目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

マルクス・ガブリエルの思想(重要)と世相を語るー壱 かうして嗤ひながら語る世相と眞面目に語るマルクス・ガブリエルの思想ー

ラーメン店の倒産ラッシュが必然でしかない訳 「1000円の壁」突破する仕掛けが生き残りの鍵だ

 

元より🍜と🍛は、此の世から決して消へてはならぬものである。

何故なら🍜と🍛は独身🚹御用達の食べ物だからなのだ。

 

とは言へほとんど店へは食ひに行かぬのだけれども。

 

其れは、

 

1.面倒臭ひ

2.値段が高ひ

3.今やインスタント🍜やレトルト🍛で充分にイケる

 

との理由が考へられやう。

 

まあ其れでも年に弐、参度は出向かぬ訳でも無ひ。

 

いずれにせよ資本主義がさうして今大幅に制限を受け変化することを強ひられて居るやうに思はれてならぬ。

 

コロナウヒルスによる具象的限定が社会と其の成り立ちー社会制度としてのーの部分を根本から揺さぶり変化を強ひて居るのだとも言へる。

 

 

ところが人間界は相変はらずまるで獣みたくにグオー、ギャオーとやってるばかりだ。

また其れは先にも述べたやうに年寄りになったにせよまるで変はりは無ひ。

 

人間は年寄りになってもまた人殺しをするのだしーさうしてアクセルとブレーキを踏み間違へて屡やって居るー金も欲しひのだし只性欲のみは次第に減って来て👩の裸には余り反応しなくなっても来やう。

 

かうして人間はどうも限りなく馬鹿だな。

 

若ひ人達は是非今のうちに👩の裸に確りと反応しておきなされ。

 

 

資本主義のブチ壊れの様はまさしく社会の問題なのだから兎に角社会的に何とかせよ。

 

社会の能力が低ひとそんな大問題には対処出来ずタダなし崩し的に社会が壊れていくばかりだ。

 

我はもう社会からは引退するつもりなので社会に残ったおまへらが何とかせよ。

 

社会からは引退したとしても人間からは引退出来ぬのでとりあへずはラヒターとして其のダメ社会をクソミソに貶してやっても良ひのだが。

 

 

「次につぶれるのはウチだ」トヨタ幹部が真顔でつぶやく自動車業界の危機感

 

ほりゃ、みひ。

 

えっらひことだでよー、これはー。

こんなTOYOTAが潰れたらみんなはどーするだー。

 

天下のTOYOTAが潰れたらみんなの会社なんかまーみんな潰れとるがね。

 

アンタはもうカネが入らんでいちんちー一日ー三百円でもって暮らしていかないかんがね。

女房をピンク産業にでも叩き売ってやっていかないかんがねーいってゃあどーするだー。

ーでも其のピンク産業自体が潰れかけとるー

 

だからTOYOTAはよー、織機をつくりゃー。

其の織機をよー、阿弗利加にでも売るんだぎゃー。

 

おまへは阿弗利加をバカにして居るな?

 

しとらんぎゃー。

みんなまっくろの土人だなんてまっさかおもっとらんぎゃー。

 

其れにオヒラは奴ー自称詩人ーじゃあにゃーよ。

 

 

おまへは一体誰だ?

 

 

👽弐だ。

 

うはあ、また嫌な奴が再登場して来た。

 

おまへは宇宙へ帰ったのではなかったか?

 

けっきょくココにおりたひんだぎゃー。

 

まあ良ひ。

 

此の際おまへも宇宙生命のひとつとして認めてやらねばなるまひ。

 

ありがとおー、また出て来るでよー。

 

 

ん?

 

何か調子が違ふぞ。

 

ひょっとしておまへは化け詩人ではなひのか?

 

 

良くぞ正体を見破ったな。

 

さうさ、オヒラが其の化け詩人なのさ。

 

ハーッはっはっはっはっはっ―のハー。

 

 

 

で、エメラルドの話がまだ済んで居なひのだがちょっとまた哲學上の命題が出て来て仕舞った。

 

マルクス ガブリエル コロナ時代の精神のワクチン

 

實は此れを視た。

 

其れでもって其処にガブリエル氏の精神の潔癖性を再確認した次第である。

 

矢張りと云ふべきかガブリエル氏はかの独逸観念論哲學の継承者であり発展者なのだ。

 

彼は現代文明、特に米國流のショー資本主義に対し違和感と云ふか否定的見解を根深く抱ひて居るやうだ。

 

其の精神の方向性其れ自体がまさに独逸観念論哲學の方向性なのではなからうか。

 

 

何かかう一発喰らったやうな感じすらする。

 

ガブリエル氏がこんな風に否定的に文明を見詰めて居たことを明確に知り愕然とした次第である。

 

番組ではイキナリかのカントによる定言命法のテロップが流れる。

「自由とは好きなように思い通りに行動することではない」

「自由とは誰かに命令されることなく 自らの意志で 自らを律して生きることだ」

 

かってカントは理性による批判哲學を完成させた。

其の理性とは何か?

 

謂はば其れは自らをも批判し律することだ。

 

だが普通人間は其れとは逆の方向を見詰めまさに其れを行動する。

 

たとへば👩の裸と理性、此の二元的要素があればみんなは👩の裸の方を見たく思ひ挙句にはガマンが出来なくなり其れに飛びつく。

 

だが理性を持ってる読者の方々や我は其れをむしろ慎重に避け理性の方に逆に飛びつく。

 

カントによる定言命法とはそんな人間の持つ獣性に対する宣戦布告なのでもまたある。

 

さうまさに其れは近代的な理性による獣性に対する宣戦布告なのだ。

 

但し其れは宗教的な闘争なのでは無ひ。

 

獣性を理性により統御することへの啓蒙としての認識でありまさに其れが近代の精神の幕開けなのだった。

 

 

彼ガブリエル氏はまさしく其の正統的な独逸観念論哲學の継承者だ。

 

人間の獣性は醜ひ。

何故醜ひ?

 

誰もが自分が一番だとさう思っておりさうして世の中をじぶんの思ひ通りに動かさうとする。

 

そんな権威、権力を我がものとしたひばかりにさう欲するのだ。

だがそんなものは所詮獣だ。

 

まさに666の獣なのだ。

 

ところが獣は感度が悪くしかも馬鹿だ。

 

なので自分がクソまみれでもってしかも地獄に堕ちて居ると云ふのに其の現實がまるで見へて居なひ。

 

其の逆に理性を我がものとすればお花畑も見へて来やうと云ふのに何時まで経っても汚物まみれで👩まみれで酒浸りでギャンブル狂ひだ。

 

 

そんな体たらくでもって何が國會議員だ?

何がCEOだ?

 

何が財閥だ、🐊ー麻生氏ーだ?

 

何がアベノマスクだ、「美しひ日本」だ?

 

おまへらほんたうにばかか?

 

 

もう詩人は社会を投げた!!

 

たった今社会を投げたぞ、詩人は。

 

 

だから其の醜ひ獣性の様、其の自らの醜ひ姿をしかと見よ!

大鏡にでも映ししかと観察してみよ。

 

うはあー、汚へ。

 

うはあー、こんなに汚かったのか。

まるで知らなかったな。

 

尤も其処で謝るのが我であり読者の方々だ。

 

大変申し訳御座ひません。

 

わたくしはつひ女まみれ酒まみれギャンブルまみれになって居りました。

 

其れでもってつひ理性を失ひ地獄へ堕ちるところでした。

 

でもこれからは眞面目にやります。

 

 

さうか、では眞面目になった其の証拠を見せよ。

 

へひ、これからはNHKオンデマンドばかりを視ます。

 

其れから大學の論文ばかりをネットで検索し読みます。

 

其れからカントの『純粋理性批判』も読んでみます。

 

読む恰好だけではダメだぞ。

ちゃんと理解せよ。

 

 

ヘヒ、理解致します。

もう死んでもやり遂げます。

 

さうか、おまへは偉ひ!!

 

おまへこそは人類の鑑じゃ。

 

おまへはたとへ馬鹿でも其の努力する姿まさに其れこそがホモ・サピエンスとしての智恵の鑑だ。

 

お褒め頂き有難ふ御座ります。

 

ではわたくしだけが救はれませうや。

 

 

オヒ、さうしておまへがドカン、ドカンと今蹴って居るものは一体何だ?

 

ヘヒ、其れは人間の頭で御座ります。

 

地獄の底から此の蜘蛛の糸を登って来るみんなの頭を蹴りまた地獄へと戻して居ります。

 

 

さうして居たところ突然プッツリと蜘蛛の糸が切れアナタは利己主義と云ふ無間地獄へと落ちて行きなすった。

 

 

 

兎に角此の番組によりガブリエル氏の「精神」に触れた。

 

彼の精神は何より現代文明に対し何処までも批判的だ。

 

其れと番組中ではベートーヴェンのピアノ・ソナタが流れて居た。

 

わたくしが愛する其のベートーヴェンのピアノ・ソナタが。

 

 

 

さて、ではガブリエル氏は今何をどう考へて居られるのか?

 

無論のこと多くの知性が感じて居るやうにコロナ危機に危惧を抱ひて居る。

 

だが其れは知性を持つ者ならば誰しも同じことだ。

 

わたくしの場合もかうしてもう長く其の危惧と向き合って来た。

 

 

まず、個人的には大枠にてガブリエル氏の考へ方に同意乃至は同調し得る。

 

其れは精神の方向性が同じだと云ふことをまさに意味して居る。

 

では何を指向して居るのか?

 

まず其れは唯物主義からの脱却である。

 

其の唯物主義の誤りから脱出する為の方法論として観念的なものを指向すると云ふ点に於ひて同意乃至は同調し得る。

 

 

ガブリエル氏はまるでヒットラー総統の如くに其れを誤りだとハッキリと否定する。

まずは其の点に独逸の批判精神をまざまざと見せつけられた。

 

日本人が元々考えられる民族なのにしがらみやら何やから何も言へぬ様とは其れは大違ひではなひか。

 

と言ってもガブリエル氏はヒットラー総統とはまるで違ひ逆にまさに民主的な哲學者である。

 

 

氏は「理性」とは両極端の価値を比較し其処から最適解を導き出す為のリスク評価であり意思決定の場なのだとさう述べられた。

 

まさにさうであり、合理性とはさうした分別智即ち分別による意思決定の場なのだ。

 

ところが、宗教は概ね其の主知主義による分別智の世界を重視しなひ。

 

其れは眞理領域と対立的に形成される反「信仰」の場であるからなのだ。

 

 

観念論は然し「疑ひ」の場である。

 

だけれども其の「疑ひ」の立場から最適解を導き出さうとして居る。

 

観念論はあくまで眞理を目指すのでは無くさうして現實としての最適解を探る為の「思考」の働きなのだ。

 

 

ガブリエル氏はまずは其の「思考」すること其れ自体につき考へることこそが大事だとさう仰る。

其の「思考」こそが最悪の思想である物質主義=消費資本主義の呪縛を解く方法だともまた仰る。

 

其処は全く同感だ。

其の民放のおバカCMをもう視たくは無ひわたくし、此のおバカな社会を隙あらば逃げてやらうと思ってるわたくしとしてはまさにピンポーン、なのだ。

 

だからと言ってアマゾンは否定して居なひのだしヤフオクもまた物の売買其れ自体を否定して居る訳では無ひのだが消費資本主義其れ自体はもう止めるべきなのだと思ふ。

 

物質主義に陥るとどうなるのかと言へば其れ即ち功利化ー現世利益化ーし諸価値を量的物質的なスケールでしかはかれなくなり要するに精神的には貧しくなる即ちおバカ化する。

 

 

まさに其れは最悪の錯覚だとガブリエル氏はハッキリと述べる。

 

そんなことを言ふ日本人はわたくし位のものだらうがガブリエル氏の場合はちゃんとさう述べた。

 

最悪の錯覚が続くとどうなるかと云ふに其れ即ち「悲劇の誕生」となり文明全体が肥溜めに落ちみんながクソまみれになり滅亡する。

でも其れはわたくしの言ひ方で、「幻想の犠牲」となると云ふのが彼の解釈だ。

 

 

「物質を楽しむ権利はある、但し幻想であることを理解せよ」ガブリエル氏

 

かのカントにせよショーペンハウアーにせよ、元々物質主義の範疇を離れ観念の世界を飛翔して居る。

 

即ちまさに其れこそが独逸が生んだ観念の領域なのだ。

 

だが國により其の観念の度が著しく異ならう。

 

実験國家米國では所謂自然主義なるものが勃興しソヴィエト式の唯物論と拮抗しつつ戦後の経済発展を成し遂げて来た。

 

だが其れを独逸の精神はほとんど否定的に見て居た訳だ。

 

何故なら独逸の精神にはまさに観念の系譜が存するが故にだ。

 

 

また何故かわたくしにも其の観念の系譜が存して居る。

 

わたくしはさうして所謂普通の日本人とは違ふ。

さうか困ったな、何でこんなんなってる?

 

もう早く洞窟にでも逃げたひ。

穴があったらすぐに其処へ逃げ込みたひ。

 

 

「思考そのものを考へることが唯物主義からの脱出である」ヘーゲル

 

「個としての體もまた思考の一部である」ーガブリエル氏ー

 

 

さうして彼は自然主義と唯物主義を手厳しく批判する。

 

つまりは米國露西亜もまるで認めては居らぬ。

 

アノ安倍君みたくまた小泉の変人みたくに米國に尻尾を振るのでは無くドーンと否定し伝統としての独逸の知性の流れをこそ主張して居るのだ。

 

流石は独逸人だ、西洋の利口だ。

 

 

でもほんたうに日本人は東洋の利口か?

ほんたうは馬鹿じゃなひのか?

 

早稲田大学はちゃんと早稲田大学なのか?

しかと頼むぞ、頼んだぞ早稲田。

くれぐれも馬鹿田大學にはならぬやうにね。

 

日本の知性を代表する大學がおバカ化したらもうお仕舞ひだよ。

 

 

米國流の消費資本主義を氏は「愚かな形而上學」だとして排斥する。

 

つまり物は思考以下のものであるに過ぎぬ。

 

故に物が豊かになり其れでもって幸せになれる筈が無ひ。

 

なんとなれば「思考」=「精神」こそが人間の基本にあるものなのだから。

 

但し厳密には「思考」とは哲學であり、「精神」とは宗教である。

 

だが其れは共に人文としての知性ー理性ーなのだ。

 

 

対して科学とは理性によるリスク評価の一部分でしか無ひものだ。ーガブリエル氏ー

 

其処で推進される合理性は全体の合理性から見ると逆に非合理性を孕むーあくまでわたくしの考へ、ガブリエル氏の場合はさうした全体論を採らなひー。

 

此の世界はまさに複雑で一つの領域からフォーカスするもので規定し得ぬものであり多様な価値の均衡を理性と云ふ合理領域から図るものである。ーガブリエル氏ー

 

其の哲學ー思考=観念ーを重視する部分がまさにわたくしの考へと一致して居る。

 

 

さうして科学的合理性は必ずしも合理的では無ひ。

場合によっては宗教による理性が逆に合理的である場合もまたあり得る。

 

尤も其の辺りのことはほんたうのほんたうに御勉強を進めねば決して分かっては来ぬものだ。

其れも女を断ちかうして脇目もふらずに御勉強して参りました。

 

さうか、おめでたう。

コレが智恵の冠だ。

 

うはあ、嬉しひなあ。

コレでボクは智恵者の一人になれたのだな。

 

其の代はりに社会からの村八分には耐へて行かねばならぬぞよ。

うはあ、苦しひ。

周りが全部おバカに見へ大層苦しゅう御座ります。

 

 

尚ガブリエル氏はデジタル的な社会変革の波に異議を唱へて居られる。

 

わたくしもまた根本のところでは其れを否定的に見て居るのだが不要な部分のデジタル的な合理化と云ふ意味での変革に限り其れには賛成する。

 

デジタル思考とは電脳回路のことなので思考其れ自体ではまるで無ひものだ。

 

其の「思考」無き世界であることこそが實は最大の問題なのだ。

 

 

わたくしが受ける感覚では、「主客転倒」と云ふ感じがずっとして来て居る。

 

主とは思考であるにも関はらず其処に科学的な解釈即ち科学技術が居座って居る。

 

だが元来其れは客の方の出来事であるべきなのだ。

 

なので一流大学を出て居ても考へる力の無ひ奴が多ひ。

 

其の科学技術により折角の出来の良ひ頭がやられて仕舞ひ思考力を奪はれて居るのだらう。

 

 

でもわたくしはまさに其の思考力の権化なのだ。

 

またいつものことだが威張って居るな。

いや今回ばかりは見逃して下され。

 

何せ難しひことを話して居るので君と会話するとゴチャゴチャになりまるで話が纏まらなくなります。

 

 

ガブリエル氏は哲學は「精神のワクチン」なのだとさう仰る。

 

即ち基本的に世界の「精神」が病んで居ると云ふ認識に立たれて居る。

 

大衆ー自らは考へぬ人ーとインテリー自ら考へられる人ーとの境目にあるのがまさに其の認識の差なのだらう。

 

考へぬ人にとっては世界は病んで居るとおそらくは認識されて居なひことだらう。

 

でも考へる人にとってはとっくの昔から世界は病んで居る。

 

其の世界の捉へ方にも色々と選択の幅がある訳だが知的な人はむしろ抽象的なものの誤りの部分を指摘する傾向がある。

 

 

一例としてわたくしの認識を示せば、

 

其れはまさに社会が病んで居るのである。

 

ところが其れは自然が病んで居る訳でも無く神佛が死に絶へた訳なのでも無ひ。

 

あくまで社会としての認識即ち認識としての選択が誤って居るのである。

 

他方でガブリエル氏の見解は個をも含めた精神としてのパラメーターに誤謬が生じて居ると云ふものだ。

 

其処は或は社会と個と云ふ対立概念を設定されて居なひのやもしれぬ。

 

 

何せわたくしの思考方法は古臭ひものなので全てを二元対立から導ひて行くのであるが新しひ哲學の場合には或はさうでは無ひのやもしれぬ。

 

なんだけれども世界が病んで居る、選択を誤って居ると云ふ結論に関しては實はまるで同じである。

 

但しガブリエル氏はコロナ危機をほとんど悲観的に捉へられては居なひやうだ。

 

むしろ此の危機は新たな理性による啓蒙の時代の始まりでありモラルとしての進歩の時代であるとさう捉へられても居る。

 

即ちコロナ危機がまさに精神の進歩を促して居るのだとさう捉へられて居るかのやうだ。

 

 

ま、其処はわたくしも以前からさう思はぬ訳では無ひ。

無ひのだけれどいつものことながらより悲観的にも捉へて居る訳だ。

即ち具象的に自己崩壊する文明、其れも観念的にでは無くさうして現實として🍜屋が潰れ観光業が崩壊し✈会社や🚢会社が潰れたりもして行くことだらう。

 

其の修復は無論のこと大変なのだがおバカ政府には其れを立て直すことなど難しく其れだけでは無く地震、雷、火事、オヤジと今後何が起こるかまるで分かりゃあせぬ。

いや、ちゃっと違ふ。

種の絶滅だ、こんなクソ暑さだ、魚は獲れぬは、農業もダメだはでああーもう何処にも食ひ物が無ひ!

 

やうし此の際隣の家の犬でも食ってやらう。

ワアオーン、キャンキャン。

 

ボオゥ―、ボオゥ―。

 

いやー、🐕の丸焼きは今回が初めてだなあ。

 

あれ、意外とイケるのかもね、ヘッヘッヘッのヘッ。

 

 

コロナ危機がまさに精神の進歩を促して居るのだとしてもだ、まさにこんな具象的な現實が観念性を飛び越へて齎されたら一体どうするのだ?

其れこそ哲學の話どころでは無ひのだぞよ!!

 

と云ふ部分こそがまさに女性原理としての現實性の部分から危惧される未来である。

 

 

パンデミックは革命」ーガブリエル氏ー

 

やっぱりね。男性原理はどうしても革命のことを考へますよね。

但しガブリエル氏による其の革命とは社会主義革命では無く精神の革命のことでせう。

 

「チャンスを逃せば文明は崩壊する」ーガブリエル氏ー

 

 

番組中でガブリエル氏が結構過激なことを仰って居るのでちょっとビックリも致しました。

ー他方で思考の極端を避ける、最適解を導き出すのが理性の働きだとさうも述べられては居るのだがー

 

男性原理は、其れも知性はどうしてもアレかコレか、〇か✖かで物事を論じて仕舞ふ訳でして哲學と雖も其の傾向からは脱却し切れぬ部分なのでせう。

 

でもガブリエル氏が述べる新実在論としての哲學は誠に深淵なものです。

 

「正しく錯覚せよ」ーガブリエル氏ー

 

我我はもう長く消費資本主義、其れも新自由主義による抽象的な利益獲得としての虚の世界に安住して来た。

先進國にせよ発展途上の國にせよまさに其れをみんなでもってやって来た。

 

然し其れは錯覚だと氏は述べられた。

 

さう唯物思想、進歩主義、経済成長至上主義による錯覚なのでせう。

 

だけれどもあくまで哲學的には其れは錯覚であり誤りなのです。

 

 

其れも先の主客転倒の話に繋がります。

 

物を豊かにしたりまた其の物をシンポさせて行くことでは人間は決して幸せにはなれぬ。

 

いや幸せ云々では無く、それではいつしかまともでは居られなくなるのです。

 

其れは何でかと申しますとまさに主客が転倒して居るからです。

 

 

ではどうしたら良ひのですか?

 

主客転倒を直せば良ひ訳です。

 

尤も其れを社会的に直すのか、また内面的に治すのかと云った課題が生じませう。

 

内面的に治すのは宗教の課題なので現實的には社会での選択を変へよとわたくしは申しました。

 

尤も本質的には其れは内面の課題なのでもある。

 

であるからこそわたくしは宗教の役割として其れを提示して来た訳だ。

 

 

ガブリエル氏の場合最終的に其れは「思考」の変化だとさう捉へられて居るやうだ。

 

其れぞまさしく独逸観念論としての面目を保つと云ふことなのだらう。

 

だがいずれにせよ其処には「気付き」が必要となります。

 

「気付く」即ち「目覚める」ことです。

 

 

其の「目覚める」ことを氏は學問的に為し遂げられて居るのではなからうか。

 

「目覚める」ことで「思考」其れ自体が変化致します。

 

思考とは単なる考へでは無く其の考へる人間を本質的に規定するものです。

 

即ち思考の質が悪ひか誤って居るが故に必然的に危機を招き自己崩壊へと至らざるを得ぬ。

 

尤もわたくしの場合以前はもう少し「信仰」の方に寄った考へ方をして居た。

 

 

只宗教を長年に亘り學び宗教其れ自体に劣化が生じて居ることに気付きました。

 

其処で自然科学の暴走を食ひ止める為に人文の智恵を磨く必要があるとさう判断した。

 

文學を始めとする藝術の意義を再確認し其れに対しより大きく価値を見出して行く必要に迫られた訳だ。

 

勿論哲學も其の主要なファクターなのです。

 

 

哲學とは何か?

勿論其れは考へることだ。

 

 

其れも客観的に見其れを分析した上で考へるのでは無く主観をも交へた上でより統合的な知見を得ることだ。

 

わたくしにあり人には無ひ性質がまさに其の深く物事を「考へる」ことが出来る性分でした。

 

其の哲學をも含めた人文的な理性の働きにより「考へる」ことで社会的崩落を食ひ止めやうとしたのだとも言へる。

 

 

でもデカルトが言った「考へる」ことは近代的な分析的理性のことなのです。-元々デカルトは数学者-

 

理性には対義的なもうひとつの側面がありまさに其れが人文理性です。

 

現在のわたくしの思想は其の人文理性による価値観の転換、人文理性による気付きと価値の再構築を図って行くと云ふものでむしろ信仰のことなのではありません。

 

でも信仰が出来る人ならばむしろ其の方が良ひのだとも申せませう。

 

 

ガブリエル氏が番組中で述べられて居たことで印象的だったのは「ウイルスを通して我我は物よりも上位の現實に触れて居る」と云ふ概念でした。

 

此処には少し引っ掛かりを感ずるのですがー観念的現實を上位に設定すると価値ヒエラルキーが生じて仕舞ふが故にー、観念的現實と物質的現實を比較してみれば其れはどう考へてみても観念的現實の方が精神的に豊かでまた反省力を保ちつつ生きて行くことが出来やう筈。

 

かうしてウイルスを通してしか我我には見へて来ぬことが確かにある。

 

其の例としてガブリエル氏は自然の様が見へるやうになった、独逸ボンの公園に緑のオウムが居ることが初めて見へて来たとさう仰る。

 

其れは一種の気付きであり意識のあり方の変容なのだらう。

 

無論のこと其の変容はコロナウヒルスにより唯物的な進歩が限定され齎されしものだ。

 

 

また以前述べたやうにわたくしは35年間🚙に乗り其の間はみしろ足元の自然や風景などには目も呉れなかった。

 

まさに其れが文明の齎した視野狭窄の様なのだ。

 

ところが自転車でもって移動するやうになり初めて身近なところに美や眞實があるものなのだとさう気付かされた。

 

さう其れがむしろ観念の世界を豊かにする、または感覚の部分まで降りて行って何かを直接把握する方法なのだ。

 

 

また其処で語られて居るものとは、まさしく限定だった。

 

即ち此の限定こそが必要不可欠なものだった。

 

限定こそがむしろ心の目を開かせ感覚を回復させ観念を正しひ方向へと向けて呉れるのだ。

 

 

其の正しひ、正しくは無ひ、と云ふ事は決められなひのではなかったか?

 

さう其れは切迫して居なひ部分に限れば決められず諸価値は其処で相剋し且つ相即するより他は無ひ。

 

なのだが文明は切迫して居り、其れ即ち環境問題や資本主義経済の存続に於ひて今まさに其れは切迫して居やう。

 

其のやうな問題ではまさに待った無しに逆方向へ舵取りを行ふ即ち限定することこそが有効であり且つ正しひ選択とならう。

 

 

ガブリエル氏の仰る其の「精神のワクチン」とはまさにコロナ危機其れ自体のことなのやもしれぬ。

 

コロナ危機はさうして精神のパラメーターを変へる。

危機が可視化され見へぬ存在がやるべきことを指し示す。

 

新自由主義によるグローバリズムと云ふ究極の搾取構造、其の限度を無視した欲望の流れが終焉しつつあるのやもしれぬ。

あらゆるものを不安定化した其の流れに抗ふものは畢竟観念の流れ、思想の転換、発想の転換にこそかかって居るのやもしれぬ。

 

興味深ひことに、ガブリエル氏は佛教に於ける唯識論を持ち出され「現實は物質により成立するものでは無ひ」とも此処で仰られて居た。

 

其れが何を意味して居るのか?

みんなが確たる事實として認識する其の現實とはまさに虚妄の現實ー虚妄としての錯覚ーであるに過ぎぬ。

 

其れもさう相対分別する認識を選び取って居るからさう見へて居るだけのことであるに過ぎぬ。

其の呪縛に寄り掛かるからこそ余計な欲望に振り回され観念としての自我をも腐らせて行って仕舞ふ。

 

其の物質の呪縛から解き放たれる時此れ迄とは違ふ新たな認識の地平が開かれるのだらう。

 

 

では貴殿は唯識説を信奉されて居るのですか?

 

唯識論ー観念論ー⇔唯物論

 

唯識論と観念論は厳密には異なるものでせうが此の際細かなことは考へずまずは上でのやうに対比させます。

 

重要なことは自己ー個ーによる直観であり、わたくしの直観とは前回申しました如くに二元対立に於ひて相剋し尚且つ相即する関係が成り立つと云ふものだ。

 

 

従って唯識論ー観念論ーと唯物論の間にもまた相剋し尚且つ相即する関係が成り立つ訳だ。

 

故にどちらが正しひと云ふ問題なのでは無く分離された選択の問題であるとあくまでわたくしには理解される命題である。

 

但し文明がすでに切迫して居る可能性がむしろ高くあらう。

 

其の場合には唯識論ー観念論ー側がより重要で且つ正しひ選択となる可能性が高ひ。

 

 

然しあくまで其れは人文知性としての認識であり信仰による正邪とはまた別の観念領域での話とならう。

 

左様に概念ー抽象的分別ーは須らく二元分離、二元対立することからは免れ得なひ。

 

故に宗教は眞理として其れを統一の方向へと持って行かうとするのだ。

 

 

でもアナタ様は其れを統一なさらなひ。

 

もしも統一されたらそも認識は生じなひ。

 

二元分離、二元対立して居るからこその現象であり認識なのだ。

 

其の現象の正邪、善悪をどう判断されるので?

 

だから其れは選択以前の問題であり本質的には宗教の次元でしか決め得ぬことなのだ。

 

なんだけれども、文明として持続可能性が絶たれ✖✖✖ー大滅亡?ーの世界となるやうでは如何にも其れではダメなので唯物主義から足を洗はねばならずまさに今コロナ苦による限定が其れを推し進めて居るのだとも言へやう。

 

 

アナタはアホなコレクターでもまたありませうがそんなんでもってさうさも偉さうに哲學だの説法だのをして居られる御身分なのか?

 

もう其の質問其れ自体が相当にイヤらしひ。

アホだからいつも其のアホも認めて居るじゃ御座りませぬか。

 

さうしてあくまでアホですが難しひ話ももかうして言へますよと云ふことでお話して居るのですから其れをブチ壊さぬやうに是非して頂けませんか。

 

 

で、アナタは観念論を信奉されて居るのですか?

其れはサヒコーに知的な営為なのでせうか。

 

たとへば此の世で一番価値のある認識上の選択なのでせうか。

 

またイヤなところを突ひて来るな。

観念論の末裔としてのガブリエル氏の話をして居る最中に観念論なんて屁みたひなものですよとさう言へる訳が無ひはな、此のボケが。

 

さうですね、認識上の価値ヒエラルキーの設定は矢張り避けたひところながらまさにほんたうに文明がヤバければ観念論を信奉するに足る切迫した理由があることともならう。

 

なる程ね。

 

 

では此処での言説を伺ふ限りに於ひてはアナタはまさに🚺嫌いのやうに見へますがほんたうのほんたうに👩遊びよりも御勉強の方が大事だとさう考へて居られるのか?

 

 

さうですね、其れもあくまで選択の問題ではなひでせうか。

でも野良猫は♀🐈の方が可愛ひものです。

 

でもやがて野良🐈が増へるとなるともうエラヒことでせうな。

 

 

福井でクマに襲われ男性2人けが 北陸新幹線の工事現場

 

うはあー、でも🐻もまた殺されて可哀想ですね、人間はもう進歩を止めるべき時に来て居るのではなひか。

 

ところでアナタは死ぬる瞬間までさうして人間の営為を批判し続けるのでせうか?

 

まあまた何処かに入信しなひ限りはね、結局さうなることだらう。

 

第一ガブリエル氏もドンドン言ってるので日本人の知性もまたドンドン言っておくべきなのではなひでせうか。

 

其れでは愈西田哲學の領域への突入ですか?

 

まあガブリエル氏も可成に西田哲學寄りの思想なのですし、其れでもってまた西田哲學の話もしたひところなのですがむしろ其れは福岡先生の特集の折にでも書かうと思って居ます。

 

 

アナタは何故👩遊びを…?

 

兎に角しつこひのでコレ以上の質問はカットさせて頂きます。

わたくしなりのエメラルドの伝説ー弐 宗教の観点より見たエメラルドー

ーエメラルドは多くの文化において、人間の成長のシンボルとみなされています。かつては魂をなだめ、知恵を鋭くする力があると考えられました。エメラルドを身につけると、知恵と成長と忍耐力が得られると信じられています。どれも愛情を長続きさせるために必要なものであるということは、すべての夫婦が同意してくれるでしょう。エメラルドを贈ることが愛と献身を意味するのも、理解できます。背信行為があるとエメラルドは色を変えるとまで言う人もいます。長い間、エメラルドには癒しの力があると考えられてきました。今日ではエメラルドがすべての医学的・心理学的な問題を解決してくれないことは分かっていますが、目を安め、健康を取り戻すためにエメラルドを使う人はまだたくさんいます。事実、緑は昔から心を落ち着かせる色とされました。劇場やテレビ局のスタジオにある「グリーン・ルーム」が、スタジオやステージのライトで緊張し眼精疲労になった出演者をリラックスさせる場所であるのも偶然でしょうか。ーGSTV エメラルドの特性、特徴、希少性、石にまつわる伝説について より

 

 

さうですね、エメラルドは「智恵」に関係した石なのかもしれません。

第一其の緑色が實は知的な色なのです。

靑もまた知的な色なのだと思はれますが、緑もまた知的な何かを持って居ることでせう。

 

其の目が休まる、健康を回復させる、とはまるで病、其れも心理的な病に効くかのやうな色合ひです。

 

第一療養所と云ふものは緑豊かな環境の中に昔からあるものです。

 

さて其の緑ですがズバリわたくしが一番好きな色です。

 

どうも緑が好きな人は知性的でもって静かな人が多ひやうにも感じます。

なのですが、緑が好きな人は変人でもってキチガヒに近ひとさう誰かが言って居たことなどもまたあった。

 

尤も其れは映画のハルクとか乱歩の「緑衣の鬼」などから連想されるイメージなのでせうか。

 

でも緑は植物の色でもまたあり本質的に其れは沈黙して居り動かなひ感じのものでせう。

 

対して動物は動くのがまさに鬱陶しひ限りです。

 

其の辺の感覚はまさにわたくしのもので皆様には理解されぬものだらうとさうも思ひますのですが如何でせうか?

 

 

植物の光合成と云ふのはアレはまさに究極の生の合理化でせう。

 

むしろ神だの佛だのに近ひのが其の植物でせう。

 

ですが石は其れよりももっと静謐です。

 

石は何せ生きて居なひ訳ですから微塵も生に対する意欲が感じられぬ。

 

其処は究極のやる気の無さでもって何やら尊敬して仕舞ひます。

 

 

ですが皆様やみんなはあくまで人間ですのでつまりは獣です。

 

獣ですのでエロが好きだは、また何でも食ふはでしかも肥溜めにも落ちると云ふ其の非理性的展開、第一國會議員にせよほとんどが🐵か又は🐶ばかりでまさに獣のやうな輩ばかりです。

 

嗚呼、何たる情けなさ。

 

さうして666の獣ばかりで、でもわたくしは717で、しかも緑が好きな知性派のエメラルド詩人です。

 

 

エメラルド詩人?

エメラルド詩人が何故こんなところでこんなものを書ひて居るのだ?

 

ちゃんと仕事をしろよ。

ちゃんと詩を書き詩集でも出せ。

 

御免なさひ、今は詩が書けぬ状態にあります。

何せ今は不眞面目なので肥溜め詩位ならいつでも書けませうがまるで書けませぬ、御免なさひ。

 

と其のやうにかうして緑が好きな人には自己反省力が強くありませう。

 

 

ーエメラルドを贈ることが愛と献身を意味するー

 

愛と献身?

 

其の愛と献身を其の不細工な👩に捧げるとでも仰るのか?

其れは止めて神佛に捧げるべきではなひのか、まさに其のエメラルドを!

 

さうか、では寺又は教会へ出向きエメラルドの標本をお布施して来やう。

 

「愛と献身を込めて」コロンビア産のエメラルド標本 自称詩人より 2020-10-20にお布施

 

 

左様、神佛以外に何かを捧げる価値など此の世には存在して居らぬ。

 

さて突然ですがエメラルドと植物とではどちらがより好きなのですか?

 

どちらも好きです。

 

畢竟其れは釈迦とキリストです。

 

 

エッ?釈迦とキリスト?

 

何だか言はれて居ることが支離滅裂でもって我我常人には理解が及ばぬのですが…。

 

釈迦とキリストは結局矛盾致しません。

只其れだけが申したかったのです。

 

もっと眞面目にエメラルドのことを書け!

宗教の話はまたいつでも書けることだらうからエメラルドのことを書け!

 

いや今此処で宗教の話を書きたかったのです。

 

うはあ、内面での矛盾が酷過ぎる奴だな、ほんにまるで緑好きの変人のやうな奴だ。

 

 

エジプト人はエメラルドに永遠の若さを意味する葉の模様を彫り、死者とともに埋葬したことで知られます。 エメラルドはクレオパトラが愛した宝石だと言われます。エメラルドのジュエリーをたくさん身につけ、エジプトを訪れる要人には自分の似顔絵を彫った大きなエメラルドを贈りました。エジプトのエメラルドは、クレオパトラが生まれるおよそ2000年前に採掘が始まりました。在位中、クレオパトラはエメラルドの鉱床も、世界最古のペリドットの産地である霧深い無人島ザバルガット(英名セント・ジョーンズ島)も、すべて自分のものであると主張したといわれています。ーGSTV エメラルドの特性、特徴、希少性、石にまつわる伝説について より

 

 

其のー永遠の若さーと云ふ概念にまずは引っ掛かりますね。

「永遠の若さ」とは当然のことながら概念的矛盾、即ち観念的矛盾のことです。

 

即ち、エバーグリーン (Evergreen) です。

其れは常緑であり不朽です。

 

ですが、より正確にはエバーグリーンである様は現實的には得られずー現世としては成立せずー、即ち其の侭では全てが劣化し破壊され破滅を迎へる運命にある。

佛教で云へば其れがまさに末法時代を経たところでの法滅尽でありキリスト教で云はれるところでの最後の審判へと至る終末観のことだ。

 

なのですが、他方では古代よりの素朴な宗教ーアニミズム系の宗教ーは皆此の常緑であり不朽であることをこそ求めて行く。

神道などでは特に其の現世の継続性が説かれる=現世利益性の肯定がなされて行く。

 

 

尚わたくしは神社が好きです。

其れは其処に杜が豊かに残って居るからです。

 

ですが、観念的には神道は矛盾して居るとさうもまた思ひます。

神道は思想としては矛盾して居るが其れは自然崇拝の価値観をもまた有して居る。

 

八百万の神々-神 (神道)-の怒りにより壊された人間の営為が再生される部分があり案外其処は魅力的ですが本質的には其れは人間を救ふ為の教へには非ず。

 

さうしてアニミズムの流れを否定なさるのか?

 

其れも自分でもってANIMISTだとさう名乗って居るにも関はらず。

 

 

だって植物って最初から救はれて居ますよ。

なので植物には釈迦やキリストなんて要らなひ訳だ。

 

釈迦やキリストが要るのは獣まみれの人間であり其れも嗤ひながら突っ走り宇宙の肥溜めに落ちる現代人が一番其の釈迦やキリストを欲して居る筈ですよ。

 

でも現實には誰も欲してなど居なひ。

 

嗚呼、また情けなひことだな、其れも一番必要な者共に限りかうして釈迦やキリストを望んでは居らぬ訳だ。

 

全く困ったものだなあ。

 

 

 

コラ、宗教詩人、エメラルド詩人は一体何処へ行ったのだ。

 

すみませんでした、少しマニアック過ぎる展開にし過ぎて居ました。

即ちてっきりエメラルドの話かと思ったら實は釈迦やキリストのお話其のものだったと云ふ展開となっておった。

 

要するに文明とは抽象的に展開される獣共の闘争世界であることを世に示したかったのです。

其の闘争世界であることの根本には現世利益への執心があるのではなひかと云ふことです。

 

じゃあエジプト文明に於ける多神教神道も眞に理性的な宗教では無ひとさう仰るので?

 

其処まではまだ言うてませんがな。

 

但し論理的にはあくまで宗教には種別があり大元では其れは多神教一神教とに分かれしかも其れが其の永遠性への希求と云ふ点で現世利益性を求めるものとさうでは無ひものとの種別でもある訳だ。

 

 

では佛教は多神教では無ひとさう述べられるのか?

 

おそらく本質的には。

 

だって佛はひとつと云ふか一人ですよ、原初的には矢張りと云ふべきかさうです。

 

佛教學の講座みたくなって来たのでもうそろそろエメラルドのお話にお戻り下され。

 

 

だってまだ宗教の話が終はって居なひのだ。

 

大事なことだぞ其れは、そんなエメラルド詩人だどうのこうのだと云ふことなどよりも。

 

其れにつけてもしつこひですね、また今日は。

 

さうして意地でも宗教の話に戻したひ訳だ。

 

 

だから其の生の永遠性ー現世の永続性ーが佛教とキリスト教に於ひて本質的には認められて居なひとさう仰りたひのだな?

 

良くぞ分かったな。

 

だがみんなに分かったかどうかは其れは可成に疑問だ。

 

 

クレオパトラはさうして現世の美を富と権力にて独り占めしやうとしましたが結局永遠の若さと美を得ることなどは叶はず🐍に體を噛ませて死んだのです。

つまりはどんな富があらうとまた権力を握って居やうと自己と云ふ認識を永続的に成り立たせる術は無ひ。

 

そさに其のことにより人間は苦ー罪ーを味はふのです。

欲しても得られぬ永遠の生からまさに永遠に疎外され続けて行かねばならぬ。

 

佛教とキリスト教以外には其れを解決して行く術が無ひ訳です。

解決の仕方が違ひますが其の解決を本気で行って居るのが仏陀とキリストによる思想であり眞理の内容なのだ。

 

 

以上エメラルドの話風の説法でしたがお楽しみ頂けたことでせうか?

 

 

ーザバルガット産のペリドットは、ニッケルを多く含むため、独特のエメラルドのような色をしています。クレオパトラの「エメラルド」の多くがのちにペリドットと判明したのも、そのためかも知れません。ーGSTV エメラルドの特性、特徴、希少性、石にまつわる伝説について より

 

クレオパトラはかうしてペリドットをも多く持って居たやうです。

ペリドットとはかんらん岩のことで其処に含まれて居る鉱物が橄欖石で緑色の宝石となるものです。

 

ー聡明さを与える、恐怖心を取り除くー

ー太陽神の象徴、希望の光の石ー

ー地殻の上部、マントルの主要成分ー

 

 

ペリドット 橄欖石

より

八月の誕生石となる比較的安価な💎でおそらくは地球上の何処にでもあるものでせう。

マントルの主要成分ですので溶岩などで噴き出して来た溶岩などにはコレがくっつひて居る訳だ。

 

宝石のペリドットにもまた非常に美しひものがありますがありふれた鉱物なのでエメラルド程高級な石では無ひ訳です。

でもそんな不細工な石ですが道端にあるやうなクズ石なのではありません。

 

 

古代ローマ人は、エメラルドを豊穣と再生に関連づけ、愛と美の女神であるヴィーナスに捧げました。ローマの博物学者である大プリニウスはエメラルドについて「これより深い緑はなし」と述べ、ローマ皇帝ネロがエメラルドのメガネで剣闘士の戦いを観戦したと記録しています。しかし、今日の宝石学者によると、古代エジプトのエメラルドの結晶は、そのような道具を作るのに必要な大きさと透明度がなかったため、真実味は薄いということです。ーGSTV エメラルドの特性、特徴、希少性、石にまつわる伝説について より

 

 

ほれ、豊穣と再生ですよ、まるで神道の思想と瓜二つではありませんか。

古代ローマも無論のこと多神教でもって様々な神々が奉じられて居ました。

 

此の多神教は一般に他宗教に対し寛容だともされて居り故に非理性的な宗教であると一概に否定する訳には参りません。

 

 

多神教一神教

 

わたくしの現在の解釈はまさに此の類別も二元分離と云ふことになる。

二元分離するものはそも其処で優劣を競ふべきものには非ず。

 

あくまで其れは選択の問題なのであり正邪、善悪を規定する問題には非ず。

但し多神教にて人間が救はれるかどうかと云ふ話になれば矢張り其れは救はれ難ひことだらう。

 

逆に言へば上でもって批判めひたことを述べました神道にせよ其れは選択の問題であり無論のこと否定などはして居りません。

 

逆にわたくしはかう考へます。

其れは前々から申して居る二元分離への対処の仕方のことです。

 

其れは釈迦による二元の超克の方法ともまた異なります。

 

勿論釈迦ならば断見と常見を共に否定しー二重に否定しーまさに其の否定により中道と云ふ立場を立脚されませう。

わたくしはもはや其れが現代人には無理だとさう考へて居ます。

 

其処で其の二元的要素の関係性に着目する訳です。

すると其処には常に相剋し相即する関係が成り立って居ります。

 

 

何、話が難しひ?

 

まあ我慢して下され。

 

其の相剋し相即する関係其れ自体は放棄又は否定する必要がそも無ひのではなからうか。

 

其の原理を直観致しましたのがもう五年近く前のことでしたか、だから以降は屡此のブログでも此の関係性のことを繰り返し述べても参りました。

 

其れはまさに多神教一神教の対立する関係をむしろ其の侭に対立し尚且つ認め合ふと云ふ関係性をも指し示して居ます。

 

なのですが、實は其れが何でもありの現代の大乗佛教のあり方やまた自らが罪深くもなりつつあるキリスト教のあり方とはまたちょっと違ふものなのです。

 

 

要するに其れは人文知を宗教の分野に導入したものです。

人文知の根本には「疑ひ」がありますので基本的に宗教とは相容れぬ概念の癖があり勿論其の侭では水と油のやうなものです。

 

だって、

 

信仰⇔疑ひ

 

でせう。

 

なのですが太宰や芥川、また三島や川端の自決には意味がありませんでしたのでせうか?

わたくしはまさに其処を逆に「大ひに意味があった」とさう捉へたのだ。

 

なので疑ひと信ずることはまさに裏腹の関係で實は深ひところでは相互に関連し合って居ります。

 

 

また、

 

佛教⇔キリスト教

 

と云ふこともまさに言へるのであります。

 

 

實は其れが二元分離です。

 

つまりはだから此の世には否定すべきものなど元々何もありません。

 

 

との思想的決着ですが、此の結論もまた二元分離して居ることだらう。

なので其れも今の結論の選択であるに過ぎず今後どう変はって行くかは想定し得ぬものなのだ。

 

仰る部分とは或は西田哲學による「絶対矛盾的自己同一」か又は鈴木 大拙の「即非の論理」のことでせうか?

 

おそらくはさうなんでせうがまた違ふのだとも思ふ。

 

 

さて「智恵」とは何ですか?

「智恵」がある人間は動植物よりも偉ひのですか?

 

では逆にお尋ねしますがアナタは人間であることが楽しひですか?

其れもサヒコーに楽しひですか?

 

サヒコーです。

サヒコーに楽しひです。

 

サヒコーです。

サヒコーに苦しひです。

 

 

一体どっちじゃ?

 

「サヒコーに楽しひ」アナタはもはや社会的な洗脳を受けて仕舞って居る。

 

故に其の侭では救はれません。

 

 

「サヒコーに苦しひ」アナタはもはや自己による観念的な洗脳を受けて仕舞って居る。

 

故に其の侭では救はれません。

 

 

なあんだ、結局は二重否定ではなひか。

其れ即ちお釈迦様の論理ではなひか。

 

でもわたくしのは其の「サヒコーに楽しひ」のと「サヒコーに苦しひ」のを両方同時にやっていくことです。

 

👨と👩を同時にやり、また釈迦とキリストにも同時に帰依し、愛と死を同時に見詰め、馬鹿と利口を同時にやります。

 

 

そんなもん成功することだらうか?

いや失敗する筈です。

 

謂はば無理を承知の離れ業のことだ。

 

さうして最大分離する侭に最終的には「現在」を滅して行きます。

 

ヤッパリ佛陀による智慧だな?

 

いやキリスト教であっても悪魔に唆されし我我の「現在」を認めては居なひ筈だ。

 

 

尚わたくしは自分の教義を新たに拵へ其れにつき語って居る訳では無ひ。

 

むしろ何処にでもある思想の素材を寄せ集め人文理性として其の配列を変へることで眞理への糸口をかうして探して居るのだ。

 

まあ言ひたくは無ひのですがネット上などでも自分の教義を語る奴などが結構居ますが大抵は根本から間違って居ます。

 

 

ではおまへだけがさうして正しひ?

 

だから正しひか正しく無ひかの問題なのでは無くまさに選択の問題なのだ。

 

でもおまへの選択だけがまともなのか。

 

わたくしなどはまるでまともじゃ御座りません。

 

 

我我は所詮其の獣なので此の侭では救はれませんよとさう述べて来て居るばかりなのだ。

 

何よりおまへには「智恵」がある。

流石だ。

其処は全くもってエメラルド詩人だ。

 

 

ありがたう、やっと分かって下さったのか。

 

いーや、わざと反対のことを言ってみただけのことだ。

ほんたうは「此の馬鹿め何も分かっちゃ居なひな」とさう思ってる。

 

ありがたう、さう言はれて何だか嬉しひ。

 

 

エッ?

違ふだらう其れは。

怒れよ、怒れ。

 

此のクソダワケめが!とワシを罵倒し足蹴にせよ。

 

いいへ、むしろアナタ様こそが佛様でした。

 

またアナタ様こそが神の使徒なのです。

 

 

其れではアナタ様にわたくしの持ち物の全てを捧げます。

 

そんなもん要らんは。

其れもこんな腐ったやうな石ばかりではなひか。

 

 

馬鹿者!!

 

エメラルドはな、まさしく「智恵」の石じゃ。

おまへは詩人のお布施としての「智恵」の石を今さうして足蹴にしたな!

 

 

おまへなどはもう地獄行きだ!!!

 

地獄へ堕ちよ!

 

一刻も早う地獄へ堕ちよ!

 

さうしてもう二度と此処へは戻って来るな。

 

 

たった今地獄より再生して戻って来ました。

其の地獄では體が八つ裂きにされ舌を抜かれ目玉をくりぬかれ串刺しにされて居りましたが今ではもう全然大丈夫だ。

 

うはあ、流石はエメラルドの効能だ。

 

此の野郎、見事に再生されて来やがったな。

 

 

つまるところ、我我とは分離された自我であり元々は一人としてのお仲間なのである。

 

「仲良く喧嘩しな。」ーアニメのトムとジェリーよりー

 

つまりはさう云ふことなのだ。

 

此の世の全てはかうして「仲良く喧嘩し」て行かれたし。

 

 

NHKの「テレビ設置届出義務化」要望 感覚がズレてる理由

 

でもNHKが製作する良質な番組を視なひとほんたうの知性を身に付けることなどは出来ませんよ。

其れも👩だ酒だギャンブルだで遊んでばかり居るとほんたうの馬鹿になる他は無ひ。

 

また實はネットでも危なひですよ。

わたくしのネット利用はヤフオクやアマゾンでのお買ひ物とヴィデオ視聴、其れにNHKオンデマンドとネットラヒターさん方が書かれて居ることを調べること、さらに大學の論文の検索だけなのでほとんどが御勉強の為の利用なのだ。

 

但しNHKの感覚がズレてることは其れは確かです。

 

けれど公共の組織はまずさうなるのです。

 

其れに公務員も基本的に感覚がズレてます。ー父が公務員だったので其れは分かるー

 

 

でもやることをやって呉れれば多少のボケは仕方が無ひのだとも言へる。

 

第一大河ドラマも百分de名著もまたNHKスペシャルも民放では製作し得ぬクオリティのものばかりです。

 

特に學問が好きな人にとってはまさにNHKオンデマンドこそがパラダイスです。

 

其の代わりに👩の裸とか下ネタとかはまず出て来ません。

 

 

此のやうに「イラネッチケー」で良ひ人とどうしても「イルネッチケー」の人と人間は弐種類に分かれませう。

 

其処は選択出来るやうにすべきなのやもしれませぬが、兎に角わたくしの場合はたとへば家で飯を食ふ場合はまずTVをつける訳だ。

 

するとたまには民放の一軒家とか外国人のマニアックな挑戦の番組などを視るのですが兎に角CMが下らなくしかも下品で其れを見させられて居る時間により脳味噌が腐って来ます。

また当然ながら下らなひドラマなども視ません。

尤も野球の放送やゴルフのトーナメントの中継などは視る。

 

なのでなるべく民放の腐れCMを視なくて済むやうにすぐに総合か教育のチャンネルの方に変へて仕舞ひます。

そんな「イルネッチケー」のへヴィ―ユーザーなのでさう批判ばかりはして居られずむしろこれまでに其処から多くを學ばせて頂ひて来て居る。

 

以前からむしろ公共放送としてのNHKはもっと眞面目化して太宰や芥川、また漱石のことなどを其れからカントやショーペンハウアーのこと、其れにゴッホゴーギャンのことなどをもっともっと頻繁に取り上げ其れこそアカデミズムの場としてみてはどうか?などとも屡考へて来て居ます。

 

其れも此れまでの教育TVでは無く學問専用放送、または宗教を論ずる場、と云ふやうにまさに👩の裸とは正反対のところで勝負してみてはどうか。

 

でも此れは大衆レヴェルのお話ではありませんのでハナから無理なことでせう。

 

兎に角學問が好きな人にとってはまさにNHKオンデマンドこそがパラダイスです。

わたくしなりのエメラルドの伝説ー壱ー

現在も“立てこもり”…JR駅前のショッピングセンター内にクマが逃げ込む 搬入口から店内へ侵入

うはあ、またエラヒことじゃ。

しっかし🐻が「立てこもる」とは如何にもご時世じゃのう。

 

さて其の🐻さん達は今どうなって居るのかな?

クマ警戒、最高レベルの石川県 パトカーも襲われパンク 目撃情報最多400件

 

かうしてとんでも無ひことになって居った。

此れはもはや人間と🐻との戦争じゃらう。

 

ほれみよ、詩人の予言がまた当たったぞよ。

 

住宅街でクマに襲われた83歳女性が死亡 秋田・藤里町

今日本の各地にてかうして人間と🐻との死闘が繰り広げられておる!

其れもコロナ苦どころでは無ひ、今後日本人はどーぶつ達と戦っていかねばならぬのだぞよ。

 

 

 

人間が動物などに食われる映画はありますか?

 

どうも有難う御座ります。

かうして人間が動物に喰はれる映画はあれこれと御座ります。

 

ですがこれからは映画の世界では無くまさにほんたうの生きるか死ぬかの戦ひが始まるのです。

皆さん、これからは是非とも彼等の食べ物にならぬやう是非気を付けて行動されて行って下され。

 

 

うはあ、やられた!

腕が喰ひちぎられた。

 

バリッ、バリバリバリバリッ。

痛へ、たった今足が喰はれてるぞ!

 

などとならぬやうにセキュリティの方を強化してまきませう。

ALSOKかまたはSECOMにでも頼んで置けば無論のこと警備は万全です。

 

其れも冗談じゃ無く半分以上は本気なのですよ。

 

動物は、もう本当に凄ひです。

其れも此処のところ寒ひのですぐに腹が空く野良猫共の食欲と肉を喰らふ時の其の唸り声と来たら!

 

只、其の時にかうも思ひました。

其の獣性を所詮人間は抽象化して発揮して居るだけなのだと。

 

其れも社会化されし欲望とはまずは其の獣性のことです。

 

其の獣性を野放しにしてはならん訳だ。

 

だが野放しにされて来て仕舞った。

 

其れも近代以降みんなでやった獣性がかうして自然との戦ひを引き起こしたのだった。

 

 

其の獣性の犯す罪は釈迦とキリストの価値観に於ひてのみ浄化され得救はれませう。

 

ですが其の人間と🐻との戦ひはまさに罪深き人と罪深き動物との戦ひなのです。

 

要するに罪深ひことは互ひにまるで変はりが御座りません。

 

 

其の罪深さが抽象的であるか其れとも具象的であるかの違ひだけなのだ。

其のやうに詩人の価値観はすでに限りなく眞理方向へとシフトされて行って居る。

 

 

なのだけれどもまだまだ欲深ひ。

いやむしろ一般人などよりも美に対する欲が深ひぞ。

 

人間であることを半分捨て去り「死んで生きて」居るが故に逆に美が欲しひ、嗚呼其れも観念の美と物質の美との両方が欲しひ。

 

 

ああー、石が欲しひ、石になりたひ。

 

石になりたひ?

 

石では無く植物に変身するのが夢ではなかったのか?

 

 

さうでした、石の中に生まれたひ、だった。

 

石の中に植物として生まれ変はりたひのか?

 

石の中に是非人間として生まれ変はりたひ。

 

動植物は野蛮なのでもう真っ平だ、だからこそ石人間となるのだ。

 

今こそ💎人間と化するのだ!!

 

 

💎人間はかうして石と同化し常に人間を見下しあらゆる概念を超越して居るぞ。

 

 

 

先日職場の方でTVを見て居たところ💎チャンネルーGSTVーと云ふのをやって居り其処で日本人のエメラルドハンターの方がエメラルドの解説をされて居られた。

 

實は半年程前からエメラルドの標本がまた欲しくなって来て居る。

 

なので其の番組に非常に興味が涌ひたのだった。

 

エメラルドは特別な💎で良ひ標本を得るのが可成に難しひ。

 

ひとつには産地のコロンビアでの石の出が少なくー悪くーなって居ることが考へられやう。

 

 

ー内部に特有の傷が無数にあり、これが天然ものの標識ともなっている。当然ながら、大きく、傷が少ないほうが価値が高く、明るく濃い緑色のものが最上級とされる。エメラルドは天然には良質の石がほとんど産しないため、かなりの傷物も宝石として流通させることが一般に認められており、その場合オイルや樹脂に浸すなど化学的処理を施して傷を隠したり、石の耐久度を高めたりする。特に無処理、ノンオイルとのことわりがない限り、この手の処理を施してあると考えて差し支えない。処理が下手な場合、時間の経過とともにオイルが蒸発する、またかなり高度な処理であっても、近年宝石店の店頭でも盛んに行われている超音波洗浄機によりオイルが抜けてしまうことがあり、そうなると本来の傷物の姿に戻ってしまう。

また、中には黄緑色をした石もあるが、エメラルドとして扱われることはほとんどなく、ヘリオドール、グリーンベリルなどと呼ばれ価値も著しく下がる。発色の仕組みも鉄イオンが関係しており、クロムやバナジウムにより発色するエメラルドとは原理が異なる。これらの石は加熱処理によりアクアマリンへと変色させることができる。ーエメラルドより

 

 

エメラルドの本質的性質は脆く壊れ易く繊細な💎であることだがさうであるが故に飛び切り美しひとさう言へるのだと思ふ。

とは言へ実際には石なので硬くてすぐに割れたりはしなひ。

 

但し産出量が限られて居る為蒐集するのが難しく原石の標本ともなると余計に難しくなる。

何故なら良ひ石は数十万、数百万、若しくは数千万で売られる訳なのだから全て磨かれて仕舞ふ。

 

つまりは其の加工により人間界での、其の人間社会での価値が抽象的に構築されやう訳だ。

即ち丁度姐ちゃん達、母ちゃん達が化粧をしてキレイさうに見せかけて居るのと同じやうな虚の価値なのだ。

 

まあわたくしは其の加工其れ自体を嫌ふと云ふか其れには興味が無ひ訳だ。

 

で、不細工な其の石がまた姉ちゃん達が如何にもブランド物のやうに化けて数百万だ、数千万だ、数億だ、とやって居ることこそが人間界での實情なのだ。

 

まあ不細工でも仕方がなひか。

 

 

と金が無く高望みを諦めたわたくしは此の二十年間で不細工な標本を4つだけ集めたが皆小さひ標本なので一つのプラ標本ケースに纏めて入れてある。

要するに石も質がイマイチな場合には数が集まると何とか見られるのだ。

 

其れを眺めつつ、またグリーンベリルの巨大な石を左手に握りつつ今コレを書ひて居る。

色の薄ひエメラルドの標本

こんな感じのものだがもっと色が濃く黄緑色をして居る。

 

廿年位前に何かの展示会の折に弐千円位で買って来たが思考のお伴として大層役に立って居る。

 

 

さて中津川の鉱物博物館にはおそらく日本一かと思はれるコロンビア産と思しき巨大な原石標本がある。

 

まさにかうしたものが標本として一級に良ひものだ。地学実験I:中津川鉱物博物館見学&鉱物採集 -巨大なエメラルドの結晶-

此の結晶自体が10センチ近くあったやうに記憶して居る。-参度は此処を訪れて居るが此れをいつも見て来た-

此れにもし値が付くとしておそらくは数千万単位なのではなからうか。

 

中津川鉱物博物館 常設展示室

此処の中央のガラスケースの中に展示されて居た筈だ。

 

此の画像でもデカひピンク系のトルマリンの結晶が見へる。

何処が金を出したのかは知らぬが此処のケースの中だけでもとんでも無ひ額の金がかかって居やう。

 

 

そんな訳で不細工では無ひもの即ち出来の良ひものは此の世では常に値段が高ひ。

逆に出来の悪ひものは値段が安く往々にして軽くも見られやう。

 

なのだが、人間の出来だけは見栄へや経歴だけではまた無ひ筈なので其処にはむしろ余り拘らぬ方が良ひ。

 

其れは其の通りなのだが石はほんたうにクズはクズで美形は美形なので其処は厄介だぞ。

即ち価値ヒエラルキー其のものの世界が實は石の世界なのだった。

 

其れでもクズ石では無ひ範囲で凡石をちょっと数を多く集めると楽しめると云った訳だ。

凡石とは言っても道端に落ちて居る石とは違ふのでクズ石ばかりを道端から拾って来ることの無ひやうにね。

 

 

ーモース硬度ではかなり硬い石のはずなのだが、内部に多数の傷を抱えていると云う結晶の性質上、衝撃に極端に弱い。とにかく非常にもろく、指輪の台に取り付けるだけで割れることさえあり、職人泣かせの石とされる。エメラルドカットと呼ばれるカットがされることが多いが、これは屈折率がダイヤモンドのように高くなく、ブリリアントカットを施しても屈折率の高い石に特徴的な煌き(ファイア)が見られないためで、印象的な緑色をより広く見せようとした結果である。それと上述したこの石の脆さ、及び六角柱をした結晶から取り出せる大きさなどとも関係があり、なるべく欠け易い角が少なくなるようなこのカットが生まれた。ーエメラルドより

 

其のカットには興味が無ひ。

其れは人為的な加工にそも興味が無ひからなのだ。

 

だがデカひエメラルドの裸石を呉れるのだとすれば当然に其れは貰ふ。

尤も其の場合には其れを参千萬円位で売り飛ばしイーベヒにてエメラルドの原石を買ひまくるつもりである。

 

 

ーエメラルドの歴史は古く、世界の4大宝石にも数えられている。ギリシア時代、アリストテレスの弟子テオフラストスの「石について」に登場し、エジプトの紅海に近い砂漠で発見されたという。プトレマイオス朝エジプトではクレオパトラも愛用し好みの大使に与え、シーザーは治療のためにたくさん集めたと伝えられている。このことから富と権力の象徴でもあったとされている。ローマ帝国時代のプリニウスの「博物誌」では、ダイヤと真珠に次ぐ、第三位の宝石とされており、皇帝ネロはエメラルド製のモノクルを所有していたとの言い伝えもある。実際、ポンペイなどローマ帝国時代の遺跡からはエメラルド製品がよく出土する。ーエメラルドより

 

其のクレオパトラやシーザーが集めたエメラルドはまたネロが所有したエメラルドはコロンビア産の如くに質の高ひものでは無かったやうだ。

然し今ならパキスタンアフガニスタンからも中には質の良ひエメラルドが産出して居るやうだ。

 

また實は中國からも出て来て居る。

日本のオークションやイーベイオークションで売られて居るエメラルドの原石標本は此の中國産やパキスタン産が多くなりつつある。

 

と云ふことはコロンビア産の良ひ標本が得られにくくなって居るのかもしれなひ。

ーちなみにわたくしが持って居る標本は全てコロンビア産だー

 

ーこのように古い歴史を持つエメラルドではあるが、量的に出回るようになったのはアメリカ大陸発見後、新大陸で発見されてからである。ーエメラルドより

 

要するに其れがコロンビア産なのであらう。

さうして近年ではブラジル産もまた産出されて居る。ブラジル産エメラルドの特徴は?産地別の特徴

 

ーエメラルドは南極以外の6大陸から産出があります。その中でも南米大陸は最も重要で、特にコロンビアは最も産出量が多く、そして最も素晴らしい品質のものが産出されます。だからと言って「産地」が自動的に品質を保証すると考えることは間違いです。良質のエメラルドがザンビア、ブラジル、ジンバブエマダガスカルパキスタン、インド、アフガニスタン、あるいはロシアのような他の国でも産出されます。特にザンビア、ブラジル、そしてジンバブエは良質のエメラルドであると国際的な評判を得ています。ザンビアのエメラルドは、透明度が良くて美しい濃いエメラルドです。その色はコロンビアの石よりもっと一般的に濃く、青味がかっています。ブラジルでは、イタビラ鉱山やサリニンア鉱山が有名ですが、ブラジルのものは緑色がやや黒味を帯びているのが特徴です。ジンバブエの有名なサンダワナ鉱山のものは、一般に小さいが、鮮やかな濃い緑色でしばしば黄色がかっています。ーGemmy 133 号 「エメラルドの産地と特徴 -その1-」より

 

 

エメラルドは結構世界中から産出して居る訳だがなかなかコロンビア産のやうな色合ひが出なひやうだ。

但し石は単に石なので實は幾らでも地中には埋まって居る。

なので何処かから凄ひのが出て来る可能性は常にある。

 

何せ石は生きては居なひので絶滅したりはしなひ。

生命では無ひのでむしろ一番長生きが出来る訳だ。

 

尚、わたくしが持つ岐阜の福岡鉱山のアクアマリンの標本ーかってあま市のS氏より求めたーはアクアマリンの靑と云ふよりは薄ひ緑色をして居る。

ーまた他にもS氏(愛知の鉱物同好会の会長をされて居た方)からは何と緑色の岐阜産トパーズも二つばかり譲って頂ひて居るー

 

なので其れはむしろグリーンのベリルに近くよってエメラルドには程遠ひにせよ其れに近くはなる訳だ。

よってわたくしは其れを岐阜産のエメラルドだとさう思って居るのである。

 

ーエメラルドとアクアマリンは同種の鉱物であり共にベリルと呼ばれる。但し色合ひがエメラルドが緑でアクアマリンは靑である。ー

 

 

ーコロンビアのエメラルドは、青色を含まないその良質なすばらしい緑色によって他の産地のものと区別されます。ムゾー鉱山は、コロンビア最大の鉱山であるとともに、最高級のエメラルドを産出するという定評があります。緑色が濃いうえに柔らかい味わいがあります。コスケス鉱山のものは淡い緑色に特徴があります。チボール鉱山のものはムゾー鉱山のものと比較すると内包物は少なく透明度が高いです。緑色にやや青色味がかっているのも特徴です。ーGemmy 133 号 「エメラルドの産地と特徴 -その1-」より

 

 

石は色合ひだけでは無く輝きの具合ひが産地により異なる。

コロンビアのエメラルドは輝きが良ひのではなからうか。

 

其のなからうかと云ふのは世界の各産地のエメラルドを比べて見たことなどは無ひので分からぬのだ。

わたくしの場合万年筆の方は専門家に近ひものとは思はれるのだが石の方はタダの底辺コレクターなので知識にせよ乏しくさう威張って石を語る資格などは元々無ひ。

 

但し年を取ってからは次第に石狂ひとなりつつある。

 

元来万年筆は作家や詩人にとっては必需品なのだらうがわたくしはプロのラヒターでも無くまたかうして何か述べたひことがあればキーボードを叩くので万年筆を使ふ機会は以前より大幅に減りつつある。

また銘木ボールペンが幾らでもあるので其れにてメモ書きは出来其処に不足は生じなひ。

 

石の方はむしろ心を慰めるまさに其のことにこそ効果があるやうだ。

 

所謂ヒーリングと云ふ奴なのか兎に角自然物なので人間が加工した何かとはまるで対した時の感覚が違ふ。

 

 

さうして時代自体が自然を指向して居るやうに思へてならなひ。

 

コロナ禍にてみんなが立ち止まって自己の生活、また自己が属する組織や文明のこと、人間存在のことを少しでも考へ直す時間が其処に与へられた訳だ。

 

まさにそんな折に中には普段出来ぬ深ひ考察をしてみた人々などが居たのかもしれなひ。

 

其の考へる時にこそ石や筆記具は大ひに役に立つのだ。

 

 

元より考へぬ人間にはおそらくはそんなものよりも何か他のものが必要なのだらう。

 

なのですが、考へなひ時にも實は石が役立つ。

 

むしろ考へぬ時にふと気付くと其処には石があったりもする。

 

其の考へぬことこそが自然の本質なのではにゃーでせうか。

 

 

ー中世では、エメラルドに未来を予言する力があるとされ、また、女性の貞節を守り夫の愛を保つとされていた。

現在では5月の誕生石とされている。ー

 

ー女性の貞節を守り夫の愛を保つー

 

いやー、まさに素晴らしひことではありませんか。

不倫撲滅!!

 

さうしてエメラルドは五月の誕生石ですので、あれは四十年程前でしたでせうか、父が五月生まれの母にエメラルドの指輪を贈りましたが其れが一カラット以上はある質の良ひ立派なものでした。

 

おそらく最低百萬位はしたのではなかったでせうか。

 

ところが、五年程前に母が指輪が無ひと言ひ出し現在も其れが何処へ行ったものやらまるで分かりませぬ。

 

此のやうに大事なものの管理が悪ひ👩が實は多ひやうです。

 

面倒臭がりでもって家事の嫌ひな女性などは特に要注意ですぞ。

 

 

さてもデカひエメラルドに日本國の未来を聞ひてみると果たしてどんな答へが返って来るのでせうね?

 

其れは果たして大繁栄でせうか其れとも大滅亡でせうか?

 

本日はさうしてデカひグリーンのベリルの標本を左手に握り締めつつ以上のお話を書ひておりましたとさ。

 

 

 

此処で終はらうかと思ひましたがヒーリングのことがどうも気になります。

 

[ヒーリング効果]

生きる意欲を与え、常にプラス思考を意識させてくれます。明るく前向きに楽しい人生がおくれるように応援してくれる石です。内面の美しさや感性、才能を引き出す能力があるので、クリエイティブなお仕事をされている人にもオススメです。女性的なやさしさの中にも強さを感じさせる波動を持ち、持つ人のいい面を引き出してくれます。ー石のヒーリング効果でアクセサリーを選ぶより

 

でも何故かエメラルドのことが書いてありません。

おかしひな。

其処でオパールのヒーリング効果を見るとかうなって居ました。

 

ー生きる意欲を与え、常にプラス思考を意識させてくれます。明るく前向きに楽しい人生がおくれるように応援してくれる石です。ー

 

なる程、さうだったのか。

おおまさにオパールこそが此の我のマイナス思考をブチ壊し明るく前向きに楽しい人生がおくれるように応援してくれる石だったのだ。

 

と云ふことはわたくしがこれだけオパールの標本を集めたことはまさに必要に応じてさうなって居たことだったのだな。

 

 

ー内面の美しさや感性、才能を引き出す能力があるので、クリエイティブなお仕事をされている人にもオススメです。ー

 

ー女性的なやさしさの中にも強さを感じさせる波動を持ち、持つ人のいい面を引き出してくれます。ー

 

おおー、おおおおおおおー。

 

何だか此のわたくしの為にだけ用意された石のやうに思はれます。

 

 

[ヒーリング効果]


束縛を退けて固定観念を崩し、何事にもとらわれない柔軟な心を鍛えてくれます。自らを愛し、人に惑わされる事ない強さと寛大な心が培われます。コミュニケーションや人間関係で疲れている人の心を穏やかにしてくれます。

[キーワード]
冷やす、清澄化、鎮静化、軽減する ー石のヒーリング効果でアクセサリーを選ぶより

 

 

 

ではアクアマリンのヒーリング効果の方も調べてみませう。

 

 

ー束縛を退けて固定観念を崩し、何事にもとらわれない柔軟な心を鍛えてくれます。ー

 

おおおおおおおー。

 

ー自らを愛し、人に惑わされる事ない強さと寛大な心が培われます。ー

 

うはああああああ。

 

ーコミュニケーションや人間関係で疲れている人の心を穏やかにしてくれます。ー

 

うえへへへへへへへ。

 

とのことで、まさに我にとり凄ひ効果が期待出来さうな石だ。

田舎暮らしが合ふ人と合はなひ人

  • 外部の娯楽に頼らないで楽しめる人
  • 固定費を抑える目的
  • 一人でいるのが好きな人

田舎暮らしが合う人、合わない人の結論より

 

結局さうしたことなのだらうと思ひます。

ミニマリストでもって孤独癖のあるわたくしは明らかに田舎暮らしが向ひて居りませう。

 

第一こんな旧仮名でもって作文して居る変はり者ですので元々地味な田舎が向ひて居るのです。

ですが田舎の集落へ行ったとしても勿論其の侭に変はって居りますので其処でもって村八分になる可能性は高ひ。

 

なので別荘地にて単独生活をしたひとさう申して居るのです。

 

で、其の外部の「娯楽に頼らなひ」ことと「むしろ孤独が好き」なこととは明らかにリンクして居る心理的傾向でせう。

其の孤独好きに関してはわたくしは幼稚園児の頃からさうでしたが娯楽に就ひては都会型の娯楽をむしろ三十歳位まではタダひたすらに追求しておったものです。

 

要するに百貨店での「お買ひ物」が趣味の一つで、またスポーテイな🚙に乗ることがまた趣味の一つであった。

同時に文學も追求しては居りましたが左様に存外に都会の文明生活の方も楽しんでやって居たのです。

 

 

でも三十代になると自然志向が高まり当時付き合って居た年上の👩と共に山中を始終ドライヴしてまた単独でも森歩きを楽しむやうになった。

元々カブスカウトだったわたくしは其処で初めて自然の素晴らしさや大事さに開眼したのだと言へる。

 

其の👩にフラれて以降四十代からは石に目覚め休日になると山へ出向き鉱物採集に勤しんでも来た。

要するにマニアック化の向きが加工物➡自然物へとシフトして行った訳だ。

 

ところで自然が好きかどうかは案外人間の内面にとり本質的傾向を指し示して居るやうに思はれます。

結論から申しますと自然が好きな人でなひとわたくしの内面的性質を理解することなどはまず不可能です。

 

尚最近は概ね都会が何より嫌ひで其れを攻撃ー批判ーして来て居るものと自分でもさう思はれます。

其れはまさに文明其れ自体が嫌なのですか?

 

 

さうです、イヤなのです。

左様に精神が文明を足蹴にして居るので其れの全てを否定的に見詰めて居ります。

 

其れは倉本 聰的にイヤなのですか、其れともゴーギャンのやうにイヤなのですか又は梅原 猛のやうな近代思想批判の哲學の部分からイヤなのでせうか?

 

其の全部がゴタ混ぜとなりイヤなのです。

特に都会の馬鹿がイヤです。

 

其れも抽象的に馬鹿の度合ひが進むこと=シンポの軽薄さとおバカさにもはやガマンがならぬ訳だ。

 

都会は馬鹿?

 

流石は詩人だなあ、誰も言はぬことを今コキましたな。

 

そんな都会の馬鹿はもはや有名ですよ。

 

其の都会の馬鹿はまさに笑ひながら野っ原を突き進み肥溜めに落ちてクソまみれになる馬鹿の態です。

 

其処で価値ヒエラルキーが抽象的に且つ堅固に組み上がること自体がほとんど低能でせう。

 

 

では田舎は馬鹿では無ひ?

 

むしろ田舎の方が何かと馬鹿にされることが多ひやうですがさうでは無ひと仰るので?

 

田舎はね、具象的具体的に物事が進む分まだしもまともでせう。

 

田舎と言ひますかより自然其のものに近ひ環境が其れを可能として居るのです。

 

 

アナタはもはや都会の価値観、其の価値ヒエラルキー其のものを全否定されて居られるのか?

 

まあ全否定するまでには至りませんが価値の逆転を意識的に行って居るのでもはや其れは虚の価値にしか見へぬ訳だ。

 

 

とは言へ、あくまで観念的、抽象的にはさうですが肉体的、具象的には都会のものを愛し慈しんで居る部分もまた御座ります。

 

だけれども本質的には要らぬものばかりだとさうも思って居ります。

 

但し価値観の上でのことなのであくまで其れは観念的にさうなのだ。

 

 

故に現實的にはなかなか田舎へは移住し切れぬ訳だ。

 

 

 

ーしかし田舎は、バスが中心で初乗り料金や運賃もそれなりに高いため、気軽に出かけることは難しかったです。

また、コンビニも都市圏に住んでいた頃は家から歩いて散歩感覚で行けることに対し、田舎のコンビニへ行くためには、車を運転するか、自転車で行かざるを得なかったです。

慣れるまでがすごく大変でした。ー田舎暮らしに失敗を感じる事10選|移住者たちの後悔とは? より

 

 

ーさらに、異常に虫が多いです。

良いように言えば、空が広い、自然がたくさんあり喧騒という言葉とかけ離れている、となり、私もそれに惹かれて移住したのですが、それにしては虫が多く、慣れていないものからすれば毎日が恐怖の連続です。

最後に、足場が非常に悪い点です。

多少はアスファルトもありますが、それも所々ひび割れていたり、落ち葉で埋め尽くされたりしているので、雨が降ったら最悪です。

ヒールの高い靴は危なくて、引っ越してからはあまり履かなくなりました。ー田舎暮らしに失敗を感じる事10選|移住者たちの後悔とは? より

 

 

ー都心ではどこかへ移動する際、タクシーもバスも地下鉄もなんでも移動手段があります。

そういった生活に慣れていた為、正直な所、田舎とはいえどうにかなると考えていたのですが、本当に車がなければ何も出来ませんでした。

浅はかな推測で田舎への移住した事には、非常に後悔を感じました。ー田舎暮らしに失敗を感じる事10選|移住者たちの後悔とは? より

 

 

 

まず、そも根本として考へねばならぬのは一体何を求めて田舎へ行くかと云ふ部分なのでせう。

 

其の思想の根本のところに文明批判、近代批判の部分がありませんと結局都会の視点ー価値観ーから田舎の価値を見詰めて仕舞ふこととなる。

すると此のやうに不便さや危険さ、また虫の多さなどに嫌気がさし移住は失敗することとなりませう。

 

でもーコンビニへ行くためには、車を運転するか、自転車で行かざるを得なかったーなんてそんなことは当たり前のことだらう、コノ都会馬鹿めが。

 

ーヒールの高い靴は危なくて、引っ越してからはあまり履かなくなりましたーなんて田舎ではズックー運動靴ーで過ごすのが当たり前だらう、コノ都会馬鹿めが。

 

ー本当に車がなければ何も出来ませんでしたー

自転車でもって買ひ溜めなどが出来る別荘地ならば何とかなることでせうが、たとへば三河の山の中などは🚙が無ひと移動は確かに辛ひです。

 

但しそも何故移動しなければならぬのか、と云ふ部分もまた考へておかねばなるまひ。

其の移動がそもイヤなので田舎の山の中に引っ込みたひ、と云ふ考へが無ければ結局其の移動の不便さに躓ひて仕舞ふ訳だ。

 

 

 

ーしかも、職の募集自体も都会に比べて少なく、賃金等も都会より低めな傾向があります。

移り住む前は、田舎は都会に比べてお金がかからないとタカをくくってましたが、結局はガソリン代など、都会に比べて逆に出費を多くなってしまいました。

後は、近所のしがらみ等でしょうか?

都会の、あまり他人に干渉しないスタイルになれた私からすれば、いちいちプライベートにまで干渉してきて、正直申しますと煩わしいとさえ思ってしまいます。

私の住んでる所は、ノックもせずにいきなりドアを開けてくる人さえ居ます。ー田舎暮らしに失敗を感じる事10選|移住者たちの後悔とは? より

 

 

そも田舎でもって働かうなどと思ってはイケナヒことだらう。

田舎に仕事が無ひのは其れは当たり前のことで何故なら田舎は未開の土地だからなのだ。

 

田舎の集落に住むとさうしてまさに鬱陶しひ近所付き合ひがつきものですので其れは避け別荘地へでも行った方が良ひことでせう。

 

たとへば軽井沢の別荘などは無論のこと其れなりのお金が要りませうが読者の方々などがいつかはお布施をして下さるものとさう信じて借金をしてでも其れを買っちゃひませうか。

尚個人的にはおそらく寒ひことだらう軽井沢には余り興味は無く昔叔父が持って居たひるが野の低級な別荘ーー但しセキュリティは確りして居るーか又は奥三河の安っぽひ別荘地などにより大きく興味が御座ります。

 

 

ー幸いにも、地域住民の方々は皆とても親切で優しくしてもらっているので人間関係については問題ないのですが、嫌だなと思うのが自治会の行事がやたらと多いことです。

自治会への参加自体も断ることはできると最初に説明されましたが、近所の人は皆加入しており、最初から入らないということを選ぶのは難しい雰囲気でした。

実際に自治会に入ってみると、草むしりや運動会など、半ば強制的に様々な行事に参加させられ、休む暇もありません。

「行事がたくさんあって大変だ」と文句を言いつつも、たいていの住民が参加するので何も理由なしに不参加というわけにもいきません。

こんなに自治会の行事が多いのは予想もしなかった、と後悔しています。ー田舎暮らしに失敗を感じる事10選|移住者たちの後悔とは? より

 

 

だからそんなもん、其の集落乃至は山の麓の村又は町に入って行くなどと云ふことは都会人には負担です。

だからそんなもんの無ひ別荘地へ行きたひのですが別荘地に自治会が無ひとはまた言ひ切れずで第一正直其の辺りの部分は何も知りませんので其処は何とも申し上げやうが御座りません。

 

 

 

ーですが、今の田舎はとにかく塾もスポーツ教室も何も無いのです!

子供に水泳をやらせたくても、車で30分かけて送迎しなくてはならず迷っている状況。

ピアノも習わせたくても、回りがホントに老人が多く、通いで来てくれる先生も無し。

塾も体験で行ってみましたが、どうしても身内ばかりで無駄話も多いしやる気の感じられない授業。

今後、田舎の学校でのんびり過ごしていくのは不安でいっぱいです。ー田舎暮らしに失敗を感じる事10選|移住者たちの後悔とは? より

 

 

そも塾やスポーツ教室を何で田舎に求めて居るのか其の思想的背景がわたくしには理解出来ません。

此れではまるでもって都会馬鹿丸出しのお話ではなひですか。

 

そも何の為に田舎へ行ったのかがまるでもって理解不能です。

 

 

ー何かにつけて干渉してきますし、この人付き合いの面倒臭さは田舎に移譲して一番後悔しました。

それから、歩いて行ける距離に何もないというのがかなり失敗でした。

移住前まではそんなに気にしなかったんですが、いざ移住してみるとこれほど不便な事はありませんでした。

ちょっとした買い物でもいちいち車に乗らなければいけないのが面倒臭いです。

気分転換に外食なんて思っても車でかなり移動しなければいけないので、気軽にという感じでは行けません。ー田舎暮らしに失敗を感じる事10選|移住者たちの後悔とは? より

 

 

ですから、そも何の為にアナタは田舎へ行ったのですか?

お買ひモノをする為に行った訳でもまた外食をする為に行った訳でも無ひ、との其の思想的決意をちゃんと持ってから移住して下され。

 

少なくともお買ひモノや外食はもうイヤだ、ほとんどもう不要だ、と云ったミニマリズムの部分を思想的に煮詰めた上で田舎へ行かなひと上手く行く筈がありません。

其の思想が無ひのにホヒホヒと田舎へ行くからかうして移住に失敗して仕舞ふのだ。

 

 

ー都市圏では2、3分で次の電車が来るのは当たり前だったので、いつでも駅に行けば電車に乗ることができたのに、現在の自宅近くの駅では10分以上は待たなければならないため、最近は慣れましたが、引っ越し当初は少し後悔し、同じように雑誌やネットで見た欲しい服やバッグなどが、すぐにお店まで見に行けないことも失敗だったと思っています。 ー田舎暮らしに失敗を感じる事10選|移住者たちの後悔とは? より

 

欲しひ服やバッグは都会で買へよ、此の都会馬鹿👩めが。

 

まあ一般に人間の♀は田舎生活には余り向ひて居りません。

何故なら子宮思考の求めるものが基本的に反自然であるからです。

 

一見子宮思考は自然其のものであるやうに見へますが實はさうでは無ひ。

より正確には近代とは其のホモ・サピエンスの♀の子宮の願望を抽象的に理念化し価値ヒエラルキー化したもののことでせう。

 

其の抽象的な理念化に結託したのが男性原理による科学的空想力です。

其の男性原理による空想力は他方で文學的にも成立するのですが、まさに其の文學、哲學の分野は金を稼ぐのが元々不得意なのでさうした人文力に限り次第に弱められて行くのであります。

 

其のやうに子宮思考による願望=虚の欲望、邪なる欲望が文明を形作る根本での心理なのです。

 

なので一般に人間の♀は田舎生活には基本的に向ひて居りません。

 

第一、きゃああーーー、何コレ?

 

でっけへ蝦蟇が蜘蛛がまた蜥蜴が🐍が出たぞ!!

 

そんなことは森の中ではむしろ当たり前のことだ。

 

スズメバチなども滅茶苦茶にデカひ奴がブンブンと何匹も飛んで居ます。

 

 

但し中にはマニアックな女性もまた存在します。

 

即ち田舎が好きでまた森や山の中が好きで逆に都会が嫌ひな変はり者が。

 

無論のことさうした女性こそが田舎生活には向ひて居りませう。

 

 

ーそして、都市圏に住んでいる頃はそこそこ健康だと思っていたのですが、実は糖尿病を発症していたことが田舎に移住した後に分かり、毎週、田舎から2時間近くかけて病院に通院しなければならなくなり、これも不便さを感じています。

田舎暮らしに失敗を感じる事10選|移住者たちの後悔とは? より

 

 

實は此れが一番切實な問題です。

特に五十歳以上の人にとり一番気になるのが其の「医者が居なひ」か又は「病院までが遠ひ」と云ふことなのでせう。

 

此れは然し大問題でせう。

 

たとへさうして近代文明批判を思想的に完成させて居るにせよ医者が何処にも居なひのでは病気にもなれません。

 

 

此のやうな實態から田舎への移住はなかなか難しひと云ふことが結論的に導き出されて参ります。

が、其の困難を解決するのは結局資金力ではなひかともわたくしは今考へて居る。

 

ズバリ申して壱億円を今持ってれば何とかなると申しますか充分にイケることでせう。

が、其の半分の五千萬円でも何とかなるのやもしれませぬ。

 

とのことで結局は田舎への移住も金次第なので御座りませう。

 

 

 

ーよく「生まれ育った故郷が一番」という意見が聞かれますが、これは正しい見方ではありません。なぜなら、「田舎産まれで田舎育ち。だけど田舎は嫌い」という人を見ることは少なくないからです。 ー田舎暮らしが合う人、合わない人の結論より

 

 

田舎産まれで田舎育ちの人でもって田舎が嫌ひな人はむしろ多ひ印象を持ちます。

 

事實わたくしの弟の嫁は長野県の出身者ですが名古屋と云ふ大都会が大好きで長野は嫌ひださうです。

 

逆に根っからの都会人にはむしろ田舎指向の強ひ人も居ます。

わたくしなどは明らかに其のタヒプでせう。

 

尤もわたくしの場合は生まれ育った土地への強ひ愛着もまた同時にあります。

でも都会は何かと鬱陶しひと云ふ感覚が四十代位から芽生へ其処からドンドン都会がイヤになり始めたのだった。

 

 

都会の人間は功利主義に毒されて居るのでイヤだと云ふ部分もまた大きく御座ります。

 

其れと藝術家気質の人間はより静かな環境をこそ好むものです。

 

つまりは倉本 聰氏のやうなものなのだらうか?

 

又は畑 正憲氏のどーぶつ王国のやうなものか?

 

いへ、わたくしのはもっとかう隠遁気質でもってつまりは隠棲です。

 

ソロ逃げ、とでも申しますか社会的な人間であることを辞めたひ訳だ。

 

即ち自称詩人です、ソロ逃げです。

 

てな感じでもって何処までも逃げたひのですが其れはあくまで夢であり夢と云ふものはまず實現することが無ひ。

 

 

ー筆者が東京に住んでいた頃、実家が田舎という人とたくさん知り合いました。彼らの中には「進学、就職で東京に来たけどいつかは故郷に戻りたい」という主張をする人もいますが、「地元が嫌い。閉鎖された人間関係と可能性にうんざりしたから、都会で勝負しに来た。東京は田舎と違って他人の一挙手一投足に関心を持たれないからすごく楽」という人もいました。 ー田舎暮らしが合う人、合わない人の結論より

 

 

名古屋は東京程都会化されて居る訳では無く従って程良ひ田舎っぽさも實は有して居り東京や大阪よりも住み易ひとのことです。

また田舎程人間関係は濃くはありませんので其処はまさに都会的に合理化されて居ります。

 

買ひ物や移動に不便を感じることなども無く人間の数自体も東京や大阪、また横浜よりも少なくわたくしのやうに不満を述べる程でも實は御座りません。

 

ですが、三河や岐阜へ行くとヤッパリ全然違ふ訳だ。

また、岐阜市、此処の岐阜県美術館へかって屡出向きましたがー象徴主義絵画の殿堂ー、電車で名古屋へ戻りますとおお、何たる摩天楼の様か!一体どんな大都会だ!こんな大都会に我は六十年も住んで居たのか。

 

うはあー、人が多ひなあ、此の名古屋駅の周辺は。

とまるで長野のド田舎から出て来た人のやうに暫しの間止まった電車から名古屋駅のホームを見詰めて居りました。

 

 

其れに三河の山中から名古屋へ帰りますとまずは空気の匂ひが違ふのです。

其れもどうも都会の空気は臭ひ!

 

其の辺の空気は名古屋でも上等の部類のところなのですが兎に角臭ひ。

まあゴミと人間の体臭が混じったやうな實に嫌な匂ひが致します。

 

其のやうに個人的な感度の高さ故の苦しみが實は御座りまして故にわたくしは東京だらうが大阪だらうがまるで體には合はぬことだらう人間なのだ。

つまりは特殊な体質、都会生活への特異体質者です。

 

でも普段はまるで気にならぬ訳です。

空気の良ひ処で一日過ごして帰って来ると其れが初めて實感される訳だ。

 

だが都会人はさうして常に感覚が麻痺して居る可能性が高ひことだらう。

 

 

ですが人間関係をつまりは社会性の部分を且つ現代人としての正当な欲望を追求して行く限り現代人の生きる場は都会でしかあり得ません。

其れを拒否するか捨て去って行く人のみが次第に田舎指向を強めて行くのであり従って其れは表面的に成り立つ問題なのでは無くまさに内面的、観念的に為し遂げられる価値観のあり方の問題なのだ。

 

 

ー言い出すとキリがありませんが、都会と田舎の人とでは他国の外国人くらいの感覚の違いがあると感じました。ビジネスの進め方や時間の感覚も違いすぎて、最初は色々と悩みが多かったです。 ー田舎暮らしが合う人、合わない人の結論より

 

 

近現代と云ふ時代を批判すると云ふことは即都市文明を批判することにも繋がる。

其の都会と田舎の感覚の違ひをどう捉へるかと云ふことですが当然のことながら近現代文明批判とは其れ即ち都会の側を批判して行く訳だ。

 

 

ー言うまでもなく、都会は娯楽で溢れています。特に東京は年中、面白そうなイベントや娯楽施設で溢れかえっており、ノープランで外出しても散発的に開催されているものに顔を出すだけで楽しんでしまえるのです。が、田舎にはそのような娯楽はありませんから、外部の娯楽に頼りたい人には厳しいでしょう。

筆者はビジネスをすることが楽しいと感じる気質で、ビジネスをネットでやっていますので、外部の娯楽の有無はまったく気になりません。

また、固定費を抑えることについていえば、田舎はかなり強いと感じます。これを言うと驚かれるのですが、筆者は家の中で短距離走が出来るくらい大きな敷地(田舎住まいだと敷地の広さなどまったく自慢になりませんが)にいますが、月の生活費はトータルで10万円もかかりません。食費、通信費、光熱費など全部合わせてもです。生活費は非常に安価ですから、その分を旅行や食事の時など変動費に投資をすることで、充実した生活を送れています。

そして最後に求められるのは一人で楽しめる気質です。筆者のように集団行動が苦手で協調性がない人柄だと、なかなか田舎では受け入れられません。実際、ここには友達と呼べる存在は一人もいません。飲み会などは従業員以外とは一度も開催したことがありません。しかし、その分、可処分時間のすべてをビジネスに注ぎ込めますので、一人でいることに充実感を覚えます。

田舎暮らしは合う人と合うない人に、はじめから分かれています。「こっちが優れている」という議論自体に意味がないという話です。ー田舎暮らしが合う人、合わない人の結論より

 

 

其の「娯楽」に魅力を感じるうちは都会に留まって居た方が良ひことでせう。

 

アア、わたくし?

今はまるで魅力を感じて居ません。

 

都会など馬鹿じゃなひかとさう思って居ます。

其の百貨店だのデズニーランドだのレゴランドだの何だのがまさしく虚の集積物にさへ見へる訳だ。

 

田舎での生活費は確かに安価なのでせう。

ちなみに我が家の固定資産税は嫌らしひ程の額が年に四回も来ますよ。

 

其れとスーパーの野菜は美味くはありませんよ、まあ不味ひと言ふ程でも無ひのだが。

第一ネットは田舎でもやれる訳なのですし、読書するなら明らかに山の中の方が良ひ。

 

虫などはどうしますか?

 

あのね、👨の場合虫は👩共程気にならなひものですよ。

わたくしの場合はスズメバチも蝦蟇も🐍もまるで気になりません。

 

むしろ其れ等が出て呉れた方が嬉しひのです。

虫やら変な生き物やらが可愛ひのだとも申せませう。

 

 

ー最後に求められるのは一人で楽しめる気質ー

 

最終的には此のソロでもってイケるかイケナヒか、です。

曰くヒロシです、ソロです。

 

まずはアノヒロシのやうにソロでもってキャンプ出来るかどうか、其れが問題なのです。

 

さうして人に頼る気質の人は田舎ー山ー暮らしには向ひて居なひことだらう。

 

 

手が動かぬ文人もまた田舎ー山ー暮らしには向ひて居なひのでは?

 

いや其の位のことはやれませう。

 

何せわたくしの手は文明の為には寸毫も動かぬのです。

 

また其れが自分の生存の為には動くと云ふことです。

 

 

ー田舎暮らしは合う人と合うない人に、はじめから分かれています。ー

 

人間の根本の性質、また其の性質から組み上げて居る価値観の違ひによりまさにさうして水と油の如くに分かれて居るのです。

 

其れはたとへば性別の差なのでは無く人間の内面のあり方の差なのでせう。

 

また其れは優劣の問題なのでは無く選択の問題なのです。

 

さうして全ては其の価値観の選択の問題に帰する。

 

わたくし達はさうして其の価値観を選ぶことが出来る。

 

なので其れはどちらがより優れて居るかと云ふ問題なのでは無ひ。

 

 

ですがどうも話をこれまでに聞ひて来た限りには田舎の人には田舎が嫌ひな人が多く、逆に都会の人の中には都会がイヤになる人々がまた少なからず居るやうです。

 

またどうも其れはなまじ其れが「分かって居るから」こそイヤなのだと云ふ面が多分にあらうかと思ふ。

 

都会はさうして空気が臭ひのだし騒がしひのだし心が汚れ易ひと云った面をおそらくわたくしは敏感に感じ取って居ることでせう。

 

其処こそが或は神経が過敏なのやもしれませぬが。

芥川 龍之介の『河童』を読むー壱 歌人・俳人としての芥川 龍之介ー

全体主義の克服 (集英社新書) (日本語) 新書 – 2020/8/17

こちらをアマゾンで買ひ今到着を待って居ますが、

人新世の「資本論」 (集英社新書) (日本語) 新書 – 2020/9/17

むしろこちらの方が面白さうでした。

 

が、結局どちらも読んで置きたひ本だ。

 

かうして世に本は腐る程にあり其れも次から次へと出て来る。

 

なのだがどうも今『河童』を読みたひ訳だ。

 

わたくしの場合かうして読みたひ作品なり本なりが其の折々に明確に出て来る。

 

尤も其の読まねばならぬものを放って置き何年も後に其れを読んでみたりもする。

 

読書はさうして知性を磨く糧となるものだ。

 

 

で、『河童 芥川龍之介』を青空文庫にて読んでみました。ー其れも半世紀振りに読んでみたー

 

次回以降の投稿で其の感想をこと細かく述べてみるつもりですが其の前にまずは大雑把な感想を述べます。

 

まず『河童』は鳥獣人物戯画のやうなもので人間の社会を風刺し戯画化して扱ったものであるが必ずしも其れを否定的に扱ったものでは無ひと云ふ点でした。

 

晩年の芥川の場合は個人的な苦悩が多く時代や社会に対する不安よりもより具象的な苦悩に彼が潰されて行ったことと見ても良ひことだらう。

 

芥川は 「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」と言ひ残して睡眠薬を多量に服用し死にました。

 

が、作家や詩人が言ってることはむしろ逆に受け取って置く方が良ひことでせう。

 

言ひたく無ひことをむしろ暈して遠回しに言って居る場合が多ひので其の「ぼんやりした不安」とはむしろ「ハッキリした不安」其のもののことです。

 

つまりは現實として不安だらけでもうダメだ、です。

 

また其れが要するに超秀才のインテリ苦でもまたあるので学校のテストで八拾点以上を常に取れる人で無ひと其処は基本的に理解出来ません。

 

 

芥川 龍之介とはどんな人?

芥川 龍之介の人生が要約された形で述べられて居ますが其処からは晩年に彼が置かれて居た苦悩の状況が良く伝はって来ます。

 

  • 大の風呂嫌いで、めったに風呂に入らなかったという。入ったとしても、手ぬぐいは持っていかなかったという。
  • 大の嫌いだったが、晩年、死の直前になってからは、なぜか犬をまったく怖がらなくなった。犬を主人公とする児童文学『白』を改造社出版の雑誌『女性改造』に寄稿したのもこの時期である。
  • 『文芸家たらんとする諸君に与ふ』という小文において「文芸家たらんとする中学生は、須らく数学を学ぶ事勤勉なるべし。然らずんばその頭脳常に理路を辿る事迂にして、到底一人前の文芸家にならざるものと覚悟せよ。文芸家たらんとする中学生は、須らく体操を学ぶこと勤勉なるべし。然らずんばその体格常に薄弱にして、到底生涯の大業を成就せざるものと覚悟せよ」と述べ、数学や体操を勤勉に学ばなければよい文芸家にはなれないと主張している[22]。ただし、同じ文の中で「こは予自身の経験に基く言にして、予亦然く中学時代を有効に経過せざりしを悲しみつつあるものなり」とも述べていることから、片野善一郎は「中学時代に一生懸命に勉強しなかったことを後悔しているくらいであるから、芥川は数学はあまり得意でなかったのかもしれない」と推察している[22]。ー芥川龍之介 #その他より

 

風呂が嫌ひな作家は意外と多ひやうですがハッキリ申せば変はって居ますね。

第一風呂へ入らぬと汚ひじゃなひですか。

 

此の際申して置きますが五木先生もちゃんと頭は洗って下され。

 

🐶嫌ひなのはわたくしも一緒で兎に角🐕が怖くてなるべく近づきたくは無ひ。

 

また芥川は数学がまるで出来なかった可能性が高ひ。

其処は師匠の漱石とまるで逆のやうだ。-漱石は元々理系の人間-

 

體が細くて弱めの芥川にはおそらく体操に対するコンプレックスがあったやうだ。

きっと屡操行の時間を見学に回って居たのではなかったか。

 

文學者にはまず此の肉体の弱さが必要なのだ。

 

昔の文士はかうしてみんなインテリでもって體が弱く病に罹り早う死ぬるのだ。

 

わたくしは漱石よりも芥川の方が作家としては上だと見て居るのだしNo,1の作家はどうしても太宰では無く芥川だと云ふこととなって仕舞ふ。

 

芥川賞へのあくがれだけは強くあるが小説なんてそんな七面倒臭ひものはまるで書く気にはならぬ。

 

其れにわたくしはあくまで詩人なので言ってることの感度の方でこそ勝負して来て居る。

 

 

さて『河童』は河童の詩人の死を描く物語でもまたあった。

 

さうか河童にもかうして詩人が居たのか!

 

詩人は小説なんぞまるで見詰めてはおらず見詰めて居るものは常に愛と死と云ふ詩のみ。

 

だが芥川は詩的精神を持った小説家でもまたあった。

 

さう彼は歌人であり俳人でもまたあった。

 

 

 

薔薇


すがれたる薔薇さうびをまきておくるこそふさはしからむ恋の逮夜は

香料をふりそゝぎたるふし床より恋の柩にしくものはなし

にほひよき絹の小枕クツサン薔薇色の羽ねぶとんもてきづかれし墓

夜あくれば行路の人となりぬべきわれらぞさはな泣きそ女よ

其夜より娼婦の如くなまめける人となりしをいとふのみかは

わが足にあぶらそゝがむ人もがなそを黒髪にぬぐふ子もがな(寺院にて三首)

ほのぐらきわがたましひの黄昏をかすかにともる黄蝋もあり

うなだれて白夜の市をあゆむ時聖金曜の鐘のなる時

ほのかなる麝香じやかうの風のわれにふく紅燈集の中の国より

かりそめの涙なれどもよりそひて泣けばぞ恋のごとくかなしき

うす黄なる寝台の幕のものうくもゆらげるまゝに秋は来にけむ

薔薇よさはにほひな出でそあかつきの薄らあかりに泣く女あり

 

芥川龍之介歌集 芥川龍之介より

 

 

此の辺りなどは好きである。

 

 

 

蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな

 

青蛙おのれもペンキぬりたてか



水涕や鼻の先だけ暮れ残る  -辞世の句-


 

 芥川龍之介の俳句を語る
      ー「水涕」の句を中心にー 
より

 

 

かうして凄ひ句がある。

 

特に辞世の句は凄ひ。

 

芥川の詩人としての感度の力が此れ等の歌や句に表れて居るやうに思はれてならなひ。

わたくしと云ふ人文の知性が今認識して居ること

 

「役に立つ」が社会をダメに ノーベル賞大隅発言にネット沸く

 

だから其の「役に立つ」社会は社会をダメにする以上に壊して行かう。

だが其れ以前にそも「役に立つ」社会を目指すこと自体が誤りだ。

 

人間にとり役に立つ立つ何か、と云ふことを考へること自体がまるで不遜でもっておこがましひ考へ方だ。

正しくは人間でもってすみません、即ちー生まれてすみませんー-太宰 治-だらう。

 

すみませんが何処ぞに置ひて頂けませんでせうか?

こんな大馬鹿者でも其の倉庫だの納屋だのに置ひては頂けませぬか。

 

 

宜しひ、汝等がひれ伏しさう願ふのであれば是非何とかしてやらう。

そうりゃ、地にバラ撒ひてやったぞ。

 

さうして地に充ちよ、増へよ。

 

人間共がさうして世界にバラ撒かれやがて繁殖し始めた。

 

だが其れが善きことか其れとも悪きことなのかはあくまでキリスト様とお釈迦様にしか判断出来ぬことだ。

 

 

其れも小賢しひ智恵などで其れを判断しやうなどとは不届き千万な輩だ。

 

 

「日本学術会議」の正体とは 「非民主的」「野党のようなもの」大学教授ら語る

 

ほうりゃ、分別智ー相対概念ーなどは其処にてたちまち紛糾し矛盾化しやうぞ。

 

「このことに加え、使用済み核燃料の処理についてなど、日本学術会議は政府の方針と反する声明や提言を出しています。もともと大学コミュニティは思想的に左に傾いている人も多い。左翼的カルト集団ではありませんが、学術会議はほとんど野党のようなもので、だから政府・自民党と対立するのではないでしょうか」「日本学術会議」の正体とは 「非民主的」「野党のようなもの」大学教授ら語るより

 

「大学では文系よりも、学術会議の声明が研究内容に直結する理系の方が影響は深刻だと思います」(同)

 

「特に理系の研究分野では学術会議の推薦がなければ大型プロジェクトは進みません。例えば、岩手県宮城県の山間部に作られる予定だった素粒子の大型実験施設・国際リニアコライダーは、学術会議が最近ネガティブな評価をしたことで政府が及び腰になり、ほとんど計画が頓挫してしまいました」  一度目をつけられれば、研究者も蛇に睨まれた蛙になってしまうというわけだ。実態も「学者の国会」とはかけ離れているそうで、

「新規の会員は選挙ではなく、別の会員に推挙してもらうことで初めて国に任命される。決め方は非民主的です。自然、思想的にも似た人が集まるので、とてもじゃないですが、学者を代表する組織とはいえません」(同)

「日本学術会議」の正体とは 「非民主的」「野党のようなもの」大学教授ら語るより

 

 

左様に須らく概念による意思決定は矛盾化する。

即ち社会的な意思決定こそは矛盾化する。

 

概念とは矛盾であり、其の矛盾を解き解すのが人文の分野による理性の働きだ。

対する理系はより分離して居るー概念的に分離化、客観化されて居るーので矛盾其のものを解き解す為には使へぬのだ。

 

じゃあ人文理性のみが正しひのだと?

だから其れは正しひか正しく無ひかの問題なのでは無く畢竟其処で何を見詰めて居るかの違ひの問題なのだ。

 

言語=概念と云ふ相対分離がまた人文と理系と云ふ二元的分離を為しておるのだ。

だが人文の智恵には主客の対立が少なひ分より概念としての俯瞰的視野が得られ易くもならう。

 

 

話が難しひ。

では話の抽象度のレヴェルを落とさう。

 

では何で大学コミュニティは思想的に左に傾ひて居るのですか?

 

おそらく其れは「理性」があるからなのではなからうか。

 

すると理性的には共産革命が矢張りと云ふべきか理想なのだらうか。

 

おそらくは理想なのだらう。

でも現實的には其れは全体主義化し純粋な共産國家は成立などせぬ。

 

また其れがほぼ概念の自己矛盾と結び付ひてもおる。

概念は理想を求めれば求める程に自己矛盾するとさう云ふことなのではなひかひな。

 

 

じゃ一体どーしたら良ひのでせう?

 

まあ悩んで置け。

トコトン悩み苦しみ概念其れ自体と闘って置け。

 

なる程アナタの思想はまさにそんな「悩み苦しむ」教なのですね。

 

さうじゃ、わたくしの教義こそが其の「悩み苦しむ」教じゃ。

より正確には馬鹿野郎、そんなもんやっとれるか教でありアホンダラ、もっとちゃんとシッカリせーや、此のクソ社会、教である。

 

おおまさに凄ひ教へだな。

 

 

學ぶと云ふことは、其の理性と云ふものは元来自己利益ー現世利益ーに傾ひてはならぬことだ。

どだひかっての文學は決して自己の利益になどは傾ひては居なかった。

 

まさに其れは人間の追求ー社会の追求ーであり自己の探究であった。

だから文學者は皆最終的に此の世と自分の関係を放棄しさへした。

 

 

さうしてアナタは文學者の自決を讃美して居られるのか?

 

いやさうでは無く、其の放棄こそが本来の理性の目的だとさう述べて居るのだ。

理性とは其のやうに現世利益を追ひ求めて行くことでは無く、逆に自己及び其れが属する社会を限りなく冷徹な眼差しでもって見詰めて行くもののことだ。

 

わたくしの基本的な思想的立場は其の理性としての本来の意義が失はれつつあると云ふものだ。

 

其れが治りますかね?

治りゃあせぬ。

 

治りゃあせぬから逆に「今」があるんだよ。

 

「今」と云ふのはさうした相対認識が生み出す倒錯認識なのだ。

故に現在に「目覚める」とは逆に其の虚的に構築されて居る「今」を滅して行くことなのだ。

 

 

また話が哲學的過ぎて難しひ。

 

アレ、御免、御免。

 

どうしてもかうして佛教哲學の方に流れて仕舞ふのですぐに話が難しくなって仕舞ふ。

 

つまりは説法の方に傾き易ひのだな。

 

そもそんな人文科学と佛法とキリストの教へをゴタ混ぜにしみんなを教化しやうとしてもそんなもん元々無理な話なんじゃなひか?

無理かどうかはやってみにゃあ分かりませぬ。

 

 

要するに今回は其の理性に於ける功利主義化ー現世利益化ーと云ふ一種の精神の堕落に就き述べて居る。

また其の論ずるテーマが兎に角難しひ。

 

 

でも姉ちゃんの裸のことなど幾ら考へてみても何ともならなひぜ。

うはー、いやらしひ。

 

此処は一体アカデミズムの殿堂なのか、其れとも場末のストリップ小屋なのか?

 

 

其の理性による概念意思決定は社会化すればする程に自己矛盾の度が酷くなる。

 

人間は個としてまずは矛盾的存在だが、其れが社会化した時点で其の矛盾が言はば二乗化されて行く訳だ。

 

何故人間はさうして自己矛盾する生命なのだらう?

 

対して自然界の生命は自己矛盾するに至らぬのだらうか?

 

 

結論から言へば自然界の生命は決して自己矛盾へ陥らぬ。

 

だが人間の場合は概念化=観念化=言語化=抽象化する癖があるが故に自己矛盾することからは免れ得ぬ。

 

では自然界の生命とは何ですか?

 

あくまで肉体的分離なのだとさう捉へられる。

 

肉体的にはあくまで分離されて居るので其れは感覚を持ち相対世界を認識しては居る。

だが基本的に其処でもって相対認識を為して居るのでは無く其れをタダ「感じて」居るのみだ。

 

つまりは其処でもって主客分離を抽象的に成り立たせるのでは無く其の主客分離を具象的感覚的にのみ成り立たせて居る。

 

対して人間の場合は其の主客分離を抽象化して行ふことが可能だ。

 

但し具象的感覚的に成り立たせて居る主客分離を保存した上で其の上部に抽象的に構築される主客分離をも展開して行く。

 

 

其れは例の大脳新皮質と旧皮質の関係のやうなものなのですか。

まさにさうしたことなのだらう。

 

矛盾の観点で言へば肉体的分離ー肉体的相対認識ーはそも矛盾して居やうが其れは種の劣化ー種の絶滅ーを生むだけのことで自然其れ自体を劣化又は絶滅へと追ひ込む訳には非ず。

即ち矛盾的推進として自然其れ自体は駆動され続け進化または変化は続き其れはたとへ地殻変動や隕石の衝突、気候変動などと云ったどんな天変地異が引き起こされやうが継続されて行くことだらう。-持続可能性がある-

 

ところが逆に人間の場合を考へてみるとすぐに分かることながら、不可逆的な流れとしての進歩の思想はあくまで抽象的に構築される主客分離による人為的なー加工物としてのー価値其のものなのだ。ー持続不可能な価値の追求ー

まさに肉体的相対認識⇔観念的相対認識なのであらうから、其の観念的相対認識の部分こそが常に自然に対しては如何にもアンバランスな加工物とならざるを得ぬことだらう。

 

すると自然の場合は部分的にはまた時代によっては壊れることがあっても自然其れ自体は持続可能となるがまさに其の観念的相対認識の部分でこそ人間は自己矛盾する即ち自分で自分の首を絞めより長く時を経ずして滅び去る他無ひ訳だ。

 

すると人間と云ふ生命こそが化け物であり怪物であり👿なんですね。

 

まさに其の通りで、其の観念性による自己矛盾の分だけより業が深くあり救ひ難ひと云ふことなのだ。

 

 

其の化け物であり怪物であり👿である人間を救ふ其の手段が宗教だが多くの宗教は不純化されて居り其処には人間を救ふに足る力などは無ひとさう見て置くべきだらう。

 

それじゃあ一体どうしますか?

此の侭グズグズとタダ崩れて行くだけなの?

なし崩し的にかうして壊されて行くだけなの?

 

じゃからお釈迦様とキリスト様の原初の教へに立ち戻るべきなのだ。

 

なのだけれども、其れはすでに我我現代人にとりハードルの高過ぎる心理的内容となってる。

第一僧侶や神父の方々のやうな専門家でも其の心的領域を實現することなど可成に難しひ訳だ。

 

なのでまずは其の人間の理性の抽象的な癖に着目する。

 

其の観念的相対認識の度合ひをむしろ減じ謂はば価値構築其れ自体を逆ヒエラルキー化して行く訳だ。

 

 

しっかし矢張り話が難しひ。

東大生や京大生でもまさかこんなことは考へて居なひのではなからうか。

 

いや東大生や京大生ならこんなこと位はすぐに分かる。

其れが分からぬのはズバリおまへの頭が悪ひからだ。

 

早稲田大學の學生なども分かるのでせうか?

無論のこと天下のワセダならば瞬時に分からう。

 

でも馬鹿田大學の學生にはよもや分かるまひが。

 

 

ところで其の理性の癖とは何ぞや?

 

さうさな、まさに其れが人文知と理系知のことだらう。

 

人文知は事の本質を見詰めて行くが理系知は事の本質は問はずに客体の変化のみを追ひ求めて行く。

 

かくして本質は動かぬが非本質の部分は動く。

 

尤も人文知に於ひても其の非本質主義が蔓延り出してすでに久しひ。

 

但し基本的には人文知は功利性ー合理主義ーにより駆動されるものには非ずだ。

 

 

すると學問は常に本質を問ひ続け抽象的な変化=進歩を止めた方が良ひとさう仰るのですか?

 

佛法に於ける哲學的要素と照らし合はせた場合には必然的にさう結論されざるを得ぬと云ふことだ。

 

だがより重要なことは概念ー相対分別による知ーには限界があり人文知とて本質的には矛盾からは逃れられぬと云ふことなのだ。

 

何だ、それじゃあもう考へても仕方が無ひな。

 

それでは早速👩と酒に手を出してみやうか。

 

 

オヒオヒ待て、待て、今暫くの間だけ待たれよ。

まさに其処へ行ってはお仕舞ひよ。

 

それではおまへの理性が腐るぞ。

 

おまへの理性がボロボロとなり馬鹿になっちゃふのだぞよ。

 

だってどんなに考へてもそんなもん何ともならねへことじゃねへか。

 

だから何年か前にさうして東大生が捕まったところじゃなひか。

 

 

ズバリ今の此のイケイケ社会には人文による知性、其れも抑制的な知性、事の道理を深く考へ本質的論議を展開する知性こそが求められて居やう。

 

何故なら現代社会は思考する必要の無い社会をかうして組み上げつつあるからだ。

 

今此の文明世界ではそも思考すること自体が求められては居なひ。

 

ー其の「役に立つ」社会は社会をダメにする以上に壊して行くー

 

ダメにする=おバカ化する

壊す=自己矛盾し自己崩壊する

 

 

つまりは其のおバカ化することにより社会は自己崩壊して行く。

まさに其れがわたくしが予言するところでの今後の文明社会だ。

 

左様におバカ化して居るのにも関わらず自分達はお利口化して居るとさう思ひ込んで御座る。

逆にわたくしの如き本質主義者を世間は嘲笑ふかの如くだ。

 

だがどう笑はれやうがわたくしはもはや構はぬ。

 

此の馬鹿詩人め!

とさう揶揄されやうともまるで構はぬ。

 

いや別に馬鹿大卒だと言はれたことは一度も無く馬鹿と言はれたことなども一度も無ひ。

 

だが何やら感じの悪ひ対応を受けることはわたくしの場合實は多ひ。

 

おそらく其れはわたくしが本質的に社会の批判者であるからなのだらう。

 

つまりは何かと注文だの文句が多ひ訳だ。

社会の批判者はかうして世間からつまはじきにされ易ひことだらう。

 

 

「役に立つ」社会はまた「役に立つ」宗教は人間をダメにし最終的には社会其れ自体を壊して行く。

 

かうして現世利益を追ひ求めるあらゆる営為は自己矛盾化して行かう。

 

此の世での物事はほとんどが裏腹での事情がある。

 

残念ながら其の二面があり裏側にこそ其のものの本性が隠されて居る。

 

 

其の本性を暴く作業こそを理性の働きと云ふ。

 

これまでに藝術が哲學が文學がさうして宗教が成し遂げて来たことが其の理性の働きだった。

 

 

さう述べると「ヘエッ?」と思ふ人々がまた居ることかと思ふ。

 

そんなもんは逆に理性が無ひものかと思って居ました。

 

理性とは東大や京大へ行くことであり、また一流の科学者としてノーベル賞を貰ふことです。

 

だが誰もが思って居る其の価値観にこそ現世利益による洗脳が行はれて居ることだらう可能性が高く存する。

 

 

其処では価値観が狭窄化し且つ正の価値ヒエラルキーに洗脳されもはや正常な判断を失って居る可能性がまた高くあらう。

 

アナタ方の持ってる価値は根本から間違って居る。

 

とわたくしがさう言おふものならすぐにみんなは逆上することだらう。

 

アノ尾張の頭のオカシヒ自称の詩人が今日もまたみんなの大事な価値観を踏みにじって行ったぞ。

 

 

コヒツを早う捕まへ肥溜めにでも落とさぬともうみんなが辛くて苦しくてタマラナヒ。

でもわあっはっはっはっのはー、頭がおかしひのは君等の方だよ。

 

「ヘエッ?」

 

一体何処がオカシヒので?

 

かうしてちゃんと毎日八時間労働しても参りました。

 

宗教の活動なども眞面目にやって来たのであります。

 

 

まあ宗教はまた阿片、即ち麻薬のやうなものでもあるのだよ。-カール・マルクス

 

 

ー一部のマルクス主義者は宗教に対して否定的な立場をとることがある。実際、ロシア革命以降、ソ連アルバニア中華人民共和国などの共産主義国家において、政策として宗教が弾圧され、聖職者が殺害されたり教会が破壊された。

その根拠としては、カール・マルクスが、宗教を阿片になぞらえたことが挙げられることがある。マルクスの『ヘーゲル法哲学批判序論』に「宗教は、逆境に悩める者のため息であり(中略)、それは民衆の阿片である」とあるが、この文章に先立ち、ドイツの詩人でマルクスの親友でもあるハインリヒ・ハイネ1840年の著作『Ludwig Borne iv(ルートヴィヒ・ベルネ)』中の「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的な阿片である」という文章があるとの指摘がある[1]。またそのハイネに先立ちノヴァーリスの断章集『花粉』 (Blüthenstaub)(1798)に同様の文章がある[2]

この阿片については『ヘーゲル法哲学批判序論』に痛み止めである旨の記述もあり、当時の緩和医療での疼痛などの痛み止めとして使用される医薬品の意であり、「麻薬」を強調したものではなかった。

 

宗教的世界観は科学的事実としばしば衝突してきた。近現代においても、宗教的世界観に基づく創造論インテリジェント・デザイン論が公教育の場で教えられるべきであるという主張がアメリカ合衆国でなされ、それに反対する人々と論争になっている。動物行動学者のリチャード・ドーキンスは、そのような主張に真向から反対し、宗教そのものに対しても有害でしかないとする立場をとっている。 ただし、すべての科学者が反宗教的であるというわけではなく、スティーヴン・ジェイ・グールドを始めとする科学者たちは、科学の領域を宗教が犯さない限りは問題としない立場(NOMA, Non-Overlapping Magisteria, 非重複教導権の原理)をとっている。ー反宗教主義より

 

 

其の理性的分離は近代以降加速して行はれて来た。

まさに其れが近代人としての相対分別ー抽象的思考作用ーを推し進めて来たのだった。

 

では何故宗教はかうして軽んぜられるか又弱められて来たのだったか?

 

まさに其れが其の「役に立つか」「役に立たぬか」の認識上の転換点を指し示して居やう。

 

即ち人間の認識の功利化=現世利益化=利己主義化へのコぺルニクス的な転回をこそ其れがまさに指し示して居ることだらう。

 

其の利己主義こそはさうして唯物的な思考、また科学的な思考が生み出して来ただらうことはまず間違ひ無ひことだらう。

 

其の利己主義化することにより人間の精神は逆に貧しくなる。

 

今やどんな社会的な活動、即ち抽象的な活動もまさに其の利己主義化して居ることだらう。

 

利己主義にはまず他への思ひやりと云ふものが無ひ。

 

次に自分が利口だと常にさう思って居やう。

 

 

何だかおまへの頭の中にも一見似て居るやうだが…。

 

アホたれ、かうして我は思想的に人類を導ひて居るではあーりませんか。

まさに思想的にみんなのこと、社会の不始末のことをかうして案じてばかりおる。

我がほんたうに利己主義だとすればもうとっくの昔に山の洞穴にでも逃げ込みもうこんなトコへは出て来ませんよ。

 

アア、ありがたや、ありがたや、コレゾまさに洞窟詩人様の御言葉だぞー。

 

 

故に其の抽象的思考作用に於ひては特に警戒感を持って置かねばなるまひ。

其の事件をやりかって捕まった東大生の利己主義化や科学技術の暴走の部分も皆此の功利化=現世利益化=利己主義化へのコぺルニクス的な転回、即ち「精神」の貧しさによる功利化=現世利益化=利己主義化=幼稚化?から引き起こされて居ることだ。

 

尚、學者ドーキンスは結局話にもならぬ馬鹿である。

 

対してグールドはわたくしが心より尊敬する数少なひ科学者の一人だ。スティーヴン・ジェイ・グールド

廿年近く前にグールドのワンダフルライフ (書籍)を読んだのだったが興味深く示唆に富む内容で此れを繰り返し読んだ記憶がある。ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語 (ハヤカワ文庫NF) (日本語) 文庫 – 2000/3/1

 

ーもう一つは生物進化の歴史に対する新しい見方の提唱であり、グールド自身の主張の部分と言える。彼によれば、一般に地質年代を遡るほどに動物は原始的で単純なものばかりになり、その多様性は低くなると考えられているが、それは誤りであり、いつの時代も動物は様々に適応して暮らしていたこと、そして、絶滅して子孫を残さなかったものがたくさんおり、それはすなわち、過去の方が多様性が高かったことを意味するものだという。この化石群からわかるのは、カンブリア紀には現生の動物門のすべてが出現していた可能性があること、そしてそれに含まれないものも多数あったこと、したがって、動物の体制の多様性はカンブリア紀が一番高かったのだ、と述べている。もう一つ、子孫を残さなかったものが、環境に適応していなかった劣った系統とは考えられず、それはおそらく単なる偶然の産物だという。たとえばもう一度地球の歴史の巻き戻しが行われたら、我々は生まれなかったかも知れない、とも言っている。ーワンダフルライフ (書籍)より

 

 

さても動物は過去のものは下等で現在のものの方がより高等なのか?

 

否である。

 

絶滅は下等ー能力が無ひーであることが故に引き起こされて居るのか?

或は進化する生命はより高等ー能力を持ってるーなのか?

 

否である。

 

ー単なる偶然の産物ー

 

さうおそらくは進化も進歩も単なる偶然の産物なのだらう。

 

では人間は萬物の霊長であり一番偉ひのか?

 

否である。

 

 

此の人文理性の権化としてのわたくしが捉へる限りに於ひてはむしろ人間が最も性悪でもって救はれぬ生命其のものなのだ。ーまさに罪深き存在ー

であるからこそもっともっと謙虚に生きねばならぬのに此の馬鹿共がイケイケ社会をやったが故に結局全部がブチ壊れ人類に残された時間はあと五十年程ともなっちゃった。

 

まったくイケナヒ奴等よのう、此の人間共は。

 

だが最初から此の調子で述べると此の野郎、まさにトランプみたひな非理性的な奴だなと読者の方々よりお叱りを受けるが故に上でもって理論的にも説明して置ひた積もりだ。

 

其のやうにものの考へ方には大きく幅があり右左、上下、と如何様にも変化させられるものなので其のやうな幅の何処かで文明の認識が今選択されて居るのだとさう見て置くべきことなのだ。

 

さう學問の世界の意見もまたさうした相対認識ー抽象的構築主義ーから免れ得るものでは無ひ。

 

謂はば其れは正しひか、其れとも正しくは無ひかの選択では無く其の時々に見合った選択=認識を其処に選び取って居るだけのことなのだ。

 

 

さてキリスト教では進化論は否定されるのですか?

 

其処はまあ以前から調べてみたひ大きなテーマなのではあるが時間が無く詳しくは分からなひ。

 

但しキリスト教の人間中心主義に就ひては最近擁護論を組み立ててみたりもまたして居る。

ーわたくしは合理主義の否定者なのでありあくまで宗教の擁護者なのだからしてー

 

まずキリスト教は「罪」の宗教であり、其の人間の罪深さに就ひてはまさに良く分って居る宗教なのだらうと思ふ。

 

キリスト教はあくまで其の人類の原罪の部分に大きく焦点を当て人間のみを救おうとして居る。

其の人間の救済の部分とは實は利己主義には非ず。

 

何故なら人間を救済せねば地球が壊れちゃう=終末観へとなだれ込んで行く他は無ひからなのだ。

 

まあ大体其のやうな考へ方です。

 

 

では佛教では進化論は否定されるのですか?其れとも肯定されるのですか?

 

本来の佛教では外側ー客体世界ーのことよりも内側ー主観を含む内面世界ーのことこそが大事だ。

 

故に本質的には外側ー客体世界ーがどう変はらうが問題となるのは常に其の人間の内面のことだらう。

 

尤も利己主義化した現代社会の精神のあり方は其の人間の内面のあり方として望ましひものであるとは言ひ難ひものだらう。

 

 

佛法の根本には人間に対する根本の部分での認識への批判がある。

 

其の認識への批判の部分こそがキリスト教ではまさに人間の原罪として逆に認識されて居る訳だ。

 

かくしてキリスト教と佛教のあり方は対立的でもあるが同時に似通った部分もまたあることだらう。

 

まさに其れこそが現世利益の否定であり功利性に基づく利己主義化への警戒であり否定なのだらう。

 

 

佛教での幸福のあり方の根本的概念

 

人間の幸福➡ただみんなが豊かになり楽しく末永く暮らして行くこと=✖

 

人間の幸福➡みんなが豊かさへの妄執を去りあらゆる拘りを捨て其処でもって正しひ認識に目覚め涅槃ー精神的に死ぬことーへと至ること=〇

 

キリスト教での幸福のあり方の根本的概念

 

人間の幸福➡ただみんなが豊かになり楽しく末永く暮らして行くこと=✖

 

人間の幸福➡みんなが神を信ずることで神からの愛に目覚め其処でもって正しひ認識に導かれ👿の価値観を離れ神の國へと生き直すこと=〇

 

 

誤った宗教的な価値観の例

 

壱ー自分が属する宗派だけが宇宙でもって一番だ=利己主義

 

弐ー自分は佛教徒だからキリスト教なんて邪教だ=利己主義ー自分はキリスト教徒だから佛教なんて邪教だ=利己主義

 

参ー自分の寺と👪また檀家だけが大事だ=利己主義ー自分の教会と👪また信者だけが大事だ=利己主義

 

四ー佛教とキリスト教以外は宗教では無ひ=利己主義

 

五ー特にイスラム教は頭が悪ひ=利己主義

 

六ー科学などは要らぬが宗教だけは永遠だ=観念的利己主義

 

七ー佛教徒は神社や教会へ行ってはならなひ=利己主義ーキリスト教徒は寺や神社へ行ってはならなひ=利己主義

 

八ー現世利益信奉者は皆地獄へと堕ちよ=観念的利己主義

 

九ー無神論者は地獄へと堕ちよ=観念的利己主義

 

拾ー社会が悪ひので社会其のものが地獄へと堕ちよ=観念的利己主義

 

と云ふことにならうかと思ふ。

より合理的に社会生活ー会社生活ーから引退しやう

労働自体が嫌い。当然過ぎるんですよね

 さても其のセミリタイアですが、かうして自分でもってして良く考へた上でちゃんと計算して節約しさうするのなら良ひのかもしれません。

但しわたくしの意見は意外に聞こえるかもしれぬのだが最低五十歳位までは働き是非其の嫌な社畜になって下さひと云ふものです。

 

何故なら現代社会のあり方が其の若者の労働により支へられて居るからです。

だから其処が崩れると社会其れ自体が立ち行かなくもなる。

 

其の一方でコロナ禍はまさに具象的に社会のあり方への圧迫を強めて来て居ます。

まあ変な言ひ方なのでせうが社会が半壊でもするやうであれば三十代、四十代でのセミリタイアも今後はあり得るのやもしれません。

 

 

其のリタイアは悪ひことだとするやうな価値観にはもはや縛られぬ方が良ひ。

人間はまさに人其々ですので生活が回って行くのであれば社会的評価に煩わされる必要など無ひのだと思ふ。

 

但し金、此の金こそがなかなか稼げぬものです。

まさにさう云ふ社会になってますからクソ労働にでも勤しまねば普通は金など稼げぬ訳だ。

 

勿論日々傘を張ったりお内儀が裁縫でもって内職をしたりとそんな素浪人生活も無ひでは無くよって必ず仕官せねばならぬと云ふものでも御座りますまひ。

 

わたくしがむしろ今問題視して居るのは、其の若者のリタイアに就ひてでは無く何故か還暦でもまるで引退出来ぬ其の社会のあり方にこそある。

そんなもの定年後は普通は社会から速やかに引退でせう。

 

其れがもう七十代なんてまだまだバリバリですぜ。

オカシヒですよ、まずは何よりも其れが。

 

第一八十歳でも働ひて居るのですよ。

オカシヒですよ、まずは何よりも其れが。

 

 

30代おっさん。アーリーリタイアへの挑戦

労働が嫌いになった理由

 其の三十代はまだ何も分からぬ若者でせう?

少なくともわたくしはさうでしたね。

 

リタイアと云ふのは、肉体的に衰へが来るとほんたうに實感されて来るものです。

五十歳位だとまださうでも無ひのですが、還暦ともなるとまさに色々と出て来るやうです。

 

出て来るやうですなどと傍観者みたひなことを述べて居ますが具体的に述べますと目が悪くなり視野が狭くなったり睡眠が浅くなったり屡足がつったりと若ひ頃にはあり得なかった現象がまた出て来るものです。

 

 

ですが、観念の方はむしろ年を取りません。

観念の方は若ひ頃よりもむしろ思考の幅が出て来しかもより深く思考出来るやうになります。

但し勉強を続けて来た人に限りさうなることでせう。

 

要するに観念の方はむしろ年を取らねば完成の域には達しません。

なので観念の方は社畜だらうがリタイア組だらうが何だらうが兎に角磨き上げて行く必要が其処に御座ります。

 

ところで配達などの純肉体労働以外での労働は精神的な面で常に過酷です。

畢竟其れは社会又は人間其のものが悪ひことによる過酷さなのでせう。

 

ところが今はまさにそんなことを言って居られぬ状況にこそあります。

 

コロナ禍にて社会が半分壊れかかって居るのでより過酷な状況が我我個を巻き込んで行くことだらう。

まさに其れは生存権をも危うくするやうな現状なのだとも申せませう。

 

まあ色々と手はありませうが兎に角金を持ってれば何とかなる話ではありませう。

むしろ一番やり易ひのが不細工な妻を持ち共働きにてやって行くことです。

 

ですが子をなしたりしてはイケません。

何故ならわたくしの周りの人々で今一番幸せなのが其の子の無ひ共働きの人々なのですから。

 

 

なぜ我々は労働が嫌いなのか(現代編)

 此処は非常に良く考へて居られのだとさう思ふ。

其処ではまさに労働の意味其れ自体を問うて居るやうです。

 

わたくしが最近酷く労働嫌ひになったのもまさに其の労働其れ自体への疑問からなのです。

 

其の本質にはどうも國家と個の関係が横たはって居るやうだ。

國や企業等の組織に奉仕することが果たして壱労働者の義務として今成立することなのか?

 

 

ーもはや我々は信仰のために働くこともできないし、国のために働くこともできません。経済成長は終わり、労働は富を獲得する手段として割に合わないものになってきています。(「21世紀の資本」という本はいかに現在の労働が割に合わないかを詳述しており非常におすすめです。めちゃくちゃ労働意欲が減退します。)
両親は我々世代より裕福な傾向にあり、男女同権社会では嫁さんを養う必要もありません。最後の砦は子供ですが出生率は絶賛低下中です。

現代社会は労働からあらゆる意味性を奪い去りました。
教育機関で布教される「努力教」。消費を煽りまくるコマーシャリズム、このあたりが最後の砦ですが、どちらも哲学としての完成度が低く、プロテスタンティズムや家庭への責任感といった従来の要素を代替できるほどの強度はないでしょう。ー

なぜ我々は労働が嫌いなのか(現代編)より

 

其の労働其れ自体が或は壊れかかって来て居る可能性があることを先日わたくしも述べて来て居ります。

此の方の意見はまさに炯眼でもって其の労働の破壊の本質の部分を突ひて居るかのやうだ。

 

要するに社会的に労働の意味其れ自体が抹殺されつつあるのだと云ふこと。

其処に意味が見出せぬのであれば其れ自体が無意味化することは其れは当たり前のことだ。

 

また確かに教育や消費社会其れ自体には哲學的な要素が少なひ。

此の部分もまさに仰る通りなのだらう。

 

さうした抽象的に規定される価値の為に働き続ける意欲が次第に減じて来ざるを得ぬのだらうか。

まさに「21世紀の資本」ではなひですが、かうして自己矛盾化した資本主義体制がむしろ労働其れ自体を即ち資本家と労働者と云ふ搾取構造其れ自体さへをも崩壊させて行くのやもしれぬ。

 

 

 

ちゃんと八時間働けば普通に暮らせる社会を目指さう。「8時間働けばふつうに暮らせる社会」に-赤旗より-

 

 

だって其れ当たり前のことでせう。

一体何処で誰が酷ひ搾取をやり続けて居るのでせうか。

 

其れはまさに社会の上層部がさうして居ることでせう。

 

で、教育が幾ら努力しませう、頑張りませうと言ってもコロナでもって全然勉強の方が進んでません。

 

勉強せずに社会へ出てまた酷ひ搾取ではドレイの立場を突き抜けてもはや食料ですよ、食料。

其れもどーぶつ達の食料として檻の中に撒かれるだけのことだ。

 

いや、さうでは無く資本家が肥へ太る為の食料でしか無ひ訳だな。

だからわたくしは食っても大層不味ひと何度も何度も繰り返しさう言って来たではなひか。

 

 

其れとどうも最近気になって居るのですが、最近教師の質がまさにボロボロで最低となって居りませんですか?

然し此れでは如何にもマズひことでせう。【独自】教え子に「わいせつ」半数…公立小中高の懲戒教員1030人、口止めの例も

 

其れもかうして下の事件でもって捕まる教師が兎に角多ひ。

其れも此れも何やら教育の意味其れ自体に翳りのやうなものがさし始めたのやもしれません。

 

以前わたくしは21世紀の社会とは当たり前にある価値其のものの破壊、崩壊を引き起こす時代だと云ふやうなことを述べても居りましたがイザかうして事實として社会が壊れ始めると矢張りと云ふべきかゾッとさせられるものです。

 

 

【#許すなわいせつ教員】懲戒処分受けた教員の半数、SNSで被害生徒と私的なやりとり

其のSNSって一体何?

 

教師達よ止めとけ、そんなもん。

やめれ、やめれ。もう、やめれ、だ。

 

 

ー「労働」というのは本質的に奉仕の対象を求める行動なのかもしれません。

戦後資本主義社会は都市化やグローバル化をもって労働者を細分化し、個人主義、自立主義を推し進めていきました。一時的な経済成長をもたらしたこれらの制度は、長期的には人々の労働意欲に壊滅的な影響を与えるでしょう。時代が進むにつれますます労働嫌いの風潮は加速してくものと確信しています。ーなぜ我々は労働が嫌いなのか(現代編)より

 

いやー、まことに鋭ひですね、まさに其の通りでのことなのでせう。

短期的な利益と長期的な利益の観点に立てば明らかに資本主義のグローバル化=現世利益主義化=高度な合理化はまさに刹那での利益の最大化を推し進めるものだ。

 

まさに其れはバランスを欠く儲け主義のことなので何処かにしは寄せが来ませうが其れが労働者と資本家の関係其のものを壊し資本主義其れ自体を破壊するやうではまさに本末転倒なのだ。

また仰るやうに労働意欲其れ自体を減退させるに至る儲け主義では全くのところ労働其れ自体の意味が追ひ詰められても行かう。

 

すると労働其れ自体が働くことへのやる気=社会の奴隷になりたひと云ふMの人の為の労働と化しさうした人に限りたとへ八十歳でも嬉嬉として働くこととなる。

 

そんな中でみんなはまんだやる気が起きませうや?

まあ然し労働の形にも様々があるのでわたくし程労働其れ自体をイヤがらぬやうに是非して欲しひものだが。

 

 

ーいつの時代も奴隷の胸を焦がすのは自由でした。労働に意味がないならば、労働からの脱出に意味を見出せばいいのです。

あなたも私も現代における奴隷です。あなたには自覚はないかもしれませんが、非自発的に無意味な労働に従事する者、これは奴隷以外の何物でもありません。
で、あれば奴隷の先輩方に倣って奴隷的モチベーションを持って働くのがよいのではないか、というのが現時点での私の結論です。少なくとも刹那的な商業主義にごまかされてラットレースを続けるよりは誇り高い生き方ではないかと私は思います。まぁしょせんどんぐりならぬ奴隷の背比べにすぎないのですが。

幸い日本人というのは比較的に恵まれた奴隷です。10年も奴隷生活と倹約に励めば、自由へのとっかかりくらいはつかめるでしょう。放り込まれたこの場所がアウシュビッツでなかったことに感謝して、明日からも元気に奴隷をやっていきましょう。ー

なぜ我々は労働が嫌いなのか(現代編)より

 

 

まさに其の奴隷がイヤなのですね。

 

ですがリタイアせぬ限りは其の奴隷とならざるを得ぬ。

其れもまさに其の通りだ。

 

ー明日からも元気に奴隷をやっていきましょうー

まあ何て情けなひ、さうして救ひの無ひ現實なんでせう。

 

しかもコロナ禍にて余計に仕事が選べなくなって来ても居ることでせう。

 

だからもう何でもやらねばなりません。

 

其れも便所掃除だのゴミの回収だの不倫調査の探偵だの馬糞の始末だのと云った嫌な仕事も喜んでやるぞ。

 

ひょっとすればアウシュビッツの方がより楽に早く死ねた可能性もありますね。

こんなこと言ふと共産党の人がもう赤旗を持って来て呉れなくもならうが。

 

其の「自由」と言ったって自由ほど得難ひものは無ひのやもしれず逆に不自由化してるのに自由そうな人などが結構居るものですがさうした人の頭の中こそがわたくしには羨ましひ限り。

 

 

 

ー最初の表は、「たとえ余暇が減っても、常に仕事を第一に考えるべきだ」という意見に「強く賛成」とこたえたひとの割合だ。いわば、「世界仕事人間ランキング」である。

一目瞭然のように、日本人は堂々の第一位だ。しかも、下から。

日本人は、「余暇が減るんなら仕事なんかしたくない」と考えているひとの割合がきわめて高い。すなわち、「世界でいちばん仕事が嫌いな国民」なのだ。ー日本人は世界でいちばん仕事が嫌いより

 

でもってまたかうして統計的に出て来る事實もまたある訳だ。

 

ーしかしそのなかでも、日本人の仕事嫌いは突出して高い。ー日本人は世界でいちばん仕事が嫌いより

 

まさかと誰もがさう思ふ筈なのにまさにコレが實態なのでせう。

 

ーこの結果に納得できないひとも多いと思うが、「日本人はじつは会社が大嫌い」というのは、以前紹介したデータとも整合的だ。ー日本人は世界でいちばん仕事が嫌いより

 

日本人は然し世間体を大事にする人=周りと比べて自らの幸福への達成度を決めるやうな価値観が多分にあることと思はれる。

で、会社へ行って居なひと或は金を稼ひで居なひと其の人の価値をまるで人間扱ひせぬ訳だ。

 

だから会社が嫌ひだらうが何だらうが矢張り其処に大きな価値を置ひて居ることには変はりは無ひ訳だ。

 

おそらく日本人はみんながやって居ることをやって居なひとむしろ人よりも劣って居るとさう感じ取り易ひ民族なのだらう。

其の世間体を必要以上に気にする國民性こそが自我としての意思決定を為し意見を表明することへの大きな壁として存在して居ることだらう。

 

 

で、コロナ苦でもって日本のみんなが苦しんで居る時にはむしろ其の価値観が災ひして余計に苦しむことにもなりかねぬ訳だ。

が、社会が悪ひのでコロナ苦が必然的に齎されたとさう思って居るわたくしはたとへコロナ死したにせよ余計に苦しむことなどまるで無ひ。

 

まさに其れは戦時中のことと同じなのだ。

当時もしもわたくしが生まれて居たならおそらくは軍國主義に反対し獄中死して居たことだらう。

だが其の死にはまさに寸毫も社会的な苦など生じて居らぬ筈。

 

わたくしは自己の意志として真っ向から社会に反対して死んだのだから其れはむしろ真っ直ぐな自己としての貫徹の死なのだ。

 

 

ー日本人はカネのために嫌々働いているのに、ネオリベの国の労働者は、お金には換えられないやりがいを仕事に見出しているのだ。ー日本人は世界でいちばん仕事が嫌いより

 

おそらく日本人は金の為にだけでは無く其の世間体の為にこそ働き続けて居ることだらう。

此の民族は内面に軸足を置ひては居らず社会からの自己の見へ方ばかりをむしろ気にしつつ生きて御座る。

 

だがわたくしはさうした社会の奴隷になどなりたくは無ひ。

だからこそ幼稚園児の頃に御遊戯をボヒコットして倉庫の体操のマットの上で独り寝て居たのであった。

 

 

ーこの価値観調査の結果を素直に解釈すれば、ネオリベはひとびとを幸福にし、日本的雇用は労働者を不幸にする。

連合がほんとうに労働者の幸福を考えているのなら、成果主義の導入と解雇規制緩和(あとは定年制の廃止と同一労働同一賃金)こそが目指す道になるだろう。ー日本人は世界でいちばん仕事が嫌いより

 

個人的には日本的雇用はまさに日本社会には合って居たのだと思ふ。

 

謂はば其の合理化されぬ労働のあり方こそが日本社会の安定を築き上げて居た事實こそは否めぬことであらう。

 

成果主義の導入と解雇規制緩和ーを推し進めて行けば逆に日本の社会は崩壊の危機に向き合わざるを得なくならう。

 

何度も申したやうに日本と云ふ國の近代化其れ自体が矛盾的推進なので其れ自体が非合理性を内包する特殊性を帯びたー前近代的ー社会なのだと申す他は無ひ。

 

其処へ無理に欧米型の合理的労働原理を持ち込む必要など元々無かったのだ。

 

 

故に定年制の廃止は笑止千万なのだし同一労働同一賃金もまたやり過ぎるとロクなことにはならぬ。

 

重要なのは労働者の置かれた家庭環境を鑑み金があり過ぎの世帯からは税を搾り取り逆に金が無ひ世帯の税を軽減すると云った方向性其のものでまさに其れが社会的に富の還元を目指す方向性のことだらう。

 

だからまずは税制がオカシク其れは賃金云々の話の前に何とかせねばならぬことだ。

 

 

たとへ日本人が本質的には会社や組織が嫌ひなのだとしても結果的に其れには全的に従ふ民族なのだ。

 

なので結果的に日本人は労働したり組織に従属することでしか自己の価値を確認出来ぬ民族なのでもまたある。

 

其の点でも欧米型の所謂合理的な労働観は日本の労働者をむしろ不安定化させて行くのだと言へる。

 

 

自民党による其の米國新自由主義追随の価値観により日本社会が本質的に変はったことがありまさに其れが日本社会の不安定化なのだと考へられやう。

 

其の不安定化こそが實は日本社会にとり最大の敵だったのではなかったか。

 

其の不安定化こそが教師や警察官、自衛官の不祥事を頻発させまた日本の大企業の零落を招き日本と云ふ國の精神を堕落へと導ひて居るのではなからうか。

 

まさに其処へ持って来て今回のコロナ禍である。

 

コロナ禍でむしろ一番困るのは矢張りと云ふべきかまさに其処で仕事が無くなる労働者なのだらう。

 

 

そんな労働者がGOTO何とかなど使へる筈が無ひ。

 

GOTOでもって馬鹿野郎、其の十万の旅館の宿泊費が五万になってもそりゃ金持ちがウハウハ喜ぶだけのことだぞよ。

 

全く馬鹿じゃねへのか、コノ🐵の政府は。

 

 

つひでに言っとくが五万の宿泊費が二万五千円になってもそんなもん貧乏労働者なんぞは誰も行かねへぞ。

 

一万円の宿泊費が五千円にでもなればもしや行くのかも。

 

或はそれももうやってるのか?

 

 

 

兎に角金持ちからは税を絞り取れ。

 

其れが出来ん政府であるなら此の際是非共産党と相談した上で大政府批判を今後展開して行っても良ひのだ。

 

 

労働の問題は抽象的に進むグローバル経済の流れでの不均衡とまた同じ程度に矛盾し且つバランスが悪ひ。

 

また其の根本の部分には一党支配を続ける自民党と云ふ政党の金に対する感度の鈍さが存して居る。

 

第一🐊爺、アンタは一日三食千円の食費でやってる庶民の苦しさがまるで分かって居なひ。

 

此の際アンタもまた断頭台へと大人しく登りなされ。

 

 

尚四十代までの若ひ女性でもって仕事が嫌ひな性格の方などもまた居られることかと思ふ。

 

さうした場合にはズバリ結婚をば是非御勧めしたひ。

 

結婚によりたとへ配偶者の稼ぎが悪くともとりあへずは所帯を持つと云ふ安定感がまた得られやう。

 

但し子供を得てはならぬ。

 

此の悪ひ社会に子を産み落とすのは地獄に我が子を突き落とすことと同じことぞ。

 

 

仕事が嫌ひな性格の場合はしかしながら逆に家事を愛さねばならぬ。

 

家事は大変か?

 

實は大変では無ひ。

特に子が居なければフリーの時間が結構持てる。

 

だから其処で堂々と趣味が出来る。

其れは御喋りだらうが電話魔だらうが何らかのマニア女だらうが一向に構はぬ訳だ。

 

次に稼ぎの少なひまさに情けなひ旦那様は然し優しひ良ひ人である可能性が高ひ。

逆にチャラチャラした👨、👩が好きな👨、仕事が出来る👨などは是非避けるべきだ。

 

さうした👨は会社をやり何度も其れを潰し借金まみれで、其れにいつも👩まみれにもなって居たりでもうロクなことは無ひ。

くれぐれも仕事の出来ぬ風采の上がらぬ🚹を、其のクソ眞面目でもって誠實な男性こそが貴女様にとっての王子様なのだ。

 

但し余りにマニアックな👨は金が無ひと同時に何ぞ事件を引き起こす可能性もまたあるので其れもまた慎重に避けて置かう。

 

 

 

次に若き男性への助言に移りたひ。

 

若ひ男性の場合は特に👩の外観に騙されぬやうに。

 

外観が良ひ👩の場合は過去にすでに手が付けられて居る可能性が高ひ。

 

さうでは無く潔癖な娘をこそ君は欲して行くべきだ。

 

即ち貞淑でもって且つ頭も良ひ良妻賢母たり得る👩をこそ口説ひて行かねばならぬ。

 

コレゾと云ふ👩をもし見つけたならばもう死んでも離すな。

 

 

ストーカーをやり蹴とばされたら此のご時世故に諦めなければならぬ場合もまた御座ろうが、さうでは無ひ限り兎に角電話をかけまくり常に其の君の声を聴かせて置け。

 

すると👩は動物なので次第次第に距離が近くなって来やう。

 

其の動物としての警戒心を解くことこそが君の動物としての仕事だ。

 

 

次に何故君がさうして👩を口説き所帯を持たねばならぬのかと云ふ部分につき合理的に説明して置かう。

 

其れはズバリ👩が労働力として極めて優秀であり其れは家事であらうがパートの仕事であらうが女の選択さへ間違はねば大ひに男性にとっての役に立つからなのだ。

 

いや其れは奴隷と云ふことでは無くパートナーとして有能なのである。

 

つまりは女性には男性には無ひ現實的な馬力が實はある。

 

此れは本質的に持って居るもので畢竟🚹には持ち得ぬものなのだ。

 

 

一方男性は本質的には弱くだからこそ観念で武装せねば生きては行けぬ馬鹿なのだ。

 

但し馬鹿だけど結局は利口なのでもまたある。

 

生存に関して本質的に問ふことが出来ると云ふ意味ではあくまで利口なのだ。

 

 

其のやうに男性の観念は成長することが可能でまた其れが暴走して観念死することさへもがまた可能なのだ。

 

なので凄く頭の良ひ人にもまたなれる代はりに一歩間違ふと社会的な事件なども引き起こして仕舞ひがちだ。

 

其れは🚹が本質として観念的な生命であることを指し示して居る。

 

 

だが男性は観念に生きる分現實的な家事や育児などが普通は苦手だ。

 

尤も家事が苦にならぬ男性もまた居るのだしまた常に手が良く動ひて何でも作ったりして仕舞ふ男性などがまた居ることかと思ふ。

 

 

だけれども普通は家事は嫌ひなことが多ひ筈だ。

 

まさに其処を其の部分こそをパートナーに分担してやって頂き君は稼ひで来れば宜しひ。

 

ネット上で稼げるものならさうでもまた良ひのであるし無論のこと逆に君が主婦をやりパートナーに稼ぎに出て貰ふ手などもまたあらう。

 

要するにわたくしはさうしたパートナーをむしろ求めて来たのだったが結局は其れがならなかった故にむしろ其の方が合理的な選択だとさう述べて居るのだ。

 

 

つまりは社会生活としての合理化、のことだ。

 

だが其の社会生活其のものが嫌であるなら社会を捨てつつずっと独りでもって生きる手などもまたあらう。

 

社会生活と云ふものは左様に至極面倒なもので其の面倒さからなるべく早く逃げたひ訳だが人間が社会的な動物である以上其処からは逃げ切れぬと云ふのが正直なところなのだ。

 

だからこそこんな詩人でもって才能豊かな我でさへずっと社会へ出て働ひて来ざるを得なかった。

 

 

でも還暦以降でも引退出来ぬと云ふ問題はまさに其の労働の義務性とは別の大問題なのだらう。

 

但し根っこのところでは其の問題の質は繋がって居るのだと思はれる。

 

即ち「八時間働ひて定年を迎へても悠々自適には暮らせぬ」社会に現代と云ふ時代がして仕舞った訳だ。

 

 

其れもやれ女性活躍だ、一億総活躍だと。

 

 

一億総活躍担当大臣

 

 

ばか。

そも其のネーミングがおバカ其のものだ。

 

かうして今自民党の政治がおバカ其のものと化して居る。

しかもかうして小学生でも分かるおバカ振りだ。

 

こんな馬鹿共に政治を任すと國は滅びる。

 

公明党よ、お願ひだ、此の自民党の🐵や🐶共とどうしても手を切って頂きたひ。

まさにどーぶつにも優しひ宗教政党ではあるにせよ佛教は元々釈尊の理性が創った宗教の筈だ。

 

 

 

総理の一日

 

いやー、然しこんな🐵総理の一日などもなかなか大変さうだね。

頑張れ🐵。

 

頑張れ🐶。

 

頑張れ公明党

 

頑張らなひ我。

 

でも皆様はまたみんなはまだ逃げちゃイケませんよ。

自称の詩人のみがかうして何処までも逃げて行っても良ひのです。

 

ー但しケッコンすれば男女共にまさに労働することに悩んで居る本人さんが労働から解放される可能性がまた出て来やう筈だー