歌姫テレサ・テンの歌より導く藝術論ーそんなテレサ・テンの「自由と民主化闘争」より導かれることだらう藝術論ー
三島由紀夫の筆、石原慎太郎を政界へ…石原の遺品に書簡6通「世の有象無象を御覧になることを望みます」
さてたった今我は石原 慎太郎先生の「新堕落論」なる本を読んで居るがソノ内容は非常に勉強になります。
ワタシは今や右でも左でも無いが同時に右でも左でも有るとのそんなまさに訳の分らぬ思想の持ち主ですので例えば奴は左翼だとかまた奴は右翼だとかさう決め付けないで頂きたい。
要するに政治思想のイデオロギーに観念的価値を置く限りは對立軸が生じ永遠に価値對立の解決はならぬとさう見るべきだ。
さて石原先生が政界へ進出されたのはまさにソノ三島 由紀夫先生の助言とソレによる思想的影響が有ったからのことでせう。
確かにさうなのですが實はソレ以前に御弐人には共通項がありソレは法科出身の文學者であることです。
また自分もまさにソノ法科出身者でありしかもバリバリに政治思想の方をかってやりましたのです。
だから「文學」などよりも「社會」の方が大事だと正直さう思える。
だって「社會」のあり方が惡ければソレこそ文學も何もあったものではない。
どだいたとえば急に🗾社會が共産化され軟弱なる文學が禁止されるに至ったならば果たしてどうするのか?
ソノ社會だけがまた共産党壱党独裁ノミが大事であり藝術や宗教なんぞはむしろ無い方が良い。
とのそんな怖ーい「抑圧」されし🗾となったらもうボクは中國へでも逃げて行くぞ。
だが逃げたソノ中國こそが藝術家に取っての抑圧國家であった。
だからソノ共産主義思想に反對すれば即牢獄行きとならう。
でもココ🗾では幾ら反體制のことを唱えても別に爆破するとか放火するとかではないのでつまりはそんな考えの上ではナニを信じやうがまた言おうが自由ですのでココで毎回ベラベラと喋るワタシが逮捕されることは無い。
うーん、イイトコだぞココ🗾は!
兎に角法科出身の文人は最終的に「社會」の事ダケを考えるやうになるものとさう相場が決まって居る。
さてでは藝術家の中で「社會」と特に深い繋がりを持ったのはさても誰だったのか?
映像の世紀バタフライエフェクト 「我が心のテレサ・テン」 - 動画配信
例えば歌手ではテレサ・テンでした。
彼女テレサ・テンは台湾生まれの中國人です。
ワタシよりも7歳程御姉さんでつまりは🗾で云う全共闘世代でせう。
自分はかってテレサ・テンの歌をこよなく愛しカラオケへ行くと良く歌って居たものだった。ーワタシは歌が上手くクラシックでも歌謡曲でもさう何でも歌える。また裏声でも歌えるので女性の歌などもまたカヴァーし得る。ー
さてナゼまた急にテレサ・テンのことを語ったかと言えば、
まずは、
「政治思想と藝術との関係性」
コノことに就き是非考えて置きたかったのです。
ソレと申しますのも基本的に自分は、
「思想」と「藝術」はまた別物、だとさう考えたい方なのだ。
よって「藝術」は「右」の立場だらうがまた「左」の立場だらうが自ずと発生する=湧き出でるものだらう。
確かに共産主義の如くに藝術が制限を受け言わば「抑圧」されし状態でしか作品が生み出せない場合にはソレは社會のせいでさうなるのです。
故にアーティストの方は確かに表現の自由や個の表出の方へ向かうことだらう。
ですが壱見自由な社會の中にもまた個に對する抑圧構造は兎角見い出せて仕舞う。
例えば我が國などは所謂「同調圧力」が強く有る社會ですので變なことばかりー常識とは逆のことーを言ってればまさにボクのやうに「村八分」になる。
ならばほんたうのほんたうにココ🗾が自由でしかも何でもイケる社會なのか?
いいえさうではなく、ほんたうのほんたうは共産党独裁以上にソンナ全體主義國家なのではないか!
伝説のコンサート テレサ・テン in NHKホール リマスター版 - 動画配信
さらにナゼまた急にテレサ・テンのことを語ったかと云えば、ソレはズバリ言って昨日コノ番組を視て大感動したからのことです。
たった今もココの音声を流しつつコノ作文を書いて居ります。
アアでもイイですねえ、コノテレサ・テンの歌声が。
おそらくは最高の歌姫でせう。
無論のこと亜細亜でもNo.1の歌手だらう。
1.ソノ声がイイ
2.兎に角歌が上手い
3.心がこもった歌ばかり
つまりはまさに彼女こそが亜細亜壱の天才歌手でせう。
また中國語でもまた日本語でもさらに英語でもほぼ完璧に歌いこなして居る。
さらにソコソコに美人でもある。
アノ天童 よしみのやうに不細工には非ず。ーでも彼女の「いなかっぺ大将」の歌などは大好きなのですがー
邓丽君 愛の15年(1989)テレサ・テン15周年記念スペシャル - YouTube
テレサ・テン メドレー (part 1) - YouTube
鄧麗君 テレサ・テン Teresa Teng - 鄧麗君義演演唱晚會 Live in 台北國父紀念館 1980.10.04 台視版HQ
與君同樂-鄧麗君 Teresa Teng テレサ・テン (1986)
今回改めてソノテレサ・テンの歌の世界を追求してみたりもまたした。
要するにまた違う魅力がコレ等の動画より湧き出て來る。
對して日本語の歌はソレはソレでまた素晴らしい。
映像の世紀バタフライエフェクト 「我が心のテレサ・テン」 - 動画配信
さてコノ「映像の世紀」の方には亜細亜の歌姫としての彼女には政治的な側面があったことが描かれて居る。
要するに民主的で自由な體制を願うとのそんな表現者としての思想の面がソコには炙り出されて來る。
確かに彼女の母國中國は民主的でもなければまた自由どころか「抑圧」體制なのだ。
でもそんな自由で且つ民主的でなければ藝術をやれないものだらうか?
逆に全共闘世代の我が國の表現者である岡林 信康氏などはわたしたちの望むものはむしろ「革命」です、とさう歌い込んで居られ憚らなんだ。
あれ、でもどうも變だな。
ナゼナラココ🗾のやうな自由な民主主義の國ではナゼか若者などに「革命」が望まれソノ逆に中華独裁政権に於いてはナゼか「自由と民主化」こそが望まれることが。
ならば米國では共産化が望まれ對してアノ露西亜では逆にマクドナルドやコカ・コーラが望まれるとのそんなことではないか。
うん、ドナルドとはまた是非會いたい。
そんなプーチン氏には露西亜をまた強い國にしたいとの悲願があらう。
やうしもう壱遍コノ大露西亜をマルクス・レーニン主義の國へと戻さう!
ぎゃあまた強制収容所の復活なのか!
はい、では露西亜と中國が共に手を携え「世界革命」をば是非推進致しませう!!
さても藝術家はソノドチラを望むべきなのだらう?
例えばかの宮澤 賢治などにもそんな社會主義への憧れが有ったことだらう。
社會主義=平等主義
あえて農民など力の弱い人の味方となり人類のみんなを是非幸せにしたい。
藝術=ヒエラルキー主義
でも見落としがちなのだが「藝術」とはむしろ思い切りにヒエラルキーを形成したりもする主義と化す。
だから壱流作家は大金持ちとなるが壱方で三文ライターは暖房費が払えぬ。
それどころか飯もまるで食えぬ。
そんな藝術はでもウソのゲージツだらう。
ほんたうの藝術はまさにカネなんかじゃねえ。
ほんたうの藝術とはたとえビンボーでもなまことのことばをこそ述べ切ることぞ。
…ソノ「まことのことば」とは何か?
だからソレは「ヒエラルキー藝術」なんぞはクソくらえ!
との「革命精神」のことぞ。
なんだヤッパリ「革命」が大好き主義ではないですか。
うん、さうだねえ、だから最近はどうも自分は中國寄りだし且つ露西亜寄りなのだ。
でもって彼女テレサ・テンはソノ「自由と民主化闘争」に熱心に関わるべきではなかったのではないかとさうも思う。
例えば彼ゼレンスキーはかって成功した表現者の壱人だがまさにソノ「自由と民主化闘争」をやり過ぎた。
だから彼が居なければ何もウクライナは露西亜との戦争に苦しむ必要などは無かったのだ。
つまるところ藝術は「國家」となど関わるべきでは無いのだ。
さう「國家」と関わりたがるのは法科出の作家や詩人ダケで澤山なのだ。
じゃあ三島 由紀夫先生やまた石原 慎太郎先生やさらにアナタなどはむしろ國家へと突っ込む、とのそんな社會派での宿命の如きものを生きておいでになる?
さうだな、ボクなどももうそんなに時間が無いから早う國家へと突っ込みたいところながら兎に角さうして頭の中での哲學的帰結として「藝術と國家は無関係であるべき」との論理が有るからまさかソレは致しません。
尚「自由及び民主化闘争」は「絶對」の価値ではあり得ない。
ソノ逆に社會主義革命や共産党独裁もまた「絶對」の価値ではあり得ない。
そんな絶對には成り得ぬ価値の為に命を懸け己が寿命を擦り減らすべきではない。
さらに申せば革命主義やまたどんな進歩主義もつまりは科学万能論やニンゲン至上主義もまた「絶對」の価値ではあり得ない。
じゃあ果たしてナニが「絶對」と成り得るのだ?
いやソンナ絶對の価値などはむしろ「絶對」に無い。
でもこんなテレサ・テンの歌声ダケは時空を超越しまさにボクに取り「絶對の価値」たり得る。
あれするとまさにソレがたった「今」を感じ生きるとのことなのですか?
さうたった今かうしてテレサ・テンにベッタリと貼り付くこと。
まさにソレがボクの生き方であり哲學ソノモノなのさ。
でもソノテレサ・テンはもうとっくに死んで居ますよ。
死んで居らうがどうしやうがかうして歌声はしかと録音されても居らう。
藝術=脱ヒエラルキー
さてもこんなのがまさに藝術表現としての理想ともならう。
ソノ意味ではまさしく藝術は國家や秩序とは無関係にタダソコに今有るものとなる。
まさに藝術はソレ以上のものでは無くまたソレ以下のものにも非ず。
さう藝術はタダ「今」を生きる試みなのだから。
またもっともっと理屈抜きに言えばさう喜んで彼女の歌を聴いて居る時自分はタダ幸せなのだ。
タダ幸せにソコに存在するのみ。
まさにそんなことこそが藝術が我我に与えるだらう解放でありソノ解放ソノモノにイデオロギーなんぞはまるで含まれて居らず。
藝術とはさうしたことであり思想や時間をまさに超越して仕舞うほぼ唯壱としての価値なのだらう。