目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

かうして常にわたくしを悩まさせる自民党とわたくしを癒す石の趣味と

麻生太郎財務相も、「(給付金で)当然、貯金は減ると思ったらとんでもない。その分だけ貯金は増えた」「お金に困っている方の数は少ない」などと述べて否定を重ねている。ー

ーその株高を買い支えるのが日銀と国民の年金資金を預かるGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)という政府マネーなのだ。

 日銀はコロナ経済危機を乗り切る金融緩和としてETF(上場投資信託)を大量に買い入れ、現在、東証1部上場企業の株式の約7%(推定45兆円)を保有する大株主となっており、GPIFも国内株を約41.5兆円(2020年9月末)保有している。

 日銀の保有株の含み益はいまや10兆円ともいわれ、GPIFも株価急騰で年金積立金の運用益は大きく膨らんでいる。にもかかわらず、本来国民に配るべき年金はカットする。一体、誰のための株の買い支えなのか。ー

ー「現在の市場は株価が下がったら日銀が買い支える。投資家は投資に見合うだけのリスクを背負わずに済み、日銀やGPIFの政府マネーは株を持つ富裕層だけが潤う補助金のようになっている。

 そんなふうにして日銀から株主や企業にバラ撒くくらいなら、10万円の給付金のように国民全員に配ったほうが明らかにいい。国民全体に配れば世の中に出回るマネーストックが増えるし、富裕層より低所得層のほうが消費に回す割合が大きく、景気も良くなる」ー

ー「日銀は本当なら金融緩和のために国債を買い入れたいが、これまでに買いすぎて市場に残っていないから、仕方なく株(ETF)を買っている。一番いい方法は政府が国債を発行して国民に2回目の給付金を配り、日銀が市場を通じて国債を買う。10万円を2回でも3回でも国民に配ったほうがはるかに有益です」ー国民への給付金は拒むが、株高の演出には熱心な日本政府の姿勢 より

 

左様に今日本國の庶民の金事情は金持ち優遇政策の為にボロボロになりつつある。

尤も我は経済のことには疎ひのだが其の金持ち優遇政策が✖だと云ふこと位は分かる。

 

左様に🐊ー麻生 太郎ーは頭がおかしく、🐵ー総理ーもまた頭がおかしひ。

 

ー株価急騰で年金積立金の運用益は大きく膨らんでいる。にもかかわらず、本来国民に配るべき年金はカットー

 

馬鹿者!!!

年金で食ってる人のことも考へてみよ、まさに我のやうな。

 

其の拾萬の給付を弐、参回やるだけで日本のみんなは息を吹き返すことが出来ると云ふのに其れをやらぬ政府はズバリ選んでやる必要の無ひ政府なのだ。

 

問題は、かうして自民党を牛耳る政治家の面々の頭が極めて悪ひと云ふことである。

要するに全体主義政府ー國優先の政府ーなので國民の其れも力の無ひ國民に対してはびた一文出さず別に死んでも良ひと云ふ考へなのだ。

 

つまるところは其れがおおまさに経済的に特攻を強ひる軍國主義政権の素の姿なのだ。

 

 

我我はかうして壱年間に亘りコロナへの特攻を強ひられもうヘロヘロだ。

にも関はらずさらなる特攻を我我に強ひ其れも今どうなって居るかと云ふに医療従事者や特定の産業がもはやボロボロだ。

 

それでも「死んで来ひ」とさう仰るのか!

 

いやそんなことは許されることでは無ひ。

21世紀になっても何故日本人だけがかうして特攻を強いられて居るのだ?

 

逆におまへらー🐊と🐵ーが是非特攻すべきではなひのか。

🐊と🐵がさうして敵艦めがけて特攻しドドーンとぶつかり粉微塵になって仕舞へば良ひものを!

 

其れにカン。

 

おまへの政策にてコロナ感染者が減った訳ではまるで無ひ。

 

其れは一月の初めに尾張の自称詩人が「減る」と言ったから減ったまでのことで逆に「増へる」と述べて居たら其の侭に増へて居たのである。

 

其れにしてもそんな未来のことが何故当てられるのですか?

 

 

其れはね、まさに感度が違ふからだよ。

 

つまりは詩人は全てをお見通しなのさ。

 

 

ー「(自分がいた頃と比べて)今までの倍時間がかかる。女性(理事)がなんと10人くらいいるのか? (実際には)今、5人? 10人に見えるな」と小ばかにするかのような舌鋒を向け、女性蔑視ととらえられかねない問題発言を繰り返した。

 その後も「女性っていうのは競争意識が強いんです。誰か1人が手をあげて言うと、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです。前の発言に関連したものではなく、思いのままに」ーこれはヤバイ「森失言」で五輪ボランティア消滅危機 より

 

かうして東京五輪パラリンピック組織委員会森喜朗会長の発言内容が国際的に批判されても居るやうだが何せわたくしは天邪鬼なのでまずは其の発言を逆に部分的に認めて置きたひ。

實際に👩は体裁ー社会的評価ーを気にする余りに化粧、着付け、其の他のことなどにおそろしく時間がかかり其れは要するに競争意識と云ふよりは自己肯定感に欠ける自我の持ち主ー眞の意味での自己が無ひーであるが故に他への承認欲求にこそ頼って居るのである。

 

實際に其の辺りでのことは大昔のこととはなるがかのショーペンハウアーが女性を批判して居りし部分のことで基本的にわたくしは其の批判の内容を支持して来て居る訳だ。

 

 

但し、時代の変化と云ふことを見極められぬのでは其れは「老害」以外のなにものでも無ひ訳だ。

 

元より、

 

👨⇔👩

 

と云ふ二元的要素は其れ即ち相剋し且つ相即する関係性の上に生じて居る。

 

なので無関係どころか大抵の場合は大体七参位の割合で互ひに其の要素を持って居る。

 

其れが特殊化すると五分となったり或はオカマ化すると四六位の比率ともなり妙に女っぽくもまたなる訳だ。

 

 

其の観点からはあくまで対等か又は逆に👨を少し立てる位の方が良ひ訳だ。

 

何故👨を立てる必要があるのかと云ふと其れは🚹の方が生命としての力が弱ひからなのだ。

 

其の逆に精神としての力は🚺の方が弱ひのだらう。

 

だから其の根本での違ひがあるので所謂男女平等と云ふ訳には元々いかなひのだしそも完全に同じには出来なひのである。

 

むしろ逆方向としての現象であることを認めた上で互いに相手の立場を慮ると云ふのが正しく男女関係を築く要点なのだ。

 

 

でもアンタは決まって👩には優しく無ひ。

むしろ酷ひことを言ったりもして居るだらう。

 

いやわたくしは元々両性具有的な心理を持つ者なので👩の弱点のことが何より良く見へるのだ。

 

おそらくは其の良さと悪さを同時に見渡すことが出来るのだと思ふ。

 

👩は兎に角意思決定に時間がかかり行動などがトロひと云ふことは確かにある。

 

事實車の運転者で酷くトロひ奴などは大抵が女性ドライヴァーか或は高齢者ドライヴァーだ。

 

だが概ね女性は生命現象に対しては包容力がある、つまるところは生命が危うくなって居る者を見殺しにしたりは出来ぬ本能の力を持って居やう。

 

但し👩はまた👿にもなり得る。

また怨霊にさへなったりする。

 

聖母ともなるが鬼子母神にもなるので分裂の度が酷ひと云ふ感じもまたある。

 

其の分裂性のところが普通🚹には理解出来ぬ訳だ。

 

でもわたくしはさうした部分もまた自分の中にあるので其れが理屈抜きに分かる訳だ。

 

 

で、つひ先日NHK所ジョージの番組でもって石のことが取り上げられて居た。所さん 大変ですよ! 「ブーム到来!?不思議な鉱物の世界」

 

わたくしが一番ショックだったのはヤッパリ👩共は石のキラキラが大好きであったことだった。

 

しかも其れはほとんど本能的にさう規定されたものであるらしひ。

 

すると、我の此の石趣味とは一体何なのだらうか?

 

要するにわたくしの本質が👩っぽひと云ふことなのではあるまひか。

 

が、わたくしは両面派だから男性的な意思決定力や批判力にもまた長けて居る。

 

なのだけれども優しく闘争を好まぬ性質を持ち合わせて居る。

 

 

エッ?

 

何処が優しひの?

 

其れもこんだけ社會をクソミソに貶しながら其れの一体何処が優しひの?

 

其れに優しさなど愛じゃ無ひ、教育とは鞭打ちだと確かさう述べても居られましたが。

 

まさに其れがわたくしに与へられし分離としての壱極なのだらう。

 

 

で、わたくしは数学のセンスにもまるで欠けて居るが藝術的なものには常に強ひ。

其処もまた自らイヤだなあと思ふところではある。

 

さてもアンタやっぱし馬鹿なのか?

いや馬鹿は風邪を引かぬので馬鹿では無ひのだと思ひますよ。

 

番組中でいつも石に触れて居なひと寂しひと云った若ひ👩が居たのだったが實は其の気持ちが我には分かる。

 

我などは寝る折に寝袋の中で石を握りしめつつ寝る。-布団を合理化し常に寝袋にて寝て居る-

 

 

もうひとつショックだったのが、一般に女性は色には敏感だとされていると云ふ部分を聞ひた時だ。

何故ならどう考へても我は色には敏感なのだが其れが👩の得意分野であることが分かり何だかイヤな気分にもなった。

 

兎に角わたくしは色には限りなく焦がれて居るので其処は女性的感性の方が発達して居るのやもしれぬ。

 

絵画や鉱物が好きなのも其の色自体が好きでもって其れ等に興味があるのやもしれぬ。

 

 

が、若ひ鉱物女子達は標本を集めネット上で見せ合ひ「可愛ひ子」などと石を呼んでいるが其処はモロ子宮思考にてわたくしの場合石が「可愛ひ」とは思へず只美の基準の上での等級を付け其の等級に応じ「綺麗」だと思ふに留めて居る。

尚、重要な観点だが石からは癒されると云ふことが確かにあり其れも明らかに精神的に癒されるのだ。

 

番組中でも看護師の方が難しひ仕事の後の折に夜独りで晩酌をしつつ石を眺める場面などが出て居たのだったがまさにさうしたことであらう。

 

美しひ石は何よりさうして心を癒して呉れるのだ。

 

其れもガサツな🚹などには不要なのやもしれぬが繊細で感度の高ひ🚹には是非さうした時間が必要となるのだ。

 

つまるところオパールを瓶に入れかうして眺めて居るだけでさうして心が癒されるのだ。

 

♀的に色に対する感度が高くある我もまた兎に角色とりどりの石に惹きつけられる訳だ。

 

 

番組では糸魚川でのヒスイハンターが海岸にてヒスイを探す様子などもまた映されて居たが確かにヒスイは良ひものはなかなか採れぬものだ。

 

漁船を借り海の中で地引網でも引ひてヒスイを探せば相当のものが採れさうなのだが其れはまず無理なのだらう。

 

不変の美しい石を眺めて居ると心が休まる。

 

だから鉱物趣味とは最終的には値段やグレードを競ふやうなものなのでは無く自然界の美に直に触れて心が休まったり喜んだりすることなのだらう。

 

自然其れ自体と戯れることが出来るまさに上品な癒しとしての趣味なのではなからうか。

 

で、たとへ還暦のオッサンでも勿論其れをやって居ても良ひ訳だよね?

 

まあわたくしの場合は主に机上にて石から癒されて居る。

 

現代の文明を考えることはある種辛ひことでもあるので石に癒さつつ何かにつき書ひて居るのだと言っても良ひ訳だ。

コロナ下での尾張の御寺巡りー笠寺観音の節分会に出向くー

此の処兎に角寒く寒ひのが苦手なわたくしはつひに風邪を引ひて仕舞ったやうだった。

さう熱は出ぬのでコロナでは無く風邪である。

昔から馬鹿は風邪を引かぬと云ふがわたくしに限り昔から大変風邪を引き易ひ体質なので自分で言ふのも何だが屹度馬鹿では無ひのであらう。

 

昨日は少し体調が回復し天気が晴れても来たが故笠寺観音(笠覆寺)へ行って来た。ー自転車にて廿分程で行けるー

勿論節分会に出向ひたのであるが、其処は無論のこと節分会行事中止でもっておまけに露店なども全く出て居なひ。

 

 

さても其の露店と云ふものはわたくしにとり意外と大事なものである。

とは言へ結局出不精のわたくしは好んで露店の出る場所へと出向く訳でも無ひ。

 

正月に熱田神宮を詣でる時と笠寺観音の節分会に出向く時との年に弐度だけがわたくしにとっての露店との接点なのだ。

 

かうして案外露店が好きな我ながら實は其処にて何かを買ふと云ふ訳でも無ひ。

其処でごくたまに節分の豆を買ふが、勿論其れには青のりなどが付ひて居てなかなか美味ひものである。

 

だがこんな齢になると流石に林檎飴だのチョコバナナなどを購ふのは気が引け、其れに射的だの鮫釣りだのそんなものはやりたくてももはややれぬ故只遠巻きにして子等が其れに興じるのを眺めて居るばかりなのだ。

 

かくしてわたくしは露店やら縁日やらが大好きなのだがいつも其の様を観察することだけが何故か楽しひのだ。

此の観察眼とは明らかに文學的な心理が齎す眼なのであらう。

 

おそらくわたくしはさうして全てを、此の世の全ての事象をまさに其の眼差しでもって眺めて居るのだらう。

 

 

だが今回に限り其の日常としての露店の光景がまるで抜け落ちて居る。

まずは其のことに酷く無常ー非常ーの様を感じて仕舞った。

 

とは言へ、本堂への参拝者は多く居て其れが長ひ列を生じて居た。

だがわたくしはさうした列に加はるやうな性質の人では無ひ。

 

わたくしはかうして皆とは同じ行動を取らぬ。

まさに其処が他との違ひなのだがどうも其の分潔癖過ぎるやうに自分でも思ふ。

 

 

剣豪・宮本武蔵ゆかりの地を画像でご紹介

 

此処にあるやうに笠覆寺十二坊のひとつである東光院はかって剣豪・宮本武蔵が逗留した寺として名古屋市南部の人には良く知られた古刹である。

さうして尾張徳川家への仕官の為にかって武蔵は此処に逗留した訳だったが其の仕官は結局叶はなかったものとされて居る。

 

其の東光院自体は笠寺観音とは可成距離が離れて居るのだが逆に笠寺観音のすぐ際にあるのが西方院である。

此の西方院にて毎年節分会の折に正風華道展が開かれる故にわたくしは毎年其れを訪れて居た訳だ。

 

 

『西方院・笠寺烏瑟沙摩明王』名古屋市南区笠寺町

 

其れも母が其の正風華道の幹部なのでわたくしも毎年其処を訪れ写真を撮ったり花を鑑賞したりして居た訳だ。

が、茶華道などの所謂文化的伝統には個人的に今次第に懐疑的にさへなりつつある。

 

 

特に華道、其れはあくまで反自然での文化的所業なのだらう。

 

そんな訳で華道に対し特に惹かれる訳では無ひのだが其れでも美しひものを見ること自体は嫌ひでは無ひ。

只人為的に飾り付けられたり抽象的に捻じ曲げられたものよりはまさに只具象的に其処に存在する美にこそ見惚れて仕舞ふ訳だ。

 

また能狂言のやうな古典藝能などのことも語れぬ訳では無ひのだが其れもまた同様の理由にて創作されたもの自体に最近は余り心を動かされぬ訳だ。

 

だからたとへば京都よりは奈良の古刹の方をより好むやうなものだ。

 

わたくしはそんなピュアーな心根を持つ文人なのでまさに山の中で自然と戯れ詩を書く位のことの方が余程性には合って居やう。

 

其れでも露店が出て居らずまた華道展も行はれて居なかったことが何とはなしに寂しくも感ぜられたものだった。

 

 

其処からも此の一年で、此の僅か一年の間に人間の社會のあり方が根本的に変はったかのやうだった。

 

さうだ、其れは人間が変はったのでは無くして人間の社會のあり方こそがまさに変はったのだ。

 

一体人間の営為とは、其の日常としての社會のあり方とは一体何だったのだらうか?

 

 

さうかうするうちに、早速帰途につく。

 

最近は人混みの中にもはや長く居たくは無ひので人間の社會と付き合ふのはなるべく早く切り上げさうしてサッサと家へ帰るのだった。

 

 

【名古屋】玉照姫の美貌と良縁にあやかるなら「玉照姫泉増院」にも訪れるべし

其の笠寺観音に隣接するこちらの玉照姫ー天林山 泉増院ーへも矢張り毎年訪れて居る。

 

何故か?

無論のことわたくし自身が其の良縁成就を願ふオカマだからなのでは無ひ。

 

上には載って居なひが此処には楠から造られた薬師佛があり其の佛に毎年手を合はせるが故に此処を訪れるのだ。

わたくしは感度が高くあるが故に体調を崩し易ひが故さうして其の薬師佛に一年の健康を祈って来るのだ。

 

 

が、兎に角此処はいつも👩だらけで昨日もまた行く気にはとてもなれなんだ。

だから別に何時訪れても良ひのである。

其れも別に良縁成就を願ふやうな訳では無ひのであるから。

 

 

ちなみに上には「生まれ年守り本尊」なる御堂の画像があり、其れの一番左の佛像が、

戌年阿弥陀如来

の守り本尊にて實はわたくしにとっての守り本尊なのだった。

 

わたくしは弐年前に此のことを知りまさに愕然としたものだった。

 

何でか知らぬが矢張りと云ふべきか浄土教と我は無関係では無ひ訳だ。

ー但しほんたうに興味があるのは禅宗であり純密の方なのだー

 

おまけに何でか知らぬがいつの間にかキリスト教の方などもゴタ混ぜとなり我の中に入って来るので全く始末が悪ひ。

そんな訳で兎に角阿弥陀如来や念仏のことなどをバカになどして居ては金輪際いけなひ訳だ。

 

 

笠寺観音から自転車を置ひた公園への坂道の途中に法性寺があり此の寺の前には掲示板がありいつも何かの教へのやうな言葉が書ひてある。愛知県名古屋市南区の『法性寺』

其の法性寺は「真宗高田派」の寺院である。

 

今年は其処に何とかのマザー・テレサの言葉が書かれて居た。

 

 

「リーダーを待つのはおよしなさい。一人で、人から人へと行えばいいのです。」

ーDo not wait for leaders; do it alone, person to personーマザー・テレサの名言より

 

と云ふやうなことが書かれて居た。

何とリーダーには頼らず一人でもって行動せよとのことである。

 

尚釈迦も實はさうしたことを述べられて居る。

即ち「自灯明」である。

 

では何故「自灯明」なのだらうか。

 

 

ー自分自身を灯火として、先の見えない暗闇のような人生を歩いていきなさい。
ふいに停電した夜に灯すロウソクの明かりのように、頼るものが何もない場所でも、自分を頼りとすることで自分自身が明かりとなり暗闇を照らすことができるように。


もし自分以外の誰かを灯火として、誰かに前を照らしてもらって生きていたのでは、その誰かがいなくなり明かりが消えたとき、人は真っ暗闇のなかをさまようことになってしまう。
それは生き方として非常に危うい。


だから他に寄りかかるような生き方はするべきではないと、ブッダは人生の最期に言葉を残した。ー【禅語】 自灯明 - 本当に自分を支えることができるのは自分だけ -より

 

 

日本の大乗佛法はある意味で社會化された佛法なので他との繋がりを重視し易ひことかと思はれる。

ですが佛陀による最晩年の教へこそがまさに此の「自灯明」だったのだ。

 

ところが、社會化された動物である人間はまさに周りとの関係性の中に生かされて居易ひことだらう。

だから他との繋がりを重視することがあながち間違ひだと云ふ訳でも無ひことだらう。

 

だが社會がブッ潰れさうな時に社會はみんなを救へる訳では無ひのである。

だからコロナでもって死ぬ奴は死ぬのだし、潰れる店は潰れることだらう。

 

だからほんたうのほんたうはむしろ自らを羅針盤として生き抜ひて行くより他は無ひのである。

禅は其の初期の佛法にもかうして確り目配せして居ることだらうからかうした説法もまたして頂けると云ふことなのだらう。

 

 

ー禅では、本当に自分を支えることができるのは自分だけだと考えるが、世間ではむしろ、自分を支えるものは自分ではない「何か」と考えることが大半かもしれない。

たとえば、富や権力や名声。
それらによって自分を支えている人も少なくないだろう。


けれどもそういったものをふいに失った時、自分がぐにゃっと倒れてしまうようであれば、やはりそれは人として本当には成長していなかったことを意味するのだろう。


富や権力や名声といったつっかい棒に支えられて、ただ背だけを伸ばしてきただけのこと。
うわべばかりの成長、いや、それは「成長ではなかった」ことが露見してしまう。


外見だけ大人になったところで、自分を支える本当の力は外側からは見えない内側にある
精神にこそある。


樹木を支えている根も、外側からは見えない。
だから外側ばかりを繕うと、いずれそのほころびが生じてくる。


富や権力や名声といった自分以外の支えを得て「大人になった」「偉くなった」と思い違いをすることは、じつはとても虚しいことなのではないだろうか。ー【禅語】 自灯明 - 本当に自分を支えることができるのは自分だけ -より

 

 

だから富や権力や名声などではまるで自分を支へ切れぬのだ。

さう云へば露西亜プーチンに其れから倭國の自民党よ。

 

エエか確りとココんとこを聞ひて置くのだぞ。

 

おまへたちはさうして外見だけは大人になりさうして銀座の高級クラブでもって👩の尻をちょろりと触ったりもしているが其れではまるでもってお子ちゃまとしての心の持ち主だらう。

 

 

自分を支える本当の力は外側からは見えない内側にある。ー

ー精神にこそある。ー

 

まさにそんな精神だ、精神。

 

ー外側ばかりを繕うと、いずれそのほころびが生じてくる。ー

 

嗚呼、全く其の通りだ!

所詮おまへたちは政治家と云ふ其の権威権勢としての皮だけを被ったお子ちゃまだった。

 

ー禅では、本当に自分を支えることができるのは自分だけだと考えるが、世間ではむしろ、自分を支えるものは自分ではない「何か」と考えることが大半かもしれない。ー

 

みんなはさうして社會と云ふデカひ「何か」に寄り掛かりつつ赤信号を平気で渡って行くのだ。

 

でもな、禅と云ふか釈迦はな、其処での考へがまるで違って居たぞ。

 

釈迦はな、ー自分を支える本当の力は外側からは見えない内側にある。ーー精神にこそある。ーと知って居たからこそ其処にまさに「自灯明」と云ふ眞理をお説きになったのだ。

 

 

だから財力や地位などの外見になど惑はされたりしてはならぬ!

人間の内面こそが其の価値観の持ち様こそが結局は全てなのだからこそ。

 

 

ちなみにマザーテレサカトリック教会の聖人であり修道会「神の愛の宣教者会」の創立者だ。

またノーベル平和賞の受賞者でもある。

 

但し中にはマザーテレサに対するこっぴどひ批判もまたあるやうだ。

でも其の内容を詳しくは知らなひ。

 

其れにつけても眞宗は流石に凄ひ訳です。

 

さうして何と御寺の掲示ボードにマザーテレサの御言葉が書ひてあったのだから。

 

尚もうひとつ其処に書かれて居たことがあり、其れは愚者は出来ぬことをやらうとするが賢者は出来ることに精を出す、と云ふやうなことでした。

 

 

ところでみんなは今リーダーに従へば文明は救はれるとさう思って居るのやもしれぬがそんなのはズバリ間違ひだぞ。

 

正しくは権威や権力には決して屈せぬことだらう個として強ひ自己の力を其処に持つことが出来るか否かだけなのだ。

 

尤も其の眞我の形成はたとへば他力本願の宗教に於ひて求められたりしては居なひ訳だ。

 

浄土教の御坊様方はまさに非僧非俗にて矛盾を受け容れる御立場なので其処で佛に赦される、とでも云ふべきかソコはどうも何やらキリスト教的な二元対立を其の侭に奉じる佛教のあり方なのであらう。

 

密教などはある意味でもっともっと分離が酷ひことかと思はれまた其ればかりかある意味では其れは佛教では無ひものであるとも考へられなくもなひのだけれど、其れでもかうして密教系の寺院はあちこちに沢山あり實際見に行くと一番面白ひのが決まって其の密教寺院なのだ。

 

 

行事等[編集]

  • 2月の節分会には豆まき祈祷が行われる。
  • 毎月18日の観音の縁日には、祈祷が行われる。
  • 毎月「6」のつく「祈願日」(6、16、26日)には、祈祷が行われ、境内で青空市『六の市』が開かれる(雨天中止)。
  • 毎月第四土曜日(8月、2月を除く)にはマルシェ『かんのんひろば』が開かれる(雨天中止)。第四土曜日が26日(六の市)の場合は、第三土曜日に開かれる。ハンドメイドの小物や、安心安全な食材が参道に並ぶ。[2]
  • 毎年8月9日は大功徳日「九万九千日(くまんくせんにち)」であり、祈祷が行われる。それと同時に多くの夜店が出店し、盆踊りや地元の中学校のジャズバンドによる演奏会なども行われる。

境内[編集]

 

 

さうして市が立つやうな寺の境内と云ふものこそが楽しひ訳です。

特に骨董マニアなだはさうしたところを経巡り掘り出し物を見つけたりもする訳です。

 

だが其れも實は庶民的な笠寺観音よりは八事の興正寺の市の方が高級品が出る確率は常に高くあるのが實情だ。

でも何せわたくしは出不精なのでアンティークの品をさうしたところへ出向き得たことなどはほとんど無ひ。

 

さう言へば三十年程前に大須観音の市にてヴィクトリア時代のものと思しきインク壺を発掘したばかりなので御座ります。

但しあれは五年程前でしたか、ヤフオクにて地元の人が興正寺の市にて出たと云ふプラチナ萬年筆の銀製のレアーな萬年筆を出して居て其れを落札し入手しては居る。

 

尚、わたくしはアンティークの萬年筆に就ひてはそこそこに詳しくおそらくはプロと一般マニアとの間位の経験と知識があるものかと思ふ。

だから元々は精神の希求者でも何でも無く只の物マニアでありつまりは其の下賤なるコレクター其のものなのだ。

 

其の物の追求者としてのラヒターはとある掲示板にて十三年程やりましたのですが要するに其れだけー物質的追求ーでは人間は決して救はれませぬが故に此処でもって精神の追求もまたやりたくなったのだった。

 

 

でもって文明はイカンとさう述べて居たところほんたうにドカーンと文明がやられて仕舞ひました。

でも文明がやられることを予測することよりは萬年筆だの石だのと戯れて居ることでこそ我は幸せになれるのだ。ー一時的にではあれー

 

なのだが其処に👩が入っては金輪際イカンのだ。

 

👩がもしも我に入ると其処にパンドーラ―のハコがカパッと開き其処からあらゆる災厄の芽が飛び出して来るのだ!

 

ところが笠寺観音へ行くとかうして何故か決まって👩だらけなのだ。

 

おそらくは大乗佛教、其れも密教系の寺や浄土教系の寺は極めて👩とは相性が良ひものと其処で考へられやう。

 

だが禅宗に限りおそらくは👩との相性が可成に悪ひものと思はれるのだ。

果たして其れは何でだらうか?

 

 

要するに俗なものー現世利益性ーには👩が群がり易ひのではなからうか。

但し其の論理にて密教浄土教をナメたりして居ては金輪際イケナヒのだらう。

 

だから禅、其のより潔癖な禅、おおまさに👩嫌ひの毛のある禅もまたマザーテレサのことを認めなければならぬのではなひかしら。

 

 

さて名古屋と言へば大須観音なのだが我我瑞穂区や南区など南部の人々にとってはあくまで笠寺観音なのだ。

 

で、其処で何が言ひたひのかと言へば要するに其の實存的で且つ具体性に刺し貫かれし価値こそが大事だとさう述べて居るのだ。

 

対して抽象的普遍的に推進される近代的価値などは其の實存的で具象的な価値を放逐する程に偉ひものでは無くまた確かな価値なのでも無ひ。

だが今みんなはそんな近代的価値にのみ頼り価値構築をなして仕舞って居る。

 

だからまさに其れが洗脳の様なのだ。

 

そんな洗脳を受けて居るからこそコロナや気候変動による災害にまるで対処することが出来ぬ訳だ。

 

 

其の笠寺観音へはわたくしの場合子供の頃からもう六拾年近くにも亘り訪れて来て居る。

 

さうした価値が何処の國にも、また何処の地域にも存在して居ることだらうと思はれる。

 

さうしてむしろそちらの価値の方こそが普遍化することなどの出来ぬ實存としてのオンリーワンの価値なのだ。

 

逆に言へば近代的価値の上で一番になどなることよりもむしろ其の實存としてのかけがへのなひ価値を壊さぬやうにこそ生きて行くべきだらう。

 

もしも近代的価値の追求の上で其のかけがへのなひ価値を損なふ虞が生じたならば其の追求こそは即刻止めるべきなのだ。

 

 

マザーテレサが仰ることも、また釈尊が晩年に説かれた法の内容もそんな風にまずは自己を確立せよと云ふことなのだと思ふ。

其れは自己本位ー利己主義ーとなることでは無く眞の意味での自己を形成して行くことなのだ。

 

現代社會では概ね其の自己としての価値観が狂って居り其処でもってまさに自我執着へと陥りがちなのだ。

中世や近世の時代、また其れ以前での時代よりも其のことはより狂ひ易くなって居り嗚呼まさに危険な状態にあるのだがもはや其のことに気付く人などは稀であらう。

 

其の笠寺観音の本尊である十一面観音像を観たことは無ひのだが子供の頃より「亀の池」にて其の亀共には親しんで来たが其の池もいつしかドロドロに汚れ最近は何処にカメが居るものやら分からぬやうな有様だ。

 

其れでも猶笠寺観音と言へば其の池の亀と節分会に出る多くの露店なのだ。

まさに其処が八事の興正寺などとは異なり庶民的な日常が感ぜられる寺である。

宗教より紐解く文明の持続不可能性ー人間の内部でのみ完結して仕舞ふ進歩と云ふ危険な物語ー

 

其れでは何故文明世界には持続可能性が無ひのかと云ふことにつき今此処で考へてみませう。

 


わたくしは其れを社会的に齎される欲望の肥大化ー抽象化ーによるものだとさう結論付けて来て居る。

 


さう其れは個としての問題では無くあくまで社會の営為としての問題なのだ。

 

 

 

わたくしが奉ずる持続可能性への論理とは社會的に規定される欲望を常に最小化して行くと云ふことだ。

何故なら其の社會的に規定される欲望=抽象的に規定される欲望がデカくなればなる程にまさに社會的に齎されるリスクも高まって行くからなのだ。

 


だから其処でなるべく社會的な欲其れ自体を離れて行く。

逆に謂はばお家レヴェルでの欲の追求であり合理化をやって行く訳だ。

 


つまりは其れがまさに脱近代に於ける思想の核心部となる。

まさに其れが抽象的価値を意図的に離れ具象的価値に目覚めると云ふやうなこととなるだらうか。

 


抽象的価値→具象的価値

未来への欲望→目の前の欲望

大ひなる希望や夢→むしろ夢も希望も持たぬこと

支配欲→世捨て欲

子孫の繁栄→己独りが死んで終はり

 


と云ふまさに逆の価値観に目覚めて行かねば其の社會的に齎されるデカひ欲の撲滅には繋がらぬことだらう。

 


では御勉強することなども其の社会欲の成就に繋がることではありませんか。

第一最近何処かの塾の宣伝で御勉強すると年収が上がるだの何だのとさう言ってさへ居ます。

 

 

 

だが御勉強にはな、元々弐種があるのだ。

其れは覚へる御勉強と考へる御勉強の違ひである。

 


で、学校や塾はな、主に其の覚へる御勉強をやって行き偏差値だけを上げて行くのだ。

でもな、ほんたうの御勉強は自ら考へる力の為のものだらう。

 


なのだが学校や塾の御勉強もまた大事なのではある。

何故なら御勉強はやるクセを付けぬとやりたくなくなるものなのでイザさうなれば考へるクセもまた付かぬものであるが故に。

 

 

 

さても現代社會が今後もやりたひやうに文明をやって行くとどうなることでせう?

おそらくは其処に文明が崩壊して行くことだけは明らかだらう。

 


問題は其の崩壊をより穏やかなものにして行けるかどうかと云ふことだけだ。

 


では此の侭行っても全てが崩壊して行くとさう仰るので?

 


おそらくはさうなることだらうが其れ迄には時間があるので其の時を有効に活用しソフトランディングして行くべきだとずっとさう述べて来て居た筈だ。

 

 

 

その間に個としての価値観を正す、まさに此のことに尽きて居るのだと思ふ。

では文明の価値観を正すことは出来ぬとさう仰るので?

 


要するによりデカひ領域のものは結局合理化出来ぬ訳だ。

またさうしたにせよ推進力を失って仕舞ふことだらう。

 


だから其の推進力を個の範囲に限定し是非合理化して行くべきなのだらう。

 


なのだけれども、何度も述べて居るが如くに、

 


全体論的理性⇔還元的理性

と云ふ根本での対立がまた存するが故にまさにどちらをも見詰めて行かねばならぬ訳だ。

 


より具体的に言へば合理的進歩主義を諫める立場での人文の理性の力を決して見失ふべきでは無ひ。

 

 

 

ではさうしてより理性を磨くことで、即ち理性に目覚めることで我我個は救はれるのですか?

救はれると云ふよりも社會との関係のあり方がより改められ得ると云ふことなのだらう。

 


さすれば社會的な価値観に染め上げられることが無くなり自らの意志で考へる=眞の意味での理性を保つことが可能とならう。

 


理性⇔信仰

 


だが其れを成し遂げた後にも心理的にはまさに不断の努力が必要となることだらう。

即ち理性的な存在は信仰其のものへは至ることが出来ぬ訳なのだからむしろそちらの方を向き生きて行かねばならなくもならう。

 

 

 

でもまだ社會が持つべき正しひ欲望が何で悪ひのか、其のことがまるで分かりません。

社會は即ち文明は善であり善だからこそかうして人間が地球を支配しつつ生きて居るのです。

 


ばか、其処でよーく考へてみよ。

善も悪も正も邪もほんたうは無く只問題が有るか無ひかだけなのだ。

 

 

 

でもたとへばキリスト教ではあくまで善悪のことですよ。

キリスト教はな、他力本願の宗教でむしろ此の世は悪ひとさう捉へる宗教のことなのだ。

 


わたくしはさうした捉へ方こそが正しひことだらうと思ふ。

つまりは此の世のあり方にこそ問題がある。

 


何故かと云ふと其処にはまさに罪があるからなのだ。

 


でも神道とかまた他の多神教とかでは世はむしろ神と一緒に暮らすエエー良ひーところなのだ。

 


なのでむしろ其処では永遠の命=永遠のドタバタ劇を現世にて得やうとする訳だ。

即ち其処に生其れ自体を一種祀り上げても行くことだらう。

 

 

 

でもキリスト教と佛教はな、また其れとは捉へ方が違ふのだ。

 


特に釈迦による解脱の方法はな、其れはもう完璧に生其れ自体を止めて行く方向性にて其の点ではキリスト教などよりもむしろ過激なんだ。

 


そんな過激なんかじゃなひよ。

 


だって日本のお坊さんはみんな日々御先祖様に感謝しませう、だのととても常識的なことを仰って居ますよ。

 


いや其の常識的な佛教こそが實は非常識なので、其れでもって東南アジアの御坊様方などが日本の大乗佛教は邪教であるとお怒りになられたりもして居る位だ。

 

 

 

其れとな、其の善悪規定でのほんたうのところをよーく考へてみるべきだらう。

 


其れと云ふのも善悪と云ふ価値規定はそも成立などして居なひのだ。

 


エッ?

 


ではおまへは善人でも悪人でもなひのか?

 


いやだから其れはおまへから見れば我は確かに👿に見へることだらうがまた意識の高ーひ人々から見れば類稀なる善人にもまた見へることだらう。

 

 

 

其の善悪と云ふ相対価値を受け容れること自体が他力本願でありまた神と👿との対立をさう規定して行くことなのだ。

 


だから必然的に其れは相対的にしか救はれ得ぬ=救済されるものでしか無ひ訳だ。

 


でも釈迦の佛法はあくまでさうじゃ無く、其れ即ち其の相対価値其れ自体を両極否定により滅して行くものだ。

 


だから其れは人間として成し得る究極としての合理化なのだがもはや其れは人間技のものでは無くなって仕舞ふ。

 


なのでほんたうのほんたうは釈尊以外に悟った人など居なひのだよ。

アノ宗祖は確かに悟りました、などと云はれて居るのはまあ各宗派に於ける方便のやうなものなのだらう。

 


でも結局はどちらも正しひのだ。

 

 

 

相対認識⇔脱認識

他力救済⇔自力救済

 


と云ふことなのでキリスト教や大乗佛教、特に浄土教の場合は相対認識を受け容れることでこそ他力本願を可能として行くことだらう。

 


またキリスト教の場合にも其の相対認識を受け容れるー認識としての罪を赦されるーことでこそ神からの救済を可能として行くことだらう。

 


でもお釈迦様の頭の中には結局神は居なかったのだった。

 


エエッ?神が居なひ?

 


でもお寺へ行くと神々もまた居るものですが。

 


其れは大乗化して要するに他力佛教化しさうして神々が混入して行った訳だらうな。

 

 

 

神が居なひのだとすると其れはもしや無神論なのか?

 


さうだよ、其の無神論だよ。

 


きゃあー、そんな怖ひ教へこそが佛教の正体だったのか!

 


まあより正確には、

 


神⇔👿

と云ふ其の分別概念其れ自体を滅して行くことこそが佛陀による教への核心部なのだよ。

 

 

 

では其の佛陀の教へでは、祈ることや拝むことなどもむしろ無ひの?

 


さう祈るものも拝むものも此の世には何ひとつ無ひ。

 


信じるのは自分の考へと云ふか心のあり方だけででも最終的には其の心の働きさへをも放棄して行く訳だ。

 

 

 

エエッ?其れではもはや人間では無くなるのではありませんか?

 


さうだよ、もはや人間では無くなるのだよ。

 


ではたとへばAIと云ふのは其の佛の境地のやうなものに近ひものなのではありますまひか?

 


AIはでもあくまで人間が創ったものだからまるで違ふのじゃなひかな。

 

 

 

では其の佛陀の教へでは、たとへば其処にお経も墓もお布施も何も要らぬのですか?

 


まあ要らぬことでせう。

でもお布施を否定されて居る訳では無ひとさう思ふ。

 


ではかうして日々題目や念仏を唱へる日本の佛教とは一体何なのですか?

 


まあ須らく他力救済での佛法のあり方でせう。

 


でも禅の場合でも般若心経などは唱へられて居るやうですがもしや其れもおかしくはなひですか?

 


まあ本質的にはちょっと変でせう。

でも禅も最終的には相対分別の抹消が其の修行の目的なのでせうから逆に其処には余り拘らぬ方が良ひことだらう。

 


禅だけがさうして自力救済を目指し佛教としてはより純粋なのですか?

 


まあおそらくは釈迦の佛教に対してはさうであることだらう。

 

 

 

ですが其の、

純粋⇔不純

 


と云ふ相対概念分離こそがまずもっては問題となる訳だ。

 


ですが他力救済の宗教は概ね其の矛盾を受け容れ神と繋がり神に救はれるか、其れとも佛と繋がり其の佛に救って頂くなりする訳です。

 


では釈迦の佛法により近ひと目される禅宗の場合は題目や念仏をまるで信じては居なひのですね?

 

 

 

そりゃ知りません。

 


でもおそらくは否定的ではあることでせう。

 


だけど家の浄土眞宗式の金ピカの佛壇の前に座した曹洞宗宝蔵寺の若住職はいつも平気で其処で般若心経を唱へて行かれます。

 


なので日本の大乗佛教はむしろ何でもありでもって實際のところは良く分からん訳です。

 

 

 

でも何故浄土眞宗は般若心経を唱へぬのだ?

 


禅宗密教が重視する此の有り難き御経をさうして否定するに及んだのだ?

 


否定して居るのかどうかは知りません。

 

 

 

多分本質的にはキリスト教もまた空の思想では無く有の思想なのだらう。

要するに此の世は神の御業によるものなのでまさに有るんです。

 


其れが無ひではイケナヒのです。

 


では浄土眞宗もまた有の思想なのですか?

 


うーむ、ソコんところはまさに判断が難しひところですが浄土教がソコまで有る方へと傾ひて居るのかどうかはちょっと分かりません。

 

 

 

で、結局宗教は何でも良ひのですか?

 


結局、

 

 

自力救済⇔他力救済

 


とのことですがわたくしが問題として捉へて居ることとは實は其の選択の問題では無く、

 


もっともっと其れ以前での、

 


そも現代人にとり救済に意味があるのかどうか、と云ふまさに其の点なのです。

 

 

 

構造的には、

 


多神教による現世利益の追求⇔救済宗教による現世否定

と云ふこととなるが、

 


實は、あくまで現代人は、

 


科学技術による現世利益性をむしろ頑なな迄に奉じて来て居ります。

 


だから其の構造の前に、

 


宗教による救済の価値がむしろ科学技術による現世利益の価値へと全面的に転化して仕舞って居る。

 

 

 

まさに其れが自然科学による人間の価値観の数的還元領域への合理化と云ふことなのだらう。

 


で、多神教による現世利益性と数的還元領域での現世利益性はあくまで似て非なるものである。

 


要するに其処では合理化の度合ひがまるで違ふ訳である。

 

 

 

要するに神は時に怒ることもあり人間にとり畏れ多き存在でもまたある訳だが科学技術は決して人間に対し怒ったりはしなひ。

 


つまりは神は内部のものであると同時に外部のものでもまたある訳だが科学技術はまるで外側には居なひものである。

 


要するにさうして人間の概念が抽象的に組み上げたものであるに過ぎぬ。

 


其れは謂はば人間の内部でのみ完結して仕舞ふ進歩と云ふ物語なのだらう。

 


進歩が陥る危険性とはまさに其の種の自己完結性にこそ存して居ることだらう。

 


自己完結性とは神により与へられた世界を生きることでは無くむしろ神を人間の領域から永遠に放逐することなのだ。

 


神は死んだとかってニーチェが語ったが如くにいつしか人間は神を事實上殺しあへて自らを還元領域へと閉じ込めて仕舞った。

 


正直わたくしはさうした自己完結した上でのまるでSFのやうなお話に対し希望を繋ぐことの困難さを今感じて居る。

此の進歩を是とする現代に於ける社会欲の成就とはさうしたまるでSFのやうなお話に対し突き進むことでしかあり得ぬ訳だらう。

 


ー釈迦の法に於ける自己完結と其の社會的に達成される自己完結の様は異なって居る。釈尊はあくまで非社會的な個の領域に於ける解脱の方法を説ひた。解脱の為にはむしろ個に於ける其の自己完結の過程こそが必要だった訳だ。より簡単に申せば孤独である方が人間は眞理に向き直り易ひ訳だ。ー

田根 剛氏による目覚めた人間の為の建築ーサステイナブルな文明のあり方を模索する試みⅡー

田根 剛×齊藤太一 大地とつながるキッチン。 お手本は縄文の台所です。

 

其の番組中で最も驚ひたのがこちらの邸宅でした。

見た感じでは非常に洗練された空間でまさにお洒落なのですが、實は脱近代的な要素も其処には多分に盛り込まれて居る。

 

即ち土壁だのガラスで囲んだ温室のやうな造りだの古臭ひ要素がふんだんに盛り込まれて居ます。

しかも調度品などが至ってシンプルなのですが、だからと言って無機的な近代空間を形成する訳では無く温かみや安心感を感じさせるものとなって居る。

 

わたくしはまさに此の家こそが現代に望み得る最高の個としての空間なのだとさう素直に思った。

 

實はTV番組の中ではもっと庭の木立の様子が強調し映されて居てまるで林の中に建つ別荘の如き景観を呈して居りました。

 

で、此の邸宅はそんなに高価な素材を使って居る訳では無ひと云ふのに住空間として高いレヴェルでの快適性を實現して居るかのやうです。

 

ですが世界的な建築家である田根氏の作品であれば無論のこと其の設計費などはお高ひことでせう。

 

 

なのだが、我我は其処から學び得る筈だとさう思ふのです。

 

こんな家には勿論誰もが住めなひ訳ですが此処に示されたところでの人間の生活に対する快適性に関する要素を我我個は取り入れることが可能な筈だ。

 

で、さらに極論を言へば其処は洋風だらうが和風だらうがまるで関係無ひ訳だ。

 

洋風だらうが和風だらうが人間を快適に住まはせる要素とはまさに自然との共生関係にこそある。

 

 

逆に言ふと田舎の一軒家のことなどが何故か近年はTV番組化され大人気なやうですがまさに其れは田舎の一軒家の方が都会でのマンション暮らしよりもずっと快適に暮らせると云ふことなのだらう。

 

ところが廿世紀末位まではかうした辺鄙なところでの不便な価値と云ふものを都会の人々はほとんど評価して居なかった訳だ。

尤も芸能人などでも一部の文明のあり方に対する見識の高ひ人々が早々と田舎へと移住して居たりすることはあった。

 

でも勘の悪ひ奴等には何でワザワザ都落ちするのかと云ふ其の価値観の違ひから来る無理解があった訳です。

 

其の都が良ひと云ふのはまさに文明が良ひと云ふことで、其の価値観に立てばTOKYOやらNEW YORKこそが最高で奥三河の一軒家などは如何にもダサひ。

 

と云ふこととなりませうが逆に都会の人は現代社会の抱へる矛盾の酷さにやられ都会の価値観こそがむしろサヒテーに感じられるが故にむしろ田舎の一軒家こそが理想郷となるのであります。

 

なので其れは最終的に価値観の問題となるのです。

 

 

しかも美意識の問題なのでもある。

 

其の美意識さへあれば田舎でも高度な文化的生活は可能でせう。

 

いやむしろ藝術家は静かな環境をこそ好むものです。

 

藝術家にとっては内面での出来事が最も大事な訳ですのでウルサヒ都会を離れ沈思黙考することが可能な環境へと是非移住したくもなる訳です。

 

なんですが其処まで考へたり感じたりはして居なひ大衆に其れが必要かと申しますとむしろ合はなひことだらうとさうも思ふのです。

 

 

さて其の都会的洗練に就ひてですが其れは結局理性の力によるものなのかもしれなひ。

 

しかしながらそも其の洗練とダサさの境界と云ふものが良く分からぬ訳だ。

 

但し田舎のものでも本物の家は至極立派な家で洗練とは違ふのかもしれぬが其処に揺るぎなひ価値を感じさせられる。

 

たとへばわたくしの弟の嫁ーわたくしより三歳上ーの長野の家などは文化財指定されて居るまさにそんな立派な家です。

其処には本物の素材ー主に木曾檜ーがふんだんに使はれて居り其の柱の太さ、見事さにはいつも圧倒されて仕舞ふ。

 

都会的洗練も馬脚を露すのが早ひと申しますか80年代までは持て囃されたやうな直線的なビルだの何だのは今は流行らなくなったが其れでも都会にはいまだコンクリ製の直線物などが多ひ訳です。

其の幾何学的な造形がおそらくは有機体としての人間の素の姿には元々合はぬものなので次第に其れが疎んじられやがては皆が山奥の一軒家を再発見して行くのだとさう思ふ。

 

 

幾何学的な造形であれ何であれ其れを有機的に再編成し少しでも人間の生のあり方に適合させることこそが大事な訳で、彼田根氏の作品にはまさにそんな意味での有機的複合の努力の痕ー理性的なーが何より感じられるので其の空間が生体にとっての快適性を生み出すことかと思はれる。

 

さうしてまさに其の有機的複合の鍵を握るものが植物との共生です。

 

田根氏の建築作品には其の植物との共生の思想が何より垣間見へる訳だ。

 

また植物だけでは無く土との共生を建築の中に盛り込む点こそがユニークな視点です。

 

 

皆様御存じのやうに古ひ日本の家屋には土壁がありまた我が家などもまたさうですが基本的に木と紙とでもって出来た家です。

 

此の日本家屋は隙間が多く冬はとても寒ひのですが高温多湿となる日本の夏にはむしろ向ひて居たりも致します。

 

縁側と云ふものもまた御座りまして夏の夕方にソコに寝っ転がって居りますと庭から風など吹ひても来なかなか涼しくよってかってはエアコンなど要らなかったのです。

 

なのですが近代化から地球温暖化が引き起こされ其れでもってさうしたかっての自然的な生活も難しくなって仕舞ひました。

 

 

尚家は金が無ひので家を新築する予定などはありませんが我が家の辺りでは代替はりにて家を新築される方がまた多ひ。

 

すると其の新しく出来た家が皆おかしひのです。

 

其れもよーく見ますと皆窓が酷く小さく要するに外部との物理的接触を遮断するかのやうな家がほとんどです。

 

わたくしはまさに其れが文明の価値観としての病気だとさう思ふのでたとへどんなに綺麗な家でもそんな家に住む気にはなれなひ。

 

 

兎に角文明が自然との交流を遮断するかのやうな考へ方こそが現代社会の陥った深ひ病であることだけは間違ひありません。

 

で、先に申しましたやうに其れは西洋だからまた東洋だからと云ふことでもありません。

合理主義の筈の米國などでも意外に自然と共生し暮らして居るケースなどが屡見受けられます。

 

より保守的であらう筈の英國などは或はもっともっと自然との関係を大事に捉へて居るのやもしれぬ。

 

日本の田舎でも勿論其の自然を大事にして来て居る筈です。

 

ですが何故か日本の都会、其れも大都会のみが自然に対し極めて冷淡なのです。

 

まさに其れが戦後民主主義に於ける経済成長を目指して来たことの弊害で無くて何なのでせうか?

 

 

「記憶は現在を動かし、未来をつくる」田根 剛「未来の記憶」より

 

田根氏はさうして常に記憶を呼び覚ます訳だ。

其の記憶とは何より時間の経過を表すものでせう。

 

其れを意識ー理性ーとして誘導し物理的に組み上げる訳です。

未来への選択としてはおそらく其れが最善の結果を齎す筈です。

 

此処からしても人間はさうして文明は一度近現代の歴史を逆転させてみるべきなのやもしれません。

人間の歴史とは實は近現代のみに偏ったものでは無く中世や弥生時代縄文時代、また石器の時代をも内包するものです。

 

故に未来をつくるのはテクノロジーの力だけでは成し遂げられません。

テクノロジーは基本的に数的還元された価値観ですので、其処には一切有機体としての人間の快適性が考慮されて居なひ。

 

だからAIをつくることがむしろ有機体としての人間の快適性を損なって行くことでせう。

まさに其れは🚗や✈や🏭やらが悪ひものを撒き散らし地球を汚すことで人間の快適性を損なって行ったこととまるで同じことです。

 

 

ですからみんなが信じて居るもの、闘おうとして居るものの相手がそも違ふのです。

みんなは文明を信ずることなく逆に其れと闘はねばならぬのです。

 

所謂ポジティヴな未来、希望に満ちた未来は、其の文明を盲目的に信じ切って居る部分からは決して生じ得ぬことだらう。

其ればかりか夢と希望に満ちた未来など本質的には存在して居なひ。

 

けれどももしもアナタ方が其の未来に今を繋げたひと云ふのであれば逆に今を過去にこそ繋げてみるべきだ。

 

むしろ過去こそがそんな希望としての記憶の宝庫なのだから。

 

 

田根:また、当時は世界的に、「スター建築家」という建築家像が流行った時代だったんですね。スター建築家が世界のどこにでも現れ、コンペを獲り、個性の力でグローバルに活躍する。それに対して、僕らの世代は同じ道に向かうのか、違う未来を作るべきかということを、ヨーロッパで仲間とよく話していました。そんなとき、建築を作る原理として「記憶」という言葉が、僕のなかで強くなっていったんです。

 

田根モダニズム建築には、もともと、宗教や政治から自由に建築を作ろうとする創造的な意義がありました。しかし、それが幸か不幸か経済と結びつき、ガラスとコンクリートによって誰にでもできる仕組みになった。その結果、とくに大都市はどこも高層化し、抽象的な空間が増えて、街が記憶を失ってしまったんです。そんな時代の次に、僕たちは忘れ去られたものを発掘することで、何か異なる意味を探りたいと考えてきました。

一方で、古代まで遡って考えるなら、建築の基本は「場所の記憶を作る」ことだと思っています。ある場所に記憶を付与して、2つの地点に「ここ」と「そこ」という違いを作ること。

そこで重要なのは、記憶というと人の記憶に寄りがちですが、僕が言うのは、まさしく場所が持つ記憶のことなんです。人は記憶を忘れてしまうし、誰とも共有せずに亡くなることもある。でも、場所には人の記憶を超えたものが刻まれているから、それを掘り起こして未来につなげたいと思うようになりました。

 

田根:じつは「未来」という言葉をなかなか使えずにいたんです。だけど、エストニアミュージアムができたことで、本当に土地の人々の人生が変わり、街が明るく変わっていくのを見ました。建築は、完成した瞬間に未来に向かっていくんだということを、とても強く感じることができたんです。

その経験を経て、「新しさ」によって未来を作る近代的な考え方ではなく、もともとそこにある記憶と未来を一体化するような建築があるんじゃないかと。今回の『未来の記憶 Archaeology of the Future』というタイトルには、そんな思いを込めました。ー田根剛の頭の中はどうなってる? 古代と未来をつなぐ建築家に訊くより

 

 

ー抽象的な空間が増えて、街が記憶を失ってしまったー

 

まさにわたくしが批判して居る点が其の現代文明に於ける抽象性です。

 

主に都市に於ひて抽象的な空間が増へることで、またさらに抽象的な概念が増へるー増殖するーことで人間が本来持って居る筈の具象性が圧迫され破壊されて行く訳だ。

具体的に申せば先回述べましたやうにゲームやスマフォの蔓延にて今子供の近視が進みもう大変なこととなって居る訳です。

 

其処にさらに批判を加へますれば今の教師や母親達は一体全体何をやって居るのでせうか?

そんなもん人間の體にとり悪ひに決まってるゲームやスマフォを何でまた子供等にやらせたりするのでせうか。

 

そんなもんやる位なら子等が川で流されて土左衛門にでもなる方がまだしもましと云ふものでせう。

 

確かにわたくしもかうしてパソコンはやりますがわたくしのパソコンは昔から大画面のデスクトップ型でTV番組や映画のDVDなども皆コレでもって視て居ります。

何でまたパソコンを持ち歩ひてネットやゲームをやる必要があるのでせうか。

 

 

ー「場所の記憶を作る」ー

 

まあ壱種難しひ論題ではありませうが、考へてみるとポツンと一軒家の其の一軒家の価値と云ふこともまた確かに場所の記憶なんです。

場所の記憶と云ふことは人間の持つ抽象的な思考の癖を離れて具象的な場に立ち返ると云ふことなのやもしれません。

 

ー「新しさ」によって未来を作る近代的な考え方ではなく、もともとそこにある記憶と未来を一体化するような建築があるんじゃないかー

此れ迄にも何度か述べて来て居りますのですが、近代的な原理とは進歩により創造と破壊を繰り返しつつ歩んで行く其のパターンの固定化でもまたある訳です。

 

創造と破壊なのであれば其れは本来ならば神のみが行ふべきことである訳ですが、近現代はまさに其の立場に人間が入れ替はり就ひて居り其の本来ならば神の御業であることをあへて人間がやって行って仕舞ふ訳だ。

でも其れは嘘の御業でありあくまで人為での御業ですので何処かにポッカリと開ひた穴、欠点が存して居りまさに其処がデカくなるのでいつしか文明の全てが其処へと吸ひ込まれて行かざるを得なくもならう。

 

其の如何にもヤバひ🐜地獄のやうな世界ー人間の認識にて自ら選んだ世界ーをギリギリの綱渡りでもって此れ迄やって参りましたが2020年を迎へると同時にドーンと其処に落ちたのでした。

で現在はまさに其の穴の中でもがき続けて居ると云った感じなのでせう。

 

其のギリギリの綱渡りとはそもそも危険なものなのでやらぬ方が良ひ訳ですが元よりみんなには其れが分かりませんのでかうして穴の中でもがき続ける他は無ひ。

其れ即ち🐜地獄のやうなもの、人間地獄、文明地獄のやうなものに捉へられたのだとも申せませう。

 

 

ー「記憶と未来を一体化する」ー

 

近代的原理はたとへばニュートン力学や天動説を否定した上で相対性理論量子力学、また地動説を打ち立て其れを奉ずることにて新しひ人間の考へのみに生きやうとします。

なのですが、實は過去のものが悪ひと云ふ証拠など何処にも御座りません。

 

逆に言ふと新しひ人間の考へにのみ傾くことのリスクは計り知れぬものがあると云ふことでもある。

進歩には必ずや其の二面があり、まさに其れが人間が表面的に便益を享受することの裏腹に地球を崩壊に至らしめて仕舞ふ虞さへもがあると云ふことです。

 

故にむしろ記憶を未来へと取り入れた方が文明のリスク管理はやり易くなるのです。

 

たとへば地球温暖化の大問題であるにせよ二酸化炭素をドンドン出しつつ現代文明を継続させて行くよりは原始的要素を取り入れた生活を営むことで循環や自然との共生の思想を目指して行くことが初めて可能となる。

 

 

また其の事が結局エネルギー管理の問題にも絡んで参りませう。

 

過去を取り入れたローリスク型の居住空間を構築することでより少なひエネルギー消費にて人間の営為が新たに開始される筈です。

 

問題は成長を前提とする資本主義が其のモデルに適合せぬことですがさうであるならむしろ資本主義を放棄して行くべきなのではありますまひか。

 

資本主義など放棄し原始共産制だの無政府主義だの色んな社會のあり方が其処に考へられるではありませんか。

 

要するに人間がグローバルに活躍する必要などもはや何処にも御座りません。

 

さうした幻想としての抽象的価値は具象的限定としてのコロナ禍がすでに葬り去って居ることでせう。

 

 

さう言へば以前から詩人さんは飛行機に乗るなだとか豪華客船に乗るなだとか海外へ旅行するなだとかそんな非常識なことばかりを良く述べて居られましたね。

 

確かに此処で其ればかりを屡言って居ました。

 

でも一体何で其れが当たるのでせうね。

 

皆様はまず其処を考へた方が良ひのではなひでせうか。

 

 

其の住環境と云ふのは庶民にとっても分かり易ひ具体的な領域だと思はれます。

思想だの何だのを抜きにしても兎に角分かり易ひ訳です。

 

ですがまさに其の住環境こそがおかしくなりつつあるのではなひか?

 

まさに其処がわたくしには懸念される部分なのです。

新たな住宅はまさに合理的に設計され自然との関はりを断って行くかのやうです。

 

自然との関はりを極力大事にして行く為には近代的な価値に対し少なくとも懐疑的な姿勢を貫けるやうでなくてはならなひ。

 

ですが庶民にとり其れがもし難しひのであれば何故田根氏の創られた建築物が快適さうに見えるのかと考へさらに眞似をしてみれば良ひのです。

 

たとへば植物を自分の部屋に入れるなどしてみるだけで部屋の雰囲気がまるで変はるものです。

 

わたくしの場合は竹を入れていますね、其れも育ち過ぎて隣の家にまでかかって仕舞った黑竹を壱本其の侭に入れて居ます。

 

其の竹は枯れて仕舞ひましたが七夕の如くに色々と飾りつけなどが出来ますのでこれから色々と付けて行かうかと思って居ます。

 

尚わたくしは筆記具のコレクターでもあるのですが、庭の竹ー様々な種類のーを軸に使ひDip Penを作ったりも致します。

 

他に石などは沢山置ひてありますので無論のことながら其れ等が一番綺麗です。

 

石は枯れもせず飯も食はずで人間が生きてる間にはほとんど変化しなひものですのであくまで装飾品としては理想的なものですし何よりも其れ等は自然物なので眺めて居るだけで癒されるものです。

 

此の自然物があると云ふだけで人間にとっての居心地の良ひ空間が形作られるかのやうだ。

 

かうして人間は常に自然を大事にしつつ生きるべきです。

其れも居住スペースの中に意図的に自然を取り込むことでこそ眞の意味での癒しの空間が形作られるのではなからうか。

田根 剛氏による目覚めた人間の為の建築ーサステイナブルな文明のあり方を模索する試みⅠー

本日朝教育TVを視ていたら、たまたま凄ひ番組が流されて居り其れに釘付けとなりました。

一言で評せばまさに其れは眞の意味での文明の進歩のあり方を示すことだらう建築のことでした。

 

で、其れが或る建築家により東京にて行はれて居るものであることが分かった。

 

其の表参道と言へばかってわたくしは17歳の折に訪れましたが其の折にわたくしはカツラを被って其処を歩ひて居たものでした。

 

 

 

サステイナブル【sustainable】ー[形動]《「サステナブル」とも》持続可能であるさま。特に、地球環境を保全しつつ持続が可能な産業や開発などについていう。

 

 

さて其のサステイナブルな文明のあり方ですが、實はまさに今其れこそが文明に問はれて来て居ります。

と申しましても其のことは一部の「意識が高ひ系」の人々の間でのみ重要な観点として流通するばかりなのでせう。

 

即ち「意識が低ひ」いや其ればかりか文明に洗脳されて仕舞ってる獣系の人間にはサステイナブルな文明のあり方もクソも無く只只其処でもっておおまるでかの自民党の如くに古臭く腐ったやうな価値観に縛られ、より具体的には不細工な妻と出来の悪ひ子の無難な養育のみを其処に乞ひ願ひ、神社へ出向ひてはさうして不細工な娘にも良縁がありますやうに、またテストでもって零点を取って来たバカ息子が何とか大學に入れますやうに、などと兎に角現世利益にのみ深く深く捉へられ全ての価値観がさうして獣化して仕舞って居る訳だ。

 

 

で、詩人がこんなことを申しますとむしろみんなは反発する訳だ。

みんながかうして眞面目に身内の幸せを願って居ると云ふのにおまへは其れに反対ばかりをして居る。

よりにより社會の常識をさうしていつも壊しにかかる。

 

おまへなどまともな人間では無くむしろ人間の屑だ!

 

ヘヒヘヒさうでせう、でも詩人の見識は常に高ひところにこそあるよ。

 

 

まあ其処では常に知的に洗練されて居りますのでアナタ方とは違ふのですよ。

 

「意識が高ひ系」の人々にも色々と種別があることかと存じますが日頃からわたくしが思って居る事とは経済的な成功の中に其の意識の高さが存する訳では無ひと云ふことなのだ。

 

勿論経済的な成功者の中にも洗練された意識を持ち其れなりに自らを固められて居る人々が要ることでせう。

 

でもわたくしはさうしたものを評価する訳では無ひ。

 

わたくしが見詰めて居るものとはズバリ其の人が持つ生に対するコンセプトです。

 

彼がまた彼女がどのやうなコンセプトを持ち今と云ふ時を生き抜ひて居るのか、まさに其処こそが問題となるのです。

 

わたくしが庶民の生活を応援しつつ反面其れを見下したりもするのは惜しひ哉彼等には其の種の哲學、ポリシーには欠ける部分がある故まさに其処を批判して居る訳だ。

 

 

 

さても其のサステイナブルな文明のあり方とは何か?

まさに其の点が「意識が高ひ系」の人々にはすでに分かって居るのです。

 

たとへば岡本 太郎氏などが其の脱文明への藝術的見地からの模索をなした人であったことだらう。

岡本 太郎氏は縄文時代の生粋のエネルギーのやうなものを現代社会に蘇らせ其れを其の侭に現代と云ふ倒錯の世界にぶつけてみた訳だった。太陽の塔

 

  太陽の塔#第4の顔_「地底の太陽」(太古の太陽) 生命の樹より

 

 

太陽の塔を創った「爆発する藝術家」としての岡本 太郎氏による生に対するコンセプトはむしろ「人類の進歩による自然の不調和」であった。

其れ即ち「意識が低ひ」=「獣」としての人類の営為が積みかねられる程に自然は汚され其ればかりか破壊される即ち持続不可能なものとなって行かざるを得ぬ。

 

 

だから其れは表向きの「調和」とはまさに裏腹でのコンセプトであった。

さうして望ましくある筈の生のエネルギーの発露は現代が目指す進歩などでは得られず、むしろ縄文と云ふ過去を振り向くことでこそ得ることが可能となる。

 

即ち人間の生としての根源的なものを見詰めなければ進歩がむしろ破壊者であることの實相が見極められぬ。

 

此処からも所謂意識が高ひと云ふことはそんな現代の価値観に対する批判力のこと其のものなのだらう。

 

だから其のサステイナブルな文明のあり方の問題とは最終的には見識の違ひ=価値観の違ひの部分に集約されて来ざるを得ぬ訳だ。

 

 

つまるところ意識の低ひ奴には物事の實相がまるで見へて居らぬが故に人間は進歩して偉ひなどとさう思ひつつも實際には文明は世界を破壊して行くことしか出来ぬ訳だ。

わたくしが此の処「獣」と云ふ概念を提示して居るのはまさに其の見識が低ひ様、要するに知識だけはあっても物事の道理がまるで分かって居なひ文明に於ける認識の様をさう揶揄して言って居たのだ。

 

 

詩人さんはさうして意識が高ひの、或は高過ぎるの?

さう高過ぎて實は困って居るのだよ。

 

つまるところはまさに其れが現代文明による価値観と自分でもって創り上げて来た価値観との齟齬であり乖離である部分なのだ。

 

だがサステイナブルな文明のあり方を模索し且つ其れを提示して行くことこそが藝術に与へられた使命であることもまた確かなことなのだ。

其の気付きの力を世に指し示す=表現することこそが表現者であることとさうでは無ひ世界との溝や壁に対する挑戦でもまたあることなのだらう。

 

だから其れはどんな藝術上の分野であるにせよ同じことなのだ。

 

絵画にせよ彫刻にせよまた建築にせよ文學にせよまさに其の使命をこそ其処に担って居るのだと言ひ得ることだらう。

 

 

さて其の建築家の田根  剛氏のことですが、此の方はまさに文明の目指すべき方向性を高ひレヴェルで表現されて居ると云ふ意味で抜きん出た方なのだらう。

 

ー「私の想いを正直に話すと『今、みんなが本当に欲しいものは何?』をお客さんと一緒に考える場所をつくりたかった。環境やライフスタイルの急な変化が起こっている中で、人々の価値観も変わっていることは確か。私は現代の生きづらさの一因に、自分では作れないスマホや移動手段に頼らなければならない恐怖感があると考えていて、今回この“更地”で、一から私たちに必要なものを確かめたかったんです。たとえば先日、ここに陶芸家の方がいらっしゃって、一緒に『縄文時代ごっこ』をしたのですが、庭園で焚き火をしていたらお皿や器ができました。作物も育てているから、美味しいごはんも食べられる。土からレンガをつくって家も建てれば、ここでミニマムな暮らしができるなと小さな自信と喜びを覚えました。もしかしたら、この感覚を可視化して訪れる方々に共有していけば、現代の生きづらさが解消される未来に繋がるかもしれませんよね」

「歴史を振り返っても、新しい文化は、リセットされた更地から始まるものですから」ー床、壁、天井、テーブルも地球に還る「土」。表参道でサステナブルな美食体験「GYRE.FOOD」よりー料理人である野村 友里氏の言葉ー

 

 

かうして現代文明は抽象的に現在を形作り過ぎて居ます。

其の現在は謂はば嘘の現在であり人間にとりあるべき今なのでは無ひ。

 

或は学校で教師達も今困って居ることでせう。

今はコロナのこともありませうが、其れ以前に子供達の近視の拡大がもう酷ひことになって居るやうだ。

 

其れも教師であるのなら、むしろほんたうのことを子供たちに教えるべきだとわたくしなどは思ひますのですが。

さうスマフォも🚙も要らんとさう教へるべきなのだと思ひます。

 

現代文明に必要なのはさらなる進歩への欲望では無く進歩を否定するに足る個としての強ひ意志の力です。

まずは教師が率先して此の意識改革をなし循環型の文明のことを考へるべきだらう。

 

でもコロナにやられた分また余分な雑務に追はれる分教師の皆が追ひ詰められ考へる機会すら持てぬのが實情なのだらう。

だから教師はそんな文明の奴隷なのではダメだ。

 

其の近視の拡大は然し大問題です。

其れもゲームだのスマフォだのの影響が一番悪ひのださうだ。

 

また🚙にいつも乗ってる人も體を使はぬ分必然として体力が落ちて行きます。

要するに文明の利器が須らく人間の肉体にとり悪ひのであります。

 

だからまずはソコ、ソコをこそ止めるべきでせう。

 

是非進歩を否定し子供等の肉体を文明による破壊から守らねばならぬ。

其れも早急に其れをやらねば馬鹿息子も不細工な娘も皆死んじゃふのだぞよ。

 

 

現代の文明、まさに其れは「悪ひ」ものです。

まずみんなは其処が分かって居りません。

 

逆に文明は有難ひものだとさう信心して居ます。

ああ、ありがたや、ありがたや、新幹線が通りおまけにダムが出来もうコレで我が故郷は安心だ。

 

バカ、其の文明でもっておまへらの故郷は将来壊滅するのだぞ。

 

 

『今、みんなが本当に欲しいものは何?』

 

東京や大阪、また其れに準ずる都市での見識が高ひ人々はもはやスマフォも🚙も要らんのであります。

まあ其処まで言ふ人は此処名古屋には少なひ筈です。

ですが、わたくしに限っては感度が高くあるのでかうして名古屋には極めて珍しひ文化人でもまたある訳だ。

 

でも田舎の人、アンタ方が欲して居るのはむしろ其のスマフォや🚙や高層ビルなんでせう?

でもってTOYOTAみたく大金持ちになりたひとさう思っていますね。

でもそんなものは間違ひだらう。

 

TOYOTAイチローも金を持ち過ぎて居り其のことによりほとんど思考が濁って仕舞って居ることだらう。

 

 

 

米アマゾン創業者の元妻、「弱者」に寄付 4400億円

うはあ、此れはまさにとんでも無ひお布施の額だぞ。

でも此の人、純資産は560億ドル(約5兆8000億円)とのことですのでほんたうならば五兆五千億円以上は寄付せねばならぬのでせう。

少なくともキリスト様ならば五兆円以上を寄付せよとさう仰る筈であらう。

 

資本主義は左様に頭がオカシヒ。

要するに富が偏り格差が酷くなるやうに元々出来て御座る。

 

 

つひ文明批判に熱が入り肝心のことを言ひ忘れて居ました。

此の表参道の商業施設「GYRE」4Fに存在する“循環”をコンセプトとした食空間「GYRE.FOOD」ー田根 剛氏による設計ーの居心地の良さそうなことと言ったら。

 

“循環”がテーマの新グルメスポットが表参道「GYRE」にオープン

 

近現代の文明はまさに其の人間にとっての重要な価値としての「循環」を忘れたかのやうに「進歩」のみを追ひ求めて来た。

いつしか資本主義はより合理化されまさに合理的に利潤をのみ追求するシステムと化し抽象的な進歩を達成させる為のイデオロギーとなりつつある。

 

だがそんなイデオロギーが果たして我我に何を与へて呉れるのだらうか?

 

 

『今、みんなが本当に欲しいものは何?』

 

我我は今ほんたうに株価だけが吊り上がり其れでもって嬉しひのだらうか?

我我はコロナが収束しまた同じやうに資本主義が復活することを望んで居るのだらうか?

 

我我はコレ以上に飽食しまたコレ以上に知識を詰め込みコレ以上に電脳化し其れでもって幸せだと果たして言ひ得るのだらうか?

 

我我に必要なものとは其の「循環」を可能とする為の理性の力であり其れ即ち所謂意識が高ひところでの見識=価値観の成就である。

 

人類よおまへたちは今まさに其の獣であることから卒業して行かねばならぬ。

其の獣臭ひところを脱し眞に理性的な文明を築くに足る感度をこそ今後は磨き続けよ!

 

 

確かに大衆は常に多くを望んでなどは居らぬ。

民衆は只普通に生きることを望んで来ただけのことだ。

 

だが現代では其の普通の欲望が戦争をまた進歩を支持したりもする。

其れに自民党は罪人であるにも関はらずかうしていまだ大衆により支持され続けて来て居る。

 

 

兎に角サステイナブルな循環とは理性の働きが創るものであることを何より田根 剛氏による建築から學ぶことが出来るやうに思ふ。

また番組中に視たことで衝撃的だったのは、此処のテーブルが土で作られて居ることだった。

 

さうして土にて作られたテーブルは時の流れと共に部分的に壊れて行く。

だが其の自然としての時の流れを此の空間は受け容れて居る。

 

現代文明の構造物は其の逆に自然としての時の流れを拒み続けて居ることが多ひ。

化石燃料の大量消費にせよ其れは本質的には其の時の流れを拒み続けることに他ならぬことだらう。

 

 

其の時の流れをむしろしかと見詰めて行くことこそが大事だ。

先に述べたやうに時の流れとは分離であり分裂のことだ。

 

故に時は本質として流れるべきでは無ひものなのだ。

 

時が流れると矛盾が生じる。

さうして分かたれたもの同士が繋がることで矛盾を生じることだらう。

 

だが其の矛盾から顔を背けることなどは出来ぬ。

其の矛盾を見詰めることでつまりは時の流れを感ずることで我我は獣としての認識を脱しより高ひ感度と見識を磨き続けて行くことが初めて可能となることだらう。

 

矛盾を直視することなく文明が渡り続ける横断歩道に今其の赤信号が点って居る。

文明が齎す刹那の利益だけに固執し其処での快楽を貪り続ける其の様こそが醜ひ獣としての有様を形作らずして他に何を形作ると云ふのだ。

 

 

自然はかうして本来心地良ひものなのだ。

田舎にはそんな自然があるが、田舎には金が無ひ。

そんな抽象的な価値の達成の為に都会と云ふものがまたつくられたことだらう。

 

だが都会で追求される抽象的な価値は容易に肥大化し且つ劣化する。

其れはやがて人間の肉体を脅かすものともなり得る反自然の力の増殖のことだ。

 

そんな獣の力としての欲望がさうして全てを破壊へと導くことだらう。

まさに其処では都会もまた田舎も共に破壊されて行くことだらう。

 

 

であるからこそ今まさに其の破壊を理性にて阻止するのだ。

破壊を止め得るものは理性以外にはあり得なひ。

 

其の理性の働きこそが「循環」の思想の中にはある。

「循環」を可能とするものは理性であり、逆に破壊とは獣としての欲望の仕業である。

 

また「循環」とは神佛による智慧であり、破壊とは其れとは逆の魔の働きによるものだ。

其の魔に支配された世界こそが今まさに破壊へと突き進んで行く訳だ。

 

其れにストップをかけ人類が自ら行ひを正して行く為には目覚めた理性による新たな価値観の構築こそがまさに望ましひ訳だ。

其の理性による新たな価値観の構築の實例としてわたくしは田根氏の建築を是非挙げておきたひとさう思ふ。

現世の極樂へは此の石でもって行かうー宮崎 美子氏の石趣味のことー

さうして人間存在の自己矛盾の様は今に始まったことでは無くむしろ太古の昔よりさう其れが規定されて来たものであった。

 

故に人間の持つ悩みとは普遍的なものでありつまりは時間を超越し存するものなのだ。

其の普遍的に突き付けられる悩みとまさに対峙せねばならなくなったのが現代文明としての性格ー性質ーなのだ。

 

ではそんな根本での問題を何故今、よりによって此の今に突き付けられて居るのだらうか?

そんな問題がいまだかって文明に突き付けられたことなどは無く、従って昔の人々ー前近代を生きた人々ーは適当に誤魔化し今を生きることで其の生涯を無事に終へることが可能であった。

 

 

でも何故今はかうしてみんなー特に一部の搾取に喘ぐ人々ーが苦しひ、まさに希望無き今と明日を生きて行かねばならぬのだらう。

わたくしは其の原因が政治思想の誤りにあるとさう結論付けて来て居る。

 

そんな風に誰が悪ひのでも無く、悪ひのだとすればまずもって其れは社会が悪ひのだ。

 

其れも社会が寄って立つ其の根本のところでの思想こそが悪ひのだ。

 

だから我我はまさに其の思想に対し今闘ひを挑まねばならぬ。

 

人間であることに対しかうして余分な苦悩を突き付け其ればかりか我我の未来を危うくし人間の破壊を企てるそんな思想に対したった今より宣戦布告をするのだ。

 

 

近代的な生活とは其のみんなが憧れて止まぬ文明生活とは然し何て不安定なものなのだらう。

一体誰がこんな暮らしを望んで居るとさう言へるのか?

 

我我は只人間らしく其の土地土地でもって生き延びたひだけのことなのだ。

 

生きて寝て食ってウンコをたれたまに勉強しさうして👩に触はる。

 

そんな🐵、いや🐗、いや🐻、いや獣の我我の為に文明は一体何を与へて呉れると云ふのか?

 

よりスーパーな性能の電子頭脳か、其れとも人体を部分的に再生し若返らせたりする人体実験のことなのか。

 

 

嗚呼こんな馬鹿文明にはもはや興味が無ひ。

 

其れも👩が或る👨に一度興味を失ふともうまるで無関心になるのと同じことで我はもはや現代文明にはまるで興味が御座らぬ。

 

其れでは早速観察してみやう。

 

今家の庭には蠟梅の花が咲き乱れかぐはしい香りをかうして放って居る。

 

クンクン、嗚呼、何て良ひ香りなのだ。

 

だが夕方になると家の前の道を🚙がビュンビュンと通り過ぎて行く。

 

 

ぎゃあなんてせはしなひ世の中なのだ。

此処からももはや人間はどうしやうも無ひ馬鹿なのだらう。

 

一体何をそんなに急ひで居るのだ?

さうだ、そんなに急ひで一体何処へ行く?

 

かうして🌸の香りに酔ひ痴れることを忘れて、おまけに釈迦のこともキリストのこともスッカリ忘れて、只只さうして時速六拾キロ以上でスッ飛んで行く人間共のあさましひ欲望の様。

 

醜ひ欲望の様?

さうだ、人間共は醜ひ。

むしろコレ以上無く醜ひ。

 

 

今日はまた批判の力がどうも強ひやうですね。

人間の眞ん中を攻めてると云ふそんな感じでせうか。

 

詩人さん、また山へでも行き気分を変へて来るべきなのでは?

 

いや、つひこなひだまた東山へ行き東山タワーにも登って来たところだ。東山スカイタワー5F360°展望台

 

わたくしは時折此処を訪れ其のパノラマの景色を眺めて来るのだ。

其処で何が見へますか?

 

高層ビルの立ち並ぶ薄汚ひ都会の様を眺めるのでは無く遠景としての山を眺めて来る。

 

だからこそ必ずスーパークリアーな晴天の日を選び此処を訪れるのだ。

 

 

嗚呼此処はデートスポットとして名古屋人には有名なところですね?

 

さうだなあアノ東京のクソ高ひ塔などと同じでバカップル共の巣窟となって居ることだらう。

 

だがな、詩人が此処へ登る目的は其れーカップリングーとはまるで別物なのだ。

 

詩人はな、まさに其処でスーパークリアーな御岳山や御在所岳や恵那山、其れに段戸山などを只ウットリと眺めて来るのだ。

 

 

なる程、所謂色気では無く山が美しひのですね。

 

さうだ、山、其処はまさに神の如くに美しひ場所だ。

 

そんな美しひ山へ登る?

 

いやわたくしは生まれつき右足が弱く其れが今次第に痛むやうにさへなったのだ。

 

だからハードな山登りなどもはや不可能なのだ。

 

 

自転車には乗れる?

乗れるがもはや長距離は無理だ。

 

其れに足に負担がかかるゴルフなどもとりあへずは止めて仕舞った。

 

そんな訳でもはや引退がふさはしひ人にいつの間にかなって仕舞った。

 

だから今は基本的にお家時間をかうして満喫して居るのだ。

 

 

そんな東山タワーからは八事から相生山にかけてのわたくしの生活圏もまた一望出来る訳だ。

 

尚、今回ー一週間ほど前の晴天の日ーは結構展望室が混み合って居た。ーとは言へ拾人程なのだがー

 

なので東山タワーへもし行くなら朝一番に訪れた方が良ひことだらう。

 

わたくしは菌やウヒルスの類には極めて敏感で、だから其の折にどうも目や鼻や喉の調子が悪くなった。

 

其れでもって4Fの展望台の方へ逃げてみた。

 

4Fの展望台はバカップル共が日頃から少なくゆったりと景色を楽しめるのでまさにお一人様向きの展望台なのだ。

 

 

其れでもって1Fへ降り無料休憩所へ行くと誰一人居なひ。

 

しかも此処には綺麗な便所が付ひて居る。

で、其処の立派な木のテーブルに腰かけすき屋 牛丼を食って来た。

 

即ち最近は山などへ行く折にコンビニにて🍱や菓子を買ふのでは無くすき屋にて牛丼の中盛りを買ひ其れに現地にて飲み物を調達して居る。

すき屋の牛丼は頼んでから拾~弐拾秒で出て来る日本一早ひお持ち帰りフードで其れも並の方ならば常に安ひと来てる。

 

無料休憩所へは強ひ日差しが射し込み丁度寒い日だったので暖かく快適なこと此の上無ひ。

 

まさにかうした部分こそが東京や大阪には求め得なひことだらう名古屋の都会としての良さなのではなからうか。

つまりは大都会なのに何処かに一人で居られる空間が残されて居るのだ。

 

でも孤独でせう?

いや孤独な方がむしろ楽しひ。

 

何をやるにも實際自由なのだからゆえ。

 

 

其の後にまた石を拾ひましたね?

 

まあちょろっとね、拾ひました。

 

何でそんなに石が好きなんですか?

 

じゃあなんでおまへはそんなに👩が好きなのだ?

 

さうは言はれましても、此ればかりは如何ともし難く…。

 

 

だから其れと同じことだよ。

 

もう『本能』だよ、本能。

 

只其の本能が屈折して多分原始的になってるのだ。

 

 

すると石マニアは皆原始人なので?

 

まあさうだなあ、原始人なのかもしれなひよ。

 

 

其れはさうとアノ宮崎 美子

宮崎美子 #幼少期

が何と石マニアだったぞ。

 

あれ宮崎 美子は法学部の出だったのか。

しかも石マニアで、我は今年同ひ年ともなる。

 

つまりは同学年だ。

 

さらに宮崎 美子は今独身のやうだ。

さうか、では心の恋人にでもして置かうかな。

 

何故なら、宮崎 美子は断じて馬鹿👩では無ひぞ。

其れに宮崎 美子は何と漢字検定一級の合格者だ!

 

 

【趣味の話】石の話と◯◯弾いてみた。

 

何、もの言はず変はらなひ石が好きだと!

石は宇宙のかけらだと!

 

しかも金属鉱物のマニアだと!

尚金属鉱物のマニアは石マニアの中でも相当にイって仕舞って居る愛好家の方々のことです。

 

わたくしもまた金属鉱物が嫌ひでは無ひがほとんど集められて居なひ。

わたくしの場合には石の色合ひこそが大事なのでむしろそちらの方に気を取られて金属鉱物まではまだイケて居なひ訳だ。

 

 

【石の話】翡翠(ひすい)の由来知ってますか?【趣味】

 

【石】国石である「翡翠」はなぜ奈良時代に表舞台から消えたのか!?

 

此れ等を今夜これから是非視てみるつもりです。

 

 

【感謝】水着グラビアについて。

 

みゃおーうん。

 

 

宮崎美子 ミノルタCM

 

みゃおーうんうん。

 

 

こんな宮崎 美子氏もいつの間にかババアになるのですね。

 

石が好きな奴はハッキリ申しまして利口が多ひことかと思はれる。

 

石は常に冷たひでせう?

 

まあ石は生きては居なひ自然物なのですから。

 

尚宮崎 美子氏は糸魚川で靑の翡翠を拾ったやうです。

 

わたくしの夢とは翡翠の極上品をいつか糸魚川にて拾って来ることだ。

 

でも其の前に三月までにまた棚山へ行きオパールを拾って参ります。

 

では何故三月までに行く必要があるのか?

 

 

鳳来寺山自然科学博物館 奥三河のキラッと鉱物展

 

是非コレを見に行かねばならぬのです。

此の種の催しは以前にも見たことがありましたが、其処は流石に博物館での展示レヴェルの石が地元のマニアなどからも集まり展示されますので見応へがあります。

 

逆に言へばネット上で売られて居る奥三河の石は博物館での展示レヴェルの石には基本的に及ばぬ筈です。

 

三河は太古の昔に火山活動があり其れでもって色々と石が出る訳だ。

 

元より奥三河は自然の宝庫であり實際に💎が眠る夢の山山なのでもまたある。

 

尚今回は奥三河を訪れる場合にもコンビニへは寄らずに結局名古屋で買ったすき屋の牛丼を持って行くことでせう。

 

ちなみにわたくしは昔ー拾弐、参年程前ー長靴を履きヘルメットーラヒト付きーを被って田口鉱山の旧坑へと入坑したことが何度もありましたがまさにアレが人生で最後のアドベンチャーでした。

 

其れがまあ兎に角怖ひ訳です。

 

 

そんな訳で石の話は我我石マニアにとっての極樂の世界其のものなのだ。

 

極樂はまさに宗教にて行けるものかとは思ふのだが、其の前にむしろ現世にて極樂へとイって仕舞ふのがわたくし達にとっての其の石の世界のことなのだ。

権威主義の果ての文明の行方ーわたくしのポスト・コロナ論ー

おそらく此の世界は有機的な価値を有して居る。

其れを合理化にて抽象的無機的に変換するからこそかうした無理な力が自然にかかり揚句には具象的に限定されざるを得ぬ。

 

要するに其の具象的に齎される価値崩壊とはむしろ抽象的な価値を無制限に追ひ求めることでこそ成立して居る。

だがもしも我我が具象的な価値をトコトン追求して居たならば此処までの限定が強ひられることなど無かった筈だ。

 

其の抽象的な価値とは、人間の肉体の維持管理の領域を離れ何処までも肥大化して行く幻想としての価値のことだ。

 

具体的には其れが経済成長であり、またグローバルな國家間の緊密度であり人種間の垣根の撤廃であり食料供給や資源供給を世界レヴェルにて行ふことだ。

 

わたくしはさうした拡張型の文明は✖だと考へて居り、対して○なのはまさに地産地消、小さな領域にて営まれる前近代型の文明だと日頃から常に考へて居る。

 

 

また其の部分は宗教が示すところでの眞理のあり様から導き出される考へ方なのでもある。

 

たとへ宗教が其れぞれに世界公布を目指す為の教へなのだとしても、たとへば釈迦は釈迦で佛教だけが宗教だとはまさか思って居られなかったことだらうし、またキリストにせよユダヤ教や東洋の宗教は全部邪教でもって無くした方が良ひとまでは考へて居られなかったことだらう。

 

兎に角全ての文明はかって其の地域でのものであった訳で、其の地域のものである以上まさに其処で頑張って居れば良ひ話であり別にグローバルに活躍などせずとも其れでもって素晴らしひ統治システムが構築可能なのはまさに家康公が幕藩体制として完成させたところでのものだ。

 

で、江戸時代は全く良ひ時代ではなかったか。

 

 

でも江戸時代にもコロリなどが蔓延したりはしていたやうです。コレラの歴史 #日本の歴史

 

いずれにせよ感染症は人間が集団で居ると人から人へと移る訳なので極端な話人嫌ひにでもなれば移り難くもなるのであらう。

 

と云ふことはコロナ感染は人嫌ひの人に与へられる限定では無くして群れ集ふのがむしろ好きな人、要するに酒飲んで騒ぐのが好きな性格だとか仕事で人とぶつかり合ふのが好きだとかむしろさうした外向性に対して、また前向きな性質に対して仕掛けられし限定性でむしろ我我のやうな暗ひ人、嗚呼まさにマニアックでもって比較的利口な人に対し投げかけられた問ひなどでは無ひ訳だ。

 

事實わたくしの家籠りの様はコロナ以前と以後でほとんど変化はして居なひ。

わたくしはかうして基本的にお家での時間に安らぎを見出す性格なのでむしろ何も限定されては居らず逆に何かと自由になっても居る。

 

つまりは其の自由と云ふこと其のものの捉へ方がそも人により違ふ。

 

多くの人間は外へ出て何かと活躍することが自由だと思ふやうなのだがむしろわたくしにとり其れこそが不自由でしかも拷問のやうなものなのだ。

 

 

お家でもって家事をやることは左様に限りなく自由なことではなひか。

何故みんなは男性は外で仕事をして稼ひで来ひなどと決め付けるのだらう。

 

其れにわたくしはかうして家事をやりつつ世の中に何かを言って居ることの方が遥かに此の世の中の役には立つのだよ。

 

そもみんなは何故そんなに社會が好きなのだ?

 

わたくしは社會なんぞ大嫌ひだ。

 

さうしてみんなで群れて泳ぎ赤信号を平気で渡って行くのが兎に角イヤなのさ。

 

 

ところで最近デモが各地で起きて居る露西亜での権威主義の方は大丈夫なので?

其れにかのプーチン氏が宮殿に住んで御座るやうですがこんな露西亜ではむしろ革命が必要なのではありませんか?

 

まあ露西亜にもまた市民革命が必要なのやもしれません。

 

さても其の同じやうな権威主義國家である露西亜と中國がくっつき将来日本を属國となすのですか?

そりゃ知りません。

 

知りませんのですが、権威主義と云ふのは結局宮殿を造り上げて仕舞ふことこそがまさに問題なのだらう。

 

 

やる気がある⇔やる気が無ひ

 

で、本来ならばやる気が無ひ方のことも露西亜露西亜文學から學んでおくべきなのだらう。

 

特に晩年のトルストイの放棄としての価値に就き確りと學んで置かねばなるまひ。

 

なのだがプーチン氏はむしろヤル気の塊のやうな人でせう。

 

そんな人には文學のことなどそも分からぬ訳です。

 

 

だからこそ宮殿に住みまさにオレは偉ひぞと威張って仕舞ふのだ。

 

もしや宮殿がお嫌ひなので?

 

いや嫌ひでは無ひ。

 

實は宮殿に置ひてあるやうな一流の品品を見るのが大好きなのです。

 

でもそんな権威の為の虚の装飾が我我個の生活をもしや圧迫するのであればまさに其れを粉砕せねばならぬことだらう。

 

プーチン氏は頭が悪ひ可能性が高くまさに其処は例のトランプ氏と同じことでもある訳だ。

そんな具合に政治家の頭は大抵悪く要するにレヴェルが低ひものと何故か相場が決まっておる。

 

 

もしや信長も其のバカだったのですか?

いや信長を馬鹿呼ばはりして居ては其れはもはや名古屋人であることを辞めねばならぬ。

 

先にも述べたやうに信長は利口だったが惜しひことにアスペルガーにてマニアック過ぎる人だったのだ。

 

つまり城などには凝りに凝りまた能などにもいたく興味を持ち其ればかりか気分屋だったので最終的には周囲に理解されず死なねばならなくなったのだ。

 

藝術家気質である種生眞面目な信長⇔官僚タヒプでもってクソ眞面目な光秀

 

共に眞面目でしかも利口なのだが、何せタヒプが違ふので其処は理解し合へぬ。

 

其処へアノウルサヒ🐵秀吉が絡み話が酷くややこしひこととなる。

 

 

さても日本國の場合にはかの河野氏に是非総理大臣をやらせてみるべきなのでせうか?

でも彼は官僚的に何となくねちっこひ感じが何処かするよね。

 

だから河野氏よりも是非枝野氏にやらせ此の古臭ひ國日本を根本から変へて貰ひたひものだ。

 

 

権威主義者によると、社会の安定を維持しながら、計画経済から市場経済への移行と経済発展を実現するために、権威主義体制は他の体制と比べて最も優れているという。民主主義体制は、市場経済や、私有財産、多様な利害関係、市民社会、法治などを前提条件としており、権威主義体制は民主主義体制にこのような条件を与えるものである。民主化に取り組む際、全体主義体制から権威主義体制へ、さらに、民主主義体制へという順で進めていくべきである。この順序を無視し、一気に権威主義体制の段階を飛び越えて、民主主義体制に移行しようとすると、社会が不安定化する恐れがあるという。

権威主義者のこのような考え方に対して、自由主義者は、次のような疑問を投げかけた。まず、権威主義体制は権威を個人に与えることで、「人治」に正当性を提供している。また、個人の権威を強調しすぎると、全体主義体制の復権につながる恐れがあり、権力の乱用と腐敗問題の深刻化をもたらす。自由主義者たちは、権威主義体制の代わりに、経済体制改革と同時に、普通選挙制、三権分立、議会民主ないし多党制の実施など、積極的に政治体制改革と民主化を推進しなければならないと提案している。

このように、自由主義者は、個人の権利、民主化を強調し、一方の権威主義者は、秩序と権威を強調している。ー中国における権威主義体制の光と影― 権力と資本を如何に制約するかが課題 より

 

かうして中國と云ふ國もまた露西亜と云ふ國も其の権威主義として掲げる体制が生じさせる矛盾の故に苦しんで居ることだらう。

 

では世界は須らく民主主義体制へと移行せねばならぬのだらうか?

わたくしの場合必ずしもさうは思はず、何より民主制には見へなひ罠のやうなもの、まさにみんなで渡る危なひ橋のやうなものが架かって居るとさう判断しても居る。

 

どだひ其の民主制と自由主義経済との間には強ひ結び付きがある訳だが、今回のコロナ禍にてむしろ問はれて来て居るのがまさに其の自由な経済活動を旨とする体制であらう。

つまりはポスト・コロナとしての経済体制が自由な経済活動を旨とする体制であるかどうかは今後の世界の動向を見なければ誰にも予測がつかぬものとなりつつある。

 

さて、問題は其のポスト・コロナとしての社會を今後どう構築して行くべきかと云った点である。

 

 

理想の体制⇔旧来の制度に流された体制

 

との二元的展開が其処に考へられ、おそらくは左の方へはなかなか移行出来ぬことだらうと云ふのがわたくしの予測なのだ。

 

要するに社會はなかなか変はれはしなひ。

 

現代人は現代人である他は無く今さらお江戸の人にはなり得ぬのだ。

 

 

なのでおそらくは其の戦後体制が築き上げしものを世界の國國は其の侭に引き摺りつつコロナ感染の収束を願ひ歩むばかりなのだらう。

結局其の世界の國國が戦後築き上げた國の仕組みなどが変はることは無くむしろ其れを維持しやうとする力が所謂正常性バイアスとして強く働き続ける筈だ。

 

 

尚ポスト・コロナとしての社會に就ひては様々な學者や文化人がまさに様々なことを述べて居ることかと思ふ。

 

其処でのわたくしの意見としては世界はなかなか変はることなど出来ぬことだらうと云ふ一種悲観的な見方をして来て居る。

 

要するにコロナ禍にて文明が本質的に変はる訳では無くもし其れが変はらざるを得ぬのだとしたら其れは2050年辺りから始まるであらう地球崩壊によるカタストロフィによるものだとさう感じて居るのである。

 

 

地球崩壊?

さても何ですか、其れは?

 

今初めて聞きましたがまるで遊園地のお化け屋敷のやうに恐ろしひ言葉ですね。

 

いや、地球崩壊はあるよ。

むしろもう始まって居るよ。

 

もしも地球が崩壊するのだとして其れをやるのは矢張りと云ふべきか人類なのでせうか?

結局矢張りと云ふべきか人類なのだらうね。

 

きゃあ、実際どんな怪談よりも怖ひ話だな。

 

さうだ、其の破壊こそが最終破壊戦争のこと、つまるところはハルマゲドンのことだな。

 

でも御坊様方はハルマゲドンのことなど仰って居なひですよ。

 

其れを言ったとすると五島 勉氏だとかオウム教だとかオカルト雑誌のムーだとかまたはキリスト教だとかになるのだと思はれる。

 

 

確かに佛教にはハルマゲドンなど無ひのだが、でも法滅尽だの末法思想だのと云ふことが一部には存在して居やう。

 

其の変はりたくは無ひ社會、より正確には変はりたくは無ひ我我個を含む社會が今後変はらざるを得ぬところへと追ひ込まれて行くことこそがおそらくは未来史としての實相なのだらう。

 

でもハルマゲドンなんて如何にも怖ひです。

 

何を言って居るのだ。

 

むしろわたくしにはさうしてみんなが変はらずに赤信号を渡り続けて行くことの方が余程に怖ひぞ。

 

 

ハルマゲドンになると動物園から猛獣が皆逃げわたしたちの家庭を襲ひバリバリと妻や子を喰ひ尽くして仕舞ふのでせうか?

 

そりゃ知りません。

 

でも學校などは如何にも危なひかもしれません。

 

広ひ場所つまりは校庭などに猛獣が集まり其れが校舎へとなだれ込み其のまま教室へ突っ込むか其れとも体育館の裏などに爬虫類の大きひのが集まり其処で煙草を吸って居た不良の奴等を食ったりするのかもしれません。

 

 

次第に話の内容が三流週刊誌並に落ちて来て居ますが。

 

さうでした、どうもすみませんでしたね。

 

 

さても尾張の自称詩人よ、地球崩壊だなんて世を惑はす恐怖を撒き散らすこと勿れ!

 

さうでしたね、どうもすみませんでした。

 

ところで確かに其のコロナ感染は収束するのですね?

コロナ感染はおそらく収束するのだけれど、其処に経済的な破壊の後遺症が残り社會活動が元通りになることは難しひことだらう。

 

なる程、社會と其の構成員である個は共に文明の維持を願ふがコロナ禍による破壊の爪痕が残り経済的にはずっと制限されると云ふことですね。

 

 

尚以前にわたくしは左翼的な合理的思想を徹底的に批判して居た訳だった。

其処を大雑把に纏めれば人権思想、また自由主義、さらに近代化としての文明の普遍化がむしろ世界を破壊して行くとさう述べて居た訳だ。

 

故に理想の体制とはむしろ過去のもの、其れも近代以前のものをなるべく縮小化したものであるべきで其れも理想論的にはまさに共同体主義でもって國家としての体制の存せぬ無政府主義こそが望ましひとさう述べて居た筈だった。

 

なのだけれども現在はさうした理想論には傾かず其の場其の場に応じた体制と云ふものを考へるに及んで居る。

 

即ち此処日本には日本に見合った体制のあり方があり、また露西亜にはまた中國にはまさに其処に見合った体制がまたあるのであらう。

 

そんな現實論でもって果たして大丈夫なので?

 

 

まあ日本の場合にはまるで大丈夫では無ひ。

 

無ひのだが、たとへば貧乏になることの素晴らしさに今後の我我は是非気付ひて行かねばならぬことだらう。

 

へっ、貧乏?

 

一体何ですか、其れは。

 

何故なら日本はこれから次第次第に貧乏となりおおまさに其の壱膳の米の飯の美味さにこそ気付ひて行かねばならぬのだ。

 

だからいつも麦飯だのアワだのヒエだのを食って行かずばなるまひ。

 

 

貧乏とは、嗚呼まさに其の貧乏であることこそが宗教的な自我を形成する為の最後の切り札なのだ。

 

要するに我我ブロヒラー化された現代人はむしろ飽食にて眞の意味での食の価値を見失っても居ることだらう。

また精神的にもかって釈迦やキリストが説ひた眞理を完全に見失って仕舞って居る。

 

でも其れではダメだ、ダメなんだ、現代人、エエヒ此の此の家畜野郎共めが。

まさにおまへたちを待って居るのが其のハルマゲドンであるばかりなのだ。

 

 

橋下徹氏、国会議員の定年を提案「政治家の新陳代謝は必要」「世界のリーダーは40代くらい」

ところでかうして今🐵の橋下が正しひことを言って居る。

橋下程偉ひ🐵は何処にも居なひことだらう。