「悲惨、悲愴系」での立場から論ずる藝術論ー山野 一氏とねこぢる氏による表現のあり方に就いてー
尚文化的な意味での程度が高く有ること、又は文化的な意味で意識が高いと云うことは必ずしも正の価値領域に限られることには非ず。
正の価値領域即ち学校やら議員の先生やら自衛隊の幹部やらまた正の藝術家にまた御寺や教會に居る御坊様や神父様方など。
まさにソレ等が文化的な意味で常に意識が高いと云うことにはまずなりません。
逆に文化的な意味で意識が高いと云うことは壱種反體制的であり且つ下品なものだ。
ですのでむしろソノ壱種反體制的であり且つ下品なものをあえて藝術の世界が受け持ち等しく見詰めることとなる。
要するにさうした世の正の価値に對し負の価値として生ずる側面をおおまさに負の藝術家達が見逃すことは無い。
負の藝術家はですので悪徳だの不道徳だの自堕落だのそんな部分へと必然的に寄り添うこととなる。
例えば分かり易いのがかっての仏蘭西の詩人ボオドレエルです。
ですがソノ負の領域に余りにも深く浸されて仕舞うとソレこそ善惡の区別ですらやがて分からなくもなりさらに基本的に精神を常に酷使し且つ酒浸りなので結果アル中にはなるわ、また👩にドコ迄も手を出し主に下の病気などを移され、でもってもう兎に角ヘロヘロになりまともに飯も食えんやうになり大抵詩人は早う死に至る。
まあそんなものですので詩人こそがまさに螽斯でありつまりは不眞面目の代表格のやうな者ですがでもソコでもってよーく考えてみれば例えば大御所の文學者であるとか、またエライ國會議員の先生方であるとか、はたまた教師であるとかまた宗教者であるとかむしろそんな人に限り實は仮面を被り即ち自分をイイニンゲンに見せつつ此の世をば成り立たせて御座る。
でもってそんなエライ校長先生の壱人が實は東南亜細亜で物凄く下劣な児童買春などを繰り返して居たなどと云う事實さえもが御座ります。
ですのでソレはアノ宮澤 賢治とはまるで違う惡の権化としての行いでせう。
さうアノ宮澤 賢治のやうに清い百蓮華の🌸のやうに穢れなき心とはまるで違う汚れた性欲でなくて何なのでせう?
つまりはソレが「偽善者」とのことである。
またコノ世はそんな「偽善」にこそまみれる世界ですので余計に訳が分からなくもなる。
さうアナタの如き心の根が清い人にはもうドコ迄行ってもスッカリ此の世が分からなくなる。
ですからソコにこそ寄り添うであらう認識こそがソレこそ負の藝術領域としてのサブカルチャーでありまた鬼畜系 - Wikipediaでの藝術表現なのだ。
ですがソノ鬼畜系は「變態」の度が強く入るので西村氏や我が藝術の場合にはむしろ其れには當たらず「悲惨系、悲愴系」とさう申した方が良いのやもしれぬ。
特に吾輩の場合はむしろ観た目には恵まれて観えるのでよって何をワザワザさう悩み深刻振り考えるのか?と實は自分でもさうたまに思うのですがでも自分の心の中にこんな「世に對するウラミ、ツラミ」が有る限りソレは無いのでは無くあくまで有る。
まあいずれにせよ彼太宰 治の藝術などもまたそんな悲愴系に入るのやもしれぬ。
かと言って彼は特に恵まれた境遇ではあったが晩年に至り彼の家は傾きつまりは「斜陽」だったのですから矢張り死の原因の壱つに「金欠」が有ったことは否めないことだらう。
またアノ芥川の場合にも意外と金欠でしてしかも👩狂いでもってソコでの悩みが兎に角根深かったらしい。
いずれにせよ文豪に限らず作家つまりは文人気質のニンゲンは常に精神的な振幅の度が激しくしてしかもソノ振幅に釣られる形にて實人生の方がドーンと落ち込んだりもする。
要するにソノ幅が大きく逆を申せば凡人は認識ソノモノがそも凡ですので生き様や死に様の方もまるで凡にしかならない。
でもって幸か不幸か自分もまたソノ振幅が激しい方なのだ。
だから周りと凄い喧嘩をすることなどが屡有ります。
でも、です。
でも「悲惨系、悲愴系」の文人の生き方は壱種正直だ。
丁度アノグレタさんが現代社會に對し正直なやうに彼等もまた誤魔化しがきかず「悲惨」は「悲惨」で「悲愴」は「悲愴」だとさうストレートに述べる他は無し。
でもって自分もまたソコに限りいつも正直であり且つ誠實なのです。
ソレは果たしてナニに對してなのか?
だからソノ生の「悲惨」さと「悲愴」さに関し極めて正直なんだ。
自分がかって読んだ鬼畜系の漫画はソノ山野氏の四丁目の夕日 - Wikipediaと云う作品でしたがソノ悲惨さにズバリ心を痛めましたものです。
ですがそんな究極的に悲惨なニンゲンもまた此の世に居るとのことから何だか自分の持ってる精神的な意味での悲惨さがソレと比べることで少しは持ち上げられ僅かですが気が樂になったやうな感じも正直致しましたものです。
が、基本的には自分の悲惨があくまで精神的なもの=観念的なレヴェルでの悲惨であり苦しみであることから次第にヤッパリどうもコレとは違うなとさう思いむしろ芥川 龍之介や夏目 漱石の方へ向き直るとどうも相性が頗る良い。
つまりはソノ観念的な意味での苦悩としての根拠の部分がソコにて初めてピタリと壱致する。
尚夏目 漱石は英語の教師ですが實は芥川 龍之介も海軍の兵学校で英語を教える教師をして居たことがあった。
ですが教師ならそんな👩に狂うことなどは是非止めて頂きたいものだ。
いや教師だからこそドコぞ抑圧されたものが有りむしろ👩狂いにもなるのかな。
山野一ロングインタビュー 貧乏人の悲惨な生活を描かせたら右に出る者なし!!(聞き手・構成/吉永嘉明) - Underground Magazine Archives
50歳目前で子宝を授かるも、「もう一人いますね」と…双子特有の難病で壮絶すぎた“大難産”までの道のり | 文春オンライン
さて自分はソノ山野氏の作品が案外好きだ。
ソレと山野氏はとても美男の方でソコもまた自分の趣味には合う。
ソノ美男の山野氏があえてゲログロの世界をつまりは悲惨の極としての倒産だの自殺だの何だのを延延と描き連ねて行かれるのですからソノ對比こそがなかなか見事だ。
因みにソノ男前の山野氏の妻のねこぢる氏は31歳の頃に自殺して居る。
思うに藝術もまたやり過ぎるとさう自殺して仕舞うのではないのかしら。
でも芥川 龍之介が自殺したこととねこぢる氏が自殺したことはまるで同じ藝術家としての死なのだらうか。
と申しますのも芥川 龍之介はおそらく偏差値が70以上は有る博識振りでしたがねこぢる氏の偏差値は多分其れよりずっと低いことだらう。
だからどうも同じなのだとは思いにくい。
ですのでマンガは所詮マンガと云う部分が何処かに有る筈なのでは?
でもってナゼか急に芥川 龍之介を読みたくなり昨夜深夜弐時頃迄靑空文庫でもって「續西方の人」ー遺稿ーを読んでおった。芥川龍之介 続西方の人
「西方の人」とはイエス・クリストソノ人のこととなる。芥川龍之介 西方の人
でもって「西方の人」や「續西方の人」は高校時代にしかと読みソノ後も何度か読み返して居る筈ながら實は何を語って居るのやらほぼチンプンカンプンなのでした。
と申しますのも個人的には其れ程クリスト教に興味が有る訳では無く特に廿代後半より参拾代にかけ勉強を進めたのは主に大乗佛法だったとの経緯がある。
ですが昨日ソレを読みまさに合点がイキましたものです。
故に自分に取りコノ作品はまさに高齢者となってから是非読むものであった訳です。
ソノやうに何でもソレに合う時節と云うものが有りソレは例えば八拾歳になり訪れる場合さえもが有るものだらう。
故にこそ何でもたった今全てをやらうとしても其れはまるで無理なのだ。
でもソレは何時かまた機会が巡って來る。
ソノ時にソレが「分かれば」ソレで良い。
ですがニンゲンは参拾や四拾でもって死んで居るともはや機會は訪れずよって永遠に認識の地平からは遠ざかって仕舞う。
またアノ「或阿呆の一生」ー同じく遺稿ーなども同じく昨夜読みましたのです。芥川龍之介 或阿呆の一生
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容姿・性格
ねこぢるの夫の山野はねこぢるの人物像について、「身長153センチ、体重37キロ、童顔…。18の時出会ってからずっと、彼女はその姿もメンタリティーも、ほとんど変わることはありませんでした。それは彼女を知る人が共通して持っていた感想で、私もそれが不思議であると同時に、不安でもあったのですが…」「生前彼女は、かなりエキセントリックな個性の持ち主でした。気が強い半面極めてナイーブで、私の他にはごく限られた“波長”の合う友人にしか心を開くことはありませんでした。“波長”の合わない人と会うことは、彼女にとって苦痛で、それが極端な場合には精神的にも肉体的にも、かなりダメージを受けていたようです。彼女程でないにしろ、私にも同じような傾向があり、二人ともノーマルな社会人としては全く不適格でした」と寄稿した追悼文の中で述べている[15]。
嫌いなものは嫌い
ねこぢると交友のあった『危ない1号』編集者の吉永嘉明によると、ねこぢるは基本的に殆どの人間や対象にまるで関心がなく、それらに対する口癖も「つまんない」「嫌い」「相性が悪い」「興味がない」「関心がない」「波長が合わない」など嘘がつけない体質だけに極めてストレートなものだったという[16]。“特殊漫画家”の根本敬もねこぢるの性格について、「他人の正体や物の本質をパッと見抜けてしまう人。またそれを素直に口にしてしまう正直者」と評している[17]。
一方で、興味のある対象には非常に積極的であり、とくに“波長”の合う人物には熱狂的な好意を抱いた。また好意を抱いた人物には「追っかけ」とも言える行動に出ることもあり、夫・山野一と結婚した経緯も、ねこぢるが山野の住むアパートにまで押し掛けて、そのまま上がり込んでしまったからだという[3]。吉永いわく山野はねこぢるの「お母さん」のような存在でもあり[18]、ねこぢるの自殺についても「あそこまで生きたのも山野さんがいたからだとも思う」と語っている[19]。
山野とねこぢるの関係性について1998年当時『ガロ』の編集長を務めていた長戸雅之も「仲が良く、波長が合っている二人」「お互いに心を許せるパートナーと思いました」と語っており、雨の日に喫茶店で待ち合わせした時も、夫妻は相合い傘をしてやってきて、帰りも一つの傘で一緒に帰って行ったと回想している[20]。
自閉的な性格
吉永の証言によれば、ねこぢるはうつ病で精神科に通院しており、出会った頃には既に自閉的な性格が完全に確立していたという[10]。吉永はねこぢるの自閉について、「精神的に孤立して自分の内面にこもる傾向が育まれたのかもしれない」と推察している[10]。
また『月刊漫画ガロ』の担当編集者であった青林堂(現 :青林工藝舎)の高市真紀の証言でも、ねこぢるは殆ど外出せず、喫茶店も嫌いでお世辞や社交辞令にも敏感に反応してしまい、世間との付き合いは苦手だったという[21]。その一方で高市の姉で漫画家の山田花子が1992年に投身自殺した時には、高市が山田の後追いをするのでないかと心配して「何でも相談するんだよ」と親身に話を聞いてくれたと述べている[20][21]。なお、「心を見抜かれそう」と緊張していた高市に対して「大丈夫、緊張しないで」と声をかける一面もあったという[21]。
乏しい食欲
ねこぢるには食欲が存在しなかったようで、ねこぢるについて吉永が「最期のほうは生きる欲望も薄れていった」とも述べている[22]。また肉や魚に関しても「血の味がするから」と全く食べず[11]、友人の巽早紀(元ペヨトル工房編集者。吉永嘉明の妻。2003年に縊死)が勧めたアボカドも一口食べて勢いよく吐き出したという[22]。
これに関して生前、ねこぢるは「トンカツって豚の死体だよね」という感想を夫の山野に述べており[11]、漫画の中でも豚は下等生物として罵られ殺され食べられる家畜程度の存在にしか描かれていない[23]。
強い責任感
ねこぢるの死後、『COMIC GON!』(大洋図書/ミリオン出版)3号で「蘇るねこぢるワールド」という特集が組まれ、ねこぢるに接触した17人の編集者のインタビューが掲載された[1]。この中で『テレビブロス』編集者の小田倉智も、ねこぢるが自殺する直前に過労で入院していたことを明かしている[1]。
ねこぢるについて担当編集者らは、「原稿の締め切りをキッチリと守る人だった。月に数十本の原稿を抱えながら、締め切りを守るのは至難の業、それをやり遂げたねこぢるはムチャクチャ責任感のある人」「自分の漫画を読んでいる有名人をそれとなくチェックして帯の推薦文の人選を考えたり、10代の子が自分の本をおこづかいで買えるように、価格を下げるように交渉したり、単行本を作る過程でいろいろ知恵を絞っていた」と証言している[1]。この特集を企画した編集者はこれらの証言を踏まえて「『自分の人気は一時的なもので、すぐ売れなくなる』と、自分の人気に甘んじない冷静さがあったので、彼女は来る仕事を拒まず、なおさら人気漫画家となったのでは」と推察していた[1]。
不規則な生活
ねこぢるは、売れっ子になる前から3日間起き続け、その後丸1日寝るという体内時計(サーカディアン・リズム)に逆らった不規則な生活を送っていた[3]。その様子は自殺の二日前に描いた遺稿『ガラス窓』でも見ることが出来る[24]。
藝術をやれる人はソレがやれぬ人に比べ壱般に選好みが激しくつまりは我を押し通すものだ。
またパッと物事の本質を掴み見抜ける直感力を持ち合わせて居るものだ。
さらにソレがより高等な域ともなれば所謂「直観」的な哲學的能力を発揮するやうにもなる。
つまりはワタシ自身がまさにソレの持ち主なのだ。
でも皆様御安心下され。
さうした特殊な能力者は實は「常識」には欠ける場合が多くよって社會生活には基本的に不向きなのだ。
要するにドコか「變」なの。
さう「變」だからこそむしろゲージツがやれ且つソレがみんな分かるの。
でもってソノアスペルガー自閉症者にはすでに全てが見えてますし且つすでに分かって居ます。
でもそんな天才性の故に社會生活からは常に阻害されるのでさう精神科へ通い💊を貰ったりもするのです。
でもってソノ「食欲」の部分はむしろ非常に大事なところです。
即ち、
「食欲」有り→すぐには死なん
「食欲」無し→すぐにも死ぬ
とのこととなる。
但し性欲の方は別に無くとも良い、いや無い方がむしろイイ位だ。
また「責任感」などはむしろ無い位の方が良くでも「生活の不規則さ」は肉體の死を引き寄せるのである程度は規則性を保つべし。
かうして藝術をやれる人は基本的に「死」に近くなりつつ生きて行かざるを得ない。
例えば天才作家や天才画家がかって皆早う死んだ=夭折したのは彼等の認識自體が基本的に「死」の方向をこそ向いて居たからです。
ですがコノ点もまた凡なる方方は是非御安心召されよ。
盆暗の認識には逆に常に「生」が纏わりつきよってアンタ方はたとえ殺されても死にゃあしない。
まあソコは自分等もまさによーく気を付けて來し部分なのですがつまりは純粋に表現者として生きますとむしろドンドン「死人」染みてさえ來るのである。
ですがもう65ですのでね、もう長ーく生きて來たのでそのうちに限界が來ることもまた確かなことです。
なのでなるべく食いたい物を日替わりにして集め順次ソレを食うコトに情熱を傾けたりもまたして居る。
つまりはおおまさにソノことにより買春では無く回春してさえ居る。
さてかってこんな人も居たさうですがコノ人などもまたとっくに自死して居ます。
ー「この世に真実などない。だから、何をやっても許される」(史上初のカルト・グル、ハッサン・イ・サバーの言葉)
全ての物事には、数え切れないほどの意味やとらえ方、感じ方などがある。例えば、自殺。これを「悲しいこと」「負け犬がすること」とみなすのは、無数にある“自殺のとらえ方”のほんの一部に過ぎない。この世には、祝福されるべき自殺だってあるのだ。
あらゆる物事は、その内に外に、無数の“物語”を秘め、纏っている。『危ない1号』では、これら無数の物語の中から、他の本や雑誌ではあまり語られない物語だけを選びだして語るようにした。さらにその際、一つの物事が含み持つ無数の物語の全てを“等価”と考えるように心掛けた。(中略)
この世に真実などない。あらゆる物事は、その内に外に“数限りない物語”を秘めている。そして、それらの物語は、人間様中心の妄想であるという意味で“全て等価”なのである。だから何を考えても許される。これが当ブックシリーズの編集ポリシーだ。
妄想にタブーなし!— 東京公司「はじめに」『危ない1号』第1巻 データハウス 1995年 2-3頁
個人的に気にかかるのがコノ人はさう相對的平等論のやうなことを世間に對し述べた後に死んで居ることだ。
ー物語は、人間様中心の妄想であるという意味で“全て等価”なのであるー
ニンゲンの物語は個に置いても社會に置いても共に妄想ー観念的妄想ーですが社會に於ける物語ばかりが偏重され個に於ける物語が矮小化され語られるのはどう考えてもオカシイ。元來妄想の其其に区別が無いやうに社會に於ける妄想としての物語と個に於ける妄想としての物語は基本的に「等価」である。
最近ワタシが語って居ることとはまさにソノこととなる。
要するに結果的に彼と同じことを言って居ることとなる。
ですが事の眞相、要するに眞實の部分を述べるとソレはすでに「死」が近いつまりは「死」に捉えられ始めるのやもしれません。
ですので現在わたくしはむしろ努めてイイ加減に生きることとして來て居る。
さうイイ加減に生きるつまりはなるべく遊びを取り入れつつ日日を生きる。
どだい悲惨、悲愴系の藝術家はソノ侭に口を開けばもはや其れしか語れぬものだ。
なのでむしろ石やペンのことを語れば良いのです。
コノ社會のあり方がどのやうであれモノはさうしてココに有りむしろ別の物語をこそ語り継ぐ。
さう物語は多様なものでありしかも物語としても「等価」です。
またつまりはソコに「ヒエラルキー」を設定しエライ方と劣った方とを築くこと自體が大間違いだ。
さてそろそろ寒い時節となったが何とアイスクリームが我が机の横に置いてある。
ドレドレ、うーむアノグリコのジャイアント・コーンのチョコ味の奴か。
サアコレをたった今食うぞ。
コレがまたこんな秋の夜長には即効くぞよ!
コレを食ってからすぐに靑空文庫にてかの芥川 龍之介の作品などを是非澤山読んでみやう。
ビリビリ、うわっ冷てえ!
でも美味い!!
さう他方では常に感覚を具象的に展開し観念の世界を離れること。
ソノことこそがむしろ最も大事なこととなるがソコが皆様には果たして御理解頂けたことであらうや?