「詩」とはむしろ文學に宿る破滅性の部分と闘うことであるー壱詩人としての作家論と「詩」に就いて語るー
兎に角自分は半分「文人」なので「世俗」の人人のやうに毎日何も考えずに生きてることは許されない。
なのでイヤでも「御勉強」をしないとならずソレも例え死にさうな心持ちの日であれちゃんとソレをやらないとまさか「詩人」だなどとは言って居られぬ。
でも「詩人」なのはまさにほんたうのことでよって毎日色んなコトバが天から降りて來ますがソレをちゃんとソノ場でメモして置かないと参分後にはソノ「啓示」の如きものが雲散霧消するに至る。
大體ソレが起こるのが決まって朝の起き掛けの頃となる。
ソノ時自分は眠りの闇の世界より此の世の眩しさへとイヤでも引き摺り出されるのでまあ何かとソコでは「抵抗感」と申すか「ためらい」と申すかそんなものにおそらくは支配されて居り従ってまだ普通の状態の意識にはなって居らずまさに半分夢見心地でありまた半分死人のやうな感覚の侭にソノコトバを受け取る他は無い。
でもってたまにソノ言葉が降るのがとても強いことがありまさに本日の朝はそんな強度な詩的分裂としての起き掛けとなった。
でもって起きてからすぐに銘木ボールペンにてメモをして置いたがコノ際ソノ内容を是非此処へ披瀝してみたい。
ー幾世代もの満ちた細胞の時がソコに過ぎ
千年萬年億年単位でのそんなイノチの営みの集積がソコに宿り
あらゆる構築とまた破壊と〈死〉としての現實と〈生〉のまどろみとが
有りさうで無く無ささうで有るそんな歴史としての堆積が
まさにそんな悲嘆であると同時に唯壱の輝きを放つ地球上のあれこれを
疑惑に満ち常にどうしやうも無くさらに「矛盾」だらけのイノチの剥き出しの生き様を
全てコノ世から奪い去る権利は君等ニンゲンには無い
また大宇宙のどんな生命體であれ其れ等の生命の不毛さを奪い去ることなどは出來ぬ
生命とはそんなゴタゴタでもってガタガタのことだ
生命とは死んで居ることでは無くさう生きることだ
生きることは綺麗ごとでは無くむしろ「矛盾」にこそまみれることなのだー
ー「詩」とは主に世界と内面との緊張関係より紡がれる「叫び」のことである。「詩人」は主にソノ緊張関係の様をこそ克明に語る「語り部」のことだ。
普通ソノ「詩」を此の世に降ろすことは困難ながらとある特殊な心理的状況に置かれし彼等に取りむしろソレはたやすいこととなる。
「詩」は何処にでも有り且つドコにも無い。そんなドコにも無い有る筈のものを創り出すことこそが藝術としての「詩」の現場となる。ー
尚「詩」とはむしろアンビバレントな心性こそが紡ぎ出すコトバとなる。
アンビバレントな心性とは事象を「悩む」心持ちのことだ。
例えば漱石や芥川のやうなかっての文豪は決まって生きること自體にかって懊悩した。
またかって自決した詩人の数などはまさに☆の数程にもなるのであらう。
では「悩む」ことで悩みに負けさう死んでもイイのか?
まあすでに悟って居るのならソレでもイイが但しやることをやり文學として遺して置かないとまさか「藝術」としては完遂されぬ。
例えばかの「宮澤 賢治」の文學が遺ったのはちゃんと書いて原稿を残しておったからである。
結果ソノ「宮澤 賢治」の心理的な本質部とは「👩嫌い」の「コレクター」さんでありまさにドコぞの自称作家氏と何故か良く似て御座る。
では「悩む」ことで「文學」をやりたとえ早う死んでも「作品」ダケ残ればイイのか?
うんまずはソノ「作品」こそが藝術家の「子」なのでつまりはソノ「子」が生き延びることで藝術家は永遠に生きることとなる。
ー「詩」とはむしろアンビバレントな心性こそが紡ぎ出すコトバとなるー
要するにソレは本質的に「安定」なのでもまた「👪主義」なのでも無い。
つまりはサラリーマンでは無く長生き主義なのでも無い。
むしろ短命でもイイから兎に角言いたいことがどうしても有るのでソレを言わんとスッカリ「便秘」して仕舞う。
てな感じでのことが「詩人」としての心理的本質部にはしかと横たわる。
また彼等「詩人」は常にデカいこと、またデカいモノを見詰めてやまぬ。
だから彼等は常に「夢想家」に見え實際に半分位は日常感覚が乖離した「夢想家」ソノモノなんだらう。
日常⇔夢想
例えばかの三島 由紀夫先生は元元詩人であったが若い頃に變な「詩」を書いて居る。
三島由紀夫とはどんな人?生涯&年表まとめ【代表作品や死因、功績も紹介】 - レキシル[Rekisiru]
〈「憂国忌」に振り返る〉石原慎太郎、横尾忠則、平野啓一郎が探求した〝三島由紀夫の死〟 | 「文藝春秋」編集部 | 文藝春秋 電子版 (bunshun.jp)
わたくしは夕な夕な
窓に立ち椿事を待つた、
凶変のだう悪な砂塵が
夜の虹のやうに町並の
むかうからおしよせてくるのを。
枯木かれ木の
海綿めいた
乾きの間には
薔薇輝石色に
夕空がうかんできた・・・・・・
濃沃度丁幾を混ぜたる、
夕焼の凶ごとの色みれば
わが胸は支那繻子の扉を閉ざし
空には悲惨きはまる
黒奴たちあらはれきて
夜もすがら争ひ合ひ
星の血を滴らしつゝ
夜の犇きで閨にひゞいた。
わたしは凶ごとを待つてゐる
吉報は凶報だつた
けふも轢死人の額は黒く
わが血はどす赤く凍結した・・・・・・。
ーネット上より引用ー
さてコレは『凶ごと』と云う三島 由紀夫が15歳の頃に書いたとされる詩である。
壱読して、即凄い詩なのだと思う。
しかも思想性は無いがまさに破滅的な作品となる。
だからコノ詩の内容にこそ大作家の自決の部分が重なってさえ見える。
でもって才有るむしろ多くの文學者が實は破滅的なのでもある。
なんとなれば物事を見極める能力に長けしかも基本的にアンビバレントな心性の持ち主が多いので大抵は破滅主義に陥るものだ。
でもって自分もまた破滅主義なのはもう皆様には御分りでせう。
ですが自分の場合は文學ダケで無く宗教的な自我をも生きる者なんです。
だからカンタンには破滅主義にならない。
おまけに今は半分クリスト教徒化しても居るのでまた意外と破滅主義にはならない。
ソレとアノ時にもしも自衛隊が決起して軍隊にでもなって居ればココ🗾の體制は救われたかと云うにまるで救われはせん。
だから左翼系御騒がせ國家が覇権主義をやるにせよ結果西側陣営と喧嘩になりしかも國と國との喧嘩はデカいからつまりは「戦争」となる。
いや「第参次世界大戦」とまずはなる。
おお怖い、早う逃げやうソノ三河の山奥へとサッサと逃げるべきだ!
日常⇔夢想
なのでまずは文學者としてコノ對立関係をばよーく見て置かないととんでもないことになるぞよ。
だから夢と現實の区別は如何に夢想家と雖もしかと付けて置かないとダメだ。
ではアナタの思想のやうに全世界が「世界革命」にて浄化されるとのそんな夢物語は果たしてソコに通用しますか?
いえまるで通用しません。
ですからワタシは別に左翼では無く言ってみれば脱思想者でありタダの壱生活者です。
ほうタダの壱生活者?
では「生活保護」をむしろ受けたい派なので?
まあ必要が有ればソレもまた視野に入れてでのこと。
うーん、君は矢張り三島 由紀夫の論理とは程遠くつまりは三島 由紀夫が嫌ったかの大宰 治の論理のソレも強固な持ち主だらう。
でもそんなに褒めて頂かなくても宜しいのですが…。
いや褒めて居るのでは無くむしろ思い切りにバカにしたのですが。
尚彼大宰もまた日常と夢想がむしろごっちゃになり生きることに對し負けたのでした。
つまりは「フィクション」としての文學と「リアリティ」としての生活の区別を付けられなんだ訳だ。
またアノ天才芥川はまた余計に「フィクション」としての文學と「リアリティ」としての生活の区別を付けられなんだ訳でしてそいでもって最終的に睡眠薬を致死量服み彼は自殺を遂げる。
するとそも「文學」ダケではヤバい?
いや文學者にせよ志賀 直哉みたいなつまりは資本家みたいな奴はむしろちゃんと区別を付けて生きて居た。
なので「變」な文學者に有って「まとも」な文學者に無いのが「ケジメの無さ」である。
ソコを逆に申せば「まとも」な文學者に有って天才文學者に無いのがおおまさにソノ「生活上のケジメ」です。
はあー、するとまるでどこかの宗教団体の如くに「生活上のケジメ」を付けより良く生きることこそがソノ文學としての破滅主義から身を守る方策なのですか?
いえ特に新興宗教団体の唱える「正しい👪主義」は多分此の世の中に取っての「眞理」とはまた違うことだらう。
ではソノ「眞理」とは果たして何か?
いやだからソレがなるべく「逃げ回る」ことだらう。
でもアンタソレはコノ今の文明社會の価値観とはまるで正反對の論理ではないか。
ですからワタシは何もクリストや佛陀の教えばかりでは無く彼大宰のもうどうしやうもない人生からもかって多くを學んで居る。
彼大宰のもうどうしやうもない人生から學んだ教訓とはつまりは「逃げられるダケ逃げて置く」ことなのだから。
いや待てよ、さうかあ。
確かに三島主義で行くとまず中國とは戦争になるな。
また芥川主義ですと利発過ぎてほぼ発狂するに至るぞ。
また大江主義ですと息子ばかり可愛がる所謂利己的な左翼と化す。
さらに安部主義とか養老主義となるとまず世の中をバカに致しませう。
まあ確かにワタシはそちらに壱番近いがソコをあえてバカになる。
つまりは太宰化する。
ほれこんな今大宰だー。
でもってそんな作家論ばかりで「詩」の御話は果たしてどうなりましたか?
いえですから「詩」は確かに「悩みとしての生との格闘」のことですがあくまで「戦闘」では無い。
故に思想的な意味での主義主張とは本質的に違う訳だ。
丁度三島 由紀夫が少年時代に書いて居ただらう「詩」の如くにどこか「不気味」ではあれあくまで其れは「観念世界」のことであり「現實としての世界の對立」のこととはならぬ。
まさにソノ意味での「詩」の成立なのではなからうか。
言わば『凶ごと』はそんな「思想」以前での観念のアンビバレント性を描き出すものと考えられる。
故にソノ意味で「詩」としては純粋でさらに逆説的に言えば「安定」し且つ「普遍化」されても居る。
元より文學とは常に仄暗き夢の如きものだ。
元より思想はまた宗教はみんなでニッコリ嗤いながら日日「偽善」振りを発揮することだ。
つまりは共に完璧な方法論とは成り得ぬものなのだ。
またつまりは「眞理」の類のものなのでもおそらくは無い。
でも御釈迦様やクリスト様の教えこそが「眞理」なのでせう?
まあ場合によっては確かに。
ですが自分の場合はあくまで文學者なのでソコへ全てを捨てて飛び込む訳にも行かぬのだ。
さうかソレでもってあえて文學と宗教を同時に志向して行くのか。
また良くぞそんなややこしいこと迄もが分かりましたね。
いえもう僕は君のことなどは全てが分かる、例えば今日は💩が出て居ませんね?
だからソレを言うなココで、もっと上品なことを選んで言え。
さう言えばアナタは昨夜本を落としましたね。
はいさうですね、ほんたうに久し振りにヤフオクにて本を買った。
まあ安くて程度が良さそうに見えるので東北の出品者からつい買いましたのです。
うわあー、またもや加島先生の本ですか。
うんさうです、加島先生の自称の弟子を語る割りに余り多くの本を読んで居ないのでソレではイカン。
ところでたった今アナタが住むのがまさにそんな「タオ」の世界なのですか?
はいまあ個人的に所謂「陰陽思想」の影響をむしろ大きく受けて居ます。
さう言えば「老子」の思想こそはズバリ「逃げる」思想ですね?
さうですね、ズバリ言ってま、逃げて置いて何もしない、とのそんな自然であり無作為な思想のことだらう。
またズバリ言って「逃げる」思想こそが最も「平和」を齎す。
故に中華やプーチンの覇権主義であれまた欧米流の進歩主義であれ全てがむしろ「間違い」なのだ。
でもって世間では「間違い」の思想を何時迄もやりたがるからこそ地球が壊れまた死人が多く出何時の間にか文明ソレ自體が「肥溜め」にも落ちるのです。
なる程、すると加島先生のそんな自称の弟子としての詩人さんはむしろ「ソコから逃げて何もやらない」ことでこそ壱種逆説的に「世界平和」をこそ望んで居られるのだと?
いえ別に「世界」がどうならうが知ったことか。
あくまで「世界」は「世界」で「ボク」は「ボク」。
かってかの大哲學者カントが「世界の永遠の平和」を語ったことがあったがそんな「世界の永遠の平和」はまずボク自身の「内心の平和」から始まるとさう信じて疑わず。
求めない
すると「世界」が消える
求めない
すると「平和」が訪れる
じゃあ今回のやうに日本人の子が中國人の暴漢に殺されてもまさか仕返しはしないのですね?
しません、ナゼナラヤル気ソノモノが有りませんので、無です、まさにソノ無。
アンタはでもそんな偏向した「變」な思想でもって今後キビシイ老後を生き抜く自信が御有りなのか?
いえ有りません、ソレもまた。
だから「逃げる」奴は誰も追えぬ。
でもアノ太宰氏のやうに川に落ち死ぬるよりは適當に流されて適當に穴に落ちて死ねればソレでもって宜しい。
加島先生、ですのでワタシはまずコノ本を読んでみます。
でも読む前からすでに半分位はソノ内容の見當が付くのはナゼなのだらう。