目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「文明論」としての総括と厭世詩人としての価値観の系譜に就いてー+高村 光太郎氏の詩の世界ー

「文明論」としての総括と厭世詩人としての価値観の系譜に就いてー+高村 光太郎氏の詩の世界ー

 

 

 

 

侍Jのゴミのない“美ベンチ”に米絶賛の嵐 日本の美徳に「地球上で最も敬意に満ちた文化だ」 (msn.com)

 

結局其の「野球」はむしろ「全體主義」に向いて居る可能性が高い。

だけれどもまた其れも國家だの所謂ショービジネスの世界だのと結託さえしなければ目くじらを立てる程のものでは無い。

 

要するに其れは単純なる肉體的作用なのだ。

また其の日本人の潔癖な「文化」もまた怪しいものです。

 

第壱其処迄潔癖な「文化」の保持者であると言うのならば自由民主党の如き不潔な政党が此処日本で何故長期政権を築くのだらう?

 

さて同盟國の独逸人もまた至極理性的であり潔癖な人が多いのですがわたくしに限ればむしろ其れ以上でせう。

いずれにせよ今回のWBCは兎に角樂しめました。

 

其の意味では其の全體主義的な「みんな主義」から學ぶところがまた無きにしも非ずです。

其のやうに常に自分の奉ずる正反対の価値の部分から學ぶことこそが眞の意味での御勉強である。

 

 

さて今回はとりあえず學期末として「文明論」としての総括を行って置きたい。

 

1.まずは「破壊」の底より出発する

 

元より個としての認識を文明による「破壊」の部分つまりは「洗脳状態」より離脱せしめんとすることこそが此のブログでの認識論上での目的です。

まさに其れをせんが為にはまずは「正しい認識」を得ねばならない。

 

まずは其れが現行型の近現代文明は「破滅型」の営為であるとの基礎認識です。

其の基礎認識を得ることが圧倒的多数の大衆にはまず不可能です。

 

ですが「意識が高く気付きの良い」少数の方方にはすでに其れが為されて居ることでせう。

さうした方方はむしろ今後「文明による破滅への啓蒙活動家」となり周りに眞實を語り伝えるそんな役割を是非担って頂きたいものです。

 

自分ですか?

自分はこんなエエ加減な奴ですのでもう「啓蒙活動家」であることは辞めるつまりは引退致します。

 

其れでもって其の理性の御隠居としてまた少し別の角度から文明のことを書きますのです。

 

 

2.「近代全體主義」への警戒感を常に持つ

 

「近代」にはまさに「呪い」がかけられて居りまさに其れは手放しではまさか従えぬものです。

例えば昔小学校の先生が、

 

シャープペンシルなどを使うのは禁止ですから是非鉛筆を使いなさい」

などと我等還暦世代は屡教えられたものですがまさにそんな類でのものです。

 

尤も今やそんな教師は何処にも居らず逆にスマフォ奨励教師とかそんなもんばかりなんでせうがどうも僕に限り其れに関しては疑問ですね。

 

近代=〇⇔近代=✖

 

哲學的には〇にも✖にも規定出来ぬのが現實だと云うことであり其れはズバリ申せば現象界其のものが「虚的ー虚妄分別的ー」産物だと云うことです。

つまりは「嘘コキ」であり「利己主義」であり「何ともならんもの」が我我の抱える「今」と云う世界の實相です。

 

尤も世間ではまさに其処に「頑張る」ことこそが人間の評価の対象となるが聖なる世界では其れとは逆に「頑張らない」ことこそがおおまさに聖なる人間としての評価の対象となる。

兎に角「みんなでもって頑張る」文明のあり方は眞の意味での理性的な文明のあり方では無くむしろ「みんなでもって頑張らない」文明のあり方の方に是非パラダイム・シフトして行くべきです。

 

またつまりは「個的」に「實存的価値」の部分を是非頑張るべきなのです。

でもソレと今と何が違うの?

 

へエッ?

だからソレと今と何が違うの?

 

…「洗脳度」のあり方がまるでちゃうわい。

さうかなあ。

 

どうも自称の詩人の認識の方が肥溜めに落ちて居るやうな気がどうしてもするなあ。

だが其の肥溜めに落ちて居やうとどうしやうとかうして眞理であり眞實は常に壱つだ。

 

 

3.「建設的現在」とは「過去」と「今」の即応的對義関係ー縁起関係ーにてバランスを取るところにこそ現出するもの

 

未來はむしろ其のバランスのあり方こそが決定して行くものである。

もしもバランスが崩れて居れば未來に於ける「破壊」が促進し行われ其の逆にバランスが適正であれば「破壊」が最小限に抑えられる。

 

バランスが崩れて居ればまた「全體主義」の度などもより酷く引き起こされる。

逆にバランスが回復されれば「全體主義」の奴隷と化すことなども避けられる筈だ。

 

無為⇔有為

 

さらにこちらでの「バランス化」のことなどもまた大事です。

そも其の「無い」ことが「有る」ことよりも下だと云うことは哲學的には言えない訳だ。

 

其の逆に「無い」ことが「有る」ことよりも上だと云うこともまた哲學的には言えない訳だ。

 

「無」と「有」がそも其のやうな縁起関係にある以上其処に「ヒエラルキー」の設定其のものが不可能とならざるを得ない。

従って「現象に上下左右の別」は無く要するにむしろ事象としての全てが本質的に同種であり同質なのだ。

 

 

4.基礎認識としての哀れみを持つ

 

現存在の基礎認識は左様に「哀れ」な程に全的に錯誤的である。ーより平たく言えばほぼ全的に間違って居るー

さう云う現存在の認識が「哀れで惨めな様」であることをかって喝破したのが御釈迦様でありキリスト様であった。

 

だが新興宗教などの教祖は「我こそが神」だとさう信じ込んで居り極めて危険である。

なのでさう云うのを野放しにして置くとみんなが洗脳されちゃうから滅茶苦茶にヤバいのだ。

 

だから此の際邪教とは手を切り「ほんたうの宗教」の世界にこそ是非目覚められたし。

 

 

5.近現代社會が行いし「全體主義」の概括的把握

 

「近代」とは「観念的欲望」の解放過程である。

そも「観念的欲望」には具象的具體性に欠ける部分がある。

 

其の具象的具體性に欠ける部分からこそ「要らぬもの」=「不要物」が澤山生み出され其れがやがて蓄積するに至り現存在の實存的価値を脅かす迄に至る。

故に其れ等の価値からは常に壱歩だけ離れて置く。

 

逆に百米も離れるとみんなは死ぬから其れではダメだ。

壱歩だけ離れ「個としての客観的視座」を是非確保して置かねばなるまい。

 

ちなみに詩人の場合は其れでも拾~百歩位は離れる場合がどうしてもある。

でも其れは文人による壱種の「離れ業」なのであり無論のことみんなにはまさか御勧め出来ない生き方のことだ。

 

 

其の「近代」は壱つの「全體主義」として所謂共同體を解體し個を所謂「國民國家」に隷属させることをして來た。

だから以降近現代人は共同體人であること以前に「國民」であることに忠誠を果たさねばならなくなった。

 

ところがまた其の「國家」其のものが本質的にはまさしく抽象的に成立する観念的価値である。

 

だからまさしく其の「抽象的に成立する観念的価値」に對し「全體主義」が履行されて居る状態こそが近代的価値としての本質部なのだ。

資本による経済的な競争や其れに伴う「開発」や科学技術に於ける「進歩」の概念等の全てがまさに其の「全體主義」による近代的価値の履行其のもので無くて果たして何であらうか?

 

まさに其の「全體主義」に對し我我個は何処までも無力で且つ「ちっこい」のである。

對して國のやることは当然ながら常に「でっかい」。

 

デカい⇔ちっこい

 

實は此処もまたバランスを取って置かぬとより「破壊」が進んで仕舞うこととなる。

つまりは自らが「ちっこい」とさう決め付けて居るのはアンタ方自身なのだからこそ。

 

例えば自分なんぞはこんなに「ちっこい」のに結構威張るでせう?

其れは何でかと申しますととりあえずは其の「近代の原理」のやうなものを押さえて居るからなんです。

 

なので其の「押さえて居ます」との自負と言うか自信のやうなものがあり故に「でっかい」ものに對しほぼ虞を知らぬ訳です。

其れぞまるで小学生か又は幼稚園児のやうなものでせう。

 

其れと自分は「ゲージツ家」であるとさう常に妄想して居るのでまたソコの部分なども極めて強い訳です。

但し自分のことが「教祖」だとは壱度も言ったことは無い筈です。

 

そんな邪教の教祖になったところで近代の齎す「全體主義」になど勝てる筈がないではありませんか。

 

 

さて「近代」とはさうして「全體主義」と云う「呪い」を背負いし文明のシステムのことなのです。

其の「全體主義」に對し「洗脳」状態であるとあくまで其れは「全體主義」に操られ哀れなる状況にてやがては死んで行く他は無い「個」であることが必定です。

 

なんですが其のみんなで行く主義に對し「孤独」に「反抗」し所謂自立的且つ自律的に思考する道をあえて自分は書き描いて來た。

まさに其のことこそが「目覚め」んが為の己が精神の道程であり階悌なのだった。

 

道程?

もしや其れはアノ高村 光太郎の『道程』のことですか?

 

 


どこかに通じてる大道を僕は歩いてゐるのぢやない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
道は僕のふみしだいて來た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立つてゐる
何といふ曲りくねり
迷ひまよつた道だらう
自墮落に消え滅びかけたあの道
絶望に閉ぢ込められたあの道
幼い苦惱にもみつぶされたあの道
ふり返つてみると
自分の道は戰慄に値ひする
四離滅裂な
又むざんな此の光景を見て
誰がこれを
生命いのちの道と信ずるだらう
それだのに
やつぱり此が此命いのちに導く道だつた
そして僕は此處まで來てしまつた
此のさんたんたる自分の道を見て
僕は自然の廣大ないつくしみに涙を流すのだ
あのやくざに見えた道の中から
生命いのちの意味をはつきりと見せてくれたのは自然だ
僕をひき廻しては眼をはぢき
もう此處と思ふところで
さめよ、さめよと叫んだのは自然だ
これこそ嚴格な父の愛だ
子供になり切つたありがたさを僕はしみじみと思つた
どんな時にも自然の手を離さなかつた僕は
とうとう自分をつかまへたのだ
恰度そのとき事態は一變した
俄かに眼前にあるものは光りを放射し
空も地面も沸く樣に動き出した
そのまに
自然は微笑をのこして僕の手から
永遠の地平線へ姿をかくした
そして其の氣魄が宇宙に充ちみちた
驚いてゐる僕の魂は
いきなり「歩け」といふ聲につらぬかれた
僕は武者ぶるひをした
僕は子供の使命を全身に感じた
子供の使命!
僕の肩は重くなつた
そして僕はもうたよる手が無くなつた
無意識にたよつてゐた手が無くなつた
ただ此の宇宙に充ちみちてゐる父を信じて
自分の全身をなげうつのだ
僕ははじめ一歩も歩けない事を經驗した
かなり長い間
冷たい油の汗を流しながら
一つところに立ちつくして居た
僕は心を集めて父の胸にふれた
すると
僕の足はひとりでに動き出した
不思議に僕は或る自憑の境を得た
僕はどう行かうとも思はない
どの道をとらうとも思はない
僕の前には廣漠とした岩疊な一面の風景がひろがつてゐる
その間に花が咲き水が流れてゐる
石があり絶壁がある
それがみないきいきとしてゐる
僕はただあの不思議な自憑の督促のままに歩いてゆく
しかし四方は氣味の惡い程靜かだ
恐ろしい世界の果へ行つてしまふのかと思ふ時もある
寂しさはつんぼのやうに苦しいものだ
僕は其の時又父にいのる
父は其の風景の間に僅ながら勇ましく同じ方へ歩いてゆく人間を僕に見せてくれる
同屬を喜ぶ人間の性に僕はふるへ立つ
聲をあげて祝福を傳へる
そしてあの永遠の地平線を前にして胸のすく程深い呼吸をするのだ
僕の眼が開けるに從つて
四方の風景は其の部分を明らかに僕に示す
生育のいい草の陰に小さい人間のうぢやうぢや匍ひまはつて居るのもみえる
彼等も僕も
大きな人類といふものの一部分だ
しかし人類は無駄なものを棄て腐らしても惜しまない
人間は鮭の卵だ
千萬人の中で百人も殘れば
人類は永久に絶えやしない
棄て腐らすのを見越して
自然は人類の爲め人間を澤山つくるのだ
腐るものは腐れ
自然に背いたものはみな腐る
僕は今のところ彼等にかまつてゐられない
もつと此の風景に養はれはぐくまれて
自分を自分らしく伸ばさねばならぬ
子供は父のいつくしみに報いたい氣を燃やしてゐるのだ
ああ
人類の道程は遠い
そして其の大道はない
自然の子供等が全身の力で拓いて行かねばならないのだ
歩け、歩け
どんなものが出て來ても乘り越して歩け
この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
ああ、父よ
僕を一人立ちにさせた父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の氣魄を僕に充たせよ
この遠い道程の爲め




 

 

高村光太郎 道程 (aozora.gr.jp)より

 

 

きゃあでもまさかこんな詩だったのかしら?

確か何遍も何遍も國語の教科書でもって読んだやうな詩ですが今読むとまた全然其の頃とは違う作品に感ぜられる。

 

生命の道?

子供の使命!!

 

さうか、まさに其れこそがわたくしの使命なのだ。

 

其れに四方は気味が惡い程に静かでもあり。

そりゃあさうだ、其れも好き好んで此処ーそんな人里離れし精神の階梯ーまで來たのだからして。

 

でも其の「父」と云うのは所謂「神」のことですか?

 

 

「クリスマスの夜」 高村光太郎 (megumichristchurch.wixsite.com)

 

其処で少しく調べてみたら高村 光太郎氏は若き頃にむしろ所謂日蓮主義系の佛法の信奉者であり要するにかの宮澤 賢治などとも同じであった訳だった。

但し上の詩などではすでに明らかにキリスト教に関連する詩となって居る。

 

1942年昭和17年)4月に詩「道程」で第1回帝国芸術院賞受賞[6]1945年(昭和20年)4月の空襲によりアトリエとともに多くの彫刻やデッサンが焼失。同年5月、岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮沢清六方に疎開(宮沢清六は宮沢賢治の弟で、その家は賢治の実家であった)[7][8]。しかし、同年8月には宮沢家も花巻空襲で被災し、辛うじて助かる[7][8]

1945年8月17日、「一億の号泣」を『朝日新聞』に発表。終戦後の同年10月、花巻郊外の稗貫郡太田村山口(現在は花巻市)に粗末な小屋を建てて移り住み、ここで7年間独居自炊の生活を送る。これは戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自省の念から出た行動であった。光太郎はこのときから肺結核に苦しむようになる。この小屋は現在も「高村山荘」として保存公開され、近隣には「高村記念館」がある。ー高村光太郎 - Wikipediaより

 

尚宗教と文學やさらに言えば宗教と政治、また歴史と宗教と云った所謂人文、社會學系の學問や藝術は兎に角其のやうに常に密接に宗教と関連致します。

戦後民主主義に於いて所謂「政教分離」の原則が日本國憲法に謳われた経緯にて壱見人文、社會學系の學問から宗教色が消え去ったかに見えるが其のことは本質的な意味で其れが成し遂げられたと云うことではむしろ無い。

 

事實としてたった今自由民主党と統壱教會の癒着の問題やさらに連立政権与党としての公明党の課題のことなどが取り沙汰されて來ても居る訳なのです。

また日本人は特に戦後民主主義教育に於いて所謂「宗教音痴」とさせられて來たので「宗教」と聞いてもまるで何のことやら分からぬ人の方がむしろ多いことでせう。

 

ですが「戦前」から「戦後」を生き抜いた日本の特に知識人に取りまさに其の「宗教」こそが人生の上での壱大事であったことは史實として事實存在して居ることです。

彼等は謂わば「生との格闘」の主要な観念的営為としての宗教的段階をまさに観念的に實践して居たのです。

 

でもって自称詩人は兎に角また宗教のことに関し強い訳ですね。

でも果たして其れは何故なのだらう?

 

うーん、結局頭の中身其れ自體が所謂世間離れして居るんでせうね。

丁度理系の學者などで所謂マッドに「訳の分からぬキモい研究」などを生涯やり続けるまさに変質者のやうな人がまた居るものですがまさに其のことが文系での御話になったと云うそんなことではないのでせうか。

 

まあ然しそんなことはむしろどうでも宜しいことです。

 

 

さて其の詩の解釈の話に戻れば此の詩に於ける「父」とは宮澤 賢治的な所謂「野の師父」と云うよりは「神」のことであると個人的にはさう読み解きます。

ではあるにせよ高村 光太郎氏は兎に角「自然」が大好きな詩人なのですけれども。

 

こと「自然」が大好きな詩人と云うことではわたくしもまた宮澤 賢治や高村 光太郎などには決して負けて居りません。

今のところ世に遺せるやうな作品は何処にも無いがまあ其の辺りのところはでも此処を覗けば壱目瞭然でせう。

 

さうか、自分もヤッパリそんな自然派の詩人だったのか!

 

でもってアナタは「神」を信じるのですか其れとも「佛」を信じるのか?

壱體ドッチなのか、さあ早う今ココで持って決めよ!

 

別に…。

何と?

 

…別に。

だからどちらだらうが構わないですよ、そんなもんは。

 

うーん、流石は宗教詩人の選択ですな。

 

それがみないきいきとしてゐる
僕はただあの不思議な自憑の督促のままに歩いてゆく

 

さうして自然の営為こそがむしろ「宗教」以前での営為其のものなのだから。

 

彼等も僕も
大きな人類といふものの一部分だ
しかし人類は無駄なものを棄て腐らしても惜しまない
人間は鮭の卵だ
千萬人の中で百人も殘れば
人類は永久に絶えやしない
棄て腐らすのを見越して
自然は人類の爲め人間を澤山つくるのだ
腐るものは腐れ
自然に背いたものはみな腐る
僕は今のところ彼等にかまつてゐられない

 

うはあー、スゲえ!

 

さうだ、人類は是非無駄を棄て去るべきだ。

またさう、人間は其の鮭の卵であり同時にカエルの卵だ。

 

其れに腐るものは腐れ。

自然に背いたものはさうしてみな腐る。

 

でも實におそろしいー。

 

僕は今のところ彼等にかまつてはゐられない。

 

…まさに仰る通りです。

 

ああ
人類の道程は遠い
そして其の大道はない
自然の子供等が全身の力で拓いて行かねばならないのだ
歩け、歩け
どんなものが出て來ても乘り越して歩け
この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ

 

其の人類と申しますか文明のあり方こそが遠くて長い壱つの道程でありつまりは不可逆であり且つ不可視の道であります。

 

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
ああ、父よ
僕を一人立ちにさせた父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の氣魄を僕に充たせよ
この遠い道程の爲め

 

うーん、どうも此の部分が酷く示唆的に今の自分には聞こえて來る。

どうも其の人類の前に道は無く其れを結局文明其れ自身がつくって行く訳です。

 

だけれども其の観念的な遊戯に踊らされる文明の価値観其れ自體が変わらぬ限り道はむしろ壱直線に破滅か乃至は自滅へと向かうばかり。

また其の道程は兎に角とてつも無く遠く長い道である。

 

でもそりゃあさうです。

何せ人類の全道程のことなのですから。

 

また其の人類の全道程を見守る神は必ずや何処かに居なければならないことでせう。

但し個人的にはどんな神でもまた佛でも良いとさうは思いますのですが。

 

 

思うに彼高村 光太郎氏は戦争に加担するやうな詩迄をも書きつまりはもう社會其のものがイヤになったのだと思います。

ですので最終的に彼は所謂厭世詩人として野に生きることとなりましたのです。

 

其れで最終的には「自然と神との壱致」を其処に見詰めて居たのやもしれません。

 

ところで自身にはそんな苛烈な體験が元よりありませんのですがでも何でこんなに社會つまりは文明が好きでは無く要するに厭世詩人なんでせうか、まさに自分は。

兎に角もう山奥にて独居生活がしたいのですがもうどっかオカシイんじゃないかとさう自分でもヤッパリ思うのです。

 

其れでもってして高村 光太郎氏は明らかに其の厭世詩人としての先達であり御師匠さんでもまたある訳です。

またつまりはかの加島 祥造先生の先達さんなのでもある。

 

46万部の詩集『求めない』を生んだ故・加島祥造氏の言葉|NEWSポストセブン (news-postseven.com)

 

其の『求めない』は何時何処で読んでも即感動致します。

まさにさうした作品こそが名詩なんでせう。

 

だけれども現代社會の価値観をむしろ否定的に扱うことだらう「求めない価値観」が果たして國語の教科書などに載せられるのだらうか?

まあ其れももしも載ったら至極面白い御話なのですが…。

 

其の「求めない価値観」は単なる左翼的な潔癖主義とはまた違うものだと個人的には思う。

言わば其れは右、左でのイデオロギー以前での要と不要の選択の御話なのでせう。

 

また『道程』の詩にもまさに其の要と不要の選択の部分のことが語られて居ます。

あくまで其の要と不要と云う部分では文明の選択では無く「厭世詩人」の選択の方をこそ個人的には信用したい。

 

其れはまさに戦争に勝った!とかWBCに勝った!とかさう云う熱狂の部分とはまるで違うまさに静謐な精神の場としての御話なのだと思う。

 

 

さて「目覚め」は何処にでもあり同時にまた何処でも得難い。

ですが現存在に取り眞の「自由」とはまさに其の常に「目覚め」て居ることなのだ。

 

即ち其の「全體主義」としての洗脳過程より「目覚め」れば我我個はまさに本質的な意味で「自由」であることを獲得出来る。

ですので自称詩人はまさに其のことだけに就き此処にて語って來た訳です。

 

故に「社會」を語ることで其れを語った訳ですが其れも次第次第にまた違うものを語りたくなりつつあるのです。

また要するに其れが高村 光太郎氏や加島 祥造先生が世に示された「厭世詩人」としての系譜のまた其の先での世界観のことなのです。