身がるに直ぐ行います
  • 今日一日 腹を立てず 不足の思いをいたしません
  • 今日一日 三つの無駄を排し 新しく大地に生き貫きます

 

 

実践倫理宏正会より

 

1.すみませんが私は喜んでも進んでも決して働きません。

むしろ搾取文明をどうやりこめたらうかと其ればかりを最近は考えて来て居ります。

ですが素直に喜んでしかも進んで働くこともまた大事なことかとは思います。

じぶんには決して出来ぬことですがさうしたことが出来たら其の人は偉いなあとは思いますのです。

 

2.すみませんが私は人の悪ばかりを述べ立て己の善をひけらかしたりも實はして居ります。

だから私は悪い奴でありひょっとしたら悪の権化なのやもしれません。

 

でも文人ってもしやさういう奴が多いのではないでせうか。

 

3.すみませんが兎に角身が重く何でもやるのに時間がかかります。

かうして何でも考え込む癖があるので考え込んで居る間に🚙に轢かれたり暴漢に襲われたりもするのではないか、實は其処が自分でも少しく心配な程だ。

 

4.また申し訳御座らぬのだが常に腹を立てて居り其れもかの信長公並にいつも機嫌が悪いのです。

但し最近は不足を感じることは無く要するに観念の方がかうしていつも目一杯ですのでむしろ其れだけで満足し且つ其処に生き甲斐さえをも感じて居る訳だ。

 

5.其の無駄を排すると云うのはまさに素晴らしい観点です。

現代文明が近く滅亡するのであれば其の主因となることがおそらくは其の「無駄」の集積でせう。

 

 

要するに要らぬ価値ー末梢的価値ーばかりを増幅させ本質的な価値を軽視するに至るから此の文明は滅びへと至るのです。

宗教やまた其れに準ずる活動が重視するのは本来ならば其の本質的な価値の方でせう。

 

本質的な価値を見詰めることは間違いでは無く正しいことですがまさにオウムのやうにやり過ぎると其れもテロと化して仕舞う訳だ。

また三島先生の場合もああしてやり過ぎちゃってるのでまんまテロだとさう思われて仕舞ったのです。

 

なので是非やり過ぎず宗教やまた其れに準ずる活動の良いところを見詰めて行くことこそが大事だ。

尚私は早寝早起きは良いとさう昔から思って居ます。

 

ですが昔私は神経症となり昼夜が逆転し酷いことにもなって居りましたが其れでもかうして生きて来られたのですから絶対に早寝早起きが良い訳でもないことでせう。

ー第一かの五木 寛之先生などはもうどう見ても遅寝遅起きですー

 

 

實践倫理宏正會は眞面目系の団体であるやうで其処は元々眞面目な私も好感が持てる。

逆に申しますと酒飲みでもって且つ👩遊びの好きな人々にはまず理解されぬ精神的次元を生きる団体でせう。

 

ですが何度も述べて居りますやうに其の眞面目をむしろ反省しつつやって行くことこそが實は最も大事なのではないだらうか。

また共産主義などもまた右の思想とはまた違った面でむしろ潔癖なのですが、其処もむしろ其の潔癖さに対し疑いの眼差しを向ける位の方が良い訳だ。

 

でもそんなんですと何処の組織にも与せずでまたどんな信念も生じない訳ですが詩人さんの場合だけは其れでもって行くとさう仰るのですか?

だから僕が信じて居るのはあくまで理性なのであり宗教でもまたどんな組織的活動でも無いのである。

 

でもそんなんですともしや地獄に堕ちて行くのではないか、アナタの其の精神のあり方其のものが!

ですからあくまで其れが自灯明であり法灯明なのです。

 

なのでボクは地獄などには決して堕ちぬ。

逆に地獄に堕ちて居るのは現代文明だ、此のクソ野郎共めが!

 

 

実践倫理宏正会の教理は朝起を重視し禁欲的修養をうたう点でひとのみち教団倫理研究所と類似点が多いと沼田健哉が1978年に指摘した[7]実践倫理宏正会は「大自然の法則にそって確立した生活のすじ道を会員に教え実践する」ことを目的としており、祖先から受け継いだ「伝承の重み」を重視する[17]

家族関係については、「目上、目下のけじめ」をつけること、主婦は、主人に反抗してはならず、夫が無理な要求をしたときもまず妻が反省すべきであること、親は子を自然のままにおき「捨て育て」をすべきことなどが教えられる[17]。ー

 

 

其のケジメをつけると云うこと其れ自体が戦後民主主義が進むと同時にまるで機能しなくもなって居る。

要するに価値観の上での合理化の流れが伝統的な東洋の価値観を駆逐し人間の分限を排除し平板に平等化して行って居る。

 

其の平等化は一見良いことのやうに見えて事のケジメを失わせて居る元凶でもある。

 

ところが労働環境などは酷く悪化し且つ格差社會となりしかも特権層が威張って居ます。

なので本来ならば其処のところこそが平等にならねばならぬと云うのに変なところを平等にし其れでもって職業婦人が威張ったりまた障碍者が神様となりおまけに教師が大抵は下の事件を起こして捕まったりもする。

 

要するに社會のあり方がそも相当にオカシイです。

 

 

ですので、

 

👩は👨に反抗などしてはならず、

 

また罪深い其の女体としての罪を自覚し、

 

子は親を敬わねばならぬ。

 

 

なんですが、其れもそのうちに共産革命がもしも勃発すれば此の際共産党の言うことにみんなは従って下さい。

元より伝統的価値観は大事なものですが、其れが正解であるとは言えぬのが此の世での常の様なのだ。

 

 

其の禁欲的修養と云うことは強欲的放蕩とはまさに逆のことでまさに正解のことなのですが其れ自体が単独で良いとは實は言い切れぬ部分をも抱えて居りませう。

 

禁欲的修養⇔強欲的放蕩

 

宗教⇔世俗

 

眞面目⇔不眞面目

 

とのことですので、

 

正しいのだが正しくはなくなる可能性が常に生じて参りますのがむしろ此の世での価値分別の部分です。

 

 

だから精神的な価値ー観念的に規定される価値ーは必ずや逆方向をも視野に入れたものとして置く必要がある。

其れが出来た状態でこそ眞の意味での理性的選択が其処に為されて居るのだと言えやう。

 

精神的な価値とは所詮は言葉の価値であり言葉の価値の本質とは虚偽性ー虚構性ーにこそある。

要するに實体が伴わぬ価値である他無いのが文としての価値なのだ。

 

 

だから其れはどうとでも言える。

またどんな風にも移り変わって行く。

 

時代や社會が其れをさう規定して行く訳ですのでたとえイヤでも其れに従わねばならぬことになって仕舞い易い。

よって其の抽象的に齎される価値、抽象的な論理にはむしろ惑わされぬやうにして行く方が良い訳だ。

 

場合によってはむしろ社會的な価値を遮断することで其れを求めて行く場合などもまたあらう筈だ。

 

 

尚「倫風」誌では上廣 哲治会長が毎号「倫風宏話」と云うものを誌頭に載せて居られるが今年に入り其処から大きく感銘を受けた部分があった。


其れは盲目的に何かに従わずに自己としての意見、自らの考えを大事にせよ、と云うやうな内容のことで私は其れを読みつつまさに目を疑ったものだった。

第一かうした類の精神修養団体のトップの人がまさかそんなことにまで踏み込み述べられるものだらうか?


但し申し訳無いのだが其の号が今出て来ず其の話の内容の確認が出来ぬ状態にある。

其れは私がダラダラだからいや掃除中でゴチャゴチャだからたまたまそんなんなって仕舞ったのだ。


兎に角私は其の時に初めてもしや此の団体は正しいのかもしれないとさう思わさせられたのであった。

「反自然」としての「意識の反逆」

さて部屋の掃除を進めるにつけつくづく思うのですが、我我は資本主義と云う消費システムの中にドップリと浸け込まれて居てむしろどんだけ要らぬ物に囲まれて生きて居たかと云う其の事實に於いてまずは驚かされる訳だ。


特に我が家は断捨離の頻度がむしろ低い家ですのでもう要らぬゴミだらけになって居り其処はまさかゴミ屋敷と云う程でも無いのだが元来潔癖な筈の我にとっては其れがまさに地獄としての様相を呈しておる訳だ。

で、結局は潔癖な性格の人に其の合理化としての仕事が回って来るやうにさえ出来ておる。


結局宗教のことなどにせよ私がさうした人間だからこそ此処でかうして其れを書く羽目となって居るのです。

 

尚以前病院の同僚と話して居た時にー四國出身の方とーたまたまそんな掃除の話が出て、其の折に「掃除をしない👩が居る」と云う話となり普通は其れがまさかとも思う訳ですが實は家の母がまさにさうなので其処はどうなんだとお尋ねしましたところ、其の方は「むしろダラダラなのは👩に多い」とさう申されても居りました。


其の方の話は實に面白く色んな話を聞いたものでしたが、中でも一番面白かったのがアノプロゴルファーの尾崎 建夫と同じ高校の出だったとかで、当時四國の練習場で球を打つのを見たが其れが凄過ぎてついには打球が見えなくなったとかそんなことを話されて居りましたものです。


尚我の場合は實は性格的に二元分裂して居りましてつまりはダラダラなのと超潔癖なのが相剋し且つ相即すると云う實にややこしい精神の構造を持ちどちらか一方には決めかねぬところなのですが基本的には矢張り女中上がりだった父方の祖母の血を引いて居りむしろビシバシに潔癖なのです。


潔癖な人は世の不正やら矛盾やらにも概ね潔癖に反応し要するに其れが許せなくなるものなので私はむしろ其処から自分自身を救う為に無視を決め込むことと致しました。

だからTVなどでもワイドショーやニュースの類などはもはやほとんど視て居りません。


今屡視て居るものと言えばEテレのみです。

特に高校講座などは最も樂しく視て居られるもので、其れから矢張りと言うべきか「心の時代」だの「百分de名著」等は視て居て至極面白いのです。


ちなみに私はお笑い番組とか視て居ても何が面白いのやらまるで分からぬので所謂吉本流では無いのですが面白いと言えば實は私の話程面白いものは此の世には無い。ー其れも吉本流では無いボケの持ち主でもってしてー

 

其処で高校講座の「生物」を視て居りましたところ丁度植物の窒素固定のところをやって居り改めて植物型生命の凄さに就き思いを馳せたりも致しました。

さらにEテレではガーデニングの番組等もやって居りさうした番組を視て居る方が殺伐とした内容のニュース番組等よりも余程に心が休まるが故にいつの間にか其れのファンとなって仕舞いました。


また「日曜美術館」だの「CLASSIC TV」だの良い番組が目白押しで嗚呼まさにEテレは僕の為にこそあるのだね。

たとえ老いても御勉強が大好きなボクと云うインテリジェンスの為にこそあるのだね。


などとも思い兎に角喜んで毎回其れ等を視て居ります。


アレッ?此の廿年余りTVはほとんど視なかった筈なのに其れを視るやうになったの?

其れも此処弐、参年は。

 

TVはな、還暦を過ぎてから視ると丁度程良いものなのだ。

だってネットはネットでまさに情報過多で結構鬱陶しいものではないか。


ネットは善も悪も正も誤も追求し放題で實際何処までをも行けてしまうものだらう。

だから次第に其れが鬱陶しくもなるのだ。


さうしてEテレと新書があればもう何も要らねえんだよ。

でもかうしてネットもやってるじゃないか。


まあね、主に大學の論文の検索とアマゾンとヤフオクだけなのだが。

ネットをやり過ぎるとむしろバカになるから要らねえと言えば要らねえのだがかうして現代社會がじぶんをおバカ化して居る分其処はどうしやうも無いのさ。

 

さて掃除の話に戻りますと其の掃除と云う無秩序な状態から秩序ある状態つまり汚い状態から綺麗な状態へと変えて行くことこそが合理化と云うことです。


だから理性の無い動物等に掃除は出来ぬかと云えばむしろさうでも無いやうです。

例えば鳥は巣を作りしかも其れを綺麗に保つことだらう。

また概ね🐈は潔癖でウンコをした後で其れに砂や土をかけ隠そうとさえします。


と云うことは其れは理性が無いのでは無く謂わば其の理性の顕在度が低い状態にあるのです。

また植物などは其の理性が冥落して居り最も顕在度が低い状態に保たれて居る。


ですが共に所謂エントロピーの上ではむしろ秩序化された状態にこそある。


他方で石だの土だの所謂無機物には意識は無く無秩序的に其処に放置されて居ます。

但し石や土其れ自体の形成に関してはむしろ思い切り秩序化されても居ることだらう。


即ち、


エントロピー小⇔エントロピー


且つ、


エントロピー小→エントロピー


のやうな関係がどうも同時に其処には成り立って居るのではないか。


生命とは結局は其の無秩序に抗する秩序化の流れでせう。


だから元々生命とは合理化されたものなのだと思う。

但し其れが数的還元され得るものであるとは思えない。


其のやうに機械論的に規定出来ぬダイナミズムのやうなものを其れは宿して居るからだ。

 

ちなみに私は高校の頃必修活動として「生物クラブ」を選んで居りました。

其処でもって「生物の再生」と云うテーマを掲げ他の美術部の二人と共にプラナリアの再生能力に就いて調べたりもして居た。


ですが美術部の感性野郎二人と文學馬鹿野郎の私だけのクラブ活動ですので兎に角数式だの化学式だのがまるで分からぬ訳だ。

美術部の数学が出来ないのもまた酷いもので結局彼等は数学のテストでは廿点くらいでしたが私の場合はもっと凄く七、八点が最高点なのです。


また私は中学時代に必修活動として「地学クラブ」に入り主に地層だの石などを研究して居りました。

要するに私は理系其れも地球だの生命だのが嫌いでは無い。


ですが正直文學の方がずっと上だと思って居りますのですし、またこんな際限無き科学技術の発展よりは宗教的自我を確立させることの方がずっと大事だとも思って居りますのです。

 

問題は其の秩序化の流れー生命としての進化の流れーがより意識化される方向で流れて来て居ると云う事實でせう。

つまりはより顕在化される形で意識的な流れ即ち抽象化の傾向が増して来て居る。


其れは、勿論、


植物→動物と云う進化の流れに於いてもさうなのですし、


また、


旧石器時代新石器時代→農耕牧畜文明→産業革命→情報化社會


との流れに於いてもまさにさうなのです。


即ち、


「生命現象とは意識を顕在化させて行く進化の流れの内にこそある」


とも言い得るのではなからうか。


いやあまた凄いことを発見しちゃったな。

其の意識を顕在化させて行く流れとは明らかに合理化過程にあることだらう。


すると、其れは、


エントロピー大→エントロピー


と云うまさに自然の秩序状態とは逆向きの流れを有するものなのだ。


であれば、生命とは「反自然」としての謂わば「意識の反逆」とも言い得ることなのだ。

 

其処を分かり易く言い換えれば、植物、まさに此の生命の状態であればまさか「反自然」でも無く且つ「意識の反逆」でも有り得ぬ訳だ。

ところが動物となりウンコをたれるやうになり、のみならず♀にも飛び付くわ、しかも孫は可愛がるわでもうまんま自己利益の権化つまりは利己主義の典型と化しやがては肥溜めをもつくるやうにさえなった。


そも其れは何でか?

だから其れが「反自然」としての「意識の反逆」を行わんが為にです。


實際に今文明では「消臭、消臭!」と其ればかりをTVのコマーシャルでやって居りませう。

全くバカかと思いますのですが逆に申せば其れを支持するバカ大衆が居るからこそあくまで社會的にはさう規定されて行かざるを得ぬ訳だ。


さてお気づきでせうか?

私がウンコたれただの、また肥溜めが懐かしいだのとそんな下ネタばかりを好んで連発して居るのはそんな社會的に規定される価値への強烈な反発なのだ。


あえて其れを難しく申せば「反自然」としての「意識の反逆」への痛烈なる批判其のもののことです。


さて其の意識の流れとは時間の経過を認識する能力のことだらう。

要するにあくまで抽象的に規定される能力だと云うことだ。


其の能力こそがまさに、


エントロピー大→エントロピー


と云う願望ー欲望ーをこそ生み出すのです。

 


ですが本来ならば自然は、


秩序化→無秩序化


と云う流れの内に運行されて居る筈。


其処を、

無秩序化→秩序化


と云う流れに変えて仕舞うことこそが生命の目的であるのだとすればもうコレはエライことともなりませう。


何故なら、


無秩序化→秩序化⇔秩序化→無秩序化


とのことで、要するに生命は次第に反自然的な存在となって行かざるを得なくなる訳だ。


さうか、ヤッパリね。

ヤッパリ生命は其の根の部分が「悪」だったのだな。


「悪」だったのだが、例えば植物の場合には意識が眠って居る訳ですので其の「反自然」としての「意識の反逆」が目立つと云う訳では元より無い。

またおバカな動物達もまた其の点では救われて居り要するに其の理性の力が顕在化して居ないが故に「悪」をやる力には元々欠けて居たのである。


其処を逆に申せば人間存在、まさに其の段階に於いて初めて生命は理性の灯を点すことに成功した訳だ。


だから其れは偉いと言えば偉い。

なのですが、悪いと言えば明らかに悪い。


つまりは理性を最大限に発揮させることで一歩間違えば悪其のものとなり得るリスクを同時に抱え込んだのだ。

 

さてもまた懲りずに人間を地獄へと突き落したな!

うわおー、ぎゃあおー、苦しい、とっても苦しいぞ、是非もう止めて下され!


ダメだ、むしろもっともっと突き落としたる。

何故ならアノ善なるハンサングンを殺した大悪人チェサングンなどは崖から落ちてたった今死ぬるべきだからなのだ!

 

じゃあ其の理性こそがそも悪だとさう仰るので?

まあ本質的には多分さうなのだらう。


然し其の「反自然」としての「意識の反逆」を抑制することが可能であるのもまた理性としての力なのだらう。

とどのつまりは其の理性の力を止めるのは理性の力によるものでしか無い訳だ。


なのでむしろウンコは垂れ流しても良いのだ。

またむしろどんな汚部屋でも良いのだ。


またどんなにパンツや靴下が臭からうがまさに其れが自然であることの証拠なのだ。

 

まさかそんなもん我慢がならんわ!

だから其の「我慢がならん」部分こそが文明による病気の部分だ。


ほれ、コレが其のパンツだ、ガマンせい。


うわあー、こんなもんガマンする位ならもう死んだ方がマシだよ。

 

偉い!

良くぞ申した。


君は實際物凄く潔癖な人だね。

だが潔癖なのは其の掃除だけにして置く方が良いことだらう。


何故なら我我生命の本質とは所詮は「悪」なのだからな、わあ―はっはっはっは―のはー。


要するに其の秩序化=合理化の流れにこそ落とし穴が開いて居る訳だ。

其れもまさにひとつきりの深くて暗い穴が。

 

其の無秩序であること、意識的では決して無いことにも大きな意味がある。

だから我我は其れを決して劣って居るとか、また自らよりも下だとか思い蔑んだりしてはならない。


逆に申せば其の「悪」の現象としての我我に理解されることとは一体何が「善」であり得るかと云うことのみだ。

但し其れは己の悪を自覚した時のみに限られやう。


それにつけても人間は偉いぞ、かうして何でも出来たぞ。

頭も良いぞ、其れに恰好良いぞ、兎に角イケてるぞ。

 

コノタワケ者めが!


おまえらヤッパリ一度位肥溜めにでも落ちてみよ。

では此の際ひとつだけ述べて置かう。


馬鹿はな、其の理性としての悪ー理性としての暗黒面ーの性質に決まって酔い痴れるものだ。

対して利口はな、自らの悪を自覚しむしろ自制して行くものだ。


要するに其れこそが眞の意味での理性の働きなのだ。

では文明には理性が何処にも無いとさう仰いますのですか?

 

…さうだ、何処にも無い。


むしろ其れはな、釈迦とキリストとカントと僕の頭の中にだけあるのみだ。


生命とは其の無秩序化への反逆過程其のもののこと。

故に生命体は代謝により生を其の都度再構築して居る。


其れはまさに破壊と創造を繰り返す神の御業の内にあることなのだ。

だが其れでは本質的な救済は無いが故に逆に釈尊は生命活動の停止を人間の究極としての目標となされたのだ。


まさに、


生命活動の停止=悪の終焉


なのであらう。

 

だがキリスト教の考え方はまた其れとは違う。


然しキリスト教は例えば現世其れ自体を👿の誘惑だと捉えても居る。

で、生命活動が停止してから審判を受け神の國へと生まれ直すのが善人としての宿命である。


カントの考え方はまた其れとも違い、理性の及ぶ範囲には限界があるとして其れを説いた。

つまりは理性の暗黒面をまさに彼は知って居たのである。


いずれの思想でも理性を其の侭に良いものであるとは誰も捉えては居ない。

 

其の点でこそ其れ等の考え方こそは正しい。

よって理性を神の如くに信奉するなど其れはまさに愚の骨頂だ。


人間よ文明よ、其の馬鹿にだけはならぬやうに是非して頂きたいものだ。

何故なら其の馬鹿を続けるだけで悪が履行され世界は滅びの淵へと追い込まれることは必定なのだからこそ。

一体全体何で植物から動物へと進化する必要があったのか

さて、一体此の世の中の何が悪いのだらうと云うことをかねてより私は考えて来て居ます。

 

尤も其処での考え方には弐種がある訳だ。

 

社會⇔個

の両方が悪いとする考え方がおそらくは最善であり、其の逆にどちらも良いと捉える考え方こそがむしろ最悪でせう。

ところが實際には其の弐項対立価値に於いて相剋し且つ相即する関係が存するが故にまさに相対的に価値規定されるより他は無く分離した要素同士が切り離せなくなって居る。

 

たとえば、

理性⇔獣性と云う対立軸で言えば其れは決して純粋には切り離せない訳である。

 

なので科学的思考こそがまさに理性であり其れ即ち正でケモノの思考は理性以前のもので其れ即ち誤であるとは言い切れぬ訳です。

勿論部分的にはグオーギャオーでもってしかもウンコたれなケモノ共はもう其の侭で獣なのですが、其れこそ次元の違う形にて人間共は余計にケモノでありむしろ獣としての度合いは我我人間の方が酷かったと云うところこそが實相なのやもしれません。

 

其のやうにして私の論理では其の人間の認識に於ける根本のところでの錯誤なり過誤なりを放置した侭でイケイケドンドンにしちゃってる訳ですからもはや其れは獣共が見境い無く野山を駆け巡り揚句に深い落とし穴だの穴だの肥溜めに落ちるのと同じで要するに全ては自明のことであり其の災難に対して誰も同情しては呉れないと云うことのみを此の際申し上げて置きませう。

 

だから其のウンコを垂れること自体が問題なのでは無く其のウンコたれ以上に害毒を撒き散らし見境いが無いことを私は馬鹿だとさう申して来て居ります。

 

 

尚社會のあり方其のものが悪いと結局個も其れに引き摺られ心根が悪くもなりませう。

其の悪いと云うのは知識はあるのだが心が汚れて居ると云う意味で悪いのです。

 

ではどうすれば心の穢れを取り除くことが出来るのだらうか?

ひとつには矢張りと云うべきか宗教的自我に生きることでせうが、但し現代は恐ろしい時代で其の宗教でさえもが色々と屈折して仕舞って居ます。

 

最近私が考えて居ることは矢張り自然に親しむことで抽象的価値からあえて離れ自らの心なり感度なりを具象的に解放してあげることです。

其れは宗教が悪いと云うことなのでは無く宗教だけですと社會的に齎される抽象的価値に引き摺られて仕舞う部分がどうしてもあると云うことをこそ申して居る。

 

其れも個人的な序列ですと、其れこそ1.自然2.宗教3.社會と云うやうなもので従って私はもはや社會的な評価だの社會的な価値などにはまるで振り回されて居りません。

正直なところもはやどーにでもなれと突き放した視点にて社會其れ自体を見詰めて居る。

 

 

社會的な価値は範囲が大きくなればなるだけどーにもならんようになって行くものですので其れに対し實存としての価値ー理想ーを投影しない方がより自己實現の機会は増すと云うものです。

要するに眞に知的な方ならば其の社會に合わせて居るやうなフリだけをし本心ではむしろ其れをバカにして居ると云うたとえシニカルではあれ其れが昔からのインテリのひとつの生きる道なのでも御座りませう。

 

さう云うのを「無視」と申しまして、其の無視が昂じるとかの竹林の七賢だの老荘思想だの何だのに近寄って行きまするが其れは利口なアナタが此の世でもって必ずや通らねばならなかった道であり別に其れは其れで良い訳で要するに社會は罵倒して置く位で丁度良い訳です。

 

何故かと申しますと集団でやることは結局ロクなことにはならぬものと昔から相場は決まって居てだからまずは其の集団心理による見境無きシンポの様をこそ止めて置く必要があるのです。

 

でも最近は誰しもがさう思って居るのに文明は何かをやることに対して止められない即ち歯止めが効かぬのです。

其れはいつしか文明其のものが抽象化された価値にのみ邁進するやうになりしかも其の意思決定のプロセスに於いては「止める」と云う選択がそも無いので止めるに止められないのです。

 

さうです、我我はすでに何事も止められ無いのです。

 

其の止められぬ病こそが社會的に文明が今まさに抱えることだらう不治の病のことだ。

 

 

やる⇔やらぬ

 

實は自然界でのことの方がやらぬことの選択は可能であるやうにさえ思う。

対して近代的価値は不可逆、不遡及での進歩概念を打ち立てそも其れが選択不可能な一方通行での価値なのでまさに病的なものなのだ。

 

とは言え、一般に理性的では無い自然界の獣共はむしろやる方にばかり傾き食って寝てウンコをたれ挙句に♀に飛び付きやりたい放題をもして居ます。

但し重要な点は彼等が所謂自然界の摂理、大自然の摂理のやうなものに常に縛られ其れ以上はそもやらうとしても出来ぬ点なのだ。

 

其れは獣共には所詮文明を形つくることなどは出来ぬと云うことだ。

ですが彼等は目一杯にさうして獣性を発揮致しますが其れでもって地球を汚したり破壊したりすることは無い。

 

だが人間の理性のみ、唯一其れのみが其れをやったと云うことなのだ。

其れは何より罪深いことであり且つ煩悩に深く捉えられし様のことです。

 

 

其の理性による自己矛盾の様即ち暴走の様を人文理性の面から捉え直し考えて行く場こそが即ちこちらなのです。

 

 

さて此処でひとつ植物型生命の立場でもって文明世界の価値を捉え直してみませう。

 

やる⇔やらぬ

 

植物もまた生物なので何もやらずに居る訳では無くやるにはやって居ます。

ですが其れをほとんど無意識のうちにさうして居る。

 

故に植物に於いても純粋なー単独としてのーやらぬことは成り立たぬ訳ですが比較して仕舞えば動物などよりは遥かにやっては居りません。

逆に申せばさうした一種の冥落した意識に於いて彼等はさうした一種の理想郷の様を實現して居る訳だ。

 

其れに彼等は獣ー人間をも含めてーのやうに何かを食うことをしません。-一部の植物を除いては-

 

要するに彼等はむしろ初めから「やらぬ」生命達なのだ。

其のやうに自然として規定された分限を生きて居ると云うことだ。

 

だとすればむしろ神や佛に一番近い生命であるのは植物の方なのやもしれません。

 

で、彼等はやって無いにも関わらずかうして繁栄して居ます。

其れも元々酸素は生命にとり猛毒物質だった訳ですがむしろ其れを吐き出すやうになってさえ居る。

 

其処でもってよーく考えて見ればすぐに分かりますが我我にとって不要な二酸化炭素が彼等のエサで逆に我我のエサとなる酸素を彼等は供給して居る訳だ。

 

 

動物⇔植物

 

なる程、かうして生命もまずは大枠にて二元分離して居る訳だ。

 

しかもソコにも相剋し相即する関係が成り立って居るやうに見受けられる。

無関係では無いのだがでも違う。

 

👨⇔👩

コレも無関係では無いのだがでも違う。

 

利口⇔馬鹿

確かに無関係では無いのだがでも違う。

 

問題は二元的価値規定は本質的には価値を一元化出来ぬと云う部分である。

 

論理⇔感情

 

なども勿論さう。

無関係では無いのだが明らかに違う。

 

私の論理とはどちらかを突き詰めたらバランスが崩れるので其の場合には反対方向の価値をトコトン見詰めてみるべきだと云うものである。

其れを本質的に価値統一するのでは無くーそも其れが人間には無理なことなのでー一方をやったら必ずや暴走するーバランスを失い失墜するーので相剋し且つ相即する関係性を取り戻す為にむしろ逆方向を見詰めて行くと云うものである。

 

だから、

動物⇔植物

 

と云う其の生命のタイプに就いても理性が自己矛盾しむしろ獣方向へと突っ走って居る事だらう文明社會に於ける諸価値に対し其の植物の性質のやうなものを与えて行くこと。

社會其れ自体が意思決定のみで進むのでは無く無意識的な自己規制としての植物的要素を是非取り入れて行くべきなのだ。

 

無意識的な自己規制の要素を是非取り入れて行くことに必要なのは毎日會社へ通い儲けたりまた毎日家事労働に勤しみ今日もまた頑張りました。

と云うことよりもむしろ頑張らんで済む価値をシステムとして確立すると云うことだらう。

 

また知らんぷりで居ることの価値を要するに文明を無視して置く価値を。

まさに其れを個の範囲にて意図的に行って行くべきだらう。

 

何を言って居られるのだかまるで分かりませんが…。

分からずとも良い。

 

 

やる⇔やらぬ

 

当たり前のことではあるがやり過ぎると壊れるがやらぬとじぶんが損をするだけで終わりませう。

 

金輪際損などしたくは無い。

だからまさにソコが君が洗脳を受けて居る部分なのだ。

 

生に於ける価値は元々多様なもので一元化などそも出来ぬものだ。

其の一元化は宗教が目指すところでの価値とならうが其れは「分離を前提」としたところでの非現世的な救済であるべき。

 

さうして現世利益を求めることや文明による価値を一元的に奉ずることは正教としての宗教のあり方にはむしろ背くことである。

 

 

いずれにせよ何でもやり過ぎると破壊が生じる。

老子による小さくつましい社會体制を始めまた空想的社會主義であれ何にせよつまりはやり過ぎぬ価値即ち理性的に抑制の効いた社會のあり方をこそ規定するものであった。

 

もしや、もしや我我はすでにやり過ぎちゃったので?

さうだ、君等はすでにもう長くやり過ぎて来ちゃったのだ。

 

じゃあ一体全体どーすれば良いので?

バカ、其れ位はじぶん等でもって考えよ。

 

 

第一植物を見よ、其の植物をこそ。

 

其れも全部が緑色でしかも動かずですので至極退屈なのですが…。

さうだらうな、もはや君の眼には其のやうにしか見えて居ないのだ。

 

其の根性其のものがいや認識其のものが誤謬だ錯誤だ変態だ異常だ。

 

では人類とはもしや何かの間違いなのですか?

勿論此の侭突き進めば其の全てが間違いとなって仕舞う可能性は高くあらう。

 

 

であるからこそ其の植物から學ばせて頂かずしてどうする?

文明での価値は諸価値が二元分離であることを忘れ只一元的に突き進む。

 

まさに其処こそが誤りであり錯誤であり変態であり異常であることの証拠である。

さても植物は其のイノチが瞑想状態の方に振れて居るものなのでは?

 

其の通りで彼等は余分な思考をせずとも良い訳だ。

思考もまた本質的には分離としての一形態なのだ。

 

其の分離により欲望もまた生じる。

だが其れをじぶんでもって救うだけの力ー理性の力ーには常に欠けて居るのが我我だ。

 

我我はそんな馬鹿其のものだから其の侭に突き進めば破壊が複合的に起き即ちカタストロフィに襲われ結局我我はあと五拾年持つか持たぬかだらう。

 

 

植物の進化 - 植物の進化の概要-

 

そもそもの私の疑問とは一体全体何で植物から動物へと進化する必要があったかと云うことなのです。

何故なら独立栄養生物である植物はそも何でワザワザ従属栄養生物 である動物となりウンコ垂れて生きて居らねばならぬのでせうか?

 

さても貴殿は何でソコまでウンコに拘るのですか?

単に面白おかしくして居るだけのことです、其の下品で不快な点もまた含めて…。

 

第一植物はウンコを垂れません。

コレは偉い、兎に角高尚である、まさに哲學者の如き理性的な命だ。

 

もはやコレゾ観念論だ、其の姿や理性の極みであり御上品なこと此の上無い。

 

 

ー相違点の一つは、植物細胞の全能性である。この能力のため、ほとんどの動物では難しい無性生殖が可能になる。また、植物には、倍数性の受容能力がある。倍数性とは、両親からの染色体を、通常は2セットのところをそれ以上持っていることである。倍数性により進化が速やかに進行することを可能にする。また、種子植物は長期間の休眠を行うことが可能であり、絶滅への耐性をもたらす。環境が厳しい期間を耐え抜き、温和な時代まで生命活動の再開を待つのである。ー植物の進化 - 植物の進化の概要-より

 

ゲエッ、こりゃ明らかに植物の方が上だよ、上。

 

だとすれば人類が文明を維持出来ず退化することだらう2100年頃に地球上に大繁栄するのがむしろ植物なのではなからうか。

即ち灼熱の地球上で休眠し温度が下がるのをじっと待つのだ。

 

でも温暖化による気温の上昇はおそらく下がることなど無いよ。

結局は植物もまた其の前に人間も灼かれ死ぬことであらう。

但し絶滅への耐性は明らかに植物の方が上であらう。

 

だから私はもう一刻も早う植物へと生まれ変わりたいのです。

 

しっかしおまえは馬鹿か?

おまえの其の拘り、しかも変な処への拘りは如何にも業が深いが故に植物になど生まれ変われる筈など無い。

 

じゃあ完全なる菜食主義者にでもなりますので是非それでもって宜しくお願い致します。

 

ダメだな、おまえの場合はたとえ死んでもまた地球上に生まれて来るよ。

今度はデカい蜘蛛だのデカい🐍だのまたデカい百足だのもうとんでも無い醜いものに生まれて来ることだらう。

 

さうか其れは樂しみだな。

エッ?怖くはないの?

 

何せ人間以外の者に一度生まれてみたいもので。

さうか余程人間が嫌いなのだな。

 

さうだ余程人間嫌いなのだよ…。

 

 

兎に角其の点に関してはNHKの「生命大躍進」をまた通して視てみるべきなのだらうが昔の番組で「生命ー40億年はるかな旅ー」の方はテキストもあるので是非視たかったのだが何故か其れがオンデマンドには出て来ない。

よって其のテキストを調べれば其の理由を明らかにすることが可能となるのやもしれぬ。

 

いずれにせよ其の物質的肉体の進化と心の上での進化はまた別物であらう。

科学技術の進歩と心の上での進化もまた別物であらう。

 

だがそもさうして意識がうち沈んだ状態で完璧な物質循環の枠内にある生命程ある意味では高度に理性的でありまさに美しさを体現した生のあり方其のものなのではなからうか。

 

 

もしや植物と結婚したいの?

 

植物其れ自体と出来れば結婚したい。

アレだけど植物には♂や♀があったのだっけ?

 

雄蕊と雌蕊を持ってるのだから其れも両方行けるのだよ、要するに。

 

凄い!

まさに理想的な生物だらう。

 

其れにミント類を手で揉んで其の香りを嗅ぐと嗚呼なんて良い香りなのだ。

其処からしても獣臭い動物とはもうまるで違い如何にも高踏的な生命としての品格が備わって御座る。

 

ところでおまえには植物への愛があらう?

へい、我は昔から植物が大好き人間ですが。

 

たとえば今ボクの目の前には朴歯餅を食った後の葉が束ねられた形にて飾ってある。

僕はさうしてドライな葉等を飾りとして部屋のところどころにピン留めしたりして居るのだ。

 

 

其のすぐ横の台の上には労苦の末に集めた棚山と赤瀬のオパールの標本瓶が沢山並んで居たりもする。

さうかおまえには其の石への異常な愛ー執心ーがあった訳だった。

 

ところでそもそんなもので何で満足出来るの?

姉ちゃんの裸の方はもう見たくも無いの?

 

いやもし結婚すれば其れも見てしかも触ることだらうが今の処其れは無いのでシスタードールや尼僧フィギュアで百パーセント満足して居る。

あれまだ持って無かったのでは、其の種の変態チックな趣味のお人形は。

 

さう持って無い。

だって其の持って無いシスタードールや尼僧フィギュアの衣の下を想像することこそが最高にいやらしいことなのだから。

 

 

兎に角其の私の切なる思いでの疑問、何故完璧とも言える植物生命体が動物生命体へと進化せざるを得なかったと云う部分につき是非本を読み調べてみたい。

 

丁度今拡大鏡が壊れ眼鏡にテープで張り付けたりして苦労しつつ読書をして居る。

なのでアマゾンのセールにて今日其れも買って置いた。

 

かうして目が弱くなっても本が読めると云う確かに一面では至極便利なご時世となったものだ。

🐻の死と模擬空中戦

 

さて此のロクでも無い世界でロクでも無い苦しみにまみれて居るともう死にそうになりますので是非樂しい話題でもってひとつ遊んでみませう。

 

但し宗教上其の遊ぶと云うことの対象は🚺や酒等の生臭モノはなるべく避けた方が宜しく無論のこと本来ならば全く遊んでなど居てはなりません。

第一人類が仕出かした文明と云う気が狂ってる価値により今大自然が様々に不利益を被り特に🐻などがもうトンデモ無いことになりつつある。

 

さうして🐻が街中を移動して居りますと前に🐵のデカい奴が歩いて居て当然の如くに其れを襲い食おうとしたのでしたがソイツは人間でしかも爺でしたので喰わずに置きました。

でもさうして何人も襲って居りましたので人間共が大騒ぎをして結局は猟友会なるものが乗り出して来其の🐻は射殺されて仕舞ったのです。

 

人間共の論理によれば其れは「駆除」と云う価値なのださうですが逆に捉えればむしろ今駆除されるべきなのはおまえら人間達なのではないかいな。

まあ其処まで言って仕舞いますと其れはオウムだのイスラム過激派だのと同じ論理となりますので其れだけは止めて下され。

 

 

ではどのやうにして人間が殺戮されることが正当化され得るのでせうか?

勿論其れが戦争や紛争によるものであることは間違い無いことだらう。

 

戦争や紛争は「生臭い」欲望を突き詰めて行けば自然と其処へと辿り着くやうに出来て御座るまさに獣としての価値のことです。

つまるところは、

獣=理性無き動物としての価値

なのです。

 

では何故人間には理性が無いのでせうか?

 

いや人間にはしかと理性があります。

第一僕等は歩いて居る爺を後ろから襲ったりはしません。

 

でも🐻は何故襲うのでせうか?

そりゃ喰うためにです。

 

其れでは腹が減るのですか?

🐻でも人間でもすぐに腹が減ります。

 

 

また♀にも飛び付きたくなりませう。

しかも大酒を飲んで理性が麻痺すると余計に下の方の欲望がムラムラと涌いて来るものです。

 

さても食うことは悪いことですか?

本質的には良いことであるとは言い難いことだらう。

其れは喰わぬ植物の方がより生命としては完成されて居ると云うことでもあるのだらう。

 

 

ですがイザ腹が減ればまた♀が誘惑して来ればもう其れは我慢がならぬので誰しも飛び付きます。

其処をギリギリで止めて最小限に欲望を保つことこそが宗教を志す者としての心の要諦でせう。

 

宗教とはさうして此の世でもって善悪としての心理的闘争を繰り広げて居ること其のものなのだ。

ですが常に宗教をして居ると例えば宗教にも洗脳されて仕舞う。

 

宗教は組織でもまたあるので其の本質は社會的なものでもまたある。

其の社會性に嵌らぬやうに精神的自我を生きるのは元より並大抵のことでは無いことだらう。

 

何故社會性をさうして毛嫌いするのですか?

社會性は結局しがらみとしての檻を形成し其処に個としての良心を閉じ込めて仕舞う。

 

また其れでは心としての解放がありませんので其の全体主義から逃れる為に時には羽目を外すことなどが大事になるのです。

ですが生臭い価値に捉われると結局心が汚れて行って仕舞う。

 

 

ではさうした生臭い価値を離れ例えば新書等を沢山読み御勉強を重ねて行くべきなのですか?

行くべきなのですが私は其ればかりやってると頭がおかしくなりますので適当に気を抜き遊んでも居ます。

 

もしやピンサロにでも行って来たのか?

もしや生ビールでも飲んで居ないか?

 

いえ實は両方共興味がまるで御座りません。

私にとり今でも興味があることこそが筆記具の蒐集及び制作と石の蒐集との世界です。

 

ですが元来私は多趣味で例えばゴルフなどにも熱心に取り組んで居りました。

只足腰が弱って来たのと練習費用が高くつくのですでに止めて仕舞いました。

 

其処では道具などにも凝りに凝り最終的にはプロ支給品にまで手を出し要するに私のゴルフセットはほぼプロ仕様のモノだった訳です。

しかも長尺ドライヴァーを自分でもって組み上げ其れでもって練習場のネット越えなどにも挑戦して居りました。

 

私の趣味の追求はある意味ではそんな徹底的なものです。

 

 

さらに私は✈が好きなのです。

其の✈に乗るのでは無く単なるホビーとして戦闘機を集めるのが其れこそ若い頃からの趣味のひとつでした。

 

エッ?戦闘機マニアなの?

とても宗教を論じる人には思えませんが。

 

尚私は所謂平和な旅客機には興味は無く過激な戦闘マシーンとしての戦闘機に昔から惹かれて来たのです。

尤もそんな武器への耽溺は非理性的な世界のものであることなど分かり切っても居た。

 

私は一面では至極理性的な人間なので最終的には其れこそお釈迦様のやうに理性的に物事を見詰められもするのだが實はソコに獣が一匹居て其れがやりたい放題やるのでふと気付くといつの間にかお釈迦様とは正反対の方向のことを熱心に研究したりもして居るのである。

 

そも戦闘機とは國防の理由で其れを研究するのですか?

いやさうしたイデオロギーとは何の関係も無く要するに戦闘機のメカ的な美しさに惹きつけられて居るだけなのだ。

 

 

戦闘機はでも人殺しの道具でせう?

其の通りです。

 

でも例えば女体は美しいがまさに其れが煩悩の根本原因みたいなところがある。

其の女体の代わりに其の戦闘機の物的な美しさに惹かれて居るだけなのだからして。

 

だから其の罪深さとは関係無く単にモノとして其れが好きなんです。

でもまだしも女体フィギュアとかソチラの方が平和なのでは?

 

うーん、其れが私はお人形にはまるで惹かれぬのです。

惹かれるとすればシスター人形とかさうしたものならば壱体欲しいかなあとは思いますのですけれども。

 

 

なる程、ほんたうの意味でのヲタクでは無いがヲタクはヲタクだとさう云うことなのですね。

また鉄道や🚢などにもまるで惹かれません。

 

戦闘機及び戦車、此れ等に兎に角惹かれて仕舞うのです。

 

もしやソフビ怪獣なども好きでは?

まあ拾体位はあります。

 

もしや怪獣同士で闘わせて遊んだりもするのですか?

 

まあ其処までやると如何にもバカバカしい訳なので…。

只我我が幼稚園児~小学生の頃に怪獣映画が大ブームで兎に角其ればかりだったので其処から大きく影響を受けた訳です。

 

もしや拳銃なども好きか?

其のモデルガンだとかが。

 

まあ好きですね。

其れも拳銃のデザインが好きなだけなのですけれども…。

 

 

拳銃以上に好きなのは刃物、即ちナイフであり日本刀です。

 

でもキチ外に刃物は如何にも危なからう。

 

ですから日本刀は持って居ません。

第一其れを振り回すともうエライことになるではないか。

 

 

矢張りと云うべきか其の戦闘機も手で持って飛ばしたりなどして居るのだらう?

もしや戦闘とかして居るのではないか?

 

確かに以前はして居りました。

元より人が死ぬのはイヤですが戦闘機が飛ぶのを見ることは好きで機銃掃射したりミサイルを発射したりすることも嫌いでは無い。

 

でも其れは宗教的な価値を志す者としてまさに言語道断だらう?

いや生きると云うこと自体が煩悩まみれ罪まみれのことでありまさに言語道断なのだ。

 

勿論本質的には戦闘機など不要なのだ。

其ればかりか本質的には現世的な価値構築其れ自体が全て不要物だ。

 

だから女体も酒も煙草も軍隊もまた政治も宗教も全部が不要物だ。

だが概念的にさう規定される本質的価値と現實的に現象する末梢的価値とはまた別のものなのだ。

 

本質的価値は無いからこそ有り末梢的価値は有るからこそ無い。

只其の感性としての認識の上では其れは有るのである。

 

尤も有ると認識するからこそ無いのであるが…。

 

 

すると戦闘機も女体もまた酒も煙草も本質的には無いの?

さう無いのだ。

 

無いのを有るかの如くに認識する我我の認識の形式だけが其処には在る。

 

 

 

Su-57 ロシア空軍 #053 ※新金型 1/72 [HA6801] | TopGun | 飛行機・航空機・戦闘機模型専門ショップ (top-gun.jp)

 

さて此の度またこんなものを買って仕舞った。

が、實は半年も前に予約注文して置いたものである。ーその分割引価格となるが故にー

 

Su-57 (航空機)

 

米軍の最新鋭戦闘機に何とか性能的に縋り付けるのは此のSu-57を置いて他には無いことだらう。

 

 

ロシア最新ステルス戦闘機Su-57!最強F-22に匹敵するその性能を徹底解剖! - 雑学ミステリー (zatsugaku-mystery.com)

 

兎に角世界最強の戦闘機F-22に匹敵する性能の戦闘機が何と其の半分以下の御値段なので自衛隊などもむしろコッチを買って置いた方が良い位である。

露西亜の戦闘機も決して弱くは無い訳なのでF-35を買わされる位ならばむしろ革命経験國の戦闘機を購い日本の戦闘機其れ自体を革命などしてみては如何か。

 

尚戦闘機程バカバカしいものもまた無い訳であり丁度其れは宇宙🚀だの宇宙基地だのが本質的には極めてバカバカしいものであることとまるで同じことなのだ。

だが私は其の馬鹿馬鹿しさを百も承知であえて此のバカバカしい戦闘マシーンにホレ込んで居ると云うもうお話にも何もならぬ低級さ即ち単なる遊びの世界のこととしてもう長く其れと付き合って来た。

 

以前は航空自衛隊による基地祭などにも屡出向き其の航空戦力を分析し如何にして日本の制空権を確立すべきかと云うことなども屡考えて来た。

でも所詮はモノの實力がまさに物を言う世界なのである。

 

 

其の面で言えば独逸と日本が経済成長などを放棄し戦闘機開発一本に絞り其れを開発すればもう世界一の戦闘機が必ずや洋の東西に生まれ米國及び露國の戦闘機などものの数では無くなると言うのに。

第一🚙は独逸製と日本製以外に良いモノなど無いではないか!

 

確かに英国製のスポーツカーなどは今でも凄いのだがー其れもロータスだのマクラーレンだのがーそんなもんアノ舘のやうにいつも乗って居られる訳では無く所詮庶民はTOYOTANISSANの中古か又はベンツかBMWの中古、此れしかもう乗れぬ訳ではないか。

だから戦闘機もまた本腰を入れて造ればゼロファイターだのメッサーシュミットだのまた幾らでも生み出すことが出来やうぞ。

 

要するに其の「力の論理」、「技術力の論理」にて世界を征服したいのか?

 

だがそもそんなバカバカしい話は無い。

ほんたうの理性はな、戦闘機を開発する為に使うのでは無く🐻共を射殺せずに済むにはどうしたら良いかと云うことにのみ使うべきなのだ。

 

其処まで分かって居ながら何故戦闘機のダイキャストモデルにソコまで執心して居るのだ?

 

では何故君等は其処まで女体に執心して居なさるのだ?

女体も戦闘機も所詮は同じ穴の狢だよ。

 

 

つまりは共に矛盾的産物だと云うことだ。

私の論理は生モノを避け無機物に執心して居る方がまだしも道徳的に安全且つ安心だと云うことである。

 

宇宙🚀だの宇宙基地だのが本質的には極めてバカバカしいものであることと同じくして文明の利器は概ねバカバカしいもの其のものである。

だが其の馬鹿莫迦しさをバカだと断じて仕舞えば近代的価値は全否定されて行かざるを得なくなる。

 

もしや技術も本質的には役立たずのものであると?

さうだね、モノは結局最小限に抑えて置かぬと余剰なものー余分なものーとなって行かざるを得ない。

 

だから技術の問題では無く本質的には其れは心のあり方の問題とならざるを得ぬ。

 

即ち技術力による競争のことなどよりも其の🐻ー自然ーと人間のバランスを欠いた関係性の修復の方がより大事な問題とならざるを得ぬ。

だから元より戦闘機なんぞ要らないのだ。

 

 

逆に言うと戦闘機などをまた核ミサイルなどを造って居る程に心理的に幼稚なので文明乃至は体制が今後危機に瀕して行かねばならぬ訳だ。

 

でも戦闘機が好きで其れでもって遊ぶの?

さう其れでもって戦闘させて遊ぶの。

 

丁度ウマいことにF-22のダイキャストモデルが倉庫の中から出て来た。

いや其ればかりかF-15のダイキャストモデルも押し入れの中から出て来た。

 

私は同じ物を弐つ買う癖があり以前に其れ等を買って置いた訳だ。

 

では部屋に飾ってあったF-22F-15のダイキャストモデルは一體どうなったので?

 

いや其れが🐈の暴れやら掃除やらで大抵の場合其れが棚から落ちるのだ。

落ちて床に叩きつけられると尾翼はもげるわ、細かい部品は皆折れるわでもはや再起不能と化す訳だ。

 

でも良かったなあ、かうしてまた同じものがまた出て来たぞ。

 

 

其れでもってまた空対空戦の再現ですか?

いやだから其れは単なる遊びとしての空想的な戦闘の世界のことだ。

 

より正確には戦闘では無く工業的造形美としてのモノの形態の評価であり比較である。

 

 

さてもSu-57とF-22とではどちらがよりイケて居ますか?

其れが實は良い勝負なのだ。

 

どちらも可成に恰好良い。

Su-57の方は露西亜臭さもあるが設計年度がより新しいのでF-22と勝負出来る程に恰好良い。

 

尚今アマゾンでもってSu-57を探して見たら何と同じメーカーのものが二千円も安く売られて居た。

さうか、私はプライム会員だからそも安く買えたのだった、仕舞った!

 

またさらに他メーカー製でより安いモデルまでもがあった、仕舞った!

 

私も航空模型ファンとしてはすでに現役を退いて居り其処は謂わば退役軍人なので仕方が無いと云ったところなのだらう。

 

むしろ私が現役なのは戦闘機マニアでもゴルフファンなのでも無く筆記具愛好家としての部分なのだがまさに其れが長年に亘る趣味性の追求の部分からまるで一般性の無い改造マニアとなって仕舞って居り従って其れを説明するにはどうしても画像が必要となるのである。

 

 

私は拾代後半から廿代の頃まで兎に角相当な戦闘機マニアでもって其れも戦後の米國に於ける戦闘機の開発、超音速への挑戦等に就き詳しく調べ上げて居たものだった。

其の技術的挑戦は圧倒的で且つ奇跡的な成果を齎すものであった。

即ちまさに其れが航空機に於ける文明の進歩の歴史其のものであった訳だ。

 

ソヴィエト連邦は其の技術的成果に追随する形で対抗して来た訳である。

とどのつまりは其れも宇宙開発や核開発と同じくして進歩としての競争其のものだった。

 

だが現在の競争はさうした廿世紀的な進歩としてのパワーバランスの下に行われるものでは無いやうな気がして居る。

即ち具象的な技術力の論理では無くむしろ抽象的な技術力の論理なのだらう。

 

だが其のより抽象的につまりは情報戦として展開されるパワーバランスの一方で極めて具象的に温暖化により🐻のエサが無くなりそれでもって其れがついに都会に出没するやうになる訳だ。

文明が抱える問題は最終的には其の抽象的価値と具象的価値との闘争の様相を呈して来て居る訳だ。

 

即ち最終的には其れは技術としての問題では無く心のあり方の問題として文明に跳ね返って来るべきものなのだ。

だからさうして模擬空戦をして居る暇があったらもっと🐻のことでも考えてやるべきなのだ。

 

 

でも遊びが…。

 

馬鹿、さうして遊んで居る間に地球が壊れたらどうするのだ?

 

だけどアマゾンが…。

 

確かにアマゾンは凄い。

アマゾンは異常に凄い。

 

でも🐻だけはアマゾンの何処にも売って居ないぞよ。

 

 

ちなみに其のSu-57の飛行の雄姿がコレだ。Рев двигателей Су-57. Энергичный пилотаж на форуме АРМИЯ-2020. Дымка. #Su57 #Felon #Су57 #Т50

 

今の戦闘機は壱昔前の戦闘機とは別物。

1.レーダーでは捉えられないーステルス性ー

2.機動力が別次元

3.超音速巡行性能が高くある

 

かうして技術力だけは何処までも上がって行くが米國F-22は結局高価になり過ぎて生産数ー配備数ーが減らされて仕舞った。

其の面では半値以下と安いSu-57の価値は高いと云うべきなのだらう。

 

尚空自が沢山買うF-35は小型機でF-22やSu-57程の馬力も無ければ恰好良さも無い。

空自はF-22を売って呉れと米國にせがんだのだったが結局は売って呉れなんだ。

 

Su-57が将来中國に回されるか又は中國製の新型機が配備されると将来日本の航空戦力は手薄となることだらう。

だから此の際買うF-35の半分はキャンセルし露国より革命戦闘機を買って置く方がよりベターな選択だらう。

 

さうすると必ずや米國は怒るのでじゃあ体制其れ自体を革命するぞと脅し兎に角半分はSu-57を是非手に入れて置くべきなのだ!

 

Su-57はな、きっと強いぞ。

でも独逸製や日本製程信頼は出来ぬのだぞよ。

 

 

革命ですか?

其れも日本の戦闘機としての革命の時なのですか?

 

Su-57はな、中國の訳の分からぬ戦闘機などよりも元よりずっと強い。

Su-57がもしも百機あれば日本の制空権はずっと安泰であらう。

 

ようし、其れではコレより模擬空戦を開始するぞ。

 

 

うわあー、やられたー。

ドチラがどうやられたのですか?

 

さうして🐻がやられてなにしろ可哀想でした。

其の猟友会の奴等に撃ち殺された🐻が兎に角可哀想なのです。

空想的社會主義の帰結としてのマルクスによる科学的社會主義

ディストピア

さてディストピアとは果たして何なのでせうか?

此処には暗黒郷であり地獄郷であるとさう書かれて居ます。

 

すると其れは宗教によっても救われぬ社會のことなのでせうか?

宗教は人間の内面は救えても社会を救うことなど元々出来ぬのです。

 

逆に宗教は社會化しやがては堕落すると申しますか社會的価値の中へ埋没して行き易いものです。

 

近年に於ける宗教の形式化、非本質化が其のことを端的に物語って居ます。

其れはズバリ組織として価値規定されることで其のやうにならざるを得なくなる訳だ。

 

 

いずれにせよ暗黒郷であり地獄郷である社會制度は實現し得るものです。

近代とは其の暗黒郷であり地獄郷である社會制度其のものでは無い。

 

但し暗黒郷であり地獄郷である社會制度とも多分に成り得るものです。

例えば世界恐慌の折や第一次世界大戦、また第二次世界大戦の折にはまさに其のディストピアとしての様相を呈して居りました。

 

個人的には其処をかう考えます。

 

幸福追求⇔陥不幸

 

要するに望みがデカいことはリスクも大きくならざるを得ない。

近代では個でもって樂しむ小さな幸せでは無くみんなで歩むデカい幸福を求めたが故にさうならざるを得ない訳だ。

 

要するにさうした危うい関係性の上にバランスを保って居るのですから何時其れが逆側へ振れるものやら分かりはしない。

またさうした認識こそが理性としての正しい認識だとさう申して居るのです。

 

デカい欲望には必ずや其の反面の墜落と申しますかどつぼに嵌ると申しますか結局はまさに肥溜めに落ちるかのやうな危うさがあると云うことです。

だから肥溜めに落ちるのは私の妄想などでは無くむしろ本当にみんなが其処へと落ちるのだ。

 

近代的な価値とはむしろ其れには落ちぬやうに即ち民人が健康で且つ文化的な暮らしを営む為に理性的に其れを統御して行こうとするものでした。

 

 

ーバブーフの思想は、以下のようなものでした2

  • 市民は勤労によって祖国に奉仕する(しないものには権利を認めない)
  • 国立養老院で教育された青年が大国民共有体を組織し、この組織があらゆる財産を所有
  • 賃金は廃止され国内では貨幣も廃止される

バブーフは領主の領地を管理する管理人を仕事とした人であったため、農業共同体をベースにこうした共同体的(共産主義)社会を理想としたのです。

バブーフは1796年に反乱したものの鎮圧し失敗に終わります(バブーフの陰謀)。しかし、革命を起こして独裁政権を樹立し共産主義的社会を実現する、というこの思想はその後の社会主義共産主義思想に継承されていきました。ー【空想的社会主義とは】マルクス主義との違い・各思想家の議論をわかりやすく解説|リベラルアーツガイド (liberal-arts-guide.com)より

 

ー「サン・シモン主義」とも言われる彼の思想は、以下のようなものでした。

  • 社会で重要な役割を果たすのは産業者(農民、手工業者、労働者、商人など広い意味)である
  • 産業者の手にかかれば、より効率的な公共財産の管理が行える
  • 産業者は能力に応じて組織の中で業務が割り当てられ、遂行する
  • 社会の産業化を進めることによる平等の実現では、「革命」のようにラディカルなことをしなくても、平和的に社会体制を変えることができる

このように、国家がいわば大きな会社や工場のように組織化されることで、国家運営が合理化されると共に平等な社会が実現されるとサン・シモンは主張したのです。ー【空想的社会主義とは】マルクス主義との違い・各思想家の議論をわかりやすく解説|リベラルアーツガイド (liberal-arts-guide.com)より

 

オーウェンの思想には以下の特徴があります。

  • 機械化による生産性向上が格差を広げるため、農業労働は機械化をやめて人力に戻し、農業人口を増やす
  • そのような農業を中心とした、平等な人々によって構成される共同体(ホームコロニー)を作るべきと考えた

オーウェンも農業を中心とした、共産的な社会を理想としたのでした。

オーウェンの特徴はとことん実践家であったところで、オーウェンは理想の共同体を実現するためにイギリスからアメリカ・インディアナ州に移住し、「ニューハーモニー村」を作りました。

この村は失敗こそしたものの、オーウェンの挑戦的な行動は労働運動における協同組合運動に影響しました4

サン・シモンやオーウェン以外にも、生産の国家統制を主張したルイ・ブラン(フランス)や、無政府主義者アナーキスト)のブルードン(フランス)、民主主義的でかつ共産主義的な理想の共同体を理想としたカベー(イタリア)などがこの時代現れました。

いずれも、このように多くの社会主義者が登場したのは、産業革命によって苦しい立場に置かれる労働者が急増したことが、彼らの問題意識にあったからでしょう。

彼らのような初期社会主義者は、実際に社会を変革することには失敗しました。

しかし、社会主義という可能性があることを多くの人に知らしめ、その後の世代に影響を与えていったという点でやはり意義を持つ存在なのです。ー【空想的社会主義とは】マルクス主義との違い・各思想家の議論をわかりやすく解説|リベラルアーツガイド (liberal-arts-guide.com)より

 

結局封建制には持続可能性があった訳でしたがイザ其処で王や将軍が威張ると其処で個は生涯こき使われ我等が望むやうな幸せな人生を歩めぬ訳です。

何故なら王や将軍には強権があったからです。

 

だから其処では人間性に関する権利さえもが屡侵害されまた利口な奴がさうした体制を批判でもすればすぐに牢屋に入れられもはや獄中死する他は無い。

然しもしも体制其のものに誤りがあるのであれば其れを変革して行くより他に手は無い訳だ。

 

其の枠内で吠えて居てもまるで埒が明かぬと云うことです。

事實として近代以降体制は屡変革されて来て居る。

 

資本主義経済体制もまた其の変革された体制の一番手としてのものでせう。

資本主義経済体制即ち資本は科学技術と結び付き人間の観念的な幸福を實現するべくあらゆるものを加工し且つ変革して来て居ます。

 

さう其れは本質的には其の脳内の欲望への希求を最大限化して行くものです。

其れは基本的に「変化=変質」させること=進歩することにより成し遂げられる人間にとっての新たな価値創出の機会でもまたあった訳だ。

 

古い価値⇔新たな価値

進歩がいざ恒常化すれば新たな価値こそがみんなの欲する価値となるが故に古い価値の方はあくまで弐義的なものとならざるを得ない。

 

故に兎に角新しく創出される価値にこそ価値が認められ逆に古い価値<新しい価値となって行かざるを得ない。

 

さらに、

受動的な生⇔能動的な生

 

文明も封建制までは前者のタイプでしたが近現代以降は後者の立場を理性は歩むこととなる。

要するにイケイケドンドン型の新概念としての進歩思想を生み出して仕舞いました。

 

其れは所謂進化とはまるで違うものだ。

即ち、

進化⇔進歩

です。

 

何故なら進化とは受動的な変化のことであり、進歩とは能動的な変化を文明レヴェルで展開すると云うことです。

だから其の能動的な変化其れ自体が正しいかどうかなどと云うことはむしろ関係無くあくまで観念的に其れは履行されて行く。

 

具体的ー具象的ー⇔観念的ー抽象的ー

とのことですので間違って居やうがどうしやうが其れは履行されて行かねばならぬ。

其れは謂わば「社會的に規定される思い込み」のことですので余計にタチが悪く其れを止めざるを得ないところへと追い込まれて行くまではみんながさう其れを信じ込まされやっていくより他は無い。

 

其のイケイケドンドン型を生み出したのは「近代的啓蒙」としての観念の力であり其れ即ち理性の力でした。

 

じゃあむしろ其の理性こそが悪なのか?

かうして常に社會的にデカい矛盾を生み出し恐慌だの戦争だの疫病禍を招く其の理性こそが悪の権化なのか?

 

 

いやでも理性が無いと只の🐵ですよ。

🐵どころか🐶や🐈はウンコもオシッコもまさに垂れ流しです。

 

でも其れだけは我慢がならぬ。

出来得ればすぐにそんな獣であることから遠ざかりたい。

 

さうか君等はようやく便所の意義を其処に見出したのであるか。

さうなんです、だからこそ其のイケイケドンドン型にこそ大きな意義がある、其れも理性と云う近代的価値に目覚めた我等はいずれにせよ獣よりはずっと偉いのだ。

 

 

此のたわけ者めが!

たった今さうして威張ったな。

 

でも威張るとな、もはやロクなことは無いぞよ。

 

ありゃいつの間にかこんなコロナ地獄が!

其ればかりか温暖化地獄までもが!!

 

そーれ見よ、言わんこっちゃない。

どだいお前達はすでに選択を間違えて居る。

 

どう間違えたので?

 

だからこそ今まさに其れを論じておる。

進歩は果たして正しかったのかと云う其の一点に就き論じておるのだ。

 

 

即ち其の進歩の内容こそがむしろ理性的選択であって欲しかった。

進歩が理性的選択で無くて一体何なのですか?

 

何故なら理性的選択とは其の本質としてイケイケドンドン型とは縁の無いものだからなのだ。

苦役乃至は重税、さうしたこき使うこと即ち搾取形態とは無縁での理性的展開であるべきものだからなのだ。

 

其れは理性が過分な欲を自ら忌避すること、理性が自を制し均衡の取れた社會を目指すと云う点であくまで其れにそぐわぬ展開であるからなのだ。

 

 

 

 

かうして社會主義とは社會其れ自体が進みさう規定されて行かざるを得なかったものである。

 

其の「革命」と云うことこそが理性的変革に当たる訳であり同時に其れは個の解放であり何より理性的解放であった。

其の社會的な意味での個への抑圧の形態を変革しやうとする意味で仏蘭西革命と社會主義革命は同義であり要するにまるでもって其れ等は同じ穴の狢なのである。

 

社會⇔個

 

問題は其のやうに対置される二元的価値が常に闘争状態にあり決してバランスが取れて居ない状態にこそあることだ。

 

権利⇔義務

 

どだい権利と義務の関係もまた相剋し尚且つ相即するものであり無制限に拡張されるべきものでは無い。

 

仏蘭西革命は市民としての個の権利を掲げ露西亜革命は労働者としての権利を掲げ其の社會による抑圧からまさに逃れやうとした人間の個としての流れであった。

其の選択は然し必然のことでもあった訳だ。

 

だがイザ其れを欲し過ぎるとバランスがまた崩れる。

即ち左に寄り過ぎてもまた右に寄り過ぎても社會と個の理想的な関係を保つ社會を實現することは極めて難しい。

 

 

なんとなれば弐項対立の相対世界に於いて其のバランスを保つことは至難の技なのだからだ。

なのでむしろ其の相対世界を理性的に消却することこそが理性にとっての本質的救済とならう。

 

ですが其れは人間にとってはむしろ不可能なこととならざるを得ない。

よって其れをーアンビバレントな今をーあくまで弐項対立の枠内で捉え直し最適解を其処に見出して行かねばならぬのである。

 

空想的社会主義」とは其のバランスを取り戻す為の第一歩だったのですね?

 

 

  • 社会主義とは、平等な社会を実現しようとする思想で、産業革命期のイギリスやフランス革命気のフランスで生まれた
  • マルクスは祖国ドイツを豊かにするためには、革命が必要であり、そのためには資本家ではなく労働者による革命が必要と考えた

 

【科学的社会主義とは】マルクスの問題意識から理論までわかりやすく解説|リベラルアーツガイド (liberal-arts-guide.com)より

 

かうして社會主義は後に受け継がれマルクスエンゲルスにより科学化されて行った訳ですが其の理論的骨子をなすのが史的唯物論です。

 

 

まず、マルクス唯物論の立場から世界を捉えました。唯物論とは、「世界は物質によって統一されており観念は物質のいち働きでしかない」と考える哲学的立場のことです。

これに対置されるのが観念論であり、観念論とは物質的世界に対して観念が先行させる捉え方です。簡単に言えば、

  • 物質的世界が生まれる前に観念が存在した(神が世界を創造した)という考え方
  • 観念的なもの(人間精神、規範、法、学問的概念など)が物質の働きとは独立して存在するという考え方

などが観念論です。

マルクスらは、哲学の伝統を唯物論と観念論の2つの潮流として捉え、観念論の問題点を指摘し、唯物論の立場から世界を捉える」ということを前提に理論を組み立てたのです。

2-1-2:唯物史観史的唯物論)とは

次に、唯物史観史的唯物論)とは、上記の唯物論の立場から歴史を捉え、歴史を物質的な諸関係の発展段階として捉える方法のことです。

まず、マルクスは社会構造は大きく「上部構造=観念的なもの=法律的、政治的なもの、精神的なもの」と「下部構造=物質的なもの=労働、生産など」の二段階に分けられると言います。

 

 

そして、上部構造(観念的なもの)は下部構造(物質的なもの)に規定されると主張します。つまり、人間の精神的な活動は「労働」「生産」といった物質的な生活に規定されており、物質的な生活から独立して生まれるわけではないのだ、ということです。

マルクスは「世界は物質的に統一されていて観念は物質に先行しない」という唯物史観に立つため、このような捉え方になるわけです。

2-1-3:世界の発展段階

さて、ここからが特に重要なポイントです。

マルクスは世界を唯物史観で捉えたため、世界の物質的な面(物質的生産諸力)の構造は段階的に発展してきたと考えました。

 

 

マルクスが考えたその発展段階は、以下のものです。

  • アジア的生産様式
  • 古代的生産様式
  • 封建的生産様式
  • 近代ブルジョア的生産様式(資本主義社会)
  • 社会主義的生産様式

世界の文明は、古代オリエントの世界から中世、近代(マルクスが生きた時代=資本主義社会)まで、上記の段階を経て発展してきたという考え方です。

マルクスは、物質的な生産過程(物質的生産諸力)はある段階まで発展すると崩壊し、次の段階に移行すると考えました。つまり、封建的生産様式(中世を規定したもの)は崩壊して、その後の近代ブルジョア的生産様式(資本主義社会)に移行したということです。【科学的社会主義とは】マルクスの問題意識から理論までわかりやすく解説|リベラルアーツガイド (liberal-arts-guide.com)より

 

 

物質的な生産過程はある段階まで発展すると崩壊し、次の段階に移行すると云う考え方其れ自体は正しいのではないだらうか。

實質上資本主義社會は限界に達して来て居ることだらう。

 

即ちどんな夢もまた希望も其の体制の存続の向こう側にはすでに拡がっては居ない。

むしろ資本の論理は限りなく世界をさらに個を圧迫し社會をディストピアすることに貢献して来て居るやうに見受けられる。

 

 

但し問題は其のマルクス主義としての唯物史観にこそあります。

マルクス主義では近代の進歩思想を認めて居り従って其の資本主義社會から社會主義生産様式へと移行したにせよまさに史的唯物的に文明は進歩其れ自体を止める訳には行かぬ訳だ。

 

つまりは左の思想とはあくまで文明の進歩を前提とする革新的な思想だと云うこととなります。

其の進歩が嫌いなのであれば保守的な考えでもまた良い訳ですがマルクスの考えでの通りに体制に胡坐をかいて居ると矛盾が泥沼化しやがてはニッチもサッチも行かなくなるのです。

 

若い頃個人的に悩みましたのはまさに其の唯物史観に於ける進歩を是とする部分でした。

また宗教を弾圧するか又は軽視する唯物史観的な進歩主義に就いてもまた悩まさせられた。

 

ですが此の度斎藤先生の晩期のマルクス主義による唯物史観の放棄の面を知るにつけまさに其の積年に亘る疑問から解放されまさに新たな次元でマルクス主義を捉え直す機会を与えられたのです。

兎に角私は其れが嬉しかった。

 

コロナ禍に於いてマルクス主義の価値を再認識して居たとは言え其れはあくまで淡い期待であるに過ぎなかったのが其の新解釈により一筋の光明が見えて来たと云う訳だ。

ついに世をディストピア化して仕舞う資本主義ーユートピアは決して資本の論理の中にはあらずー

さて文明の歴史は今まさにディストピア化して行くのだらうか?

ディストピアユートピア

 

まさに其れは認識上の価値分別上の命題です。

また其の価値としての捉え方は人により違うと云うことなのです。

 

 

其れは今がまた未来がどう見てもディストピアに見える人が居る一方で其れがどう見てもユートピアに見える人もまた居ると云うことだ。

またコロナ禍のやうな一見マイナスの価値も逆にプラスの価値として捉える向きさえもがありませう。

 

然し多くの人々はむしろ中庸である価値、つまりはどっちつかずでの価値をおそらくは選んで居やう。

ですが其の曖昧な価値は實は理性的なものでは無くむしろ獣的な価値観の選択其のものでせう。

 

また宗教的な価値も元来はどっちつかずではありません。

本来の宗教は自律的な思考を伴うものでむしろ其の価値観は常にハッキリもして居ります。

 

私が今述べて居ることとは大衆が其の種の選択に就き本質的には其れを放棄して来たと云うことに対する批判です。

 

 

其の理性的闘争とは常にとても厳しいものです。

まさに其れは一歩間違えば奈落の底へ落ちる程のものでなければなりません。

 

其れはかっての藝術家や宗教家の内面的闘争を見るにつけ誰にでも了解されることです。

 

さうしたまさに「生きるか死ぬか」の闘争の機会を大衆は本能的に避ける訳だ。

よって現代では藝術家ですら大衆化し其ればかりか學者ですらサラリーマン化し骨のある作品や學説を出せなくもなりつつある。

 

価値の全てが数的還元価値へと落ち込みかってのやうな理性としての矜持が見られなくなりすでに久しい。

 

 

要するに私の世に対する悔しさの内容とはまさに其処にある訳です。

其の問題が山積みなのはむしろ其の馬鹿であることから全てが引き起こされて居る。

 

また其れが究極的には理性としての選択の放棄に繋がる訳だ。

ですが理性の意義とは其の選択にこそある訳だ。

 

と云う事はですよ、今みんなはまさに理性を放棄し御遊戯して居る最中なのです。

其れも資本だの科学だの技術だのと云う価値に踊らされまさにパッパラパーにてさうして遊んで居る最中なのです。

 

 

さて問題は、

ディストピア=✖⇔ユートピア=○

 

であることは人類としての共通認識であると云う部分です。

先に、

ディストピア=○⇔ユートピア=✖

 

である認識なども示しましたがー理性的認識としてのー、無論のこと其れは一過性のものでイザ全ての未来がお先眞っ暗になって仕舞えば其処ではもはや人間などやっている甲斐が無いと云うものです。

 

ではどうしたら人類は社會的に理想郷を築けるのかと云った部分です。

其れに就き過去に私は様々に書き込んで来ても居ます。

 

其れはひとつにはさうした理想的な社會への体制の枠組みなり努力だのが観念レヴェルではかって幾つも存して居たと云う事實です。

例えば老子による其の「小國寡民」としての社會制度にせよまたトマス・モアによるユートピア なる体制こそが其れに當たります。

 

ユートピアは500マイル×200マイルの巨大な三日月型の島にある。元は大陸につながっていたが、建国者ユートパス1世によって切断され、孤島となった。島の中の川はすべて改造されまっすぐな水路とされ島を一周しており、その中にさらに島がある。この、海と川で二重に外界から守られた島がユートピア本土である。ユートピアには54の都市があり、各都市は1日で行き着ける距離に建設されている。都市には6千戸が所属し、計画的に町と田舎の住民の入れ替えが行われる。首都はアーモロートという。

ユートピアでの生活は、モアより数世紀後の概念である共産主義思想が提示した理想像を想起させる。住民はみな美しい清潔な衣装を着け、財産を私有せず(貴金属、特には軽蔑され、後述する奴隷の足輪に使用されている)、必要なものがあるときには共同の倉庫のものを使う。人々は勤労の義務を有し、日頃は農業にいそしみ(労働時間は6時間)、空いた時間に芸術や科学研究をおこなうとしている。ーユートピア より

 

 

まあ所謂空想的社會主義とでも申すのか、其処では私有財産は放棄され公的資源に依拠する生活を営む訳だ。

また服装は質素で清潔であることをモットーとし仕事としては農業をやり空いた時間に藝術や科学研究まで出来るのです。

 

ーモアの『ユートピア』はユートピアの完成形が示されているだけで、そこに至るプロセスは示されておらず、現実社会で実現するのは困難である。しかし、16世紀にスペイン帝国新大陸に入植した際に、広域国家が崩壊した中央・南アメリカ原住民の文化や秩序を白紙状態に戻して、知識人宣教師の思いつきを実行に移せるチャンスを得た[2]イエズス会は入植開始からパラグアイグアラニー人を使って、モアの『ユートピア』に記されているとおりの生活を実現させる実験をイエズス会が追放される1767年まで行った[2]

また、初代ミチョアカン司教になるフランシスコ会修道士バスコ・デ・キロガは、モアの『ユートピア』に影響を受け[2]メキシコ市郊外に「サンタ・フェのオスピタル」と呼ばれる実験的セツルメントを構築した。ーユートピア より

 

 

何とかうして部分的に實験まで實際に行われて居たのである。

其処にもさうしてキリスト教が絡んで居た訳だ。

 

其処からしてもキリスト教は元々其の現世の樂園思想には縁があるものなのかもしれない。

要するに神が創造した地に穢れが満ちて居てはまさに其れは👿の支配によるものなので其れは無くなるに越したことは無い。

 

但しキリスト教はあくまで現世での樂園を築こうとして居る訳では無く其の目的はあくまで霊的に選ばれ神の御國へと再生されることなのだらう。

 

 

ー面白いのは、奴隷をつなぐ鎖に金や銀が使われていること。通常の国であれば金銀は尊ばれるはずだが、ユートピアでは金銀や宝石、真珠などが、つまらない争いの原因になることを見定め、そういったものは「汚いもの、恥ずべきもの」として考えるようにし、身分の卑しい奴隷を金銀で飾り立てる習慣がある。便器にすら金銀を使うのだから徹底している。ー『ユートピア』トマス・モア著 ベルギーで誕生した社会思想 - ベルギー青い鳥 (aoitori.be)より



ー本書『ユートピア』には、現状の否定、平等な社会に対する期待、キリスト教の教義への執念、強い政治と経済による他国に対する優越感が見て取れる。理想郷ユートピアは、モアの心のなかで英国の輝かしい未来を投影したものだろう。ー

ー内政では共有財産や男女同権、労働者の保護をうたい、一方の政治・外交・軍事の分野では帝国主義孤立主義を標榜する。現代人の目には不思議なキメラ。モア自身もそれが分かっていたのか。書名の『ユートピア』は「どこにも存在しない場所」の意味である。ー『ユートピア』トマス・モア著 ベルギーで誕生した社会思想 - ベルギー青い鳥 (aoitori.be)より


尚最近私は、

資本主義⇔共産主義

と云う頑張り過ぎる体制と頑張り過ぎぬ体制は矢張りと言うべきか逆向きの体制であり其れも元はと云えばキリスト教に於ける二元分離思考ー神⇔👿ーから齎されたものではないかとさう考えるに至りました。

 

重要なのは其の平等な世界の實現こそが此の世では實現し得ぬと云う点でした。

何故ならかっての社會では搾取が横行し人権も平等も何も無かったからなのでした。

 

其の搾取は資本に限らずかっては封建制其のものがまさに奴隷として人間をコキ使いさらに農民からは重税を取り立てても居りました。

 

其の平等と云うのは然しあくまで神の下には人間は皆平等である筈です。

實は其ればかりでも無く佛の前にも平等なのであります。

だから宗教とはたとえ社会性を持ったものであれ平等をこそ尊重する組織です。

 

ですが資本主義経済体制に於いてはむしろ其の逆のこととなります。

資本主義経済体制は自由な金儲けと云う表向きの看板を掲げつつも實際にはむしろ貧富の差を生み出すことにより其の儲けを出して居るのですからズバリ其れは根性の悪い強欲な体制であり心根の腐った奴等ばかりともなる体制なのです。

つまりは金に目の眩んだ悪人共が好む体制なのだ。

 

だから會社とはズバリ悪人の巣窟のことです。

一方で資本主義がやれたこととは其のかっての王による抑圧、搾取からより抽象的合理的に搾取し儲けを生み出すと云うまさに其の合理化を成し遂げたことなのです。

 

なので此のユートピア思想は其の資本主義以前での社會にとっての理想的な体制を述べたものでだから其処には少なからず宗教的な価値観が含まれて居り何故なら金や銀はむしろ賤しいもので其れが便器などにも使われて居るのです。

私有財産を認めると結局は資産の上での競争が繰り広げられることとなり其れはかって國家間で繰り広げられた熾烈な戦争が経済戦争へと置き換わっただけのことで本質的にはまるで獣と同じだと云うこととならざるを得ない。

 

 

さて本質的にはまさに「競争原理」こそが世界の破壊へと直結する根深い倒錯の価値だと言えることでせう。

 

何故なら進歩は「競争原理」により推進されます。

また「競争原理」により資本は増強されます。

 

でもトマス・モアの考えた理想郷にはそんな余計な競争などは設定されて居りません。

みんなはさうして一種の空想的なる社會主義の世界に生きむしろ労働から解放され自由を満喫して居るやうにさえ見える。

 

要するに馬車馬の如くにコキ使われずとも良い訳です。

コキ使われることが無いのであれば馬鹿な庶民、實は其れが一番幸せな人生のあり方です。

 

何故ならじぶんの頭でもって考える人は常に苦しくじぶんの頭でもって宗教をやる人もまさに荊としての精神の道程を歩んで行かねばなりません。

 

そんな苦しいまさに聖人様のやうな生き方よりも飲んで食ってしかもちょろりと姐ちゃんの尻を触ることの方がずっとずっと樂ではありませんか。

要するに獣であることこそが樂で、其処を何を間違えたのか理性体にでもなるともう兎に角毎日が苦しくてなりません。

 

 

だからみんなは今一見幸せにも見えます。

でも日本のみんなは實は其れ程幸せでは無い。

 

其れは自民党の政策の方も悪いのですが其れ以前にみんなが共産主義の良さを知らないからさうなって居るのです。

 

共産主義と云うよりも公的価値を重視する社會が齎す安全、安心である点を知らぬからさうなって居るのです。

 

で、資本主義って一体今何をやって居ますか?

其れも新自由主義政策により金融資本ばかりをさうして拡大して弱い會社は潰すわ世界中にコロナを蔓延させて仕舞うわ、其ればかりか神佛が人間は皆平等だ、みんなは其の侭で幸せになれるとさう仰って居ると云うのにみんなを搾取してさうして長時間労働ばかりを強いて居るではないか。

 

いや長時間労働ばかりか結局24時まで働いても15万の給料なので其れではとても子は育てられずよって妻をパートに出し其の五万位の継ぎ足し分にてようやく糊口をしのいでいる始末である。

アア其処では藝術も何も無く音樂もまた文學も何も無い。

 

只々搾取されたった壱パーセントの超金持ち共の為に善なる心まで売り渡しさうだ、母ちゃんの為子の為にココはひとつ心を鬼にして営業成績を上げるのだ。

ええい此の際何でもやったるわ。

 

バコンバコンと人を蹴落とし必ずや我は勝ち組となるんだわ。

 

で、是非ひとつ其処で聞きたいのだが果たして其処までやる価値のある社會なのか?

ハッキリ申そう、君は奴隷だドレイ。

其れも資本のどれいなのだ。

 

君を其のハケンの地位に甘んじさせて居るのはまさに資本による合理的搾取、合理的奴隷制度でなくて一体何であらうや?

兎に角其の部分はまた徹底的に追求させて頂きたいところなのだが資本主義の非合理性、不合理な眞實の部分を端的に表して居る部分である。

無論のこと其の部分につき斎藤先生もかの著書の中で徹底的に追求して居られる。

 

 

其の「競争原理」其のものが錯誤であり誤謬であると?

 

いや私は日教組には入ったことが無いが少なくとも其れは理性的に齎される概念的帰結では決して無いことだらう。

 

第一今スポーツ界はどうなってるのだ?

何とかのなおみちゃんが泣いて居るではないか!

 

でもアノスーパーマンが二刀流で活躍して居ますのですし女子ゴルフでも快挙があったばかりですが…。

いずれにせよ今やスポーツの世界もおかしくなりつつある。

 

其れは資本と結託したスポーツマン精神がまさに汚れたからであり其処からしても資本主義こそが我我の心を金まみれにし全てを破壊していくことの其の証拠なのだ。

 

ではもはや革命ですか?

愈革命へと走るのですか?

 

 

いやさうでは無く、きちんと事の道理を理性的に理解して置くべきだとさう申して居るのです。

例えば其の理性の必然的帰結としてかってマルクスの思想が展開された訳だ。

 

だが其れが正しく理解されて居ないと斎藤先生は仰る。

 

だが私は其処まで言う理論的根拠を持って居なかった。

だから昨年の時点でもって私が考えて居たことは以下のことであった。

 

1.社會主義、共産制社會のことをより詳しく學び直して行くべき

2.「平等」と云う価値の再認識

3.公的な資本や権利の分配制度、公的な扶助と云うことの再認識

4.マルクスの思想其のものの再評価

 

と云う点に就き實は私も論考を進めて居たのである。

 

何故さうしたのかと言えば、資本主義の限界がまさに實現化しつつあったからだ。

 

端的に言えば終身雇用制を崩壊させた侭で米國流に金融資本の方を加速させれば借金まみれの奴が増えるのはむしろ当たり前のことだ。

で30代、40代の人々はさうした不安定な労働環境に甘んじた侭で高額な住宅ローンなどを組む羽目となる。

 

でも其れでもってどーやって子や孫を残すの?

要するに政策以上に体制其のものが悪いから必然的に日本社會は沈没して行かざるを得ぬのだ。

 

でも日本人は如何にも我慢強い。

其れも我のやうにキャンキャン鳴いたりはせず只じっと我慢しつつクソ仕事をこなす為にセッセと會社へ出向いて居る。

 

 

其の所謂平等な「ユートピア」の世界は後に成立した社會主義思想と重なる面が多々ある訳です。

 

逆に大國としてのソヴィエト連邦などは其の社會主義國家の建設に結局失敗し今は逆に例の彼が専制國家を築きまるで王様のやうに威張ったりもして御座る。

また中國は中國で酷い矛盾國家です。

 

其れは何でか?

何故なら古臭い覇権主義思想である「中華思想」に凝り固まりつつ其の一方で共産党一党支配をまさに合理的に続けようとして居るからだ。

 

ですが私の意見ではさうした社会主義陣営よりも資本主義陣営としての経済的矛盾の方がより問題が根深くありより治し難い病だとさう見ても居ります。

資本主義と云う経済体制はあくまで理論的には諸悪の根源であり現實的に矛盾をより増大させて行くことだらう誤ったイデオロギー其のものです。

 

かう申しますとまたアカがぶり返した理想論だとさう思われるのやもしれぬが實はさうでも無いのであります。

何故さうなるのかと申しますと、まさに時代の要請と申すべきか地球の願いと云うかそんなところからも是非共産制社會の再評価が待たれて居るからなのであります。

 

さうして私も長年に亘り理想の体制のことに就き考え込んで来て居たことだけは事實です。

ですが其れが明確には規定され得ぬ侭に其れこそ宗教だの藝術だのと云った価値へと其の都度気が向いて仕舞い纏め切れなかったと云うのが正直なところです。

 

なのですが、私が大學でもって専攻したのがまさしく其の体制史のことだったのです。

まさに其の頃は他のなにものでも無い其の露西亜革命のことを調べ上げて居たりも致しました。

 

斎藤先生の著作を読んで居ますと其の当時の記憶が蘇って来たりも致します。

 

さて最初に示した其のディストピアとしての社會のことですが、斎藤先生の御考えによればまさに其れが資本の論理が齎す社會とのことです。

要するにほぼ全部の社會的問題が資本の論理によるー悪の論理によるー仕業だと云うことです。

 

まあ其の辺りは如何にも若手の哲學者らしく直球勝負なのですが其れも私に限れば至極良く理解出来る部分です。

 

私はむしろ今保守の方々にこそ其のマルクス主義を理解して頂きたい。

丁度アノ石破氏が「赤旗」を読んで居られるやうに其の位の柔軟な理性的解釈こそが保守としての構造的腐敗を食い止めるのだと是非さう思いたい訳だ。

 

即ち自民党一党支配はすでに限界を迎えて居る。

また東京一極集中も或いは限界を迎えて居るのやもしれぬ。

 

 

其の資本の論理によるディストピア化と云うことこそが斎藤先生の論理の主要な部分を占めて居ることだらう。

其の解釈こそがまさに理性的に展開される解釈です。

 

其の理性的に展開される解釈なり學説なりが今時代には求められて居るやうな気がしてならない。

要するに感情的にまた精神論的に資本の論理を耐え忍ぶことにはすでに限界が訪れて居るのです。

 

其れがたとえ御法度である反体制の思想であれ何であれまずは其れに就き學んでみねば何も見えては来ないと云うことを今まさに申して居るのです。