古い萬年筆の其の価値に就いてー壱 そんな汚いペンとピカピカのペンの果たしてどちらを選ぶべきなのか?ー
其の筆記具に於ける所謂職人技に限らず此処🗾には其の物作りに於ける伝統がまたどの分野にもある。
特に戦後の多量生産、大量消費の時代が所謂マス・プロダクツとして始まるが其れが物の価値をむしろ貶めて來たことなどもまた否めぬことだらう。
例えばわたくしがかって其のやうな所謂「限定万年筆」=現代物としてのペンから戦前又は戦後暫く迄の萬年筆の世界の方に鞍替えして行った理由の壱つがまさに其のマス・プロダクツとしての万年筆が持つ本質的な意義の欠如としての部分でした。
ですが其のやうな職人技が加わる萬年筆の価値はむしろ40歳位迄は余り良く分からなんだ。
と申しますのも現代文明を彩る物はほぼ総じて其の現代としての価値の視点から組み立てられ易い。
故に其れ迄はむしろさうピカピカでもってつまりは綺麗な現代の万年筆の価値の方にしかと縛り付けられて居たのである。
だけれども所謂🖋職人が作る万年筆の価値に気付いて居ない訳でも無かった。
其れも弐拾代の終わりの頃に名古屋丸善にて酒井軸の手作り万年筆を参本程求めたが結局其の弐、参万でもって当時は買えた職人のペンの価値が今やうなぎのぼりするに至って居る。
其れでも無論のこと其のピカピカでもって高価な限定万年筆の価値を全否定するに至った訳では無い。
但し其れ等に對し可成に懐疑的になったこともまた確かなことです。
また例えば今80年代製位の🚙が百萬、弐百萬と値が付き売買されて居るやうですが其のことなどにもまさに驚かされる。
では其のことは壱體どのやうな価値を其処に求めてのことなのだらう。
確かに所謂クラシックカーの市場が欧米などにはしかとあり其れ等の例えば戦前の🚙などはもはや特別な🚙と言えることかと思われるが逆にマス・プロダクツとしての80年代物の🚙でも今の電脳🚙よりも良いとさう言えるのやもしれない。
今の電脳🚙をレンタカーにて時折借りると至極快適で兎に角速いですが何処か電脳の部分に乗せられて居るやうな気が致しますのは其れはわたくしがかって所謂マニュアル・シフトの🚙にもまた乗って居たからなのだらう。
兎に角さうして此の半世紀余りに🚙などはほぼ電脳化され所謂ファン・トゥー・ドライヴな点が著しくスポイルされつまりは其れはオートマチックに乗る物と化して來て居ることでせう。
文明が何故其のやうに所謂非人間的な要素であり領域へと所謂進歩して行くものなのかと云うことがいずれにせよ大きな疑問であり最終的には其れでもって果たして良いのか?と云う話となる。
でもって問題はあくまで「古い物には価値が有るのか否か」と云う部分となる。
其の答えは「古い物にも価値が有る」でせう。
但し「古い物だから価値がある」との認識となることなどもまた往往にしてある。
わたくしなどは其のやうにほぼ過去の価値の優位性の方へと転向した人間でせう。
其れも弐拾世紀の終わり頃だったか、我がまたノコノコと其の頃懇意にして居た文房具卸の會社に出向くとこれまた知り合いの課長さんが出て來られ其の手には「お高い高級限定万年筆」の箱があった。
わたくしはかってさうして其「お高い高級限定万年筆」の御得意様であり故に弐、参箇月に壱度位は其処を訪れて居た。
其の折に其の知り合いの課長さんが我に對し次のやうなことを述べられた。
「昔のパーカーの万年筆は確かにモノが良かった。例えば金張りでも其れは本物の金張りでした。」
尤も其の「お高い高級限定万年筆」でもまた良い物は良く惡い物ばかりには非ず。
但し其の職人技のやうなことに限ればむしろ「手抜き」されて居る物の方が多い。
またそも🖋としての思想の方が惡いものなども中には有る。
でも左様なことはまさに其れをしてみないとほぼ分からない。
と云うことは今あえて80年代製位の🚙を乗る人などもそんな現代🚙に飽き足らずにもっと本物の何かを其処に求めつつ其れに乗るのやもしれん。
其の言葉に啓発された訳では無かったが自分は2010年頃よりむしろヴィンテージやアンティークの萬年筆の愛好家へと転身して行く。
また其の頃「ヴィンテージ物へと転向する自信はある」などとさう掲示板にて大威張りで書いて居たが實際に其れは上手く行ったのだった。
さらに其の頃自分には其のヴィンテージ物の師匠となる方方と屡交流して居た。
其れは神戸の方で其の頃阪大の教授をされて居たWATABEさんでした。ー確かWATANABEさんでは無かったと思いますがー
また東京にも師匠が居て其の方が工場の社長さんをされるYAMADAさんでした。
兎に角自分は此の御二方より大きく影響を受けて居るのでせう。
だけれどもまた其の人の意見とは別に兎に角自分の道を行くのがわたくしの常ですのであくまで本質的にはまた其れも関係が無い。
わたくしは其のやうに何でも結局は自己流ですので別に人の意見を聞き意見を變える訳には非ず。
さて其の古い物の価値を其れでは現在のわたくしがどう解釈するかと云うところです。
1.今はむしろ古い萬年筆の方がより好き♡だ
2.古い萬年筆は其れも煎じ詰めれば物として「華奢」であり謂わば生きて居るモノである。
3.逆に現代の万年筆は言わば数値還元主義にて言わば「今を生きるモノとしての魅力」に欠けて御座る
4.また其れは結局所謂アナログ物とデジタル物の差のやうなものなのであらう
其のやうにすでにそんな風にもなって居るのである。
また理屈の上でも、
5.現代の万年筆は現代の主流の筆記具では無い
6.要するに其れは🖋マニアの為に特化したつまりはマニアの遊びの為の領域の物でありよって其れは眞の意味での實用性を備えては居ない
との批判が其処に成立して仕舞う。
7.例えば戦前の萬年筆は本物の「萬年使える筆」だったが現代の万年筆は所謂大量消費財の壱つとして機能するばかりでの物だ
8.現在の万年筆は兎に角其の値段がクソ高くなり其れがつまりは金持ち御用達用のヒエラルキー物質の壱つとすでに化して仕舞った
9.だがJinHao X159ばかりはむしろサイコーの現行🖋だらう
との批判などがまた成立する。
そんな訳で「総じて万年筆は堕した」との思いを年年より強くして居るのが實状である。
但し部分的には「堕しては居らず」且つ「其の魅力を保ち続ける」万年筆もまた有ると見るべきなのではないか。
だけれどもさうした万年筆は常に限られて來るものと思われる。
まさに其の意味での職人技が其処に発揮される万年筆こそは古びずに何処迄をも其の価値を発揮しがちである。
また其の90年代の中頃より終わり頃迄に弐度程我は刈谷市の著名なコレクターさんであるOKAMOTO氏の御宅を訪れて居たものだった。
其の折には東海地方よりさらに関東などからも愛好家が其のペンをお目当てにしつつ集まる訳だ。
其のOKAMOTO氏のペンとは総じてヴィンテージ物であり其れもほぼ海外の蚤の市などを回り集めた物だった。
氏はさうして海外出張などの折りに萬年筆を買い漁って來たのだとさう仰る。
其の折に個人的に「汚いペンが多いな」と實はさう思って居たものだった。
そりゃ半世紀もまた70年も前のペンならば当然にさう汚くなる。
でも自分の万年筆コレクションならばもっとずっと綺麗だぞ。
そんな非本質的な考えをつい抱いて仕舞い實は物凄く真摯に其れ等と向き合って居た訳なのでは無い。
嗚呼其れを所謂若気の至りと言わずして他に何と申せば良いのだらう?
其のやうに完全に現代の🖋界に「洗脳」されて仕舞って居たわたくしだった。
だが時折其処に「此れは凄いな!」とさう思わせるであらう御品を発見するのである。
まさに其れがONOTOと云う英國の古い萬年筆メーカーが作った「マグナ」と云うモデルでありまた「マンモス」と呼ばれるモデルである。
だが其の頃自分は英國よりもむしろ独逸の現代の万年筆の信奉者だった。
其れでもって其の折に持参したペリカン社の限定品である「お高い高級限定万年筆」と其れを交換して貰おうとしたが結局其れはダメで他の訳の分からぬ品と結果交換して貰ったが其れは遥かに値が安いパーカーのDUOFOLDモデルであった。
ー自分は其の頃其のペリカン社の同じ限定品を何と参本も持って居た!其のうちの壱本が消えたにせよまだ弐本も其れがあるではないかー
其のDUOFOLDモデルはJade Greenのタイプで其の拾年後位に調べてみたところ所謂初期物であり比較的珍しい物だった。
ONOTOの「マグナ」は現在壱本其れも珍しいフレキシブル・ニブのタイプをたまに使う。
またONOTOの「マンモス」も壱本だけだが其れも珍しいモットルド・ラバー軸の物をもう拾年程は保管して來て居る。
さらに同じ頃だったか、名古屋丸善の主任さんであるUMEMOTOさんが我が家へ限定万年筆のコレクションを観に來られたことがあった。
其の折に話して居たこととはOKAMOTO氏のペンは総じて汚いが對して我がコレクションはこんなにピカピカだとのまさに今思えば非本質的とも言える話の内容だった。
だから其の現代物のピカピカな様に騙されなどしては決してならぬ!!
だがむしろPCダケは新しい物に限る。
第壱90年代のPCはすでに使えず其ればかりか取ってある前のパソコンなどももはや使えやせぬ。
でも其処からすると🚙や万年筆などはむしろ偉いではないか。
また大昔に買ってずっと積んであるLPレコード盤などもまだまだ使える。
さらに古本などは百年前の本でもしかと読める。
結局アナログ物の良さとはさうして価値としての継続性のある部分にこそあるのではないか。
逆に21世紀物は何時どうなるかも分からずつまりは其の価値其れ自體が常に不穏であり不安である。
だけれども最初に述べたやうに職人技が発揮された品はたとえ現代物であるにせよ其の限りには非ず。
だが左様にモノに限っても其の進歩が発揮されぬ分野がしかとあり其れがまずはそんな時代の遺物としての万年筆の世界だと云うことをこそ述べたかったのである。